2008年12月30日(火) メモリー増強
ほとんどの仕事を研究室でしているので、自宅のパソコンはめったに使わない。いやに動作が遅いのも、使う気にならない原因の一つであった。専門家からメモリーが500Mしかないのも遅い理由の一つであろうと教わり、1Gのメモリーを追加してみたら格段に早くなった。パソコンを入れるとき、ハードディスクの容量には注意するが、メモリーの方が大事であることを思い知らされた。
2008年12月27日(土) 年賀状
年賀状への熱意が年々、なくなっていく。今年は、本日、10枚書いただけ。後は、返信の形で許してもらおう。せっかく研究室に来ているのに、年賀状を書いたら仕事をする気がうせてしまった。新年はダーウィン伝の完成に全力投球になるので、他の仕事をできるだけ年内に片づけてしまいたかったが、かなり残ってしまった。明日からは自宅の片づけがあるので、年明けに持ち越しか。やむをえない。
2008年12月22日(月) ダーウィン本の発注
本日は年内最後の授業日である。1限に「科学技術史」。午後は山積みになっている洋書のカタログをもとに、購入すべき洋書の選定に取りかかる。ダーウィン年を控えて続々とダーウィン関連の図書が刊行される。この夏までは、できるだけ個人で購入して手元に置くようにしていたが、今回から図書館購入図書として選定することにした。一つには、2月刊行予定となっていても3月以降にずれ込むことが多く、そうなると研究費でまかなえない。それ以上に大きな理由は、退職後、家には大量の本を置く場所がないことである。どうしても手元に置きたいもの以外は、私費購入図書もすべて図書館に寄贈し、必要な時に借り出すことにした。その準備も始めないと3月までに間に合わないな。
2008年12月17日(土) 司書課程年報の原稿
2限の「資料特論」は司書課程専任の山本順一教授による「視聴覚資料」。午後は山本教授から執筆を依頼されていた司書課程年報の原稿に取り組む。昨日から本格的に取り組み、ようやく書き終えて山本教授に送信した。400字換算で8枚あるが、ここに貼り付けておこう。自己宣伝の嫌いがあるが、退職記念文なので許してもらおう。
司書課程、司書講習、そして図書館に関わって32年
1976年10月22日、本学で合同教授会が開催され、1977年度からの私の採用の是非が投票によって決まる予定になっていた。当時、私は講談社の百科事典編集部の契約編集者として生活していたが、事典の編集作業が終わり、新企画の英文百科事典の編集に参加するかどうか、翌日、回答することになっていた。ところが、夜になっても大学から連絡がない。やっと深夜になって連絡が取れ、採用が承認されたことが分かった。その日のことは鮮明におぼえている。
授業では「科学概論」を担当することになったが、就任後間もない時期に、出版社で働いていたのだから司書課程が担当できるはずだといわれ、以来、司書課程科目を担当してきた。一方、当時は「前歴査定」という制度があって、研究歴と認められない期間は実年齢から引かれ、実年齢より低い年齢の給与が支給されていた。私の場合も、編集者として働いていた期間が「前歴査定」の対象になった。その経歴を買って司書課程を担当させながら、前歴査定の対象にするというのはおかしいではないか。内心、大いに不満であったが、どうしようもなかった。研究者を目指す者は研究機関に所属していなくても研究を続けているのだから、この制度が廃止されたのは当然のことだと思う。
1996年度までは司書課程の選択科目、「人文科学及び社会科学の書誌解題」と「自然科学と技術の書誌解題」とをインテグレーション科目として担当してきた。「自然科学と技術」の方はあまり他人に頼らなくてもよいが、「人文科学及び社会科学」は分野によって事情が大きく異なるので、経済学、文学、地理、歴史、語学など、本学のさまざまな分野の教員に応援してもらった。講義内容が変化に富んでいるのは当然だが、授業方法にも違いがあって面白かった。きっちりしたプリントを用意してくる教員もいれば、プリントも板書もなしで、その場の成り行きでしゃべり続ける教員もいる。自分の授業方法を振り返るよい機会にもなった。
1997年度からは、必修科目として設けられた「専門資料論」を単独で担当し、選択科目の「資料特論」をインテグレーション科目として担当してきた。「資料特論」の内容は、文部省(当時)によって「郷土資料、行政資料、視聴覚資料など」と規定されているので、「書誌解題」のように、さまざまな分野の教員を引っ張り出すことができない。そのかわりに当該分野の公務員や会社員、新聞記者などにも出講をお願いして運営してきた。
大学の授業である司書課程のほかに、本学が社会人対象に開講している司書講習にも関わってきた。最初は司書補講習の「参考書解題」を担当し、ついで司書の「自然科学と技術の書誌解題」を担当し、1997年度以降は「専門資料論」を担当している。
司書課程と司書講習とで同じく「専門資料論」を担当しているが、「受講生による授業評価」の結果がまるで違う。司書講習では5段階評価の上から2番目「どちらかといえば良い」に集中するが、司書課程では真ん中、「良くも悪くもない」に集中する。社会人からは一定の評価を得ているが、在学生の評価は低いのである。同じ国家資格に関わる授業なので、当然、内容は変えていない。評価の違いは、お金と時間を使ってでも資格を取得しようとする講習生と、無料なので楽に資格を取りたいと願う在学生との意欲の違いを反映したものだろう。
大学図書館に関連しては、1983・84年度と1998・99年度の2期、図書委員を務め、在職最後の2007・8年度に図書館長を務めた。
最初の図書委員の時、当時の中田館長と山口課長の支援を受け、1983年10月から視覚障害学生を対象とした対面朗読を始めた。最初にこのサービスを受けたのは、社会学部に在籍していた立花明彦君であった。ボランティアとしてこの活動に参加した諸君は、対面朗読を重ねるうちに立花君から教わることの多いことに気づき、サービスというよりも自分たちも学ぶ制度であると思うようになっていった。立花君は卒業後、全国各地からの多数の応募者の中から選ばれて神奈川県総合リハビリテーションセンターの職員に採用され、1991年に日本点字図書館に移り、2001年からは静岡県立大学短期大学部の教員となって「障害者福祉論」を担当している。本学の誇るべき卒業生の一人である。
この後、対面朗読制度はしだいに充実し、確立していったが、ここ数年、視覚障害学生が在籍しないため、開店休業状態になっているのが残念である。
2度目の図書委員の時については苦い思い出がある。図書館会議に一度も諮られなかった事項が、突然、大学教員組合の対理事会要求事項として登場し、それを理事会が飲んでしまったのである。その後も類似のことが繰り返されている。理事も教員も図書館会議の意義を理解していないのである。
在職最後の2年間に図書館長を務めることになったが、日常業務はほとんど事務方が担っているので、図書館長としての仕事はあまりない。会議の開催方法を合理化したことと、書評賞の審査方法を合理化したことが、図書館長としてのせめてもの功績といえるだろう。
2007年に原山教授の中国年画コレクションの寄贈を図書館として受け入れたが、これには、図書館の業務として疑問があるという意見もあった。もっともな意見であって、本来なら大学ミュージアムが所蔵すべきものであろう。しかし本学の現状では図書館以外に受け入れる所がないので、とりあえず図書館で受け入れることを認めてもらった。日本の大学でも図書館に加えてミュージアムを設置することが当然のようになってきたが、本学にその構想のないのが残念である。
中国年画コレクションの存在を和泉市教育委員会にアピールした結果、大学に隣接する「和泉市いずみの国歴史館」で2009年1月6日から2月22日まで、コレクションの展示会が開催されることになった。「桃山学院大学図書館蔵品展」と明示されており、この問題に関わってきた者としてもうれしく思っている。
予算執行に関して図書館長の立場で堅持したのは、雑誌の純増を避けることであった。読まれない雑誌がかなりある一方で、データベース導入の要求が強くなっている。本学の図書館予算は比較的恵まれているが、長期的には縮小していくことが避けられないだろう。データベースを増やすには、雑誌代を抑えるほかない。自分で判断できる分野の洋雑誌については、関係者の了解を得て、かなりの点数を削減した。英語・英文学関係のデータベース導入に際しては、関連の洋雑誌を大幅に削減してもらった。
今年度末の退職に際して個人蔵書の多くを図書館に寄贈する予定だが、それと既存の蔵書を合わせば、ダーウィン関係の資料の質については国内のどこにも負けないものになるであろう。本学図書館の規模は大きくないが、ほかにも誇るべき蔵書が多数ある。そうした重要な蔵書について、順次、解題を書きたいという思いはあったのだが、在職中はとてもその余裕がなかった。できれば退職後にでも試みたいと思っている。
2008年12月15日(木) 議事録作成
3限の「科学技術史」のあと、昨日の運営会議の議事録(案)を作成し、事務方に送信した。
2008年12月15日(水) 会議の水曜日
まず、昼休みに「学芸員・司書課程運営会議」を主宰し、大学評議会、文学研究科委員会、および社会学部教授会に出席した。この後、学長選挙規程の改定に関する説明会があるが、これには出席する必要はないだろう。
2008年12月15日(月) シラバス作成
1限の「科学技術史」のあと、たっぷり休んでから、来年度の担当科目のシラバス入力に取り組む。来年度は桃山学院大学の非常勤講師として「科学技術史」と「論述作文」を担当する。
2008年12月14日(日) 忠臣蔵
寒さと疲れで何もする気にならない一日だった。ところで、本日は「極月の14日、月は変われど日は同じ」、パパンパン。討ち入りの日ではないか。せめてテレビ朝日のドラマ「忠臣蔵・音無の剣」を見よう。史実なんかなんのその、畳替えに火事装束、山鹿流の陣太鼓と、忠臣蔵映画の伝統に則り、天野屋利平に俵星玄蕃、さらには映画「カサブランカ」の趣向を取り込んでいる。主役の田村正和には眠狂四郎の面影があったが、むしろ「乾いて候」の主丞か。船宿に居候する御曹司というのは若様侍捕物帳。けっこう、けっこう。こういうドラマは理屈抜きで楽しめばよい。とはいえ、陣太鼓と勝ち鬨は、いくらなんでも長すぎた。
008年12月12日(金) 経歴と業績の整理
一日掛けて、紀要『人間科学』に掲載する「経歴」と「研究業績目録」の作成を終えた。通常なら経歴や業績として記載しない事項も、この機会にまとめて記載させてもらうことにした。とはいえ、学会での口頭発表など、手元に記録が無いものも多く、完全なものにはならなかった。それでも、ここまでの我が研究生活の大筋は整理できたと思う。記録を探す過程で、雑誌や予稿集などを大量に廃棄し、研究室も少しはすっきりしてきた。
2008年12月11日(木) 藤井清久「ダーウィンの宗教観」の誤り
昨日、自宅に、新刊の藤井清久『歴史における近代科学とキリスト教』(教文館、2008)が著者から送られてきた。第7章「ダーウィンの宗教観」は、翻訳書『科学革命とキリスト教』第3巻(すぐ書房、2003)に付録として掲載したものである。これに対して当方は、『生物学史研究』第79号(2007年12月)に掲載した書評で誤りを指摘しておいたのだが、再録されたものでも修正されていない。おそらく見解の相違ということなのだろうが、これは解釈の問題ではなく事実に関することである。書評で述べたように、ダーウィンが「ビーグル号にナチュラリストとして乗り組む」は間違いである。エマが「きわめて熱心な国教徒」というのも間違い。さらに、バベッジの著書を「『ブリッジウォーター公記念論集』の一冊であった」という明白な間違いを、なぜ修正しないのだろうか。キリスト教関係では評価の高い教文館の権威のもと、こうした誤りが広まるのは残念である。
2008年12月10日(水) 会議の水曜日
昼過ぎに大学院関係の口頭諮問を行った。当方が3人の審査委員の長を務めており、諮問する側の責任者なので神経を使い疲れた。3時から図書館会議を主宰。書評賞の「総合講評」がまだ厳しすぎると批判され、さらに手直しすることにした。4時からの共通教育協議会にも出席義務があるのだが、これは休ませてもらった。
2008年12月9日(火) 図書館会議打ち合わせ
朝は、在木(ありき)カイロプラクティックで治療。昼過ぎに、明日の図書館会議に備えて事務方と打ち合わせ。当方が執筆した書評賞の「総合講評」の文案のうち、佳作作品の一つに対する講評が厳しすぎると事務方から指摘され、手直しすることにした。また、例年通り「指定図書」の募集を開始するとのことだったが、本学の指定図書制度は演習科目のために複本を購入する制度であることを初めて知った。確かに募集要項にはそのことが明記されているが、いままで、単に参考資料を指定する制度だと思い込んでいた。今年度は「演習用指定図書」と明示することにした。
2008年12月8日(月) 研究会の後片づけ
1限の「科学技術史」を終えると、どっと疲れが出た。心身ともにまだ少々頼りないが、展示した資料を研究室の棚にもどし、図書館の資料を返却した。バイト代などの会計処理も済まさなければならない。学内で数人の教職員から、都合で出席できなかったけれどシンポジウムはいかがでしたかと聞かれた。かなり関心を持ってもらえたようだ。
研究会の準備に追われてこのHPのジャーナルを書く余裕もなかった。ジャーナルをまとめ書きし、研究会関係のページも整理しておこう。
2008年12月7日(日) ダーウィン・シンポジウム
早朝から配付資料を印刷し、10時からは関係者や院生アルバイトと一緒に会場準備である。今回はダーウィンの資料を展示するので、これを運び、配列するのに時間がかかった。
シンポジウムに先立ち、1時から1時半まで、生物学史分科会の総会を開催した。総会で当方の会長辞任が承認され、次期会長として米本昌平氏が就任することになった。2001年12月16日の総会以来、7年間、分科会会長を務めたことになる。分科会の活動はほとんど東京在住の会員が担っていて、当方は何もしなかった。それでも年長者が会長にいる方が会員が動きやすいとだろうと考えていたが、定年退職を前に辞任させてもらうことにした。
2時からのダーウィン・シンポジウムにどれだけの人が来るのか不安だった。分科会の通知と大学や当方のホームページ、それと科学史メーリング・リストだけの広報では、せいぜい30人と見ていたが、朝日新聞12月1日朝刊の科学欄にシンポジウムの案内が掲載されたので、参加者は30名を上回るだろう。配付資料をどれだけ用意すべきか、悩んでしまう。結局、参加者は40名であった。そのうち少なくとも10名は新聞を見ての参加者であろう。参加者名簿で見ると学校の先生が多いようだが、老夫婦での参加もあった。後で気が付いたのだが、こうした一般の参加者のみなさんに、シンポジウムの感想を聞いておくべきだった。もともとは生物学史の仲間内の気楽な勉強会として企画したものなので、一般の方には不満があったかも知れない。展示資料を見るだけでも、ダーウィン研究がどんな形で行われているか、ある程度は理解してもらえたと思いたい。
5時にシンポジウムが終了し、大急ぎで展示資料を研究室に運び込み、案内板などを撤去した。この後、数人の関係者と夕食をともにし、学会のさまざまな情報を聞くことができた。
2008年12月6日(土) 科学史学会西日本大会
10時前に会場として予約してあった教室に行ったら、授業をやっているではないか。教務課に駆け込んだら、ダブル・ブッキングになっていることが分かった。一瞬、頭の中が白くなる、というのは、こういう時の精神状態をいうのだろう。とにかく午前中は会場を変更することにした。教務課も掲示や案内に協力してくれたので、混乱無く収まった。
研究会は順調に終わり、大学近くで懇親会を開き、当方を含めて5人が明日のシンポジウムに備えて学内の宿泊施設に泊まった。当方は、配付資料が完成していないので、研究室で遅くまでパソコンに取り組んでいた。
2008年12月5日(金) シンポジウム準備
今週に入ってからは、土日の研究会の準備に追われている。とくにダーウィン・シンポジウムで配布する展示資料目録に時間がかかっている。また、この際、ダーウィン書簡集の付録の一覧を作成しようと目論んだので、これにも時間を取られている。
2008年12月1日(月) 7時半からの教授会
1限の「科学技術史」で、「学生による授業評価」を実施。一休みしてから、「ダーウィン・シンポジウム」で展示する資料の準備を始めた。紀要に掲載する業績一覧の作成が思ったよりやっかいで、まだ終わっていないが、シンポジウムの準備も急がなければならない。2日続けて別の学会を主催し、しかも両方で発表もするというのは、いささか無理であったな。しかし今更そんなこともいっていられない。今週一杯は、学会裏方の仕事、発表準備、展示品の準備、それに業績一覧作成。一人でやらなければならないので、混乱しそうだ。
11月22日と23日に実施した公募制推薦入試の判定のため、授業終了後の6時過ぎから入試結果説明会、大学院委員会、そして7時半から教授会。終わったのは8時半。本日の社会学部教授会で当方後任の「科学思想史」担当者が決定した。ここまでの審査には一切、関わってこなかったが、妥当な方が選ばれてよかったと思う。
2008年11月27日(木) 「船中八策」は無かった
松浦玲『坂本龍馬』によると、あの有名な、いわゆる「船中八策」は、いつだれが作成したものか、「実は全く不明である」(p.189)という。辞典類などでも、慶応3年6月に龍馬が船中で同乗の後藤象二郎に示したものとされているが、それを証明する資料はなにもないそうだ。同書によると、この時期の龍馬関係の資料にはそれをうかがわせるものさえないという。驚いたな。史実と思い込んでいたものが、また一つ消えた。この指摘に対して、どんな反応があるだろうか。同書の書評を読むのが楽しみになってきた。
2008年11月26日(水) 雑誌の廃棄
本日は振替休校のため、学内は静かである。本学の紀要の一つ『人間科学』の次号は当方の退職記念号となるので、それに掲載する「研究業績目録」の作成に取りかかった。本来は先月末締め切りなので、急がなければならない。主要な業績はこのHPにも掲載しているが、この機会に小さなものも整理しておこうと考えている。そのため古い文献を研究室のあちこちから引っ張り出している。で、この際、保管してあった雑誌『自然』、および『科学朝日』と後継誌『サイアス』を廃棄することにした。『自然』は1976年から最終号(1984年5月号)まで揃っているので、知人たちにいらないか聞いている。『科学朝日』はなぜか欠号が多いので、廃棄することにした。残念だが、保管場所がないので、やむを得ない。
2008年11月24日(月) 西日本大会プログラム
本日は新嘗祭・休日だが、本学では月曜日の授業日数を確保するため、通常通りの授業日としている。1時限の「科学技術史」の後、午後は12月6日(土)の日本科学史学会西日本研究大会のプログラムを組み、メールであちこちに連絡した。11月21日の最終締め切り間際になって発表申し込みがいくつかあり、発表件数10件と充実したものになった。翌12月7日(日)のダーウィン・シンポジウムについても、主催者に学術会議と桃山学院大学が加わり、講演題目も一部変更されたので、プログラムを修整し、関係者に連絡した。研究会開催の準備だけで終わった一日だった。
2008年11月22日(土) 松浦玲『坂本龍馬』岩波新書
昨日、自宅に著者から新刊が届いていた。早速、本日の通勤電車の中で読み始めた。一つ一つの事実について念を押していく松浦節は健在である。一昨日の山田さんの感想では、啓蒙書には事実中心のものと憶測中心のものがあるが、当方の原稿は事実がぎっしり詰め込まれているということだった。日本史関係では松浦玲さんが史実を重んじる側の典型だろうといったことを話していたので、その人の本が届き、偶然の一致とはいえ、いささかびっくりした。龍馬について松浦さんがいつもなげいていたのは、司馬遼太郎の龍馬をだれもが事実と思い込み、司馬と違うことをいうと怪訝な顔をされるということだった。松浦さんの著作の中には、司馬の龍馬について「ここは司馬のフィクション」といった注釈を入れているものもあるが、今度の著書では司馬の龍馬について一言も触れていないようだ。これからあちこちに掲載されるであろう本書の書評で、このことがどう評価されるだろうか。評者の見識が問われるところでもある。
2008年11月20日(木) 『ダーウィン伝』打ち合わせ
3時限の「科学技術史」の後、直ちに梅田へ。朝日の山田豊さんが京都に取材に来ているので、ついでに会うことになった。『ダーウィン伝』の構成は基本的に原稿のままでいくことになったが、周辺のことについてもっと説明が欲しいという。ある程度、予想していた要望であった。本文の加筆、年譜などの作成を考えると、在職中ぎりぎりまで作業が続くことになりそうだ。
2008年11月19日(水) 名誉教授号
水曜日は会議の日。本日は文学研究科委員会と社会学部教授会に出席した。教授会では3名の新任教員採用が決定し、「科学思想史」担当者については次回に審議することになった。当方が退職後、名誉教授と名乗ることも承認された。先輩たちによると、名誉教授となったからといって実質的なメリットはほとんど無いが、肩書きとして使えるのがありがたいという。教授会の後で、「中長期ビジョン」の説明会があったが、これには出席しなくてもよいだろう。
2008年11月15日(土) 審査論文を読了
昨日から明日までの3日間、学園祭なので、学内はにぎやかである。その様子をときどき窓から見下ろしながら、大学院関係で審査に当たっている論文を読み続けた。研究の参考に読むのなら斜め読みして必要なところだけ注意すればよいのだが、審査の対象となると、一語一語じっくり読まなければならない。月曜日に読み始めて、ようやく読み終えた。
008年11月14日(金) 潤一郎訳『源氏物語』読了
今朝の通勤電車の中で「夢浮橋」を読み終え、ようやく谷崎潤一郎による現代語訳で『源氏物語』を読了した。源氏物語千年紀ということでやたらと源氏が話題になっている(来年のダーウィン年もこのくらい話題になるといいのだが)。久保惣美術館でも12月と1月に土佐光吉の「源氏物語手鑑」を全点、展示するという。なんとなく敬遠していた作品だが、この機会に読んでしまおうと一念発起、5月中旬から読み始めた。大学への行き帰りの電車の中で読むだけだし、ミステリー作品のように斜めに読み飛ばすわけにもいかない。うだうだした展開にうんざりして、週刊誌やパズルに切り換えていた時期もあって、読了に半年かかってしまった。
印象に残ったことの第一は、なにかといえば和歌を詠まなければならず、しかも一通り古歌を心得ていないと創作も鑑賞もできないとは、大変な時代だったなということ。登場人物のうち、男性陣はプレイボーイ・タイプ(光君、柏木、匂宮)か、やや真面目タイプ(頭中将、夕霧、薫)かのどちらかで、個性が無く、魅力もない。女性陣はそれぞれ個性があって面白い。男性は狂言回しにすぎず、作者はさまざまな女性を描きたかったのかという気さえする。最も気になったのは、男たちの仕事についてまったく触れていないこと。まさか楽器を鳴らして踊ってばかりいたわけでもあるまい。当時の女性作家に政治の仕事の記述を求めるのは無い物ねだりとは分かっていても、異様な感じがした。ほかにも感じたことはあるのだが、 『源氏物語』については大量の研究の蓄積があり、うっかりしたことを書くと笑われそうなので、ここまでにしておこう。
2008年11月12日(水) 図書館書評賞の決定
午後の図書館会議で書評賞の受賞作を決定した。先週の会議で6点の受賞を内定していたが、委員が分担して対象作品を読み、再検討した結果、2点を選外とすることにした。もっと厳しい意見もあったのだが、受賞作があまりに少ないのも、いかがかということで、大甘の受賞となった。来年度は非常勤で「論述作文」を担当するので、徹底的に書評の書き方を訓練してみようかな。
会議後に「図書館長による総合講評」を書き上げて、書評賞についての仕事は終わり。
2008年11月8日(土) いずみの国歴史館・特別展「和泉黄金塚の時代」
2時限の司書課程「資料特論」は和泉市教育委員会の灰掛薫次長による「郷土資料」の3回目。本日は和泉市の郷土資料館である「いずみの国歴史館」の見学。現在は和泉黄金塚古墳国史跡指定記念の特別展を開催中である。いつも思うのだが、大学から歩いてゼロ分の場所にあるというのに、ほとんどの学生がこの史料館の存在を知らないというのが、残念でならない。
2008年11月7日(金) 三井寺展・二科展・文楽「引窓」
ダーウィン伝執筆中は展覧会と芝居を我慢していた。時間がないというよりも、精神的な余裕がなかった。やっと解放されて、まずは大阪市立美術館の「三井寺展」へ。円珍のことやフェノロサの墓のことなど、知らなかったことも多く、楽しめた。ただ肝心の国宝・黄不動尊は会期後半だけの展示なので見ることができなかった。もう一度出かけるほどの余裕はないので、あきらめるか。関西に移って30年。有名な古寺はたいてい訪れているが、三井寺にはまだ行っていない。気楽に立ち寄れる場所ではないが、一度は行かなくてはならないだろう。
ついでに地下展示室の二科展ものぞいてきた。暗い照明で古美術を見た直後なので、煌々とした明かりの洋画の部屋に入ると別世界に来た感じになる。抽象画もそれぞれ個性的なのだろうが、古美術の後では、どれも同じように見えてしまうのが面白かった。彫刻もデザインもパスして地下鉄で日本橋へ。
4時から、自分にとっては本日のメイン・イベントの文楽。切符は当日売りだったので、いつもの床直下の席はなくて、中央に3席ずれた席だった。当方が床の大夫さんを見ているのに、隣は舞台を見ているので、顔が向き合って具合が悪かった。「豊松清十郎襲名」で昼の部の方がにぎやかだろうと思うが、見応えのあるのは夜の方だろう。それに襲名記念の「奥庭狐火」で、またしても人形遣いの引き抜きを見せつけられるかと思うと、うんざりする。夜の部の「引窓」は住大夫。よくできた作品だし、住大夫もまだまだ元気だ。「八陣」は千歳大夫と咲大夫。よく知られた作品なのに、歌舞伎でも文楽でも見たことがなかった。名作とは言い難いが、時代物として楽しめる。文楽ではたまに上演されていたようだが、歌舞伎では戦後、ほとんど上演されていないのではないだろうか。平成5年に南座の顔見世で先代の仁左衛門が御座船の場だけを出し、今年の顔見世では我當が出すとのことだが、まぁ、出かけるほどのことはあるまい。
久しぶりの展覧会と文楽で、鬱憤が晴れた。さてと、気合いを入れ直して仕事にかかりますか。
2008年11月6日(木) 7時からの教授会
2日の日曜日に実施した推薦入試の判定のため、授業終了後の6時過ぎから入試結果説明会、大学院委員会、そして7時から教授会。終わったのは8時。なんで通常通り水曜日に開催できないのか、みなさん不満を持ちながらも、「これも給料のうち」と、ほやきながらの出席であった。
2008年11月5日(水) 書評賞内定
3時から図書館委員に集まってもらって、書評賞の入賞作品を内定した。これからそれぞれの対象図書を委員が分担して読み、書評の内容を再点検することになる。当方も分野違いの図書を一点読んだが、すぐに、書評は、「まえがき」と「あとがき」を読んでまとめたもので、本文をまったく読んでいないことが分かった。今の学生にしては文章力があるのに、残念なことだ。教師には分からないとでも考えたのだろうか。とにかく、努力せずに評価されようなんて思わないで欲しい。
2008年11月4日(火) 学術会議のダーウィン・シンポジウム
2009年ダーウィン年に学術会議でダーウィン・シンポジウムを開催する予定という連絡が5月にあったきり、連絡はないし、周辺に聞いてもなんの動きも無いという。それが今日になって事情が判明した。当方宛のメールがアドレス違いで届いていなかったことも、話が進展しない原因の一つであった。12月7日に本学で開催する生物学史分科会主催のダーウィン・シンポは、2009年のシンポジウムのプレ・イベントとして位置付けられることになった。これから大いに宣伝していこう。
2008年11月3日(月) ダーウィン伝一次稿を送信
本日は「文化の日」だが、本学では月曜日の授業日数を確保するため、通常通りの授業日としている。1時限の「科学技術史」の出席者は普段と変わらなかった。一休みしてからダーウィン伝を補足して短いエピローグを書き終え、一次稿をファイル添付で送信した。まだ確認したいことが残っているが、とりあえずは一区切りである。編集の山田豊さんから次の指令が来るまで、別の作業にとりかかろう。
日記ノートを見ると、2006年4月から祖父エラズマス関係の資料を集め、第1章の執筆に着手したのがその年の8月であった。当初の予定では翌2007年の夏休みに終えるはずだったのが、2008年3月脱稿に変更し、今年の夏休みは海外に行く予定だった。それも無理な状況になったので、なにがなんでも9月脱稿のつもりだったが、さらに一月遅れてしまった。早く終えねばならないという思いと、手抜きはできないという思いで、ずっとストレスがかかっていた。9月中ごろが一番きつかった。こんな状態で仕事するのは、もしかしたら幸せなことかも知れないと、自らを激励しながらの2年間だった。在職中の出版は無理でも、ダーウィン年の2009年には間に合った。最新資料による信頼すべきダーウィン伝が出たと評価されることを期待しよう。
2008年11月2日(日) 原稿の見直し
30日(木)からダーウィン伝の原稿を一通り見直しているが、これに意外と時間がかかっている。内容の重複、表記の不統一、話が飛んでしまっているところなど、どうしても修整、補足が必要である。本日は日曜日だが、研究室で一挙に片づけることにした。本日は推薦入試の当日で、かなりの教職員が来ていたが、ありがたいことに65歳以上は入試業務を免除されている。
2008年10月29日(水) ダーウィン伝の本文終了
本日は水曜日なのに会議がない。昼過ぎに「和泉市いずみの国歴史館」の担当者と図書館所蔵の中国年画の展示会について最初の打ち合わせをした。後はダーウィン伝の執筆を継続。マイヴァートとの絶交の件を補足して、本文を終了した。9月脱稿予定が一月延びたが、まずはほっとした。エピローグ「ダーウィンは何をもたらしたのか」を書いてから、送信しよう。一区切りついて虚脱状態に陥りそうだが、まだたまだ、図版、地図、系図、年譜など、作業は続く。それに大学院関係の論文審査、紀要に載せる業績一覧の作成、ダーウィン・シンポの準備など、先送りしていたことを片づけなければならない。気力を奮い立たせていこう。
久しぶりにマイヴァート関係の記事を書いた。有能で生真面目な動物学者だが、その評論の中で言わずもがなの個人攻撃をやりがちであった。そのためにダーウィン陣営から追放され、ローマ教会から破門された。個人攻撃は控えるべきだった、と他人事のように書いているが、当方もこのジャーナルで、けっこう、個人攻撃をしているな。印刷物では用心するのだが、ジャーナルでは、つい、筆が滑ってしまう。
2008年10月23日(木) 博物館実習報告会
朝はまず、地元の福岡医院へ。数日前からのどに軽い痛みがある。医師から、あまりしゃべるなといわれたが、しゃべるのが仕事だからなぁ。3時限の科学技術史は無事に終えた。5時限に館務実習の報告会。今年も学生たちは各実習館で充実した日々を過ごしてきたようだ。この後、実習打ち上げの懇親会をするのが恒例だが、その元気もないし、今日も猫たちに夕食をやらねばならないので、急いで家に帰った。
2008年10月22日(水) 会議の水曜日
朝、狭山駅前で散髪してから大学へ。午後に図書館会議を主宰。学生の書評賞の一次候補25点を決定し、洋雑誌9点の購入中止を決定した。図書館長という職務はさして重要な決定に関わらないが、この2年間で、会議の持ち方を合理化したこと、書評賞の審査方法を合理化したこと、そして洋雑誌11点の購入中止を決定してデータベース導入枠を広げたことは功績とみなしてもらおう。
5時から共通教育協議会に出席。正直なところ、来年度以降の共通教育をどうするかといった問題に関わる気はないのだが、資格課程の責任者として出席せざるを得ない。資格課程については議題にならないと見極めて、6時に退席した。今日は早めに帰って老猫たちに夕食をやらなければならない。
2008年10月15日(水) 会議の水曜日
午前中に図書館関係の業務を片づけて、午後は会議が四つ。大学評議会の後の連合教授会では、役職選挙をめぐってさまさ゜まな動きがあったが、おおむね妥当な結果になったと思う。大学院文学研究科委員会では審査報告を一件、担当。最後の社会学部教授会では来年度の専門演習について議論が長引いたが、当方には無関係なことなので室外で休んでいた。終わったのは7時に近かった。もっと早く終わって欲しかったな。
2008年10月14日(火) 振替休校
本日は振替の休校日だが、休んでいる余裕はない。研究室に出てきて、ダーウィン伝の補足を続行。急げ、急げ。
2008年10月13日(月) 祭日も授業
「体育の日」だが、本学では月曜日の授業日数を確保するため、通常通りの授業日としている。1時限の「科学技術史」の出席者は、いつもより多いくらいだった。4年次生の出席が目立ったので、もしかしたら、就活継続中の学生も企業が休みなので学校に来たということかもしれない。
午後は、大学図書館で募集した「書評」120点の中から一次候補として20点を選ぶ作業に集中した。指定の書式に従わないものなど、「形式」ができていないものは内容を見るまでもない。
2008年10月9日(木) 「ウェッジウッド展」の図録
「ウェッジウッド展」が全国を巡回している。ダーウィンは半ばウェジウッドの人間なので関心はあるが、会場まで行くのは面倒。とりあえず図録だけ発注しておいたが、それが本日届いた。掲載されている系図を見て、びっくりした。チャールズ・ダーウィンの妻が、「エニマ」となっている。Emma
を Enima と見間違えしたのだろう。これよりお粗末なのが、ジョサイア3世を2世の子どもではなく、ジョン・ウェジウッドの子どもとしていること。ウェジウッドの歴史でも大事なことなのに、どうしてこんな間違いが起きたのだろうか。ウェジウッドの歴史に詳しい人が点検しなかったのだろうか。会場でもこの間違った系図が展示されているのだろうか。とにかくこの図録は信用できない。展覧会にも出かける必要はないだろう。
2008年10月8日(水) 会議のない水曜日
水曜日なのに珍しく会議がない。得をした気分でダーウィン伝に取り組む。我がパソコン内のダーウィン氏にはウエストミンスターから再登場願って、先送りしていた部分の穴埋めに協力してもらう。まずは「パンジェネシス」と「融合遺伝」。議論し出すと切りがないが、早く書き終えることも大事なので適当なところで打ち切り。ついで「性選択」に取りかかる。内外の文献をざっと見たが、ダーウィンが1871年の『人間の由来』でこれを提唱したと述べているものがかなりあるのに驚いた。『種の起源』第4章の初めの方で、「性選択」(Sexual
Selection)という小見出し付きで論じているというのに。それどころか、すでに1842年の「ペンシル・スケッチ」でも性選択を論じている。現在では「性選択」をテーマにした動物行動学の専門書まであるが、それを紹介している余裕はない。我がダーウィン伝ではどうまとめようか。
2008年10月4日(土) 「資料特論」2回目
2時限の司書科目「資料特論」2回目は、例年のように、朝日の神野記者による情報公開の話。出席者は24名に増えたが、これも例年通り。一休みした後で、ダーウィン伝最終章の執筆を続行。我がパソコン内のダーウィン氏にはまだウエストミンスターで待機してもらって、没後の子どもたちたちについて書く。四男レナードが日本に来たことを書いておきたいが、資料を研究室のどこにおいたか、探すのが面倒なのでやめておこうか。
2008年10月3日(金) ダーウィンの臨終の言葉
ダーウィン伝の最終章執筆を続行。我がパソコン内のダーウィン氏も、1882年4月19日午後4時に息を引き取った。しかしダーウィン伝には先送りしている部分がかなりあるので、すぐ生き返って穴埋めに協力してもらわなければならない。脱稿にはまだしばらく、時間がかかる。
ダーウィンが最後に、"Oh god, oh god."と叫んだという話が伝わっている。出典は妻エマと息子フランシスの手書き資料である。刊行されていないので確認できないが、複数の研究者が引用しているので信用していいだろう。これを「神よ、神よ」と訳している邦訳書もあるが、それでは誤解をj招く。ラルフ・コルプが、「困ったときのダーウィンの口癖」と注記しているように、日本語の「チクショウ」と同じような呪いの言葉と理解すべきだろう。キリスト教信仰を完全に捨てていたダーウィンが、いかに狭心症の激痛に苦しんだからといって、神の祈るはずはない。我がダーウィン伝ではどうしようか。注釈つきでこの言葉を紹介するか、わずらわしいから書かないでおくか、迷うところだ。
2008年10月1日(水) 会議の水曜日
昼過ぎから3つの会議に出席した。大学評議会、大学院文学研究科委員会、そして社会学部教授会。教授会では、昨日締め切られた当方の後任人事「科学思想史」の応募状況が報告された。応募者50名というのは、当方が予想していたよりは少ない。それでも審査の担当者は大変だろうな。当方は慣例により審査に関わることはないので、その点は気が楽である。研究能力も社会常識も兼ね備えた人が選ばれることを期待している。
2008年9月29日(月) 「科学技術史」開始
秋学期の授業が本格的に始まった。1限が隔年開講の「科学技術史」。出席者は20名。おそらく木曜日にはこの倍になり、登録者はそのまた倍になると予想される。それにしても例年より少ない。定年前の最後の講義科目になるが、この人数なら個別指導に近いこともできそうだ。3時限の4年次生ゼミに来たのは一人だけ。卒業単位は取れた、内定も取れた、となると、必修ではない卒論を、がみがみ言われながら書く気が失せてしまうようだ。この後、大学院関係の審査報告案を一つ作成し、関係者に送信して一日が終わった。
2008年9月27日(土) 「資料特論」開始
朝、自宅からバス停に急ぐ間に気が付いた。今年はヒガンバナを見ていない。橋から見える田んぼの畦が整備され、刈られてしまったようだ。ヒガンバナを見ると季節を感じるだけでなく、さまざまなことが連想されるのに、さみしいことだ。
2時限に司書科目「資料特論」。出席者18名は例年通りか。一休みしてから、先送りしていた作業をまとめて片づける。まず、12月6日(土)の西日本大会の発表者募集を科学史MLに投稿し、翌7日(日)の生物学史分科会のダーウィン・シンポについて分科会の世話役たちに相談のメールを発送。放送大学「生物学の歴史」の試験問題を送信し、研究開発支援総合ディレクトリ(ReaD)の研究者情報を更新した。ReaDの当方の情報に半年で43回のアクセスがあったという。どういう人たちがどういう目的で閲覧しているのか不明だが、意外と多いので驚いた。
2008年9月24日(水) 会議の水曜日が再開された
秋学期の授業に先立って、まずは会議の日。学芸員・司書課程運営会議を主宰した後、大学院文学研究科委員会、社会学部教授会と続く。これからは授業と会議、管理業務に追われることになるので、今までのように毎日、ダーウィン伝に取り組むことができない。ダーウィン伝の9月脱稿は無理になった。それでも見通しは立っているので、とにかく書き続けるしかない。
2008年9月18日(木) ダーウィンの蓄財
成績評価についての学生のクレームを片づけた後、ダーウィン伝最終章の執筆を続行。ダーウィンは1881年9月8日に銀行員の長男ウィリアムに資産を調査させた。ウィリアムによると、エマの分を別にしても総資産は少なくとも28万ポンドになり、これを男子12、女子7の割合で分配すれば、5人の息子たちはそれぞれ
53,000 ポンド、2人の娘はそれぞれ 34,000 ポンドになると報告し、ダーウィンはこの提案通りに分配するよう遺言した。しかし、これでは計算が合わない。ウィリアムの提案通りに計算した額より、それぞれ
7,500 ポンド多い。まさか銀行員がこんなところで計算間違いをしないだろうから、なにか理由があるのだろう。伝記によってはこの数値をそのまま紹介しているものもあるし、総額だけを書いている伝記もある。我がダーウィン伝ではどうしようか。いくら資料にあるとはいえ、つじつまの合わないことをそのまま書くわけにもいかないから、総額だけを書くことにしよう。
それにしてもダーウィンの財産はたいしたものだ。当時の1ポンドは今の日本の1万円以上の価値があると思われるので、ダーウィンはまさに億万長者であった。ダーウィンは科学研究と同様の熱意を持って財テクに取り組み、蓄財に励んだ。子孫に美田を残そうと必死だった。ダーウィンのこの側面は伝記でも語られることが少ないので、一般のダーウィン理解からも欠落している。収入の点からいえばダーウィンは金融資本家であり、その点でも典型的なヴィクトリア朝のジェントルマンであった。
2008年9月15日(月) ダーウィン、コッホ、パストゥール
本日は祭日だが、休んでいる余裕はない。研究棟に常連もほとんど来ていない。同じフロアは自分だけだし、他のフロアも平均一人。ダーウィン伝の最終章に取り組む。1881年8月3日、ダーウィンは何のためにロンドンに行ったのか。一部の伝記には肖像画を描かせるためとあるが、そうではない。第7回国際医学会議が開催され、そのレセプションに特別招待されていたのである。この時にダーウィン、コッホ、パストゥールという英独仏の超大物たちが出会っていた。ダーウィンにとってはうんざりする儀式の日であったし、彼らとも握手を交わしただけだったようだが、科学史上は、わくわくするような出会いの日であった。
2008年9月7日(日) 「耳ざわりが良い」
朝、民放のテレビ番組で自民党総裁候補などの座談会があった。聞くともなく聞いていると、ある議員が「耳ざわりの良いことばかりいっていては駄目だ」といったので、びっくりした。以前、教室の私語にいらいらして、「耳障りだから静かにしなさい」といったことがあるが、学生には通じないよと同僚から注意された。学生たちにとっては、「耳触りがよい」が普通の表現なのだという。若者はとにかく、言葉に注意しているはずの政治家まで誤用しているのかと驚いた。ところがいくつか国語辞典を見ると、「耳触りがよい」を認めている辞典もあるので、またまたびっくり。インターネットで見ると、「耳触りがよい」擁護派もけっこう存在しているのに、さらにまたびっくり。常識だと思っていたことが、そうでもないのだ。しかし「目障りがよい」とはいえないのと同様、「耳ざわりがよい」も駄目だと思う。
2008年9月5日(金) 司書講習受講生の打ち上げパーティー
本日が社会人対象・司書講習の最終日。4時から大学の近くで受講生主催の打ち上げパーティーが開かれた。80名の受講生のうち50名が参加したというから、大盛況といってよいだろう。年度によって講習の雰囲気が異なり、こうした会が開かれるのは数年ぶりだと思う。会場で受講生と雑談していると、教室では分からないことを聞くことができる。「図書館見学の要点」と題して、BLC(大英図書館蔵書目録)や四庫全書、三省堂『日本百科大辞典』などの所在場所一覧を作成し、受講生に配布しておいたが、これが思った以上に好評であった。かなりの受講生がこれをたよりに図書館書庫を見て回ったという。学部学生の場合は、レポートの課題にでもしない限り、自主的に見に行くことは期待できない。こういうところに学部学生と講習受講生の意欲の差が出てくるといえよう。
2008年9月4日(木) 司書講習「専門資料論」最終日
午前は司書講習「専門資料論」の最終5回目。1時限は、シェーンの論文捏造を材料にして学術文献の現状を総復習した。ほとんどの受講生はシェーン事件について聞くの初めてで、学術の世界にこんなことがあるとはぞっとするといっていた。2時限に「専門資料論」のテスト。昼食後、一休みして一気に採点、評価を済ませた。今年は例年の半分の80枚ほどだし、予め試験問題とその解答についてかなりていねいに話しておいたので、あまり悩まずに大半の答案をA(優)、またはB(良)にすることができた。それでも、D(不可)にせざるを得ない答案が4枚ある。その中にはこの科目を受けるのは3回目というものもあり、不合格に不満があるようだが、なぜまともな答案が書けないのか、あるいは書く気がないのか、こちらの方で聞きたいくらいだ。
2008年8月29日(金) 大阪市立自然史博物館「ダーウィン展」
午前は司書講習「専門資料論」の3回目。これを終えて、午後は長居の自然史博物館へ。アメリカ自然史博物館の巡回「ダーウィン展」である。実は出かけるのが億劫だった。ダーウィンの資料はほとんどイギリスから流出していないので、アメリカの博物館主催のダーウィン展では内容に期待が持てない。地下鉄の駅からの長くて退屈なアプローチにもうんざりする。また、毎日、研究室でダーウィンと付き合っていると、展覧会ぐらいは別のものを見に行きたい。
しかし、そうはいっても見ないわけにもいかないので、出かけることにした。
1.レプリカ展示
案の定、展示はパネルとレプリカ、それと映像であった。個人をテーマにした展覧会では、その人に関連した資料の実物の展示が不可欠だし、それを見るのが楽しいのだが、この展覧会ではその喜びは得られない。このダーウィン展は、ダーウィンについてお勉強する展覧会と見るべきなのだろう。その点では、さすがにアメリカ自然史博物館なので、無難にまとめている。
2.『ゾーノミア』か『ズーノミア』か
実物展示も皆無ではなかった。祖父エラズマスのZoonomia の初版が展示してあった。リプリント版とは大違いで、これほど大きな本とは知らなかった。ところで、この本の日本語表記としては、「ゾーノミア」と「ズーノミア」の二つが用いられている。この展覧会では『ズーノミア』としているが、『ゾーノミア』の方が正しいのではないだろうか。わがダーウィン伝では、『ゾーノミア』とすることにしている。
3.進化論展
展示と解説は進化論に集中しており、地質学、動物学、そして植物学上のダーウィンの業績については簡単に触れているだけである。ダーウィン紹介としてはバランスに欠けている。この展覧会は「ダーウィン生誕200年記念」ではなく、「『種の起源』刊行150年記念」というべきだろう。強力な創造論者と闘い続けているアメリカ自然史博物館にとっては、この展覧会も闘いの場である。しかし日本では、「ダーウィンと進化論についてお勉強する展覧会」という位置づけでよいだろう。
4.展示品目録の不在
まともな展覧会なら展示品目録が作成され、図録に収録されているものだが、この展覧会にはそれがない。カタログは図録というよりもダーウィンと進化論についての解説書であり、一部の展示品しか収録されていない。お勉強のための展覧会なので目録の必要もないということなのだろうが、困ったことだ。
5.独自展示
展示の多くはアメリカ自然史博物館提供なのだろうが、明らかに日本独自、あるいは大阪独自の展示と思われるものがある。本来なら、これも明示しておくべきだろう。
たとえば、ビーグル号の模型が展示してあるが、どうもおかしい。アメリカ自然史博物館の製作品ではないようだ。いつ、だれが、何を資料として製作し、現在、だれが所有しているのか。そういう説明がまったくない。
また、食虫植物の鉢がいくつか置いてあるが、これにも説明がなく、ただ置いてあるだけ。大阪独自の展示なのだろうが、せっかく生きた食虫植物を見せるのなら、独自の解説を作成し、ダーウィンが実験生物学者としても優れていたことを示せばよいのに。もったいないことだ。
6.千客万来
会場はかなり混雑していたが、ギャラリー・トークの学芸員は、いつもなら身動きできないほどだといっていた。大阪展は夏休みと重なったので、集客には都合良かったはずである。ところで、日本の子どもたちはこの展覧会で何を学ぶのだろうか。アメリカなら、進化論が正しいことを理解するという明確な目的があるが、日本ではその必要はない。カタログの序文には「ダーウィンの人生を追体験すること」とあるが、世界で最も恵まれていたヴィクトリア朝のジェントルマンの人生を日本の子どもたちが追体験しても仕方ないだろう。「よく分からないけど、ダーウィンは偉い人」という理解で終わってしまうのではなかろうか。それだけでも展覧会の意味はあるだろうが、できれば、子どもたちに向けた日本展としての明確なメッセージがほしかった。たとえばどんなことか。それはいわんでもよかろう。
2008年8月22日(金) 司書講習「専門資料論」
午前中の1時限と2時限が社会人対象の司書講習。ほとんどの受講生はこの夏だけのことだが、教える側は例年のことなので、またこの季節がめぐってきたという思いになる。一昨年まで昭和町キャンパスで実施していたが、昨年度から和泉キャンパスになったので授業はやりやすい。ただ、今年度は受講生が半減したのが残念である。
昨日の今日のことなので、授業の最初に雄記号・雌記号の話をして学術文献の意義を説いておいた。この話はけっこう、受けたようだ。『種の起源』についても、文献記載がないので厳密には学術文献にはならないし、ダーウィン本人もそのことを非常に気にしていたという話をしておいた。
久しぶりに1時限から連続2コマの授業なので、午後は集中力が出ず、このジャーナルを書くくらいである。
明日からはダーウィンの植物学にもどろう。これに関しては、鷲谷いづみ訳『花の異型』が未刊のままになっているのが、実に残念である。1999年に文一総合出版からダーウィン著作集が出始めたとき、びっくりするとともに不安だったが、やはり『人間の進化』と『花の受精』の2点だけで中断してしまった。全集などでは売れるものから始めるのが出版界の常識のはずなのに、なぜ、『種の起源』か『ビーグル号航海記』から始めなかったのだろうか。多分、編集者たちの志(こころざし)が高すぎたのだろう。
2008年8月21日(木) 雄記号・雌記号の由来
昼過ぎに、某民間テレビ局のクイズ番組を制作している下請け会社から電話があった。拙著『博物学の欲望:リンネと時代精神』(講談社現代新書
1992年)に書いた雄記号・雌記号の由来についての質問だった。これは占星術の記号をリンネが生物学に転用したもので、それぞれギリシア文字のテータとファイの変形であって、一般に流布している「戦士の盾・女性の手鏡」は俗説にすぎないと書いておいた。制作者としては、「雌記号は手鏡」を正解としたいので、確認の電話をしてきたのである。ギリシア文字の変形であることは、西洋の研究者の実証的な研究で明らかになっているので、通説を正解にできないと答えておいた。多分、クイズの問題にはならないだろう。
同書を出版したときに、書評や同僚たちから最も話題にされたのはこの件だった。出版後にNHKの「クイズ日本人の質問」の制作会社からも同じ質問があった。この時も番組で出題されなかった。クイズ番組制作者が通説の正否を確認しているのは結構なことだと思う。念のため、基本文献を記載しておこう。
William T. Stearn, "The Origin of the Male and Female Symbols of Biology," Taxon, 11 (1962) pp.109-113.
2008年8月20日(水) 司書講習の準備
昨日からダーウィン伝の執筆を中断して、社会人対象司書講習の準備をしている。当方担当の「専門資料論」の第1回目が明後日にある。教室で提示するパワーポイント教材を、今年もPDFファイル(パスワード付)でこのHP上に公開することにした。昨年は、インターネットを使えない受講生には不公平だという不満も出たが、今年はどうだろうか。連日、ダーウィンの資料ばかり相手にしていので、別の仕事は適度な気分転換になる。
学芸員課程担当の井上准教授がイギリスから帰国し、昼過ぎに隣の研究室に現れた。我が研究室で歓迎のコーヒーパーティーを開く。早速、学芸員課程の学内広報を強化するよう、要望しておいた。
2008年8月12日(火) 大阪薪能
在木(ありき)カイロプラクティックで治療後、中之島の国立国際美術館「モディリアーニ展」へ。行列ができるほどではないが、入館者は多い。隣の大阪市立科学館も親子連れで混雑していた。科学館がこれだけ込んでいるのを見たのは初めてだった。帰途、筑前橋の際でおじいさんが小学生の孫に、「しばんぜくち、だって、変な名前だね」といっていた。当然、この後で、「これわね、昔の書き方で、右から読むのだよ」というと思っていたら、そのまま、行ってしまったよ。やれやれ。年配者でも、もうそのことを知らないのかな。
難波にもどって一休みした後、4時半には生国魂神社へ。薪能の開演は5時だが、早めに行かないと後ろの席になって、ろくに舞台が見えないという。これも知人が購入していた切符が無駄になるというので、ゆずってもらったものである。5時からの「高砂」は、神社の屋根に沈んでいく太陽を団扇でさえぎりながらの鑑賞となった。6時半に火入れがあって、「夕顔」と半能「融」と続くが、「夕顔」が終わったところで帰ることにした。暑さの中で演者は大変だろうが、見る方も体力勝負だ。外人さんも多かったし、年配者もいたが、当方は懲りた。それでも、9月末までにダーウィン伝を脱稿できる見通しとなったので、ちょっとした息抜きにはなった。しかし油断すると遅れる。明日からまた、馬力を掛けねばならない。
2008年8月11日(月) ダーウィン書簡集・第16巻(1868年)
今週一杯、大学の事務が閉鎖されるので学内は閑散としている。9日(土)にアマゾンから届いていたダーウィン書簡集・第16巻を守衛室で受け取ることができた。我がダーウィン伝では『種の起源』第5版(1869)を出版するところだったので、いくつか確認するのにちょうど間に合った。しかし、この後の14年間については最も信頼できる資料なしで書かなければならない。
ダーウィン書簡集はいままで1巻1冊だったが、この第16巻は2分冊となった。第15巻(1867)が出てから3年かかっている。残っているダーウィン関係書簡は年間当たりでますます増えるし、いつになったら完結するだろうか。生きているうちに全部を見てみたいという望みはかないそうもない。
2008年7月31日(木) 採点終了
昼過ぎまで大学院修士課程の合同演習。その後で「科学思想史」の採点を再開し、ようやく採点地獄から抜け出した。明日からしばらく、ダーウィン伝に全力投球といこう。
2008年7月30日(水) 採点作業を中断
我がパソコン内のダーウィン氏に、今月中には『種の起源』を刊行すると約束しているので、採点を午前中で中断し、午後はダーウィン伝の執筆を続行した。本日中に『種の起源』刊行とするつもりだったが、気になることが出てきて、校正終了で終わってしまった。気になったことの一つは、『種の起源』の原稿の清書である。ダーウィンはマレー社に自筆原稿を渡しているはずがないのだが、それがなかなか確認できない。書簡集を調べて、ようやく複数の清書者(copyists)を利用していたことが確認できた。1859年3月に原稿はできていたのに、マレー社に原稿を渡したのは5月。清書に時間がかかっていたのである。我がダーウィン伝ではこんなことにもこだわってみたい。
2008年7月29日(火) 連日の採点地獄
26日(土)から本格的に「科学思想史」の採点に取り組み、ようやく合否判定が終わった。受験者の一人は未登録者だったので、採点対象者は216名、不合格が51名、合格率76%。妥当なところだろう。これから165枚の合格答案をABCに振り分けなければならない。採点地獄はまだまだ続く。
2008年7月25日(金) 1858年7月のダーウィン
例年、試験が終わりしだい採点地獄に突入するのだが、ダーウィン伝の遅れも気になるので、しばし二正面作戦にしよう。採点は明日以降に先送りして、ダーウィン伝に取り組み、ようやく、1858年7月1日のリンネ学会報告にたどり着いた。当日はダーウィンの末子の葬儀で、7月20日にワイト島で『種の起源』の執筆開始。少し詳しいダーウィン伝ならこの2点が書いてあるが、この間、ダーウィンはどこで何をしていたのかが書いてない。ダーウィンの日記と手紙だけでははっきりしないので、伝記作家たちもあいまいにしているのだろう。なぜ、7月20日なのか。なぜ、ワイト島なのか。我がダーウィン伝ではこの件にこだわってみたい。最近公開されたエマの日記も併用すると、かなり事情が見えてくる。
2008年7月24日(木) 「科学思想史」試験
4時限が「科学思想史」の試験。履修登録者239名のうち217名が受験した。受験率が90%を超えている。教材を公開し、試験問題の一部も予告してあるので、授業に出ていないのに試験を受ける者が、かなりいるのだろう。よいことなのか、避けるべきことなのか、どちらだろう。
2008年7月21日(月) 祭日に最終授業
本日は祭日だが、月曜日の授業回数を確保するため、通常の月曜と同様の授業がある。しかも明日からは期末試験期間になるので、本日が春学期の最終授業日である。そのためか学生は普段より多いように思う。「科学思想史」は来年度から別の専任教員(公募中)が担当するので、2時限の授業が本学での最後となった。3時限の4年次生ゼミにはだれも出てこない。まあ、そうだろう。
4時限が一年次生の社会学科基礎演習。昨年までは受講希望者のみで通年の授業だったが、今年度から全学生にクラスを割り振って半期終了となったので、本日が最終授業である。昨年までと比較すると、受講生の半数は学習意欲も低く、欠席も目立った。そのため昨年までは基本的に全員がA(優)評価だったが、今年度はB(良)またはC(可)評価が半数で、D(不可)評価にせざるを得ない者もいた。それでも脱落者は一人だけだったので、全員受講の意義はあったと思う。
2008年7月20日(日) 経政・遊行柳・鉄輪
ダーウィン伝執筆の遅れを取りもどそうと研究室に来たら、本日はパソコンが使えないという。予め情報センターから通知があったのに、日時を間違えて記憶していた。せっかく出てきたので、帰るわけにはいかない。久しぶりにウォレスのテルナテ論文を読み直していたら、電話があって、知人が購入していた大槻能楽堂の切符が無駄になりそうなので、行くかという。これぞ天の恵み。研究室には2時間いただけで、上町の能楽堂へ。能楽協会大阪支部の公演で、喜多流の高林白牛口二「経政」、梅若吉之丞「遊行柳」、それと大槻文蔵「鉄輪」。どれも作品としては第一級とはいえない。それぞれと同じテーマで、清経、西行桜、葵上という名作がある。協会の公演なのでこういう地味な番組が組めたのだろう。遊行柳の笛は野口傳之輔師。最後のヒシギなど、77歳とは思えない力強さだった。最近はダーウィン伝が気になって芝居も展覧会も我慢しているので、堪能したとはいえないが、よき気分転換の一日だった。
2008年7月19日(土) 「専門資料論」終了
2時限「専門資料論」では試験に先立ってレポートを提出させたが、半数近くが指示に従っていない。注意力散漫な受講生には、しつこいほど念を押さないと駄目なようだ。その中で指示通りに書いた者は、それだけで理解力ありと判定してよいだろう。
午後は基礎演習の準備。記念の作品集を人数分、製作するのに時間がかかった。昨年までは受講生に任せていたが、今年度は半期終了なのでその余裕がなく、こちらで作ることにした。これが終わって「専門資料論」の採点をしようと思ったが、ざっと答案を見て、気が滅入ってしまった。来週に持ち越しだ。
2008年7月17日(木) 博物館・館務実習ガイダンス
昼休みに学芸員課程の実習V(館務実習)のガイダンスを実施した。今年度の受講生は10名で、そのうち6名を和泉市久保惣記念美術館に受け入れていただいた。毎年のことだが、全員の実習が無事に終了することを祈っている。ところで、本学で館務実習が始まった1998年度から2003年度までの受講生数は平均で22名だったが、2004年度以降は平均で12名に半減している。原因の一つに、学芸員課程についての学内広報の不足があるのではないだろうか。井上准教授が帰国したら、この面でも活躍してもらおう。
2008年7月16日(水) 水曜日は会議の日
教授会はないが、学内ではさまざまな会議が開催された。当方もまず、1時からの共通教育協議会、続けてカリキュラム検討委員会、これを途中で退席して、図書館会議を主宰した。予算が減少する中でデータ・ベースのさらなる導入を実施するとなると、冊子体の購入を減らさなければならない。とくに各分野で重要度の低い洋雑誌の購入中止を検討するよう、各学部の図書館委員に要請した。
2008年7月13日(日) 日曜日の研究棟
ダーウィン伝の執筆が滞っているので、研究室に出てきた。どのフロアも常連が一人か二人、来ているようだ。週日は授業がなくても事務連絡、学生や洋書店営業マンの来室などで、なかなか執筆に集中できない。本日、ようやく、エーサ・グレイとウォレスについて書き進めることができた。ところで、表記は「グレー」か「グレイ」かで迷っている。新妻昭夫さんは「ウォーレス」としているが、これは「ウォレス」で通すことにしよう。
2008年7月9日(水) 水曜日は会議の日
まず、昼過ぎから当方が主催する学芸員・司書課程運営会議。実習費の改定(値下げ)など、いくつか重要な決定をした。学芸員課程専任の井上准教授が海外研修で不在なので、重要な決定はしたくなかったのだが、待ったなしの状況のため改訂を決断した。続けて出席した大学評議会は議題が多かったが、紛糾することもなく1時間で終了。文学研究科委員会では一つやっかいな問題があったが、継続審議で先送り。社会学部教授会も、もめることはなく、なんと5時前にすべての会議が終了した。春学期最後の会議日なので、みなさん遅くなることを覚悟していたのに、拍子抜けしていた。
研究棟にもどると、他の学部は教授会の最中でフロアにはだれもいなかった。開いている窓から入ったヒヨが、閉まっている窓に繰り返し体当たりしている。開いている窓に導いて外に出してやったが、かわいそうに、大分、消耗しているようだ。彼らが進化してくる過程に透明な隔壁など存在しなかったのだから、なぜ跳ね返されてしまうのか理解できず、全力で突撃するしかなかったのだろう。
2008年7月3日(木) ダーウィンの病気
6月19日に amazon から、James Moore, Darwin's Illness. が刊行されたという案内が届いた。進化思想史のムーアがダーウィンの病気についてまとめたとは意外だったが、とにかくこれは購入しなければならない。本日、それが届いた。なんと、著者は
Ralph Colp ではないか。1977年にコルプが刊行した To be an Invalid: The Illness of Charles Darwin. の改訂版と見ることができる。ムーアが Foreward を書いているので、アマゾンのデータベースに誤って記録されたようだ。それにしても1924年生まれのコルプが新著をものにするとは、恐れ入る。
1977年版でコルプはダーウィンの病気についてシャガス病説を否定し、進化論の社会的反響を気にしたための心身症であると主張した。しかし比較的最近になって、コルプもシャガス病説を認めたという記憶がある。新著でもダーウィンがシャガス病に感染していたことを認めている。ただし、シャガス病に由来する症状は軽微であり、心身症をもたらす要因の一つになったと説いている。結局、旧著と同様、心身症説を唱えていることになる。
新著の本文は全340ページの半分程度で、四分の一はダーウィンが1849年から1855年にかけて記入した「健康日誌」の翻刻であり、四分の一は注と文献一覧である。「健康日誌」の存在は知っていたが、具体的にどういうものか、初めて見ることができた。ムーアの「まえがき」によれば、ダーウィンの病気に関して得られる資料がすべて紹介されている。ダーウィンの病気についての基本文献になることは、間違いないだろう。
ムーアがデスモンドと共に執筆した大部なダーウィン伝も、進化論の社会的反響を気にしたための心身症という立場で書かれている。コルプの新著によってますますこの説が有力視されるだろう。しかし、この説には釈然としないものを感じる。ダーウィンは強靱な精神の持ち主で、社会的反響を気にして心身症になるほど、ヤワではなかったように思う。ダーウィンは体調が許せば研究と執筆に没頭してしまうので、心身ともに疲労し、そのために嘔吐や鼓腸を繰り返したのではないだろうか。しかしこうした医学的議論に深入りすることはできないので、我がダーウィン伝では、さらっと流しておこう。
我がパソコン内のダーウィン氏も、ただいま大著『自然選択』の執筆に疲れて、ムーア・パークに出かけている。うかうかしていると、まもなくウォレスの手紙と論文が到着するぞ。
2008年6月25日(水) 「科学思想史」公募決定
水曜日は会議の日。出席義務のある4つの会議にすべて出席した。最後の社会学部教授会では、当方の後任人事として「科学思想史」担当教員の公募が最終的に決定した。すでに理事会も承認しているので、近日中に公表されるはずである。主担当科目は科学思想史だが、「司書課程学科目『専門資料論』も担当できる者」という付帯条件がついている。科学史の研究者なら学術文献の歴史と現状に詳しいので、「専門資料論」も担当できると教授会で説明しておいた。科学史家のみなさん、大丈夫だよね。
2008年6月21日(土) 豊橋市自然史博物館のガラパゴス・コーナー
午前中に見学研修会のバスで豊橋市美術博物館と豊橋市自然史博物館を見て回った。前日にそれぞれの館の実質的な責任者である副館長から館の現状についての説明があった。自然史博物館は古生代コーナーと中生代コーナーをリニューアルし、来館者も多く、副館長も自信たっぷりであった。たしかに全体としてはよくできた展示だと思う。ところがダーウィンと進化論史を扱った「ガラパゴス物語展示室」はお粗末というほかない。1998年5月に日本科学史学会の年会が愛知大学で開催され、そのときも自然史博物館を訪ねているが、このコーナーはほとんど更新されていないようだ。ダーウィンはライエル『地質学原理』とガラパゴス諸島での観察によって進化論に到達したと理解するしかない展示になっている。進化学説の一覧表では、ラマルク、ダーウィンから始まって時代順にさまざまな学説が列記され、「総合説」のあとに「浅間説」と「今西説」が記されている。この二つが最新の進化学説ということになってしまう。そもそも浅間一男の進化学説など、この館の学芸員でさえ、知らないだろう。この博物館では分野別に古生物学の専門家をそろえ、その分野では最新の学説を紹介するよう努めている。しかし彼らは生物の歴史への関心だけで、科学の歴史には無関心である。責任の持てないコーナーは閉鎖すべきだろう。
豊橋からの帰途、名古屋で途中下車し、愛知県美術館に寄ってきた。栄駅前の「愛知芸術文化センター」という巨大なビルの10階にある。地下からエスカレーターで上がっていったが、10階に着くまで、どのフロアも深閑としていた。平日なら利用されているのだろうか。美術館では特別展「誌上のユートピア 近代日本の絵画と美術雑誌 1889−1915」を開催中だったが、今回も展覧会より美術館そのものを見ることが主目的である。美術館の人気作品、クリムト「人生は戦いなり」はドイツに貸し出し中で見ることができなかった。先週の名古屋ボストン美術館と比較すると、この美術館の来館者への対応はいささか横柄だと思う。無意識だろうが、閉館のおそれのない県立美術館なので、来館者を大事にする姿勢に欠けているのだろう。
2008年6月20日(金) 全国大学博物館学講座協議会全国大会、於・愛知大学豊橋校舎
学芸員課程の責任者として標記の会に参加した。先週の金曜日に続いて名古屋経由の出張となったが、本日は1時開会なので普段と同じ時間に家を出ても余裕があった。総会後に文科省の社会教育課企画官の講演があった。6月に博物館法が改正されたが、これに伴う施行規則の改正は今年度内に通知され、1年ないし2年後に実施の予定という。文科省の「学芸員養成科目に関するワーキング・グループ」からは現行の8科目12単位を、10科目21単位にするという案も出ているが、これは無理なので、2ないし4単位増で納める意向のようである。この程度の負担増なら、大学も受講生も何とかこなせるのではなかろうか。一安心だが、今後の文科省内の議論に注目しなければならない。
大会後にホテルで行われた「情報交換会」という名称の懇親会では、東三河地方に伝わる大草流庖丁式が披露された。庖丁の儀式というものを初めて見たので面白かった。儀式の節目節目で庖丁を構えて見得を切るのだが、歌舞伎役者だったらもっと迫力あるだろうな。庖丁式を見せ場にする芝居があってもよさそうだ。
この席で、2010年度の西日本大会を本学で開催するよう事務局から要請された。当方の退職後のことなので、井上准教授に伝えておきますとだけいっておいた。井上准教授と教務課の覚悟しだいだろう。
2008年6月18日(水) 会議の水曜日
まずは午前中に図書館課長と図書館会議の打ち合わせ。午後の図書館会議では、いくつか注目すべき議題があった。一つは、加除式図書を大幅に削るということ。予算が増大しない中では、なにかを削っていかなければならない。二つには書評賞審査の日程。本学では11月26日の水曜日が振替休校となるので、12月3日発表に間に合わせるため、審査日程はかなりきついものになった。三つには、地下書庫の資料移動。書庫が限界に近づいてきたので、とりあえず書庫内で資料を移動し、当面はしのぐことになった。書庫不足は図書館の宿命であるが、本学でもさらなる書庫の確保が避けられない課題となっている。
夕刻からの共通教育協議会では社会学部の補充人事が承認され、後は理事会決定を待つだけになった。当方の後任人事についても、当方の担当科目を引き継ぐ形での公募にすることが承認された。学内の一連の議論の中でわかったのだが、当方はもともと「生物学」で採用されたという誤解が広がっているようだ。「科学概論」担当として採用されたのであり、「科学概論」が廃止されて「科学思想史」担当となったということを強調しておいた。
一連の会議の中で知ったのだが、今は公募条件に年齢制限を記載することができないという。公募条件に年齢制限がなくても実際の審査では年齢が重視されるという事例が日本中の大学で続出するのではなかろうか。罪作りな規制だと思う。
2008年6月13日(金) 私立大学図書館協会西地区部会総会、於・愛知学院大学日進キャンパス
図書館長として標記の会議に出席することになった。大阪南端から名古屋市外の会場へ開会時間の10時までに行くのは厳しい。朝6時前に家を出て、9時半に会場に着いた。個人的には総会後の林董一・愛知学院大学名誉教授の講演が収穫だった。尾張藩御文庫に由来する蓬左文庫と名古屋の貸本屋・大惣のことを初めて知った。講演内容もさることながら、語り口も見事だった。80分の講演予定が15分削られ、予定が狂ったとぼやきながらも主要点は落とさなかった。話はあちこちに寄り道するのだが、きちんと主題にもどってくる。最後は3分の余裕を残して終わり、おまけとして、トヨタの名の由来を語ってくれた。創業家の豊田は「とよだ」なのだが、シンボル・マークが
TOYOTA を組み合わせたものになったので、社名も「トヨタ」になったそうだ。林・名誉教授はこうしたエピソードを豊富に持っていて、聴衆を飽きさせないのだろう。見習いたい。
愛知学院大学は曹洞宗の大学なので、最後に座禅体験が組まれていたが、これはパス。帰りに名古屋ボストン美術館に寄ってきた。クロード・モネ展開催中だったが、展覧会よりも美術館そのものを見ることが主目的である。しばらく前に、資金難で閉館の声も出ているという記事を読んだ記憶がある。金山駅前という一等地にあり、切れ目なく入館者もあった。美術館としてはまずまずだと思うが、ボストン美術館との提携という特殊な事情があるので、経営がつらいのかもしれない。井上准教授が帰ってきたら、聞いてみよう。
展示品で印象に残ったのは、モネの「トルーヴィルの海岸」と広重の「東海道五拾三次之内
四日市三重川」。並べてあるのを見た瞬間、両方の絵の中央の大木が「そっくりだ」と思った。しかしよく見ると、木の種類も枝の角度も違う。それなのに「そっくり」という印象をもたらすのは、モネが広重の浮世絵を参考にして描いたからなのだろう。
2008年6月4日(水) 会議のない水曜日
本日は水曜日なのに、めずらしく出席義務のある会議がない。なんだか得した気がする。久しぶりにダーウィン伝の執筆に集中した。我がパソコン内のダーウィン氏も、ようやく1854年9月9日に到達し、進化研究を再開した。7月には『種の起源』出版にたどりつけるだろう。
2008年6月3日(火) 12月6日(土)と7日(日)
在木(ありき)カイロプラクティックで治療後、大学へ。本日は12月6日・7日の土日に当方が本学で主催するイヴェント関係のメールと書類作成に集中した。6日は科学史学会西日本研究大会。発表者募集の原稿を作成して、学会事務局に送付。7日は生物学史分科会のダーウィン・シンポジウム。学内手続きを一つ片づけた後、分科会幹事や学術会議にメールを送信。両方とも近日中にこのHPに掲載したい。7日のダーウィン・シンポは今のところ、分科会独自の企画で内容もほぼ固まっている。他の組織との共催にしたいという会員の意見もあるので、開催の形式は若干、変わるかも知れないが、こっそり、アドバルーンを揚げてもよいだろう。
日本科学史学会生物学史分科会主催、ダーウィン・シンポジウム
日時 2008年12月7日(日)午後
場所 桃山学院大学
発題者(テーマはすべて仮)
松永俊男「ダーウィン研究の現状」
矢島道子「ダーウィンの地質学」
野尻亘「ダーウィンとウォレスの生物地理学」
藤岡毅「ロシアにおけるダーウィニズム」
瀬戸口明久「日本におけるダーウィニズム」
司会 鈴木善次
2008年5月21日(水) 学術会議のダーウィン・シンポジウム
水曜日は会議の日。本日は教授会がないかわりに、さまざまな学内組織が会議を開催している。当方も同じ時間帯に開催される複数の会議に招集されているが、まずは図書館会議を主宰し、続けて共通教育協議会に出席した。
会議後、メールをのぞいたら、学術会議からの要請が届いていた。2009年にダーウィン・シンポジウムを開催するので、その準備委員会に参加して欲しいという。ようやく日本でも、ダーウィン年に向けた本格的な動きが出てきたか。準備委員会に協力すべきだとは思うが、定年退職を控えているので、どうなのだろうか。逆に問い合わせることにした。
2008年5月20日(火) 和泉市久保惣記念美術館・鑑蔵名品展の後半
在木(ありき)カイロプラクティックで治療後、大学へ。昼過ぎから明日の図書館会議の打ち合わせ。3時過ぎに大学から徒歩15分の久保惣美術館に出かけた。4月26日にも鑑蔵名品展を見ているが、展示替えがあるので、もう一度やってきた。今回の目玉は重文・宮本武蔵「枯木鳴鵙図」。多分、2点の国宝にもまして、この美術館で最も人気のあるものだろう。展示もひときわ目立っていた。しかし平日なので、広い館内が閑散としている。もったいない。
2008年5月14日(水) 行方不明だった資料を発見
水曜日は会議の日。昼過ぎからの大学評議会は15分ほどで終わった。次の会議までの時間にコピーした資料の山を探索していたら、H. Atkins, Down: The Home of the Darwins. 1976 の全冊コピーが出てきた。雑誌『遺伝』(1989年11月号)の「ダウン・ハウス」執筆時に参照して以来、使うことがなかったので、いつのまにか行方不明になっていた。ほかにも行方不明の文献があるが、一つでも基本文献に再会できてよかった。
文学研究科委員会の後に社会学部教授会。本日の議題の一つが当方の後任人事。当方の担当科目を引き継ぐ形での公募になる可能性が高いが、確定するまでにはまだまだ時間がかかる。とりあえずは、ほっとした。
2008年5月6日(火) 7連休の最終日
4月30日(水)からの7連休のうち5日は大学に来ていた。どの日も研究棟の各フロアには数人の常連が来ていたようだ。研究室に来た5日のうち4日はダーウィン伝の執筆に当てたが、思うように進まない。我がパソコン内のダーウィン氏は大著『自然選択』に着手する寸前で、もたもたしている。これからは授業期間中もできるだけ執筆に時間を当てるようにしよう。
2008年4月30日(水) 京都で河鍋暁斎展と源氏物語展
本日は祭日授業の代替えで休み。この機会を利用して京都に展覧会を見に行ってきた。まずは京都国立博物館の暁斎展。行列を覚悟していたが、待たずに入れた。しかし、いつものことだが、最初の展示室は混雑しているし、「地獄極楽めぐり図」も動かずにのぞき込む人で一杯なので、見るのをあきらめた。ところが最後の展示室は、これもまたいつものように空いているので、「大和美人図屏風」などはゆっくり楽しむことができた。
2005年1月に東京駅のステーションギャラリーで「国芳・暁斎展」を見ているが、このときは「妖怪引幕」を小さいと感じた。同じものなのに今回は、けっこう大きいなと思った。ステーションギャラリーでは大きな展示室がないので引き幕を壁沿いに曲げて展示していた。そのため小さく感じたのかも知れない。展示の仕方で印象が変わることを実感した。
2005年の時のビラでは、明治14年の「枯木寒鴉図」は「榮太楼総本舗蔵」となっているが、今回は所有者が記されていない。榮太楼は老舗の証でもあるこの作品を売ってしまったのだろうか。気になる。
「閻魔・奪衣婆図」の展示解説には、若衆が奪衣婆の白髪を抜いているとあるが、奪衣婆は総白髪なのだから、虱を取っているという解釈の方が正しいように思う。
昼食後に新館の平常展・絵画室へ。特別展の客はあまりこちらには来ないので、ゆっくり見ることができる。3点の国宝の絵巻、「華厳宗祖師絵伝」
、「一遍聖絵」、それと「法然上人絵伝」が出ていた。ごく一部の場面だけだが、それでも得をした気になる。重文の久隅守景「四季耕作図屏風」や狩野山雪「雪汀水禽図屏風」なども出ていた。今年の暮れから新館建て替えのため、しばらく平常展がなくなるという。残念だ。
一休みしてから京都文化博物館の「源氏物語千年紀展」へ。『源氏物語』そのものをテーマとした展覧会とはどんなものかと思っていた。写本などの展示も少しはあったが、実態は屏風を主体にした源氏物語絵画展であった。そうするほかないだろうし、それはそれで楽しい展覧会であった。着物姿の女性がかなり来ていたが、お茶かお花のどこかの教室で生徒に行くようし向けたのだろうか。「千年」とは紫式部の時代からおよそ千年の意味だろうと考えていたら、宮中で藤原公任が「このわたりにわかむらさきやさぶらふ」といったという紫式部日記の記事が1008年のことなので、それから今年はちょうど千年だという。記念の年にするのに、無理しているな。
以前なら、さらに別の展覧会にも行くのだが、体力温存のため早めに帰宅。ラッシュアワーを避けたつもりが、高校生の下校時間にぶつかり、途中駅からは特急に座れない。京阪の準急に座ってのんびり帰ってきた。
2008年4月29日(火) 祭日も授業
今日は祭日だが、本学では授業回数確保のため、平日通りの授業をしている。自分の授業はないが、窓から観察する限り、学生たちはいつも通りに来ているようだ。たまっていた洋書のカタログ類を整理していたら、一日が終わってしまった。
2008年4月28日(月) 授業3週目で一区切り
4月8日(火)に新年度の授業が始まったので本日でちょうど3週目が終わり、受講生も落ち着いてきた。連休明けからは休みなしで11週の授業が続く。
2008年4月26日(土) 和泉市久保惣記念美術館
2時限が司書課程の専門資料論。午後は先週に続けて、学芸員課程・博物館実習U(見学研修)の第2回目として、「和泉市久保惣記念美術館」の見学を引率した。橋詰文之・学芸員の案内で一通り館内を見て回る。現在は鑑蔵名品展の最中で、2点の国宝も展示されていたが、学芸員課程の見学なので展示方法を中心に解説していただいた。本日は快晴なので、外光の影響を防ぐ苦労についても話していただいた。
2008年4月23日(水) 会議が4
朝は狭山駅前の散髪屋へ。70歳の店長が今月で引退するという。桃大に就任以来、毎月、登美丘キャンパスからの帰りに寄っていたので、30年来の付き合いになる。もう会うこともないと思うと、寂しくなる。
昼過ぎから連続して会議が4。最初に自分が主宰する学芸員司書課程運営会議。続いて、関連議題もある大学評議会。さらに文学研究科委員会と社会学部教授会。珍しく5時に終了した。
2008年4月21日(月) 連続4コマはつらい
2時限が科学思想史。午後は、3時限が4年次生の演習、4時限が1年次生の演習、5時限が1人だけだが大学院の演習。これだけ続くとさすがに疲れる。しかも今日は履修登録に悩む院生に付き合ったので、終わったのが7時半。教務課ではまだ数人が仕事中で、今日中には帰りたいといっていた。
2008年4月19日(土) 和泉市いずみの国歴史館
2時限が司書課程の専門資料論。午後は学芸員課程の博物館実習U(見学研修)の第1回目として、「和泉市いずみの国歴史館」の見学を引率した。和泉市教育委員会の白石耕治さんのていねいな解説で館内を見て回った。この博物館は大阪府立弥生文化博物館をモデルとして設計されたとのことだった。それだけに大阪府立弥生文化博物館を閉鎖するという橋下知事の方針に白石さんも怒っていた。府立博物館3館の中では最も集客力のある同館を閉鎖し、へんぴな場所にある近つ飛鳥博物館を残すというのは、900万大阪府民よりも、安藤忠雄大先生ただ一人を大切にしているということだ。
2008年4月18日(金) 観心寺ご開帳
観心寺のご本尊、国宝の如意輪観世音菩薩坐像は毎年、4月17日と18日の2日だけ開帳される。例年、年度初めの忙しさにかまけて、つい、来年でいいやと、行くのを見送っていた。20年以上、河内長野市に住んでいるのに、ご開帳の日に参拝するのは本日で2度目。雨の中でも参拝客は絶えることがなかった。金堂に座ってゆっくりし、雨の中を一通り境内をまわってきた。いつものことだが、帰りは山門前の和風喫茶、阿修羅窟で一休み。
2008年4月16日(水) 図書館会議
昼過ぎから今年度最初の図書館会議を主宰。大学図書館は理事会と教授会の合議で運営されるもので、そのために図書館会議が設けられているのに、教員組合が介入したがるのは困ったことだ。教員自身が教授会の権限を無視していることになるのが分からないのだろうか。本日の会議でも、図書館に対する教員の意見は図書館会議で扱うべきであることを強調しておいた。
4時からは共通教育協議会に出席。学芸員・司書課程運営会議議長として、この会議にはどうしても出席しなければならない。本日も関連の議題があった。
2008年4月14日(月) 月曜、最初の授業
2時限が「科学思想史」の2回目。履修登録が終わったためか、出席者は前回よりかなり増えたようだ。前の方に座っている学生は、公開教材を印刷して持参していた。本気で授業を聞く気の学生が、数人はいるということだ。3時限の4年次生ゼミの出席は一人だけ。就活が欠席理由になっているが、本当はどうなのかな。4時限が1年次生ゼミ。今年度から社会学科基礎演習も受講生は教務課によって振り分けられることになった。本ゼミは18名が割り当てられているが、早くも1名欠席。。通年授業だとまともなレポートが書けるまで指導できるのだが、今年度から半期なので、どこまで訓練できるか不安である。受講生の半分が原稿用紙の使い方を知らなかったので、まずそれから始めよう。
2008年4月13日(日) 『半七捕物帳』読了
3週間前から大学の行き帰りに光文社文庫版で『半七捕物帳』を読んできたが、本日、その『六』の残りを読了。ついでに今井金吾『半七は実在した』も読了。すでに『半七』のいくつかは読んでいたが、全編を通して読んだのは初めてだった。改めて気づいたことも多い。綺堂はホームズをモデルにしたというだけあって、「奥女中」は「ぶな屋敷」の翻案といってもよいものだろう。蛇が登場する話には「まだらの紐」との関係を考えてしまう。ほかにもホームズをもとにしたと思われる作品がある。逆に、「お文の魂」は北村薫「織部の霊」のもとになっているように思える。もしかしたら「円紫」師匠は現代に半七を生かしたものではなかろうか。
『半七』を読んでいて楽しいのは、随所に歌舞伎にからんだせりふや描写が出てくること。自分でも「方々も褒めておやりなされ」くらいは、時に使うこともあるが、綺堂のように頻繁に使うのは日常的に歌舞伎の世界にいないと無理だろう。それでもこのジャーナルである程度は試みてみたい。
光文社文庫には書誌的解説が皆無である。底本は何か、仮名遣いや漢字表記は変えたのか、ほかに変更したところはないのか、といったことについて全く触れていない。作品の初出の記載もない。著名人による感想文よりも、こうした解説の方が重要だろう。
今井金吾『半七は実在した』で著者は、まるで歴史文献を分析するように半七の実家の場所などを考証している。こういう遊びは実に愉快だ。ただ著者も歌舞伎好きなのに、芝居についての言及がないのが不思議だった。
2008年4月12日(土) 司書課程・専門資料論
2時限に専門資料論の最初の授業。例年のことだが、受講生の過半数が司書科目が初めての2年次生なので、いきなり学術雑誌や二次資料といった言葉を聞いて、とまどっている。履修順序を指定できないので、やむを得ないが、好ましいことではない。
2008年4月11日(金) 教材準備
「専門資料論」についてもパワーポイント教材のすべてを手直しして公開するため、その作業に着手したが、風邪気味で頭も身体も動かない。予定の半分ほどしか準備できなかったが、当面の授業には差し支えないだろう。
2008年4月10日(木) 授業開始
4時限の「科学思想史」が今年度最初の授業。出席者は100人足らずで、静かだった。履修登録が済んでいないが、大幅に増えることはないだろう。ホームページに、公開している教材を印刷してくるよう書いておいたが、さすがに本日はゼロ。次回の授業で、どれくらいの受講生が準備してくるか、楽しみである。
2008年4月9日(水) 会議の水曜日
昼過ぎから連続して会議が3つ。今年度最初の大学評議会、大学院研究科委員会、そして教授会。本日はその全てに出席したが、紛糾する議題もなく、5時に終了。
2008年4月8日(火) 教材公開
本日から大学の授業が始まるが、当方の担当科目は10日の木曜4限「科学思想史」から。この授業で提示するパワーポイント教材を見直し、その一部をpdfファイルに変換して公開する作業に、昨日から取りかかり、終了した。授業開始前に28回の授業の教材を予め公開することを一度やってみたかったが、ようやく実現した。著作権の問題があるので、全ての教材を公開するわけにいかないが、どんな授業か、おおよその見当はつくだろう。
2008年4月2日(水) 入学式
今年は桜のもとでの入学式になった。図書館長としての登壇は免除してもらったので、家の用事を片づけて午後から登校。昨日まではダーウィン伝の執筆に集中していたが、今日から授業モードに切り換えなければならない。我がパソコンの中のダーウィン氏は、顕微鏡でフジツボの標本をのぞく毎日を送っているが、しばらくこの状態を続けてもらうしかない。
2008年3月28日(金) 半七捕物帳
「なんだかむやみに妬ましいような、腹が立つような苛々した心持ちになって来て、唯なんとなしに江戸の人間が憎らしくなって、誰でもかまわないから殺してやりたいような気になったんだそうです。‥‥無闇に往来の人間を突いてあるいたんです」。「槍突き」に出てくる半七のせりふである。帰途、電車の中で読んでいて、最近気になる事件と重なるので書きとめておいた。いうまでもなくフィクションだが、ある程度は江戸時代の事件を踏まえているのではないだろうか。「今の世の中でしたら、いろいろの学者たちがよく説明してくれたんでしょう」ともある。
2008年3月25日(火) 北野田で「北大路魯山人と岡本太郎」展
日野歯科医院で半年ごとの歯の手入れ。またしても道に迷ったが、半年前ほどではなく、予約時間に間に合った。これが終わってから駅に隣接する「北野田フェスティバル」で開催されている標記の展覧会に。魯山人と岡本家が親密な関係にあったとは、知らなかった。二人ともすごい作家だとは思うが、当方の好みではない。噴出するエネルギーは敬して遠ざけたくなる。「芸術に安らぎを求めてはならない」といわれても、困る。
2008年3月19日(水) 図書館会議。高島屋「NHK美の壺」展
朝は近大病院眼科に寄る。目薬をもらうだけで2時間かかる。午後は今年度最後の図書館会議を主宰。紛糾する問題もなく、1時間で終わらせる。その事後処理は先送りして、なんば高島屋の「NHK美の壺」展へ。テレビ番組はほとんど見ていないが、どんな展覧会か興味があった。10のテーマを取り上げているが、当方が期待していたのは最初に展示されている古伊万里。ところが入り口で、番組イントロの谷啓のせりふを、かなりの音量で繰り返し流している。いらいらして、古伊万里鑑賞どころではない。パチンコ屋じゃあるまいし、NHKの担当者は何を考えているのだ。
帰りに狭山駅で途中下車し、散髪屋へ。70歳の店長は来月一杯でやめるという。頑張ってくれていると、こちらも励みになるのだが、残念。
今日は病院、会議、展覧会、散髪と、一日フルに動いたが、その割に充実感がない。自分で何かを成し遂げたわけではなく、展覧会も細切れで、展示の内容よりも音に不快感を持ったことが印象に残ったためだろう。
2008年3月17日(月) 卒業式
10時から卒業式があるので、久しぶりにキャンパスがにぎやかになった。入学式・卒業式では図書館長も登壇することになっているが、長時間、壇上にいるのが体力的につらいので、免除してもらっている。12時からのパーティーには顔を出したが、騒音がかなわないので、ここも短時間で引き上げてきた。
研究室でダーウィン伝の執筆を続行。我がパソコン内のダーウィン氏は、本日ようやくダウンに転居した。春休み前の予定では3月始めに転居するはずだったが、どうしても遅れる。授業が始まる前までに『種の起源』の執筆にたどりつきたいものだが、どうなることか。
2008年3月8日(土) 江上生子『オパーリン』清水書院
標記の本が献本で届いた。清水書院の「人と思想」シリーズの最新刊である。著者が長年、追ってきたテーマをまとめたもので、今後、オパーリン伝としては、これ以上のものは出ないだろう。
一時期、オパーリンは日本で最もよく知られた生物学者だった。本書の冒頭に、1955年オパーリン来日時の「超満員の講演会」について書かれているが、高校2年生だった当方も講演会に詰めかけた聴衆の一人だった。本人のロシア語と通訳の日本語が交代する間に、全文をノートに取った覚えがある。同級生と一緒に行ったが、二人とも講演に感動した。このときの相棒は、後に東大農学部に進んだ。当方も生物学科に進み、実験科学をあきらめた後も生物学にかかわり続けているが、オパーリンの影響があるのかも知れない。
今になってみると、学説史のうえでオパーリンはそれほど高く評価できないように思う。生命の起源の科学的研究を推進したことがオパーリンの貢献とされることが多いが、オパーリンに具体的な研究成果があったわけではない。彼がこだわり続けたコアセルベートは、物理化学的に非常に不安定で、生命の起源に関係したとは考えられないようだ。それでもオパーリンはソ連の科学の中で重要な位置を占めてきたし、日本への影響も大きかった。科学と社会との関係を考える上では重要な人物といえるだろう。
著者は「あとがき」で、「初来日の熱気を子どもながらに感じた者として、それを次世代に伝えたいという思いがあった」と述べている。著者らは日本におけるオパーリン熱を直接、知っている最後の世代であろう。江上不二夫氏や石本真氏らと親交があり、モスクワにも繰り返し調査に行った著者でなければ、この伝記は書けない。本書はオパーリンの伝記としてだけでなく、ロシア科学史、および戦後日本の生物学史の資料として、長く活用されることになるだろう。
2008年3月7日(金) 迷惑メールの発信人になっている
1日に100本ほどの迷惑メールが届くが、最近はその中に、自分の名前、あるいはアドレスが発信人になっているものが混じるようになった。もちろん、そんなメールを発信していないが、メール相手の誰かのパソコンがウイルスにやられていると、こういうことが起こるそうだ。専門家に相談したが、本人としては対策の取りようがないという。不愉快だが、どうしようもない。
2008年3月6日(木) 会議が5
出席義務のある会議が昼過ぎから連続して5。本日は頑張って、そのうちの4つに出席した。最後の社会学部教授会が終わったのが6時。すでに「教職員定年退職者記念パーティー」が開始されていたが、ただ今当方は藤沢周平の「たそがれ清兵衛」状態なので、これには欠席。来年は送られる立場になるので、出席しないわけにはいかないだろう。
2008年3月5日(水) 土屋博教授講演会
4時からキリスト教センター主催の研究会に参加した。講師の土屋博・北海学園大学教授(宗教学)は、日比谷高校の同期生である。しかし、クラスが一緒になったことはなく、大学も北大と東大で別だったため、お互いにほとんど記憶がない。それでも恩師たちのうわさ話などで、ちょっぴり高校時代を思い出した。講演のテーマは「近くて遠いイエス:宗教学者から見たイエス像」。趣旨は、いかに学問的に厳密であっても客観的なイエス像にはならず、相対的なイエス像しかありえないが、さまざまなイエス像が提示されることにより、イエスについての理解が豊かになる、というものだった。これはダーウィンを含めたあらゆる人物論にいえることだと思うが、キリスト教の内部でこのように主張するのは、特別の意味を持つようであった。
2008年3月2日(日) 大槻能楽堂「笛の会」
森田流能笛・野口傳之輔師の教室の発表会があるので、昼から大槻能楽堂へ。カミさんは能楽「清経」を出した。シテは大槻文蔵師。一世一代の舞台のはずだったが、あいにく1週間前から風邪をこじらせて体調を崩し、直前の稽古もほとんどできなかった。それでも、清経の霊を呼び出す「恋の音取り」は、きれいに鳴っていた。しかし最後のヒシギは鳴らなかった。毎日吹いていないとこうなってしまうという。残念な結果になったが、肝心の「音取り」が好評だったので、よしとしよう。
2008年2月22日(金) 書評:『科学革命とキリスト教』3巻(すぐ書房、2003年)
昨日『生物学史研究』第79号が届いた。ちょうど1年前の2007年2月21日に投稿した標記の書評が、ようやく掲載された。これを執筆している当時は、オリジナルな研究ではないのに時間ばかり食うのでいらいらしたが、読み直して見て、無駄な努力ではなかったと思う。早くも訳者の1人、鈴木善次さんから感想が届いたのにはびっくりした。
2008年2月21日(木) 会議が5
12時から連続して、出席義務のある会議が5つ。最初の小人数の「学芸員・司書課程運営会議」は自分が主宰しているので、体調が悪くても休むわけにいかない。今年度最後の運営会議では、いくつか重要な決定をした。この後の2つの会議は欠席したが、文学研究科委員会と社会学部教授会には出席。この後の研修教授会と退職教員を囲む懇親会は、勘弁してもらった。いつもなら運営会議の議事録は当日中に作成するのだが、さすがに本日は無理だ。
2008年2月20日(水) ドクター・ストップ
体調が悪いので、念のため通勤途中で福岡医院に寄ったら、重症の気管支炎と診断され、ドクター・ストップがかかった。家にもどって終日、ぼんやりすごす。
2008年2月19日(火) 順調なダーウィン伝執筆
風邪気味のため予約していた在木(ありき)カイロプラクティックの治療はキャンセルして、研究室へ。授業のないこの時期、会議以外はダーウィン伝の執筆に集中しているので、かなりはかどり、1844年エセーまで進んで初期進化論は一応、完。明日からは時計を巻きもどして、エマとの結婚にもっていかなければならない。
2008年2月15日(金) 入試判定教授会
9日・10日に実施された前期B日程入試の判定のため、3時から教授会が開催された。ほかの議題が少なかったので、珍しく4時に終了。雑件をかたづけて、HPのジャーナルを書いている。
2008年2月14日(木) 数千点の中国年画
文学部の原山煌教授(アジア文化論)が収集した大量の中国年画を図書館・館長室であずかっているが、これを久保惣美術館に持ち込み、河田館長に見てもらった。原山教授は図書館への寄贈を希望されているが、図書館で受け入れた場合、どう保管すればよいのか不安なので受け入れは保留にしてある。河田館長から専門的な助言をいただき、あまり神経質にならなくても大丈夫だという見通しが得られた。図書館で保管し、何らかの形で学内・学外で展示したいと考えている。
2008年2月13日(水) 大学院合同演習・アイルランド移民歌
大学院文学研究科の合同演習で英語圏文化学コース修士課程1年次生の発表を聞く。テーマはアイルランドからアメリカに移住した人々の移民歌である。こういう機会がなければ、まず、勉強することのないテーマだが、けっこう、面白かった。アイルランド移民歌がカントリー・ウエスタンの源流であったとは意外だった。
2008年2月11日(月) 「定年退職後の職場を探しています」
来年3月の定年退職後も研究が継続できる職場がないか、思い切ってHPに掲載してみた。掲載するかどうか、迷った末の決断である。70歳からの再就職など、極めて困難であることは承知しているが、可能性ゼロでもないだろう。
2008年2月6日(水) 5時過ぎから会議が3つ
期末試験の期間中だが、一般入試の判定があるので、どうしても教授会を開催しなければならない。紛糾する議題もなく、7時に終了。
2008年2月5日(火) 基礎演習・研究報告集の作製
朝、在木(ありき)カイロプラクティックで治療。午後は、社会学科基礎演習の受講生がやってきて、『研究報告集』を作製した。一年次生対象の基礎演習て゜は春学期に、原稿用紙の使い方、小論文の書き方など、まさに基礎的なことを教えているが、秋学期には、学生が自分で研究テーマを選び、きちんとした書式のレポートを書くことを練習した。これを順次、授業で発表し、レポートの書き直しを繰り返した。本日は、最終的に提出されたものをコピーして、冊子にする作業を行った。もちろん、形式面でも内容面でもまだまだ未熟ではあるが、研究報告といったものを書いたことのなかった学生たちが、自主的にテーマに取り組み、まともなレポートの形にしたことは評価できるだろう。
一年次生ゼミで論集を作るのは、昨年度に続けて2度目である。来年度から社会学科基礎演習は春学期14回だけの授業となるため、研究レポートに取り組むことはできなくなる。こうした冊子を作るのも、これが最後になった。
2008年2月4日(月) 学芸員課程・司書課程の準備
両課程について、残っている作業を整理し、21日の運営会議に向けての準備を事務方に依頼した。これで一日が終わってしまったが、とりあえずは授業関係の作業に一区切りつけることができた。
2008年2月3日(日) 生瀬教授お通夜
昼過ぎまで断続的に雪が降っていたので、交通機関がどうなるか心配だったが、バスも通常通りであった。生瀬教授のお通夜が行われた「いずみ霊園」は信太山演習地のど真ん中にある。タクシーで人家を抜け、真っ暗な林の中を走って行くと、別世界に来た感じになる。お通夜の席で普段着だったのは、自分だけ。みなさん、きちんとした喪服であった。多分、生瀬さんは、「松永のことだ、仕方ない」と、笑って許してくれるだろう。ご冥福を祈る。
元の同僚、有山輝雄・東京経済大学教授(コミュニケーション論)がわざわざ東京から駆けつけてくれた。30年前の有山さんのイメージしかないので、その変貌にちょっとびっくり。多分、お互いさまだろう。
2008年2月2日(土) 生瀬克己教授・訃報
研究室に出てきて、来年度のインテグレーション科目「資料特論」と「博物館実習」の日程案作成。さらに司書・学芸員の両課程について作業を続けるつもりだったが、東京出張の疲れが出て体も頭も動かないので、あきらめた。
昼過ぎに人事課からの一斉メールで、昨日、生瀬克己教授が逝去されたとの通知があった。昨年後半から体調を崩されていたが、ついにその日が来てしまった。お元気なころは、「松永よりは長生きするからな」などと憎まれ口を叩いていたのに。体力的に不利であるにもかかわらず、次々と研究書を発表され、まだまだ取り組みたいテーマがあったようだ。著書をいただいて、「書棚に生瀬コーナーが出来ちゃうよ」などといったこともあったな。
2008年1月31日(木) 東京国立博物館・陽明文庫展
朝、開館前の東博へ。特別展「宮廷のみやび−近衛家1000年の名宝」。要するに、陽明文庫展である。開館前から並んでいたのは、100人くらいか。東博の特別展にしては、少ない。展示の中心は書跡なので、一般受けしないのだろう。道長の自筆を目の前にするだけでも、見る価値はあると思う。明治期に宮内庁に寄贈されたものも展示されていた。相国寺の場合と同様、その対価として補助金を獲得し、文庫を維持してきたのだろう。平常展の近代絵画では、梶田半古「春宵怨」が出ていたが、図録類で見てイメージしていたより、はるかに大きかった。
午後、複数の知人とあって、夜遅くに帰阪。
2008年1月30日(水) 東京へ
朝、新大阪を発ち、昼過ぎに学会関係の打ち合わせで新宿へ。これが済んで、朝日新聞出版本部の山田豊さんと『ダーウィン伝』の打ち合わせ。山田さんは定年退職後の今も、子会社からの出向の形で編集の仕事を続けておられる。しかし労働条件はがらりと変わったとのことだった。読み応えのある伝記になっているので、この調子で続けて欲しいとのことであった。この評価に励まされて、9月脱稿を厳守しよう。
泊まりはいつもの、私学共済・東京ガーデンパレス。
2008年1月29日(火) 肝機能改善
帰宅時に2週間前に受診した健康診断の結果を聞きに福岡医院に寄った。なかなか小さくならなかったγGTPがようやく2桁になった。禁酒を厳守してきたおかげか。少しは解禁しようかな。
2008年1月28日(月) 今年度の最終授業日
本日が今年度の最後の授業日。3時限の4年次生ゼミでは、卒論を書いたゼミ生5人が全員、論文を持参した。秋学期に全員がそろったのは、初めてだろう。5人とも就職が決まっているが、内定が出た後でも就職先の研修などで、だれかが欠席していた(単にサボっていただけの学生もいるが)。卒論集の印刷、製本を生協に発注して、「専門演習4」は完了。
4時限の演習3を早めに終わり、『学芸員課程年報』の印刷データを教務課を経由して印刷所に送信。こちらも、ひとまず終了。
2008年1月27日(日) 学芸員課程年報の編集を終了
先週は授業のあった21日(月)と会議の23日(水)以外は、年報の編集に取り組んできたが、なかなか終わらない。本日は日曜日だが、研究室に出てきて片づけることにした。さすがに同じフロアには誰もいないが、他のフロアに常連が来ているようだ。
2008年1月26日(土) 学芸員課程年報の編集を続行
2時限の「資料特論」は本日が最後。例年のことだが、受講生に授業の感想を聞くと、さまざまな専門家の話を聞けて面白かったという回答が多い。ただ、出席を重視するので続かない学生も多いようだ。
午後は、年報の編集を続行。学生のレポートはそのまま載せたいのだが、テニヲハの間違いや漢字の誤変換はをほっておけない。「土器の洗浄」が「土器の戦場」になっていたりする。入力したレポートを読んで、日本語として通じる文章に直すのに時間がかかっている。
2008年1月19日(土) 学芸員課程年報の編集を開始
本日は大学入試・共通テストのため、授業はない。年が明けてから空いた時間はダーウィン伝の執筆に当ててきたが、本日からは先延ばしにしていた『博物館学芸員課程年報』第11号の編集に集中しよう。学芸員課程専任の井上准教授が海外研修なので、5年ぶりに当方が編集を担当することになった。
2008年1月18日(金) ロンドンのダーウィン
我がパソコン内のダーウィン氏は、ただ今ロンドンで独身生活を謳歌する一方、ひそかに進化論の研究を開始した。ダーウィン伝の原稿も、どうやら伝記としての形が見えてきた。
2008年1月15日(火) 健康診断
朝早くに福岡医院で河内長野市の健康診断を受ける。大学の健診は行列になるので、こちらで受けている。今朝は冷え込んでいたので、珍しく血圧が高かった。
2008年1月14日(月) 連休も研究室
朝、光明池駅のホームに振り袖姿を見て、今日は「成人の日」であることに気づいた。昨日も本日も研究室でダーウィン伝の執筆を続ける。昨日は研究棟にほとんど人がいなかったが、本日は各フロアとも、常連が来ているようだ。
2008年1月9日(水) 会議の日
3時限は一年次生の基礎演習。昼に図書館で書評賞受賞者の表彰式。その直後から連続して会議が4つあるのだが、全部に出るのは体力的にも無理なので、大学院研究科委員会と教授会に出席した。終わったのは7時。今晩は事情があって大学の宿舎に泊まるので、このHPのあちこちを、まとめて更新しておこう。
2008年1月8日(火)夜 文楽「国性爺合戦」
四つ橋線・肥後橋から大国町で御堂筋線に、さらに動物園前で堺筋線に乗り換えて日本橋の文楽劇場へ。久しぶりの「国性爺合戦」を床直下の席で楽しんできた。近松の名作の一つなのに、入りは半分程度。自分も前に見てからかなり時間がたっているので、細部をほとんど忘れている。「ニッポン」「ニッポン」と日本賛美が鼻につくが、これが大衆受けした要素でもあろう。中国を蔑視するせりふも多かったように記憶しているが、今日の舞台では気になるせりふはあまりなかった。記憶違いか、書き直されているのか。「楼門」の咲大夫が熱演。「獅子が城」の伊達大夫が病気で、代役は英大夫。後ろの席の男性(多分、年上)と、帰り際に話をした。彼によると、昔の若大夫のように腹で語っている大夫は、いまや伊達大夫だけだという。「若大夫とは、なつかしい名前を聞いたな」といったら、「知ってるのか」ということで、しばし若大夫についての蘊蓄を聞いた。文楽については、自分なんかより年季が入っているようだ。こういう「通」の話を聞くのは、実に楽しい。
2008年1月8日(火)昼 国立国際美術館・30周年記念展
朝、在木(ありき)カイロプラクティックで治療後、難波から四つ橋線・肥後橋へ。国立国際美術館の特別展「30年分のコレクション」。この美術館の絵画で最も有名なのはピカソの「道化役者と子供」であろう。今回の特別展でも最初にこの絵が展示されている。しかし、この美術館のコレクションの大半は20世紀後半の現代美術で、ほとんどの作品が当方の理解を超えている。それでもこの際なので、400点の展示を一通り見て歩いたが、疲れた。さて、ここからどうやって文楽劇場へ行こうか。
2008年1月7日(月) 授業再開
本日から授業再開、といっても、当方の秋学期月曜は、4年次生ゼミ5人と、3年次生ゼミ4人だけ。今年度の卒論は、1月末までに出そろう見通しとなり、ほっとしている。
2008年1月4日(金) 新年最初の研究室
今日は研究棟各フロアとも常連たちが来ているようだ。まず、このジャーナルをまとめ書き。ついで、ダーウィン伝の執筆再開に取りかかる。今年はとにかく、『ダーウィン伝』をできるだけ早く書き終えなくてはならない。
2008年1月3日(木) 大槻能楽堂・新春能
最初は梅若六郎の「翁」。茂山逸平の三番叟が元気よく舞った。「二人袴」も、後見・千之丞、親・あきら、聟・童司と茂山千之丞家3代に、舅・茂山千作が加わる。座っている千作を見ているだけでも楽しくなる。芸の力なのか人間味なのか。最後の能「泰山木」は、先に金剛流で「泰山府君」として復活した世阿弥の能を、近年、観世流でも復活したもの。ここで「泰山木」はサクラのこと。明治以降、「タイサンボク」は北米原産の高木マグノリア・グランディフロラの和名として用いられているので、まぎらわしい。シテ(片山九郎右衛門)の泰山府君はあまり活躍せず、実質的にはツレ(片山清司)が主役。後ツレの天女の舞と咲き続けるサクラが祝い事にふさわしいので、復活能の割には金剛でも観世でも、よく上演されるようだ。今朝のNHK教育テレビでも金剛流「泰山府君」を放映していた。帰宅後調べたら、この作には世阿弥の庇護者・将軍義持の病気回復を祝う意図があったという説があるのを知った。その真偽は分からないが、咲き続けるサクラは何かを象徴しているのだろう。
会場で同じ職場の人に会ったのには、びっくりした。満席で、補助席まで出ていたが、それでも自主公演なので赤字らしい。古典芸能を維持するのは大変なようだ。
2008年1月2日(水) 京都
例年のように2日は京都、嵯峨野の二尊院へ。何度も訪れているのに、画家・富田渓仙の墓があることに初めて気づいた。帰宅後調べたら、墓碑は横山大観が書いており、富田家と横山家の親密な関係がうかがえる資料のようだ。タクシーで京都を西から東へ横断する途中、西本願寺の一角と思っていたところは、浄土真宗でも別の宗派、興正寺の境内だと運転手に教わった。帰宅後確認したが、真宗の歴史もかなりややこしい。京都駅から新快速に乗る前に、伊勢丹の美術館「えき」の「鏑木清方展」をのぞいたが期待はずれ。「朝涼」は出ていたが、「築地明石町」は下絵のみ。ほかも挿絵と下絵ばかり。「鏑木清方記念美術館」(鎌倉)の所蔵品だけの展覧会なので、有名な作品はほとんど出ていなかったのだ。だまされたような気分だった。高島屋や大丸だったら、こんな展覧会はやらないだろう。
2008年1月1日(火) 年賀状
寒さでふるえる元日となった。一時はアラレが屋根を激しく叩いていたが、間もなくやんだ。例年のことだが仕事始めは年賀状書き。年々、手抜きをするようになって暮れに出すことをサボり、ほとんどは本日から返礼の形で書くことになる。これが済んで地元の加賀田神社へ初詣。普段は訪れる人もいない小さな神社も、今日だけはにぎわっている。