いわおのジャーナル

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Journal no. 50

みんなの森、自分の森 (2004年3月2日)

前回の文章をアップしてからアクセス数がそれまでの倍以上に増えている。もしかして、あの森や川の保全計画に関係した方々がこのサイトを見つけて「なに勝手なことぬかしとんじゃこのボケ」「わしらの苦労も知らんで」とお怒りになっているのではないかと想像し、内心びくびくしている。なので、誤解をまねかぬよう書き足しておこう。

前回にも書いたが、大規模な開発の中でもできるだけもとのままの自然を残していこうとする最近の土木事業の流れは、歓迎すべきものだ。ただし、そのとき残そうとしているのはいったいどういう「自然」なのか、そして何を目的に残すのか、ということを明確にして計画する必要がある。「自然」という言葉はきわめて漠然とした言葉だから、人により持つイメージが違う。また、残すにしても、そこに生息する生物のために残すのか、それともあくまで周辺住民のために残すのかで、残し方やその後の管理の仕方も異なるのは当然だ。

大学前の森は、森のほとんどの生き物の住みかとしては小さすぎるので、生き物と生き物の住みかを残すつもりで森を残したのなら残念ながら失敗だと思う。しかし、周辺住民のためというのであれば、必ずしもそうではないだろう。あの森の木々を見てなごんだり、木陰で弁当を食べて休んだり、木登りをして遊んだり、というのも貴重なことだ。

あの森が健康に存続していくかどうかは、ひとえに周辺住民が森とどのように関わるかにかかっている。最悪のシナリオを考えてみよう。これから春になり夏に向かうと、木々の葉が茂るとともに下草が茂り林内が薄暗くなる。するとあちこちに、ビニール袋、弁当殻、菓子箱がいつのまにか散乱するようになる。ゴミはゴミを呼び、廃バッテリー、廃タイヤ、自転車、冷蔵庫などが夜のあいだに捨てられる。

一方、夏の盛りには木の葉を食べる毛虫が大発生。毛虫を食べてくれる鳥などの天敵もいるが、小さすぎる森で自然のバランスを期待するのは無理というものだ。サナギになるために木を降りてきた毛虫が周辺の家の敷地を歩き回り、住民の悲鳴が飛び交う。苦情を受けた市が薬剤を散布するが、問題の毛虫にはすでに遅すぎて、しかもわずかに生息していたカブトムシやカミキリなどまで死なせることになる。

秋になり、多くの木々が葉を落とすと、掃除がたいへんだという苦情が出る。市が何度も清掃して落ち葉を全部回収し持ち去ってしまう。すると、森の大地は栄養分の供給がなくなりやせていく。

ゴミがたまって汚く暗く誰も寄りつかなくなった森、毛虫や落ち葉の苦情のもとになる森は、住民や市のお荷物になり、いずれ処分されてしまう。あるいは、タバコの火の不始末から火が出て、乾燥気味の森が丸焼けになって多くの木が枯死、という結末もあり得る。

あえて最悪のシナリオを描いてみたが、いずれも実際に起こることが想像に難くない。そうなるのを防ぐには、周辺の住民がこの森を「自分たちの森」として積極的に維持していかねばならない。ゴミは見つけ次第取り除いて次のゴミの呼び水にならないようにする。虫や落ち葉は森につきもの、として、みなで協力しながらいい解決法を模索する。下草や倒木は適宜整理し、間伐をすべきか、新たに植林するか、など話し合いをしながら、あるべき森の姿を住民が決めていく。

そんなふうに、森が地域を結びつけるひとつの中心になるなら、小さな森でもその森を残したことの価値は何倍にもふくれあがるはずだ。

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