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Journal no. 19

卒業式はだれのため (2001年3月9日)

 卒業式? んなもん、出るかよ、しんきくさい。

 大学の卒業式には出なかった。いや、もちろん教員になってからは職務として出席しているけど、自分の卒業式には出なかった。ちょうど地球に接近していたハレー彗星を見にオーストラリアに行っていた。旅の計画を立てているときに卒業式に出られないことには気づいていたけれど、ただの一瞬も迷いはしなかった。だって、別に出席しなくても卒業は確定しているのだし、なぜ出る必要がある?

 アメリカの大学院に留学して博士号をとったときも、学位授与式(大学院の卒業式)には出なかった。式より前に就職が決まって帰国していたから、たかがそんなもののためにわざわざ渡米しようとは思わなかった。あとで話を聞いたら、ふさのついた角帽みたいなのをかぶってマントを着ておごそかに証書を授与されて、最後にいっせいに帽子を放り投げて大騒ぎする、アメリカ映画によくあるシーンのようなものだったらしい。

 卒業式があるときというのは、人生の一つのステージが終って次のステージに入ろうというときだ。終ったステージは、私にとってはもう済んだこと、過去のことで、心はすでに次のステージへの期待と不安でいっぱいだった。もう終ってしまったことをたいそうにお祝いするような気には、ぜんぜんなれなかった。それが、卒業式に冷淡だった理由のように思う。

 ところが、教員になって最初の卒業式の朝、集まってくる学生とその親たちを自分の部屋から眺めていたとき、突然卒業式の真の意味に気がついて衝撃を受けた。いやもちろん、真の意味かどうかは知らないが、それまで一度も自分の意識になかったことに突如として気づいた。卒業式は、だれのためにあるのか。それはきっと、卒業する本人のためよりも、その人をそこまで支えてきた人のためにあるのだ。多くの学生にとっては親だが、その他にも配偶者だったり、カウンセラーだったり、いろいろあるだろう。その人たちを招待して感謝するのが、卒業する個人にとっての卒業式の本当の意味だ。そのことに気づいたとき、自分のやったことがいかに自分本位なことだったかはっきりとわかり、苦い後悔の思いにかられた。

 ご多分にもれず私も学費を親に出してもらっていた。普通よりはるかに長い期間学生でいたし、勝手に留学を決めたので、親の心配もかなりなものだっただろう。留学して4年目に結婚したのだが、異国で暮らすために妻には多くの犠牲を強いたし、わずかな収入で苦しい生活をがまんしてもらった。そうして支えてくれた人たちに卒業式に来てもらって、ありがとうと言うべきだった。今さらどうあがいても、もはやかなうことはない。痛恨の失敗だ。

 卒業式は、祝ってもらいに行くものではない。この前各地で騒ぎになった成人式も、同じことではないだろうか。成人式にも、私は行かなかった。

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