Journal no. 38
拡張された身体 (2002年6月7日)
生身のヒトは、いくらがんばっても10秒で100メートルしか進まない。2時間で40キロしか走れない。自分の体だけに頼るかぎり、この限界が大きく書き変えられる可能性はない。ヒトの体の能力は、残念ながらたかが知れている。
ところが、ヒトはひ弱な自分の脚を補う道具を作り出した。この「拡張された脚」を使えば、1時間に60キロも移動して、まったく汗もかかずにさらに移動し続けることができる。ついでにその際、お米30キロとビール2ケースとタマネギとじゃがいもまでかついでいける。この力強く素早い「拡張された脚」のことを、ヒトは自動車と呼ぶ。
一度この拡張された脚を手に入れると、ヒトはそれを容易には手放せなくなる。なにしろそれは、頼りない自分自身の身体を補完し増強してくれるのだ。一度それを自分の一部にしてしまうと、今度失うときは自分の手足を奪われるように感じてしまう。一度手に入れた力を失い、かつての無力な裸の自分に戻る、その恐怖に耐えられないのだ。
こんな話をするには訳がある。日本が京都議定書を批准することになり、二酸化炭素の排出を今より10%以上カットしなければならなくなった今、国民的な取り組みが必要である。そのときの一つの課題が、マイカー使用の削減だ。狭い国土にひしめく自動車は、二酸化炭素排出の大きな部分を占めている。これを大幅に減らすことが対策として不可欠なのだ。しかし、マイカーの使用制限は大きな反発が予想される。だからなぜヒトは、必ずしも便利でも効率よくもない自動車から降りようとしないのか、それを理解する必要がある。「拡張された脚」というとらえかたは、そのための試論なのだ。
ヒトが車を手放さない理由が、合理的なものではなく、拡張した身体を失いたくないからだとすれば、どうやってあきらめさせればいいのだろう。その拡張された身体がジャマでしかたがなくて、ダイエットしたいと思わせればいいのかもしれない。つまり、都市部を車にとって不便で不便でどうしようもない場所に作り変えるのだ。そうすれば、邪魔な脚を捨てて、裸の自分が小回りの効くけっこう優秀な乗り物であることに気づく、のだろうか?
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庭の畑で野菜ができはじめた。毎朝1本か2本のキュウリがとれる。今朝は最初のナスがとれた。もうちょっとしたらトマトができてカボチャができてニガウリができて、青ジソ、青ネギ、パセリ、ブルーベリーもそのうちに。たのしいなぁ。
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