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Journal no. 4

大人数講義の憂鬱(2000年7月10日)

 学期末でばたばたして、3週間近くジャーナルの更新をさぼってしまった。ようやく前期の授業が全部終わり、あとは試験監督と採点を残すだけとなって心底ほっとしている。

 今年の前期の授業はことのほかつらく感じた。ひとつには、今の職も3年目に入って少し余裕が出てきたため、いろいろと考えることができたせいである。最初の2年間は、専門でもない内容を教えるのに毎日必死になってギリギリまで準備をして、とにかく一日一日を乗り越えるのにせいいっぱいで、余計なことまで考える余裕はなかった。それが3年目にもなると、とりあえず過去2年分の内容に手直しを加えるだけで講義の準備はできるから、かえって時間ぎりぎりになるまでほかの可能性を考える。こんなんじゃ学生は面白くないだろうな、これで本当に伝わるだろうか、こんなこと言っていいんだろうか。余裕は迷いを生み、迷いは自信のなさにつながって、結果として自信のない授業をすることになる。当然終わっても達成感はなく、不十分なことをしてしまった嫌悪感だけが残る。疲れるわけだ。

 もうひとつ今期の授業がやたらと疲れた原因は、5つ担当している授業のうち2つが500人級の巨大講義だったせいだ。「科学と技術−害虫とたたかう」と「人権問題III」の両方とも登録人数が500人程度。全員出席しないにしても、最高で500人入る扇形の教室がほぼ一杯に見える程度には毎週入った。主義として出席はとらないと宣言してあるのになんでこう真面目に出席してくるのだろう、いやいや出席してくれることは喜ぶべきことだ、減ってくれた方がいいなどど思ってはならぬ、と感謝の気持ちを呼び起こそうとするが、しかし500人の人間を前に気力が萎えるのである。

 500人の人間の耳と目を毎週1時間半にわたってくぎ付けにすることのできる人というのは、すでにかなりのカリスマ性を備えた人物だろう。あるいは徹底した恐怖支配によって沈黙を強制するか、パスするためには一言一句聞き漏らせないようなよほど厳しい試験(しかも落とせば放校処分)でも予告するか。そのどちらもしていないしカリスマ性もない私の授業では、どうしたって私語を止めることはできない。500人の人の群れからふわふわと立ちのぼる私語の煙は、教室中に立ちこめて講義の声を煙らせる。話す側も聞く側も、これは疲れる。

 むろん、叱る。たまには、怒鳴る。ときには哀願する。それでも静寂は一時的なもの。その静寂を続けたければ、叱り続けなければならない。それはいやだから、無視してがんばってしゃべる。声を張り上げしゃべり続ける。終わるとどっと疲れる。

 疲れるのはまだいい。申し訳ないのは、まじめな学生がちゃんと聞こうと思っているのに近くのおしゃべりに邪魔されて集中できないことだ。これは明らかにまずい。そういう問題を解決するためには、やはり怒鳴り散らしたりつまみ出したりしてでも静寂を確保すべきなのだろう。

 できることなら、怒鳴って静かにさせるより、授業の内容で注目を集めて静かに聞かせたい。いや、静かでなくてもいいから、学生の注意をそらせないような魅力的な授業ができればと思う。各地の大学や予備校の名物講義の名人芸を教わりたいと切に思った学期だった。

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