2007年12月29日(土) 年内最後の研究室
24日(月)からダーウィン伝の執筆を再開したが、頭の切り替えがうまくいかず、27日(木)になってようやく気合いが入ってきた。今年の元日の抱負を見たら9月脱稿の予定をしていたようだが、とんでもない。多分、まだ半分も書いていないだろう。一次資料による確認を原則としているので、思ったより執筆に時間がかかっている。また、大学の業務が予想より多く、時間を食われたことも響いた。拙速は避けたいが、来年は執筆を早めるよう努力したい。調子が出てきたところで休みたくはないが、明日から三が日は年中行事に付き合うとしよう。
24日以降も、同じフロアだけでも四五人の同僚が来ていたが、今日は隣室の野尻教授だけ。彼も早めに帰ったし、第九のCDを大音量で鳴らして、今年の終わりにしよう。
2007年12月22日(土) 年内最後の授業
朝はまず、文科省書類関連の業務を一つ片づけて、2時限が司書課程「資料特論」。本日は藤間准教授による電子書籍の話。午後は文科省提出書類の修正作業を続行。マイナーな業績は削除して、一応のけりをつける。来週はダーウィン伝の執筆に集中したいものだ。
2007年12月21日(金) 書類作成の日々
昨日も、本日も、終日、パソコンに向かって文書作り。まずは図書館関係の案件に一応のけりをつける。つぎが、文科省提出書類の修正作業。教員の業績一覧についても、本人に修正依頼している余裕がなく、当方が書き直すことになったものも複数ある。著作の実物が手元になく、確認に手間がかかる。ある程度、これを片づけてから、来年度授業のシラバス入力。明日の午前中が締め切りなので、どうしても今日中に入力しなければならない。夕刻までには入力終了。文科省提出書類の修正はまだ残っている。いささか、うんざりしてきたが、担当の事務方も頑張っているし、手を抜くわけにはいかない。
2007年12月19日(水) 2つの会議を主宰
午後はまず、図書館会議を主宰。対処に苦慮する問題がいくつかあって、今回も1時間ほど費やした。引き続いて学芸員・司書課程運営会議を主宰。文科省提出書類を点検したが、前回、見逃したミスが次々と見つかった。執筆者本人に差しもどすほか、かなりの部分は当方が修正作業を引き受けることになった。点検が終了したのは6時半。神経を張りつめての文書点検は、論文の校正とは異なる疲労感をもたらす。
2007年12月13日(木) 大阪市立美術館・特別展「屏風」、京都国立博物館・特集陳列「館蔵品ののはじまり」
電話予約した文楽1月公演の切符を引き取るため大阪市内に出るが、まずは天王寺の美術館へ。予備知識もなく、さしたる期待もなくのぞいたが、すごい展覧会だった。もともとはサントリー美術館の開館記念展だったので、充実しているのも当然なのだろう。貴族の出産の折りに使われた白屏風を見るのは初めてだった。ほかにも興味を引いた展示品がいくつもあったが、中でも注目すべきは、1856年に幕府がオランダ政府に送った「贈蘭屏風十双」が里帰りしていたことである。「伺下絵」も展示されており、奥絵師・狩野家の仕事が国策に直結していたことがわかる。「弘化二年付オランダ政府宛老中返書」には、まさに歴史の1ページを見る思いがした。
天王寺の駅ビル地下で昼食後、文楽劇場へ。私学共済の割引を利用するためには、直接、劇場まで行かなければならない。手間と交通費を考えたらコンビニ扱い通常料金の方がましなのだが、どうしても大阪市内に出なければならない状況を作り、ミュージアム探訪をする機会にしている。1月の文楽は久しぶりの「国性爺合戦」。楽しみだ。
日本橋から北浜に出て、京阪七条、京都国立博物館へ。目的は、特集陳列「館蔵品のはじまり−京都博物館からの贈りもの−」。明治24年、計画倒れに終わった京都府の京都博物館の旧蔵品が京都府から帝国京都博物館に贈られた。そのうちの文書類を展示している。ほとんどが写しの文書類には興味が持てなかったが、京都博物館の設計図には注目すべき記載があった。建設予定地の測量図には、オランダ語で「自然史博物館」と記され、建物の設計図の正面上方にはラテン語で「自然史博物館」と記されている。解説によると、その下部にシーボルト、小野蘭山などの名が記されているという。全部で10人くらいの名が記されているようだが、残念ながら小さくて読めない。望遠鏡を持参するべきだった。京都博物館はもともと自然史博物館として考えられていたことを示している。自然史関係の旧蔵品はどうなったのだろう。東京国立博物館の源流も田中芳男の構想した自然史博物館であった。幻の京都博物館についても、いずれ詳しいことを調べてみたい。
近世絵画の常設展の部屋には入ったら、片隅から達磨さんが横目でにらんでいる。曾我蕭白「達磨図」であった。現在、この部屋では集中的に曾我蕭白作品を展示している。真浄寺障壁画が壁面を埋め、「太公望図」や重文「寒山拾得図」も出ている。お客を呼ぶ上では 特集陳列「館蔵品のはじまり」よりも、曾我蕭白を宣伝する方が効果的だろう。1月は伊藤若冲。もっと大きく宣伝してもよいのではなかろうか。
2007年12月12日(水) 会議が5
午後、招集された会議が5つあったが、出張の疲れが出て体調不良のため、最後の大学院研究科委員会と学部教授会だけに出席した。終わったのは8時半。
2007年12月10日(月)昼 国立新美術館とサントリー美術館
池袋で財布を引き取った後、原宿に出て、地下鉄・乃木坂駅から国立新美術館へ。フェルメール展を開催しているが、さしたる興味もないので混雑する会場を急ぎ足でざっとまわっただけ。今回の目的は新しい美術館の設備を見ておくことなので、地下から3階まで一通り見て歩いた。収蔵品皆無、貸ホールだけの国立美術館。こんなナショナル・ギャラリーが他国にあるだろうか。なんのために国費で作ったのだろう。九州国立博物館と同様、文化に名を借りた土建屋政治の産物と見てよいのではないだろうか。
国立新美術館から歩いてサントリー美術館へ。こちらは「鳥獣戯画」展。全巻が展示されているが人混みで見るのは難しい。この絵巻の成り立ちはかなり複雑であることと、鳥羽僧正作ではないことを確認して退散。両美術館とも、月曜日開館なのはありがたい。学会などで東京に来て月曜に帰る場合、せっかく時間に余裕があっても博物館・美術館がみな休館で残念な思いをすることが多かった。
帰りの新幹線で、横山秀夫『クライマーズ・ハイ』を読み切った。品川駅の書店に平積みしてあったのを乗車間際に購入し、あまり期待もせずに読み始めたら、夢中になった。地元の大事故に振り回される地方新聞の社会部記者。サスペンスではないのに、一気に読ませる。最後は読者がほっとする話で終わる。プロの作家の作品とはこういうものなのだろう。
2007年12月10日(月)朝 紛失した財布が出てきた
昨夜、池袋の駅ビルで食事をしようとしたら、財布を紛失した。カードも新幹線の切符も全部入っている。残ったわずかな小銭でおにぎりを買ったが、ショックでほとんど食べられない。ホテル代は生協クーポンで済んでいる。大阪に帰る費用は、さる人物の好意で用立ててもらえることになった。とにかく寝ることにしたが、なかなか寝付かれない。
朝食後、駅ビルの防災センターから、財布が届けられているとの連絡があった。現金もカードも全部無事であった。奇跡ですね。世の中、こんなこともあるのだ。
それにしても、我ながら情けない。全てを同じ財布に入れておくのは危険と承知しているのに、面倒なので分散することをしない。おや、落としたかな、と思ってもぼんやり見回すだけ。年取って注意散漫になっている。こんなことでは大事を引き起こしかねない。用心深くなろう。
2007年12月9日(日)午後 生物学史分科会総会
印刷博物館を後にして、飯田橋から新宿の工学院大学へ。1時からの生物学史分科会総会で会長としての挨拶をした。来年度の総会では新しい会長を選任すべきことと、来年の総会とシンポジウムは12月7日(日)に桃山学院大学で開催、シンポジウムのテーマはダーウィンで、パネラーには当方のほかに矢島道子さん、藤岡毅さん、瀬戸口
明久さんを予定していると報告、ついでに印刷博物館の批判をぶち上げておいた。総会では、会費未納者の扱い、学会賞推薦、国際ワークショップ共催の件など、けっこう議題があって予定の2時を超えてしまった。
2時を過ぎてから開始したシンポジウム「未確認動物」は、生物学史分科会のシンポというより、共催の「科学言語研究プロジェクト」による民俗学のシンポの色彩が強かった。会場に詰めかけた聴衆もほとんど民俗学的な関心から来ているようだ。ツチノコ伝承についての詳細な研究に会場は盛り上がっていたが、科学史研究と交差するところはほとんどなく、当方にとっては退屈な話だった。総会には出席していた鈴木善次さんも、矢島道子さんも、いつのまにか消えてしまった。当方も懇親会を勘弁してもらった。
かねてから、民俗学、とくに日本で人気のある柳田流の民俗学は思いつきの垂れ流しで、学問の範疇には入らないと考えているが、そうした民俗学の方が科学史よりも人を集める。歴史家は一般に受けようと受けまいと、実証的研究を積み重ねるほかないが、日本では科学史研究が専門分野として確立していないので、専門家集団だけを相手にしているわけにはいかないのがつらい。
2007年12月9日(日)午前 お粗末・印刷博物館・特別展「百学連環」
ホテルで朝食後、飯田橋の印刷博物館へ。西周(にし・あまね)の「百学連環」を旗印に掲げた展覧会となれば、ぜひとも見なければならない。幸い本日が最終日なので、かろうじて間に合った。しかし見ると聞くでは大違い。これほどお粗末な展覧会も少ないのではなかろうか。いささか長くなるが、いかにひどい展覧会であったかを書いておきたい。博物館あるいは百科辞典に関心のある方はお付き合い下さい。
この展覧会のずさんさを典型的に示しているのが、日本最初の本格的な百科辞典『日本百科大辞典』の展示である。実物がなく、見開きページの写真が置いてあるだけ。早稲田大学図書館が貸し出してくれなかったようだが、それほど貴重なものではなく、戦前からの図書館ならどこにでもあるものだ。なぜ借り出す努力をしないのか。全10巻を並べれば、第6巻(大正
1)までが三省堂で、第7巻(大正 5)からは「日本百科大辞典完成会」となっているのが明らかになり、百科辞典の刊行は出版社の命取りになりかねないことを示すことができたはずだ。
平凡社の百科は戦後の版を展示しているが、歴史的には戦前の『大百科事典』を冨山房『国民百科大辞典』と並べて展示すべきだろう。そうすれば、もともとの「百科辞典」という表記が「百科事典」に変わるきっかけも示すことができたはずだ。
翻訳百科を見ると、ショメールのオランダ訳が展示されているのに、『厚生新編』が展示されていない。出版はされなくても西洋文化の移植を考える上では不可欠だろうに。稿本を静岡県から借り出すのが難しければ、せめて印影本を展示すればよい。文部省『百科全書』の場合は、原書のチェンバーズ『インフォメーション』が展示されていない。日本で復刻版が刊行されていることさえ、知らないのだろう。
そのほか一々指摘したらきりがない。オーデュボンの鳥類図譜(手彩色の復刻本)を展示しているが、印刷の歴史上、重要なグールドの図譜がない。リンネの『自然の体系』は1748年の第6版が版次の表記もなく展示されているが、歴史的重要性からいえば復刻版でも初版(1735年)を展示すべきなのである。また、ここに版次が記されていないように、総じて解説は不正確、不親切で、重要なことが書いてない。展示品について理解の乏しい人物が執筆したのだろう。
そもそもこの展覧会の目的はなんなのだろう。西周については、「百学連環」の「覚書」と学生の筆録が展示されているだけ。「百学連環」はエンサイクロペディアの訳語ではあるが、日本の百科辞典の歴史と直接の関係はない。これを旗印に使うなら、西の全集を展示して、幕末・明治初年の洋学者たちは、あらゆる分野について西洋の文化を日本に移植するために努力したことを示し、その中で百科辞典の役割も語るべきであったろう。
展覧会の副題が「百科事典と博物図譜の饗宴」となっているように、百科辞典ばかりでなく、動物図譜、植物図譜。地誌など、さまざまなものが展示されている。担当者が入手しやすく、目につきそうな資料を集めて、羅列しただけといってよい。まともな展覧会なら感じることのできる学芸員のこだわりなど、どこにもない。しかし、さすがは凸版印刷、宣伝は上手だな。「百学連環」という旗印にすっかりだまされてしまった。
2007年12月8日(土) 科学史西日本大会
標記の会に参加するため、朝から京都教育大学へ。午前10時始まりだが、家から3時間かかるので若干の遅刻。8件の発表と田中一郎(金沢大)さんの講演があったが、藤岡毅さんの「ソヴィエト遺伝学派」以外はすべて物理学関連の話だった。それでも科学史研究として共通する観点があるので、いずれの発表も興味を持って聞くことができた。参加者は、発表者9人と世話人4人、フリーの参加者3人の計、16人。昨年より4名増。来年は12月6日(土)に桃山学院大で開催するが、どれだけの参加者があるだろうか。
田中さんのガリレオについての講演が終わったのが6時。それから懇親会があるが、当方は不参加。明日の会合のために京都駅から新幹線で東京へ。いつもの私学共済ガーデンパレスが二ヶ月前の予約でも取れなかったので、池袋のビジネスホテル、グランドシティに泊まる。
2007年12月6日(木) ダーウィン伝を再開したものの
2週間ぶりにダーウィン伝に取り組む。本日は航海中にダーウィンが記録したノート類についてまとめておいた。執筆したのはほんの数行だが、この際なので、手元の翻刻などに一通り目を通しておいた。有名な科学者でも、研究経過の記録がこれだけ残っている事例はほかにないだろう。ダーウィン研究の種が尽きることはない。
2007年12月5日(水) 体調不良
先週の金曜日の夕刻、突然、頭に割れるような痛みが走り、以来、風邪を引いたまま。土曜と月曜は授業があるので、昨日の朝、ようやく福岡医院に寄ってきた。本日の2時限の基礎演習は図書館司書の吉田さんに文献ガイダンスをお願いしてあったので、体を休めることができた。教授会のない水曜日だが、出席義務のある会議が2つ。共通教育についての会議なので、休むわけにはいかない。ところが3時半から始まるはずが、前の会議が終わらず、寒い廊下で30分も待機して、また体調を崩した。
2007年11月30日(金) 今日は一日文書作成
一昨日の点検作業の結果を受けて、文科省提出書類の修正作業で一日が終わる。昨日は疲れが残っていて、仕事にならなかった。
2007年11月28日(水) 文科省提出書類の点検
2時限に社会学科基礎演習。午後は、まず図書館会議を主宰。書評賞の扱いについて、やや紛糾したため長引いたが、3時前には終了。引き続いて、司書課程と学芸員課程について文科省に提出する書類の点検会議を主宰。細かな点までミスがないか参加者全員で点検していく。1時間半かけて司書課程の書類を見終わったころにはみな、疲れ果てて、学芸員の書類点検はいささかずさんになってしまった。当方も1時半から3時間続けて議長を務めたのは、体力と気力の限界といってよい。
2007年11月25日(日) 日本科学史学会生物学史分科会関西例会
標記の研究会に参加するため、天神橋近くの「エルおおさか」(大阪府立労働センター)へ。テーマは百崎清美(阪大大学院・哲学)「ラ・メトリ『人間機械論』を読む」。参加者は、世話人の瀬戸口明久さん、常連の藤岡毅さんと当方、百崎さんの先輩の武田裕紀(聖トマス大学)さん、それと科学史MLの開催通知を見て参加された方が2名。計7名というのは、この種の勉強会としてはまずまずの人数だろう。こちらの期待としては、同書の内容構成や出版の背景などについて聞きたかったのだが、百崎さんの発表はもっぱら、「ラ・メトリは物質に自ら作用する能力を認めていた」と説くことにあった。歴史分野と哲学分野の関心の違いといえるだろう。百崎さんは科学史関係の研究会にもよく参加されているが、日常的には哲学の専門家集団の中にいるので、ラ・メトリの著作が出版当時、どのような意味を持っていたのかということよりも、「唯物論の系譜」といった問題に関心が向いてしまうようだ。
2007年11月23日(金) 祭日も授業
「勤労感謝の日」で休日のはずだが、授業回数調整のため、本学では通常通りの授業日となっている。同僚によると学生の出席状況は普段より若干少ない程度だという。ダーウィン伝のビーグル号航海は一応切り上げて、「ダーウィンの地質学」の章にかかる。5時限の授業終了後に公募制推薦入試の判定教授会があり、終わったのは8時半だった。
2007年11月21日(水) 振替休校
23日(金)の祭日に授業をするため、本日は振替の休校で学内は閑散としている。同じフロアには休み中でも出てくる常連が6人いるが、今日はそのうち4人が来ている。
昨日から学芸員課程関係の書類作成に掛かり切り。文学部改組に伴う文科省申請書類、博物館法改正を控えての学芸員課程現状調査書への回答、来年度の実習準備、そして学芸員課程年報の作成と、いずれも待ったなしになってきた。本来ならすべて井上准教授の仕事なのだが、今はロンドンの空の下。愚痴をこぼしても仕方ないので、集中してある程度片づけてしまおう。
2007年11月17日(土) 秘曲「関寺小町」
2時限の司書課程「資料特論」は、大学に隣接する公園内にある和泉市の郷土資料館「いずみの国歴史館」の見学。和泉市教育委員会の灰掛館長の案内でバックヤードまで見て回った。これが12時半に終わり、急いで上町の大槻能楽堂へ。笛の野口傳之輔師の「舞台60年記念・能と囃子の会」が1時から始まっているが、着いたのは2時。「安宅」の山伏一行が関に差し掛かったところであった。弁慶は観世清和。大阪でもシテ方の人材に不足はないが、記念公演なのでわざわざ東京から観世宗家を迎えたようだ。
今回の目玉は最後の大槻文蔵「関寺小町」で、笛はもちろんは野口傳之輔。「安宅」とは対照的な渋い能である。前半は庵の中の老女・小町と訪ねてきた僧との歌問答。後半は百歳の小町が笛に乗って舞う。ここがシテの見せ場であり、笛の聞かせどころである。シテ方にとっても笛方にとっても難しい曲なので、大槻能楽堂では46年ぶり、大阪全体で見ても28年ぶりの上演だという。実力では当代一の大槻文蔵、野口傳之輔両師の舞台はさすがであった。しかし、演者だけでなく見る方にとっても難曲だと思う。滅多に上演されないのも無理はない。
2007年11月14日(水) 図書館書評賞の審査
2時限に社会学科基礎演習。昼食後、図書館委員による書評賞の審査会議。今年度は12点の候補作について各委員が優・良・可・不可で採点し、その集計を元に入選作を決定することにしたので、比較的スムースに2点の優秀作と4点の佳作を内定することができた。今後、書評内容をさらに検討し、盗用盗作の有無を調査して最終決定をすることになる。残念ながら12点の候補作品の中にも、感想文のレベルに止まっていて、ほとんど「評価」のないものがある。現在の学部学生に「評価」まで求めるのは困難だとは思うが、「書評」という以上は評価が不可欠である。来年度の書評募集に際しては、指定書式の厳守とともに、このことも強調したいと思う。
2007年11月12日(月) 今日は一日、文楽三昧
本日は学園祭の後片づけのため休校なので、日本橋の文楽劇場に。床の直下の席で、朝から晩まで、たっぷり楽しんできた。本日は記録映像の撮影もあり、三業みな、気合いが入っていた。まずは吉田玉男一周忌追善狂言の「盛綱陣屋」。大好きな演目で、歌舞伎でも文楽でも繰り返し見ている。歌舞伎、文楽、それぞれ異なる面白さがある。玉男には申し訳ないが、当方にとっては、やはり11代目団十郎の盛綱。今でも目に浮かぶ。今回、盛綱を遣ったのは、玉女。今後を期待する、としておこう。千歳大夫は勢いで聞かせてくれた。昼の部の2番目は「酒屋」。「今ごろは半七さん」。嶋大夫のくどきに乗って簑助のお園が舞う。見ていて、はっと気が付いた。このHPの「芝居」のページに、文五郎の最後の舞台をお園と書いたが、そんなはずはない。「文五郎ならお園」という思い込みがあってそう書いてしまったが、訂正しておこう。昼の部の最後の景事「面売り」はパスして、外で一服(タバコではなくコーヒー)。
夜の部の最初が、「源平布引滝」の四段目「松波琵琶」。 二段目「義賢最期」と三段目「実盛物語」は歌舞伎でも文楽でもしばしば上演され、いずれも好きな演目だが、四段目を見るのは初めてだった。ドラマとしては退屈で、興が乗ったのは三味線(清二郎)で琵琶の音を聞かせるところだけ。滅多に上演されないのも無理はない。
夜の部の最後が玉男追善の「曾根崎心中」。玉男の徳兵衛ではお初を遣っていた簑助が九平次に回り、主役は玉女・勘十郎のコンビだった。若手を育てるということだろう。近松門左衛門の最初の心中物なので、なぜ死ななければならないのか、説得力に欠けるが、最後の道行きは美しい。「この世の名残夜も名残」。名文句を暗記したのは高校の時だったか、大学に入ってからだったか。二人が死ぬところまで見せなくてもよいと思うが、そうしないと今の観客は納得しないと解説にあった。国文の教師に連れられた学生たちとおぼしき集団をいくつか見かけた。戦後、近松の原作に基づいて復活した狂言だが、それでも原作のままではないことを、知っておいて欲しいと思う。
9日の夕刻、竹本貴大夫が飛び降り自殺したとの記事が10日の新聞にあったが、劇場にはそれに触れた掲示がなかった。地味な大夫さんで、記憶に残る舞台はない。59歳になって芸の限界を見切ったのだろうか。気になる出来事である。
2007年11月9日(金) ダーウィン伝の資料
本日から11日の日曜日まで、学園祭。キャンパスは模擬店や野外ステージで、にぎやかである。授業も会議もないこの期間に、少しでもダーウィン伝の執筆を進めておきたい。我がパソコン内のダーウィン氏は、本日、ようやく航海を終えてビーグル号を下船した。一々、原資料にあたっているので、執筆に時間がかかりすぎているが、やむを得ない。ビーグル号航海については、ダーウィンの『ビーグル号航海記』があるが、これは、本人が航海中に書いていた『航海日記』を元にしているものの、後日の書き込みがかなりあり、また、南アメリカについては時間的な前後関係が不明瞭になっている。伝記の資料としては不適当である。正確を期すには、直接、『航海日記』と書簡集に当たらなければならない。今後、執筆のペースを上げるにはどうしたらよいか。頭の痛いことだ。
2007年11月7日(水) 会議が6
2時限に社会学科基礎演習。その終了直後から、出席義務のある会議が6つ、間に教職員研修の講演をはさんでの連続である。このうち、5つの会議に出席した。最後の学部教授会が終わったのが7時半。本日は学長選挙の決選投票もあり、波乱に富んだ一日だったが、それを公開のジャーナルに書くわけにはいかないな。
2007年11月3日(土) 祭日も授業
2時限の司書課程「資料特論」は、普段より欠席者が多い。祭日なので休んだのか、司書課程の選択科目なので履修放棄か。半分半分だろう。本日は祭日だが、授業もあり、推薦入試も学内で実施されているので、生協は通常の土曜日と同様に営業している。生協食堂で昼食後、十分に休憩してからダーウィン伝に取りかかる。ガラパゴス諸島については、ここで進化論が生まれたという神話を、とりあえず否定しておく必要があるだろう。
2007年11月2日(金) 代替休校
朝、狭山駅前の散髪屋さんに寄ってから大学へ。平日なのに和泉中央駅前のスクールバス乗り場に学生がいないし、時間になってもバスが来ない。しばらくしてから気が付いた。明日の祭日に授業を実施するかわり、本日は休校なのだ。キャンパスも静かで、執筆も進み、ビーグル号もようやくガラパゴス諸島にたどりついた。
2007年10月31日(水) 会議のない水曜日
2時限の社会学科基礎演習には、在籍者全員が出席した。欠席の続く学生にきついメールを送り、ホームページにも愚痴を書いたのが功を奏したか。午後は学長選挙の投票の後、10日ぶりにダーウィン伝の執筆再開。これだけ間が空くと、なかなか頭が切り替わらない。
2007年10月30日(火) 北野田でミュシャ展
朝、在木(ありき)カイロプラクティックで治療後、北野田に新しくできた堺市の文化ホールの「ミュシャ特別展」へ。予想よりも充実した内容だったが、解説が少ない。ブロンズの「ラ・ナチュール」も出ていたが、何の説明もないのは不親切だろう。堺市駅前のミュシャ館では、かなりていねいな解説があったと記憶している。これからも北野田でさまざまな展覧会が開催されるのなら、嬉しいことだ。
研究室に出てきたら、人事関連のメールや電話の処理に追われ、一段落ついてから、明日と土曜日の授業の準備で終わる。
2007年10月27日(土) 高野線ヘリコプター事故
2時限の「資料特論」は、和泉市教育委員会の灰掛薫さんの「郷土資料」の2回目。同じ教室で1時限に河内長野市教育委員会の尾谷雅彦さん担当の「生涯教育概論」がある。いつものことだが、合間に、お二人で、文化財関係の仕事の打ち合わせをされていた。
午後は家の都合があるので早めに研究室を出たが、ヘリコプターの墜落事故で高野線が不通。なんとか帰り着くまでに、いつもより1時間以上、余分にかかってしまった。こんなことなら研究室で粘っていた方がよかった。
2007年10月26日(金) 全国大学博物館学講座協議会西日本部会
標記の会が花園大学で開催されるので京都へ。会議は午後からなので、午前中は京都文化博物館の「トプカプ宮殿展」に寄った。展示の中心になっている金銀宝石には興味なかったが、この機会に有名な宮殿について見ておこうと考えた。大量の中国陶磁器で有名だが、それはスルタンの食事作法と関係しているという解説に興味を持った。特別展の観客で平常展にまで足を運ぶ人はほとんどいない。この博物館の平常展はとてもお客を呼べる展示ではない。
昼食後、花園大学に着いてすぐ感じたのは、職員の方たちに修行者の雰囲気があること。知恩院の仏教大学にも、西本願寺の龍谷大学にもなかった仏教的雰囲気である。ところが学内に学生がいない。全学接心で全員が座禅の修行に行っているという。いかにも妙心寺の大学である。
会議では文科省の担当者から博物館法の改正について話があった。学芸員課程のカリキュラムがかなり強化されるのは間違いない。大学で実施するのは2010年度ころからのようだ。法令改正に応じて学芸員課程を拡充するか、課程を閉鎖するか、各大学とも難しい選択を迫られることになろう。当方が定年退職した後だが、本学ではぜひとも課程拡充の方針で行って欲しいと思う。
特別講演は細身美術館の館長。細身美術館は琳派の作品で知られているが、実は館長の祖父、細見良氏は琳派が大嫌いだったとは意外だった。平安時代の仏画や若冲の作品は人間の肉眼では分からない細かなところまで正確に描かれおり、仏様のための作品であることが分かるという話には感動した。
シンポジウム「大学博物館の現状と展望」の中で、某博物館の学芸員から、実習で受け入れている諸大学の実習生が一人として指定管理者制度について知らなかったが、これくらいは大学で教えておいて欲しいとの発言があった。断言してもいい。どの大学でもこれくらいのことは教えている。学生諸君がきれいさっぱりと忘れてしまうのだ。
会議の後は情報交換会という名目の懇親会があるが、これには欠席し、金曜日で8時まで開館している京都国立博物館の狩野永徳展に行った。2回目であるが、昼間より空いているので、最初の「花鳥図襖」もゆっくり見ることができたし、一部ではあるが「洛中洛外図屏風」の細部も接近して見てきた。しかしなんといっても「唐獅子図屏風」。あらためて、すごい絵だと思う。もう一度見に行きたい。
2007年10月24日(水) よく働きました
2時限は一年次生の基礎演習。秋学期は学生の研究発表中心だが、本日の発表予定者4人のうち、3名が欠席。情けない。多分、一人ぐらい欠席しても大した迷惑にならないと、それぞれ、勝手に考えているのだろう。ま、愚痴はこれくらいでやめておこう。
午後は図書館会議で議長を務め、夕刻からは学芸員課程の館務実習報告会。海外研修に出た井上准教授の代行である。今年度は館務実習まで行った履修生は5名だけだったが、それぞれ、実習館で充実した時間を過ごしてきたようだ。
帰り道で書店に寄ったら、『日経おとなのOFF』11月号の特集が「日本で楽しめる世界の名画100」、KKベストセラーズの『一個人』11月号の特集が「世界の名画に出会える美術館BEST100」。どちらかが他方の企画を真似したのだろうが、両方とも木谷節子『名画のたのしみ:日本でみられる世界の絵画』二見書房(2006年)を基礎にしているように思える。この3点を読み比べてみるのも面白そうだ。
2007年10月22日(月) 信用できない発送代行業者
西濃運輸の調査で、図録が届かない理由が分かった。発送代行業者のデリバリーサービス社が出荷していなかったのだ。「現在出荷作業中で、23日に出荷の予定」だとさ。図録一つ出荷するのに4日もかかるとは、人を馬鹿にするなといいたい。西濃運輸からの照会がなければ、それっきりになっていたことだろう。この会社、京都では手広く商売しているようだが、信用できませんな。
2007年10月21日(日) 図録が届かない
今日は宅配便で送られてくるはずの狩野永徳展・図録をゆっくり楽しむつもりでいた。ところが夜になっても届かない。西濃運輸のホームページで検索したら、「入力されたお問合せ番号が見当りません」と出た。届かないはずだ。これまでも博物館・美術館で購入した資料をしばしば宅配便で送ってもらったが、事故が起きたことはなかった。今回も心配していなかったが、こんなこともあるのだ。送り状には売店の連絡先がないので、西濃運輸に調べてもらうほかないのだが、どうなることやら。
2007年10月19日(金) 狩野永徳
まずは、電話予約した11月公演のチケットを引き取りに日本橋の文楽劇場へ。ついで、北浜から京阪で京都の七条へ。京都国立博物館の特別展「狩野永徳」は、見過ごすわけにいかない。16日に始まったばかりで平日なのに、かなり混雑していた。土日や終了まじかは行列ができることだろう。目玉の一つ、「上杉本・洛中洛外図屏風」の前はすごい人だかりで、細部を楽しむことなど、とてもできない。ところが、最後の部屋に展示されている「唐獅子図屏風」と「檜図屏風」はゆっくり鑑賞することができた。みなさん、ここに来るまでに疲れてしまうのだろう。
平常展にも重文クラスの絵画が多数出ていたが、面白かったのは「百鬼夜行絵巻」。醜女の化粧の場面を中心に広げてあった。
時間的には別の展覧会を見る余裕があったが、疲れを考慮してラッシュアワーになる前に帰途についた。
2007年10月17日(水) 会議が4
2時限が基礎演習。午後に出席義務のある会議が4。数日来、風邪気味なので最初の2つ会議を欠席して体を休め、夕刻からの大学院研究科委員会と教授会に出席した。
2007年10月14日(日) 書評140点
大学図書館で募集した学部学生の書評の応募が、12日(金)の締め切りまでに140点あった。本日は一日掛けて、選考の対象になりうる作品を19点、選んだ。応募規定を無視しているもの、書誌事項の記載がでたらめなものがかなりある。来年度は、つまらないミスをしないよう、対策を考えてみたい。
2007年10月8日(月) 祭日も授業
「体育の日」で休日なのだが、月曜日の授業回数を確保するため、本日は通常の授業を実施している。教職員はもちろん、学生も普段通りに来ているようだ。当方の秋学期・月曜日は演習科目だけなので、開店休業状態。午前中に図書館の業務を片づけ、午後は研究室に来た学生の応対をし、ダーウィン伝の執筆を続行。ビーグル号がなかなか太平洋に出ないので、本物のダーウィンもいらいらしたが、我がパソコン内のダーウィン氏もいらついている。
2007年10月3日(水) 会議が3
2時限が基礎演習。午後は、大学評議会、大学院研究科、教授会と一部は重複しながらの会議の連続。体力が続かないので中抜けもしたが、とにかく今日は全部の会議に出席した。教授会では学生の懲戒処分についての議題があり、憂鬱な思いで一日が終わった。
2007年10月2日(火) 添削
在木(ありき)カイロプラクティックで治療してから研究室へ。午後は、明日、返却予定の基礎演習の夏期課題、手紙文の添削で終わった。
2007年10月1日(月) 内定式
朝、福岡医院に寄った後、保険証を持っているので近くの郵便局で10万円を超える雑誌代金を振り込んだ。本日が民営化初日なので記念品をもらった。
3時限の4年次生ゼミでは、就職先の内定式のための欠席者が続出。民間会社の内定式が本日に集中しているらしい。
学芸員課程の連絡が来たり、図書館関係の書類点検があったり、授業期間中らしくなってきた。
2007年9月29日(土) ダーウィンはいつ、コヴィントンを雇ったのか
2時限の「資料特論」が当方の秋学期最初の授業。司書課程の選択科目なので年度によって受講生数が大きく変動するが、本日は12名。少なめかな。
昼食後、たっぷり休んで、午後遅くなってからダーウィン伝の執筆。ビーグル号航海に関して不明瞭なことがあったので、執筆が滞っていた。年少兵(ボーイ)だったコヴィントンはいつ、ダーウィンに雇われたのか。ダーウィンやフィッツ=ロイ、あるいはコヴィントンの日記や手紙に書かれていることを文字通りに受け取ると食い違いが出てくる。最近の伝記類を見ても、書いてあることが一致しない。伝記を書くとなるといい加減には済まされない。ようやく自分なりに結論を出すことができた。ダーウィンは1833年5月にコヴィントンを私的に雇うことになったが、それ以前からフィッツ=ロイの命令でコヴィントンはダーウィンの助手として働いていたし、ダーウィンもコヴィントンに寄港地でズボンを買い与えたりしていた。ダーウィンがコヴィントンを雇った後も、フィッツ=ロイの好意でビーグル号の兵員名簿からコヴィントンの名が削除されず、食事などは官費で支給されていた。ダーウィンに雇われる前も後も、ダーウィンの助手としてのコヴィントンの生活は何も変わらなかった。こう考えれば、当事者たちの記録が混乱しているのも理解できるだろう。些細な問題とはいえ、フィッツ=ロイ艦長がいかにダーウィンを大事にしていたかが分かる事例である。
2007年9月28日(金) 秋学期開始
秋学期の初日だが、当方の担当授業はないので、朝は狭山駅前で散髪。午後は、明日からの授業の準備。キャンパスは授業期間中の騒がしさを取り戻していた。
2007年9月27日(木) 大学院合同演習
今日は一日、大学院の合同演習。19世紀の英文学関係の話を聞いた。
2007年9月26日(水) 振込に身分証明
郵便局で Journal of the History of Biology の代金を振り込もうとしたら、10万円を超える場合は身分証明が必要だといわれた。免許証はないし、保険証も持ち歩かないので、振り込めなかった。そういえばマネーロンダリング防止制度のニュースを聞いた気もするが、自分には関係ないと思っていた。長時間待たされたあげく、ダメといわれて腹が立ったが、窓口に怒っても仕方ない。自分の無知を責めるほかないのかな。
それにしても学術雑誌の値段が高くなった。年金生活に入ったら、この雑誌を取るのも難しいかもしれない。
2007年9月25日(火) 方向音痴
朝は北野田の日野歯科医院で半年ごとの検診。ところが、北野田駅周辺の再開発で、いつもの道が分からない。こっち方向だろうと見当をつけて歩いていたら、完全に迷ってしまった。人に尋ねて一旦、駅方向にもどり、遠回りだが昔のままの道をたどって予約時間の20分遅れで着いた。予約時間に間に合わせようとして、かえって大幅に遅れてしまった。
午後はまず、学芸員課程・司書課程関連の文科省提出書類について、事務方と打ち合わせ。その後、ダーウィン伝の執筆を続行。ビーグル号航海の記事は思い切って短くしなけはればならない。
本日、アマゾンから届いた本の中に、デスモンドとムーアとブラウンの3人共著のダーウィン伝があった。デスモンドとムーアの大きなダーウィン伝は翻訳されているし、ブラウンはそれよりも詳しい伝記を刊行している。この3人が、オクスフォードの伝記シリーズVIPで、ごく短いダーウィン伝を出したわけである。早速、日本語に翻訳され、新書版で刊行されることだろう。拙著はこれより詳しいし、日本の読者を意識した内容になっているものの、ダーウィン伝として競合することになるだろう。そんなことを気にするよりも、とにかく自著を完成させることが先だ。
2007年9月23日(日) 日曜出勤
夕刻に大学院の入試判定があるので、ゆっくり大学へ。学芸員課程・司書課程関連の書類点検をし、放送大学の試験についてメールを打ち、数独で遊んでいた。会議は5分で終了。半分は休養の日曜出勤だった。
2007年9月20日(木) 会議の日々が始まった
本日は出席義務のある会議が4。そのうち、3つの会議に出席した。その中でも一番マイナーな会議である「学芸員課程・司書課程運営会議」は当方が議長を務めているので、自分にとっては一番重要な会議である。文学部改組に伴って必要になった文科省提出書類の作成があるので、この議長職も例年より忙しい役職になってしまった。
2007年9月19日(水) 学外者の業績審査
昨日と本日が春学期の成績発表なので、久しぶりにキャンパスがにぎわっていた。早速、学生から成績再確認の依頼が2件来ていたので、午前中に処理。午後は他大学の科学史関係者について、業績審査関連の文書を作成した。こういう制度を設けている大学が国内にあることを初めて知った。今後は日本の大学でも、研究業績などについて学外者の評価を求めることが多くなるのかもしれない。
2007年9月15日(土) ビーグル号出帆
1831年12月27日の火曜日、午前11時、快晴の空の下、ビーグル号はいかりを上げ、東風にのって外海へと出て行った。ダーウィンは10月10日付でフィッツ=ロイに当てた手紙で、その時点での出航予定日であった11月4日について、「私の第二の人生がこの日に始まるでしょう。この日は今後の人生の誕生日になるでしょう」と述べている。ダーウィン本人が予想したとおり、この航海によってダーウィンは世紀のナチュラリストへと成長していくのである。
執筆中のダーウィン伝に、本日、このように書いた。我がジャーナルを読んでくれている同僚から、「ビーグル号は出発しましたか」と聞かれるので、無事、出航したことをお知らせしておきたい。
それにしても、時間がかかりすぎた。これまでのように『ダーウィン書簡集』を通読していたら間に合わない。来週からテンポを速めて、ダーウィンの「第二の人生」を追うことにしよう。
2007年9月13日(木) 安宅コレクション
気分転換のため、久しぶりに展覧会巡り。朝はゆっくり家を出て、まず、高島屋東別館3階の高島屋史料館へ。ここは美術鑑賞の穴場。日本画の秀作が無料で見られるのに、いつも空いている。本日の一点を選ぶなら、川端龍子の屏風絵「潮騒」。爽快という言葉が浮かぶ。今日ここに来た理由の一つは、国宝・玉虫厨子の実物大レプリカで確認したいことがあったため。しかしこの模造品でも外側の絵はほとんど見えない。写真では絵が明瞭だが、それは撮影と印刷に工夫を凝らしているからだろう。
ジュンク堂難波店に寄った後、中之島の東洋陶磁美術館へ。特別展「安宅英一の眼・安宅コレクション」。1979年秋に大阪市立美術館で開催された「安宅コレクション東洋陶磁展」を見たときは、よくぞこれだけ集めたものだと感嘆した。とくに高麗青磁と三島の豊富さに圧倒され、以来、高麗青磁のフアンになった。我流で本日の一品を選ぶなら、国宝の油滴天目と飛青磁はさておいて、1979年以来記憶に残っている高麗青磁「竹鶴文梅瓶」にしたい。
最後は、長堀の東急ハンズで特殊な歯ブラシを購入した後、隣の出光ビル13階「大阪市立近代美術館心斎橋展示室」へ。「名画の理由」と題して鑑蔵の日本画・洋画を展示している。福田平八郎「漣」や佐伯祐三「郵便配達夫」など、この展示室でおなじみの作品が出ている。ここでも我流で本日の一点を選ぶなら、土田麦僊の屏風絵「散華」。菩薩、といっても半裸の踊り子がエロチックに舞い、周囲に青年僧侶がいる。仏画というより、青春群像に見える。
昨夜のNHKテレビ番組「ためしてガッテン」では美術館での鑑賞方法を取り上げ、はじめにざっと全体を見た後、焦点を絞って鑑賞するという方法を推奨していた。いわれなくても同様の見方をしているが、もう一つ、同じ博物館・美術館を繰り返し訪れるのもよいと思う。
2007年9月11日(火) ダーウィン伝・再開
午前は3年次生の博物館実習ガイダンス。午後になってようやく、ダーウィン伝の作業を再開。今週中にはダーウィンもビーグル号航海に出発できるだろう。
2007年9月10日(月) 頭が切り替わらない
朝、駅の売店をのぞいたら、スポーツ新聞が一紙を除いて売り切れていた。残っていたのはいうまでもなく『報知』。普通紙の休刊日なので、みなさん、スポーツ紙で阪神10連勝の記事を読みたかったのだ。
研究室に来て、午前中は明日の博物館実習ガイダンスの準備。午後もなんとなく雑件を処理しているうちに終わってしまった。頭がなかなか研究モードに切り替わらない。明日の午後は必ずダーウィン伝の作業を再開しよう。
同じフロアの住人4人が、いつものように我が研究室で午後のコーヒー・パーティー。今日は阪神の話題で盛り上がっていた。
2007年9月8日(土) 司書講習の業務終了
午前中に司書講習「専門資料論」の業務がやっと終わった。延べ2週間を司書講習に費やしたことになる。貴重な夏期休暇の研究時間がこれだけ食われるのはつらい。来年は、これほどにはならないと期待している。
これで9月一杯はほぼ、研究・執筆に専念できるはずだが、今日は疲れた。早めに帰って、阪神タイガースの9連勝、首位奪取を見ることにしようか。
2007年9月6日(木) 採点は終わったけれど
1日かかって、司書講習「専門資料論」の採点を終了。例年なら成績を一覧表に転記して終わりなのだが、事務局からの書類を見たら、今年度は、模範答案を作成し、問題ごとに採点基準を明記し、不合格者については不合格になった理由と今後の学習のための注意点を記すことになっている。これは大変だ。明日一日、費やすことになる。こんなことなら、穴あき、選択、○×などの客観テストを作成した方がよかったかもしれない。
答案を読んで採点する作業には得るものがないが、裏面の自由記述には面白いものもある。我がホームページを見て、「ネコちゃんたち、可愛かったですよ」なんて書かれたら、それだけでA(優)をつけたくなるが、そうもいかない。採点評価は公平かつ厳正です。社会人対象の講習なので、最近は定年退職者も増えている。会社では日常的に『科学技術文献速報』を見ていたなんていう受講生もいる。大学の授業とは違って、どんな受講生がいるか分からないのが、講習の面白さであり、怖さである。
2007年9月5日(水) 採点地獄に突入
月曜と火曜は学芸員課程に関する業務などを処理していたので、司書講習「専門資料論」の採点が今日になった。150枚だから1日で片づけることも可能だろうが、実際には無理。同じような文章を繰り返し読むのが苦痛なので、サボりサボり取り組むことになる。半分、終わったところで、中止。また明日だ。
2007年9月1日(土) 人間国宝に認定されたといっても
30日(木)から続いた司書講習「専門資料論」は、本日午前の試験で終了。試験の後、大急ぎで河内長野市ラブリーホールへ。毎年、市の主催する文楽公演があるが、見向きもしなかった。今年は簑助が寺子屋の千代を遣うというので、それをお目当てに見に行くことにした。文楽劇場では床の直下の席を取るのだが、今回は人形の見やすい真中前方の席。「寺子屋」の上演に先だって20分近い解説があったのには、まいった。文楽を初めて見る人が対象の公演ということなのだろう。床から離れた席で聴いて驚いたのは、綱大夫の衰え。声が届かない。織大夫時代から力強く響きわたる声が魅力だったのに。重要無形文化財保持者といっても、往年の力が失われてから年功序列で認定されることも多いようだ。「いろは送り」の千歳大夫も声が割れていた。簑助も気合いが入っていなかった。これでは初心者に文楽の魅力が伝わらないだろう。やはり文楽は日本橋で見るに限る。
今日の文楽にはいつもの充足感が得られなかったものの、遊び心が刺激された。控えていた芝居見物と展覧会巡りを再開しよう。ダーウィン伝の執筆にはまだまだ時間がかかりそうなので、焦っても仕方ない。まずは11月の文楽「盛綱陣屋」を予約しよう。
2007年8月29日(水) 分かってみれば簡単
朝は狭山駅前で散髪。明日からの司書講習に備えて、少しは身だしなみを整えよう。午後は、月曜から取り組んできた講習の準備。今年は、教材(pdfファイル)を個人ホームページに掲載することを試みた。はじめはマニュアル通りにやって、うまくいかなかったが、原理を理解したら簡単なことだった。慣れている人から見れば、何をもたもたしているのだと思われるだろう。Web
にリンクを張るのも簡単なことが分かった。この種の作業は最初につまづくので、新しいことに挑戦するのが嫌になってしまいがちなのだ。
2007年8月25日(土) 軍艦ビーグル号
ダーウィン伝の執筆が、はかどらないながらも進んでいる。といってもダーウィンはまだビーグル号航海に出発していない。ビーグル号とその乗員を調べるのに時間がかかった。翻訳も含めて日本語の文献では、ダーウィンのビーグル号について正確に伝えているものは皆無のようだ。この点だけでも新たにダーウィン伝を出す意味があるだろう。それだけに、いっそう慎重に資料の確認をしなければならない。
来週の後半は司書講習で、前半はその準備。ダーウィン伝はまた中断。我がパソコン内のダーウィン氏は、いつまでもビーグル号が出航しないので、いらいらしている。再来週には出発させたいものだ。
2007年8月21日(火) 執筆再開
今日はなんとか気力がもどってきたので、研究室で仕事再開。まずは学芸員関係の業務を一つ片づける。ついで、個人HPの「司書講習」pdf教材にアクセスできない件につき、情報センターの専門家に相談し、とりあえず、現在掲載している教材にはアクセスできるようになった。新しい教材を追加するときにもうまくいかくどうか、自信はない。午後になってダーウィン伝の執筆を再開したが、体調がまだ悪いので、早めに打ち切り。
2007年8月20日(月) ついにダウン
昨日の日曜と本日は、微熱と下痢でほとんど寝ていた。福岡医師によれば食中毒ではないとのことなので、暑さと冷房のはざまで体調が狂ったんだろう。異常な暑さに対して、油断していたかもしれない。
2007年8月17日(金) 司書講習「専門資料論」
今日から司書講習が再開され、再開第1回目が当方の「専門資料論」。5時に起きて、7時前に家を出て、各停で寝ていたら中百舌鳥を通り過ぎて、それでも8時半ごろに研究室について、準備開始。今日は午前だけの担当なので、午後は研究室で爆睡。教える方も大変だけど、受講生はもっとつらいのだろうな。
2007年8月14日(火) ミニ送別会
朝は早くから近大病院に行き、昼前に研究室。本日から3日間は、さすがに司書講習も休みだし、外壁補修の工事も休んでいる。なぜか文献に取り組む意欲がわかないので、数独で遊んだ後、司書講習の教材をHPに掲載することを試みた。パワーポイントや文書ファイルをpdfに変換してパスワードを設定し、一方でHPに新たなリンクページを作成、pdfに変換した教材を掲載した。自分のパソコン内ではうまくいっているのだが、転送・公開すると、pdfファイルのページが「見つかりません」と出てきてしまう。来週になってから専門家に相談するしかないな。残念。
博物館学の井上敏准教授は1年の海外研修で17日に関空から出発し、イギリスに向かうが、昨日と今日は研究室に来て部屋を整理している。当分留守になるので、帰宅途中、2人だけで送別会をすることにした。9時過ぎなので開いているのはお寿司屋さんくらい。ダウン・ハウスのダーウィン・ミュージアムに行くことがあれば、売店で売っているものを全種類、買ってきてくれといっておいた。「全部ですか」と、とまどっていたが、ま、適当に見つくろってくれるだろう。
2007年8月10日(金) ダーウィン伝・再開
午前中は教務課から送られてきた成績表の確認作業。午後になってダーウィン伝の執筆を再開。6月8日を最後に中断していたから、ちょうど2ヶ月ぶり。これだけ間が空くと以前の段階に頭がもどるのに時間がかかる。本格的に取り組めるのは明日からだな。
本日から全学休暇なので教職員も学生もほとんど来ていないが、図書館ではこの期間を利用して社会人対象・司書講習のレファレンス演習が実施されている。毎年思うのだが、資格を取るためとはいえ、他人が遊んでいるときに勉強を続けるのは大変だろう。教える側でもそれに応えなければならない。
2007年8月9日(木) 司書講習の準備
学芸員課程関係の仕事は昨日で一旦、打ち切り。明日から10日間、事務も図書館も生協も閉まるので、午前中にいくつか事務手続きを片づけ、午後に司書講習の準備を再開。とりあえず第1回目(17日)の教材を見直して、配付資料を作成した。明日からの2週間は、ダーウィン伝の執筆に集中するぞ。
2007年8月7日(火) 博物館見学レポート
在木(ありき)カイロプラクティックで治療してから研究室へ。昨日の作業を継続した後、学芸員課程の博物館見学レポートに目を通す。学芸員課程の実習U(見学研修)と実習V(館務実習)の今年度の担当は井上準教授なのだが、まもなく研修でイギリスに行くため、後始末を引き受けることになった。ただ働きになるが、これはやむを得ない。当方が病気などで他の教員に迷惑を掛けることもあるし、お互い様といったところだ。
2007年8月6日(月) 文科省申請書類の準備
文学部改組にともなって文科省に提出する司書課程と学芸員課程の書類作成について、3時半まで事務方と打ち合わせ。これを受けて、急拠、関係教員に連絡を取ったら、4時半には司書課程と司書教諭課程の関係教員5人が集まって相談することができた。休暇中なのに、1時間でメンツが揃ったのはたいしたもんだ。自宅から駆けつけてくれた同僚もいる。これで、来年度の両課程の開講科目と担当者をほぼ固めることができた。
2007年8月5日(日) 司書講習の準備開始
日曜日だが、家で雑件を片づけてから昼過ぎに研究室へ。とにかく暑い。冷房を入れてもなかなか体の火照りが取れない。同じフロアには誰もいないので、日本男子の正しい夏姿、すててこ姿になり、体が冷えてからパソコンに向かう。
社会人対象・司書講習の「専門資料論」は月末と思い込んでいたが、最初の回だけ17日(金)に設定されている。お盆休暇の時期なので、ほかに担当する人がいないのだろう。本学でも10日から19日まで事務室や図書館が閉まる。少なくとも第1回目の授業の準備は急がなければならない。
2007年8月4日(土) 学芸員・司書課程運営会議の議事録
午前中に気落ちするメールが来て仕事する気にならなかったが、午後遅くに標記の文書を作成。7月11日に開催した同会議の直後に作成するつもりだったが、他の仕事に追われて後回しになっていた。すでに記憶が曖昧になっているが、事務方で確認できるだろう。
2007年8月3日(金) 学芸員課程と司書課程
朝は狭山駅前の理髪店で散髪。30年前からのなじみの店である。同年配の前・店長が引退も考えているというから、私が通う限りは現役でいろといっている。銀行と郵便局に寄ってから大学へ。台風5号はそれたものの、強風で研究室の窓がピューピュー音を立てている。
本日から、学芸員・司書課程運営会議議長としての仕事に取り組まなければならない。図書館学の志保田教授は今年度末で定年退職となるが、その後任も1日に開催された経営学部臨時教授会で事実上、決定した。文学部の改組に伴い、両課程の来年度以降の開講予定を組み、文科省に届け出る必要があるので、その準備を始めなければならない。
図書館長としてやっておきたいこともあるし、月末に始まる社会人対象・司書講習の準備もある。ダーウィン伝の執筆再開はいつになるか。焦っても仕方ないが、心穏やかではない。
2007年8月2日(木) 採点終了
本年度の「科学思想史」では授業中に5回の小テストを実施したので、それを参照して評価を微調整し、さらに不合格答案を何度か見直して合格者を増やした。結局、受講登録280のうち、受験250。合格165、不合格85、合格率66パーセントは厳しすぎるとも思うが、これ以上、合格者を増やす作業はできない。明日、評価表を教務課に提出して終わり。受講登録者数にもよるが、来年度は採点・評価に苦労しない問題を作成しよう。
2007年8月1日(水) 採点地獄・4日目
朝、近大病院に寄ってから大学へ。午後は研究室で採点を続行。250枚の答案の採点は一応終了したが、まだ評価の調整などが残っている。本日はPLの花火なので、混雑に巻き込まれないよう早めに帰宅。
2007年7月31日(火) 大学院・合同演習
まだ採点は終わっていないが、本日は1限から4限まで、大学院の合同演習。英語圏文化コースの対象学生は1人だけで、教員は7名。社会人学生なので臆すことなく、イェイツと能について堂々と発表していた。昨年に引き続き、こういう機会でもなければ聞くこともないテーマで、それはそれで面白かった。
2007年7月30日(月) 採点地獄・3日目
早朝5時、叩き付けるような雨の音で目が覚めた。南海電車も落雷のためダイヤが乱れていた。「梅雨明け十日」は天候が安定しているはずなのに、不安定な日が続いている。30台で東京にいた頃は、毎年、この時期に南アルプスに登っていた。北岳、農鳥には繰り返し登ったし、赤石、荒川にも登った。天候が安定しているので、体力のない自分でも軽装で登れたのだ。今年のように荒れる天気では、怖くて登れなかったろう。
さて、本日も採点地獄に突入するか。
2007年7月29日(日) 池田満治ファミリー写真展
日曜日は昼過ぎまで体を動かす気にならない。ネコたちが「メシよこせ」「トイレを掃除しろ」と騒いでも、「オカアチャンに頼め」といってほったらかし。去年までは朝から小まめに動いていたのに、それだけ年取ったということか。
午後になって元気が出てきたので、河内長野駅前で開催されている標記の写真展へ。同じ団地に住んでいる池田さん一家の写真展で、副題が「河内長野の今昔風景
plus 海の美しい生きものたち」。旧知の池田さんが本格的に写真を撮り続けていたとは知らなかった。季節の花を寺社で撮ったものが多かったが、団地周辺の写真もある。見慣れた景色も写真に切り取られていると、一瞬、どこだか分からないのが面白い。定年後もご夫婦で、車に機材を積み、撮影に明け暮れているのはうらやましい。ご子息の池田修一さんの海中写真も見事なものだった。
帰宅時に団地の自治会館で参院選に投票。夜はテレビで開票速報。ほとんど開票されていないのに次々と当確が打たれていくのにびっくりしたが、各局とも開票に関係なく、出口調査で判断しているようだ。今回は当確報道の間違いはなかったのだろうか。今度の参院選で自民党が負けることは、安部政権の成立以前から予想されていた。閣僚のスキャンダルなどで、予想を上回る敗北になったのだろう。
2007年7月28日(土) 採点地獄・2日目
昨日で春学期の期末試験が終了したため、学内は閑散としている。教員も来ていない。みなさん、自宅で採点なのだろう。こちらは研究室で採点を続行。昨日からの作業でまずは60枚の不合格答案を確定。これから残る190枚をABCD(優・良・可・不可)に振り分けなければならない。とても本日中に終わらないが、月曜日には完了したいものだ。
2007年7月27日(金) 採点地獄
昨日の4限に「科学思想史」の試験があり、本日はその採点に掛かり切り。受講登録者280名のうち、なんと250名が受験している。受験率は9割。昨年度は登録者211名のうち、受験したのは162名だけだったのに、なぜ登録者も受験率も上昇したのか、わからない。勉強しなくても単位が取れるといった噂がネット上を流れているのではないかとも思うが、確認できない。とにかく地獄にいる時間が長くなった。今年度はできるだけ合格率を抑えないといかんだろう。
2007年7月25日(水) 書類作成
学内の業績審査に関連した書類作成を月曜日から手がけていたが、昼過ぎにやっと終わって担当者に送信した。続けて学芸員課程に関連した書類作成に取りかかろうとしたが、どっと疲労感が出て体が動かない。致し方ない、また明日だ。
2007年7月21日(土) 共同研究活動報告書の作成
朝は福岡内科に寄って、骨粗鬆症改善のビタミン剤を1ヶ月分もらう。研究室に来てNHKFMを入れたら、長唄「安達原」が始まるところだった。ラッキー。いいね、長唄の三味線とお囃子。精神が活性化する。本日は共同研究・博物館プロジェクトの活動報告書を作成してしまおう。
2007年7月20日(金) 「専門資料論」採点
本日は司書課程「専門資料論」の採点・評価。昨年からLMS(学習支援システム)を活用する意味もあって、3回のレポート提出を課している。書き直しを含めると5回のレポート提出になる。この課題をこなした受講生は、基本的に単位認定をするつもりなのに、今年も予め教えてある問題に答えていない受講生がいる。なぜ準備してこないのか、毎年、不思議でしょうがない。「総合目録」の意味を説明できない学生に、司書の資格を与えるわけにいかないだろう。
2007年7月19日(木) 「科学思想史」終了
4時限に「科学思想史」の最終講義。いつもの倍の学生が来ていたと思う。「これで今年度の授業を終了します」と締めくくったら、約1名の盛大な拍手があった。すなおに喜んでおこう。
2007年7月18日(水) 基礎ゼミの雰囲気
2時限が春学期最後の社会学科基礎演習。昨年の基礎ゼミは和気あいあいだったが、今年度はまとまりがなくて、やりにくい。女子学生が昨年は6名だったのに、今年は3名ということも一つの原因だろうし、ゼミの中核になるような学生もいない。秋学期には顔なじみになって、雰囲気が良くなることを期待したい。自分には集団を盛り上げるような才能がないので、学生諸君にゆだねるほかない。
午後は図書館会議、一昨日の事務方との打ち合わせは長時間かかったが、その分、準備が整っているので、30分で終了した。
2007年7月17日(火) 基礎演習準備
午前は在木(ありき)カイロプラクティックで治療。午後は基礎演習で書かせた「手紙文」を添削し、夏期休暇中の課題のプリントを準備。教務課やゼミ生とのメールのやりとりなどで、一日が終わった。まとまった仕事をしないまま、日時が過ぎていく。
2007年7月16日(月) 祭日も授業
本日は「海の日」とかいう祭日だが、本学では通常の授業を実施している。半期14回の授業回数を確保するため、やむを得ない処置である。来週から期末テストが始まるためか、1時限の「科学思想史」には普段の月曜日よりも多くの出席者があった。ほかの授業でも同様らしい。
午後は、明後日開催の図書館会議の打ち合わせ。立場上、細部にわたって確認するので、会議よりもはるかに長時間を要した。
2007年7月14日(土) もう一つの日記
4時に起床、本日午後の会議に関係した文書を読み直し、大学へ。2時限「専門資料論」は期末テスト。例年は午後に採点を済ませてしまうのだが、本日は重要な会議がある。2時に始まって、終わったのが6時。会議の内容は公開ジャーナルに書けないが、自分としては記録しておきたい。非公開の「もう一つの日記」を始めることにした。20年もたてば公開しても問題なくなるだろうが、その時は88歳。まともな判断力を保持したまま、生きていたいものだ。
2007年7月13日(金) レポート採点
manaba システムで提出された「専門資料論」のレポート「百科辞典の比較」を印刷し、添削、評価するのに1日かかった。「執筆者が記載されていない」などと書いてあるレポートについては、図書館まで降りて学生のミスであることを確認するので時間がかかる。項目の最後の執筆者名など、見落としようがないと思うのだが、なぜ目に止まらないのか不思議である。
2007年7月12日(木) 昼食の時間もない
大学院の特別講義のため、1時限から大学へ。2時限の講義の後、、昼休みには博物館実習のガイダンスがあり、3時限にも大学院の授業。昼食の時間もない。わずかな合間におむすびを食べ、4時限の「科学思想史」。体力が続かず、いささか(かなり?)早めに授業を終えた。
2007年7月11日(水) 会議が4
2時限の基礎演習では、伝統的な手紙文の書き方を練習。昼休みに当方が議長を務める学芸員・司書課程運営会議があり、引き続いて大学評議会、大学院研究科委員会、教授会。さらに、社会学部の将来構想についての研修教授会があったが、これには欠席。来年度で退職なので、ま、いいだろう。
2007年7月10日(火) 事故で満員電車
基礎演習で書かせた小論文の添削と雑用で一日が過ぎた。気の進まない仕事なので、さぼりさぼりで能率が上がらない。帰途は、高野線の事故のため、普段より1時間ほど余計な時間がかかった。車掌が振り落とされて対向電車にひかれるという、奇妙な事故であった。ラッシュ・アワー並みの満員電車に乗るのは、久しぶり。ギュウギュウ詰めの電車の中でも、ケイタイに見入っているOLがいる。根性があるのか、余裕なのか。
2007年7月5日(木) 授業の後も会議
朝は狭山駅近くで散髪。3時限の大学院演習と4時限「科学思想史」を終えて、直ちに少人数の会議。最初は疲れているので、みなさんで勝手に決めてくれ、という感じだったが、だんだん気合いが入ってきて、結構しゃべっていたな。
帰途は一人寂しく、泉ヶ丘駅近くの初めての店で夕食を食べたが、この店に二度と行くことはないだろう。
2007年7月4日(水) ウィーンにある浮世絵データペース
2時限の「社会学科基礎演習」はパソコン実習室でワードによるレポート作成を練習した後、全員がmixiに登録し、ゼミのコミュニティに参加することになった。昨年度の基礎ゼミではmixiが良き潤滑剤となったが、ゼミの雰囲気がかなり違うので、今年もうまくいくとは限らない。どうなるか、自分でも興味がある。
午後に文学研究科関係・学内3学会の研究会が開催されたが、会議と重なっているため最初の講演しか聴けなかった。これが大収穫。サバティカルを利用して本学に滞在しているウィーン大学のリンハルト(Sepp Linhart)教授の講演。オーストリア政府の資金援助により、「錦絵の風刺画」データベースがウィーン大学に構築され、一般公開されている。日本で見向きもされない文化財が海外で注目されている一例といえるだろう。
2007年7月2日(月) 『科学史研究』2007年夏号
1時限「科学思想史」の授業の準備を始めたら、教室のパソコンがサーバーにつながらない。慌てて専門家に来てもらったら、接続コードがはずしてあることがわかった。学生がこんな悪戯をするはずもないし、先週利用した誰かが勘違いしてはずしていったのだろう。この間、受講生たちは「学生による授業評価」アンケート用紙への記入をしていたので、時間は無駄にならずに済んだ。3時限、4時限の専門演習が終わり、研究室で一寝入り。
メールボックスに『科学史研究』の最新号が届いていた。目次を見ると、鈴木善次、中山茂、三浦伸夫、森幸也、瀬戸口明久と、面識のある方たちの名前が並んでいて、なんとなく嬉しくなる。森さんは新著紹介欄で拙著『ダーウィン前夜の進化論争』について、「この著作は、進化論の歴史を考察する際に欠くことのできない、極めて重要な一書となるであろう」(p.121)と述べている。これで少しでも売り上げが伸びてくれたら、編集に苦労された名古屋大学出版会にも面目が立つのだが。
2007年6月28日(金) あきらめた
授業期間中でも、授業のない火曜日と金曜日は原則としてダーウィン伝の執筆に当てているのだが、先送りしていた校務が待ったなしになってきたため、原則破棄。本日は「専門資料論」のレポート課題をmanabaにアップすることと、学芸員司書課程運営会議の準備で終わった。しばらくは校務に専念し、我がパソコン内のダーウィン氏には、デボンポートに止まっていてもらおう。実際のダーウィンもなかなか出航できなかったのだから、いいだろう。
2007年6月20日(水) 今日も会議
2時限の基礎演習の後、今日も午後は会議が2つ。空いた時間は校務にかかわるメール処理で一日が終わった。
2007年6月19日(火) 午後は会議
午前は在木(ありき)カイロプラクティックで治療。午後は会議が2つ。火曜日は原則としてダーウィン伝の執筆に当てているのだが、今日も駄目。9日以来、一字も書けていない。
2007年6月17日(日) 日曜日も仕事
登校時に和泉中央駅の構内で、基礎演習を受講している女子学生から声を掛けられた。駅近くの店にバイトに行くのだという。「なんども呼んでいたのにー」と恨めしそうな目でにらまれたが、聞こえなかったのだから仕方ない。自覚してはいないが、残念ながら耳が遠くなってきたことは事実のようだ。
本日は急ぎの書類処理のために出てきたが、予想より早く終わったので、このジャーナルを書いている。我が研究室のある8階は、休日でも結構にぎやかなのだが、本日は誰も来ていない。他のフロアも見て回ったが、2人しか来ていない。春学期の中間点で、みなさん、一休みというところかな。
2007年6月16日(土) 捏造論文
2時限の司書課程「専門資料論」に引き続いて、3時限に補講を実施した。14回の授業回数厳守となっているので、5月26日の休講分を補ったわけである。本日のテーマは「学術における不正」。3時限の補講では、シェーン事件を追跡したNHKのドキュメンタリー番組「史上空前の論文捏造」の録画ビデオを放映した。この番組には2004年10月9日放送の50分版と、2005年3月9日放送の90分版とがあるが、今回、はじめて90分版を見てみた。学生に見せるのは50分版で十分だな。
昨日の新聞には、下村伊一郎・阪大医学部教授の04年の論文について、教授会が取り下げを勧告したという記事があった。昨年は9月の社会人対象・司書講習のおりに、杉野・阪大教授の捏造論文に名を連ねた助手の自殺が報道された。今年の8月末の講習の授業時にも、新たな捏造事件の報道があるような気がする。
2007年6月15日(金) 私立大学図書館協会西地区部会総会
標記の会に出席するため、京都は二条駅に隣接する立命館大学朱雀キャンパスへ。家を出てから、ちょうど3時間で着いた。年度総会の後は、昼食会の形の館長懇話会。他大学から、図書館への関心を高めるためコンサートや展覧会、「読み聞かせ会」などのイベントを実施しているという事例紹介がいくつかあった。博物館・美術館では以前からこうした取り組みがなされ、ますます活発になっているが、その動きが図書館、それも大学図書館にも及んできたということだろう。その真似をすることもないが、本学らしいイベントを考えてもいいかもしれない。
午後も立命館の衣笠キャンパスで見学と講演があるが、疲労が蓄積しているので、これには欠席。あとは課長の井田さんにおまかせしてきた。博物館などに寄っていくのも我慢して、珍しく明るい内に帰宅。
2007年6月14日(木) 『四庫全書』
3時限の大学院演習では英語のテキストを読んでいるが、受講生は中国の留学生一人だけなので、授業を途中で打ち切り、図書館に連れて行って『四庫全書』の復刻版を見せた。編集者の名前まで知っていたのはさすがに中国の学生だが、実物を見るのは初めてで、その膨大な量に圧倒され、感激していた。中国人に中国文化のすごさを説くのは、なんとなく愉快である。
4時限の「科学思想史」の後は、昨日の教授会の決定を受けて少人数での会議。大量の書類を急いで処理することになった。明日は出張だし、日曜日に出て来て片づけるしかないだろう。
2007年6月13日(水) 会議の日
2時限の基礎演習が終わったら、どっと疲れが出て、しばらく研究室で横になっていた。午後に会議が4つあったが、前半の2つは欠席。最後の社会学部教授会も学生の懲戒処分やカリキュラム改革の問題で長くなり、中抜けして休んでいた。
2007年6月12日(火) 教育実習校訪問
先週から4年次専門演習の受講生の一人が母校の奈良県立大和広陵高校で教育実習を受けているので、あいさつに出向いた。普段着ることのない背広ネクタイで、単線の近鉄田原本線箸尾駅から田んぼの中を歩いて15分。担当の先生と話をする程度と予想していたら、校長、教頭、教務主任、事務長と、学校の幹部の皆さんが応対に出てこられた。背広ネクタイにしてよかったよ。当方の訪問に合わせて実習生の公開授業が設定されていたので、学生の授業を見ることができた。「学習指導案」通りにはならなかったが、まずまずではなかろうか。生徒も静かに話を聞いていた。本学の学生よりも受講態度がよいくらいだ。そういうクラスを選んで実施したという事情もあるらしい。授業の後、担当の梶ヶ内先生から、いろいろと指導を受けていたが、最初に、目線の方向、板書の時の姿勢を問題とされていた。なるほど、と思った。自分の授業でも気をつけよう。
2007年5月31日(金) 疲れが取れない
土日に京都にいた間はさして疲れを感じなかったが、29日(火)にどっと疲れが出てきて、回復しない。授業だけはこなしているが、研究室では横になっている。原則として金曜日はダーウィン伝の執筆に当てているが、本日はフィッツ=ロイについてわずかに書き始めただけで終わってしまった。
大学のエレベーターの中で他学部の同僚から、「授業期間中も本を書いているのはすごいね」といわれ、びっくりした。このジャーナルを読んでいるのだという。HPのジャーナルはどこで誰がどんな風に読んでいるのかわからないので、スリルがあって面白い。
2007年5月27日(日) 日本科学史学会年会、2日目
本日も学会には午後から参加するので、まずは京都国立博物館へ。開館の9時半まで時間があるので、加茂川を四条から七条まで散歩。京博の特別展「藤原道長」は「経塚展」と名乗るべき内容で、それなりに充実していた。この世で恵まれなかった人々ではなく、栄耀栄華を極めている貴族たちが、なぜこれほど後生を願ったのだろうかと思いながら見て回った。京都国立近代美術館では、「福田平八郎展」。あれっ、「漣」が出ていない、と思ったら、5月15日までの展示であった。いずれまた、長堀で見ることができるだろうから、いいか。今回は常設展のマチスやモンドリアンの方が面白かったな。
京産大の学会では、生物学史分野の講演を聴く。藤岡毅さんの講演「1939年ソ連遺伝学会議再考」に対し、フロアからルイセンコを擁護する立場の発言があったのにはびっくりした。DNAの時代になってもメンデル遺伝学を全否定したルイセンコを支持するとは、精神構造がアメリカの創造論者と同じなのだろう。
2007年5月26日(土) 日本科学史学会年会・総会
京都産業大学で開催される標記の会に出席するため、京都へ。学会には午後から参加するので、まずは相国寺の「若冲展」へ。開館時間の10時に着いたら、すでに長蛇の列。「動植綵絵」の展示室にたどり着くのに2時間半。混雑しているので一枚一枚、絵を味わうなんて、とてもできない。部屋の中央で全体を眺めるのが精一杯だった。この強烈な30枚の絵の中で、釈迦三尊を中心とした仏教の儀式が行われたというのは、不思議な気がする。
昼食を取る暇もなく、京産大へ。地下鉄・北大路からタクシーに乗ったが、大学の正門に着いてから、ぐんぐん坂道を上っていくのでびっくりした。
学会のシンポジウムと総会に参加した後、懇親会はパスして中心街へ。直前になってから宿を探したので、手頃なビジネスホテルはほとんど満室だった。それでもインターネットで探したら、木屋町四条にほどほどの宿を見つけることができた。快適とはいえないが、便利な場所なのでよしとしよう。
2007年5月23日(水) 会議のない水曜日
水曜日は2時限に基礎演習、午後はたいてい、会議があるのだが、本日は図書館会議を中止したので、出席義務のある会議がない。なんとなく得した気がする。ゆったりした気分で基礎演習の授業計画を見直し、科学思想史の教材公開の作業をした。
2007年5月19日(土) 坂昌樹・准教授、お別れ会
2時限の司書課程「専門資料論」の後、光明池駅前の泉北メモリアルホールの標記の会に出席。53歳で突然死とは、本人も悔しいだろう。本学の将来にとって貴重な人材が失われた。同僚としても無念である。人間、いつ、どんな形で命を落とすか分からないということを、つくづく思い知らされた。
2007年5月17日(木) 斎藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物往来社、2006年
通勤の行き帰りに読んでいた標記の著書を読了。著者はこの事件を追っていた『東奥日報』の記者。マスコミをにぎわした和田文書はすべて、「発見者」の和田がでっち上げたものであった。1970年代に科学史学会の年会でも同書に基づく研究発表があり、年代が合わないと会場で厳しく批判されていたことがあったと記憶している。
この偽書に関して不思議に思っていたことは、偽書であることが歴然としているのに、古田武彦らがなぜ、「真実の歴史」としてもてはやすのかということ。本書によれば、古田は偽書であることを承知の上で、金儲けのために真筆説をとって嘘の歴史を書きまくり、「寛政原本」を偽造しようとまでした。「古代史ゴロ」「学匪」という高木彬光の批判が引用されている(p.263)。
和田がでっちあげた遺跡を、安倍氏ゆかりの地として安倍晋太郎夫婦が訪れ、偽書の宣伝に一役買ったという。これも「美しい日本」なのだろうか。
著者・斎藤の疑問の一つは、なぜ歴史の専門家がこの偽書問題を放置していたのかということだった。歴史研究者の答えは、偽書であることが歴然としている資料を調査研究する余裕はなく、この手のものは黙殺するのが学界の常識、というものであった。著者はこれに納得していない。研究者には学者仲間だけでなく、一般社会に対しても発言する義務があると著者は主張する。研究者の端くれとしては、歴史研究者の立場もよく分かるし、著者の不満も理解できる。日本では、日本史研究とは違って科学史研究が専門領域として確立していないので、科学史家は学者仲間だけを相手にしているわけにはいかない。そうはいっても、頻出する科学史上の誤説、愚説、珍説に一々付き合ってもいられない。難しいところだ。
学者以上に問題なのは、インチキでも面白そうな話題を無責任に流すマスコミ関係者だろう。わが趣味の領域でいえば、織田信長に関する偽書や愚かな珍説をもてはやして広めているのは、どこのどいつだ。
2007年5月16日(水) 相次ぐ訃報・不祥事
2時限の基礎演習の後、午後は会議が3つ。訃報・不祥事が相次いで報告された。坂昌樹・准教授が8日に急死されたことは14日にメールで通知され、学内に衝撃が走った。評議会での報告でやや詳しい事情がわかったが、元気だったのに
53歳で突然死とは驚いた。また、連休前に在学生がバイクの事故で亡くなったことも報告された。バイクによる死亡事故は毎年のようにある。そのわりにバイクに乗る学生たち本人は、ほとんど気にしていない。「自分は大丈夫」と根拠のない確信を持っているのだろうか。
在学生が14日に逮捕された件は大学のホームページにも掲載されていたが、社会学部教授会では当日判明した別件が報告された。当方の記憶では本学の在学生によるこのような犯罪は今までなかったように思う。それぞれ個人の行動なので、大学が直接、責任を負う問題ではないものの、教育の在り方が問題になるであろう。頭の痛いことだ。
2007年5月5日(土) 漱石の『猫』
通勤の行き帰りに読んでいた長山靖生『「吾輩は猫である」の謎』(文春新書、1998)を読了し、これに刺激されてまた、『猫』を読み始めた。自宅の書架にある岩波文庫2冊本は昭和30年の第18刷。なんども読み返した本だが、さすがに変色が甚だしく、電車の中では読みにくい。1冊本の新潮文庫を買い直した。長山はよく調べていると思う。犬の比喩と『趣味の遺伝』の冒頭にある「雲の裡より叫ぶ声」とを結びつけて、漱石の「深遠なる戦争批判」(p.210)を指摘しているのが、特に印象的であった。
『猫』は何回、読んでも面白い。格別のストーリーがあるわけでもなく、話の展開はほとんど頭に入っているのに、あきることがない。これが文豪のすごさなんだろう。長山の分析を読んで、ますます『猫』が面白くなってきた。
研究室でダーウィン伝に集中できるのも今日まで。朝10時から夕7時まで部屋にいても、集中力が続かず、作業している時間は半分もない。それでも我がパソコン内のダーウィン氏は、ロンドンでフィツロイ艦長に会うところまできた。予定としてはビーグル号に乗船させるはずだったが、このくらいの遅れはよしとしよう。ケンブリッジの状況やビーグル号乗船の事情について、さらに書き込みたいことがあるので、航海を終えてロンドンに落ち着くのは7月かな。
2007年5月4日(金) 小学校の恩師の逝去
夜、大学から帰宅すると、宮本富雄先生のご家族から、4月20日に先生が逝去され、23日に葬儀を済ませたとの知らせが届いていた。享年79歳であった。
当方が5年生の時に芝小学校に来て、卒業までの2年間の担任であった。当方の11歳年上だから、21歳で教えに来たことになる。そう、先生は師範学校を卒業したばかりで、中央大学法学部夜間部の学生でもあった。石川県の出身で、当時は学校近くにバラックを借りて住んでいた。戦災で焼けた校舎が再建されたのもこのころで、終戦後は竹芝小学校の一部を借りたり、その後は仮設校舎で、同じ教室を午前と午後に分けて使う二部授業をしていた。
4年生までの当方は、劣等生というほどではないが、成績は平均以下であった。4年生で習う割り算が理解できず、秀才の大須賀君に教えてもらったことを今でも覚えている。それが、5年生になって宮本先生の担任になったら、急激に成績が上がり、ダントツのトップ。同級生から「ちょろ松」と呼ばれていたのが、「ハカセ」のあだ名をもらうまでになった。我が家族にとって、宮本先生は神様のような存在であった。今にして思うと、1月生まれで成長の遅いおくてだったため、低学年の間は能力差が大きく、10歳になって追いついてきたという面もあったのだろう。こうした本人の成長と、宮本先生の指導がうまく適合して成績が伸びたのであろう。
先生は情熱の人であった。卒業式の日には、生徒以上に泣いていた。その後、数年間は芝小学校で教鞭を執っていたが、最初の担任だった我々に対するほどには熱い思いが持てないといっていた。学校をやめた後、法律事務所で働きながら司法試験合格を目指していたはずだが、それはついにかなわなかった。
中学、高校の間はしばしば会っていた。東大に合格したときは、だれよりも喜んでくれた。事務所であまり騒ぐので、どんな関係かと怪しまれたと笑っていた。当方が関西に来てからは会う機会も少なくなったが、わざわざ2度、こちらを訪ねてくれた。楠公のフアンだというので、遺跡を案内したこともあった。2001年夏に東大から学位を授与されたとき、報告にお宅を訪ねたのが最後になった。当時から体調がすぐれず、療養生活を送っておられた。
私の人生を形作ってくれた方々のうちで、最初に出会ったお一人であった。感謝を込めて、ご冥福を祈りたい。
2007年5月1日(火) NHK-FM「浪曲三昧」
今年は4月30日(月)から5月5日(土)まで、本学ではすべて休講としたので、この間は授業も校務も忘れてダーウィン伝の執筆に集中することにしている。本日は授業はなくても事務室や図書館は休んでいないので、文献を借り出すことができた。ところが昼前からNHKFMで「今日は一日浪曲三昧」をやっている。これはやばい。子供の頃はラジオから絶えず浪花節がながれていた。虎造の「三十石舟」など、いまでもほとんど憶えている。つい、手を止めてFMを聞いてしまうので、能率が上がらない。ま、連休中だからいいか。現在のヒットソングとは違い、浪曲では言葉と曲とが調和しているので気分よく聞けるのだろう。義理人情の世界も悪くない。
我がパソコン内のダーウィン氏は、現在、ケンブリッジ最後の半年で、ペイリー『自然神学』などを熟読している。この連休中になんとかビーグル号に乗せたいものだ。
2007年4月25日(水) 会議が4
2時限の1年次生ゼミは図書館ガイダンス。そのまま会議室に行って学芸員・司書課程運営会議の議長。同時刻に開催されている全学情報化推進委員会は欠席せざるを得ない。大学評議会、文学研究科委員会、社会学部教授会と続き、さらに研究室で図書館業務を1件処理。帰宅は9時過ぎ。それから夕食だから体にいいわけがない。
2007年4月23日(月) 好調な就職活動
1時限「科学思想史」、2時限に会議、3時限・4年次生ゼミ、4時限・3年次生ゼミとフル回転。4年次生の就活状況を聞くと、すでにほとんどが複数の内定を取っている。景気が好転しているのは事実なのだろう。
2007年4月22日(日) 小テスト採点・レポート添削
本日は家に持ち込んだ「科学思想史」の小テスト回答116枚の採点と、「専門資料論」のレポート42枚の添削。気の進まない作業なので、テレビを見たりして能率が上がらない。結局、レポートは半分、手つかずであった。
2007年4月21日(土) 和泉市久保惣記念美術館
2時限「専門資料論」のあと、昼食を取るまもなく直ちに久保惣美術館へ。先週に引き続いて学芸員課程の見学研修引率である。上仁学芸員のていねいな案内で、新館、ホール、お茶室、本館と見て回る。現在は企画展「名品に出会う」が開催されており、国宝の青磁「万声」や重文の「駒競行幸絵巻」などが展示されている。しかし学芸員課程の見学なので、名品解説よりも展示方法の解説を中心にお願いしている。4時に見学が終了した後、研究室にもどって一仕事。manabaシステムで提出されている「専門資料論」のレポートをダウンロードしてプリントアウト。ほとんどの受講生はこのシステムを抵抗なく利用している。ただ、まだ開発中のシステムなので教員の側からは使いにくいところがあり、思ったより時間がかかった。
本日も記念すべきことを書きたいのだが、「絶対に書くな」と釘を刺されているので、書けない。やはり非公開の「もう一つの日記」が必要だな。
2007年4月20日(金) 小林標『ラテン語の世界』中公新書
大学の行き帰りにはなるべく新書版を読むことにしているが、久しぶりに専門家による充実した新書に出会った。本書に盛られている学識に敬意。もう一度、ラテン語を勉強したくなった。お手軽な新書が増えてきた中で、中公新書は高いレベルを保っていると思う。
ただ、「ガリレオ、ケプラー、リンネらもすべてラテン語で著作している」(p.258)とあるのは残念だった。ガリレオがイタリア語で書いていたことは、科学史上でも注目すべきことである。専門外のことに言及するのは怖い。
2007年4月19日(木) 書いてはいけない
3時限が大学院修士課程の演習。4時限の「科学思想史」では、今年度最初の時間内テストを試みた。小テストは教育効果を高めるが、これを読んでコメントするのが大変なので、大教室の授業で毎回実施するのは困難である。
ところで、ホームページには、書きたくても書けないことがある。学生についての愚痴や同僚の悪口。進行中の人事も書いてはならないし、それに関与していることさえ触れてはならない。さらに、入試業務の中には、関与していることを絶対に公表してはならないこともある。私的なことにも、公開のジャーナルに書くべきではないことがある。さらに、大学のサーバーを利用している以上、政治的発言にもおのずから限度がある。というわけで、昨日も今日も書きたいことはあるが、内容のないジャーナルになっている。
2007年4月18日(水) 最初の図書館会議
午後、図書館長になって初めての図書館会議を主催した。事務方との打ち合わせを直前に行ったため、やや混乱したが、まずは無難な船出。次回は前日に打ち合わせをすることにした。図書館業務の全体像が分かるまでには、まだ時間がかかりそうだ。
2007年4月16日(月) やはり1日3コマはしんどい
3時限の演習4の出席者は先週と入れ替わりで、4名。就職活動の終盤で、最終面接の時期になっているらしい。4時限の演習3も4名。先週は3コマこなしたわりに疲労感が少なかった。しかし今日は、人数が少なくても論文の書き方などの本格的な指導をしたし、授業の合間にはさまざまな校務が飛び込んでくる。さすがに疲れた。
授業後、映像館から、当方も出演したサイエンス・チャンネル「世界を変えた書物たち」の英語版がドイツの映像祭で銀賞を受賞したとのメールが届いた。まずはめでたい。一番喜んでいるのは、制作費を負担したJST(科学技術振興機構)だろう。これで予算獲得の大義名分が立つというものだ。
2007年4月15日(日) 自宅でmanaba
昨日の「専門資料論」初出席者6名を自宅のパソコンでmanabaに登録した。朝日ネットから、ユーザー名簿のexcelファイルを開いたままだとアップロードできないことがあるので、閉じてから実行するようにとの指示があったので、今回は簡単に登録できた。こういう作業が自宅でできることが、この種のシステムの効用の一つだと思う。
2007年4月14日(土) 和泉市いずみの国歴史館
2時限「専門資料論」に今回、初めて出席した者が6名。いまだに、最初の授業は休むという古典的な感覚の学生がいる。午後は、大学に隣接する「和泉市いずみの国歴史館」で、学芸員課程の見学研修引率。例年の通り、和泉市教育委員会の白石耕治さんに解説をお願いした。白石さんが常駐していた平成10年の開設当初は年間1万人の入場者があったが、白石さんが教委に引き上げられ、歴史館が非常勤だけになって活動が低下してからは、4千人にまで落ち込み、昨年度はようやく、6千人にまで回復したということだった。企画展などの地道な活動が入場者増につながるという話を、学生たちはどのように聞いただろうか。
この後、難波・高島屋の「川合玉堂展」へ。「古い」という批判もあるようだが、失われた日本の風景にほっとする。ただ、点数が多すぎる。この半分以下でも十分に楽しめると思う。
気持ちの余裕がなく、博物館・美術館めぐりをさぼっているので、久しぶりの展覧会であった。
2007年4月11日(水) 会議が4
2時限の基礎演習の出席者は11名。予備登録は13名のはずなので、早くも2名が放棄か。男子8名、女子3名と、男女比が昨年と逆転したので、雰囲気が昨年とはかなり違うものになっている。まずは原稿用紙に自己紹介を書かせてみる。
2時限の授業が終わって、30分後に本日最初の会議。これはきつい。低血圧気味なので、昼食後、すぐには行動しにくい。結局、30分遅れで大学評議会に出席。図書館長は当然職として評議員になるので、出席義務のある会議が一つ増えてしまった。連合教授会、文学研究科委員会、社会学部教授会と続いて、終わったのが6時。ほとんど発言せず、挙手しているだけだが、疲労困憊で帰宅。
2007年4月9日(月) 春学期授業の本格的始動
1時限の「科学思想史」の出席者はジャスト100名。木曜日はこれより多くなるだろう。3時限の演習4は2名だけ。在籍者は7名のはずだが、就活欠席が目立つ。4時限の演習3は5名のうち、4名出席。演習としては少なすぎて、もの足りないが、正直いって、負担が軽いのはありがたい。おかげで3コマこなしたわりには、疲労感が少なかった。
2007年4月7日(土) 授業開始「専門資料論」
本日から春学期の授業が始まった。といっても土曜日の開講科目はわずかなので、大多数の学生にとっては明後日の月曜日が最初の授業になる。当方担当の2時限目「専門資料論」の出席者は37名で、例年並み。2年次生もかなりいるが、彼・彼女らとって最初の司書課程科目となる。いきなり学術文献の話とは無茶なのだが、履修の順番を指定できないのでやむを得ない。
午後は授業に出席した学生をmanabaに登録するのに費やした。氏名、学籍番号の入力自体は、それほど時間を食わなかったが、やはり操作にてまどった。ユーザー名簿のexcelファイルのアップロードを実行すると、「excelファイル以外はアップロードできません」と拒否され、途方に暮れる。なにか間違ったことをしたのかと思い、ファイルを作り直しても同じ。頼みの藤間助教授(ちがった、この4月からは准教授)は帰宅しちゃったし、どうすればよいのだ。学生には気の毒だが、月曜日まで待つしかないと思ったが、念のためシステムを再起動してやりなおしたら、同じファイルなのにスムースに処理された。履修者登録でも同じことが起きたが、今度はだまされないぞ。ログインし直して無事終了。これで明日から学生たちもmanabaが使える。
思った以上に時間を要したが、最初のうちはこんなものだな。
2007年4月6日(金) ダーウィンの初恋
授業期間でも火曜と金曜は『ダーウィン伝』の執筆に当てる予定なのだが、どうしても授業の準備が優先して思うようにいかない。本日もmanabaの「専門資料論」コースの作成に半日以上、掛かってしまった。
午後に少しだけ、ダーウィンの初恋を加筆する。「世界中の誰もが知っているように、ファニーはシュロップシャーで一番、かわいくて、ふくよかで、魅力のある人です」。19歳の大学生の幸福な錯覚。初恋に破れたことがダーウィンの生物学にも影響しているという解釈もあるが、どうかな。
2007年4月5日(木) 続・授業支援システムmanaba
本日は一日掛けて、manaba の「専門資料論」コースに教材等をアップし、レポートの出題、ダミー学生の立場でレポート提出、掲示板への書き込みなどを試した。一通り成功したので、学生も問題なく使えるだろう。8日の日曜日は受講生の登録に一日費やすことになりそうだ。
2007年4月4日(水) 授業支援システムmanaba
春学期の土曜日に開講している司書課程「専門資料論」では、昨年度、ブラックボード・システムを試用したが、今年度は(株)朝日ネットのmanabaを試用することにしている。昨日からmanabaの体験版に取り組み始めたが、ようやく、利用方法の概要が理解できた(と思う)。こういうものは、最初につまらないところでつまずく。その段階を過ぎると、おおむね楽に使えるようになる。ブラックボードや帝塚山大学提供のTIESでも同様だった。明日中にはmanabaに教材をアップして、7日(土)の授業に間に合わせたいものだ。
2007年4月2日(月) 入学式
昨夜、かなり強い雨が降ったにもかかわらず、バス停への道の桜は満開。三日市町駅前の再開発事業が完了し、今日からバスが駅前に着くようになった。これでバス停から駅まで走らなくてもよくなった。
大学では入学式。黄砂で景色がかすんでいるが、とにかく晴れて良かった。入学式には図書館長も登壇することになっているが、長時間、腰掛けているのは体力的に無理なので登壇を勘弁してもらった。途中で退席するよりましだろう。
さてと、3月までの研究モードを教育・業務モードに切り換えて、仕事にかかるとするか。
2007年4月1日(日) 団地の自治会・総会
10時から団地の自治会館で自治会の総会。2006年度の班長会は積極的だったのはよいが規約にある手続きを無視しているという批判が相次ぎ、例年になく紛糾した。最後は事後承諾の形で落ち着いたが、これが会社など権力闘争の場だったら無事には終わらなかったろう。班長の一人として言い訳すると、班長会では手続きの問題を指摘したのだが、「行け行けどんどん」の積極論が大勢を占め、それも悪くないだろうと最後まで反対することはしなかった。総会が紛糾したのは自治会の健全さを示すものでもあろう。
午後は班長の打ち上げ慰労会。とにかくこれで、肩の荷が一つ下りた。
2007年3月29日(木) 私情協・総会
私立大学情報教育協会の総会に出席のため、東京は市ヶ谷の私学会館へ。これが情報センター長としての最終業務になる。昨年と同様、会館近くの堀端の桜が満開で、その下で昼食を取るOLたちもいた。青シートがあちこちに敷かれており、夜の騒ぎが想像される。今年の花見もこれでよしとしよう。
総会の話題の一つが、パソコンのソフト台帳。今後は、学内のパソコン一台ごとにソフト台帳を作り、ライセンスの確認が必要になるようだ。研究者によるソフトの不正使用が後を絶たない以上、やむを得ないだろうが、情報センターの業務が増大する一方だ。
総会終了後、朝日新聞出版局の山田豊さんと朝日選書『ダーウィン伝』の打ち合わせ。山田さんは今年7月の定年後も数年は編集作業を続けることができるとのこと。あまり執筆を焦らないでもよくなったが、9月までに一応、書き上げたいものだ。ダーウィン年(2009年)の前年、当方がまだ在職中の2008年に出版の予定は変えたくない。
わがパソコン内のダーウィン氏は、ただいまケンブリッジで遊びほうけているが、少しは勉強させないといかん。ファニーとの色恋沙汰はパスするつもりだったが、山田さんが書けというので、エジンバラ時代にもどって加筆しよう。
2007年3月17日(土) 卒業式
春休みで閑散としていた学内も、今日は袴姿の女子学生で華やいでいた。今年度は4年次生のゼミを担当していないので、卒業式にも、その後のパーティーにも出席せず、ダーウィン伝に取り組んでいた。我がパソコン内のダーウィン氏も、ようやくエジンバラを脱出し、ケンブリッジに行く準備に入った。このペースだと、ビーグル号に乗るのはゴールデンウィークか。
2007年3月14日(水) 業務引継
情報センターと図書館の定例会議、その後の新旧センター長および新旧館長の業務引継で一日が終わった。次期センター長・牧野丹奈子教授は若さのエネルギーでeラーニングの導入を実現してくれるだろう。北川紀男教授からの館長業務引継によれば、情報センター長とは違い、図書館長は図書館の日常業務にもかなり関わることになるようだ。予想以上に多忙なのかもしれない。
2007年3月11日(日) 確定申告
今年も3月15日の締め切りぎりぎりになって、憂鬱な所得税確定申告書の作成。昨年から国税庁HPの「申告書作成コーナー」を利用しているが、気の乗らない仕事なので、女子マラソンの中継を見たり、数独パズルで遊んだりして、終わったのは夜。それにしても、わずかな臨時収入も税金で大幅に目減りするので、がっかりだ。
2007年3月9日(金) 「千の風になって」
生協に発注していたCD、綾乃ひびき「永遠の風」が届いた。お目当てはタイトル曲ではなく、「千の風になって」。昨年の11月ごろ、NHK・FMで聴いたのがこの曲との最初の出会いであった。その時は曲名も歌手も聞き漏らしたが、今思えば新垣勉の歌だったろう。それが紅白の秋川雅史でブレイクした。ネットで検索してみると、さまざまな歌手が歌っていたが、以前から根強い人気があるらしいこの女性歌手のCDを購入してみた。
自分の本音としては、墓参りにも法事にも関心はない。故人の想いが残っているとすれば、「あの大きな空を吹き渡っている」と考えたい。遺骨を墓に埋葬しなくても違法にはならないようだ。自分の骨を自分で扱えるものなら、焼き場で処理してもらうのが一番、すっきりするのだが。
2007年3月8日(木) 最終の教授会
午前中は大学院生の英語特訓。今回から女子学生の押しかけ参加があったので、ややにぎやかになった。長文読解の受験参考書を使っているが、自分にとってもいい勉強になっている。受験英語とばかにしたものではない。
午後からは今年度最終の大学院研究科委員会と卒業判定の教授会。教授会にとって卒業判定は入試判定と並ぶ最も重要な審議事項である。実際の会議では教務委員会提案に賛成の挙手をするだけなのだが、最終決定権を握っていることが大事だと思う。
教授会終了後、ミナミに繰り出す同僚たちもいたが、禁酒を厳守の当方は研究室でコーヒーパーティー。同じフロアの同僚4人とワイワイやって本日は終了。
3月にはまだ、情報センターと図書館の業務の引き継ぎがあり、卒業式、在校生の成績発表と続く。月末には私情協総会がある。それでも授業に追われることがないので、ダーウィン伝をできるだけ先まで執筆しておきたいものだ。
2007年3月4日(日) 笛の会
森田流能笛・野口傳之輔師の教室の発表会があるので、昼から大槻能楽堂へ。カミさんは梅若万三郎師の舞、片山九郎右衛門師の謡で舞囃子「鷺」を出すというのだから、えらいこっちゃ。とにかく無難に終えた。
能楽堂に行く前に近くの大阪歴史博物館に寄り、特別展「脳」を見る。大阪市には市立の自然史博物館も科学館もあるというのに、なんで歴史博物館で「脳」をやるのだ。関連展示として「大阪の医学史:合水堂と適々斎塾」のコーナーがあったのが救いだった。
帰りは国立国際美術館の「夢の美術館:大阪コレクション」へ。現代美術は苦手なので、行っておいたというだけ。市立近代美術館の目玉、モジリアーニの「横たわる裸婦」が印象的であった。
いかに余裕がないとはいえ、毎日、自宅と研究室の往復ではうんざりしてくるので、よい気晴らしになった一日だった。
2007年3月2日(金) 地震と博物館
今週からダーウィン伝の執筆を再開したが、まだ、エジンバラをうろうろしている。我がパソコンの中のダーウィン氏からは、「早くケンブリッジに行かせろ。急がないと9月にウエストミンスターの墓に入れないぞ」とせかされているのだが、遅れがちである。気になることは一つ一つ資料を確認しているので、時間がかかる。調べてみると、通説の間違いがかなり出てくる。あわてずに、急ごう。
4時から、共同研究・博物館プロジェクトの研究会。新潟県立歴史博物館(長岡市)の山本哲也・研究員を囲んでの勉強会である。2004年10月の中越大震災のときの経験談を聞いた。山本さんをはじめ館員は県の職員なので博物館の復旧と県民へのサービスに必死になったが、指定管理者制度が導入されていたら、どうだったろうか。博物館の管理者が交代する時期に自然災害が起きたりしたら、責任を持って働く人がいないのだから、とんでもないことになるだろう。
2007年2月23日(金) 博物館法改正
朝、散髪屋に寄ってから大学へ。昼から会議が4。さらに社会学部ではGPAについて学ぶ研修教授会が開催されたが、これには欠席し、共同研究・博物館プロジェクトの研究会に出席した。全日本博物館学会会長の鷹野光行・お茶の水女子大学教授を囲んでの勉強会である。鷹野教授は文科省の「これからの博物館の在り方に関する検討協力者会議」委員のお一人で、博物館法の改正に向けてどのような議論がなされているか、詳細にお聞きすることができた。今回の改正の焦点は、現行の登録博物館に代わる新たな認証制度の制定にあると思われるが、大学人の関心はどうしても「学芸員」資格がどうなるかに向けられてしまう。他のシンポジウムなどでもそうらしい。研究会が8時に終わり、さらに食事をしながらオフレコの話も聞くことができた。
博物館法の改正は必要だと思うが、日本の博物館・図書館には法律ではどうにもならない問題がある。博物館・図書館について無知蒙昧な人物が「文化人知事」といわれるようでは、博物館も充実しないだろう。あいつは日本の文化の敵だ。
2007年2月21日(水) 「科学は聖書ゆえに進歩した」
『科学革命とキリスト教』3巻(すぐ書房、2003年)の書評をようやく終えた。表記の言葉は同書の最後に編者のラッセルが述べているもので、近代科学の発展にキリスト教信仰が不可欠であったことを意味している。同書は『OU科学史』(創元社、1983-4年)を再版したもので、原著はイギリスの放送大学オープン・ユニバーシティの1974年の授業の教科書である(Science and Belief : from Copernicus to Darwin)。
書評を書くきっかけは、昨年の春、すぐ書房の有賀氏を介して訳者の一人、藤井清久さんから依頼があったことで、書評はキリスト教関係の雑誌に掲載したいとのことであった。徹底的に調べないと気が済まないので、原著と創元社版とすぐ書房版とを対比しながら、一通り全部に目を通した。そこまでしたのは、ほかには一人もいないだろう。それだけの価値のあるものかは疑問だが、書誌的事項などをきちんと記載しておきたいと考えた。そうなるとキリスト教関係の雑誌では無理なので、詳しい書評は『生物学史研究』に掲載し、キリスト教関係の雑誌にはその簡約版に解説を加えたものを送ることにした。厳密にいえば多重投稿の不正行為になるが、内容の異なる書評であり、掲載誌はいずれも少部数で読者が重なることもないので、許されるだろう。
はじめは好意的な書評が書けるだろうと予想していたのだが、結果はかなり厳しいものになってしまった。ダーウィン関係を扱った第3巻については、「すでに訳者・鈴木が創元社版で遠慮がちに『いくらか“古さ”が見られなくもない』と述べているが、それからさらに20年がたった。古色蒼然の観は免れない」といわざるをえない。
さて、明日からは『ダーウィン伝』の執筆を再開し、30年前のダーウィン論との違いを明白にしなければならない。
2007年2月14日(水) 監訳者
『科学革命とキリスト教』(すぐ書房、2003年)の第1巻を読んでいて、奇妙な食い違いに気が付いた。同書は『OU科学史』第1巻(創元社、1983年)をそのまま再版したものだが、新版では新たに監訳者・渡辺正雄の小論「歴史のなかの宗教と科学」が付加された。これは1993年に岩波講座『科学と宗教』に掲載した論考の再録である。ここで渡辺はコペルニクス説について、「周転円を使わぬ単純な数学的体系によって諸惑星の逆行現象を鮮やかに説明できるというところに、彼の太陽中心体系(地動説)の最大のメリットがあった」(p.364)というが、翻訳本文の第2章でホーイカースは「コペルニクスは、非常に多数の周転円を持ち込んだだけでなく、周転円の上に周転円を重ねることすらしなければならなかった」(p.88)と述べている。また、ガリレオ裁判で断罪の根拠となった文書について、渡辺は「ガリレオの敵対者たちが異端審問所の書記を買収して書かせた偽造文書ではないか、という疑いが濃厚になってきている」(p.373)というが、第3章でグッドマンは「この文書が1616年に書かれたものであることは、今日では確かめられている」(p.196)と述べている。これは原著(1974)の説明が正しいのであって、今ではどちらも科学史家の常識といってよいだろう。なまじ監訳者が旧稿を再録したため、原著にも翻訳にも目を通していないことがばればれになってしまった。
2007年2月12日(月) 書評再開
振替休日だからといって、休む余裕はない。研究棟のどの階にも、常連が二三人は来ているようだ。研究モードに切り換えて、まずはOU科学史の書評を再開。本日は原著者たちについて調査した。ホーイカースとかブルックのような著名な科学史家については問題ないが、知らない執筆者についてはかなり苦労した。ネットで検索すると歴史研究の分野に同姓同名がいたり、逆に同一人物でも異なる表記をすることがあり、慎重に同定しなければならない。一番困ったのは、ネットで検索しても出てこない著者である。大学の教科書の執筆者なのに論文の一つも書いていないのだろうか。この謎は、原著を確認することで解決した。この答えを知りたい方は、書評を掲載する予定の『生物学史研究』(多分、78号)をご覧下さい。
2007年2月10日(土) 藤間繁義名誉教授・追悼式
午前中に私情協への教材登録を続行。一度やり方を覚えると、この作業も苦でなくなる。著作権を気にしないでよい教材をどんどん登録しよう。今回は「専門資料論」の試験問題と、基礎演習・研究報告集に掲載した前書きと後書きとを登録した。
午後、大学のチャペルで、1月に亡くなられた藤間繁義名誉教授の追悼式が行われた。長年、学生寮監や運動部の世話を続けられ、学生から慕われる名物教授だったので、大勢の卒業生や関係者が集まった。当然、チャペルには入りきれず、隣接する集会室も満杯。若い世代の卒業生や教職員の一部はチャペルの外で参加する形になった。晴天で、本当によかった。第二部が生協食堂で開催されたが、団地の班長会があるのでこれには欠席。
班長会も次年度への引き継ぎの時期に入り、処理すべき問題も多く、終わったのは9時であった。今年度は順送りの班長に当たったが、執行部に入らずに済んだので楽をさせてもらった。
2007年2月9日(金) 私情協に教材登録
午後から会議が4つ。入試判定のため、教授会も変則的な開催になっている。会議の合間に、私情協(私立大学情報教育協会)の「電子著作物権利処理事業」に教材を登録する作業に取り組んだ。大学教員の教材共同利用を推進するための事業だが、あまり利用されていない。私情協事務局からは利用を促す文書が届いている。他人の教材を利用したり、自分の教材を提供することについては、私も積極的ではない。しかし本学で参加する教員が一人もいないというのは具合が悪かろうと思い、情報センター長の最後の仕事として教材を登録することにした。教材を公開するとなると、著作権の問題を完全に処理しておかなければならない。教材登録が進まない大きな理由だろうと思う。今回は、司書課程「専門資料論」の教材のうち、著作権の問題が生じないと思われる部分だけをまとめて登録した。
これで授業にかかわる仕事は一段落のはずなので、これから3月末まで、研究モードで突っ走りたいものだ。
2007年2月8日(木) 学生による授業評価
午前は、大学院生の英語特訓。構文などについて、自分にもいい勉強になっている。午後は、「学生による授業評価」の結果について所見を執筆し、担当事務局に送信した。所見の内容を下記<>に紹介しておこう。「開き直り」と言われるかもしれないな。
<「科学技術史」に対する設問17(総合的満足度)の平均が80というのは、予想外な結果であった。春学期の「科学思想史」のばあい、同じ設問の平均は63であった。パワーポイントとビデオを利用するという授業方法はほとんど同じで、部分的には同じ教材を用いている。それなのに、なぜこれほどの差が生じたのだろうか。最大の理由は、受講生の数と意欲によるものだと思う。「科学思想史」の当日の回答者は64名であった。「科学技術史」は月曜1限に実施し、回答者は14名であった。「科学技術史」では、意欲的に受講している学生だけが出席していたと見てよいだろう。
同じ授業でも、受講生によって評価が大きく変わる別の例を挙げておこう。春学期の司書課程「専門資料論」の設問17の平均点は55であった。ところが、社会人対象の司書講習では同じ科目の同じ設問の平均が、72であった。同じ国家資格の授業なので、パワーポイント教材もほとんど同じである。むしろ大学の授業の方が受講生も少なく、授業時間も多いので、よりていねいになっている。それにもかかわらず学生による評価が低いのは、司書という資格に対する意欲の差と見るほかない。学生の勉学意欲を高める努力も欠かせないが、意欲ある受講生に焦点を当てた授業運営も許されるだろう。>
2007年2月6日(火) 基礎演習の研究報告集
1時限に「科学技術史」の試験。午後から採点を始めたが、その途中で社会学科基礎演習の受講生たちがやってきたので、研究報告集の制作にかかった。A4の原稿40枚ほどをそれぞれ30部コピーし、順に重ねてガチャ玉で止める。6人の学生がワイワイ騒ぎながら、手分けして作業し、『基礎演習・研究報告集』の冊子を30部、作った。
1年次生ゼミで論集を作るのは、初めての試みである。9人の受講生全員がそれなりの最終レポートを提出する見込みがついたので、記念の冊子を制作し、次年度の教材としても利用しようと考えた。研究報告といったものを書いたことのなかった学生たちが、自主的にテーマに取り組み、これだけのものを書いたことは評価できるだろう。1年次における一つの到達点を示すことができたと思う。
受講生が9人なので、家族的雰囲気で運営することができ、学生たちも満足であったようだ。教員にとっても手応えを感じる楽しい授業であった。講義科目とは違って演習には、教員と学生とが協力して作っていくという面がある。その意味では、今年度の基礎演習が成功したことについて、学生諸君にも感謝すべきであろう
2007年2月3日(土) 基礎演習の総括
本日から3日間、入試が行われるが、監督が免除されているので、研究室で原稿執筆。基礎演習の最終レポートの冊子に掲載する総括の執筆に一日かかってしまった。それにしても入試日なのに、終日、静かであった。バブルの頃は受験生で学内があふれるほどだったのに。
2007年2月2日(金) 書評続行
今日は一日、OU科学史の書評に集中するつもりで研究室に来たが、そうは問屋が卸さない。まず、来年度のインテグレーション科目に関連して、教務課や非常勤講師とメールのやりとり。また、一昨日、3年次生ゼミの受講生数人に学習態度について厳しいメールを打っておいたところ、一人からはメールで返信があり、一人は直接、研究室にやってきた。なんだかんだで午前は終わり。午後は研究に集中できたので、藤井「ダーウィンの宗教観」の書評を一応、終了した。
2007年2月1日(木) 情報公開の精神
朝、家を出ようとしたら、突然、雪が降ってきた。それもかなり激しい。帰りが心配なので出るのをやめようかと迷ったが、予報は晴れだし、行っちゃえ。和泉中央に着いたころには雪もやんで、予報通り青空も見えてきた。出かけてきてよかった。
1月23日に、学長への提案文書「eラーニングの活用について」を全教職員に配信したつもりだった。教員全員には一斉配信できるが、教員から職員には一斉配信できないので、情報センター事務局から配信するよう依頼しておいた。ところが、事務局の判断で職員には配信されていないことが昨日、分かった。これは情報公開の精神に反するので、関係部局の職員のアドレスを拾って直接、送信した。「まだ決定していない事項を公開したら混乱をもたらす」とは、情報公開制度に抵抗する役人たちの言い分だったが、これもすでに過去のこと。大学においても、できるだけ情報を共有し、みんなで考えていくべきだろう。
午後には、基礎演習の学生が数人、最終レポートを提出しに来た。これで9人のレポートがそろったので、来週中には冊子を作成しよう。ゼミ生の一人が、「テストに失敗したので、某先生に頼んで何とかしてください」というので、「よしよし頼んであげよう」、なんてあり得ないないだろうが。本人も本気で言ったわけではないだろうが、甘ったれるなって。
この後、「社会学科基礎演習」、「資料特論」、それと大学院の演習の成績評価を教務課に提出し、午後遅くなって、わずかの時間だが、書評の作業を続行。
2007年1月31日(水) もう一つの日記
「資料特論」の担当者ごとの評価がそろったので、最終評価を決定し、指定された評価表に転記した。ついでに来年度の「資料特論」の仮日程を作成した。1年も先のことを今から決めるのは無理な面もあるが、一応の日程を決めないと事務手続きも進まないのである。
一月も末、唐突だが、日記のことを書いておこう。今は3種類の日記をつけている。一つには、ルーズリーフの罫紙に日々の行動を1行で記録している。1982年から始めたので、もう25年になる。いつ何をしたか確認する必要があったときに役立っている。あくまでも自分のための記録で、公開する意味も意思もない。
メインの日記はこのHPのジャーナルである。65歳になるのを記念して始めたようなもので、もちろん、公開を前提にしている。何ごとについても、自分の考えをまとめるのに役立っているのではないかと思う。
さらに、昨年の10月にmixiを始めたので、ときどきmixiの「日記」も書いている。mixiに関連したことなど、原則としてこのジャーナルとは別のことを書くことにしているので、書く頻度は低い。
最近、公開するわけにはいかない意見や想いを書き残しておきたいと思うことがある。ただ、絶対に他人の目に触れないようにするのが面倒だし、読まれることのないものを書いて何になるのだという気もする。結局、もう一つの日記はまだ、書いていない。
2007年1月30日(火) 書評続行
本日から秋学期の期末試験が始まったが、これについても65歳以上は監督が免除されているので、研究室にこもり、書評の作業を続行した。
2007年1月29日(月) OU科学史の書評再開
学内で入試が実施されているが、65歳以上は監督が免除されるので研究室にこもり、授業のために一ヶ月以上中断していた書評の作業を再開。まずはダーウィン関係の文献に取り組みたいので、新版で追加された藤井清久「ダーウィンの宗教観」を読む。書評を書くとなると気楽に読み捨てるわけにはいかない。欧米の研究者にも見られることだが、クリスチャンが科学と宗教について論じると、どうしても信者としての立場が反映する。この論文の結論では、ダーウィンを万有在神論(panentheism)として位置づけているが、これは現在のプロセス神学で用いられる用語であり、ここにすでに、筆者の立場が反映しているといえよう。
2007年1月27日(土) 今年度の授業終了
2時限の司書課程「資料特論」は、経済学部の佐賀助教授による「阪神大震災時の史料救出活動」。当時のスライドも活用した生々しい体験談である。「資料特論」では、さまざまな分野の専門家に講義をお願いしているが、振り返ってみると、どのテーマでも資料保存の問題が取り上げられている。こういう話を聞いて、受講生たちが資料保存の重要性を肝に銘じてくれると良いのだが。
午前中はまだ体がだるいので、授業中はほとんど隣室で体を休めていた。午後になってだいぶ気分がよくなったので、ジャーナルのまとめ書き。来週からはもう、まったなし。ダーウィン研究を再開しなければならない。
2007年1月26日(金) ダーウィン研究再開のはずだったが
昨夜から風邪がぶり返して、研究室に来たものの仕事にならない。藤井清久「ダーウィンの宗教観」を読み始めたが、集中力が持続せず、中断。早めに帰途につき、地元の福岡医院に寄ってきた。
2007年1月25日(木) 大阪市立近代美術館・心斎橋展示室「佐伯祐三とパリの夢」
2時限が大学院の演習、3時限が「科学技術史」の最終授業。演習を受講している院生の一人が基礎的英語力に不安があるので、2月3月に特訓することになり、3時限の授業終了後、一緒に難波のジュンク堂で教材選びをした。男子学生です、念のため。
教材をわたして学生と別れた後、長堀の元・出光美術館で開催されている表題の展覧会へ。展示されているのは佐伯コレクションと、20世紀のパリの絵画・ポスター。ここでパスキンの「サロメ」を見るのは何度目だろうか。奇妙に気になる絵である。カッサンドルのポスター「北方急行」(1927)は、左に列車、右に電線が描かれている。この時代にロンドンからワルシャワまで電気機関車が走っていたのだろうか。学芸員によるミニトークがあったので、質問したが、曖昧であった。後日、同僚の野尻教授(交通論)に聞いたら、描かれているのは電信線であり、それも電話用ではなく電報用で、列車は明らかに蒸気機関車であるとのことだった。電信線がまさに時代の最先端を示すものだった。ポスターを解説するなら、画法だけでなく、内容も理解しておいて欲しいものだ。
2007年1月24日(水) 新妻昭夫「ダーウィンとミミズ」
昨夜、高熱を発して幻想を見るような状態だったが風邪薬で収まり、研究室に出てきた。新妻昭夫さんが『みすず』11月号に発表した「ダーウィンとミミズと地球の歴史」を午前中に読了。1837年から生涯にわたって継続したダーウィンのミミズ研究を、ダーウィンの白亜サンゴ起源説と絡ませて論じた労作である。詳細な資料探索以上に感銘を受けたのは、新妻さんのダーウィン本人への思い入れ。私にとってダーウィンは一研究対象に過ぎないが、新妻さんにとっては人生を決定したあこがれの人物である。そのことが、この論文の随所に現れている。
3時限の一年次生ゼミでは、5人の最終発表をなんとか時間内に終わらせた。最終レポートを冊子にまとめ、記録、記念、それと来年度の教材として活用する予定である。3時からは会議が3つ。
2007年1月23日(火) 学長への答申「eラーニングの活用について」を配信
朝、ありきカイロプラクティックで治療後、研究室へ。12月19日付の学長への提案文書「eラーニングの活用について」を、全教職員に配信した。今後、提案内容をいかに具体化するかは、大学上層部の判断にゆだねられるが、eラーニングについて本学の置かれている状況を皆に知ってもらい、本学でも
eラーニングについて関心の高まることを期待している。これで、eラーニング導入について私のなすべきことが、すべて終わった。
2007年1月22日(月) 関西テレビ捏造事件
今朝の新聞にはコメントしたくなる記事が二つあった。両方とも前日からテレビで報道されていたものだが、一つは、宮崎県知事選で「そのまんま東」が当選したこと。大阪府知事ノックの悪例があるので当選はないと思っていたのに、大差で当選していた。土建屋政治を変えたいという思いは、かなり広まっているということだろう。これから県議会の土建屋議員たちとの闘いが大変だろうな。二つ目の注目記事は、関西テレビの納豆ダイエット捏造事件。朝日と産経の暴露合戦という面もあるが、関テレに弁護の余地はない。「学者もすなる捏造といふものを、テレビもしてみむとてするなり」。来年度の「専門資料論」で捏造論文について話すときに、この事件についても言及してみよう。
研究室に来たら、夏の社会人対象の司書講習「専門資料論」の受講生による授業評価がメールで届いていた。平均すれば100点満点で72点。大学の授業でも講義内容はほぼ同じでなのに、受講生による評価の平均は55点。なぜ、これほどの差が出るのか。基本的には司書という仕事に対する受講生の意欲の差であろう。
1時限の「科学技術史」では緒方洪庵について話した。医師、医学者、教育者のいずれの面でも、超一流。日本にもすごい人物がいたもんだ。1月に5回ある「科学技術史」の授業では、日本における西洋科学の受容をテーマにしている。科学史の中でも不得意な分野の一つなので、1月4日以来、授業と会議のない時間帯は、ほとんど、日本科学史の教材作成に費やしてきた。このジャーナルも書く気にならなかったが、本日で授業準備も終わり。後は25日(木)の最後の授業と、2月6日に実施されるテストの採点を残すだけになった。
4時限の最後の3年次生ゼミに出席したのは5名。春学期は11名だったが、秋学期になって4名が受講放棄。残る7名のうち、常時出席するのは3名だけ。後の4名は、病気、介護、就活などを理由にろくに出てこない。それでも卒論は書くという。一番、手こずるケースである。どこかで決断して除籍しなければならないだろうな。それにしても、3年次の秋学期から就活が始まるのは困ったことだ。
2007年1月10日(水) 時間割変更
3時限の基礎演習では、3名の発表予定者のうち、2名が欠席。一人は風邪のためだが、もう一人は深夜アルバイトのため。学校に出てこないでアルバイト中心の生活をおくる学生に、しばしば出会う。学生がアルバイトで稼ぐお金よりも、両親が負担している学費の方が高額なのに、もったいない話だ。ゼミにも出席しないのは、最悪。お灸を据えなければならない。
この基礎演習では今回からmixiを利用することにした。今日を含めて3回だけだが、どうなるだろうか。
3時過ぎからの教授会で前回決定した次年度時間割の一部修正案が承認され、当方の時間割も変更された。月曜日が4コマ連続だったが、1コマを水曜日に移動してもらった。最初は原案に従うつもりでいたが、体力が持たないと思いなおし、担当者に相談して変更してもらった。
2007年1月8日(月) 招待されなかった成人式
休日だが、授業準備のため研究室に出てきた。今日は成人式があるので、来る途中で振り袖姿を3人見た。以前はもっとたくさんいたように思う。2日の京都でも振り袖姿をほとんど見なかったな。
成人式には苦い思い出がある。二十歳になった直後の成人式に招待されなかったのである。1月中旬生まれなので、住民登録から拾うときに区役所の係がミスしたのだろう。小学校入学予定者については、そんなミスは許されない。成人式は軽く扱われていたのだろうが、招待状の届かなかった当人としては、社会から無視されたようで極めて不愉快だった。今でも思い出すと腹が立つ。
2007年1月6日(土) 新年最初の授業
2時限の司書課程「資料特論」はインテグレーション科目だが、本日はチーフ松永の担当。講義をせず、受講生から提出されていたレポートを、順にスクリーンに映してコメントしながら返却した。郷土資料についてのレポートと、電子図書館についてのレポートだが、内容よりも、形式について注意を喚起した。高学年になっても我流で見るに堪えないレポートを、平然と提出するものがいる。きちんとした指導を受ける機会がなかったのだろう。大学の教員であっても専門に関係なく、こうした基礎を教えることが義務だと思うのだが、現実はそうなっていない。司書を目指すなら、まともなレポートが書けなければならないと考えて「専門資料論」でも同じことをしている。
午後はジャーナルのまとめ書き。
2007年1月4日(木) 新年最初の授業準備
4日になると研究棟各フロアとも常連たちが来ているようだ。「科学技術史」の授業がまだ5回あるので、そのPowerPoint教材に取り組む。一昨年度のものに手を加えるのだが、1日掛けて1回分、作成しただけで終わった。
2007年1月3日(水) 新年最初の研究室
家にいると何もできないので、研究室に出てきた。さすがに同じフロアの常連たちも来ていない。少々、資料の整理をした後、図書館のための選書作業。毎月すべきなのだが、緊急の仕事ではないのでどうしても後回しになり、このところ数ヶ月に一回になっている。この後、ジャーナルの執筆と編集。2006年分を「以前のジャーナル」のページに移動した。
NHK・FMの義太夫「寿式三番叟」を大音響で鳴らしているが、やはり文楽劇場の床直下で聞く方が迫力がある。申し訳ないが、出演者も物足りないな。今月は文楽劇場にも松竹座にも行く予定をしていない。忙しくてそんな暇はないはずだと自分に言い聞かせているが、それをほっといても出かけるほどの魅力が両劇場の出し物・出演者にないということだ。
2007年1月2日(火) 京都
例年のように2日は京都に。二尊院を訪れた後、京都を西から東へ横断し、久しぶりに知恩院を訪ねようとしたら遅すぎて入れなかった。三が日は遅くまで入れると思っていたのに残念。帰り道で祇園の「京都クラフトとセンター」をのぞいた。「100を超える工房による手作工芸品の数々」とうたっているだけあって、なかなか面白かった。和紙に友禅染の技法で印刷したというカレンダーを購入してきた。研究室の彩りになるだろう。
2007年1月1日(月) 今年は何をするか
例年のことだが仕事始めは、年賀状書き。これが済んで、地元の加賀田神社へ初詣。
昨日の年間反省に引き続いて、今年の抱負を書いておこう。最優先は、朝日選書『ダーウィン伝』の執筆。最初の計画、3月脱稿・7月刊行は無理だが、なんとか半年遅れで出したい。これに全力集中するので、『生物学史研究』に掲載している「最近の欧文誌より」は、当分、お休み。授業についてはLMSの試用を続けてみよう。一昨年はTIES、昨年はブラックボードを試したので、今年はASAHIネットのmanabaを試そうと思う。授業に関して頭が痛いのが、学芸員課程の実習。2007年度も井上助教授の担当だが、8月から海外研修なので、その後をカバーしなければならないし、2008年度は松永の担当になるので、その準備も必要になる。管理業務としては図書館長の仕事があるが、図書館会議を主宰する程度で済んでくれればありがたい。とにかく、病気やけがをせず乗り切ることだ。
2006年12月31日(日) 今年は何をしたのだろう
いつもの大晦日と同様、カミさんの買い物のお供でナンバに。まずは長堀の東急ハンズへ。地下街のクリスタ長堀は、全店休業。同じミナミの地下街でも、なんばウォークは大晦日で人が出ているのに、赤字サンセクの代表例ともなっているクリスタ長堀は、理由を見つけては休業したいということか。この後は、混雑する高島屋を避けて、「そごう」で買い物。
このジャーナルで初めてのことだが、一年の反省みたいなことを書いてみよう。まず、研究面ではまとまったものを何も発表していない。『ダーウィン伝』の執筆に着手したものの、大幅に遅れており、来年に持ち越しとなった。大学の管理業務では情報センター長としてeラーニング導入の道筋をつけることができた。授業に関連したことでは、PowerPoint教材に図版を取り入れるようにしたことと、一部の授業でLMSのブラックボードを試用したことがあげられる。情報センター長としての業務が中心で、その分、研究面がおろそかになったといえるかもしれない。プライベート面では、大きな病気・けがのなかったことがなによりだろう。
2006年12月29日(金) 年賀状
今年も年賀状は今日の午後になって20枚ほどを書き、元日に着くように河内長野の本局iまで行って投函してきた。ほかにも当然、出すべきところもあるのだが、新年になってからの返信で勘弁してもらおう。
2006年12月28日(木) 年内最後の研究室
朝、福岡医院に寄ってから、研究室へ。同じフロアにはすでに常連の二人が来ていた。昨日から始めた書評の作業を続行。まだ、原著の書誌事項の確認と、原著の著者の紹介の段階だが、あわてず、じっくり取り組んでいきたい。とはいえ1月中に終えたいものだが、月末まで授業があるので、どうなるか。
2006年12月27日(水) 藤井清久ほか訳『科学革命とキリスト教』の書評に着手
朝は、「ありきカイロプラクティツク」で治療。1月末まで予約で埋まっているため、新しい患者を受け入れられないのが悩みだという。在木さんの治療が誠実なので、口コミで次から次へと通院する人が増えていったのだろう。
午後は研究室で、R.ホーイカースほか著(藤井清久・鈴木善次ほか訳)『科学革命とキリスト教』3巻(すぐ書房、2003年)の書評に着手。久しぶりに気合いを入れた仕事に取り組むことになった。本書は、 『OU科学史』3巻(創元社、1983-84年)を出版元を変更して再版したもので、出版直後に訳者の藤井、鈴木の両氏、および出版元の有賀氏から書評を依頼されていたが、後回しにしていた。今後も「科学と宗教」については基本的な邦語文献となるものなので、しっかりした書評を書いて『生物学史研究』に掲載しようと考えている。本日はまず、原著の書誌的事項を確認する作業から始めた。訳書各巻の扉の裏面に原著のタイトルが記載されているのだが、新版の第2巻には誤って第1巻の原著のタイトルが記載されているのを見つけてしまった。多分、訳者も出版社もすでに気が付いているだろうが、書評ではこういうことも書いておきたい。新版の第3巻には藤井「ダーウィンの宗教観」が付記されているので、ダーウィン伝に関係した仕事といえる。それにしてもダーウィン伝の執筆は大幅に遅れている。とうてい、3月脱稿、7月刊行とはならないが、できるだけ急がなければならない。
夜は住宅地の自治会の役員として、1日だけの夜警。「火の用心」とどなりながら団地内を巡回した。32人の班長のうち20人が参加。当方は「防犯係」なので最後の後始末まで責任を持たなければならなかった。昨夜は強い雨だったが、今夜は暖かく晴れた夜で助かった。
2006年12月23日(土) シンポジウム講演要旨「ダーウィンの進化論と自然神学」執筆
去る11月18日に日本ヴィクトリア朝文化研究学会のシンポジウムで行った講演の要旨を執筆するよう、一月ほど前に依頼があったので、四百字詰換算で3枚分の原稿を書いて送信した。新しいことを書くわけではないのだが、指定の書式に合わせて筋の通ったものを書くのに正味で半日、実質的には本日一日かかってしまった。この種の雑件を暮れのうちに片づけてしまいたいので、祭日でも出てきたが、研究棟の同じフロアには他に誰も来ていなかった。
2006年12月22日(木) 年内最後の授業
午前中に散髪。狭山駅前の松本理髪店に開店時間9時の20分前に行ったが、すでに先客が2名いた。来年の暮れは30分前に行こう。
3時限は「科学技術史」の補講。2回休講しているので、1回だけ補講を実施することにした。野口英世をテーマとしたが、学生には試験の範囲外と通知しているので、出席する者はほとんどいない。ゼロではなかったとだけ書いておこう。野口英世は科学史上の評価と、一般社会での評価が掛け離れている典型的な事例である。いずれ、世間的な評価と学術上の評価との違いについて、本格的に取り組んでみたいものだ。
3時に授業が終わり、難波へ。授業が終わった解放感は学生だけではない。市川監督「犬神家」のリメーク版を楽しんできた。
2006年12月20日(水) 雑誌『理科教室』インタビュー記事
朝は、カミさんと一緒に住宅地のバス停周辺の掃除。団地の班長が交代で担当することになっている。腹が立つのが、路上や公園に放置されているイヌの糞とタバコの吸い殻。そんなものを自宅の庭には放置しないだろうに、他人に掃除させて平気なのか。
研究室に出て、テープ起こし原稿の修正。4日(月)に千葉経済大学附属高校で行ったインタビューのテープ起こし原稿が11日(月)に送信されていた。編集の大谷康次郎先生が10日の日曜日を費やしてテープ起こしをされたのだろう。自分にも経験があるが、これは面倒な作業である。そのおかげで、メールのやりとりよりは生き生きした記事になったと思う。
2006年12月19日(火) eラーニング会議
1時から情報化推進委員会。学内各部署から選出された委員により、情報化についての大学の方針を審議する会議である。ここで、当方が起案した学長への提案文書「eラーニングの活用について」が承認された。後は大学上層部の判断にゆだねられることになるが、とにかくこれで、本学でもeラーニングの導入が本格化するであろう。昨年4月に情報センター長に就任して以来、eラーニングについて研究してきたことの最終レポートといってよい。まだ3ヶ月、日常業務が残ってはいるが、情報センター長として自分に課してきた任務は終えた。会議終了時に、思わず、「終わった、終わった」と叫んでいた。背中に負っている荷物の中から、重いものが一つ取り除かれたという気分である。
2006年12月17日(日) 日曜日も研究室
雑件がいくつかたまっているので、研究室に出てきた。本日は推薦入学合格者のガイダンスがあるので高校生が大勢来ていたが、さすがに教員は少ない。同じフロアでも入試委員の教員が一人来ているだけだった。第九とクリスマスソングのCDを遠慮なく鳴らしながらの仕事。まずは明日の授業「科学技術史」で試験について学生に予告する内容を吟味し、そのための教材作成。つぎに、19日(火)のeラーニング会議に提案する文書の作成と修正。つぎに、来年度授業のシラバスをWebで入稿。ほとんど本年度のものをコピーしただけだが、きちんと見直す必要があるので今日まで着手していなかった。今日の仕事はここまで。あとは、メールをいくつか打って、ジャーナルを書いて、早めに帰るとするか。
2006年12月15日(金) 試験問題作成
本日が期末試験の問題提出期限。「科学技術史」では客観テストと記述テストを出題するので、朝から客観テストの作成に取りかかっていた。パワーポイントの画面が勝手に切り替わるなど、パソコンの動きが異常だったがそのまま使っていた。試験問題の作成がほぼ終わったころ、「一太郎」で別文書を呼び出したら、試験問題の文書が消えてしまった。自動保存もされていない。再起動してまた、やり直し。疲れたな。教訓その1:何が起こるか分からないから、文書はやはり、こまめに保存すること。教訓その2:パソコンの異常に気づいたら、無精せずに再起動すること。以上、自分に言い聞かせている。
2006年12月13日(水) 会議が5つ
まずは昼の休み時間に、「学芸員・司書課程運営会議」。来年度の委員と議長を選出したが、議長には当方が就任することになった。現議長の井上助教授(博物館学)が海外研修、図書館学の志保田教授が1年後に定年退職という状況なのでやむを得ないのだが、2年後に退職する立場で二つの資格課程の将来に責任を持つというのは、しんどい気分である。
3時限の1年次生ゼミでは、文献検索の成果を報告させた後、研究室でお茶会。mixiにもようやく全員が参加することができた。
3時からは全教員が出席する「総合研究所所員総会」と「連合教授会」があるのだが、疲労が蓄積しているので研究室で仮眠を取っていた。おかげで4時からの「文学研究科委員会」と「社会学部教授会」にはきちんと出席することができた。
教授会では早くも来年度の授業時間割表が配布された。当方の春学期・月曜は1時限(科学思想史)、2時限(1年次ゼミ)、3時限(4年次ゼミ)、さらに4時限(3年次生ゼミ)となっている。どこまで体力が持つか、ゼミの運営も工夫しなければならないだろうな。
2006年12月6日(水) 学内三学会の合同研究会
午前中は情報センター事務局と打ち合わせ。3時限の一年次生ゼミはパソコン実習室で文献検索の演習。3時から開催された文学研究科関係の学内三学会(国際文化学会、英語英米文学会、人間科学会)の合同研究会の冒頭で、人間科学会会長として開会の挨拶を述べ、一旦、退席、情報センター運営会議に臨む。
会議ではブログ・ソフトの学内解禁について議論が紛糾した。個人的にはすべてのブログサイトを開放しても良いのではと思うが、強い反対意見もある。mixiの場合は確信を持って解禁に持ち込んだが、ブログサイトについては認識不足でそのようなことができない。結局、前回の会議の決定通り、原則として楽天ブログとmixiだけを学生用端末からもアクセスできることにした。
4時半に合同研究会にもどったが、ここまでが体力の限界。腰掛けているのもつらいので、会場の後方で床に横になって話を聞いていた。7時半から生協食堂で、交流会が開かれたが、当方は禁酒を厳守、早めに退席して帰宅した。
忙しなく過ぎた一日であった。
2006年12月4日(月) 雑誌『理科教育』インタビュー
チェックアウト後、総武線で西千葉の千葉経済大学附属高校へ。同校で生物と地学を教えている大谷康次郎先生から、雑誌『理科教室』11月号に掲載した「ダーウィン進化論の特徴と影響」が好評なので、インタビューという形で再度、登場願いたいとのメールが12月1日に来ていた。質問事項に文書で答えるという形を想定されていたが、上京のついでに学校に行きましょうと当方から申し入れた。昼休みの短い時間であったが、実際に会話することで生き生きした記事になるだろうと期待している。経歴を聞かれたので、野田春彦教授の下で丸山工作助手から生化学実験の手ほどきをしてもらったといったら、両先生の名をよくご存じで、びっくりしていた。文書のやりとりだけではこういう話は出なかったろう。
帰りの新幹線では、東京駅構内の書店店頭に山積みとなっていた東野圭吾の長編を読んでいたが、しばらく読み進むうちに、比較的最近読んだものであることに気づいた。しかしほとんど忘れている。駄作なので印象が薄かったとはいえ、記憶力の減退にがっかりする。
2006年12月3日(日) 雑誌『生物学史研究』査読制導入
朝早く家を出て、新幹線「のぞみ」で東京へ。御茶ノ水の順天堂大学医学部の会議室で開催される日本科学史学会生物学史分科会の総会とシンポジウムに出席するためである。当方が分科会会長を務めているが、普段は何もしていない。せめて総会には出席するようにしている。今年度の総会では、機関誌『生物学史研究』に掲載する記事のうち、「論文」については査読制を導入することが決定した。10年ほど前から会員の間で議論されてきた問題に一応の決着をつけることができた。
総会に引き続いて開催されたシンポジウムのテーマは、「科学と保全と価値の交差点としての生物多様性」。参加者は40名を超えており、当分科会のシンポジウムとしては大盛況といえる。テーマが環境問題がらみであったこと、パネラーにそうそうたるメンバーを揃えたこと、それと交通至便の会場であったことがその理由だろう。正面から「歴史」をテーマにすると聴衆が集まらない、というのがつらいところだ。パネラーの一人、慶応の岸由二さんの話を聞くのは30年ぶりぐらいだろうと思うが、変わらないな。ただ老けたな。当たり前だし、お互い様だろうけど。
会が7時に終わり、御茶ノ水駅近くで懇親会。その後は、いつもの宿の私学共済・東京ガーデンパレスまで徒歩10分。
2006年12月1日(金) eラーニング導入案・最終稿
三泊四日の東京出張から帰った直後に軽い風邪になり、疲労感も続いている。仕事を抱え込みすぎているかもしれないな。2日前の水曜日から取りかかっていた学長へのeラーニング導入提案書(案)の加筆修正作業をようやく午前中に終え、関係者に添付で送信した。今後の会議でどうなるか分からないが、この作業はもうこれで終わりにしたい。
2006年11月24日(金) 私情協総会
私情協の会合が午後からなので、チェックアウト後、直ちに東博の特別展「仏像」へ。平日なのに開館前から行列、展覧会場はすぐに人であふれるようになった。落ち着いて仏像と向き合う状況ではない。京博の「京焼展」とはまるで違っていた。第二会場の方が込まないので、ノミ目を残す鉈彫と、円空仏、木喰仏をまとめて見たのが収穫であった。
有楽町に出て早めの昼食の後、出光美術館の「開館40周年記念名品展」を大急ぎで見て、市ヶ谷へ。私情協の会合では、いつものように井端事務局長から発破をかけられた。本日配付された資料と一昨日のシンポジウムの報告に基づいて、「eラーニングについての答申案」に若干、手を入れることにしよう。
会合が4時で終わり、夕方早めの「のぞみ」で帰阪。
2006年11月23日(木) 上野でミュージアムの梯子
本日は祭日だが、本学では昨日を休校にして今日は授業を実施している。当方も昨夜、帰阪して本日、授業を行い、明日、日帰りで私情協の総会に出席することも、理屈の上では可能だが、とてもじゃないが体が持たない。今日は東京に留まり、上野公園の博物館・美術館巡り。これも業務の一つといえよう。
まずは国立科学博物館の「南方熊楠展」。展示自体は充実していた。科博ではいままでに「科学技術の偉人たち:日本の科学者技術者」9人を選定しているが、その一人に熊楠が入っている。他の8人は、長岡・仁科・菊池・朝永・湯川・坂田の物理学者6人と、北里、高峰である。自然科学については業績ゼロ(論文を書いていない)の熊楠がなぜ科学者としてこれほど評価されるのだろうか。科学者の評価は、学術の発展にどれだけ貢献したかによるべきだろう。
新館2階に、重要文化財に指定されたばかりの万年時計が展示されていた。その近くの壁に、マテリオ・リッチの万国全図模写図の複製が掲示されているのに気付いた。たぶん、以前から同じところにあったのだろう。解説どころか、タイトルさえ掲示されていない。もともとは中国で作られた地図の複製であっても、日本という国を考えるには重要な地図である。せっかく宮城県図書館から寄贈してもらったのに、もったいない話だ。
科博では特別展「ミイラと古代エジプト」が開催されていたが、これはパス。「エジプト」と「恐竜」。確実にお客が呼べるテーマなので、つねにどこかで開催している。
次は、芸大美術館の「The Wonder Box: ユニヴァーシティ・ミュージアム合同展」へ。国立大学のミュージアムの合同展である。25館から1点ずつ、代表的な展示物が集まっている。本日は祭日のため、上野のミュージアムはどこも混雑しているが、さすがにここに来る人は少ない。ゆっくり見て回った。本学にもミュージアムが欲しいな。古い大学のように蓄積された文化財は豊富ではないが、きちんとした受け入れ態勢ができていれば、大学博物館は寄贈によって充実していくものである。
芸大から少し歩いて、東京文化財研究所の黒田記念館へ。まさか「湖畔」を間近に、しかも無料で見ることができるとは思わなかった。
この後、東京国立博物館へ。特別展「仏像」は入場制限になっているので、常設展だけ見ることにした。今回は自分にとって、これはと思うような展示物がなかったな。
最後は、国立西洋美術館の特別展「ベルギー王立美術館展」。特別展最終の展示室にあったポール・デルヴォー「夜汽車」、夢でこんな景色を見たような気がする。今日、見てきた中で、もっとも印象に残った絵である。
本日は一日歩き回ったのに、昨日ほど疲れていない。宿でジャーナルの下書きにも取り組めた。
2006年11月22日(水) eラーニング国際シンポジウム
独立行政法人・メディア教育開発センターの主催する国際シンポジウム「高等教育におけるeラーニングの質保証の展開」が、お台場の日本科学未来館で開かれるため、早めに宿をたち、新橋から「ゆりかもめ」で会場へ。
昨年も同じ時期に同じテーマでシンポジウムが開催されていたが、話のレベルが高すぎるので出席する気にならなかった。本学はこれからeラーニングの導入を検討するという段階なので、質保証の問題は2段階先の話である。今年、参加したのは、本学の方針を考えるためにも世界の現状をある程度、把握しておく必要があると判断したからである。
シンポジウムでは英米豪、それと韓国のeラーニングの現状と質保証の方法が報告された。こうした国々ではすでにeラーニングだけによる大学卒の資格取得が珍しくなくなっているが、日本では当分、そうならないだろう。本学はその日本の中でも後れを取っている。これから精力的に取り組むべき課題だろう。
それにしても朝10時から夕方6時まで、それも午後はほとんど休みなしで5時間ぶっ続けのシンポジウムは疲れる。体は動かしていないのに、くたくたになって宿に帰った。
2006年11月21日(火) 京都国立博物館「京焼展」
明日の午前から開始されるeラーニング国際シンポジウムに出席するため、東京へ。夕方に東京に着けばよいから、京都で途中下車、京博の特別展「京焼展」に寄った。入館者が少ないので、ゆっくり楽しむことができた。目玉は当然、仁清だが、MOA美術館の国宝「藤花図茶壺」が出ていない。たぶん、出品を交渉したが断られたのだろう。これが出ていれば客の入れもかなり違ったのではなかろうか。
東京での泊まりは、いつもの私学共済、東京ガーデンパレス。
2006年11月18日(土) ダーウィン・シンポジウム講演
日本ヴィクトリア朝文化研究学会が神戸女学院大学で開催されており、午後からのシンポジウム「ダーウィニズム:その背景にあるもの」の3人のパネラーの一人に依頼されたため、初めて神戸女学院を訪ねた。名門の女学校がこれほどの山の上にあるとは驚きだった。
シンポジウムでは30分ほどダーウィンと自然神学の関係について講演した。休憩時の立ち話を聞いていると講演はそれなりに好評だったと思うのだが、質問時間になっても一つも質問が出ず、パネラーがしゃべりまくって終わりとなった。パネラーの一人、富山太佳夫にいわせると、会場の英文学の研究者たちにとって、ダーウィンと自然神学の関係といったことは初めて聴くことなので、びっくりして質問など出る状況ではないとのことであった。講演がどう評価されたかわからないが、自分にとってはエネルギッシュな富山氏と会い、刺激を受けたことがなによりの収穫であった。
2006年11月17日(金) 文楽「伊賀越・岡崎」
国立文楽劇場で11月公演第1部を観劇。出演者から見ても第2部の「心中天網島」が今月のメインだと思うが、日程の都合もあってこちらにした。「伊賀越」といえば「沼津」、これは歌舞伎でも繰り返し見ているが、「岡崎」は文楽でも見たことがなかった。今の観客には納得しかねる筋立てなので、滅多に上演されないのも無理はないな。第1部の最後に「紅葉狩」があったが、歌舞伎ならともかく文楽で「紅葉狩」を見る気はないのでパス。
帰途、大阪市立近代美術館・心斎橋展示室の「ニッポンVS美術」へ。明治・大正の日本画と戦後の現代美術を対比するという趣旨の展覧会。いつものことだが、日本画を楽しんで、現代美術はパス。
2006年11月16日(木) 『週刊ポスト』のこれぞ通俗進化論
『週刊ポスト』(11月24日号)の、齋藤孝「賢者はかく語りき:ダーウィン・その2」。知ったかぶりのでたらめダーウィン論の間違いを、いちいちあげつらうのは馬鹿馬鹿しい気もするが、気がついた以上、ほっておくわけにもいかない。今回も本気で指摘したらきりがないので、一点だけ。「『進化』は決して『進歩』ではなく、『変化』である」というそばから、商品の進歩とスポーツの技術の進歩の例を挙げ、「これぞ『進化論』の証左だ」という。これぞ、ダーウィンの生物進化論からかけ離れた通俗進化論の典型といってよいだろう。も一つ、文献記載について。文中で『種の起原』ではなく『種の起源』という表記を用いるのはよいが、八杉訳の岩波文庫まで『種の起源』とするのは間違い。文献を正しく表記するのが、研究者としての第一歩だろう。
2006年11月15日(水) mixiの学内解禁へ
4時からの情報センターの会議で、今まで禁止されていた学内の学生用端末からのmixiへのアクセスを解除することに決定した。悪用される可能性があるとして強く反対する意見もあったのだが、センター長権限で強引に押し切った。自分でmixiを始めてみて、悪用される恐れはそれほどないと判断できたし、学生たちにこれほど普及しているものを学内端末から閉め出すのは学生サービスという観点からも望ましくないと考えたのだが、どうだろうか。
2006年11月13日(月) eラーニング資料作成
本日は桃山祭の後片づけで休講。昨日とはうってかわって静かなキャンパスである。こちらは休んでいられない。学長へのeラーニング導入提案書(案)はすでに書き上げてあるが、それに添付する主要LMS一覧を作成しなければならない。大量に貯まった私情協資料や業者パンフレットを整理し、要点だけを提案書に付記したが、結局、丸一日費やした。後は会議を待つばかり。
2006年11月12日(日) 「桃山祭」最終日
本日は晴天なり。例年のことだが、模擬店ロードは歩くのが困難なほどの込みようである。我が研究室の窓の真下が野外ステージなので、楽器の音や歌声が遠慮なく飛び込んでくるが、これはやむを得ない。
今年の3月に卒業したゼミ生から桃山祭に来るというメールがあったので、当然、ホームカミングデーの本日だと思っていたら、昨日来たというメモが研究室のドアポケットにあった。気の毒なことをした。こちらとしても彼女たちがどう変身したか(あるいは、していないか)見たかったのに、残念。
まとまった仕事ができる状況ではないので、ジャーナルを書いたり、放送大学の質問票への回答を作成したり、先日の西日本大会のプログラムをHPに掲載したりといった雑件で一日が終わった。
2006年11月11日(土) 久保惣美術館・特別展「和泉を彩る文化財」後期
せっかくの「桃山祭」なのに朝から雨と風。学生たちには気の毒な一日だった。当方は午前中に研究室で雑件を片づけた後、和泉市久保惣記念美術館へ。見学会を企画して教職員全員にメールを流したのだが、桃山祭の大学主催イベントと重なったこともあって、参加者は学芸員課程担当の事務方一人だった。それでもメールに刺激されて個別に訪れた教職員もかなりいたということで、メールを流したのは無駄ではなかった。1時からのギャラリー・トークは学芸員の上仁理恵子さん。2時間掛けてていねいに解説していただいた。前期には展示されていなかった宮本武蔵「枯木鳴鵙図」も展示されている。一般向けにはこの絵が美術館の目玉といってよいだろう。
夜は団地の自治会班長会に出席。
2006年11月10日(金) ヴィクトリア朝文化研究学会・講演準備
18日(土)に神戸女学院で開催されるヴィクトリア朝文化研究学会での講演の準備を続行。シンポジウム「ダーウィニズム:その背景にあるもの」のパネリストを依頼され、「ダーウィニズムと自然神学」と題した講演をする予定である。文学史の研究者とは議論がかみ合わないという経験があるので、今回もあまり期待はしていない。
本日から「桃山祭」のためキャンパスがにぎやかだが、来学者が多いのは明日と明後日。好天が続くとよいのだが。
2006年11月9日(木) 『週刊ポスト』のダーウィン誤伝
明日から始まる学園祭「桃山祭」の準備のため、本日は休講。キャンパスでは学生たちが模擬店などの準備に追われている。当方はこの機会にたまっている仕事を片づけねば。まずは11月18日(土)のヴィクトリア朝文化研究学会での講演の準備に掛かる。
『週刊ポスト』(11月17日号)に気になる記事があったので出がけに駅の売店で購入し、他の記事もぱらぱら見ていたら、齋藤孝「賢者はかく語りき:ダーウィン・その1」と題したコラムがあった。読んでがっくりきたね。『種の起源』が出るまで進化論には、「誰もが到達できなかった」(p.82)という。当時すでに生物進化論が珍しくなかったことは、近年の生物学史書をみればわかることだ。ダーウィンがビーグル号に乗船するきっかけになったのは、「彼らは地質学者を探していた」(p.83)ことだという。正しくは、フィッツ=ロイ館長が話し相手となる民間人を個人的に探していたのであって、海軍所属のナチュラリストとしては別人が乗船していた。このコラムは半世紀前の水準でダーウィンを語っている。膨大な読者のいる週刊誌で、よくまあ、ろくに知らないことを偉そうに書けるものだ。かくして間違った通俗ダーウィン論が受け継がれていく。「その1」とあるから、この後もダーウィン誤伝を振りまいていくのだろう。教育学者なら、知識に対してもっと謙虚であって欲しいね。
2006年11月4日(土) 科学史学会西日本大会
2時限の司書課程「資料特論」は、「和泉市いずみの国歴史舘」の見学授業。大学から徒歩ゼロ分の場所にあるというのに、その存在を知らない学生が多いのは、まことにもったいない。現在は和泉市市制50周年を記念した特別展を開催している。灰掛薫館長(和泉市教育委員会)の解説もあるので教職員にも参加を呼びかけ、共同研究・博物館プロジェクトのメンバー2人も参加した。
12時半に見学が終わって、直ちに和泉中央から難波、そして梅田へ。大阪市大の交流センターで1時から開催されている日本科学史学会西日本研究大会に駆けつけた。着いたのはちょうど2時だった。今年は発表7件、参加者12名。大阪駅前という便利な場所なので大勢の参加を期待していたのだが、いささか残念である。発表のうち6件が物理学史関係で、生物学史関係は藤岡毅さんの「1939年ソ連遺伝学会議再考」だけだった。こういう機会に別の分野の科学史研究に触れるのは、視野を広めるのに有益だと考えている。
研究会後の懇親会は、世話人の瀬戸口さんの案内で宮崎の郷土料理の店。科学史研究者と集う機会が少ないので、楽しい時間であった。
この席でも出た話題だが、ソ連で遺伝学追放という馬鹿げた政策がとられたのは、実践重視・基礎研究無視という党の方針とルイセンコ派のペテンのためであった。現在の日本でも応用重視の政策がとられ、研究費と権力ほしさの捏造も多発している。ルイセンコ事件は今の日本の問題でもある。
2006年11月3日(金) 休日も研究室
本日が祭日とは、昨日の夕方まで気づかなかった。家にいたら仕事にならないので大学に来たら、本日は推薦入学の試験日であった。本学では65歳以上の教員は試験監督を免除されているので、忘れていた。
やや面倒なメールを2件片づけ、月曜日の「科学技術史」の授業の準備。この後、ケンブリッジ大学の学位について調査を続行。Bachelor
of Arts を「文学士」と訳すのは明らかに間違いなのに、なぜいまだにこの誤訳がまかり通っているのだろうか。英文学あるいは英語学関係者の怠慢としか思えない。
2006年11月1日(水) 授業支援システムのデモ
午前中に3時限の基礎演習の準備。先週までの学生の発表を整理し、今後の課題をまとめるのに、結構、時間が掛かった。演習の授業終了後、ゼミ生たちが我が研究室のパソコンを使って、わいわい騒ぎながらmixiにゼミのコミュニティを開設していた。名称は「松太郎ゼミ」、「松太郎を慕う人々の集まり」だそうだ。今後、どう運営するかは学生任せ。
本日は水曜日なのに、珍しく会議がない。その代わりといっては可笑しいが、国産の授業支援システムの説明に、某社の営業マンと技術者が4人もやってきた。関係教職員数人で話を聞き、デモを見た。2時間、掛かった。eラーニング導入について学長への提案書を書き上げたとはいえ、まだまだ情報センター長として関連の仕事が続くようだ。
2006年10月28日(土) 続・はじめてのmixi
早朝にmixiをのぞいたら、はやくも工学院の林真理さんからマイミクシィへの追加リクエストが来ていた。コンピュータ関係では、林さんがいつも一歩前を行っている。
2時限の司書課程「資料特論」終了後、直ちに難波に出て、梅田の大阪能楽会館へ。森田流能管の野口亮師が主催する能楽の会がある。1時開演で最初が「翁」だが、これには到底、間に合わない。ちょうど、脇能の「養老」が始まるところだった。最後は大槻文蔵師の「三輪」。動きがなくても観客を引きつける力はすごいと思う。
帰宅してMIXIをのぞいていたら、今年の3月に卒業したゼミ生のコミュニティを発見してびっくりした。彼らの書き込みを見ている最中に、元ゼミ生から追加リクエストが飛び込んできた。向こうもびっくりしたらしい。これからもmixiで思いも掛けない展開があるかもしれない。
2006年10月27日(金) はじめてのmixi
朝、福岡医院に寄ってから、研究室へ。相変わらず肝機能の数値のうち、γGTPだけが正常値をかなり超えている。個人差が大きいから気にしなくてよいとのことだが、少なくとも10年前までは正常値の範囲だったのだから、やはり気になる。午後はダーウィン伝に関係した調査の予定だったが、疲労感があって、図書館から本を数冊、借り出しただけ。
ゼミ生の紹介で参加したmixiの登録が済んだ。当分は本名を名乗り、全面公開にすることにした。自分の写真の代わりに猫の写真を載せ、プロフィールを記入し、人の日記をのぞいてみたりした。自分の日記はこのHP
で続ける予定だが、一部はmixiにも掲載してみようと思う。
2006年10月25日(水) eラーニング会議
午前中に昨日作成したeラーニング提案書を点検し、修正したものを事務局に送信して印刷を依頼した。情報センター長としての1年半の勉強を集約したレポートといってよいだろう。
3時限の基礎演習では学生の研究発表について議論しているうちに、全員がmixiに参加してゼミのコミュニティを設置することになった。作業は学生に任せているが、どんなことになるか楽しみである。
4時限に「eラーニングについてのワーキング・グループ」の会議。当方が作成した学長への提案書が、若干、修正の上、承認された。この後、しかるべき手順を踏んで学長に提出することになる。
2006年10月24日(火) eラーニング導入案作成
朝、ありきカイロプラクティツクで治療後、研究室へ。午後は、本学におけるeラーニングの導入について、明日の会議に諮る提案書の作成に費やす。先週の金曜日から取りかかった作業で、一応、書き上げた。授業のない火曜日と金曜日は原則として研究・執筆の日に当てているのだが、なかなか思うようにいかない。
2006年10月21日(土) 植かよ女 陶展
2時限の「資料特論」は、今回から3回、和泉市教育委員会の灰掛薫さんに「郷土資料」の話をお願いしている。同じ教室で1時限に河内長野市教育委員会の尾谷雅彦さん担当の「生涯教育概論」がある。お二人ともそれけぞれの市の文化財の責任者で、旧知の仲である。
2時限の授業が終わってすぐに難波から淀屋橋へ出て、北浜画廊で開催されている「植かよ女 陶展」へ。尾谷さんの奥さんが陶芸家で、その個展である。海波をテーマとした力強い焼締めの作品群で、大部分は花器であった。千早赤阪村の土を使い、千早赤阪村の登り窯で焼いているとのことで、伊賀の土もブレンドしているという。そのためか私には伊賀焼の系譜の作品に見えるのだが、ご本人たちにはそういう意識はないとのことであった。いずれにせよ、現在、松の薪を使い登り窯で焼いているだけでも貴重ではないだろうか。
この後、国立文楽劇場で、電話予約した11月公演の切符を引き取る。
帰途、久しぶりに東心斎橋の喫茶LINKへ。店に入っただけで繁盛している雰囲気がある。マスターも開店した当時のおどおどした様子とはうってかわり、落ち着いたものになっていた。
2006年10月18日(水) 役職の選挙
午前中は本日の教授会で報告する情報センターの文書について、事務局と打ち合わせ。3時限の基礎演習には長期病欠のゼミ生も出席し、秋学期で初めて、全員出席となった。3時からは会議が3つ。
連合教授会では、いくつかの役職を全教員による選挙で選出したが、意外なことに、来年度から2年間の図書館長に当方が選出された。今年度で情報センター長の任期が終わり、定年までの2年間は役職なしで行けると踏んでいたが、甘かった。この後の文学研究科会議も社会学部教授会も紛糾する議題があって、終わったのは7時半。帰宅したのが10時。今日はカミさんも外出していたので、玄関に猫3匹が集結し、「早くメシを出せ」と大合唱だった。
2006年10月14日(土) 久保惣美術館・特別展「和泉を彩る文化財」
2時限は司書課程の選択科目「資料特論」。先週に引き続いて朝日の神野記者による情報公開の話。図書館で直接、情報公開を扱うことはないだろうが、刊行物やネット以外に重要な情報源があることを頭の隅に入れておいてくれたら良いと思う。
授業終了後、急いで和泉市久保惣記念美術館へ。1時からのギャラリー・トークに間に合った。和泉市の市制50周年を記念して、「久保惣」でも「いずみの国歴史館」でも力の入った特別展を開催している。「久保惣」では、館蔵
の国宝・重文が全て展示されるし、東博や京博に行っていた和泉市の文化財も里帰りしている。見て回っているうちに思いついた。教職員による見学会を企画しよう。
帰宅後、夜は団地の班長会。本年度の自治会の会長さんは比較的に新しい住人だが、それだけに従来の慣習にとらわれず、つぎつぎと改革を提案している。頼もしい。
2006年10月13日(金) 三中信宏『系統樹思考の世界』講談社現代新書
表題の著書をようやく読了した。発売後、まもなく購入してずっとカバンの中に入れてあったから、一ヶ月以上、掛かったことになる。通勤の行き帰りに読むわけだが、小なりとはいえ科学哲学書なので気楽に読み飛ばすわけにはいかない。行きの電車ではまだ頭がぼんやりしているし、帰りは疲れている。この間に葬式と戒名に関する新書類を五・六冊、読み終えた(自分の葬式と戒名が気になる歳になったのだ)。この手の新書は30分もあれば読み終える。サスペンスや週刊誌も精神の緊張を要求しない。つい、本書は後回しになる。
本書の出版を知って最初に驚いたのは、現代新書で出たということ。サラリーマンに気楽に読んでもらうという現代新書の方針には合わないように思えた。内容は生物学の立場に立った科学哲学入門といってよいだろう。物理学の基準だけが正当な科学の基準ではなく、歴史学には物理学とは異なるそれなりの基準があり、歴史的研究では系統樹の推定が重要であると説き、最後に系統推定の方法をごく簡単に説明している。とうていサラリーマンが興味を持つとは思えない。しかしそこは現代新書。著者の体験談などが随所に盛り込まれ、文章も「です・ます調」。著者も苦労したようだ。当方にとっても、著者の内輪話が一番面白かった。巻末の文献案内もありがたい。
分野が違うが著者に関心を持っていた同僚も本書を読んで一言、「売れないだろうな」。
2006年10月10日(火) 振替休校
朝、ありきカイロプラクティツクで治療後、研究室へ。昨日の「体育の日」の振替で、本日は休校である。いつもの休校日のように守衛室で研究棟に入るためのカード・キーを受け取ろうとしたら、教員と大学院生が大勢登校しているため、全部貸し出し済みで残っていないという。結局、守衛さんに解錠してもらって中に入った。こんなことは1995年に移転して以来、初めてのことである。
2006年10月9日(月) 祭日の授業
本来なら「体育の日」で休みのはずだが、月曜日の授業回数を確保するため、今年度は通常の月曜と同じ授業を実施することになった。学生はあまり出てこないだろうと予想していたが、学内はいつもと変わらないにぎやかさだった。当方が担当する1時限目の「科学技術史」では、番外講義と称して「ホロスコープ占星術」の話をしたが、出席者はわずか7名。通常の授業を実施した同僚たちに聞くと、出席者は通常より若干少ない程度だったという。振替授業日でも、通常の講義で差し支えないようだ。
2006年10月1日(日) 安藤史子フルート・コンサート
午前中は、昨日の「資料特論」出席者をブラックボード・システムに登録。自宅でこういう作業ができるのが、LMS(授業管理システム)の利点の一つだろう。午後は河内長野のラブリーホールへ。フルート(安藤史子)とハープ(内田奈織)。音楽はもちろん、美人二人の華やかな舞台は見ているだけでも楽しい。安藤さんは数学史の安藤洋美・名誉教授のお嬢さんなので、桃大関係者が何人か来ていた。安藤さんはマニアックな曲の演奏を好むので、今回のような分かりやすい曲目は不満だろう。きっと、「こんなださいプログラムは嫌だ」なんて、いっているに違いない。
2006年9月30日(土) 「資料特論」授業
2時限目に司書課程の選択科目「資料特論」の最初の授業。2003年度までは20人以上の受講生がいたが、一昨年は数名。昨年は以前の状態にもどった。今年はどうなるかと思ったら、出席者は12名。司書課程の受講生総数はほぼ一定なのに、なぜ「資料特論」の受講生数の変化が大きいのか、理由が分からない。さまざまな分野の話が聞けるので、変化に富んだ面白い課目だと思うのだが。
2006年9月29日(金) ブラックボード
明日から始まる司書課程「資料特論」ではブラックボード・システムを試用するので、久しぶりにブラックボードに取り組んだ。忘れかけている操作法を試行錯誤で思い出しながら、システム上にも授業を開設した。
2006年9月28日(木) 大学院演習
2時限目に博士後期課程の演習。英文学専攻の学生2名だけだが、『エジンバラ・レヴュー』からそれぞれ読みたい論文を選ばせて、3人で読んでいる。生の資料に当たるのがなりよりも大事だろう。3時限は「科学技術史」の2回目。出席者はほぼ50名。現在は大教室だが、小さな教室に変えても大丈夫だろう。
2006年9月27日(水) 会議の日
秋学期最初の研究科会議と教授会のほかに、も一つの会議に出席。その間の3時限に1年次生の基礎演習。こちらは病欠が一人だけで、とにかく全員がこちらの課題に応えようとしている。「この授業に出るのが楽しくて仕方ありません」なんていわれたら、教師も張り切っちゃうよな。
2006年9月25日(月) 秋学期最初の授業
秋学期は月曜1時限に当方担当の「科学技術史」がある。月1はつらいが、回り持ちでやむを得ない。「科学技術史」は隔年開講なので現在のカリキュラムになってからは2回目の開講である。旧カリ時代は受講生が10人前後だったので平常点だけで評価していた。2004年度開講時もそのつもりで、講義の案内文に平常点での評価と書いておいた。ところが受講生が200人近くになってしまった。これでは平常点での評価は無理なので、期末テストを実施したため、受講生には不評であった。本日の出席者は40人程度。もう少し増えるだろうが、二桁で収まるだろう。
4時限目の演習3の出席者は11人のうち5人だけ。秋学期早々からこれでは先が思いやられる。演習では講義課目以上に出席が重要であることは、十分、理解しているはずだから、あまりがみがみ言う気はないのだが、この状況では雷を落とさなければならないか。
2006年9月24日(日) 大学院入試
今年度最初の大学院入試があるが、当方は夕方からの判定会議に出るだけなので、それまで明日の授業「科学技術史」の準備と、ジャーナルのまとめ書き。
2006年9月23日(土) ダーウィン自伝
明日は研究科会議に出席しなければならないので、今日の祭日は休むことにした。研究室から持ってきた『ダーウィン自伝』(筑摩叢書とNorton
Paperbacks)を読み返した。何回となく繰り返し読んでいるので、大部分は「そうそう、こういうことも書いてあったな」と記憶を新たにするだけだったが、自伝本文の最後に出てくる捏造論文の指摘は記憶に残っていなかった。情けない。ダーウィンが指摘する3論文はいずれも交配実験に関するもので、ダーウィンが交配実験の解釈に自信を持っていたことが分かる。当時も今も、時代の最先端の実験生物学では捏造が多発する、ということだろうか。
2006年9月22日(金) 秋学期の始まり
秋学期の初日だが、自分の担当授業が月曜からなので、まだ夏期休暇中と思い込んでいた。手続もいろいろあるためか、学生たちもけっこう来ていて、久しぶりににぎやかなキャンパスになった。ダーウィン伝の執筆を続行。
2006年9月21日(木) 大学院合同演習
本日は文学研究科博士前期課程の合同演習。当方が所属する「英語文化圏」研究コースの学生は社会人学生一人だけだが、イェイツの能形式の戯曲について臆すことなく発表していた。こういう機会でもなければ、イェイツの戯曲について話を聞くことなどないだろう。イェイツはフェノロサの英文によって能を知ったということなので、フェノロサ、スペンサー、ダーウィンとつながらないこともないが、まぁ、科学史とは無縁の話だったな。
2006年9月19日(火) テープ起こし修正稿の送信
北野田の日野歯科医院で定期健診の後、研究室へ。修正したテープ起こし原稿を印刷して、再点検。再修正の後、同志社の担当者に送信したところ、活字化されるのは1年ほど後とのことであった。
2006年9月18日(月) テープ起こし原稿の修正
本日は敬老の日。朝のうちに自治会のお祝いを同じブロックの2軒に届ける。その後は、ノート・パソコン相手の一日となった。8月1日に同志社の神学部で行った講演「ダーウィニズムと自然神学」のテープ起こしの修正である。9月8日にテープ起こしのファイルが送られてきて、びっくりした。研究会の成果報告書に掲載するとのこと。この講演が活字化されるとは思っていなかった。そのままでは意味不明の所があるし、「王立教会」といった表現も出てくる。あまり気の乗らない作業ではあるが、ほったらかしにもできない。自分では気の付かない講演時の口癖もわかった。
2006年9月13日(水) 資料が行方不明
ダーウィン伝に関連して読む予定だった文献が見つからない。書架には二重、三重に本が詰め込んであるし、床にも平積みにしているので、あるはずの資料がしばしば行方不明となる。一昨日、研究室の一斉清掃のため床に積んである文献を大急ぎで移動し、元の通りにもどしたつもりだったが、そうなっていなかったのだろう。もう一度、床の資料をひっくり返して、ようやく目的のものを見つけた。今回は無事出てきたが、重要な資料で行方不明のままのものもいくつかある。どうしても必要なものは、再度、購入するしかないだろう。
2006年9月12日(火) 最後のゼミ生募集原稿
朝、ありきカイロプラクティツクで治療後、研究室へ。来年度の演習3の募集原稿締め切りが明日なので、今日中に書かなければならない。テーマは「図書館と博物館」とした。図書館学の志保田教授が定年退職を控え、また博物館学の井上助教授が海外研修のため、来年度はお二人とも演習3を持たないので、その代役を務めるつもりである。その一方で、当方にとってはこれが最後のゼミになるので、テーマを限定せず、意欲ある学生に来て欲しいと思う。この矛盾した演習の概要を文章化するのに、けっこう、時間を食ってしまった。
2006年9月11日(月) ジャーナルまとめ書き
出張と講習の1週間が終わり、落ち着ける日々がもどってきた。とはいってもまだ原稿執筆に掛かれない。書類を整理し、このジャーナル10日分をまとめ書きしていたら、研究室の一斉清掃で、一時、部屋から出なければならなかった。たまっている業務を今日中に片づけるつもりだったが、明日に繰り越しとなった。例によって例のごとしだな。
2006年9月10日(日) 司書講習「専門資料論」採点
丸一日掛けて、140枚の答案用紙と格闘した。基本的には全員合格の姿勢で臨むのだが、例年、いくらなんでもこれでは困るという答案が出てくる。試験問題は予め通知しているのに、どうしてだろう。
2006年9月9日(土) 司書講習「専門資料論」最終日
午前10時から2コマ3時間の司書講習「専門資料論」の授業。後半に試験をして、当方の担当は終了した。教務課と情報センターの用事を済ませ、答案用紙を抱えて帰宅。夜は住宅地の班長会に出席。
2006年9月8日(金) 司書講習「専門資料論」第3日目
午前10時から5時過ぎまで、4コマ6時間の司書講習「専門資料論」の授業。授業をこなすだけで精一杯の一日であった。情報センターと教務課からメールが入っていたが、対応している暇がない。
2005年9月7日(木) 私情協・大学教育・情報戦略大会、最終日
本日も午前10時から、びっしり講演が組まれている。昼休みに業者の展示会場で、国産のCMS(コース管理システム)について数社から話を聞く。午後の講演は事務職向けの専門的なテーマなので、早めに退席し、東京駅から「のぞみ」で帰阪。
2005年9月6日(水) 私情協・大学教育・情報戦略大会、中日
朝は上野の東京国立博物館へ。特別展は無かったが、平常展でも東博には必ず何かがある。今回は、「佐竹本三十六歌仙絵・小野小町」が出ていた。骨董の世界でも名高い「小野小町」は個人蔵なので、実物を見ることはできないと思っていた。思いも掛けない収穫だった。特集陳列「博物図譜」には、田中芳男の指揮の下で制作された図譜がいくつも出ていた。田中芳男がこれほど図譜の制作にこだわっていたのはなぜか、興味がある。
昼過ぎに私学会館へ。本日は分科会に分かれての研究発表で、当方にはレベルが高すぎる。他大学の知人に相談したり、業者の展示会を回って、早めに宿舎で体を休める。
2005年9月5日(火) 私情協・大学教育・情報戦略大会、初日
午前10時から4時過ぎまで、びっしり講演が組まれている。今年も午前中に著作権についての講演があり、NHKと毎日新聞、読売新聞の担当者から話を聞いた。マスコミ側の基準と教員の意識の差は大きい。どの大学でも厳密には著作権侵害になる行為を繰り返しているのではなかろうか。
夕刻に東京駅地下で、朝日新聞の山田豊さんとダーウィン伝について打ち合わせ。アトリエからの帰り道だという矢島道子さんも合流して科学史四方山話。大阪の南の端に住んでいると、こういう機会がないので、楽しいひとときであった。
2006年9月4日(月) 東京へ
明日から市ヶ谷の私学会館で開催される私立大学情報教育協会(私情協)の大会に出席のため、夕刻に新大阪から東京に向かう。泊まりはいつもの私学共済・東京ガーデンパレス。
新幹線に乗るまで余裕があるので、ミナミでぶ゜らぶら歩き。まずは、高島屋の「人間国宝展」、ついで開店1周年のそごうで「桃山の名椀と加藤唐九郎・楽吉左衛門展」。「人間国宝展」ではさまざまな分野の作家の作品が、1人につき2点ずつ展示されていた。陶磁器を中心に見て回ったが、散漫な印象が避けられない。そごうの展覧会の方が見応えがあった。
2006年9月2日(土) 司書講習「専門資料論」第2日目
午前10時から2コマ3時間の司書講習「専門資料論」の授業。午後に「ダーウィン伝」第1章の執筆を続行し、補足することを前提にして、朝日の山田さんに送信した。
2006年9月1日(金) 海外研修送別パーティー
午前中は明日の司書講習の印刷教材準備で終わる。午後に「ダーウィン伝」第1章の執筆を続行したが、とても5日までに間に合いそうもない。
向かいの研究室の滝澤武人教授が明日、イギリスに発つというので、同じフロアに来ていた同僚6人が集まり、我が研究室で送別コーヒー・パーティーを開く。1年間、オックスフォードで研究してくるとのこと。観光旅行ならとにかく、1年間、外国で過ごすという元気は、もう当方にはないな。読まなければならない文献がいくらでもあるので、国内に腰を据えてじっくり取り組んでいきたいと思う。
2006年8月31日(木) 司書講習「専門資料論」第1日目
午前中に床屋によって散髪。司書講習の講義初日なので、身だしなみを整えた。今年から和泉キャンパスでの講習になったので、機能の優れた視聴覚機器が利用できる。2コマ、3時間の授業の後、研究室で一仕事するつもりだったが、疲れ切って体が動かない。届いた郵便物もメールもほったらかして帰宅。
2006年8月30日(水) 「ダーウィン伝」執筆再開
2週間ぶりに「ダーウィン伝」の執筆を再開。9月5日に編集担当の山田豊さんと会うので、それまでになんとか第1章だけでも終えたいものだ。
2006年8月29日(火) 司書講習の教材印刷
司書講習「専門資料論」の教材は学内サーバーに保存して学内端末から見えるようにしたので印刷・配布する予定はなかったのだが、正規の授業とは違ってそれは無理なことに気が付いた。講習の受講生は限られた時間しか大学にいないので、事実上、情報センター自習室のパソコンが利用できない。結局、昨年までと同様、主要なスライドは人数分、印刷することにした。
来年度については、LMSの利用、あるいは期間限定で個人ホームページに掲載することを考えてみたい。
2006年8月28日(月) 司書講習の教材準備
8月31日からの社会人対象司書講習「専門資料論」のスライドを手直しし、学内サーバーに保存して学内端末から見えるようにした。教材用のスライドは先月のうちに準備していたが、見直すといくらでも追加、修正したくなる。きりがないので本日の作業で終えることにした。
2006年8月26日(土) 『理科教育』原稿送付
『理科教育』の原稿を点検した後、テキスト形式の添付ファイルで送信。指定書式で印刷したものと図版資料を郵送。これで夏休みの課題が一つ片づいた。
2006年8月25日(金) 『理科教育』原稿
雑誌『理科教育』の依頼原稿の執筆が終わった。ダーウィン伝の準備も兼ねて関連文献をいくつか読んでいたので、実際に執筆に掛かっていたのは、昨日と本日の2日であった。400字詰め換算で20枚程度の原稿の場合、材料が手元にあってもこの程度の日時は掛かるということだろう。
2006年8月18日(金) メール消失
大学のサーバー更新作業が一段落し、本日から研究室のパソコンが安心して使えるはずである。まずは、11月18日(土)に神戸女学院大学で開催されるシンポジウム「ダーウィニズム:光と陰」(日本ヴィクトリア朝文化研究学会主催)の講演要旨を作成して、世話人の荻野昌利・南山大学名誉教授に送信した。
午後は雑誌『理科教育』の原稿に取りかかる。
夕方、情報センターの課長から、サーバー更新作業のミスで学外からのメールが消失したとの連絡があった。更新作業の都合でサーバーから学内の端末にメールを送れない場合、サーバーにメールが保存されるはずだったが、8月11日からの3日間はそうなっていなかったという。明らかに作業を請け負った専門業者の責任だが、情報センターとしてもこの事故の後始末に追われることになりそうだ。夜になって、学生・教職員に緊急通知するための文案を自宅に送ってもらって修正し、夜のうちに配信することになった。
2006年8月16日(水) 「ダーウィン伝」執筆開始
大学のサーバー更新作業は続いているはずだが、昨日から研究室のパソコンが使える状態になっているので、「ダーウィン伝」の執筆に着手した。確認しなければならない問題がいくつも残っているが、それにこだわっていると、いつまでたっても書き始められない。執筆しながら調査することにした。3月脱稿、7月刊行の予定だが、日程を考えると胃が痛くなる。いつものことだが、追いつめられないと気合いが入らない。人間とはそんなものだと、自分に言い訳している。
2006年8月11日(金) パソコンが使えない。
本日から17日まで、大学のサーバー更新作業のため研究室のパソコンが使えない。予備作業ばかりではいつまでたっても「ダーウィン伝」の原稿ができないので、とにかく執筆を始めようと気合いを入れた矢先なので、つらい。前から予告されていたとはいえ、出鼻をくじかれた感がある。しばらくは文献を読みあさる作業を続けよう。
2006年8月7日(月) 「ダーウィン伝」予備作業再開
AcrobatのOCR機能の設定言語に英語を加える方法を、アドビの電話サポートに問い合わせたが、なかなからちが明かない。「確認します」といっては電話を中断することを繰り返し、ようやくコントロールパネルから修正することができた。ベテランのサポートだったら簡単に終わっただろうに、つまらん時間を浪費してしまった。
午後になって、久しぶりに「ダーウィン伝」の予備作業を再開。これから半月ほどはこの作業に集中する予定である。教員にとって夏期休暇は「休み」ではなく、研究に集中できる貴重な期間である。
2006年8月4日(金) 文楽「夏祭浪花鑑」
文楽劇場・夏休み公演・第2部。「道具屋」が咲大夫、「三婦内」が住大夫、「長町裏」が綱大夫と英大夫。いつものように床・直下の席で楽しんできた。
前の席に40歳くらいの男性と小学生と思われる男の子がすわり、舞台を見ずに、ひたすら床の大夫を見ていた。男の子はたまに舞台にも目を向けていたが、男性の様子は半端じゃない。真剣な顔つきで大夫を見つめ続けていた。大阪にはこういう観客もいるのかと思っていたが、後になって気が付いた。どこかで見たような顔だし、第2部に出番のない若手の大夫さんだと思う。いつの日か自分で「夏祭」を語ることを考えているのだろう。この父親以上に男の子が頼もしい。大夫になろうと考えていなければ、こんな風に父親に付き合わないだろう。
2006年8月2日(水) 大学院・合同演習
本学の文学研究科博士前期課程では本年度から各コースの担当教員と学生が全員参加する合同演習を開講することになり、本日の2・3・4時限がそれに当てられた。当方が所属する「英語文化圏」研究コースの学生は一人だけだが、定年後の社会人学生なのでイェイツをテーマとした発表も堂々たるものだった。6人の教員の関連講義もそれぞれ面白かった。当方は心霊主義について話した。数人の学生がいる他のコースでも、合同演習という試みは好評だったようだ。
2006年8月1日(火) 京都で美術館、博物館、研究会
同志社で開催される研究会が3時からなので、それまでの時間を有効に過ごさなければと、まずは京都国立近代美術館「富本憲吉展」。以前から晩年の華麗な作品に魅せられていたが、若いときから洗練された意匠が持ち味だったようだ。午後は京都国立博物館「美のかけはし」。京博の歴史資料を見る目的で行ったが、国宝、重文も数多く展示されていた。神護寺の伝頼朝像も委託品の例として展示されていた。学芸員が執筆している作品解説では、足利直義像説を否定する一方で、「伝承に否定的にならざるをえない」とある。所有者の神護寺に気を使っているのかもしれない。京博創生期の歴史資料はどれも興味深かったが、なかでも印象に残ったのが本館正面破風レリーフの木型。無用になった大きなものがそのまま保存されていることに感心し、本館出入り口の上にあるレリーフを改めてじっくり眺めてきた。
同志社の神学部のスタッフが中心になっている「一神教学研究センター」の研究会は、通常、20名前後の参加者がいると聞いていたが、今回はなんと5名。夏期休暇に入って教員も学生も大学に来ていないためだが、それだけではなく、当方の発表テーマ「ダーウィニズムと自然神学」が神学者たちの関心を引かなかったのだろう。当方にとっては有益なコメントをもらい、無駄ではなかった。
世話役の三浦・神戸大教授と食事してから帰途に就き、高野線・河内長野駅に着いたのが10時40分。まだホームはPLの花火からの帰り客であふれていた。タクシーをあきらめて、家には遠回りだが三日市町から国道を横切るだけの路線バスで帰宅した。
2006年7月31日(月) 「科学思想史」成績
午前中に「科学思想史」の評価を再点検し、教務課に提出した。受験者162名のうち、合格者は123名、合格率75.9%となった。妥当なところだろう。合否判定基準を学内サーバーのSドライブで公開し、春学期関係の業務がほぼ終了した。
午後は明日、同志社で行う講演の追加準備。ペイリー『自然神学』の詳細目次をスキャナーで読み取り、OCRでテキスト化しようとしたのだが、うまくいかない。OCRの言語設定が日本語になっていることに気づいたが、設定が英語に変更できない。後日、だれかに相談するしかない。無駄な時間を費やしてしまった。
2006年7月30日(日) 夏祭り・後片づけ
午前中に夏祭りの後片づけ。他の班長さんたちの半分も働いていないが、それでも体にこたえる。午後はぼんやりと、何もせずに過ごす。
2006年7月29日(土) 団地の夏祭り
夕方から団地の夏祭りを開くので、午前中は班長の一員としてその準備を手伝う。といっても不器用なうえに体力がないのだから、こういう時にはほとんど役に立たない。
夏祭りでは受付と進行役という役割だったが、設営や模擬店といった役割に比べるとはるかに楽である。役割分担を決めた役員さんたちが配慮してくれたのだろう。模擬店は早くに売り切れ閉店になったし、最後のビンゴゲームも盛り上がったし、夕立があったものの例年通りのにぎやかな祭りになったのだろうと思う。
2006年7月28日(金) 「科学思想史」採点
本日は「科学思想史」の答案と取り組む採点地獄の一日である。なんとか採点・評価を終えた。
2006年7月27日(木) 「科学思想史」試験
朝、福岡医院によってから研究室へ。肝機能の数値のうち、相変わらずγGTPだけが正常値を超えている。γGTPは特異的にアルコールの取りすぎを反映すると聞いているが、禁酒を厳守しているのだから、そんなはずはない。釈然としないが、禁酒を続けるほかないだろう。
午後に「科学思想史」の試験。履修登録者211名のうち、受験者は162名。受験放棄が2割を越しているが、予め問題の概要と評価基準を公表したので、授業に出ていない学生の中には最初からあきらめてしまったものも多いのだろう。
2006年7月26日(水) 司書講習の教材準備
朝、散髪に寄ってから研究室へ。8月31日から社会人対象の司書講習で「専門資料論」を講じるので、そのためのスライドを作成した。大学の司書課程「専門資料論」で用いているスライドを講習用に手直しする作業である。大学の授業と講習の授業とで内容を変えていないが、まったく同じというわけにも行かない。授業時間は大学が90分×14回、講習が90分×10回、受講生は大学が50名、講習が200名という違いがあるが、なによりも大きな違いは受講生の意欲だろう。講習の受講生たちは受講料を払って3ヶ月間、資格取得のための学習に全力投球している(そうでもない人も混じってはいるが)。図書館などで勤務経験のある受講生も多い。教材が同じでも講義のレベルはどうしても違ってくる。
昨年まで本学の司書講習は昭和町キャンパスで実施していたが、本年度からすべて和泉キャンパスで実施することになった。受講生が減少するのではないかと不安だったが、例年と変わらない人数の受講生が6月から講習に通っている。昨年まで「専門資料論」の教材は印刷、配布していたが、本年度からは学内サーバーに保存して、学内の端末から見てもらうことにした。アップするのは8月20日すぎでよいだろう。
3時半から情報センター運営会議。これで休み前の会議はすべて終わった。このところ、こまめにジャーナルを書いているのは、授業、授業準備、会議という慌ただしい日常の繰り返しから解放され、普段とは異なる作業に取り組んでいるせいだろう。
2006年7月25日(火) 心霊主義の教材準備
朝は、ありきカイロプラクティックへ。右の腕・肩の張りは大分マシになってきた。自宅と研究室では依然として右手でマウスを禁止しているが、教室では右手を使うようになった。
午後は大学院の授業で用いるために、心霊主義についてのスライドを作成した。心霊主義に心酔したウォレス、無関心だったハクスリー、少しは迷ったダーウィンと、こんなことにも科学者たちの個性が反映していて面白いと思う。
2006年7月24日(月) 自然神学の講演準備
8月1日の同志社での講演「ダーウィニズムと自然神学」で用いるパワーポイントのスライドを若干、修正し、世話役を務めている神戸大学の三浦伸夫さんに送信した。三浦さんはスライドの数が多いことを心配されていたが、適当に飛ばして、与えられた90分に納めるつもりではある。神学の専門家がどんな反応を示すのか、楽しみでもある。
2006年7月23日(日) 「専門資料論」評価
久しぶりに一日中、家にいて、「専門資料論」の答案を採点し、平常点と合わせて最終評価を決定した。平常点を加味することで、例年よりも不合格者が少なくなった。
2006年7月22日(土) 「専門資料論」最終試験
2時限目に「専門資料論」の試験を実施した。例年は研究室で直ちに採点するのだが、本日は団地で夏祭り準備の班長会があるため、答案用紙を抱えて早い時間に帰宅した。夏祭りは29日に予定されている。通常の年なら梅雨明け十日で天気は安定しているはずだが、今年はどうなるか、やや不安がある。
2006年7月21日(金) 「専門資料論」平常点の集計
司書課程「専門資料論」の3回目のレポート37人分をダウンロードして、採点、コメントを書く。3回のレポートの成績と出席点、それと掲示板への書き込みの評価とを合わせて平常点を算出した。明日、最終試験を実施するが、当然のことながら平常点と最終試験の成績の相関は極めて高いので、平常点だけでもほぼ、評価の目安がつく。
本年度の「専門資料論」の授業ではLMS(授業管理システム)の効用を確認するためにブラックボード・システムを試用し、課題を繰り返し出題することになった。学生に対してよりていねいな指導ができるものの、教員の負担増になるのがつらい。
2006年7月20日(木) 「科学思想史」授業終了
春学期の授業は今週いっぱい続くが、「科学思想史」は本日の4時限目の授業で終了。28回の授業を一度も休講せずに終えることができた。
2006年7月19日(水) メール・データが消えた。
6月29日に研究室のパソコンを開いたら、OutlookExpressの受信データの半分と送信データの全てが消えていた。情報センターの専門家に相談したところ、フォルダーが隠れて残っているので復元可能か調査するということだったが、結局、今日になって、「バイナリーで表示させてもデータが存在しない」ことが判明したという。過去の記録のかなりの部分が消えてしまった。メールデータもバックアップ保存しておくべきだった。
3時限の社会学科基礎演習は春学期の最後なので、研究室でお茶会とした。受講生は9人しかいないから、なんとか部屋に入れる。学生たちの勝手なおしゃべりにまかせて、ジャーナルを執筆している。この後、教授会がある。
2006年7月17日(月) 自然神学の講演準備
「海の日」とかいうよく分からん祭日だが、研究室に出てきた。研究棟の各フロアとも、一人か二人は来ているようだ。8月1日に同志社の神学部の先生たちを中心にした研究会で「ダーウィニズムと自然神学」と題した発表をするため、本日は講演用パワーポイントのスライド作成である。保存してあるスライドには流用できるものも多いのでつい、スライド枚数も多くなりすぎたが、少なすぎるよりはよいだろう。神学の専門家に神学の話をするのは「釈迦に説法」かもしれないが、基礎的な間違いを教えてもらえるかもしれない。
2006年7月7日(金) WebCTの全学デモ
2時限、3時限、4時限の3回、CSKシステムズ社員によるWebCTの説明会を開催し、大学側の責任者として一日中、立ち会った。3時限と4時限の回では中抜けして休んだが、それでも疲れた。6月22日に実施したブラックボードのデモと同様、WebCT自体の説明というよりもLMS(授業管理システム)とはどんなものか、教職員に知ってもらうために企画したが、参加者は前回が24名、今回は21名。他大学の状況を勘案すると、ま、こんなものだろう。日本ではLMSについての認知度がまだ低いが、おそらく10年後には欧米と同様、大学の授業でLMSを利用することが当たり前になっていると思う。
2006年6月30日(金) 「専門資料論」レポート採点
本年度の司書課程「専門資料論」ではブラックボード・システムを試用しており、レポートもこのシステムで提出することにしている。5月に出題した第1回目のレポートでは、送信方法の分からない受講生がかなりいたが、昨日締め切った第2回目の課題では、ほとんど提出に成功している。明日の授業で返却するため、本日午後は提出された40人分のレポートを採点し、コメントを書くのに費やした。専門家が書くような見事なレポートもあれば、どうしようもなく粗雑なものもあるが、成績を学年別に平均すると、4年次生がA(優)、3年次生がB(良)、2年次生がC(可)となる。大学での学習の効果が反影していると思う。
2006年6月28日(水) 源頼朝像
刊行されたばかりの米倉迪夫『源頼朝像』(平凡社ライブラリー)を昨日、生協で購入し、本日、読了。教科書などでおなじみの頼朝像が実は別人のものだということは、なんとなく耳に入っていたが、きちんとした論考を読むのは初めてである。神護寺の伝頼朝像は足利直義像であるという説は、説得力があるように思う。教科書類に載っていた尊氏像も信玄像も違うらしい。
科学史研究の世界でも通説がつぎつぎと訂正されているが、それがなかなか一般に広まらない。美術の分野は一般の関心も高く、通説の切り替えがスムーズなように見える。
2006年6月27日(火) 試験問題作成
いつもの火曜日と同様、「科学思想史」の明後日の授業で使うパワーポイントのスライドに、新たに画像を組み込む作業を行う。手元には良質の資料がそろっているから、それをスキャナーで取り込めばよいと分かっているが、つい面倒なのでグーグル・イメージで探して取り込んでいる。
同じ作業を続けるのに飽きたので、「科学思想史」の期末テストと、放送大学「生物学の歴史」の通信指導問題を作成した。両者とも前年度の問題をもとに作成したので、予想外に早く終わった。こういうときは、つくづくワープロがありがたいと思う。
朝一番でのぞいたメールには、理科教育・研究団体の機関誌への執筆依頼があった。最近は、執筆依頼、講演依頼、あるいは出演依頼がほぼ月一回の割合で来る。研究時間を割くことになるが、この程度の頻度なら適度な刺激になってよいようだ。
2006年6月22日(木) ブラックボードの全学デモ
2時限、3時限、4時限の3回、ブラックボード・ジャパン社員によるシステムの説明会を開催した。4時限に「科学思想史」の授業で抜けたほかは、大学側の責任者として一日中、立ち会った。ブラックボード自体の説明というよりも、LMS(授業管理システム)とはどんなものか、教職員に知ってもらうために企画したが、参加者は延べ24名。期待していたよりも少ないが、ま、こんなものか。
2006年6月17日(土) 学術における不正
2時限の司書課程「専門資料論」では、例年、この時期に、学術における不正の話をしているが、毎年、新たな大事件を取り上げることになる。今年は、なんといってもソウル大学ES細胞論文捏造事件。国内では、東大工学部のRNA論文捏造事件。捏造であることはみえみえなのに、「管理が悪かっただけ」などと逃げているのは、往生際が悪い。9月に社会人向けの司書講習で同じテーマを扱うが、それまでの3ヶ月間にまた、なにか事件が表沙汰になるかもしれない。
このテーマに関連して、河合信和『旧石器遺跡捏造』(文春新書)を読んだ。この分野で知られているジャーナリストの書いたものだけに、事実関係はよく調べていると思うが、すべてを藤村個人の責任にして重大な問題から逃げている気がする。もっと学界の責任を追及すべきではないのか。先日亡くなった旧石器研究の大ボスの責任に触れないのは、生存中はアンタッチャブルだったのか。早くから捏造を指摘していた竹岡俊樹氏についても、もっと書くべきではないか。いまだに竹岡氏はしかるべき地位についていないらしいが、これは考古学の世界の閉鎖性を示しているのではないだろうか。
本書の最後に、藤村の捏造発覚後もそれを無視した発掘報告書が出されているとの指摘があった。これには驚いた。考古学の世界は、かなりいい加減なんだな。
2006年6月16日(金) 私情協・フォーラム
朝、文楽劇場に行き、電話予約した夏休み公演第2部「夏祭浪速鑑」の切符を引き取る。第2部では「夏祭」の後に「連獅子」が出る。松竹座の7月・藤十郎襲名公演の昼の部も「連獅子」と「夏祭」。これは、季節に合わせてたまたま同じになっただけなのだろう。新・藤十郎・初役の団七九郎兵衛に、段四郎の義平次か。どうも食指が動かない。わざわざ出かけることはないか。
午後は近鉄・学園前の帝塚山大学で私情協の「教育改革ITフォーラム」に出席。明治大学の先進的な取り組みについて、4時間ほぼぶっ通しで話を聞く。有益ではあったが、疲れた。
2006年5月30日(火) 私情協・総会
私情協(私立大学情報教育協会)の総会出席のため、またまた朝早く大阪を発ち、今度は市ヶ谷の私学会館に向かう。会議が4時に終わったので、比較的すいている4時台の「のぞみ」で帰阪。明日は授業と、当方が議長を務める会議があるので泊まるわけに行かない。
2006年5月26日(金) ブラックボード・ユーザー会議
LMS(授業管理システム)のブラックボードジャパン社が開催するユーザー会議に出席するため、朝早く大阪を発ち、渋谷のホテルに向かう。会議の主要テーマは、システムのアップグレイドと、ブラックボード社が買収したWebCTの今後についての説明であった。説明会終了後に懇親会の場が設けられていたが、当方は翌日の授業のため、金帰族で混雑する6時台の「のぞみ」に乗って帰阪。
数年前なら土曜の授業を休講にして一泊し、明日から東洋大学で開催される科学史学会年会に出席するところである。しかし最近は原則として休講禁止になったし、歳とともに学会に出るのが億劫にもなってきたので日帰りし、明日は通常通りの授業をすることにした。
帰りの新幹線で、横山秀夫『半落ち』を読了。話題の小説のため、読む前からいつのまにか漠然と結末が耳に入っている。それでも最後の最後に、「あっ、そういうことだったのか」という驚きがあった。
2006年5月18日(木) 右手マウスは禁止
連休が終わった頃から右肩と右腕が痛むようになった。マウスを使うと激痛が走る。夜も鎮痛剤を飲まないと眠れないこともあった。典型的なパソコン症候群の一つらしい。左手マウスだと作業がはかどらないため、つい、無理して右手を使うので、いっこうに痛みが治まらない。今日から断固として右手を使わないことにした。
とりあえずはこれで乗り切れるとしても、左手マウスも同様になったらどうしよう。キーボードだけなら大丈夫なのだろうか。生涯パソコンを使い続けなければならないのだから、不安である。
2006年5月8日(月) 授業再開
連休が終わり、通常の授業風景がもどってきた。これからの10週間は、祭日もなく、授業と授業準備、会議その他の校務に追われる日々が続く。研究に割く時間はほとんどないだろうな。
2006年5月4日(木) 2日間だけ研究
昨日と本日は、おおむね研究に専心することができた。二日とも同じフロアに同僚がほかに4人来ていた。明日からの2日は校務に関連した仕事に当てており、7日の日曜日はいくらなんでも休む予定。金曜日は授業がないから4月28日からの10連休の半分は研究に使えると予定していたのに、前半の5日間は何をしていたのだ。初日の金曜は京都、土曜は業績報告書に手間取った。日曜に休んで、月曜は通常授業。結局、業績報告書に手間取ったことと、2日の火曜に体調を崩したことが響いたのだな。それにしても、楽観的な予定を立てて、その半分も実現しないという習癖が、中学生の時から直っていない。
2006年5月2日(火) 連休の狭間
今年は月曜・火曜が連休のはざまの平日。大学は通常の授業日となっているが、帰省した学生も多く、なんとなく浮ついた雰囲気になっている。当方は昨日から、のどが腫れて痛みがあり、大学には来たものの仕事にならない。午後遅くになって気分が良くなり、ジャーナルを書いている。
夕刻には5月1日に急逝された鬼塚光政経営学部教授のお通夜に出席するため、千代田メモリアルホールへ。持病の心臓病を制御しながら研究と校務に務めておられたが、ついに力尽きたのだろう。私より1歳年上の68歳であった。近隣の南花台にお住まいだったこともあって、専門がまるで違う割には親しくしていただいた。1989年のゴルフ場反対運動の時には、南花台自治会も協力するように尽力していただいた。ご冥福を祈る。
2006年4月29日(土) 教育・研究業績報告書
連休初日だが研究室に来て、放ってあった書類をいくつか片づける。予想より時間が掛かったのが、「教育・研究業績報告書」。以前は前年度に発表した論文などを記載するだけだったが、しだいに様々な活動を報告するようになってきた。今回は一段と記述内容が増加し、規定の書式に合わせて入力するのに手間取ったが、なんとか書き終えて担当者に送信。やれやれ。
2006年4月28日(金) 京都国立博物館「大絵巻展」
昼過ぎに京博に。行列かと心配していたが、すんなり入館できた。後で乗車したタクシーの運転手は、明日から京都はすごい人出で、京博も行列になるだろうといっていた。「信貴山縁起」など美術書でおなじみの絵巻のほか、さまざまな絵巻が展示されていた。
2006年4月27日(木) パワーポイント教材
朝8時過ぎに研究室に来て、本日4時限の「科学思想史」パワーポイント教材の改訂に取り組む。昨日は会議の連続、今日も昼休みに当方が議長を務める会議があり、3時限が大学院の授業なので、午前中しか時間がない。
毎年の授業なので毎回使用するスライドの基本はできているのだが、図が乏しい。今年はできるだけ図を入れて、にぎやかなスライドにしようと考えている。しかし図をインターネットから取り入れることが多いので、厳密には著作権や使用権が問題になる。授業時間中に示すのはかまわないらしいが、学内サーバーに保存して学生に公開するのは駄目らしい。せっかく図を組み込んでも、公開する教材からは削除しておく方が無難のようだ。
2006年4月26日(水) 水曜日は会議の日
今日は教授会がないものの、午前中、昼休み、3時限の基礎演習を挟んで、4時限目と、3つの会議に出席。社会学科1年次生の基礎演習は、女子6名、男子4名の10名。昨年度は当初、18名で出発し3名が脱落したが、本年度は10名とも最後まで放棄しないであろうと期待している。
2006年4月24日(月) ゼミ・コンパ
4時限が3年次生の専門演習で、授業終了後、和泉中央駅近くの居酒屋でコンパ。今年3月の卒業生のゼミでは、初年度に27名の参加者があったが、本年度は女子5名、男子6名の11名。これでも当方担当のゼミとしては多い方である。禁酒を厳守の当方は居酒屋を早めに退散したが、学生たちはかなり遅くまでおしゃべりしていたとのこと。こぢんまりとしたゼミだけに、一度のコンパで堅苦しさが解けたようだ。
2006年4月23日(日) 日曜日に研究室
昨日は疲労で予定の作業ができなかったので、研究室に出てきた。今日は同じフロアにいる同僚が、ほかに1人しかいなかった。しかし昼過ぎにはレポートを出し遅れていたゼミ生が一人、わざわざ提出に来た。本日の作業は、学生が授業中に書いたものを新しく購入したスキャナーで取り込み、授業で活用するために加工すること。スキャナー取り込みはできたが、後の加工がうまくいかない。マニュアルと格闘するのがいやになったので、作業中止。とりあえずは今まで通り、教材提示装置を使うことにする。残った時間で、わずかながら「ダーウィン伝」の準備作業を手がけた。本日は河内長野市会議員の選挙があるので、締め切りまでに帰らなければならない。
2006年4月22日(土) 和泉市久保惣記念美術館
午後は学芸員課程の見学研修の引率で久保惣美術館に行く。2時限の司書課程「専門資料論」の授業が「ブラックボード・システム」の説明などのため時間一杯になったため、危うく遅刻しそうになったが、同僚が車で送ってくれてなんとか集合時間に間に合った。「ブラックボード・システム」を利用した教材提示と掲示板は利用できているので、今度はレポート提出を試みている。
久保惣美術館の見学研修では、いつも美術館の現状などをていねいに解説してもらっている。現在はどこの美術館でもサービス業務の負担が増え、学芸員が研究に取り組む時間が少なくなっているという。研究室に戻ってメールを見たら、某有名国立大学の助教授が、校務に追われて研究ができないと愚痴をこぼしていた。独立法人化以来、国立大学はどこでも大変らしい。博物館・美術館にしろ大学にしろ、今はサービス業務重視に振れすぎているようだ。
久保惣美術館では疲労のため、途中から来てくれた学芸員課程チーフの井上助教授に引率をまかせ、当方はほとんど休んでいた。2時限の授業を目一杯こなした直後の引率は無理になってきたようだ。数年前は同じ条件でいくつも引率をこなしていたのだが、これも寄る年波か。
2006年4月16日(日) 日曜日に研究室
金曜日に遊んでしまったので、研究室に出てきた。ほかにも出てきている同僚が、同じフロアだけでも3人いる。明日の「科学思想史」と「専門演習」の教材を作成し、業務上の仕事を一つ片づけ、わずかながら「ダーウィン伝」の準備作業を手がけた。
2006年4月15日(土) ブラックボード・システムの改訂版
2時限の授業「専門資料論」でLMS(授業管理システム)のブラックボード・システムのデモサイトを試用しているが、先日、このデモサイトがヴァージョン・アップされ、機能がかなり追加された。授業運営に便利にはなったが、その分、さらに使い方を憶えなければならない。いちどきには無理なので、時間を掛けて取り組むことにしよう。今日の授業から出てきた学生も多いので、午後はまたしても、その受講生たちのシステム登録に費やす。
2006年4月14日(金) 文楽「寺子屋」
国立文楽劇場・昼の部、菅原伝授手習鑑の車曳・賀の祝・寺子屋。桜丸切腹が住大夫、寺子屋は綱大夫と嶋大夫。床の真下の席で義大夫の世界に浸ってきた。寺子屋は歌舞伎でも人気の狂言だが、最後の「いろは送り」がだれる。文楽では千代が悲しみの舞をみせるので、緊張が続く。回向の場面で役者が踊るわけにはいかないが、人形だと不自然ではない。これほど悲しく美しい舞はないように思う。ところが今回、千代を遣った文雀が寄る年波でよぼよぼ歩き。それはやむをえないのだが、千代まで年寄り臭くなっていたのには困った。ここはやはり、蓑助で見たかったな。
2006年4月8日(土) 最初の授業
本日から2006年度の授業が始まった。1時限の「生涯学習概論」は本年から河内長野市教育委員会の尾谷雅彦氏にお願いしているので、授業の前後に必要事項をご案内した。2時限が同じ教室で当方担当の「専門資料論」。ブラックボード・システムの利用について説明した。受講生たちはこのシステムに興味を持ったようだ。午後はその受講生たちのシステムへの登録に費やした。
2006年4月7日(金) eラーニングについてヒアリング
朝、福岡医院に寄ってから大学へ。午後は教材関係の商社から、教材作成ソフトとLMS(授業管理システム)の話を聞く。これが予想外に長くなって、3時間かかった。今日はダーウィン伝の予備作業に取りかかれると踏んでいたのだが、甘かった。とはいえ、いつまでもぐすぐずしていられないので、短時間だが予備作業のそのまた予備作業にかかる。ここ10年ほどは進化論史の外伝に集中していたので、本伝がおろそかになっていることを痛感した。
2006年4月6日(木) ブラックボード・システムの試用
3日(月)から4日間、代表的なLMS(授業管理システム)である Blackboard の試用に取り組んできた。こういうものは、とにかく最初が苦労の連続になる。Web
からダウンロードしたマニュアルも、始めはなんのことかさっぱりわからない。担当の営業マンとメールや電話でやりとりしながら、なんとかデモサイトを使って授業が実施できるところまでこぎ着けた。同じLMSであっても帝塚山大学提供のTIESとは大幅に違うこともわかった。ただし無料提供のデモサイトのため、授業運営に欠かせない機能で使えない部分もあるが、これは近日中になんとかしてくれるようだ。明後日から始まる司書課程科目「専門資料論」で利用することにしているが、受講生たちはどんな反応を示すだろうか。
2006年4月1日(土) 欧文誌抄録
Journal of the History of Biology
の38巻(2005)第3号の抄録を終わり、第2号分と合わせて『生物学史研究』編集担当の林真理さんに送信した。第1号「ダーウィン革命」特集号では1本の論文に正味2日くらい掛けたが、2号、3号の論文計11本については、1本あたり1時間くらいか。ていねいに読みたい論文もあるが、時間がない。『生物学史研究』に早く掲載することも大事なのだと、自分に言い訳している。
2006年3月31日(金) 歯科定期検診
朝は北野田の日野歯科医院で半年ごとの定期健診。この歳で歯が全部、自前でそろっているのは珍らしいという。食後の歯磨きと、半年ごとの検診のおかげだろう。同僚たちを見ても、歯磨きをしている人は少ない。小学校で厳しく指導されたはずなのに、どうしてだろう。北野田駅周辺も半年ごとに大きく変化している。
研究室でJournal of the History of Biology の38巻(2005)第2号の抄録を終わり、第3号に取りかかる。メール・ボックスを見に行ったら、39巻(2006)第1号が入っていた。この号の抄録は当分、お預けだな。
2006年3月30日(木) 放送大学試験問題
明日が締め切りの放送大学「生物学の歴史」第1学期の試験問題を作成し、送信した。10題のうち2題を担当するだけだが、前年度の正解率を見て若干の手直し。添付するファイルを間違えて送信し直すミスもあったが、とりあえずこれで締め切りに迫られている作業は片づいた。午後遅くになってJournal of the History of Biology の38巻(2005)第2号の抄録に着手。
2006年3月28日(火) 上野の桜
朝食後、上野の東京国立博物館へ。国宝室は「地獄草紙」。特集陳列の「医学館」は書籍の展示だけで、期待はずれだった。博物館庭園の桜が満開で、庭園を散策した来館者はみな、歓声を上げていた。もちろん博物館の外の桜も満開。今年の花見はこれでいいや。
午後は市ヶ谷の私学会館で私情協の総会。窓から見るお堀端の桜は、すでに葉が出ていた。私情協の会合では、日本の大学も少しずつeラーニングの導入に向かって前進している状況が伝えられた。本学もあまり遅れずに付いていきたいものだ。
帰りの「のぞみ」では『白夜行』の口直しに、高橋克彦『おこう紅絵暦』を読む。
2006年3月27日(月) 丸善DVD収録
「のぞみ」で昼過ぎに品川に着き、慶応大学・三田キャンパスへ。高宮教授が校閲し、映像館が制作している丸善DVDのシリーズで、『種の起源』を紹介することになり、高宮教授との対談を図書館・旧館で収録した。ぶっつけ本番でうまくいったか自信はないが、ディレクターがまとめてくれるだろう。
明日は私情協(私立大学情報教育協会)総会に出席するので、いつもの私学共済・東京ガーデンパレスに宿泊。禁酒厳守のため夜が長いので、御茶ノ水駅前の丸善店頭に山積みとなっていた東野圭吾『白夜行』(集英社文庫)を購入、一気に読了。話題になるだけあって退屈はしなかったが、読後の爽快感がない。私好みのサスペンスではない。宮部みゆきや高橋克彦、北村薫といった作家たちのものは読後も置いてあるが、『白夜行』は捨ててきた。
2006年3月25日(土) 欧文誌抄録
Journal of the History of Biology の38巻(2005)第1号「ダーウィン革命」特集号の和文抄録作成を終え、『生物学史研究』編集担当の林真理さんに送信した。『ダーウィン伝』執筆の手頃な助走になったといえよう。授業が始まる前に2号と3号の抄録も終えたいのだが、授業準備もあるし、どうなるか。
2006年3月24日(金) 情報化推進委員会
午後に関係教職員による情報化推進委員会でeラーニングについて報告、来年度にeラーニング導入方針を定めるワーキング・グループを設立することになった。学長からの諮問に答える形で導入計画を立案し、情報センター長の任期を終えたいものである。
2006年3月23日(木) eラーニング報告書
午前中に映像館に宅配便で資料を送付した。今回は慶大の高宮教授と『種の起源』につい対談しているところを収録し、そのDVDを丸善から発売するという。収録は27日(月)の午後。今度もぶっつけ本番で、どんな展開になるか分からないので、資料は余分に送っておいた。
午後はeラーニングについての報告書作成。日本の大学のeラーニングは欧米はもとより、韓国とシンガポールにも大きく水をあけられている。文科省が躍起になって笛を吹くが、大学教員たちは踊ろうとしない。本学はそうした日本の大学の中でも後れを取っているのではないか。なんとかしようよ、というつもりである。
2006年3月22日(水) eラーニング調査
一日中、eラーニング関係の資料整理に奮闘した。明後日の会議で日本の大学の現状と本学の今後について報告しなければならないので、そのために集めてあった資料を見直さなければならないが、同じファイルの中に不要になった資料が大量にあるので、まずそれを廃棄した。いらなくなった資料はどんどん捨てないと、ファイリング・キャビネットがすぐ満杯になってしまう。
2006年3月21日(火) 欧文誌抄録
彼岸の中日で休日だが、研究室に来て欧文誌の和文抄録に取り組む。Journal of the History of Biology の38巻(2005)第1号「ダーウィン革命」特集の論文9本のうち、今日までに8本の抄録の入力を終わった。ダーウィン関係の論文のため、抄録を作りながら関連文献を確認したりするので時間がかかる。気分転換にときどき、世界野球WBC決勝戦の速報をインターネットで見ていた。日本が勝って気分よし。
2006年3月17日(金) 卒業記念パーティー
午前中に散髪を済ませてから大学へ。卒業式は10時から開催されているが、背広ネクタイ姿になるのが邪魔くさいので、いつも欠席している。今年はゼミの卒業生がいるので、学内で開催される1時からの卒業記念パーティーには出たが、大勢の人とスピーカーの音で、会場にいるだけで疲れ果ててしまう。学生たちはみな、晴れ着姿で嬉しそうだった。女子学生の中には6時から美容院で袴の着付けをしてきたものもいる。昨日とはうってかわった晴天になって、よかった。卒業生たちと何枚も写真を取り合って、お別れ。学生たちの多くは、これから難波などでクラブの送別会があるようだ。
2006年3月16日(木) 修士論文発表会
昨日食べ過ぎたので、朝食抜き。午前中は、半年くらいほったらかしてあった図書館のための選書に着手、基本文献を4点、推薦することにした。昼食もいつもの半分以下。午後は文学研究科の博士前期課程修了者の修士論文発表会に出席。夕刻から生協食堂で大学院生と教員の懇親会。これは立食バーティーなので、自分でコントロールできる。
帰宅時は激しい雨と風。靴もコートもぐっしょりになった。
2006年3月15日(水) 文楽切符の引き取り
朝はカミさんが猫3匹を予防注射と肛門絞りのため獣医に連れて行くというので、一騒ぎ。ペットタクシーで送り出してから、当方は日本橋の文楽劇場へ出かけ、電話予約した4月公演「菅原」の切符を引き取り、長堀に出て東急ハンズで特殊な歯ブラシを購入。隣のビルの旧・出光美術館で開催されている大阪市立近代美術館・前田藤四朗展を見るつもりだったが、本日休館。水曜日が定休日とはうっかりしていた。久しぶりに三休橋筋のコーヒー専門店LINKへ。業績は順調に伸びているとのことで、店長にも余裕が出てきた。
昼過ぎに難波駅から大学へ。今年度最後の情報センター運営委員会で、夕方から近くの洋食店で担当教職員の懇親会。当方にはコースで出る料理が多すぎるのだが、つい、もったいないと食べてしまう。案の定、腹具合に響いた。生物として当然のことだが、歳とともに食べる量が激減している。
2006年3月14日(火) 欧文誌抄録
今日は一日中、抄録作成のつもりでいたが、ちょこちょこ校務が入ったり、研究室の暖房機が故障したりと、研究だけとは行かなかった。それでも今日までに、Journal of the History of Biology の38巻(2005)第1号「ダーウィン革命」特集の9本の論文のうち、ルース、ボウラー、サンドラ・ハーバート、ピエトロ・コルシ、それとジョナサン・ホッジの5人の論文を読んで抄録を作成した。この号の残りの論文は4本だが、第2号、第3号もなんとか3月中に片づけたいものだ。
2006年3月13日(月) 抜糸
午前中に近大病院で1週間前の形成外科手術の抜糸。きれいに直ってきているとのこと。午後は欧文誌の抄録作成を続行。
2006年3月12日(日) 確定申告
毎年、憂鬱なのが所得税確定申告書の作成。本務校の給与のほかに老齢年金と稿料などの雑収入があるし、医療費控除も申請しなければならない。面倒なのでほっといたら、9月になって税務署から呼び出されたこともあった。3月15日の締め切りぎりぎりになったので、一念発起、休日の仕事にした。今回は国税庁HPの「申告書作成コーナー」を利用してみた。申告書用紙に書くよりもずっと楽だった。来年からはそれほど苦にしなくてもよさそうだ。
2006年3月10日(金) ブルーバックス盗作本に決着
朝日新聞と読売新聞の朝刊に、『科学史から消された女性たち』の件が掲載されているようだ(朝日・大阪版には掲載されていない)。講談社BOOK倶楽部のHPには、「講談社ブルーバックス『科学史から消された女性たち』『早すぎた発見、忘られし論文』(いずれも大江秀房著)の2冊に関し、著作権上の問題があることが判明いたしました。そのため、この両書について回収・絶版の措置をとることに決定いたしました」とある。当然の対応であろう。
こうした啓蒙書の場合、専門書のように出典をいちいち明示するわけにはいかない。読者にはわずらわしいし、出版社もいやがる。執筆者もついそれに甘えてしまいがちだが、上記の本の場合は限度を超えていたのだろう。当方にとっても人ごとではない。他山之石可以攻玉。
昼前に大学生協から卒論集が納品された。メールで数人のゼミ生に通知し、広く知らせるよう依頼したら、1時間後には友人のメールで知ったというゼミ生が受け取りに来て、反応の早さにびっくりした。その学生にとって自分の書いたものが冊子になるのは初めてなのだろう。立派な形になったと、喜ん持って帰った。学生が喜んでくれれば、苦労も報われるというものだ。
午後になって欧文誌抄録に取りかかる。手術などで5日間、手つかずだった。3月も残り20日、そのうち研究に割けるのは10日くらい。なんとか片づけたいものだ。
2006年3月9日(木) 会議が3つ
近大病院形成外科に寄ってから、大学へ。顔面の手術跡も目立たなくなってきたが、マスクをして昼過ぎから3つの会議に出席。本年度最後の教授会では卒業判定がある。これは休むわけに行かない。夕刻からの退職教職員送別パーティーは欠席。
2006年3月6日(月) 形成外科手術
一昨年の11月29日に顔面に大けがをして近大病院の形成外科で手術し、ほぼ完治していたのだが、一部に不自然な部分が残っているということで、修正の手術をした。外来の処置室で1時間弱。一種の美容整形といえるだろう。美容整形など生涯関係がないと思っていたのに、人生、何が起きるかわからない。
2006年3月5日(日) 笛の会
毎年、3月第一日曜日に大槻能楽堂で能笛の会がある。森田流の野口傳之輔師の教室の生徒たちの、いわばお稽古の発表会である。といっても笛以外の囃子方はプロが出演するし、片山九郎右衛門師や大槻文蔵師らの本格的な能楽も上演される。カミさんは梅若万三郎師の謡で一調一管「江口」を出すので数ヶ月前から緊張しまくっていたが、まずまずのできで無事終了し、一安心。出番は午後遅い時間なので、当方は梅田の大丸で「パウル・クレー展」をのぞいてから大槻能楽堂に行き、帰りは難波の高島屋で「ユトリロ展」を見てきた。ドイツ美術とフランス美術のサンドイッチで、日本の古典芸能を鑑賞したことになる。
2006年3月4日(土) 欧文誌抄録
数日前からJournal of the History of Biology の38巻(2005)第1号の和文抄録の取りかかっている。この号は御大ルース編集による「ダーウィン革命」特集号で、執筆者にはボウラー、サンドラ・ハーバート、ピエトロ・コルシなど、ダーウィン論でおなじみの面々が名を連ねている。興味のない論文なら流し読みしてさっさと抄録を作るのだが、この号は一点一点ていねいに読まなければならない。しばらくはダーウィン・ワールドに没入することになりそうだ。
2006年3月1日(水) 『ASAHIパソコン』最終号
生協から最後の『アサパソ』3月15日号(通巻399号)が届き、冒頭の編集長挨拶を読んで驚いた。同誌の三代目編集長・三浦賢一さんが2001年に他界されていたという。東京でも三浦さんの話題が出ないなと思っていたら、とっくに亡くなっていたのか。私よりもはるかに頑健だったのに、あるいはと思ってインターネット検索したら、やはり同年5月3日に自ら命を絶ったということだった。なまじ人に優れた能力があるために、仕事をしすぎたのではないだろうか。
三浦さんとは1985年に『科学朝日』で「ダーウィンをめぐる人々」を連載したときからのお付き合いだった。『科学朝日』1995年6月号のダーウィン特集は、三浦さんと協力して作った。三浦さんが『アサパソ』編集長だったときには、本学の情報関係授業で、パソコンの将来について特別講義をお願いしたこともあった。いずれまた、一緒に仕事をすることもあると思っていたのに、残念としかいいようがない。ご冥福を祈る。私はもう少しダーウィンでがんばるので、あの世から見守ってください。
『アサパソ』は創刊号から欠かさず購読していた。おおむね私の身の丈にあった内容で、パソコン界の最新情報を知るのに便利だった。『朝日ジャーナル』、『科学朝日』、『アサヒパソコン』と、朝日新聞社のなじみの雑誌が次々と廃刊になってきたが、『朝日ジャーナル』と『アサヒパソコン』は時代の流れで仕方なかったろう。しかし『科学朝日』は赤字でも、日本の科学界のために、そして朝日新聞社自体のためにも残すべきだったと思う。個人的にも、執筆者の立場では科学史の啓蒙記事を掲載する重要な舞台だったし、読者としては科学界の最新情報を知るのに手頃な雑誌だった。『科学朝日』の代替えになる気に入った雑誌は見つからないままだが、『アサヒパソコン』の競合誌には代替えとして購読するのに適したものもあるようだ。
2006年2月27日(月) 書類作成
共同研究・博物館プロジェクトのチーフを務めているので、長崎では資料代などを立て替え払いしてきた。これを精算してもらうため、領収書を整え、規定の書類を作成しなければならない。これが、かなりやっかいで、半日以上かかった。
3時過ぎに日経新聞の編集委員が、アーネスト・サトーについての取材に来室した。文化欄でいろんな著名人の日記を紹介しており、近くサトーの日記を取り上げるので、日光講演の内容を参考にしたいという趣旨であった。電話で、サトー本人については知らないと断っておいたのだが、やはり期待はずれであったようだ。日光講演のことはインターネット検索して知ったとのこと。ホームページはどこでだけが見るかわからない。それがまた、面白いところだ。
2006年2月26日(日) 写真はなんとか使えそうだ。
疲労でほぼ一日中、ぼんやりしていたが、夕方になってデジカメの写真をパソコンに取り込んだ。シーボルト記念碑などが予想以上にきれいに撮れている。今はカメラが勝手にいろんなことを調整してくれるのだろう。これなら教材として使えそうだ。
2006年2月25日(土) 野口彌太郎記念美術館
朝食の食堂に高校生の団体がいたので、聞いてみたら、大学受験のためという。制服がばらばらなので、学校ではなく、塾の先生が引率して長崎大学を受けに来ているようだ。
本日は各自、別々に行動。当方はホテルの横からオランダ坂を散策した後、9時開館の野口彌太郎記念美術館(重文・旧長崎英国領事館)を見学。長崎ではどの博物館も朝早い時間から開けている。歴史文化博物館は8時半開館で、早い時間からかなりの入館者があるという。長崎では県も市も、観光地としての魅力を増大させるため、真剣に取り組んでいるようだ。
本来なら夕刻まで長崎市内の文化財を見て回るべきなのだが、夜に住宅地の自治会班長会に出席しなければならないので、昼前の便で帰阪。井上助教授と西口さんは、ホテルの隣にある日本聖公会の聖三一教会に表敬訪問してくれたとのこと(本学は、聖公会系列のミッションスクールである)。
自宅で数時間、ぼんやりした後、自治会の集会に出席。前回の班長会の抽選で重い役には当たらなかったので、本業にはあまり影響しないだろう。
2006年2月24日(金) 長崎歴史文化博物館
朝はいつものように5時に目が覚めたので、オリンピックの女子フィギュアをしっかり見た。荒川の金メダルに万歳だが、村主が4位に終わったのがかわいそう。朝食後、メンバー全員で出島へ。昨日の夕方とは光が違うので、また、ミニ出島と記念碑を撮りまくる。当方はシーボルトの記念碑に感激しているのに、他のメンバーはそれほどでもない。専門が違うと興味も違ってくるので仕方ないか。まして学生たちに教師と同じような感性を持てというのは無理なのだろう。
約束の時間を見計らい、路面電車で、昨年11月にオープンした長崎歴史文化博物館へ。この博物館は長崎県と長崎市が協力し、運営は指定管理者の乃村工藝社が担っている。県と市が協力していることと、学芸部門まで管理者に委ねていることで、全国の関係者から注目されている博物館である。本学の学芸員課程主任の井上助教授が、館長や学芸員(ここでは「教育・研究グループ」と呼んでいる)のチーフと親しいので、かなり立ち入った話を聞くことができた。これについてはいずれ井上助教授が報告書を発表するだろう。江戸時代の外交史を中心とした常設展示は充実していると思う。特別展の北京故宮博物院展は業者の持ち込み企画、はっきりいって、つまらない。
昼過ぎにいったん博物館を出て、メンバー4名で鳴滝塾跡とシーボルト記念館へ。記念館の特別展では、シーボルト門下の米沢藩医師・伊東昇廸(1804〜1888年)を紹介していた。この名前は始めて知った。昇廸の長男がポンペに学んだ医師・伊東祐順、次男が養子に行って政治家となった平田東助、伊東祐順の次男が建築家の伊東忠太。忠太は日本建築史上の超有名人なのだそうで、この名前を知らなきゃ駄目ですよと井上助教授にいわれた。後で調べたら、平安神宮、明治神宮、築地本願寺、大倉集古館などを設計している。なるほど、勉強になりました。間接的とはいえ、シーボルトがこういうところまで結びついてくるのが面白い。
鳴滝から歴史文化博物館にもどるまえに、近くのサント・ドミンゴ教会跡資料館を見学した。17世紀の教会跡、その後の代官屋敷跡の発掘現場がそのまま保存され、その上に桜町小学校の校舎がある。この小学校から、将来、歴史学者が出るといいな。
歴史文化博物館にもどり、井上助教授と地理学の野尻教授はさらに展示を見学し、当方と事務方の西口忠さんとは長崎県美術館に向かった。常設展第1展示室の「長崎異国風景」は楽しめた。第3展示室の「須磨コレクション」は、外交官・須磨弥吉郎(1893-1970)が1936年から1945年に掛けて収集したスペイン美術で、戦後もスペインにとどめられていたが、その一部が日本に返還され、それか長崎県に寄贈されたものだという。松方コレクションと同様、本当にいいものは日本に来ていないのだろうな。特別展の現代彫刻「エドゥアルド・チリーダ展」はお手上げです。西口さんはなんとか理解しようと努力していたが、当方はさっさと通り過ぎた。
メンバーの一人は帰阪したので、夕食は4人で繰り出す。
2006年2月23日(木) 長崎・出島は工事中だった。
学内の共同研究・博物館プロジェクトで、明日、長崎の博物館を訪問するため、昼前に伊丹から長崎へ。長崎便に関空発は無く、すべて伊丹発。伊丹空港に行くのは久しぶりだが、関空より活気がある。国内便は伊丹中心、国際便はますます成田に集中、そのうえ土建屋政治の象徴のような神戸空港ができた。関空が黒字になるはずがないだろう。
長崎市内に着いた後、直ちに出島へ。10年以上前にも出島に2回か3回来ているが、復元事業が進んでいるらしいので、個人的には明日の博物館訪問以上に楽しみにしていた。ところが、復元工事の真っ最中で、すでに復元された建物にも入れない。まいったな。それでも建物のない部分に入れたので、シーボルトの建てたケンペル・ツンベリー記念碑とミニ出島の写真を撮りまくる。秋学期の科学技術史の授業で、出島とシーボルトについての講義を数回、試みようと考えており、今日、撮影した写真を利用しようと企んでいる。きちんと撮れているかどうか分からないまま、とにかくシャッターを押してみた。
夕刻、ホテルニュータンダで他のメンバー4名と合流し、卓袱料理を食べに街に繰り出した。
2006年2月22日(水) 会議が4つ
朝、福岡医院に寄ってから大学へ。今日は教授会開催に合わせて、いくつも会議が開催される。当方も4つの会議に出席しなければならない。役職によっては朝から6以上の会議に出ているはず。理事長独裁の学校でないのだから、会議の多いのはやむを得ないと思う。
2006年2月21日(火) 科学史の盗作本
朝、ありきカイロプラクティツクで治療、疲労感が大分、緩和された。泉北の高島屋に寄った後、光明池の上新電機で外付けハードディスクとスキャナーを下見。250GB
が1万3千円だなんて、数年前なら考えられなかった値段になっている。使う側でもデータ保存のために、これくらいは必要になってきた。スキャナーも活用すれば便利なようだ。両方とも、研究費の残りを考慮しながら、近く購入しようと考えている。
午後になって、科学史ML に科学史の盗作本について投稿があった。大江秀房『科学史から消された女性たち』(講談社ブルーバックス、2005年12月)がL..シービンガー(小川真理子ほか訳)『科学史から消された女性たち』(工作舎、1992)などからの盗作であるという。工作舎のホームページにはこの件が載っていなかったが、編集の十川治江さんのHP
には怒りの文と、講談社への抗議文が掲載されていた。十川さんは、この本自体が、「現在活躍中の日本の女性科学史家たちを<科学史から消そう>とする試みではないか」と書いている。おそらく十川さんの言い分が100%正しいのだろう。講談社と著者がどう対応するのか、注目したい。こんなことを平気でやる著者は、盗作ではないと開き直るかもしれない。あるいは某有名評論家のように、下請けの連中がやったことで、自分は関わっていないというかもしれない。大江氏は「日本科学技術ジャーナリスト会議」の理事を務めているが、同会議は頬被りするのだろうか。
2006年2月20日(月) デジカメ
数日後にカメラを使う必要があるため、しまい込んであったデジカメを取り出し、マニュアルと格闘。カメラ撮影は学芸員課程の実習にも関係するので数年前に購入し、一度は使い方を覚えたが、旅行にもカメラは持参しないため、すっかり忘れてしまった。慣れれば簡単なことなのだが、覚えるまでが邪魔くさい。最も簡単な撮影法だけを覚えることにした。
マニュアルとの格闘を適当なところで切り上げて、とりあえず不要になった教材を整理し、『数理科学』に図版資料を郵送。
2006年2月19日(日) 大学院入試
本学の大学院入試は、試験、面接、合否判定まで一日で済ますので、研究室で待機する時間がかなりあるのだが、ほとんど何もできなかった。締め切りの仕事がとりあえず片づいて、疲労感が出てきているようだ。
2006年2月18日(土) 家事手伝いの一日
明日が出校なので、今日休むことにした。久しぶりの快晴、家事手伝いだけで一日が終わってしまった。研究室に出ないと仕事にならないという習慣は、研究者として出発したのが実験科学の分野だったためだろう。
2006年2月17日(金) 「ダーウィンはいかにして進化論に到達したのか」
14日から取りかかっていた雑誌『数理科学』6月号の原稿「ダーウィンはいかにして進化論に到達したのか」の執筆が終わり、ファイル添付で送信。あとは図版資料を郵送するだけになった。原稿の内容は、「ビーグル号航海のデータだけで進化論に転じたのではない」ということと、「マルサスの『人口論』が自然選択説を導いたのではない」ということの2点に絞った。それも資料分析や諸説の比較を省略して、かなり断定的に書いた。同業者からは乱暴に過ぎると怒られそうだが、ダーウィン論の第一歩としては許されるのではないだろうか。
さて、次はと。Journal of the History of Biology の38巻(2005)全3号分の和文抄録を作成しなければならない。冬休みに一挙に片づける予定だったが、余裕がなかった。なかなか『ダーウィン伝』の執筆にかかれない。
研究室に来て最初の作業は、迷惑メールとタイトルで不要と分かるメールの削除なのだが、今朝はうっかり、原稿依頼らしきメールを削除してしまった。消した直後に気づいたのだが、どうにもならない。これも、早く『ダーウィン伝』に取りかかれという神の配慮かもしれない。<まじめに取らないで。念のため。>
2006年2月14日(火) 講演会礼状
昨日、宇都宮大学の高際澄雄教授から講演会の礼状と写真が届いていた。わが講演について、「あれほど豊かな時間は、生涯なかなかもてるものではありません」とまでいっていただいた。同じ内容を授業で実施しても、学生たちの評価は低いだろう。講演会にわざわざ聞きに来てくださる方々は、それだけ話を受け入れる姿勢があるのだと思う。おかげで、一般向けの講演についても自信が持てるようになった。
今日から、雑誌『数理科学』の6月号特集「発見とひらめき」の原稿に取りかかる。「ダーウィンはどのようにして進化論に到達したのか」というタイトルで書くことにしたが、「学部学生にも分かりやすく」となると400字詰め換算で20枚というのは、かなりきつい。「何を書くか」よりも、「何を書かないか」が課題になりそうだ。
2006年2月13日(月) 卒論集の版下完成
卒論集の版下を点検後、生協に印刷製本を依頼。卒業式の日には学生たちに渡せることになり、これで「演習4」関係の作業は、とりあず完了。明日からは、雑誌『数理科学』の原稿に取りかかり、20日までに送らなければならない。これもぎりぎりの日程になってしまった。
2006年2月12日(日) 大学は停電だった。
大学に来たら、研究棟の廊下の明かりがつかない。しまった。今日は全学停電の日であった。さいわい、研究室の明かりは大丈夫で、パソコンも外に接続できないだけであった。今日の仕事は卒論集の版下を作ること。卒論自体は提出されたものをそのまま印刷するだけだが、目次や序文などを書かなければならない。
停電が予告されていたこともあって、同じフロアには誰も来ていない。昨日の石橋の長唄で刺激されていたので、これ幸いと長唄「勧進帳」のCDを思いっきり大音量で鳴らす。誰も見ていないので、手振り身振りを入れながら一緒にうたってしまう。これでは仕事にならん。「滝流し」を聞いたら、お遊びはおしまい。夕刻までに予定の作業を完了した。
2006年2月11日(土) たまには休まなければ。
仕事がたまっているので今日は研究室に出る予定だったが、体調が芳しくないので、今日は休んで明日、出ることにした。家でできる仕事を持ってきたのだが、やはり、ほとんど何もせず。
新聞のテレビ欄を見ていたら、午後のNHK教育テレビに「三響会・船弁慶・石橋」とある。何だろうと見てみたら、あの「鼓の家」の3兄弟の会だった。活躍しているのですね。能と歌舞伎、謡と長唄を融合させる試みであった。船弁慶は本行にかなわないが、石橋は歌舞伎も負けていないと思う。石橋の三味線とお囃子に、わくわくしてくる。
2006年2月10日(金) 教授会
HPのジャーナルを書き足した後は、夕刻まで入試判定の教授会。かなり体調が悪い。いまになって疲れが出てきたか。
2006年2月9日(木) 卒論発表会
午後1時から5時まで、ゼミの卒論発表会を開催した。20名の卒論提出者のうち、15名が出席した。欠席者のうち2名の男子は本当に風邪だったと思うが、3名の女子は残念ながら意図的なサボタージュである。このゼミのまとまりが今ひとつであったことの表れだろう。発表会の後は、和泉中央駅近くの店でコンパ。授業中はおとなしい男子諸君がここでは、はしゃいでいた。二次会はカラオケに行くらしいが、若いエネルギーにつきあうのは疲れるので、学生から贈られた花束を抱えて先に帰宅。
2006年2月8日(水) 採点完了
4時までに「生物学」の答案209枚の採点を完了し、評価を教務課に提出した。締め切りぎりぎりであった。
穴埋め問題50題は基本的なことしか出題しなかったので、正解率が高く、規定通りに6割の30問正解までを合格としても合格率は70パーセントであった。それではやや厳しいかもしれないので、2点下駄を履かせて、28問正解までを合格とし、合格率を75パーセントとした。11名がこの処置で救われたことになる。
穴埋め問題とは逆に、記述問題の解答は情けない。穴埋めで満点近いのに、記述は白紙という答案も多く、がっかりする。予め問題を通知してあるのに、なぜ準備しないのだろうか。4年次生ならともかく、3年次生以下なら、A(優)やB(良)はどうでもよいはずはないのに。記述問題に解答していても、単なる感想文であったり、講義内容とは無関係に辞典やインターネットの文を丸暗記していたりする。ほとんど同一の答えが続出するのは、模範解答と称するものが出回ったのだろう。この種の模範解答にろくなものがない。
今に始まったことではなく、本学だけの問題でもないが、「問いに対してきちんとした文で答える」という訓練が、ますます必要になっている。
2006年2月6日(月) 採点開始
日光から返送されてきた図書などを処理した後、「生物学」の採点を始めた。
2006年2月5日(日) 日光から帰阪
朝9時の送迎バスで宿を発ち、JR日光駅からひたすら大阪へ。それでも自宅に着いたのは、午後4時半。東京なら日光まで浅草から東武線で2時間だが、関西からは遠い。
2006年2月4日(土) 講演会「ヨーロッパにおける博物学」
凍てつくような寒い朝だったが、輪王寺、東照宮、二荒山神社、そして大猷院と、一通りまわってきた。昼食は、今回の企画を応援されている日本料理・高井家の女将、高井孝美さんのご馳走にあずかる。高井家は文化年間に蕎麦屋として開業し、大正期には田山花袋が「私の考では日本一だ」と書いている。戦後は良質のそば原料が乏しくなったので、現在は日光名物・湯波料理を中心にした日本料理店として二社一寺御用を務めている。
さて、いよいよ1時から「日光市交流促進センター」で、講演会「ヨーロッパにおける博物学:日光国際化の原点を探る」が始まった。聴衆が何人来るか分からないので、高際教授は講演要旨を多めにと30部用意されていたが、50人近くになり、嬉しい悲鳴とあいなった。当方としても知名度に欠けるので人集めは難しいかと心配していたが、まずはほっとした。
講演は画像を入れたパワーポイントを用い、当時の図書の実物あるいは復刻版を見てもらった。おおむね好評だったようだ。多くの聴衆にとって、キリスト教が科学を支えていたということは意外だったらしい。科学と宗教の闘争史観が、常識となっているのだろう。
夜は山内の一角にあるアメリカの弁護士リチャード・イーストマンさんのお宅でパーティーとなった。イーストマン夫人の真理子さんが日光国際交流協会の会長で、今回の企画の応援団のお一人である。リチャードさんは、平日は都心で仕事、週末は日光の山中で過ごしている。こんなかっこいい生活が、現実に日本に存在していることは驚きであった。
2006年2月3日(金) 日光へ
新大阪から東海道新幹線、東北新幹線、日光線を乗り継ぎ、日光へ。JR日光線の車内には、まったく広告がない。これほどさっぱりした電車に乗った覚えがない。広告の効果無しとみなされるほど、乗客が少ないのだろう。朝、8時半に家を出て、JR日光駅に着いたのが3時過ぎ。宿に入るのはまだ早いので、タクシーで小杉放菴記念日光美術館へ。あいにく、といったら申し訳ないが、中国の民衆向けの版画である「中国年画の世界展」を開催中であった。貴重な資料なのだろうが、興味はない。もちろん、数少ないが放菴の絵も展示されている。当方が勝手に期待していた五百城文哉(いおき・ぶんさい)の絵はなかったが、以前の特別展の図録があったので、それを購入、なかば目的が達せられた。
旅館「千姫物語」で、今回の講演会を企画された宇都宮大学の高際澄雄教授と落ち合い、教授の招待で「明治の館」で夕食。石造りの洋館で、アメリカの貿易商の別荘だったという。日光には、こうした明治期の遺産が点在しているとのこと。江戸時代だけでなく、明治期の日光にも光を当てたいというのが高際教授たちのお考えのようである。
2006年2月2日(木) 日光講演の準備完了
29日(日)から今日まで、4日(土)に日光で行う講演の準備に掛かり切りだったが、ぎりぎりのところで間に合った。明日はのんびり、日光まで列車で出かけることができる。19世紀中葉のイギリス自然史(博物学)について、PowerPoint
を利用して解説することにしたので、できるだけ映像を取り込んだスライドの作製を試みた。昨日までの4日間は、研究室でほとんどその作業を行っていた。本日はその全体を調整し、宇都宮大学にメール添付で送信。会場で見てもらう図録などの資料も宅配便で送ったし、準備完了。
この間にも、ときどき、卒論の完成稿を提出するゼミ生が来室し、31日の締め切りまでに予定の20名全員が提出した。やれやれ。
本日の4時限は生物学のテスト。日光から帰ってきたら、採点地獄が待っている。
2006年1月27日(金) 長谷川等伯「松林図屏風」
チェックアウト後、東京国立博物館へ向かい、入館後はまっすぐに本館2階の国宝室へ。照明は鑑賞可能なぎりぎりまで落としていたが、これはやむを得ないだろう。1999年のNHK特別番組「日本の美100選」の美術関係者アンケートで1位になっているが、このときの特別公開には来ることができなかった。2002年3月に出光美術館で公開されたときも駄目だった。ようやく本物にあうことができた。大自然ではなく、江戸時代ならどこでも身近にあった松林を描いているという点で、いかにも日本的である。湿気で風景がかすんで見えるのも日本の特徴。部屋には一人二人しかおらず、ゆっくり鑑賞しながら日本人の感性について考えていた。
東博に来たもう一つの目的が、特集陳列の「博物館誕生」。真っ先に目に付いたのが町田久成の筆になる板額「博物館」。そうか、これが山下町博物館に掲げてあったのか。こうした歴史上の実物に出会うと、無条件にうれしくなる。
1階の近代美術のコーナーには、横山大観の「無我」が出ていた。改めて東博が物持ちだと感じた。
平成館では特別展「書の至宝」を開催していたが、書には興味がないのでどうしようか迷った。せっかくの機会だからのぞくだけ、のぞこうと入館したら、予想以上の混雑。話の様子から察するに、書を習っている人たちが大挙して来ているようだ。人混みをかき分けてまで見る気はしないので、さっさと通り過ぎて、上野から東京駅へ。かなり疲労しているので、昼間から混雑している「のぞみ」を避け、すいている「ひかり」で帰阪。
2006年1月26日(木) 科博でテレビ収録
朝、散髪屋に寄ってから、新幹線で東京へ。国立科学博物館の閉館後、地下1階・2階の自然史の展示を背景にして、ビデオ撮影。科学の古典を紹介するサイエンス・チャンネルの番組の一部で8分間、『種の起源』を紹介することになっている。主要部分はディレクターが作製し、ここではディレクターのインタビューに答える場面を収録するだけ。それでも延べ2時間以上かかった。インタビューはぶっつけ本番で、きちんと答えられているかどうか自信がない。ま、ディレクターがうまく編集してくれるだろう。
撮影の合間に近くの展示を見ていた。ここのフロアには何度も来ているが、いつもざっと見るだけ。解説も読まないことが多い。今回、その一部をじっくり見たが、最近の研究状況を踏まえて丁寧に作られているのに感心した。それぞれの専門の研究者でもある学芸員の方々が、展示にも本気で取り組んでいるのだろう。
泊まりはいつもの私学共済・東京ガーデンパレス。
2006年1月24日(火) 授業、すべて終了
朝、福岡医院で先日の健康診断の結果を聞く。肝機能検査の結果は、GOTとGPTが正常値に落ち着いてきたので一安心。しかしγ-GTがまだ高い。あまり気にしなくてもよいらしいが、禁酒を厳守しているのに、どういうことだろう。
本日は火曜日だが、授業回数の調整のため木曜の授業をするので、4時限が「生物学」の最後の授業となった。今後はおそらく、「生物学」の授業をすることがないだろう。現在の生物学の状況を勉強し直す良い機会にはなったが、その分、どうしても専門領域の研究時間が少なくなっていた。
2006年1月20日(金) 文楽「妹背山・金殿」
文楽劇場の昼の部で、「鰻谷」と「妹背山」四段目。住大夫フアンなら夜の部の「忠臣講釈」を聴くべきなのだろうが、あまりに話が暗いので敬遠した。正月興行には向いていないのではないか。綱大夫が熱演した「鰻谷」も、現代人の感性では受け入れるのが難しい。だからといって、こういう演目が消えるのも惜しい。せめて「忠臣講釈」は11月興行で上演するくらいの配慮がほしい。
客席は満席状態。電話予約の二日目に予約したときには、すでに床近くはおろか、前方の席はほとんどなかった。団体が二つ入ったためということで、幕間の食事も食堂の外に臨時の席を作るほどだった。
「妹背山・金殿」は咲大夫。この演目は歌舞伎でも文楽でも繰り返し上演されるが、何度見ても楽しい。
文楽が3時過ぎに終わり、高島屋の「奥田元宋展」へ。先週の「大阪万博展」と違って「元宋の赤」をたっぷり味わってきた。これなら十分、800円の価値がある。
2006年1月19日(木) 卒業論文
朝のうちは、支離滅裂な論文1本を、なんとか形にするのに手間取った。映像館からメールが入り、23日に資料の撮影をするから、それまでに『ビーグル号航海の動物学』復刻版を送って欲しいという。これは慌ただしい。あの大判の図録3巻を授業準備の合間を見て図書館から借り出し、梱包して生協の受付に持ち込んだ。
3時限の専門演習では、一人ひとりに修正点を指示して二次原稿を返した。相変わらず同じ一人の受講生からは連絡がないが、他の19名は卒論を仕上げる見通しになった。あとは、完成稿を届けに来るのを待つだけである。
2006年1月18日(水) 基礎演習の最終授業
朝早くに福岡医院で健康診断。当日分かる範囲では、異常なし。問題は明日以後に分かる肝機能検査の結果である。
3時限の授業は、社会学科基礎演習の最後。18名の履修登録者のうち男子3名が早くに脱落。残る男子9名、女子6名が最後までがんばった。多数派の男子より、少数派の女子の方がはるかに元気だった。秋学期には毎回、TIESシステムでレポートを提出させていたが、学生たちは、これもこなしてくれた。レポートの書き方は全員、合格点に達したといえよう。来年度は
Blackboard も試してみたいのだが、残念ながらこちらにシステムを理解する余裕がなさそうだ。
会議を一つ終えた後、明日、添削して返却する卒論二次稿を見る。家にも持ち帰り、一部を残して深夜には読み終えた。
2006年1月17日(火) 火曜に月曜の授業
本日は火曜日だが、授業回数の調整のため月曜の授業をするので、4時限に「生物学」の授業を実施した。どの大学でも、月曜日の授業回数確保が頭の痛い問題になっている。本学では来年度、休日の月曜に授業をすることになった。他大学の実施例だと、休日授業には学生があまり出てこないらしいが、当面、やむを得ないだろう。
2006年1月14日(土) 資料特論の最終授業
2時限に司書課程「資料特論」の最後の授業。履修登録28名のうち、19名が最後まで残った。昨年度は極端に受講生が減少したが、どうやら元にもどったようだ。
2006年1月13日(金) 松竹座「十六夜清心」
朝、福岡医院で誕生月検診の予約を取ってから松竹座へ。
最初は愛之助の義賢最期。仁左衛門そっくりの義賢であった。徹底的に仁左衛門の義賢を学んだようだ。松竹座では2003年の正月興行で仁左衛門が義賢を演じた。このときは最期に真っ逆さまに落ちる演出はなかったが、見ている方としても、やらないでくれてほっとした。愛之助はやってくれましたね。危険を伴う演技を見せるのも歌舞伎の魅力の一つだが、それは若い役者の任務だろう。
お目当ては仁左衛門・玉三郎の十六夜清心。関西では初めてでも、東京ではこのコンビで繰り返し上演されているそうだ。それだけに二人とも手慣れたものだ。歌舞伎の役柄は演じた役者とセットになって記憶している。助六なら11代目団十郎、勘平なら11代目団十郎、与三郎なら11代目団十郎。ところが、清心はなぜか勘弥なのだ。おそらく、死のうとして死ねない笑いを誘う演技が、勘弥にうってつけだったからだろう。白蓮の役者に存在感があるかどうかでも面白さが変わる。記憶に残る白蓮は、17代目羽左衛門。「わるかぁねえなぁ」のせりふも生きていた。それにしても、歌舞伎のことになると我ながら多弁になりますな。
松竹座の昼の部を終えて、ジュンク堂へ。書架に『ダーウィン前夜の進化論争』が2冊、置いてあった。学術書としては優遇されている、ということなのだろう。
最期は高島屋で開催されている大阪万博展へ。なんだ、これは。松下とサンヨーの宣伝ではないか。こんな展覧会なら両社が費用を負担して無料で開くべきだろう。木戸銭返せ。
久しぶりに「十六夜清心」を見てご機嫌で帰宅したら、来年度の団地の班長(近隣10軒ほどの代表)を引き受けてくれとの電話があったという。順番からいえばまだ数年先、定年後のことだと思っていたので、びっくりした。順番に当たっている家々が、来年度はどうしても都合が悪いのだという。まいったな。お互い様だから断るわけにも行かない。大学の役職も続くし、ダーウィン伝の執筆もあるし、ただでさえ忙しいのに、頭の痛いことだ。
2006年1月10日(火) シラバス入稿
先週の6日(金)から授業が始まっているが、事務方が本格的に動くのは今日からなので、ようやく新年の大学が始まったという印象である。さっそく、いくつか文書を片づけ、来年度の授業のシラバスをインターネットのシステムで入稿した。
2006年1月5日(木) アーネスト・サトーとBAAS(イギリス科学振興協会)
来月の4日、宇都宮大学の依頼により、日光で、ヴィクトリア朝の自然史について講演することになっている。アーネスト・サトーと日光の関係を考える前提として、当時のイギリスにおける自然史について理解を深めようという趣旨とのこと。
この依頼を受けたときに思い浮かんだのが、1988年のイギリスでの研修中に見つけたサトーの報告文である。たしかロンドン大学の図書館だったと思うが、あの読みにくいBAASの年次報告をめくっていたら、Satow
の名前が飛び込んできた。日本についての簡潔な報告である。これは面白い。なにかの折りには使えるかもしれないと考えて、コピーを取っておいた。まさかこんな形で、Satow
に関連する仕事をすることになるとは思わなかった。
ところが、このコピーをどこに保存したかがわからない。本日、捜索してみたが、出てこない。忘れていた資料がいくつか出てきたのは収穫だが、肝心のサトーの報告文は行方不明。何年の報告かも記憶していないが、おそらく、サトーが一時帰国していたときの、1869年エクセター大会か1870年リヴァプール大会だろう。サトー全集にも収録されていないので、サトーの研究者たちも知らないのかもしれない。改めて国内のどこかの図書館に探しに行く気もないので、残念至極である。
それにしても、この講演、気楽に引き受けたものの、えらいことになっている。1時から5時までの4時間だという。講演は実質3時間でよいとはいうものの、長時間、聴衆を飽きさせないためにはどうしたらよいのだろうか。話の材料はいくらでもあるが、聴衆の興味をつなぐ方法に悩んでいる。
2006年1月4日(水) 新年最初の研究室
まず、受信メールの半分くらいを占める迷惑メールを削除。なにかの拍子にピンク系のサイトに登録してしまったらしい。「件名」を見るだけでも笑えるので、そのままにしてある。
映像館のディレクターにガラパゴスのマネシツグミについて返信。ダーウィン・フィンチ神話にこだわっておられたが、ようやくそれを断念し、マネシツグミを材料にすることになったようだ。ダーウィンの進化論にとってはフィンチよりもマネシツグミの方がはるかに重要なのだが、映像的には地味なので、テレビではどうしてもフィンチを写すことになる。1987年にNHKのETV8に出演したときもそうだった。
今回は8分で『種の起源』を紹介するのだから、ガラパゴスの鳥なら同書に登場しないフィンチではなく、マネシツグミを扱うのが妥当だと思う。どんな形にまとめてくれるのか、楽しみのしている。
ジャーナルを加筆、公開して、本日は閉店。
2006年1月3日(火) 収録日延期
家にいると、何もしないで、なんとなく一日が過ぎてしまう。為すべきことはいくらでもあるのに、研究室に出ないと心身ともに仕事の態勢に切り替わらないようだ。三が日はそれでもいいかと、自分自身に言い訳しているが、こんなことでは定年後が思いやられる。
夜になって映像館の担当者からメールが入り、1月9日の収録が、収録場所の国立科学博物館の都合で駄目になったという。電話でやりとりの結果、収録日は改めて設定することになった。この騒ぎですっかり目が覚めてしまったので、1週間のジャーナルをまとめ書きし、明日、アップすることにしよう。
2006年1月2日(月) 京都
1月2日は京都に出ることが多い。今年は二尊院を訪れた後、初めて松尾大社に詣でた。王城守護の神社の一つなのだから、上下の賀茂神社なみの広大さがあると思いこんでいたのに、意外と境内の狭い神社だった。この後は京都を西から東へ横断し、石塀小路から産寧坂、そして祇園というお上りさんコースを楽しんできた。
2006年1月1日(日) 初詣
仕事始めは、年賀状書き。これが済んで、地元の加賀田神社へ初詣。ついでに元日から営業している三日市町駅前のスーパー・サンプラザまで行ったので、かなりの運動量になっただろう。
2005年12月31日(土) 六曜なしのカレンダー
昨年は雪の大晦日だったが、今年はおだやかな大晦日となった。カミさんの買い物のお供でナンバに出たが、当然のことながら高島屋地下の食品売り場はいつにも増した混雑。その中を歩くだけで疲れてしまう。
数週間前から、研究室の机の上に置くミニカレンダーを探していたが、例年と違って気に入ったものが見つからない。絶対的な条件の一つは、六曜が記載されていないこと。ところが今年は、ほとんどのミニカレンダーに六曜が入っている。結局、条件をゆるめて、やや小さいが六曜のないものを旭屋で購入した。六曜は古くからの慣習と思いこまれているが、旧暦時代の暦注には無く、明治になって暦の業者が広めたものである。ビジネス手帳にまでこれが記載されているのは、ビジネスの世界でも六曜を気にしなければならない場面があるからだろう。馬鹿馬鹿しい限りだ。
2005年12月29日(木) 年賀状
数年前までは25日までに年賀状を投函するようにしていたが、しだいにおっくうになってきた。今年は今日になって20枚ほどを書いて、投函しただけ。後は新年になってからの返信で勘弁してもらおう。
2005年12月28日(水) 年内最後の研究室
サイエンス・チャンネルで『種の起源』を紹介する番組の収録が1月9日になったとの連絡が入った。番組のディレクターからは基本的なことについて問い合わせがあり、その返信にかなりの時間を要した。
午後になって、添削した卒論を受け取りに2名のゼミ生が来た。26日にも2人来ているので、卒論を出しっぱなしのゼミ生は1名だけになった。このゼミ生は、なにも心配していないのだろうか。
昨年は『ダーウィン前夜の進化論争』の執筆予定が大幅に遅れていたため、30日まで研究室に来たが、今年はもう来ない予定である。来年の年末は、朝日選書『ダーウィン伝』の執筆で、またしても必死になっているのではなかろうか。
2005年12月22日(木) 卒業論文の添削
当方が担当している4年次生の専門演習には27名が在籍しており、12月20日までに20名が、とにもかくにも卒論を提出した。本学では卒論を必修にしていないが、このクラスでは卒論提出を義務づけている。他のクラスでも、単位が足りている学生は卒論を書かず、演習の8単位が必要な学生が書くという傾向がある。今年度は、春学期までに卒業単位を満たした受講生の数人が卒論執筆に取り組んでいる。提出された論文の質はさまざまで、意欲的なものから、通常のレポートの水準にさえ達していないものまである。いずれにせよ、そのまま印刷して論文集に収録するのは無理なので、書き直しさせることにしている。
20名のうち10名についてはすでにいったん、返却し、休み明けに再提出することになっている。卒論提出が遅れた10名は本日、研究室に来るよう指示していたが、来たのは5名だけ。ほかに1名から、雪のため学校に行けないと電話があった。残りの4名からは、一切、連絡がない。4名とも演習の8単位がなければ卒業の難しい学生たちである。それなのに、なぜ担当教員との約束をほったらかしにできるのだろうか。私には理解できない。このジャーナルには学生についての愚痴を書かないことにしているが、これは愚痴というよりも、謎である。
帰途、三日市駅前には雪が無く、バスもふつうに発車したので雪のことなど考えないでいたが、山を開発したわれらが住宅地の道路は凍結していた。バス停から我が家まで、下りの坂道を歩いて帰るのにいつもの数倍の時間がかかった。ここで転けたら、また骨折だ。恐怖の数十分だった。
2005年12月21日(水) 試験問題作成
秋学期・期末テストの問題提出の締め切りが昨日だった。「生物学」の試験は穴あき客観テストで合否を確定し、記述問題で優と良を判定することにしている。昨日中に問題作成を終えるつもりだったが、客観テストの作成に手間がかかり、今日に持ち越した。プリントアウトしたものを教務課に提出。続けて、明日が締め切りの放送大学「生物学の歴史」の通信指導問題を作成し、メールの添付で担当者に送信。まずは一件落着。これから明日、コメントつきでいったん返却する予定の卒論10本を見なければならない。
2005年12月18日(日) ジャーナルのまとめ書き
昨日からの大寒波襲来で、とにかく寒い。部屋に閉じこもってパソコン相手に一日を過ごし、またまたジャーナルのまとめ書き。11月19日から23日分までは一応、書いてあるのだが、まだアップしていない。11月25日分からを執筆しているが、すでに記憶があいまいになっている。つい忙しさにかまけてジャーナルを後回しにしているが、メモ程度でもよいから、こまめに書き込むことにしようか。
2005年12月17日(土) 再建された「そごう」
午前の授業、司書課程「資料特論」は、NTT西日本の山根啓史さんに「デジタル資料」について話していただいた。午後は文楽劇場まで、電話予約していた正月公演の切符を引き取りに行き、松竹座にまわって正月公演昼の部の切符を購入。こちらは予約していなかったので、席が残っているか不安だった。悪い席でもあったのをよしとすべきか。歌舞伎フアンを自称しているのに、仁左衛門・玉三郎の十六夜清心を見のがすわけにいかないだろう。
難波駅でカミさんと落ち合い、再建された「そごう」に初めて入った。年末の土曜日の割には客が少ないように感じた。話題の11階レトロ商店街に丸福珈琲が出店していた。独特のコーヒーを飲ませる店と聞いているが、まだ本店に行ったことがない。ここに出店していたとは知らなかった。外に行列ができていたが、さして待つことなく店内に。確かに独特の濃いコーヒーで、人によってはやみつきになるというのもうなずける。最後に地下の食料品売り場で、カミさんが買い物をしている間、たっぷり取ってある休憩スペースで一休み。ゆっくり休めるのはありがたいが、高島屋の食料品売り場の混雑と比べると、あまりに客が少ないのではないか。
2005年12月15日(木) 『ダーウィン前夜の進化論争』刊行
昨日、名古屋大学出版会から『ダーウィン前夜の進化論争』が納品されたので当方にも発送したとのメールがあったが、午前の便でそれが届いた。自分としてはかなり不満の部分もあるのだが、名大出版会の橘さんや神舘さんの力もあって、それなりにまとまったものになったのではないか。今後、どんな反応が出てくるか、楽しみのような怖いような。
2005年12月13日(火) 偽ダーウィン引用文
11月22日に東工大の山崎さんから、小泉首相が引用したダーウィンの言葉といわれるものを東工大の学長も引用していたので、出典を調べてほしいと依頼されていた。「最も強い者が生き残るのではなく、・・・」というあの文。
内容からいってダーウィンがこんなことを言うとは思えないのだが、一応、著作集、論文集、書簡やノートなどをあたった。やはり、こんな言葉は存在しない。内外のHPにもこの言葉の出典を問題にしているものがいくつかあるが、みな、ダーウィンには見つからないという。この文がダーウィンのものでないことは、確かだろう。おそらく、ダーウィンを勝手に間違って理解しているアメリカの実業家が、「ダーウィンによれば」(according
to Darwin)といったあいまいな表現で自分の信念を述べ、それがダーウィン本人の言葉として広まったのではないか。
これをメールで山崎さんに伝えたところ、どこかで記事にしたらどうかとの返信があった。この言葉の本当の出典が突き止められれば記事にできるだろうが、そこまで精力を費やす気もしない。それでも誰がいった言葉か知りたいものだ。調べてくれる人がいないものだろうか。
2005年12月12日(月) 関空から大学へ
ガーデンパレスで朝食後、直ちに羽田から関空へ。そのまま大学へ直行し、4時限目の「生物学」の授業。現在は国公私立の別なくどこの大学でも、病気でもない限り休講は原則的に禁止される方向にある。当然といわれればそれまでだが、学会や研究会に出席しにくくなるのはつらいところだ。
2005年12月11日(日) 生物学史分科会
朝は上野の国立科学博物館へ。目的は、長岡半太郎展。長岡半太郎から仁科芳雄、そして湯川、朝永、坂田への流れが要領よく、解説されていたと思う。こうした日本の物理学の歴史と比較したとき、日本の生物学の歴史はどう評価されるか、考えてみたい。
午後は東大先端研駒場キャンパスで開催の日本科学史学会生物学史分科会の総会とシンポジウムに出席。分科会会長として、病気でもない限り出席するようにしている。分科会の運営は東京在住の中心的なメンバーが担っていて、会長といっても当方はほとんど何もしないでいる。それでも年配者が会長の座にある方が実働部隊も動きやすいだろうと思っているのだが、どうだろうか。
夜は下北沢で懇親会。当然、当方は禁酒を厳守だが、久しぶりの研究仲間たちとのおしゃべりは楽しいものだ。
2005年12月10日(土) スカパーのサイエンス・チャンネル
午前の授業、司書課程「資料特論」は、和泉市教育委員会の灰掛薫さん担当「郷土資料」の3回目で、大学に隣接する「和泉市いずみの国歴史館」の見学。昼食後、3時半まで研究室で仕事をし、和泉中央駅前から関空へ、さらに羽田へ。6時半には羽田の食堂でビデオ制作会社・映像館の担当者およびディレクターの二人と打ち合わせをしていた。すごい時代になったものだ。
科学の古典的著作を紹介する番組の中で、『種の起源』の解説をすることになった。出番は8分。2009年のダーウィン年に向けて2時間・5回連続の番組を作れといっておいた。ダーウィンなら、それだけの材料が十分にある。
泊まりは、いつもの東京ガーデンパレス。
2005年12月7日(水) 朝日新聞文化欄の名古屋大学出版会
朝日新聞朝刊の文化欄に名古屋大学出版会の出版活動が大きく取り上げられ、編集長の橘さんの写真も掲載されていた。『ダーウィン前夜の進化論争』の刊行直前にこういう記事が載るのは、幸先良し。
2005年11月25日(金) 私情協総会
市ヶ谷の私学会館で開催される私情協(私立大学情報教育協会)総会出席のため、新幹線で東京往復。水曜日に東京から帰ってきて、金曜日にまた東京往復とはきついが、情報センター長としての職務上、やむを得ない。
2005年11月23日(水) 三井記念美術館
ガーデンパレスの部屋で目が覚めたのが8時過ぎ。いつもなら7時の食堂オープンと同時に朝食を取るのだが、寝過ごした。やはり疲れているのだろう。チェックアウト後、タクシーで東京国立博物館に行ったが、すでに北斎展は長蛇の列。体調もよくないので特別展をあきらめ、本館の平常展を見る。最近の東博の平常展には、必ずなにかがある。たいして宣伝していないのに、すごいものが展示されていることがある。今回は古写本の展示が面白かった。国宝の延喜式写本が展示されていた。こういうものが古代史研究者の原資料になるのだな。
展示の担当者一覧が公表されていたが、以前は無かったように思う。学芸員の責任を明らかにするのは歓迎すべきことだろう。
本館脇の食堂がごった返す寸前に簡単な昼食を済ませ、タクシーで日本橋へ。新しくできた三井の美術館といったら、運転手は、「千疋屋の所に建ったビルの中にあります」と二つ返事。運転手は東京育ちで、昔の都電や町名変更のことなどを話題にしているうちに到着した。
東博ほどではないが、三井美術館もかなり混雑していた。展示の目玉はなんといっても国宝の志野茶碗・卯花墻だろう。写真では紹介されていても、三井家に秘蔵され、実物を見ることはできないと思っていた。ガラス越しであっても実物を目の前にできるのは、うれしいことではないか。
体調が芳しくないので、午後早い時間であったが東京駅から新幹線で帰阪した。日本橋から東京駅まで歩いてもたいしたことはないのだが、疲れていたのでタクシーに乗ったら、運転手の不機嫌なこと。ワンメーターだから無理もないが、不愉快であった。
2005年11月22日(火) 東工大で授業と研究会
昨日午後から、のどがいらいらし、寒気もあったが、内服薬とトローチでなんとか抑え、午前の授業と午後の研究会を乗り切ることができた。夕刻からの懇親会では当然、禁酒を厳守。東工大に来るのも2年目になるので、東工大のメンバーとも昨年より気楽に話ができるようになったと思う。
2005年11月21日(月) 授業後、関空から羽田へ
4時限の生物学の授業を終え、和泉中央駅前からリムジンバスで関空へ、さらに羽田へ。明日午前の東工大大学院の授業のためである。早朝に家を出れば間に合わないこともないのだが、無理はしたくないので前日に上京することにしている。泊まりはいつもの私学共済ガーデンパレス。
2005年11月20日(日) 今日も入試待機
昨日に引き続いて、午前中は入試待機。午後は、明後日の東工大の授業と研究会(火ゼミ)の準備にかかる。
2005年11月19日(土) 科学史学会西日本大会
公募制推薦入試のため、午前中は学内に待機。昼過ぎに、西日本大会が開催されている龍谷大学の深草キャンパスへ。最後の3本の発表が聞けただけだったが、行った甲斐はあった。キャンパスの近くの料理屋で開いた懇親会にも参加したが、当方は禁酒を厳守。
来年度の西日本大会は瀬戸口明久さんが就任した大阪市立大学で開催されることになった。2007年度は京都教育大学の予定。2008年度は桃山学院大学で開催し、自分で定年退職の花火をあげようと目論んでいる。
2005年11月12日(土) 『ダーウィン前夜の進化論争』三校を返送
研究室の窓から下を見ると、学内は学園祭の模擬店やイベントでにぎわっている。こちらは必死で校正に取り組む。夕方には和泉中央の郵便局から発送することができた。一応の締め切りは前日の11日だったが、まあ、許容範囲だろう。
2005年11月11日(金) 文楽・本朝二十四孝
文楽劇場で「本朝二十四孝」の通し。開演は10時45分、終演は20時55分。演じる方も大変だろうが、観る側だって大変なのだ。十種香・奥庭は、歌舞伎でも文楽でも数え切れないほど観ているが、通しで観るのは初めて。十種香の腰元・濡衣とはどういう存在なのか、ようやく理解できた。滅多に上演されないという「化性屋敷」は、やはり退屈。上演されない場面は、たいてい、それだけの理由があるものだ。
なにかと仕事が重なっているので、当日売りで見るつもりだったら来ることはなかったろう。前売りで切符を購入していると、なんとかやりくりして出かけることになる。
2005年11月10日(木) 『ダーウィン前夜の進化論争』三校に着手
明日から学園祭のため、本日は授業がない。1日に到着していた『ダーウィン前夜の進化論争』三校の校正に、ようやく着手した。今回は人名索引項目を拾うことを主な作業としたが、それでも集中力が続かず、半分は後日になった。
2005年11月6日(日) 九州国立博物館
朝のうち、雨が断続的に降っていた。九博まで雨の中を歩いていくのが嫌だったので、西鉄・二日市駅からタクシーで乗り付けた。9時半開館のところ、9時に到着したが、すでにかなりの行列ができていた。入場は9時20分からで、それほど待たされることなく入館できた。
一通り見て回って感じたのは、予想外に小さいということ。印象でいうと、4階の常設展示場の広さは東博本館のワンフロアの半分くらいか。3階の特別展示場はそのまた半分くらいで、今回はそこに国宝級の展示品がびっしり陳列されている。落ち着いて鑑賞できるわけがない。ほとんどの展示品は観客の頭越しに、ちらりとうかがうだけ。常設展はまだしも余裕があったので、3回見て回り、展示方針が理解できた。
既存の3国立博物館に比べて貧弱なのは仕方ないだろう。それを補うために、デジタル技術を活用した博物館を目指していると関係者から聞いたことがある。ところが同じ関係者から、建物の設計が屋根を波打たせるというとんでもないものになり、予算をほとんど建物に食われることになったと聞いた。実際に行ってみたら、案の定、デジタル技術の活用など、ほとんど見られなかった。
バブルの時期にいくつもの地方自治体が立派な博物館・美術館を作ったが、それと比べても九博は貧弱で、国立博物館と名乗るのが恥ずかしいくらいだ。財政が厳しいというのに、なんで中途半端な国立博物館を作ったのだろうか。平成の馬鹿査定の一つになるのではないか。車の通らない高速道路を造るよりはマシだと考えようか。それにしても、独立行政法人・国立博物館は、とんでもない赤字要因を抱え込んだものだ。
帰りは「動く歩道」で太宰府天満宮に抜けた。西鉄・太宰府駅からはすぐに参道になっていて、天満宮からは動く歩道で九博に行けるようになっている。オープニングのにぎわいが終われば、いずれ閑古鳥が鳴く事態を予想して、集客力のある天満宮の参拝客をそのまま九博に引っ張ろうという苦肉の策なのだろう。
2005年11月5日(土) 九大・情報処理教育研究集会・最終日
今日も朝9時から、7会場に分かれた分科会がびっしり組まれている。eラーニングに関連した現代GPの報告会場と、LMS(授業管理システム)についての研究発表会場を中心に聞いて回る。途中で、企業展示に出展していたLMSの数社に気になることを問い合わせた。研究会は5時半まで組まれていたが、さすがに体力の限界を感じて1時間前に引き上げた。博多駅近くの郵便局で重い予稿集を大学に送り、パズル雑誌とペットボトルを買い込んで宿舎に向かう。
当日中に大阪に帰ることもできるのだが、この時期に福岡に来ていて新設の九州国立博物館に寄らないという手はないので、もう一泊することした。
2005年11月4日(金) 九大・情報処理教育研究集会・初日
九州大学工学部で開催された「平成17年度・情報処理教育研究集会」に参加するため、新大阪から博多へ、さらに地下鉄で九大箱崎キャンパスへ。この研究集会は旧七帝大を中心に結成されている「国立大学情報教育センター協議会」が持ち回りで開催しているが、参加校の半分近くは私学で、私情協でおなじみの顔ぶれも少なくない。午後1時から5時半まで、ほとんど休憩なしで講演が続いた。文科省の新たな方針などについても報告があった。体には応えたが、学会とは違って職務で来ている以上、中抜けして休む訳にもいかない。6時からの懇親会にも参加したが、禁酒を厳守なので、食べるだけ食べて早めに天神にある私学共済ガーデンパレスに向かった。
2005年10月26日(水) eラーニングの最初の一歩
1年次生を対象とした3時限の「社会学科基礎演習」で、LMS(授業管理システム)のTIESに受講登録してもらい、「レポート提出」と「掲示板」の機能を使ってみた。とりあえず、成功。まだまだ初歩的なことしかできないが、自分にとってはLMSを最初に運用した記念すべき授業となった。
こういうことには、学生たちの対応も早い。「掲示板」への書き込みには、授業時には見られない学生の素顔もうかがえて面白かった。
2005年10月21日(金) 京都国立博物館「最澄と天台の国宝」
先週の14日(金)に『ダーウィン前夜の進化論争』再校を返送して以来、授業、会議、その他の大学業務に追われる毎日で、気分転換がしたくなり、急に思い立って秋晴れの京都に出かけた。まずは東山を散策。芸子姿の女性がラフなスタイルの男性と歩いていた。修学旅行の中高生に頼まれてニコニコと記念撮影に応じていたが、あれは多分、観光客が変身した偽芸子だろう。八坂の塔(法観寺五重塔)の内部に初めて入った。四天王寺のコンクリの塔は別として、五重塔の中に入ったのは初めてである。第二層までだったが、木材が縦横に組まれている様子を見ることができた。
京博の特別展「天台の国宝」にはさして興味がなかったのだが、学芸員課程に関与している義務感もあって見に行った。予想外に充実した展覧会で、行ってよかった。二尊院の二体の本尊が出展されていた。縁があって二尊院を訪れる機会は多いのだが、これほどはっきりとご本尊を拝見したのは初めてだ。
帰途、難波の高島屋で「二科黄金の時代展」に寄る。名前を知っている洋画家はほとんどみな、二科出身ではないか。
金曜日に遊んでしまったので、月曜の「生物学」の授業を明後日の日曜日にやらなければならない。
2005年10月10日(月) 『ダーウィン前夜の進化論争』再校
体育の日で大学は休みだが、研究室に出て校正に取り組む。編集担当者が校正刷りを細かくチェックしてくれるので、本当に助かる。午前中は研究棟の同じフロアには同僚が誰も来ていなかったが、午後には常連が二人現れた。少々、校正が残ってしまったが、無理せず、明日、続けることにした。
2005年10月9日(日) eラーニング教材の作成に失敗
自宅でLMS(授業管理システム)のTIES上に授業を作成しようとしたが、失敗。先週の日曜日も失敗したので、同僚の藤間・専任講師の助言をもらって再挑戦したが、今回も途中から先に進めない。これは直接教わりながら作成するしかない。
2005年10月8日(土) 神野武美・朝日新聞記者と情報公開
2時限の司書課程「資料特論」の講師は、先週に引き続き、朝日新聞の神野記者に担当してもらった。資料特論の講義内容としては行政資料・郷土資料・視聴覚資料が指定されているが、例年、行政資料に関わる講義の一環として神野記者に情報公開についての講義をお願いしている。神野記者とは1989年のゴルフ場建設反対運動の時からのつきあいである。当時は富田林支局だったが、現在は吉野支局。現在も情報公開制度を活用して精力的な取材活動を展開している。もっと適切な活動の場に置く方が新聞社にとっても有益なはずだが、もったいないことをしていると思う。
午後はナンバに出て、昨日、電話予約した11月公演の観覧券を文楽劇場で引換。ナンバに出る機会が少ないので、ついでに展覧会により、本屋をのぞき、コーヒー店LINKで一服するつもりだったが、雨は降るし、体調もいまいちなので、どこにも寄らずにそのまま帰宅した。我ながら情けない。
2005年10月7日(金) 『ダーウィン前夜の進化論争』再校に着手
1日(土)に名古屋大学出版会から送られてきた『ダーウィン前夜の進化論争』の再校にようやく着手。原則として毎週の金曜日は、翌週の月曜の授業「生物学」の準備に当てているが、10日の月曜は休日なので、溜まっていた雑務を片づけ、再校にも着手できた。授業期間中は大学の業務に追われ、他の仕事がほとんどできない。
2005年9月25日(日) 休日出勤
今年度最初の大学院入試があり、引き続き判定会議があるので、出勤。夕方の会議まで、明日の授業「生物学」の準備と、ジャーナルのまとめ書き。
2005年9月24日(土) 司書課程「資料特論」
2時限に司書課程「資料特論」の最初の授業。出席者は21名。昨年は数名の受講生しかいなかったが、今年は例年並みになった。昨年度の受講生が極端に少なかった理由が、いまだにわからない。
2005年9月23日(金) 帝塚山大学でeラーニング
昼前に心斎橋の大阪市立近代美術館展示場へ。「旅」をテーマにした展示で、目玉作品は藤島武二「カンピドリオのあたり」。福田平八郎「漣」も出品されていたが、「旅」に関係づけるのは無理ではないか。有名な作品なので客寄せのためか。印象的な作品なので、出品されていることに文句はないのだが。明治期の地理の本が数多く展示されていて、面白かった。
午後は東生駒の帝塚山大学へ。帝塚山大学が開発して公開しているeラーニングTIESの研究会に出席した。eラーニングについて考えるため、試験的にTIESを導入し、授業管理システムとはどんなものか、実際に体験しようと考えている。しばらくは、このシステムの学習に時間を取られそうだ。
2005年9月22日(木) 久しぶりに「生物学」の講義
4時限が共通科目「自然科学:生物学」の最初の授業。当方が「生物学」を担当するのは、2002年度の秋学期以来である。昨年度・一昨年度にこの講義を担当していた昆虫生態学の巌助教授が今年度研修のため、当方が担当することになった。高等学校で生物学の基礎を学んでこなかった文系の学生に、概説的な生物学入門を学んでもらうわけだが、それでもできるだけ最新の研究成果を取り入れるようにしている。SJグールドは、ヒトの進化について講義するとき、前年までの講義ノートを「手近のくずかごにバサッと捨ててしまう。そして、あらためてこの問題に取りかかる」と述べているが、いまや生物学全体がこうした状況にある。当方が40年前に生物学科で学んだ内容は、古くなって使えない。この授業の準備のおかげで現代生物学の内容を確認でき、生物学史研究にとっても無駄ではない。とはいえ、現代生物学を追いかけるのは、しだいにつらくなってきた。当方が担当するのも、おそらく今年度の授業が最後であろう。
2005年9月21日(水) 早くなった秋学期の始まり
本日から秋学期の授業が始まった。授業回数を確保するために、例年より授業開始が繰り上げっている。今はどの大学でも、教員の授業負担が重くなってきている。これもやむを得ない状況なのだが、研究に専念できる時間が短くなるのは、正直、つらいところだ。
2005年9月20日(火) 中日文化センター教養講座・中止
名古屋の栄中日文化センターで10月から開講予定だった教養講座「ダーウィンの進化論:科学と宗教」の中止が決定した。受講申し込み者が、文化センターの担当者の予測をはるかに下まわっていたとのことである。なかば予期していたこととはいえ、残念ではある。
当方の知名度といった問題があるにもせよ、基本的には科学史の分野で有料の教養講座は無理ということだろう。科学史学会が国立科学博物館で開催している科学史学校には、ほどほどの聴衆が集まるようだが、これも無料のおかげではないだろうか。
2005年9月10日(土) チェンバーズ『インフォメーション』復刻版
昼前に市役所に行き、総選挙の期日前投票。投票日の前日だが、かなり混雑していた。
自宅に宅配便でユーリカプレスから、チェンバーズ『インフォメーション』第5版の復刻版と当方執筆の別冊解説が届いた。図版もきれいに復刻されており、古書店で入手する原本より使いやすいと思う。
2005年9月9日(金) 私情協・大学情報化全国大会・最終日
午前は著作権についての講演を聞き、2時間の昼休みに、またまた上野へ。科博の東芝130周年記念イベント。ぜひ見たかったのが、からくり儀右衛門の万年時計の複製品。東芝がどんな展示をしているかにも興味があったが、ほとんど製品の羅列であった。個人的には儀右衛門本人についての展示と関係の資料集もほしかったが、メーカーの東芝には無理なことなのかもしれない。
午後は私学会館にもどり、LMS の導入例の講演を聴く。本学の情報化のためにも、もっとも切実なテーマであろう。帰りの新幹線も定刻通りであったが、さすがに疲れた。
2005年9月8日(木) 私情協・大学情報化全国大会・中日
朝は上野に出て、東博の特別展「遣唐使展」と「模写・模造展」を大急ぎで見る。昼前に私学会館へ。本日のプログラムは個別の研究発表。当方にはレベルが高すぎるので、もっぱら他大学の知人に相談したり、業者の展示会を回って、LMS(授業管理システム)の話を聞く。夕刻前にまた上野に行き、東博の本館常設展示の絵画を見る。2階には久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」、1階には上村松園「焔」が出ていた。これも画集から想像していたものよりずっと大きなものだった。その後、国立西洋美術館の特別展「ドレスデン国立美術館展」へ。美術品よりも、最初の部屋に展示されていた集光鏡や四分儀などの科学機器と、デューラーの『測定法教則』と『人体均衡論』
に興味を引かれた。閉館ぎりぎりまでいて、宿舎へ。
2005年9月7日(水) 私情協・大学情報化全国大会・初日
市ヶ谷の私学会館で開催される私立大学情報教育協会(私情協)の大会に出席のため、新大阪から東京に向かう。台風は予想より西にそれたので、新幹線も定刻通りであった。大会の今年のテーマは、「e-Learning
の実施と効果」。日本でもトップクラスの先進的な実施例が紹介された。本学ではどうすればよいか考えると、頭が痛い。
夕刻は朝日新聞の山田豊さんと、2007年に朝日選書で刊行予定のダーウィン伝について打ち合わせ。当方は「禁酒を厳守」なので、お酒を愛する山田さんには気の毒であった。アルコール抜きの生活にも慣れたが、人と気楽に話をしようというときに困る。泊まりはいつもの私学共済・東京ガーデンパレス。
2005年9月6日(火) 台風24号
台風24号が近づいているので大学へは行かず、自宅でeラーニング関係の資料を読むことにした。しかし家ではなんとなくだらけてしまって、なかなか面倒な資料を読む気にならない。
2005年9月5日(月) Journal of the History of Biology
1日から着手していた Journal of the History of Biology 37巻(2004)の2号と3号の和文抄録作成が終了し、『生物学史研究』編集担当の工学院大学・林真理さんに送信した。今回は興味を引く論文がなかったので、抄録作成も簡単に済ますことにした。あまり遅れることなく『生物学史研究』に抄録を掲載することも大事なので、38巻についても冬休みに一挙に片づけたいと思っている。
2005年9月1日(木) 中日文化センター教養講座
名古屋の栄中日文化センターで秋の受講生募集が始まったようだ。10月から来年3月まで、第3火曜日に「ダーウィンの進化論:科学と宗教」を開講することになったが、受講生が集まるかどうかが問題である。
教養講座の定番といえば、万葉集と源氏物語。科学史の話をお金を払ってまで聞こうという人は、多くないだろう。中日文化センターとしても確信があるわけではなく、新しい分野を切り開く冒険的な試みのようだ。月に一回、名古屋に行くのならそれほど負担ではないだろうと引き受けたものの、受講生が少なくて閉講の可能性もある。初めてのことで見当もつかないが、実際に開講されるかどうか、五分五分か。
2005年8月31日(水) 研究室の模様替え
28日の日曜以来、疲労と解放感で虚脱状態が続いている。昨日、在木(ありき)カイロプラクティックでは、かつてないほど肩が張っているといわれた。福岡医院の血液検査の結果では、またしても肝機能の数値がすべて異常値になっていた。原因は不明だが、体力の割に仕事が多すぎて無理したことは間違いない。大学の業務とメインの論文執筆だけならこんなこともないだろうが、つい、面白そうな話に乗ってしまう。ま、禁酒の厳守を続け、体に気をつけていきましょう。
ここ数日、少しずつ、研究室の資料と本を移動している。チェンバーズやミラー関係の資料をしまい込み、次の研究テーマの資料を表に出している。書架には二重、三重に本を並べているので、こうしないと必要な本が必要なときに見つからない。
しかし次の研究テーマに取り組む前に、後回しにしていた仕事を片づけねばならない。秋学期の授業の準備、eラーニングの調査、Journal of the History of Biology の和文抄録作成。どれもまだ日時を争うほどではないが、のんびりともしていられない。さて、何から取りかかろうか。
2005年8月27日(土) 『ダーウィン前夜の進化論争』初校・校正終了
『ダーウィン前夜の進化論争』初校校正が昼前に終わり、宅急便で名古屋大学出版会に返送。どっと疲れが出て、数時間、寝込んでしまった。この後、コーヒーで気合いを入れ直し、NHK・FMのoldies特集を聞きながら、司書講習「専門資料論」の採点。これもとっくに提出済みのはずで、事務局に迷惑をかけている。例年より枚数が少ないこともあって、効率よく終わった。これで締め切りを過ぎている仕事は、とりあえず片づいた。元気なころならナンバに出て解放感に浸ってくるところだが、今日はせめて、泉ヶ丘の紀伊国屋で新刊書をのぞいてくるとしよう。
2005年8月23日(火) ホームページ更新
通院日のため、朝6時半に家を出て近大病院へ。形成外科と眼科の検査、診察、会計、薬の受け取りなどで午前は終わる。研究室に着いたのは1時過ぎ。自分ではこの個人ホームページの再設定ができないので、専門家にお願いして使えるようになり、8月分のジャーナルをまとめて書いている。
2005年8月22日(月) 『ダーウィン前夜の進化論争』初校・校正
ここ数日は『ダーウィン前夜の進化論争』初校の校正に取り組んでいるが、時間があっても集中力がとぎれて、一日に処理できる量が限られている。この作業ものんびりしていられないが、毎日少しずつ、あせらず進めるほかない。
2005年8月18日(木) パソコン復活
昨日で大学の電算機システムの更新が一区切り付き、研究室のパソコンも使えるようになった。とりあえず一太郎をインストールして、緊急を要する文書を作成した。辞書類のインストールなどは時間をとるので、元通りの使い勝手にするまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
2005年8月10日(水) チェンバーズ『インフォメーション』復刻版・解説
6日の土曜日からの5日間、連日、研究室に来て、9月に復刻版が刊行されるチェンバーズ『インフォメーション』の解説執筆に取り組み、本日、添付ファイルで入稿した。『インフォメーション』の初版(1833-1835)は項目ごとに16ページの分冊、100冊が出版されたが、第2版以降は2巻にまとめられたものも刊行された。2巻本の刊行年は、第2版(1842)、第3版(1848,
1849)、第4版(1857)、そして最後が第5版(1874, 1875)である。解説執筆を機に、この2巻本をすべてそろえたので、書こうと思えば書くことはいくらでもある。しかし明日からは研究室のパソコンが使えないし、9月刊行が決定しているので、まさに、時間との競争であった。
2005年8月5日(金) 竹本住大夫芸談
本日は昭和町の司書講習「専門資料論」の最終日。午前中にテストも終わり、午後は文楽劇場へ。お目当ては第二部「桂川連理柵」帯屋の段の住大夫。ついでに、といっては失礼だが、第三部「ウィークエンド文楽」の住大夫「文楽を知る」も拝聴してきた。この後、「合邦」の上演があるのだが、これはパス。何度も見ているが、好みの演目ではない。住大夫の20分程度の話を聞くために4千円使ったわけだが、フアンとはそんなものだろう。
三和会の文字大夫のころから、新橋演舞場や三越劇場で聞いてきた。新橋演舞場で幕間にロビーに出てきたので、思わず「あっ、文字大夫だ」といったら、深々と挨拶してくれたことを今でも覚えている。三和会と因会が合併する直前だったと思うが、三越劇場で妹背山を合同公演で上演した。山の段は、かたや、津大夫と織大夫(現・綱大夫)、かたや、つばめ大夫(後の越路大夫)と文字大夫。三味線も人形も、因会と三和会の対決。すごい舞台だった。
2005年7月31日(日) 『ダーウィン前夜の進化論争』初校
昨日、家に名古屋大学出版会から『ダーウィン前夜の進化論争』(仮題『ダーウィン以前の進化論争』を改題)の初校が届いていた。本日からチェンバーズ『インフォメーション』復刻版の解説執筆に全力投球しなければならないので、すぐに校正の作業に入るわけにはいかない。8月11日から1週間は学内のパソコンが使えないので、休むのにちょうどよいと思っていたが、校正というパソコン無しで行うのに絶好の仕事が入ってきたものだ。なかなか休めないなぁ。
昨日と本日は大学のオープンキャンパス、見学の高校生たちでにぎわっている。昨年はAO入試担当者として面談に追われていたことを思い出す。
2005年7月30日(土) 「科学思想史」採点
「科学思想史」の期末テストが28日(木)に終わっていたので、終日、その採点と評価を行う。答案は257枚。記述テストだけなら3日かかるところだが、客観テストと組み合わせているので、評価の作業が一日で終わった。合格率は平均で70%。学年別で見ると、4年次生以上が80%、3年次生が70%、2年次生が60%、1年次生が50%。上級生については卒業必要単位を考慮するという面がないわけでもないが、それ以上に記述テストの解答状況に違いがある。1年次生の答案には、客観テストの成績はよいのに記述テストの解答が支離滅裂という場合が珍しくない。上級生になるほど、そうした事例が少なくなる。大学に在籍しているうちに、意識しなくても、しだいにまともな文が書けるようになってくる、ということではないだろうか。
2005年7月29日(金) 教材の著作権侵害
朝は4時前に起きて大学の業務に関係した文書作成、9時に研究室に来た後も続行、1時からの打ち合わせに間に合わせる。
5時から真庭・追手門大学教授を囲んでeラーニング勉強会。参加者は9名で、ちょうどよい人数だった。いろいろな話が聞けたが、当方にとって緊急を要する問題は、大学のサーバーで公開している教材の著作権。図書やホームページなどからコピーしたものを授業時間内に限って提示するのはよいが、たとえ学内限定でもサーバーに保存して公開すると著作権侵害になるという。早速、明日にでも「科学思想史」の教材をサーバーから削除することにした。秋学期の「生物学」でも教材を公開する予定だが、著作権が問題になる部分は教室での提示だけにしなければならない。
2005年7月24日(日) 日曜日も研究室
授業が無くなった昨日の土曜も、本日も、研究室に来た。待ったなしの仕事がいくつも重なっている。9月刊行予定のチェンバーズ『インフォメーション』復刻版の解説を急がなければならない。「科学思想史」の試験が28日(木)に終われば、直ちに採点・評価をしなければならない。ほかにも締め切りの迫った大学の業務がある。司書講習の「専門資料論」もまだ続くし、情報センターがらみの仕事が散発的に舞い込んでくる。8月11日から電算機システムの入れ替えで研究室のパソコンが使えなくなるので、それまでとにかく休んでいられない。
2005年7月22日(金) 司書講習への出講
昨日で大学の春学期・授業がすべて終わり、本日は司書講習の「専門資料論」で朝早くから昭和町に向かう。教師の側からいえば、いつもの年のいつもの時期の、いつもの講習だが、受講生の中には、この数ヶ月の講習で司書資格を取得し、新たな人生を切り開きたい意気込んでいる人たちもいる。本年度はなぜか例年より受講生が少ないので、なんとなく全体に静かな感じがした。
本日は午前で担当授業が終わり、松竹座にいったが、案の定、勘三郎襲名興行の切符は千秋楽までほとんど残っていなかった。前売り前の春先から手配しておかなければ無理だろうとは思っていたが、仕事が立て込んでいてとてもそんな気になれなかった。「口上」と「研辰」だけは是非見たいのだが、あきらめるしかない。
日本橋にまわり、文楽劇場で夏休み公演の前売りを購入。
大阪歴史博物館の特別展「東アジアの中世海道」に行く。お目当ては「坤輿万国全図」のパネル展示。実物でなくとも、その大きさをこの目で見ておきたかった。それ以上に感動したのが、「新安沈没船引き上げ陶磁器」。すごいものが海の底から出てきたものだ。この沈没船は有名なものらしいが、当方は初めて知った。常設展の特集展示「平野」も面白かった。古い大阪が、こういうところに残っているのか。杭全(くまた)神社の名前も初めて知った。もとは祇園社だったということにも興味を引かれた。八坂神社の場合もそうだが、牛頭天皇信仰というのが、どうもよくわからない。
2005年6月1日(水) 恐竜博とベルリン博物館島展
朝早くから上野公園に向かい、科博の「恐竜博2004」と東博の「ベルリン博物館島展」を見る。両方ともいずれ関西に来るらしいが、湯島に泊まったついでにまとめた見た方が、効率がよい。
必ずといってよいほど、毎年どこかで恐竜博覧会が開催される。関心が高く、成功疑いないからだろう。今回も幼稚園から高校までの団体が詰めかけていた。平日なのに子供連れのお父さん・お母さんの姿も多かった。行ってみて分かったのだが、今回の恐竜博は鳥への進化に焦点を絞ったものだった。出口の近くで、不審そうに「これでおしまいか」というお父さんの声が聞こえた。巨大な草食恐竜や恐竜絶滅の展示を期待していたのだろう。常設展の地下一階が全部、恐竜に当てられているが、ここでも系統の解説がない。特色ある展示を目指すのも分かるが、ある程度、一般の期待にも応えるべきではないだろうか。
「ベルリン博物館島展」に行ったのは、展示物よりも博物館島自体に関心があったから。博物館の歴史上、ベルリン博物館島は無視できない。しかしユネスコの世界遺産というのは、釈然としない。比較的近年に作られたもので、しかも大きく破壊されており、中身は外国から運んできたもの。それが世界遺産になるのなら、日本の古墳がすべて世界遺産に指定されてもおかしくない。
東博の常設展では、下村観山「春雨」と岸田劉生「麗子」(重文)が出ていた。「春雨」は画集などで見て、なんとなく小さな絵だと思いこんでいたが、6曲1双の大きな絵だった。
午後早い時間に新幹線で大阪に帰る。別の博物館に行く時間は十分あったが、体力的に無理はしないことにしている。
2005年5月31日(火) eラーニング
午後から市ヶ谷の私学会館で開催される私立大学情報教育協会(私情協)総会に出席のため、新幹線で東京へ行く。柄にもない会合に出席したのは、情報センター長という役職のため。桃山学院大学の電算機システムは今年度中に更新されるが、その内容は前年度に決定しており、残る業者選定と補助金申請の作業はほとんど事務方が担っている。
当方に課せられた任務の一つは、eラーニングの問題だろう。自分自身としては、教材を学内サーバーで公開しているのが精一杯で、本格的なeラーニングを実施する能力も余力もない。しかし、大学全体としてはそんなこともいっていられない。2年間の任期中に、なんらかの方針を決めなければならないだろう。
私情協の会合は4時に終わったので日帰りも可能なのだが、体に応えるので、いつもの私学共済・東京ガーデンパレスに泊まる。
2005年5月2日(月) Journal of the History of Biology
連休の狭間の平日で、「科学思想史」の授業をこなす。
昨日は自宅で、表記の雑誌の第37巻第1号(2004年)掲載論文6点の和文抄録を作成。本日、『生物学史研究』の編集を担当している工学院の林真理さんに送信した。折り返し林さんから電話があり、『生物学史研究』第74号はすでに再校段階なので、掲載は無理とのことだった。残念。リニューアルした64号以来、少なくとも1号分の抄録を掲載してきたが、とうとう中断してしまった。次の75号には、まとめて5号分くらいを掲載しないと、本体に追いつかない。
『生物学史研究』は今年で創刊50年になるので、この秋に記念シンポジウムを企画している。林さんの電話では、編集スタッフには、日本に於ける生物学史研究の歴史よりも、むしろ今後が問題だとする意見があったようだ。大学の教養教育が事実上、廃止されたため、科学史の研究者の職場がなくなってしまった。端的にいえば、本来の生物学史では飯が食えない。生物学史の研究者が環境問題や生命倫理に走るのは、社会的需要があるのでやむを得ない面がある。生物学史の分野では、後継者もなかなか現れない。欧米に於ける専門的な生物学史研究の充実と比較すると、日本の現状はまことに心細いが、どうにもならない。数少ない生物学史の専門家として、やれることはやっておこうと思っている。和文抄録の作成も、その一環としてなんとか続けたい。
2005年4月30日(土) 大阪市立近代美術館
大学の創立記念日(4月15日)の振替休日で、本日は授業がない。朝、所用で難波に出たついでに、心斎橋の旧・出光美術館(大阪)で開催されている大阪市立近代美術館・名品展に寄ってきた。今回は、モディリアーニやパスキンなど、西洋美術の展示であった。中之島に美術館を建設する計画があるようだが、大阪市の財政状態では具体化は困難なのだろう。個人的には、ミナミに出たついでに気楽に寄れるので、今の「心斎橋展示室」の形も悪くないと思っている。
開館の11時まで、久しぶりに三休橋筋のコーヒー専門店LINKで一服。オープンしてから1年半経つが、お店は順調のようだ。わかりにくい場所にあるが、マスターが誠実なので固定客が徐々に増えているのだろう。
2005年4月23日(土) 和泉市久保惣記念美術館
2時限の司書課程「専門資料論」の授業を早めに切り上げて、久保惣美術館に行く。先週の「和泉市いずみの国歴史館」に引き続いて、学芸員課程の見学研修の引率である。例年、この時期に久保惣の見学の引率をしているが、新館の展示がかなり変化していた。以前、最初の展示室の中国青銅器などは、ぎっしり展示してあったが、展示品を減らしてすっきりした。西洋美術の展示室では、いままでロダンの作品がケースなしで置かれていたのに、透明アクリルのケースに入れられていた。手で触る観客がいるので、やむを得ない処理のようだ。
大英博物館を訪れた日本人がまず、驚くのが、入り口近くのロゼッタ・ストーン。むき出しで、触ろうと思えば触れる。ヨーロッパの常識では、そんな観客がいるはずないのだろう。国内の博物館・美術館ではマナーの悪い日本人も、外国では馬鹿なまねをしないのかもしれない。
2005年4月22日(金) 美術展のはしご
昼前に京都駅近くで、名古屋大学出版会の橘さんと打ち合わせ。午後は、国立博物館の「曽我蕭白展」、国立近代美術館の「村上華岳展」、難波にもどって高島屋の「日本美術院展」、と豪華三本立て。それぞれ楽しかった。しかし普段なら、気に入った作品をもう一度見たり、常設展にまわったりするのだが、今日はその時間がなかったのが、残念だった。
2005年4月21日(木) 授業2巡
9日(土)に始まった授業が、今日で2巡したことになる。といっても「科学思想史」は週2回なので、今日で4回目の授業になる。ここまでの出席状況から見ると、登録は400、毎回の出席が200程度となりそうだ。昨年が登録200、一昨年は100程度だった。どうも出席点だけで単位が取れるという間違ったうわさが広がっているらしい。授業の性質上、期末テストのみでの評価というのは不適当なので、昨年までは毎回小テストを実施して、平常点のみで評価していた。今年度は人数が多すぎて無理なので、期末テスト中心にせざるを得ない。期待はずれの受講生もいるようだが、当方も残念である。
4年次生の専門演習の出席は、2回とも半数程度。これでも、ましな方だろう。就職活動という現実があるので、あまり厳しいこともいえない。最後には、全員が、それぞれの力量に応じた卒業論文を仕上げていってほしいと願っている。
2005年4月2日(土) チェンバーズ『インフォメーション』復刻版
大阪の Eureka Press から表記の百科辞典の復刻版が9月に刊行される予定だが、その宣伝パンフレットが送られてきた。「監修・解説 桃山学院大学教授 松永俊男」と、でかでかと出ている。2004年8月14日のジャーナルにも書いたことだが、成り行きでこの復刻版の解説を書くことになっていて、その締め切りが7月末。ここまで前宣伝されたら、なんとしても間に合わせねばならない。『ダーウィン以前』も刊行までには様々な作業が続くし、『生物学史研究』の原稿も急がなければならない。大学の管理業務や授業の準備の合間にこれだけの仕事をするのは、かなりきつい。これから4ヶ月、ハードな日々になりそうだ。
今日の大学は入学式で、正装した新入生や父母が詰めかけている。近年はどこの大学でも、入学式の父母の付き添いが当たり前になっているが、我々の世代では考えられないことだった。
2005年3月31日(木) 『ダーウィン以前の進化論争』最終稿
大学の出版助成によって今年中に刊行する『ダーウィン以前の進化論争』の最終稿を、出版元の名古屋大学出版会に送った。規定によって本日中に届けなければならないのだが、今はメールで送れる。ぎりぎりねばって、5時直前にファイル添付で送稿した。まだ横を縦にする作業などが残っているが、ひとまず息をつくことができる。
ところが、原稿を送ってほっとしているときに、本学の入試で合否判定ミスがあったという情報が飛び込んできた。NHKの夜のローカルニュースでも、トップニュースになっていた。本学の入試の事務体制はしっかりしているので、こんなミスは起きないと信じていたのに、まいったな。徹底的な検証作業が必要だろう。
2005年3月24日(木) 『大阪の産業記念物』28号
『大阪の産業記念物』28号が印刷所から納品された。同誌は20年以上にわたって、桃山学院大学の総合研究所から発行されてきたが、この号で本学の経費による発行は終えることになった。今回は、学内の「博物館」共同研究プロジェクトが編集を担当し、当方がこのプロジェクトの代表を務めているので、本日はこの雑誌を関係者に発送する作業に追われた。
この号の全ページをPDF化して、インターネットで公開することにしている。当面は、このホームページに博物館プロジェクトのページを作り、そこに掲載する予定である。4月になったら、その作業に取り組むつもりでいる。
2005年3月22日(火) 研究室のパソコン改良
先週から各研究室に備えられているパソコンのOSを変更する作業が行われ、当方の部屋のパソコンは19日(土
)に本体が入れ替えられた。本日は一日がかりで、データを移したり、ソフトをインストールし直したりと、大忙し。このホームページのデータとソフトも専門家の助けを得て、なんとか復活した。辞典類のインストールには時間がかかるので、1日で終わらせるのは無理。後日、作業を続けるしかない。パソコンが普段通りに動かないと、仕事にならないことを実感した数日間だった。
2005年3月19日(土) 『生物学の歴史』放送大学
4月から放送大学ラジオで始まる「生物学の歴史」のテキスト、改訂新版『生物学の歴史』(2005)が送られてきた。15章のうち3章を担当しているだけなので、「著書ができた」という感慨はあまりない。実質的には、溝口さんによる近代生物学通史であって、私はごく一部をお手伝いしただけ、といった感じである。中村・溝口の新訂『生物学の歴史』(2001)が220ページなのに、今度は260ページ。これは主として、溝口さんがご自分の担当部分を大幅に改訂増補したことによる。本書は溝口さんの力作といってよいだろう。
2004年4月7日の「ジャーナル」にも書いたように、私もいずれは(多分、定年後)、自分なりに納得できる生物学通史を書きたいと思っている。問題は体力と気力、それと資金(文献代)が続くかどうか。
2005年3月8日(火) 鳥居龍蔵・再論
今朝の日経の文化欄に、鳴門の鳥居記念館でお会いした西田素康さんの「孤高の人類学者、業績発掘」が掲載されていた。鳥居関係資料は県立博物館に移されることになっているとあった。ほっとした。今後は、牧野富太郎の高知県に負けることなく、徳島県も鳥居龍蔵の資料研究に力を入れてほしいと思う。
この記事を教えてくれたのは、2日の時には鳥居の名を知らないといっていた同僚である。ほんのわずかだが、鳥居の名を広めることになった。このジャーナルも少しは貢献するだろう。
2005年3月5日(土) 飼い犬リキの死
朝、リキが入院している動物病院から、未明に亡くなったと電話があった。かわいそうなことをした。
私が徳島に出発した2日に、ペットホテルの迎えの車に乗せてもらうため、いつものように庭につないでおいたところ、前日に大量に撒いた草木の肥やしを食べていたようだ。手違いが重なって、様子がおかしいとペットホテルからカミさんに連絡が入ったのが夜になってからだという。夜間救急病院で胃洗浄をし、翌朝、千代田動物病院に運び込んだ。手当を始めるのが遅すぎるので、難しいといわれたが、カミさんは、できることはなんでもやってくれと頼んだという。24時間点滴を続け、リキも2日間頑張ったが、力尽きた。すでに毒が全身に回り、とくに肝臓がほとんど破壊されていたのではないかという。
力(リキ)は1998年5月14日から我が家の飼い犬となった迷い犬である。その10日ほど前、近隣の商店街でうろついているときにパンをやったら、1週間ほどして我が家を探し当て、飼い犬になってやると押しかけてきた。後で聞いたら、1年近く周辺をうろついていたという。すでに4歳ぐらいになっていた。最初はすごい目つきだったが、1年後にはみんなに「優しい顔」といわれ、猫たちとも仲良くなっていた。すっかり我が家の一員になり、玄関でしっかり番犬の役目を果たしていた。
実はリキはかなり重症のアトピーで、ペットフードは特殊な輸入品でなければならなかったし、月に一度はこのペットホテルで皮膚の手入れをしてもらっていた。それでもこんな事故さえなければ、後、数年は生きていられたろう。悔いが残る。
紀州犬の百姫も、事情があって昨年の暮れに生まれた家に返しているので、いっぺんに寂しくなった。
2005年3月4日(金) 徳島県立博物館
旅行参加者のうち3人が「文化の森」に行くことになった。ここへは数年前、個人で来たことがあるが、なにしろ不便だ。事実上、車で行くほかない。「市民が気楽に立ち寄れる」という博物館の理念にはほど遠い場所にある。われわれもタクシーで行った。
施設は立派だと思う。この県立博物館の特徴は、自然史博物館と歴史博物館が一つになっていることだが、違和感はない。15名の学芸員の責任分野一覧が掲示してあったが、他の博物館ではあまり見たことがない。各分野の展示に自信があることの表れだろう。研究室と収蔵庫は見ていないが、これもきちんとしたものだろうと推察できる。鳥居龍蔵の資料もここに保管すればよいのに、と思った。
博物館に隣接する県立近代美術館では、「マン・レイ展」を開催していた。こういうモダン・アートは苦手なので、会場をさっと見てまわっただけ。常設展の「徳島ゆかりの美術」の日本画にほっとする。
午後はタクシーで市の中心にもどり、徳島市立徳島城博物館を訪ねた。徳島藩関係をメイン・テーマにしているが、ほかにも雑多なものが置かれている。徳島駅の近くという絶好の場所にあるが、市民が繰り返し訪ねるには、いささか魅力不足のようだ。
跨線橋を渡り、駅前から高速バスに乗って難波に帰った。
2005年3月3日(木) 大塚国際美術館
朝、ビジネスホテルを参加者5人で出て、鳴門公園の大塚国際美術館に向かう。美術館では運良く、大塚製薬の田中秋筰・総務部長にお会いすることができた。田中氏は桃山学院大学の出身で、美術館の事実上の最高責任者の立場にあると、本学の関係者から聞いていた。陶板画を開発するまでの事情、美術館を立ち上げるまでの問題、複製の権利を得るための苦労など、当事者でなければ分からない話を聞くことができた。
立ち上げの費用は200億、そのうち建設費が150億、複製の権利金が50億ということだった(陶板画自体は、自社製品なので計算していない)。現在の入館者は年に20万人で、ランニングコストだけなら黒字だという。この美術館は大成功だったといってよいだろう。
最大の魅力は、大きな壁画も実物大で見られることだと思う。目玉になっているのは、ミケランジェロの「最後の審判」とダヴィンチの「最後の晩餐」だが、私のお目当ては、ラファエロの「アテネの学堂」。対面の壁の「聖体の論議」の複製も展示されているので、まさに神学と哲学が向かい合うさまが再現されていた。
どこかで見たような西洋名画は、ほとんどすべて実物大の複製があるので、ゆっくり見ていたら、5時まで掛かっても終わらない。近代絵画は走るようにして見た。複製ではあるが、繰り返し来ても楽しめる美術館だと思う。
退館後、タクシーで徳島の宿まで走ったが、競艇と阪神のオープン戦が重なって、ひどい渋滞だった。
2005年3月2日(水) 鳥居龍蔵記念館
学内の共同研究・博物館プロジェクトで、明日の朝から大塚国際美術館を訪問するため、高速バスで鳴門市に向かう。昼過ぎに難波を発った。3時には高速鳴門に着き、そのまま「徳島県立鳥居記念博物館」に向かった。妙見山頂にあるのでタクシーで行ったが、運転手に「珍しいところにいきますね」といわれた。鳥居記念館を訪ねる観光客は滅多にいないということだった。
事実、私がゆっくりと見学している間、次の来館者はなかった。記念館では鳥居博士顕彰会事務局長の西田素康さんの話を聞くことができた。年間の来館者は約5千人とのことだった。夕刻ホテルでこのことを話題にしたら、参加者の中にも鳥居龍蔵の名前をまったく知らないという同僚がいた。
鳥居龍蔵(1870-1953)は「大正時代における日本考古学の指導者であり、またモンゴル、中国東北地区を対象とする考古学の開拓者であった」(大林太良)。徳島市の出身で、学歴は小学校中退。1893年に東京大学人類学教室の標本整理係となった。同じ年に、同じく小学校中退の牧野富太郎(1862-1957)が植物学教室の助手になっている。
鳥居は1898年に助手、1905年に講師、1922年に助教授と昇進するが、2年後に東京大学を退職。その後、国学院大学教授、上智大学文学部長などを歴任した。
人類学における鳥居の業績は、植物学における牧野の業績に勝とも劣ることはない。それなのに、なぜこれほど知名度の差があるのだろう。科学史の分野でも、知名度と研究実績はかならずしも一致しない。この問題もいずれ、きちんと考察してみたいと思っている。少なくとも鳥居については、もっと関心が高まってしかるべきだろう。
記念館からの帰り道に「ガレの森美術館」に立ち寄った。そこで聞いたところによると、鳥居記念館廃止の案が出ているとのこと。建物は1965年に建てた復元天守閣で、その維持に費用がかかりすぎるという。歴史的にも意味のない復元天守閣なので、これを廃棄するのもやむを得ないように思う。その場合、心配なのは鳥居関係の資料である。本来、鳥居と鳴門市とは関係がないので、徳島市内のしかるべき施設に保管されることを期待したい。
夜は鳴門市内のビジネスホテルに泊まった。同じ宿に、ラフな格好の若者が数十人、団体で泊まっていた。明日、鳴門で開催される阪神タイガースのオープン戦をテレビ中継するスタッフたちとのこと。オープン戦でも、これだけの人数が要るのかと、いささか驚く。
2005年2月19日(土) 一太郎かWORDか
朝は福岡医院に行き、昨日の血液検査の結果を聞く。γGTP以外の数値は正常値にまで下がっていた。やれやれ。三途の川へ向かう道に迷い込んだが、なんとか浮き世にもどってきた。
いつもなら土曜日も研究室に出るのだが、明日の日曜日は大学院入試判定のため出校するので、今日は家にいることにした。新しいパソコンにOffice
2003をインストール。後は一太郎を入れれば、研究室のパソコンとほぼ同じアプリケーションになるが、どうしたものか。
一太郎とATOKに慣れているので、いまさらワードに変える気はない。しかし最近は一太郎ファイルを送っても、「開けません」といわれることが多くなった。今は昔、「一太郎」か「松」かで議論していたこともあったのに。外で読んでもらうだけなら、一太郎をワードに変換すれば済む。ところが今は学生が使うのもワード。授業運営のためにはワードもある程度、使えないと具合が悪い。家ではワードだけにして、否応なく慣れるようにしようか、とも思う。
2005年2月14日(月) 我が家にも光ファイバー
朝は福岡医院に行き、10日(木) の血液検査の結果を聞く。数値がかなり下がってきているので、点滴を止めて隔日の注射になった。快方に向かっているので、一安心。
午後は光ファイバーを導入するNTTの工事があり、工事完了後、これもNTTの手配でノートパソコンが届き、プロバイダーとの接続の設定をしてもらった。なにもかもNTTまかせのつもりだったが、光ファイバーとパソコンをつなぐラン・ケーブルはこちらで用意しておくものだという。そんなこと、聞いてないよ。結局、パソコンの担当者がサービスでケーブルを置いていってくれたので、事なきを得た。
私の場合、毎日、研究室のパソコンで仕事をしているので、自宅にパソコンが無くても困らない。しかし来年度から大学で情報センター長を務めることになったし、また、数年後には定年退職ということもあり、自宅でパソコンを使えるようにしておきたいと考えたしだいである。ただ現在の生活パターンではあまり使わない恐れがあるが、なんとか活用していきたい。
2005年2月12日(土) 国立科学博物館・新館
朝は早くから東京国立博物館の「唐招待寺展」へ。本尊の盧舎那仏と鑑真和上像が来ている。本館の常設展では下村観山の「弱法師」が展示されていた。この絵は、数年前、リニューアルする前にも2階の展示場で見ているが、その時は屏風がもっと広げてあって見やすかったと思う。今は1階で、平成館の特別展から流れてくる観客の通り道になっており、落ち着かなかった。
国立科学博物館にまわり、新館の展示を一通り見て回る。昨年の11月にリニューアル・オープンしただけあって、分類や進化の展示は最新の研究を取り入れたものになっている。
新館の展示のテーマは「地球生命史と人類」となっていて、6フロアのうち4フロアが生物の進化史と分類の展示である。しかし2フロアが理工系の展示で、統一が取れていない。ここに現在の国立科学博物館の問題が露呈していると思う。
先進国では唯一、日本には国立の自然史博物館が存在しない。1958年に日本学術会議が「自然史科学研究センター」の設立を政府に要望し、それが受け入れられはしたものの、既存の国立科学博物館の拡充という中途半端な形にしかならなかった。現在の科博は国立自然史博物館の役割を担うと同時に、従来のサイエンス・ミュージアムの機能も担っている。サイエンス・ミュージアムとナチュラル・ヒストリー・ミュージアムはまったく異質なものである。これを一つの施設にするのは、どだい無理なのだ。その無理が、新館の展示の現れていると思う。
午後は早い時間に新幹線に乗り、大阪へ。体調がよければ、東京でお見舞いに行きたいところもあり、もう一泊して博物館を見てまわることもできるのだが、今は我が身大事。体を休めて肝臓をかばわなければならない。
2005年2月11日(金) 「科学言説」研究会
関空から羽田へ。新宿に出て、「損保ジャパン東郷青児美術館」を初めてのぞき、すぐ近くの工学院大学へ。林真理さんら、工学院の教員を中心にした「科学言説」共同研究プロジェクトの公開研究会で「進化論の成立と日本に於ける受容」と題した発表を行った。この種の研究会の常として、参加者は関係者プラス少々で10人くらい、多くても20人と予測していたら、とんでもない。50人を越えていたと思う。生物学史分科会の月例会を兼ねていたこともあって、生物学史研究の仲間が10人ほど来ていたのには、びっくりするとともに、うれしかった。しかしその他の大多数の参加者は文学研究畑の方々らしく、議論もかみ合わなかった。どういう人たちが何を期待してこれほど参加されたのか、いまだに不思議である。
研究会後の懇親会では、林さんと私だけがノン・アルコール。さっさと退散するわけにもいかず、まいった。泊まりはいつもの東京ガーデンパレス。
2005年2月2日(水) 禁酒を厳守
1月24日の健康診断の結果、肝機能の異常を示す数値がとんでもない値になっていることがわかった。原因は、怪我の回復を早めるために昨年から服用し続けている薬の副作用としか考えられないので、服用を中止。それでも数値が下がらないので、本日から毎日、点滴をすることになった。踏んだり蹴ったりとはこういうことか。酒類はもちろん厳禁。外食でもアルコールは駄目。少々つらいが、命には代えられない。
2005年1月31日(月) 「論述作文」最終作品
「論述作文」の最終作品をメールの添付ファイルで送信させているが、その締め切りが本日。作品に対するコメントを返信し、「成績評価」を教務課に提出した。受講生たちには、最終作品をこのホームページで公開すると約束していたが、公開するとプライバシー侵害になりかねないものもあるので、止めることにした。受講生たちに会う機会はもう、ないのだが、このページを読んで了解してほしいと思っている。
2005年1月29日(土) 採点地獄から脱出
「科学技術史」の採点、評価が終わった。5日を要したが、とにかく終わった。やれやれ。今回は、合格・不合格の基本的な判定基準を公表することにした。学内の端末から見ることができる。どれだけの学生が見るか分からないが、評価に対する学生の不信を取り除くことには役立つだろう。
2005年1月24日(月) 採点地獄の始まり
朝は絶食して、家の近くの福岡医院で健診。大学では、「科学技術史」の期末試験の監督の後、研究室で、ゼミ発表を授業中しなかった残りの2名のゼミ生の報告。これで27名のゼミ生全員が脱落しなかったことになる。明日からはいよいよ、「科学技術史」の採点と評価。合格と不合格の判定に苦しむ採点地獄が始まる。
2005年1月22日(土) ジャーナル執筆
たまっていた書類が片づいたので、またまたジャーナルのまとめ書き。毎日記入するなど、とてもできない。知人の中には、かなり忙しいはずなのに、とぎれなく日々のジャーナルを掲載している人もいる。いったいどうやって、そんな時間を作っているか、不思議なくらいだ。
2005年1月17日(月) 授業終わり
4時限の「科学技術史」で、今年度の当方の授業がすべて終わった。
2005年1月12日(水) 東京ステーションギャラリー「国芳・暁斎展」
羽田から関空へ。そのまま大学に行き、教授会に出席。
羽田に行く前に、東京駅で「国芳・暁斎展」を駆け足で見てきた。赤煉瓦の中にこうした展示場があるのを初めて知った。展示の初っぱなに暁斎の「役者妖怪引幕」があった。横幅17mというのに、見た印象は、引幕としては小さいなということ。当時は舞台が今より、ずっと小さかったことを実感した。それにしても今の役者さんたちなら、こんな風に「化け物」として描かれることは嫌がるのではないだろうか。
2005年1月11日(火) 「ルドウィック」か「ラドウィック」か
東工大午後の研究会に地質学史の矢島道子さんが参加してくれた。かねてから気になっていたイギリス人の名前の読み方について、国際会議でいくつか確認してきたとのこと。
地質学史家の Rudwick は、「ルドウィック」が定着しているが、正しくは「ラドウィック」とのこと。今後は私もこれに変えたい。
19世紀イギリスの地質学者 de la Beche は、父親の代に Beach をフランス風に改名したものだが、イギリスではもとのまま、「ビーチ」と呼ばれていたとのこと。矢島さんはすでに、「ド・ラ・ベッシュ」ではなく、「ド・ラ・ビーチ」と表記している。これはどうしたものか。フランス風のスペルを用いる以上、日本では「ド・ラ・ベッシュ」とせざるを得ないとも思う。
今を時めく科学史家 Secord は、発音辞典に従って、私は「シーコード」としているが、イギリス人の発音は「セコード」に聞こえるとのこと。しかし「シークレット」を「セクレット」とは書かないから、これは「シーコード」のままにしよう。
人名に関して、私の痛恨のミスは、『ダーウィンの時代−科学と宗教』で「チェンバーズ」をすべて「チェンバース」にしてまったこと。本人は、「チェンバーズ」のつもりだった。執筆段階では頻出する人名を略号で入力し、変換していたが、そのときにうっかり、「チェンバース」と変換するよう設定してしまったのだろう。校正でも本人は「チェンバーズ」と読んでしまうので、直せない。刊行後、数年たってからこの間違いに気づき、愕然とした。いまさらどうしようもない。同書にはほかにも間違いがあるので、いずれ、正誤表を「研究業績」のページに掲載したい。
2005年1月10日(月) 東京国立博物館本館リニューアル
明日の東工大の大学院授業のために、関空から羽田へ。羽田の第二ターミナルがごった返しているのでびっくりしたが、靴磨きのおばちゃんに聴いたら、これは旅行客ではなく、見物客が多いからだそうだ。
上野へ出て、東博へ。今回は全面リニューアルが終了した本館を一通り、見て回った。東博には繰り返し来ているので、どこになにがあるか、だいたい頭に入っていたが、これからしばらくは、ガイドブック頼りになりそうだ。リニューアル途中の時より、近世と近代の絵画もまとまって見ることができるので、ほっとしている。
国立科学博物館にまわって「高峰譲吉展」を見たが、これは期待はずれ。大会社の三共が関わっているのだから、もっと充実した展示にし、資料集も作成してほしかった。
2005年1月8日(土) NHKドキュメンタリー「鼓の家」
新聞の番組案内を見て、38年前に見たドキュメンタリー「親子鼓」を鮮明に思い出した。あの女学生がお母さんになり、3人の男の子が、それぞれお囃子の道に進んでいる。これで田中傳左衛門家も安泰、よかったですね。
「親子鼓」では、バレーだったかバスケットだったか、指を守るために運動クラブを止めさせられた娘さんが、うらやましそうに元の仲間の練習を見ている場面があった。それ以上に鮮明に覚えているのが、家の芸を捨てて研究職に就いた唯一の男の子。父親の12世傳左衛門には大学へのあこがれがあり、自分はその面での父親の望みをかなえているのだと言っていた。
12世傳左衛門は娘さんに、繰り返し、「家元なんだから」、「家元らしく」と注意していた。さまざまな芸事の家元では、子供を小さいときから訓練し、そのおかげで日本の伝統芸能が保持されているのだろう。
「鼓の家」で亀井忠雄師が「宝生の安宅は命がけ」といっていた。能楽は観世流を見に行く機会が多いが、これは是非とも、「宝生の安宅」を見に行かねばならない。
2005年1月2日(日) 劇場中継「男の花道」
夜、NHK教育TVで、松竹座初日昼の部「男の花道」を録画中継していた。歌右衛門役は鴈治郎、土生玄碩は我當。もとは講談だねというだけあって、まさにナニワブシの世界。好きですね、こういうストーリーは。
この芝居は、主役の歌右衛門だけでなく、玄碩も良くないとつまらない。記憶に残るところでは、中村勘三郎(もちろん17代目)。かなりの年だったはずなのに、最初の場面で、いかにも若々しい医学生の雰囲気があった。最後の場面では、テレビドラマで見た島田正吾がよかった。天下の名医にふさわしい貫禄があり、やむにやまれず歌右衛門を呼び、それを後悔しているが、それでも歌右衛門が必ず来ることを疑わず、悠然と切腹しようとする。立派な玄碩だった。ところが両方とも、歌右衛門役が誰だったかおぼえていない。私にとっては、歌右衛門よりも玄碩の方が重要なのだろう。好きな芝居ではあるが、今回は松竹座まで足を運ぶ気にならない。
この中継を見て愕然としたのが、鴈治郎がカメラのアップに耐えられなくなっていること。舞台で見る限り美しい女形も、ベテランになるとカメラのアップには耐えられなくなる。劇場がどよめくほど舞台では美しかった6代目中村歌右衛門でさえ、テレビでアップになると見るのがつらかった。しかし、40年以上前、一世を風靡した若女形「扇雀」は、どんなにアップで撮られても美しかった。テレビ中継では、ベテラン女形のアップは控えてもらいたいものだ。
2005年1月1日(土) 加賀田神社
午前中は時々、雪がちらついていたが、午後には青空ものぞくようになった。年賀状の返信を書いた後、犬を連れてカミさんと加賀田神社に初詣。ここ数年、天候が悪くない限り、元旦の行事にしている。普段は閑散としているが、この日はにぎやかだ。祭神がだれかなんか、関係ない。地域の人たちに維持されている神社は、大きな神社とは違う楽しさがある。
2004年12月31日(金) 雪の大晦日
暮れにこれだけの雪が降ったのは久しぶりだろう。河内長野駅まで出る必要があったので、南海バスに問い合わせたところ、バスは動いているが渋滞でダイヤが乱れているとのこと。バス停まで雪の坂道を歩くのも危ないので、タクシーを呼ぶことにした。普段の倍の時間が掛かった。
住宅地の道路には、乗り捨てられたマイカーが点々と放置されている。雪の日には必ず見られる光景。マイカー族はとにかく車で家を出るが、走り出してまもなく、雪のために進むも成らず、もどるも成らず、車を放置してしまうようだ。これで余計、渋滞がひどくなる。雪の日は初めから車をあきらめればよいのに、マイカー族にはそういう発想がないらしい。
2004年12月30日(木) 静かな研究棟
執筆の予定が遅れているので、研究室に出てきて一仕事。昨日までは同じフロアだけでも6・7人の同僚が来ていたが、さすがに今日はだれもいない。私にしても、暮れの30日に大学に出てきたのは初めてだと思う。気兼ねなく、第九のCDを大音量でかけている。
2004年12月25日(土) 年賀状印刷
退院以来、授業や放送大学の仕事、その他の書類作成などに追われていたが、一段落した。本日は年賀状を印刷し、久しぶりにホームページの修正にも取り組んでいる。クリスチャンではないけれど、一日中、クリスマスソングのCDをかけている。12月は忠臣蔵とクリスマスソングと第9、そして年越しそば。以前はこれに「紅白」も加わっていたが、いつのころからか見なくなっている。
2004年12月12日(日) 退院
11月29日(月)の朝、ちょっとした不注意から大けがをして、入院、手術。本日、退院して2週間ぶりに家にかえった。当然、12月5日に東京で開催された生物学史分科会の総会は欠席。友人のつてを頼りに南座の海老蔵襲名の切符も確保していたのだが、これも返上。海老蔵の助六と「にらんでお目にかけます」を見損なったのは残念至極。
2004年11月27日(土) 科学史西日本大会
桃大で科学史学会の西日本研究大会を開いた。1996年に第1回、1997年に第2回を本学で開催して以来である。関西一円からの参加を考えると不便な場所なのだが、開催の引き受け手が少ないので、今のところ、2006年と2008年の開催も本学が予定されている。
参加者が固定化してきたきらいがあるが、来年は京都駅近くの龍谷大学なので、にぎやかな研究会になるだろう。
2004年11月12日(金) 四段目で鳴る携帯電話
久しぶりに文楽で忠臣蔵の通し。あきれたことに判官切腹の場面で、携帯電話のベルが鳴った。これはもう、犯罪ですよ。夜の部でも鳴っていた。2回とも私の席からは離れたところで鳴っていたので、まだ救われたが、近くの席の人たちはたまらなかったろうな。高額の罰金をとって、他の観客に千円ずつ返金するぐらいのことをしてもよいのではないか。
2004年10月29日(金) 出版助成申請
大学の出版助成の申請期日が、明日の30日。ぎりぎりで原稿を提出することができた。これから審査があるので詳しいことは書けないが、採択されれば来年末に出版できる。主としてこの5年間に大学紀要や『生物学史研究』に発表してきたものを、まとめたものだが、それだけでは筋の通った著書にならない。この10月に入ってからは、日祭日も研究室に出てきて仕事を続けた。芝居も展覧会も、我慢、我慢。それにしても、松竹座の「夏祭浪花鑑」は見たかった。勘九郎の団七はもちろんだが、劇評で見ると笹野高史の義平次もかなりのものらしい。原稿に取り組んでいるときはそんなことを考える余裕もなかったが、今になってみると、見損なったのが残念でならない。11月の文楽・忠臣蔵の通しは、行くぞ。
2004年9月23日(木) 休日出勤
今年度最初の大学院入試があり、引き続き判定会議があるので、出勤。夕方の会議まで、明後日の授業「資料特論」で扱う「行政資料」の教材を準備する。専門領域の科学史と、まったく無関係というわけでもない。「大蔵省印刷局」がいつの間にか「独立行政法人・国立印刷局」になっていたりするので、最新の情報を確認しておく必要がある。
2004年9月22日(水) 会議で始まる秋学期
秋学期最初の教授会のほかに、出席義務のある会議が3。授業は25日(土)からだが、忙しない授業期間が実質的に始まった。日本の大学は会議が多すぎるという批判もあるが、ある程度はやむを得ないと思っている。
2004年9月14日(火) 偽造されていた『福沢諭吉全集』
平山洋『福沢諭吉の真実』を読了。衝撃の書であった。政治思想史を専門とする同僚に聴くと、専門家の間では、だいぶ前から、諭吉全集が怪しいと言われていたとのこと。しかし私は、この本で初めて知った。「多くの読者が疑問をもつことは、福沢研究は汗牛充棟であるにもかかわらず、なぜこれ程のことが今まで分からなかったのか、ということであろう」(p.233)とあるが、まさにその通り。著者によると、丸山真男には編者の富田正文への配慮があったという。前出の同僚は、慶応関係者に岩波への遠慮があったと見ている。著者が「富田への配慮」というとき、「岩波への配慮」が含意されているのかもしれない。
私には、別の理由もあるように思える。「1945年8月にはじまる価値観の転換」(p.194)後も、石河幹明がでっち上げた天皇賛美者・民族差別主義者としての福沢諭吉を歓迎する勢力が根強く残っていたのではないか。そのため諭吉を批判する左翼の思想家ばかりでなく、諭吉を賛美する慶応関係者も、石河による諭吉像を正そうとしなかったのではなかろうか。
著者は最後に、『全集』について、「このまま放置しておくことは許されぬことであろう」(p.239)と述べている。日本のジャーナリズムがどのように対応するか、見ものである。
2004年9月11日(土) 新書数点
今週はAO入試に関係した業務に追われたが、そのことを公開の日記で書くわけにもいかない。ただ、ジャーナルがしばらくお留守になっているので、大学の行き帰りに読んでいる新書のうち、最近読んだもの数点について書いておこう。
まずは、平山洋『福沢諭吉の真実』(文春新書 2004/08)。まだ読み始めたばかりだが、権威ある全集に本人の書いたものではないものが大量に収められているというのは、驚き。福沢研究は盛んなのに、基本的なところが押さえられていなかったとはなんたることだ。近年の福沢論は、ほとんど価値が無くなるではないか。
井上真琴『図書館に訊け!』(ちくま新書 2004/08)。書店に注文したら、出版社に在庫なしで断られたが、大型書店には平積みになっていた。本気で勉強する学生には、格好の手引書である。しかし査読制のある学術雑誌を手放しで称揚し、紀要を無価値としているのは、学界の実情に疎いためか。査読制の学会誌にお粗末な論文が掲載されることも少なくない。権威ある国際的な学術雑誌に偽造論文が掲載されるといった事件も続出している。要は、編集者と査読者の見識しだいなのだ。また、文系の研究者には紀要が不可欠な発表手段になっている。たしかに紀要には愚劣な記事も多いが、有益な論文も少なくない。PDFで無料提供されるものも増えてきたので、図書館でも大いに利用すべきだと思う。多くの眼に触れるようになれば、自己規制が働いて、いい加減なものは紀要に載せられなくなるだろう。
鷲田小彌太『学者の値打ち』(ちくま新書 2004/07)。売れっ子の著者らしいが、私はこの本が初めて。著名人に対する評価表は笑っちゃうね。著者のお遊びだろうが、研究者の飲み会の絶好の酒の肴だ。くどいほど参照文献の記載の必要性を説いているのは、当たり前とはいえ、共感する。しかし、著名学者に対する評価には、納得できないものも多い。
この3点。文系の大学院生に、まとめて読むことを薦めたい。研究方法について得られるものが少なくないと思う。
2004年8月14日(土) チェンバーズ『インフォメーション』復刻版
来春にユーリカ・プレス(大阪)から刊行が予定されているチェンバーズ『インフォメーション』復刻版の宣伝文の原案を送信した。衝撃の進化論書『痕跡』(1844)の著者として、ロバート・チェンバーズに強い関心を抱いていた関係から、この復刻版のお手伝いをすることになった。進化論史に直接関係した仕事ではないが、イギリス進化論の背景を広く理解する上では無駄ではないと考えている。以下に、この文案の全文を掲載する。ジャーナルに掲載するのはどうかとも思うが、当方の仕事の一端を紹介することにもなるであろう。
『インフォメーション』復刻版について
チェンバーズ兄弟(Wiliam Chambers, 1800-1883. Robert Chambers, 1802-1871)が1832年にエジンバラに設立した出版社(W. & R. Chambers )は、高い内容でわかりやすい図書を安い価格で提供することを目指し、まもなくイギリス有数の出版社に成長して今日まで存続している。
このチェンバーズ社が最初に刊行した啓蒙書のシリーズが、『万人の知識』(Chambers's Information for the People)であった(以下、『インフォメーション』と略記)。これは一種の大項目の百科辞典で、1833年から1835年にかけて、項目ごとに小冊子の形で刊行され、17万セットが売れた。この成功に促され、チェンバーズ社は1835年から本格的な啓蒙書のシリーズ「チェンバーズ教育叢書」(Chambers's Educational Course)の刊行を開始した。これも人気を得て、長年にわたり、さまざまな分野の啓蒙書が刊行されていった。
『インフォメーション』も1842年に2巻本にまとめられた第2版が刊行され、第3版(1848,
1849)、第4版(1857)、第5版(1874, 1875)と続いた。
チェンバーズ社の啓蒙書は、西洋文化の導入に懸命だった幕末・明治の洋学者たちにとって、うってつけの教科書であった。「教育叢書」の一つ『経済学』(Political Economy for Use in Schools and for Private Instruction. 1852)に基づいて書かれたのが福沢諭吉『西洋事情外編』(慶応3年)であった。同じ叢書の一つ『道徳読本』(Moral Class-Book. 1839)は福沢諭吉訳『童蒙教草』(明治5年)となった。また、明治初期に自然科学の入門書として広く利用された小幡篤次郎訳『博物新編補遺』(明治2年)は、教育叢書の一つとしてロバート・チェンバーズが執筆した『科学入門』(Introduction to the Sciences.1836)の1861年版の翻訳であった。
『インフォメーション』に注目したのは箕作麟祥であった。明治4年(1871)、文部省編輯寮の編輯頭であった麟祥のもとに洋学者が動員され、『インフォメーション』第4版の翻訳が開始され、明治6年(1873)から16年(1883)にかけて、項目ごとに分冊で文部省から刊行された。これが、文部省訳『百科全書』である。翻訳の途中からは、原書第5版の内容も加味されることになった。この『百科全書』93項目を12冊にまとめ、別冊の索引を加えた13冊本が、明治16年(1883)から18年(1885)にかけて丸善から刊行された。『百科全書』が明治期の西洋文化移入に大きな役割を果たしたことは、周知の通りである。
この度、復刻版が刊行される『インフォメーション』第5版は、ビクトリア朝の一般的知識水準をうかがうのに絶好の資料である。また、現在、明治期に『百科全書』が果たした役割について、さまざまな分野で関心が高まっているが、その原書の復刻版が研究に資するところも大きい。
イギリス文化史、および洋学史の基礎資料として、ぜひ、備えておきたい書籍である。
2004年8月11日(水) 司書講習・採点
司書講習「専門資料論」のテストを7月28日に実施したが、その答案180枚の採点をようやく終えた。延べ4日かかった。枚数だけから言えば1日で終了可能ではあるが、実際には無理。問題は論述式で、あらかじめ通知してあるので、ほとんどの答案がびっしり書いてある。実は、答案をさっと見た瞬間に評価の見当はつくのだが、それを正式の評価にするわけにはいかない。一通り読まなければならない。続けて読むのは、数枚が限度。苦痛になってきて、ネットサーフィンしたり、コーヒーを飲んだりして気を紛らし、また数枚を見る。採点は教員にとって大事なことではあるが、精神的には苦痛なので、採点地獄と呼んでいる。
司書講習の受講生は、6月から8月までの3ヶ月間、毎日、講習に通って朝から晩まで授業を受けている。一般的には、大学の資格課程の受講生よりも学習意欲がはるかに高い。試験問題を通知してあるので、ほとんどの受講生はきっちり準備している。それでも明白に優良可の違いが出る。また、例年のことだが、ほぼ零点という答案もあり、これはいくらなんでも不合格にせざるを得ない。
「専門資料論」の授業では、科目の趣旨に添って雑索や文速、ケミアブ、の話をしているが、それだけでは話す方も退屈なので、1、2回は、「学術における不正」をテーマにしている。受講生もこういう話の方を喜んでくれる。しかしこれを試験問題にするわけにはいかないので、評価の対象外として、感想を書いてもらっている。この感想が結構面白い。例年、研究者の不正が多いことに驚いたという感想が多いが、今年は、身近な体験を述べているものが目立った。大学生の時に、引用文献を必ず記載しろと厳しく指導されたという想い出が数例。逆に、身近で見た盗作、盗用を語ってくれたものが数例。かなり具体的なことが書いてあるが、いずれも表沙汰になっていない。研究者の不正行為は表に出てくることが多くなったが、まだまだ氷山の一角なのかも知れない。
2004年8月6日(金) 文楽劇場「生写朝顔話」
午後2時半開演なので、朝はゆっくりできた。この演目はかなり前に見ているはずだが、印象が薄い。今回、見ても、三業の熱演の割に、感動が乏しい。見せ場がいくつかあって、今でもそれなりに人気のある作品のようだが、原作の甘さが気になって、私は好きではない。
2004年8月5日(木) 京都・横山大観展
京都へ。カミさんの実家の墓参りにつきあった後、京都国立近代美術館の大観展へ。終了期日(8日)が迫っているので、さぞかし混雑しているだろうと恐れていたが、それほどではなくかった。目玉作品の、「生々流転」。大傑作ということだが、ようわからん。
2004年8月4日(水) 放送大学・収録終了
午前2時に起きて、「ダーウィン」の台本作成を続ける。これほど追いつめられて仕事するなんてことは、滅多にない。できた台本は長すぎるくらいかと思ったが、放送大学で整理して読み上げてみると、かなり短い。2度ほど、台本の加筆、追加の収録をして、1時過ぎに終わった。
あとは、ひたすら大阪へ。今回はどこの博物館、美術館にも寄らず、湯島と幕張を往復しただけ。帰りの新幹線の中でも、ぐったり、ぼんやり、していただけ。
2004年8月3日(火) 放送大学・収録開始
朝、幕張の放送大学へ。「アリストテレス」の収録は、ぴたっと時間通りに終わる。一発でOK。午後は、まず「リンネ」の台本を整理し、読み上げて時間をチェック。本番では、やや、短くなったので、原稿を書き足して、OK。
やどにもどって、「ダーウィン」の台本作成に取りかかる。
2004年8月2日(月) 宿で収録準備
新幹線「のぞみ」の中で、「アリストテレス」の台本を読み直し、宿舎の東京ガーデンパレスで、実際に読み上げて、計算通りの時間になることを確認。「リンネ」の台本作成にかかる。こんな時は、携帯用のパソコンがあれば良かったなと思う。まさか、宿で仕事をしなければならない事態が生じるとは、思いもしなかった。何年間も使ったことのない、400字詰め原稿用紙に台本の加筆部分を書く。「リンネ」はある程度、準備してあったので、時計が明日を指す前に、一応の目安がついた。
2004年8月1日(日) 放送大学・収録準備
明日2日に上京し、3日と4日に、放送大学で「生物学の歴史」の担当部分の収録をすることになっている。実は、AO入試・事前面談の件を失念していて、29日からの3日間で収録台本を作成する予定にしていた。間に合わないので、日曜日なのに研究室に出てきたが、3回分の台本を作るのは、とうてい無理。最初の分、「アリストテレス」については、台本を完成させたが、「リンネ」と「ダーウィン」は資料を持参して、東京で準備することにした。なんとかなるだろう。腹をくくらにゃ、しょうがない。
2004年7月30日(金) 早くも入試業務
本日と明日の大学は、オープンキャンパス。今年度の社会学部AO入試委員なので、オープンキャンパスに合わせて実施されたAO入試の事前面談を行った。大学関係者なら周知のことだが、AO入試とは、アドミッションズ・オフィス入試のことで、受験生の意欲によって合否を判定する制度である。現在では日本の大半の大学が実施している。願書を出す前の面談なので、入学の意欲満々で、すでに小論文の執筆に取りかかっているという学生もいる一方で、学力試験抜きの制度としか理解していない冷やかし組もいる。
予約した学生ばかりでなく、当日の飛び込みも受け付けるので、研究室で仕事する余裕はなかった。
2004年7月28日(月) 新・海老蔵の弁慶
朝9時20分から午後4時10分まで、昭和町で司書講習の授業。これを終えて、松竹座、海老蔵襲名公演の夜の部へ。二番目の勧進帳から観劇。海老蔵の弁慶、よかった。まだ荒っぽいが、これでいい。豊かな声量も魅力。仁左衛門の富樫は、いつものことながら美しく、立派。ただ声が枯れていたのが気になる。三番目は菊五郎の弁天小僧。段四郎の南郷力丸との掛け合いがしっくりしない。予定では南郷は団十郎だったとのこと。菊五郎と団十郎の掛け合いなら、もっと楽しめただろうに、残念。
前夜のNHK教育テレビで、海老蔵の暫を放映していた。せりふが父親そっくり。現・団十郎のせりふ回しは、真似してほしくないのだが、当面、仕方ないか。
2004年7月16日(金) 久しぶりの生物学史研究
久しぶりに進化論史の文献に取り組む。2月末以来か。一字一句おろそかにせず、注や引用文献も確認しながら読む。神経を集中するので、2、3時間でぐったりする。数日間は、同じテーマに取り組めるだろう。
2004年7月15日(木) レポート提出もファイル添付
昨日の行動のためか、朝から疲労困憊。研究室に出ても、ほとんど寝ていた。午後にゼミ生の一人がやってきた。病気で寝込んだため、レポート提出が遅れたという。
ゼミ生に春学期まとめのレポートを、メールの添付ファイルで送るよう指示していた。期日の8日(木)までに、ほとんどの受講生が送ってきた。フロッピーを持参したのは一人だけ。当方にとっても、レポートのメール受信は初めての経験。少人数の授業では、今後も活用してみたい。
本日来訪した学生を最後に、とにもかくにも27名のゼミ生全員がレポートを提出した。全員がまじめに授業に取り組んでいたことが分かる。とくに、自分の発表には緊張したようだ。全員がこのまま、卒論執筆へと展開していくことを願っている。
2004年7月14日(水) 司書講習のため大阪市内へ
本学が昭和町学舎で開講している社会人対象の司書講習で、「専門資料論」を担当している。本日がその最初の授業。9時20分から授業が始まるが、寝過ごしたため、リキの散歩を済ませた後、朝飯抜きで飛び出した。思ったより早く昭和町に着いたので、喫茶店でモーニング・サービスを食べる余裕があった。
大学の司書課程の受講生は40人ほどだが、司書講習は200人近い。受講生もさまざまで、なかには実務のベテランもいる。緊張を強いられるが、やりがいもある。
午前の講習が終わって、松竹座に。あわよくば海老蔵襲名の「口上」を幕見席でと思ったが、売り切れであった。他日の夜の部の前売りを購入。海老蔵で見たいのは、助六。12月南座の舞台は見逃さないぞ。
文楽劇場で「生写朝顔話」の前売り購入。ここでも狙った日の狙った席は、売れていた。床の直下の席を狙うフアンは、結構、多いようだ。
東心斎橋は三休橋筋のコーヒー専門店LINKへ。マスターによると、このジャーナルの3月3日の記事を読んで来てくれたお客がいたという。どこで誰が読むか分からないホームページのすごさを、改めて認識した。
2004年7月13日(火) 春学期の授業終了
昨日の5時限で、春学期の全ての担当授業が終了した。「専門資料論」のテストも昨日実施した。「科学思想史」は平常点評価なので、両科目とも、成績評価を済ませ、教務課に提出した。これで春学期の授業関係の仕事は一区切り。ほっとする。
2004年6月21日(月) 池野成一郎文庫
台風6号襲来。本学では大阪府で朝7時に暴風警報が発令されると全日休講になるため、月曜3コマの授業がなくなった。時間の余裕ができたので、名古屋大学理学部生物学教室所蔵・池野成一郎文庫についての意見書を執筆して名大の関係者に送信した。
国立大学の独立法人化にともなって、各大学で資産の調査が進められている。科学史の関係者が心配しているのは、歴史的に貴重なものが発見されても、保管が面倒なので廃棄されてしまうのではないかということ。今回は幸いなことに、科学史メーリングリストを介して意見具申の機会が与えられた。
名大宛の報告書には、池野の個人蔵書と別刷コレクションはかけがえのない資料なので、「今後も一括保存されることを切に願うものである」と記した。
2004年6月8日(火) ジャーナルを、まとめて執筆
いくらか時間の余裕ができたので、5月13日以来のジャーナルをまとめて執筆した。小学生・中学生のころ、夏休みの宿題などで同じことをしていたように思う。ほめられた話ではないが、なにかと時間に追われて、ホームページが更新できない。
こんなことを書いていると、「あれはどうした、早くしろ」と何人かに叱られそうだ。
2004年6月3日(木) 3年次に撮る卒業写真
現3年次生は2006年3月に卒業することになるが、その卒業アルバムのためのゼミ集合写真を撮影した。就職活動のため、4年次になると学生たちが集まりにくくなるので、今年度から3年次に撮影することになったのだという。
演習では交代で学生たちに授業時間を任せているが、全員、きちんと準備してくる。はじめは不安だったが、今では毎時間、よく勉強してきたではないか、という思いで、安心して学生の発表を聞いている。
演習を担当するたびに残念に思うのは、就職活動のため、4年次に卒論執筆を放棄する学生が多いこと。こればかりは教員の力でどうにもならない。大学生活の締めくくりに、短くてもよいから論文を書きなさいと励ますしかない。
2004年5月30日(日) ソ連の科学
9時20分からの一般講演に間に合うよう、早々に宿を出る。目的は、徳永盛一、藤岡毅、金山浩司、市川浩の各氏による、1920年代から30年代のソ連の科学についての研究報告。私の唯一の弟子ともいえる藤岡毅さんの講演「デボーリン派の敗北についての若干の考察」もあるので、聞き逃すわけにはいかない。最近は当時のソ連の資料が公開されるようになり、科学と政治との関係が具体的に明らかにされている。今までの定説とは異なる見解も出てきている。今後も研究の展開が注目される分野である。
午後は目白に行き、永青文庫と講談社野間記念館を初めて訪問。両館とも再訪することはないだろう。東京に住んでいるのならともかく、上京したおりにわざわざ出かけるほどのことはない。
東京駅ではすぐに「のぞみ」(もちろん禁煙席)に乗車できて、2時間半で大阪着。飛行機より能率的かも知れない。
2004年5月29日(土) 森美術館
科学史学会で白川英樹名誉教授の記念講演を聴き、総会に出席した後、懇親会はパスして六本木ヒルズに出かけた。懇親会で研究者仲間の交流を図ることは大事で、これを目的に学会に来る人も少なくない。私も数年前までは懇親会に必ず出席していたが、最近はおっくうになってきた。生物学史分科会関係者との相談は一般講演の合間に済ませた。
六本木ヒルズにいったのは、森美術館を訪れるため。10年ほど前に大学の学芸員課程にかかわるようになってから、まだ訪れていない博物館・美術館が気になって、機会があれば訪れている。国立博物館などの特別展も見ておかないと落ち着かない。
森美術館は夜でも開館しているので、助かる。展示は私の苦手な現代美術だが、かなりの入館者があった。上の階の展望台も含めて、デートスポットになっているらしい。東京では、京橋のブリヂストン美術館も夜まで開館している。大阪で同じことを望むのは無理だろう。これは人口だけの問題ではないのかも知れない。
2004年5月28日(金) 上野の博物館
29日から東工大(大岡山)で開催される日本科学史学会総会・年会に参加するため、新幹線で上京した。最近は関空から羽田に向かうことが多いのだが、今回は時間を特定せず、列車で気楽に往復することにした。
東京駅から上野に直行、美術館、博物館を梯子した。芸大の「近代日本の絵画」、東京都美術館の「フランドル絵画展」、そして東京国立博物館の特別陳列「江戸の博物学」。
泊まりは定宿にしている湯島の私学共済「東京ガーデンパレス」。友人を呼び出して一杯飲むような元気は、とっくになくなっている。
2004年5月13日(木) ゼミ・コンパ
担当する3年次専門演習の懇親会を、堺東・高島屋・地下の地中海料理「くりあす」で開いた。紀州犬モモの出産などでお世話になった貝戸さんのお店である。あいにくの豪雨だったが、ほとんどの受講生が参加した。
今年度の当方の演習受講希望者は、二次募集までで定員オーバーの27名となり、我ながら驚いている。これまで、必ずしも毎年、演習を開講していたわけではないが、たいてい、5名くらいのゼミ生を相手にのんびり演習を運営してきた。希望者ゼロという年もあった。3次募集までで10名を越えることがあっても、3回目くらいの授業までに、受講放棄が続出した。ところが今年は、受講放棄が一人もいない。受講生増加の理由がいまだにわからない。学生たちに聞くと、「生物学と社会問題」というテーマに惹かれたというのだが、それだけでこれほどの違いがでるのだろうか。
27名のうち、男子は7名だけ。人数で圧倒されている男子諸君は、いつも教室の片隅に小さくかたまっているが、コンパではやや勢力を盛りかえしたようだ。いつものコンパ会場の居酒屋などと違って、「くりあす」ではきちんとした料理が出るので、学生たちも喜んでいた。ゼミのまとまりも良くなったように思う。授業だけでは学生たちも親しくなりにくいらしい。
2004年4月26日(月) 授業・3巡
4月8日に始まった授業が今日で3巡した。昨年度は研修期間のため授業を担当しなかったので、15ヶ月ぶりの授業である。教材を探すのに手間取ったりしたが、ようやく授業のペースを取りもどしてきた。履修登録も終わり、受講生も3回目くらいから安定してくる。今年度は、通常の講義科目、資格課程の講義科目、ゼミ、作文指導、大学院科目と、種類の異なる授業を計6コマ担当している。この3週間は会議と授業の準備に追われ通しで、研究の余裕はない。
明日から5月6日(木)まで会議も担当の授業もないので、この間に研究を進めたいと考えていたが、放っておいた書類作成に2日、『生物学史研究』の原稿に3日、授業準備に2日、と計算したら、研究時間など取れない。これでは間に合わないぞと、あせりもあるが、どうしようもない。大学教員でも、一月単位のまとまった余裕がないと研究は無理なのだ。
2004年4月17日(土) 生物学史・京都例会
難波・高島屋で「竹久夢二展」、京都文化博物館で「白隠展」、京都国立博物館で「南禅寺展」と回った後、夕刻から京大文学部で生物学史分科会の例会に出席した。夢二については独特の美人画しか知らなかったので、商業美術の先駆者でもあったことを知り、認識を改めた。「白隠展」に意外なほど観客が入っていたのに、「南禅寺展」が空いていたのが予想外だった。
生物学史例会は、右田裕規さんの「王権と生物学:生物学者としての昭和天皇をめぐる表象とその政治性」。右田氏は『科学史研究』225号掲載論文でも、日本では進化論が反・皇国史観の意味を持っていたと主張されているが、納得できないでいる。日本では進化論にそれほど強い力があったとは思えないのだ。
2004年4月9日(金) 文楽・義経千本桜
朝の11時から夜の9時まで、どっぷり、人形浄瑠璃の世界につかってきた。床の直下の席なので、語りと太棹が耳元で響く。「すしや」では住大夫が目の前で語っている。贅沢な話ではないか。できれば全段を住大夫に語ってほしかったが、終わりのころには疲れが感じられたので、無理なのだろう。気の毒なのは「奥」を受け継いだ伊達大夫。続けて聞くと、住大夫との違いが歴然としてしまう。
救いのない「すしや」の直後に、はなやかな「道行」。5丁の三味線が、がんがん鳴って気分爽快。こうした場面転換の見事さからいっても、よくできたドラマだと思う。
「すしや」の権太の死は無駄死。初段、卿の君の死も無駄死。知盛と義経という逃亡者どうしの戦いでは、どちらが勝っても明日への展望がない。全編に「空しさ」がただよう不思議なドラマだと思う。
「伏見稲荷」と4段目では、源九郎狐を遣う吉田文吾が、引き抜きやら宙乗りやらと大活躍。現在の文楽ではこうした演出が当たり前になっているが、気に入らない。人形遣いを見に来ているわけではないのだから、おとなしい演出にもどしてもよいのではないか。
最近の文楽劇場は空いているという記事を見たように思うが、当日は昼夜ともよく入っていた。出し物によっては客が呼べるということだろう。文楽好きの私にしてからが、久しぶりなのだ。昼だけ、あるいは夜だけであっても、観劇は一日がかりなので、出かけるには覚悟がいる。それに見合う満足感が期待できなければ、切符は買わない。
とはいっても文楽はいいもんだ。また通うことにしようか。今度は夏の「生写朝顔話」。
2004年4月7日(水) 放送大学
2005年度からの放送大学「生物学の歴史」の教科書の原稿、担当3回分を送り終えた。今年度までは中村禎里・溝口元の立正大コンビが担当しているが、中村さんが停年になるので、その分を肩代わりすることになった。といっても禎里さんと松永では、取り上げるテーマも中身も違ってくる。第1章は同じくアリストテレスだが、内容はまるで違う。科学史なんか誰が書いても同じ、とはならないのだ。まだ、図版の決定、各章の調整などが残っているが、とにかく、授業が始まる前に送稿できて、ほっとしている。
現在、大きな執筆計画を抱えているのに、3回分だけとはいえ、この仕事を引き受けた理由の一つは、放送大学とはどんなものか、のぞいてみたいという野次馬根性。もう一つの理由は、いずれ(多分、定年後)、取り組みたいと考えている生物学通史の予行演習。今回は、「アリストテレスとガレノス」で15枚、「リンネとビュフォン」で15枚、「ラマルクとダーウィン」で15枚。これはかなりきつい。ある程度書き込んだ通史となると、相当の分量になるだろう。今は印刷されなくてもホームページに掲載するという方法があるので、書いたものが無駄になることはない。問題は体力と気力。それと年金生活に入ってからの経費だろう。
2004年3月27日(土) 葵文庫
葵文庫蔵書の一部が展示されるというので、掛川で開催された洋学史学会例会に出かけた。出かけた理由の一つは、葵文庫の保管場所を知っておきたかったこと。それと、手に取れないまでも本物をいくつか見ることができること。
お目当ての一つは『厚生新編』。ショメール蘭訳本第1巻の「ジャガイモ」(Aardappelen)の項目のページが開かれていた。最初にリンネの『植物の種』記載のラテン語名があった。リンネは『植物の種』に数語のラテン語形容詞を用いる従来の学術名のほか、初めて全植物に「二名法」を適用して、各植物の項目の欄外に、種小名を記載し、現在の国際命名規約でも学名の基準とされている。ショメール蘭訳本の<Aardappelen>にはリンネの『植物の種』によるとして、形容詞6語の従来の学名のほかに、別名として、Solanum
tuberosum esculentum が記されていた。たまたま前日に放送大学の教科書の原稿にリンネの二名法のことを書いていたので、なぜ二名法の
Solanum tuberosum でないのか、気になった。帰宅後、『植物の種』の復刻版を見ると、Solanum
tuberosum esculentum はガスパール・ボアンが『植物対照図表』(1623)などで用いた名称であった。リンネ以前はボアンの著書が植物名の基準になっていたので、リンネは異名として必ずボアンの植物名を記載している。出版年次から見て、『植物の種』の学術名がショメールのフランス語原版にあったはずはないので、蘭訳本で新たに加えられたものである。少なくともオランダではリンネが重視されていたことを示す一方で、リンネ苦心の二名法が無視されていたこともわかる。『厚生新編』では「アアルドアッペレン」となっていて、訳文を読むとサツマイモと混同している。ラテン語は「ソラーニユム・デュベロシユム・エスキュレンチュム」とあるだけ。これは単に、短い方を取っただけだろう。
前日に解説していた文献の名に出会うとは、偶然とはいえ、不思議な縁を感じた。
かねてから葵文庫について気になっていたことの一つは、幕府の蔵書は本来、明治政府が引き継ぐはずなのに、なぜ一部の良書が徳川家のものになったのかということ。この日の関係者の話を聞くと、幕臣が勝手に駿府に持って行き、後に明治政府もこれを黙認したということらしい。
掛川にはめったに乗ることのない「こだま」で行った。駅ごとに「のぞみ」「ひかり」の追い越しで待機するので、予想外に時間がかかった。朝8時に家を出て、帰ったのは夜の9時。2時間限定の展示会に丸一日費やしたことになるが、無駄ではなかった。
2004年3月17日(水) 週刊文春
朝のニュースで、『週刊文春』3月25日号が発禁になったと伝えていたので、駅売店で購入した。問題の記事自体には興味ないが、言論の自由をめぐる大問題になるだろうと予測したので、原資料を確保した。他の出版社なら記事にはしないだろうが、田中家ウオッチャーの文春としては、角栄の利権継承者にかかわる問題として記事にするのも当然なように思う。しかし法律的には「公益性」は認められず、「プライバシー侵害」になるのかもしれない。だからといってこの程度の記事で発行禁止とは冗談ではないと思う。事後の訴訟で十分ではないか。
この号で心に残ったのは別の記事。小林信彦「本音を申せば」(pp.64-65)。NHKの番組を題材に3月10日東京大空襲を取り上げている。焼夷弾M69(ナパーム弾)、毎秒45発が2時間15分にわたり、下町に投下され、130万人の住民の内10万人以上が殺された。この爆撃を立案したのがカーティス・E・ルメイ少将。「カーティス・E・ルメイの日本人憎悪と人種差別に発した3月10日の大虐殺は、ヒロシマ、ナガサキ−そして、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、最近のアフガン侵攻、イラク侵攻へと続くものの原型だと思う」と小林はいう。ルメイは勲一等旭日大綬章を受章している。「<航空自衛隊の育成に貢献>したとして、昭和39年12月4日に、天皇からあたえられたものである」という。なんとも気の重い話である。
2004年3月3日(水) たまの外出
朝は9時から在木(ありき)カイロプラクティックで筋肉をほぐし、背骨を矯正してもらった。隔週で通っているが、少なくともその日一日は明らかに体調がよい。
駅前の銀行で介護保険の振り込み手続きなどを済ませる。65歳になると介護保険は給与天引きされなくなるとのこと。天引きを続けてくれた方が楽なのに、なにか理由があるのだろう。
そば屋で昼食後、35日ぶりに散髪。
南海電車で大阪市内に出て、文楽劇場・4月公演の前売り購入。義経千本桜の通し。「鳥居前、大物浦、鮓屋、吉野山」と並んでいるのを見るだけでわくわくしてくる。通しだと変化があって、忠臣蔵より楽しいと思う。
東心斎橋は三休橋筋のコーヒー専門店LINKへ。コーヒー専門店に人生を賭けている若者が昨年オープンした店で、それとなく応援している。
難波のジュンク堂へ。ジュンク堂は専門書を揃えているが、 雑誌はどの本屋にもある一般的なものだけ。『遺伝』など、専門的な雑誌はほとんどない。その点は、梅田の紀伊国屋や旭屋に劣る。大阪の南北格差かも知れない。
高島屋で板谷波山展。釉薬の技法などは素晴らしいのだろうけれど、私の好みではない。それはとにかく、陶芸家・波山について釈然としないのは、ろくろを回したのが別人だったこと。それでも「波山作」といってよいのだろうか。成形を担当した現田市松には、作品の完成に10パーセントくらいの貢献が認められるのではないか。実験科学でこの程度の貢献があれば、当然、論文の共著者に名を連ねるはずだ。
なんばパークスに初めて行ってみた。昨年のオープン直後は大変な人出だったらしいが、この日は閑散としていた。ご自慢の屋上庭園には、寒くて出る気にならなかった。OCATみたいなことに、ならなきゃよいが。
スイスホテルで退職教員(尾本惠市教授)の送別会。参加者の大半は二次会にも参加したようだが、当方は体力的に無理。8時半の急行に乗って家路に就く。
自宅と学校を往復するだけの毎日なので、たまにはこんな日もあって良い。
2004年2月29日(日) 大阪の博物館は全国最下位?
朝日新聞朝刊の大阪版に、すごい記事が出ていた。「おおさか何番?」という連載で、「博物館数47位」だと。「博物館法」に基づく登録博物館の数を人口で割るとこの順位になるのだとさ。40位から46位までの都府県を並べてみると、東京、熊本、千葉、神奈川、福岡、埼玉。博物館の充実している都府県が下位になっているのが歴然としている。ナンセンスな統計処理をして、無理矢理、大阪を最下位にしている。
解説文も、ひどいものだ。どの部分も誤り、あるいは不正確。「博物館概論」の授業のテストで、「この記事の問題点をすべて指摘せよ」と出題したら、1時間では書ききれないだろう。
最も許し難いことを一つ指摘すると、大英博物館の元になったハンス・スローン卿(記事では名を出していない)の収集品として書籍を省き、「妙な物を捨てられない困ったお父さん」と締めくくっていること。スローン卿に対する、というより、博物館に対する、あるいは文化に対する冒涜だ。
地域版でも校閲があるだろうに、なんでこんな記事が載ってしまったのだろうか。このまま放置しておくのだろうか。
2004年1月26日(月) 百科辞典
24日(土)にブリタニカ2004DVDが届いたので、インストールしようとしたら、画面に「不正なイメージ」と出て、インストールできなかった。正規の料金を払い、マニュアル通りにやっているのに、「不正」はないだろう。とにかくどういうことか、さっぱりわからないので、今日になって大学の情報センターの専門家に相談したら、ディスプレイに関連したソフトをダウンロードしてくれて、インストールできるようになった。DVDのデータをハードディスクにコピーするのに2時間かかった。QuickTimeの最新版もダウンロードしなければならず、これも専門家にお願いした。今日はブリタニカのインストールだけで、一日が過ぎてしまった。
ブリタニカに限らず、大形の辞典類を冊子体で使う時代は終わりに近づいていると思う。OEDも日本の百科辞典も、ハードディスクにコピーして日常的に使っている。冊子体だったら日常的に使う気になれない。
辞典をパソコンで使うのは問題なく便利なのだが、今日のような事態がよく起きる。何年前になるだろうか、ブリタニカのCD-ROMが発売されたとき、価格は冊子体と大差なかったが、待ってましたとばかり購入した。当時は、特別な器具を装着しないと使えないようになっていたが、文字化けがあって困惑した。代理店に問い合わせたら、なんのことはない、そのことは承知していて、簡単な操作で解消できることだった。販売先は分かっているのだから、早くに代理店から通知すべきことだろう。また、世界百科CD-ROMの旧版には地図が入っていたが、その表示がうまくいかない。自分の操作に問題があるのかと思っていたら、ソフトの不具合で、修正ソフトがダウンロードで提供されていたことを後で知った。こういうことが起きるようでは、まだまだ冊子体の需要は続くのだろう。
デジタル化によって、辞典の内容の改訂は簡単になったはずである。しかし現在のところ内外各社とも、テキストの改訂を二の次にして、パソコン画面上の面白さに力を入れているようだ。ブリタニカ2004でも、ごちゃごちゃといくつもの機能が付加されている一方で、削除された小項目もある。小項目の地名や人名も便利だったのに、なんたることだ。ブリタニカは図版に気を遣わず、充実したテキストを提供してきたのに、第15版から大衆向けに方針を変えていた。デジタル化によってさらにその傾向が強まったのかも知れない。残念なことだ。
百科辞典がパソコン画面での面白さを競うのではなく、テキストの充実度で勝負する時代の早く来ることを期待したい。
ついでに「ジテン」の漢字表記について一言。言葉については「辞典」、事物については「事典」なのだから、「百科事典」が正しいと思い込んでいる向きもあるが、それは誤り。もともと「事典」に、dictionary
の意味はない。まともな漢和辞典を見れば、「事物の規則、法典」といった語義だけがあるはず。言葉についても、事物についても、「辞典」が正しい。「事典」を
dictionary の意味で用いた最初の例は、昭和6年の平凡社『大百科事典』。下中弥三郎の誤用、あるいは造語である。他の出版社が書名に「事典」を用いるのは、見識に欠けることだ。小学館が「百科事典」と名乗ることをやめて「百科全書」としたのは、このことを考慮したためかも知れない。
2004年1月某日 65歳
昨年の11月からだったと思うが、65歳に向けての書類が次々と届くようになった。まず、年金関係の書類、健康診査の通知。誕生日以後ならインフルエンザ・ワクチンの接種に補助金が支給されるという通知も来た。介護保険手帳が送られてきたのには驚いた。社会的には65歳が大きな節目になっていることを思い知らされた。
定年の70歳まで、あと、5年、専任教員として勤務できることが、つくづくありがたいと思う。
昨年度までに65歳を迎えた先輩たちには、私学共済年金の一部支給があって、5年間ではかなりの額になるということだった。人生の中で一番豊かな5年間だったと述懐する人もいた。私もこれを楽しみにしていたのに、制度が変わって支給されなくなった。がっくり。年金財政を考えればやむを得ないのであろうが、損したという思いは残る。
年金関係の書類を取り寄せたり、社会保険事務所に出かけたりしていたら、しだいに余生を迎える気分になり、研究にも気合いが入らなくなってきた。これでは、いかん。ま、4月になれば忙しない日々がもどってきて、そんな気分もすっ飛んでしまうであろうが。
2003年12月24日(水) 研修期間の日々
本日は年内最後の授業日、明日から1月5日まで大学は冬期休暇に入る。しかし、研修中の私にとっては、こうした学年暦はあまり関係ない。大学が休暇中でも、ときには休日でも、研究室に出てきている。
朝は6時前に起きるが、犬の散歩と猫の世話があり、通勤に1時間半かかるので、研究室に着くのは10時頃。弁当を買いに行ったり、メールを処理したりするうちに昼になり、NHK-FMで演歌を聴きながら、昼食。一寝入りして、本格的に仕事に取りかかるのが、2時頃。文献を精読し、ワープロで原稿執筆。しかし集中できるのは2時間ないし3時間。精神も身体もぐったりして、続かない。40台、50台のころと比べると、仕事量が半分以下になっている。情けないが、年を取るとはこういうことか。
通常の時期は授業準備やその他の業務に追われて、なかなか研究時間がとれない。研修はこれが最後になるので、少しでも多くの原稿を書いておきたいと思っている。
2003年12月17日(水) ジャーナルの新設
延べ3日間、ホームページの更新に取り組んだが、この「独り言」のページの再構成と、「推理小説」のページに松本清張を加筆し、「科学史」のページに「ダーウィンの学部」を加筆しただけ。気楽に書き飛ばすということができない。いったん区切りをつけて本来の研究にもどり、1820年代のエジンバラを訪ねることにしよう。明日、加筆した部分を再点検し、問題がなければ公開することにしたい。
政治家の日記は、将来、歴史研究者の資料になることを予想して書かれているということだが、書いている時点では非公開なので、気楽に書けるのだろう。ホームページの「ジャーナル」は、不特定多数の目にさらされることを最初から前提にしているので、本人が最も書きたいことを書けない場合も少なくない。たとえば勤務先に対する批判とか。病院での検査結果など、本人には重大でも「ジャーナル」には書かないものもあろう。
それでも知人たちのジャーナルはそれなりに面白い。毎日のようにきちんと書き込んでいる人もいれば、ときおりテーマを決めて書いている人もいる。私の場合は、どっちつかず、どんなジャーナルになることやら、成り行きまかせにしたい。
2003年12月13日(土) ホームページの更新
今日から数日間、ホームページの更新に取り組むことにした。まず、この「独り言」のページの再構成。「博物館」の欄を削除し、「芝居」と「推理小説」の欄をリンク・ページとして独立させた。このページには新たに「ジャーナル」を掲載することにした。
8月11日にホームページを公開したところ、Academic Resource Guideという岡本真さん発行のメールマガジン08-25発行No.167で、「松永俊男さん(科学史)がつい先日サイトを公開した。開設の挨拶で『どのページを見ても、いかにも工事中ですが、とにかく開設することを優先しました。時間をかけて充実させていくつもりです』と述べている。そう、それでいい。あれやこれやと準備して充実させてからなどと思ってはいけない。そう思ったとたんにサイトの開設は重荷になる。いつになってもサイトを公開できなくなる。公開に向けた準備に辟易している方がいれば、松永さんをみならうよう勧めたい」と紹介された。
同僚二人からこのことを教えてもらって、びっくりした。内容が貧弱なので研究者仲間にはほとんど知らせていなかったのに、岡本さんはどうやって調べたのか、不思議。紹介されたのはありがたいが、内容不足が指摘されているともいえるので、当人としては、なんとも複雑な思いです。
数人の知人からは、連絡先が記載されていないと批判されたが、これは意図的に記載しなかった。一つには、アドレスを公開すると大量の迷惑メールが来ることがあると聞いていること。二つには、不特定多数の来訪者の中には、不愉快なメールを送る人もあり得ること。三つには、桃山学院大学社会学部のホームページに専任教員のアドレスが記載されているので、必要な方にはそれを見てもらえばよい、といった理由です。