Journal no. 15
環境問題の加害者意識(2000年11月 2日)
以前のジャーナル(LINK)でも書いたが、今年になって桃山学院大学も、大学として環境問題に取り組みを始めた。大学がこの先どのような目標を持って環境問題に取り組んでいくかを記した環境宣言と環境目標が決定され、先週発表された(LINK)。それによれば、(1)省資源、省エネルギーに努める、(2)ゴミ減量、再資源化に努める、(3)環境問題に関する研究、教育、啓発に努める、ということで、目新しいものはないが、とにかく第一歩を踏み出した。この宣言を実行するための目標が設定されており、これをどこまでどうやって実行していくか、これからの行動が注目される。
環境宣言の発表と同時に、教職員と学生への情報提供と啓発を目的とした環境ニュースが発行されることになった。第一号には私が総論的なことを書いている(LINK)。現代社会が持続不可能であることに焦点をあてて、個別の問題についてはあまり書いていない。
この環境ニュースが流されてすぐに、一人の教員から私に電話がかかってきた。私の環境問題に対する認識が甘すぎるというのだ。日本にはまるでゴミ問題以外に深刻な問題がないような書き方だが、ディーゼル車の排気ガスや北海道上空のオゾン濃度低下など、とり上げるべき状況は山ほどある。それを無視しているようでは、この大学の取り組みには期待できない、というわけだ。
この批判についてしばらく考えていたのだが、どこか根本的に視点が異なっているような違和感があった。たんに省略すべきかすべきでなかったか、ということでなく、もっと根本的なもの。それはどうも、被害者意識と加害者意識の差であるような気がする。
環境ニュースにも書いたのだが、人は自分に及ぶ危害には敏感で、被害者意識は過剰なほど持っている。紫外線やダイオキシン、ディーゼル粉塵に環境ホルモン。自分を脅かす問題には事欠かない。過剰なほどの除菌指向も、被害妄想のあらわれだ。
一方、自分がなんらかの加害者であることを、人はなかなか認めたくないものだ。だが、大量消費社会の見本のようなこの国に住むわたしたちは、あらゆる意味において地球環境問題の加害者である。日常の一挙手一投足にいたるまで、すべてが地球環境への負荷になることを、私はニュースの中で強調した。そのへんが、加害者意識の希薄な多くの人には響かなかったのかもしれない。
たしかにダイオキシンや排気ガスも問題ではある。しかし、発ガン率がわずかに上がることなど、国土の喪失や飢餓の恐怖にくらべればなにほどのものだろうか。被害者意識ではなく加害者意識を呼び起こすことこそ、これからの環境教育が目指さなければならないことのように思う。
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更新をしばらくさぼってしまいました。アクセスカウンターをつけてみたら、このジャーナルを読んでいる人は1日せいぜい2、3人とわかったもので・・・。
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