Journal no. 6
出席をとらない理由(2000年7月28日)
講義型の授業では出席をとらないことにしている。このことは最初の授業ではっきりさせている。授業に出る出ないは君たちの自由だ。大学は義務教育ではない。君たちには授業を受けない自由がある。自分の意志で大学にきて自分の意志で授業に出席してほしい。
これだけではインパクトに欠けるので、経済感覚にも訴える。君達が払った授業料は、授業を受ける「権利」を買うためのお金だ。権利を買ったからといって、授業を受ける「義務」はない。買った権利をドブに捨てる自由を君たちは持っている。コンサートのチケットを前売りで買ったからといって、当日必ず行かなければならないわけではないのと同じことだ。損をするのは買った側であり、コンサートを開く側が気にすることではない。
さて、権利と義務は常にセットになっているはずであり、義務を果たさずに権利だけ主張することは許されない。では、授業を受ける権利とセットになった義務とはなんだろうか。
ひとつは、他の人が授業を受ける権利を侵害しないこと。遅刻、途中退室、私語、携帯のベルなど、いずれも人の集中力をそぐという点で有罪である。むろん、講師の機嫌を悪くするという罪もあるが、それによって講義の質が落ち結果として他の人の学習する権利を奪う点の方が重大だ。
もうひとつ、授業が出席者の積極的な参加を必要とするタイプのものであった場合には、ただ座っているだけでなく参加する義務がある。私の授業ではこれがあてはまることはあまりないが、たまに行うアンケートなどで建設的な意見を書いてもらうことなどがひとつの義務と言えるだろう。
出席を毎回とってそれを成績に加味してほしい、などという学生がたまにいる。せっかく毎回まじめに出てきているのに何の見返りもないのは不公平だ、というわけだ。だがこれは、大学が出す単位というものを勘違いしている。単位は、毎週の90分の授業時間中おとなしく椅子に座っていたことに対するご褒美ではない。いくら出席していても、何も理解していなければ当然単位は出せない。逆に、極端な話、一度も授業に出ていなくても、私がその授業で理解してもらいたかったことを独学で身につけそれを試験で証明してみせれば、単位を得る資格があると私は考える。
授業に出席するのは学ぶための一つの手段にすぎないのであって、出席すること自体が目的ではない。学ぶために高いお金を払ったのなら、授業に出席するのはとりあえず当然の行動であるが、他にも学ぶ方法がないわけじゃない。だから私は、わざわざ時間と手間をかけて出席をとったりはしないことにしているのだ。
★ここに書いたことはあくまでこの時点での巖個人の考えです。毎回必ず出席をとられる先生方にもそれなりの言い分があるでしょうから、ぜひ聞かせてもらいたいと思います。学生諸君には自分の目先の損得だけでなく、本来どうあるべきかということを考えてもらいたいと思います。
このジャーナルの文責と著作権は巖圭介個人にあります。無断転載を禁じます。御意見、御批判は巖個人宛にお送りください。ここに書かれた内容に関して桃山学院大学は一切関知していません。