めずらしく散歩などしてみた。仕事がはかどらないので、気分転換に大学の近くを歩いてみることにした。この大学に来てから6年になるが、まわりを歩いてみたことはじつはほとんどなかった。研究室の窓から見える森が前から気になっていたので、行ってみることにした。
森、といってもそれは、ひな壇のように小さな家が建ち並ぶ大規模に開発された住宅地の真ん中に、申しわけ程度に残されたこんもりとした小さな丘に過ぎない。落葉広葉樹からなるその森は、かつては里山だったのだろう。遊歩道や階段が整備され、近所の人たちの憩いの場として残され「自然豊かな住宅街」を演出する役目を負うことになったその森は、しかし醜悪だった。北側半分はかつての木々がすべて切られ、整地した上で芝生をはって新たに木を植え子供の遊具など設置してある。南半分はもともとの森がそのまま残り、クヌギかなにかのそこそこ大きな木が何本も生えているが、林床にはササが茂り倒木があちこちに折り重なっている。露出した地面の土は、えぐれてくずれている。
たぶん、この森をこんな風に残すということ自体はきっと先進的な試みなのだと思う。たいした丘ではないから、全部崩して整地して、もっとたくさんの家を建てることも考えただろう。あるいは北側だけでなく南側もコンクリートと芝生と街路樹で完全な公園にしてしまうこともあり得ただろう。そこをあえて元の森のままに残したのは、身近な自然を大切にしたいという時代の流行を思い切って取り入れた結果だろうから、それを責めてはいけないのだろう。それはわかっている。
わかってはいるのだが、しかし残された森の姿はあまりにもあわれだった。多くの生き物のすみかとしては、森全体のサイズが小さすぎる。人間をおそれる生き物が安心できるような場所がどこにもない。それに周りが完全に切り開かれてしまっているから風通しがよくなりすぎ、森の奥を好むような植物には乾燥しすぎている。今そこに生えている大きな木々だけは確保されているが、それ以外の本来生息するはずの森の生き物たちの居場所はほとんどないように見える。森というのは、木がたくさんあればそれでいいというわけではないのだ。
同じような思いは、少し離れたところにある松尾川を見たときも感じた。久保惣美術館のあたりを中心に昨年大規模な改修がされて、水と触れあうことのできる「親水公園」として整備されていた。一般的なコンクリート護岸ではなく、ゆるやかな芝生の傾斜地が水際まで降りていて、水遊びができるようになっている。川の流れはゆるやかに蛇行していて、土砂のたまったところもある。このへんも、最近流行の多自然型工法が使われているようで、なんら責められるべきものではない。従来のコンクリートで固めた三面張りに比べればはるかにいい。にもかかわらず、ひどく悲しかった。
このあたりは、少し足を伸ばせばまだまだ昔ながらの田園地帯が広がっている。普通の自然がまだそこそこ残っている。そんな場所を、今どき珍しいくらい大規模にガリガリと大地を削り整地し造成している。そのとんでもない規模の大破壊の真ん中に、ポツポツと残された申しわけのような「自然」。箱庭のように整備されたその人造自然の姿は、完璧なまでに演出されているがゆえに、よけいに悲しさを漂わせている。まるで、亡くなった友人が写った、1枚だけのポートレートみたいだ。