Journal no. 37
リスクセンス (2002年5月31日)
命の重さは地球より重い、などという。だがそれは本当だろうか。
たとえば喫煙。タバコほどはっきりした発ガン物質もないはずだが、それを知らないわけでもなかろうに、吸ってる人のなんと多いことか。わずかな快感とひきかえに命を縮める人々がいるのはたしかだ。
あるいは自動車。車を運転すれば、しないときにくらべて事故で死亡する確率が高くなるのは明らかだ。にもかかわらず、命の危険をかえりみず車を走らせる人々のなんと多いことか(私も含めて)。
これはどういうことだろう。命の重さは地球どころか、タバコの煙ほどの重さもないのだろうか。命など、つかのまの快楽や快適と交換できる程度のものなのだろうか。
おそらくそうではなくて、われわれは日常的なリスクを低く見積もる傾向にあるのだろう。知らないわけではない、わからないわけではないけれど、あえて見ないことにしている、無視してしまうということか。
もしかしたらそれは、ヒトという動物が身につけた適応的な性質なのかも知れない。原始の生活の中で、猛獣に襲われる確率、隣の部族に襲われる確率、しとめたと思ったイノシシに反撃されて致命傷を負う確率、などなど、本気で考えて心配していたらとても外へ出られないし、繊細な脳がもたないだろう。適当に忘れたり無視する方が、結果的には生存に都合がよかったのかもしれない。
だがしかしそうだとすると、環境問題への取りくみかたにはちょっと問題があることになる。さまざまな環境問題をとりあげるとき、日常の中にこんな危険がある、あんなリスクがあるということをまず最初に知らせることが多い。事実を把握し理解するのが第一歩だという考えだ。しかし、こんなに怖い、こんなに危ないと恐怖感を与えることは、かえって逆効果を生むことになるかもしれない。聴衆を脅して行動させようとするやり方(scare tactics)は、結局本当のリスクを無視あるいは過小評価させることになってしまうのかもしれない。
人が日常の中のリスクを無視する傾向にあるのだとすると、何か他のアプローチを考えなければならない。私はそれを「加害者としての罪の意識」に求めたいと思うのだが、これまたどうもあまり効かないようなのだ。いい考えがあったらだれか教えてください。
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はははは。今学期の「科学と技術」受講者は自己最高の1066人だ。こうなったらもう、もっと上を目指すしかない。目指せ1500人! ハァ。
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