いわおのジャーナル

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Journal no. 58

森林ボランティア (2005年6月9日)

 森林ボランティアというものに参加してみた。「和泉の国の森づくり」という、日本森林ボランティア協会が中心になってやっているらしい森林手入れの手伝いで、大学からそう遠くない和泉市南部の森で行われている。里山の手入れの話とかよく授業で話はしていたのだが、一度も経験がないようでは説得力に欠けると思い、時間がある今思い切って参加した。

  森の手入れの基本は、下草刈りと間伐である。人の侵入を阻む藪や低木・倒木を、鎌やのこぎりで片っ端から取り除いていく。切っていいかどうか迷ったら切ってしまえ、という基本方針なので、あれこれ悩む必要がほとんどなく、未踏の地の開拓のように進んでいける。振り返るとスッキリと明るくなった森がある。気持ちがいい。

  なぜ森に手入れが必要なのか。自然のままに放置して、なるようになってはいけないのか。授業で必ず出てくる質問だ。たとえば、真の天然林は手入れを必要としない。老いた木は倒れ、できたギャップに新しい木が育つ。倒木はゆっくりと朽ちて大地をつくる。人の介入する余地はない。

  スギやヒノキの造林地では目的がはっきりしている。育てている木の生育に悪影響を与える(商品価値を落とす)ものを排除する、それが手入れだ。今では収穫される見込みのない造林地も多いが、手入れをするならやはりそうした目標を掲げるだろう。植林された木が健全に育っていないと、土砂崩れなどが起きやすくなると言われる。それがどこまで真実なのかは知らないけれど。

  では里山はどうか。里山とは通常、農村周辺の落葉広葉樹の森を指す。放置しておくと、落葉樹ではない常緑樹が茂りだし森の中が暗くなるので、手入れは常緑樹の伐採が中心になる。それは、自然に起こる変化(植生遷移という)を止めようとする、「不」自然な行為だ。里山は、人為的な森なのだ。

  里山は、長い農村生活の中で作り出されたものだ。日々の煮炊きのため、枯れ枝や倒木を集め、混み合った木や低木を伐採する。畑の肥料として、下草や落ち葉をかき集める。しいたけのほだ木や炭焼きの材料として木を切り出す。そうした行為の結果として落葉広葉樹の森が残った。必要とされたのはこうした「得物」であって、森そのものではなかった。森自体は目的ではないのだ。

  その「得物」を必要としない現在において、なお里山を残そうとするには、なんらかの別の目的の設定が必要だ。それは一般には「生物多様性の保全」ということになっている。放置すれば消滅する落葉広葉樹林をすみかとしている生物は多い。だから里山を維持するのだ、ということだ。しかし、手入れをした結果ほんとうにそうした生物が増加したのか、それは簡単にはわからないし、すぐに結果が出るわけでもない。「水源の保全」というのもよく言われるが、これも実感は難しい。実感しにくい成果を求めて、森の手入れを持続し広めていくのは簡単じゃないだろうと思った。

  とはいえ、のこぎりをふるって森を切り開いていく作業は、理屈抜きに気持ちよかった。ふだん関わることのないような人たちとの出会いも新鮮で、汗を流した後に食べる弁当もうまかった。たまの休日の過ごし方として、悪くはないと思う。また今度行ってみよう。だれか興味のある人、ご一緒しませんか。次は7月6日(水)予定です。


手入れの現場(左)と作業中の私。私の写真は、知り合いになった写真家の堂地さん提供。

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