Journal no. 7
『講義ノート屋大繁盛』(2000年8月9日)
『講義ノート屋大繁盛』という新聞記事が7月29日の朝日新聞夕刊に大きく出ていた。同志社、立命、京産、龍谷、関大、関学などの近くに印刷会社が店を出しているという。学生からノートを1〜2万円で買い上げて、複写して売る。試験前になると行列ができるそうだ。記事には、これに憤慨する大学側の反応も載せていた。いわく、著作権侵害ではないか、講義に出なくても単位がとれるのが問題では、などなど。
法的な問題は専門家に任せておこう。配付した資料などがそのまま販売されれば、資料の出典に対する著作権侵害はあるだろう。学生がとったノートにいったい誰の著作権があるのかはよくわからない。教官が言ったことや板書したことをそのままノートに書くわけではなく、一度学生の頭で翻訳されているのだから、教官に著作権があるとは到底思えないが。
講義に出なくても単位がとれるのが問題、というのはよくある意見だが、どうも的外れな批判だ。前回も書いたが、たとえ講義に一度も出席していなくても、買ったノートや本をもとに独学で勉強して、要求される知識と理解を身につけたことを試験で証明してみせれば、単位を得る資格はあると私は考える。
では、買ったノートや借りたノートではたして本当に知識と理解は身につくだろうか。ノートにとりやすいのは、基本的な事実。何年に誰がどうしたか、○×法の3つの特徴は、△△を別のことばで言い換えると、など。よくできたノートなら、その情報がどのような文脈で出てくるかも分かるだろう。こうした情報は、「知識」だ。講義に出ていない者がノートを手に入れてできることは、こうした知識をピックアップして暗記しておくことだろう。運が良ければその知識だけで試験を乗り切れるかもしれない。
だが、「理解」の方は簡単にはいかない。ものごとのしくみを理解する作業は、さまざまな知識を得たうえでそれを総合的に順序だてて解釈しなければならない。講義では、教官がじょうずに手伝ってその作業を導いてくれる(はずだ)。しかし講義に出なかった者は、人のノートからその作業を再構築しなければならない。教官の話をその場で聞いて理解した者にとっては、ノートに書くことは記憶を蘇らせるためのキーワード程度でも十分だが、話を聞いていなかった者はそのキーワードを読んでも追体験はできっこない。
したがって、人のノートで講義内容を一通り知ることはできても、理解するのは難しい。内容をきちんと理解しようとすれば、それなりに自分でいろいろ調べたり考えたりする事になる。それだけのことをやってのけたなら、単位を得る資格はあるだろう。もっとも、そこまでやるぐらいなら最初から講義に出た方がよっぽど楽なはずだが。
私は、講義で提示するのに使ったコンピュータファイルは大学のサーバ上で公開して、学内から学生がいつでも閲覧できるようにしている。まだ一部の教室でしかできないのだが、コンピュータの画面をそのまま投影できる装置を使って、板書する代わりにプレゼンテーションソフトのPowerPointを使って文章も資料も提示している。そのために作ったファイルを公開しているのだ。こうしておけば、欠席した者でもどんな講義だったかあとから調べられる。さらに、過去の試験問題も解答解説付きでホームページ上に公開している。これは、もともとは学内で過去の問題がひそかに販売されているという話を聞いてそれに対抗する意味もあったのだが、考えてみれば受験した学生には解答を知る権利があるはずだと思う。
いずれは講義ノートも公開したいと思っている。もとより講義ノートはワープロで作っているから、ホームページに公開するのは簡単なことだ。それをいまひとつ躊躇しているのは、その講義ノートを読むだけで単位がとれてしまうような知識偏重の授業を自分がしているのではないか、という恐怖があるからだ。ノートに書かれたこと以外には、なにひとつ意味のあることをしゃべっていないのではないか、だとすれば、だれも講義に出席せず、ダウンロードしたノートを試験前に読むだけで必要な知識を頭に入れ、それで試験にパスしてしまうのではないか。そんな悪夢のような状況を想像してしまうのだ。情けない話だが。
講義ノートが出回るようになると、ノートを眺めるだけで済むのか済まないのか、その講義の内容の質がおのずと明らかになる。どうせなら、ノート屋などというつまらない外圧にうながされるより、教員みずから公開することで自分の授業のレベルアップをはかりたいものだ。
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