肝心のこのページが貧弱なのは情けない限りですが、当面は科学史に関連して気になること、いっておきたいことを少しずつ書き足していきます。いずれは同業者の役に立つデータ・ベースの構築などにも取り組んでみたいものです。
なお、別ページ「西日本大会」に、1996年以来、秋に開催されている西日本研究大会の開催データを掲載しています。
また、別ページ「ダーウィン・シンポ」に、当方が関与した2009ダーウィン年関連シンポジウムのデータを掲載しています。
ダーウィンの名前
進化論の祖ダーウィンの正式の名は、Charles Robert Darwin 。その由来をたどれば、Robert
は父親 Robert Waring Darwin の名。Charles は父ロバートの長兄で秀才の Charles
Darwin (1758-1778)の名である。ウエストミンスター寺院の墓碑銘にも Charles
Robert Darwin とあるので、辞典類の項目名としてはこの正式名称を使うほかあるまい。しかし、本人はこの名前を使ったことがない。手紙のサインや著作の著者名は全て、Charles
Darwin 。したがって文献目録などでは、Charles Darwin にしなければならない。王立協会科学文献目録では、当然のことながら、"Darwin,
Charles"となっている。ところが、BLC(大英図書館目録)では、"Darwin
(Charles Robert)"となっている。他の目録などではどうなっているか。そんなことを調べてみるのも面白い。
ダーウィンの誕生日
ダーウィンの誕生日は、1809年2月12日。『自伝』にもそう書かれており、なにも問題はない。ところが大英自然史博物館の館長でダーウィン研究家でもあった発生学者ド・ビア(Gavin
de Beer, 1899-1972) がなぜか、2月9日と思いこんでいたようだ。ド・ビアのダーウィン伝(Charles Darwin , 1963) の本文(p.24) に2月9日誕生とあり、邦訳書(八杉貞雄訳)『ダーウィンの生涯』(東京図書,1978,
p.20)でもそのままになっている。さらに困ったことに、科学史研究者が頼りにする最大の科学者伝記辞典
Dictionary of Scientific Biography のダーウィンの項をド・ビアが担当していて、項目の冒頭(vol.3, p.565)に、2月9日生まれと記している。なぜド・ビアはこんな思い違いをしていたのだろうか。また、なぜ編集者たちはこの間違いを放置していたのだろうか。ド・ビアのダーウィン伝の巻末にある年譜では、正しく2月12日生となっている。おそらく、この年譜は編集者が作成したのだろう。ド・ビアが偉すぎて、本人に直せとは言えなかったのだろうか。幸い、英語文献でも邦語文献でも、ド・ビアの間違いを受け継いだ事例に出会っていないが、なにしろDSBに記されていることなので、気づかずに受け継いでいる文献があるかも知れない。なお、DSB新版(2008)のダーウィンの項目の冒頭(vol.2,
p.242))には、旧版の誕生日の誤りに注意するよう記載されている。
ダーウィンの学部
権威ありとされる日本の辞典類のほとんどに、ダーウィンはケンブリッジ大学の神学部に入学したと記されており、日本人の執筆したダーウィンの伝記にも同じことが書かれているが、これは事実ではない。当時の他の学生と同じく、ダーウィンもカレッジを主体とした教養教育を受け、学芸学士(Bachelor
of Arts)の学位を得て卒業したのである。当然のことながら、英語文献には神学部入学といったことはまったく出てこない。
これは「クライスツ・カレッジ」の誤訳なのである。明治45年刊行の沢田順次郎『ダーウ井ン言行録』(p.36)で、「氏はケムブリッヂの神学校
Christ College に入りて正式に神学を修むることとなれり」とあり、この間違いが現在に至るまで、受け継がれてきている。とくに、長年、ダーウィンの伝記の定番とされてきた八杉竜一『ダーウィンの生涯』(岩波新書)で、「彼が牧師になることを承知してケンブリッジの神学部に入学することをきめたという、うごかしがたい事実」 とまで書かれていたのが決定的だった。この誤解は日本におけるダーウィン理解の中に深く根を下ろしてしまっている。
英和辞典類では、Bachelor of Arts を「文学士」と訳すことになっているが、これだとダーウィンは「文学部」を卒業したことになってしまう。「学芸学士」あるいは「教養学士」と訳すべきだろう。
ダーウィン誤引用
ダーウィンの名言としてしばしば引用される言葉、「生き残るのは、変化できる者」はダーウィンの著作や稿本のどこにも存在しない。このことは拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』(2009).に書いておいた
(p.275)。その後、もともとの発言者が明らかになったので、その経過をまとめておきたい。
ケンブリッジ大学のウェブサイト Darwin Project にその概要が掲載されている。 Darwin Project → About Darwin → Six things Darwin never
said → No.1.
引用元の発見者は進化学者のメツキ(Nicholas J. Matzke)である。彼によると、2009年7月に偶然、経営学者メギンソン(Leon
C. Megginson, 1921- 2010)による下記の文章を見つけたという。
According to Darwin's Origin of Species, it is not the most intellectual of the species that survives; it is not
the strongest that survives; but the species that survives is the one that
is able best to adapt and adjust to the changing environment in which it
finds itself.
Megginson, “Lessons from Europe for American Business,” Southwestern Social Science Quarterly (1963) 44(1): 3-13, at p. 4.
メギンソンは『種の起源』からの引用ではなく、著者の解釈として語っている。しかし、その後、引用が重ねられていくうちにダーウィン本人のものとして伝えられるようになったと思われる。1982年には経営者向けの名句集に、ダーウィン本人の言葉として下記の語句が掲載された。
It is not the most intellectual or the strongest species that survives,
but the species that survives is the one that is able to adapt to or adjust
best to the changing environment in which it finds itself. Charles Darwin. R.T.Moran
and P.R.Harris, Managing Cultural Synergy. Gulf Publishing, 1982. p. 94.
メツキはこの発見を2009年9月にネブラスカ大学で開催された会議(Evolution 2009 conference)で発表した。ヴァン・ワイ(John
van Wyhe)がこれに注目し、直ちにこの発見をケンブリッジ大学のウェブサイトDarwin Project で報告したという。
メツキの発表内容は、進化学者数人のグループブログ The Panda's Thumb で読むことができる(Survival of the Pithiest. By Nick Matzke, September 3, 2009)。
メツキはこの報告の最後に、この発見によって誤引用の無くなることを期待したいが、駄目だろうな、とつぶやいている。日本でも同じだろう。歴史家としては正しいことを繰り返し、伝えていくほかない。
日本でこの言葉が広がるきっかけになったのは、2001年9月27日、小泉純一郎の総理大臣所信演説であった。小泉は、この演説の「むすび」の部分で次のように語った。
私は、変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています。
この演説が報道された直後からダーウィンの主張では無いという批判もなされたが、一般にはダーウィンの名言として広まり、あちこちで引用されることになった。拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』の原稿を読んだ編集者からは、本当にダーウィンの言葉では無いのか、確認を求められたほどであった。
2020年6月、コロナ禍の最中に自民党広報部が憲法改正を訴えるツイッターの中で、またしてもダーウィンの言葉として引用した。小泉演説から19年、自民党の理解はまったく変化していなかった。