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  環境問題を考える意味

 

 環境問題にからんだ記事が新聞に載らない日はない。ゴミ問題、ダイオキシン、地球温暖化。世紀末にきてついにわれわれは、環境問題が常に身近にあると感じられる生活をし始めた。しかし、ふとわれにかえったとき、なぜ自分がそんなことを気にしているのかわからなくなることがある。なぜ一所懸命にリサイクルしているのか、なぜ省エネしようとしているのか。こんなことをしても無駄ではないのか、あるいはまだまだ足りないのか。そうした不安に対処するために、いまいちど環境問題を考える意味について問い直したい。

■続かない、今の生活

 われわれの生活は、24時間365日、大量のエネルギーを消費し大量の廃棄物を出しながら成立している。家庭から出るゴミはひとりあたり1日平均1.1キロ。そのゴミがすでに行き場を失い、各地でゴミ処分場をめぐる紛争を引き起こしている。大量生産-大量消費-大量廃棄で成り立つ今の社会は、廃棄物の処理ができずに行き詰まろうとしている。同時に、莫大な量の化石燃料がエネルギーと製品の生産に消費され、それは最終的に二酸化炭素として大気中に放出され、地球の温暖化を引き起こしている。いずれの場合も、資源を消費して廃棄する完全に一方通行のシステムであり、資源が枯渇するか廃棄が行き詰まった時、そのシステムが崩壊することは明白である。今のわれわれの生活は、絶対に持続不可能なのである。

■恵まれた日本、遅すぎる認識

 幸か不幸か、日本は地理的にも経済的にも恵まれた国である。海に囲まれた国土には絶えず雨が降り砂漠化の危険はない。その雨は酸性雨の徴候を示しているものの、森林への影響は未だ顕著でなく山は緑に覆われている。オゾンホールの影響もない。食料を自給する力はなくても、経済の力で飽食できるだけの食料を輸入している。この国で実感できる環境問題は、せいぜいゴミ処分場の不足ぐらいだ。

 しかし、中国やアフリカの砂漠化はすでに深刻だ。ヨーロッパでは酸性雨により広大な森林が失われている。オゾンホールは高緯度地方の人々の生活スタイルを変えた。地球温暖化による海面上昇は、南海の島国やバングラデシュの沿岸部を侵食している。

 この先、地球温暖化は世界情勢を変えるだろう。食料生産が大きな影響を受け、食料支配による国際勢力図が変化する。混乱の中、すでに食料援助に頼り切っている多くの途上国で飢餓が蔓延する。社会不安の中、戦争も勃発するかも知れない。

 そのとき、日本も無事ではいられない。直接に環境問題の影響を受けなくとも、食料もエネルギーも自給できない国は、世界の混乱と社会不安の影響をもろにかぶることになる。今の日本は、持続不可能である。

■被害者=弱者と未来世代、加害者=わたしたち

 人々は環境問題に関して、まず被害者になりたくないと考え、自分に影響がなければ切実に感じないかも知れない。だが間違えないでほしい。われわれが被害者になるのはまだ先のことかも知れないが、われわれはすでに全員が加害者である。

 毎日の生活の一挙手一投足に至るまで、われわれの生活は環境に大きな負担をかけている。朝起きて蛍光灯をつける。そこで消費される電気は、二酸化炭素か、あるいは核廃棄物を吐き出しながら作られた電気だ。顔を洗う水も電気を使ってポンプで送られてくる。石鹸とともに流れていき、処理はされるにせよ川を汚す。朝食のリンゴですら、農薬と化学肥料で育てられ、石油を消費して輸送され、電気を大量に消費するスーパーで販売されたものだ。

 このわれわれの生活が引き起こす環境問題のしわ寄せを受ける被害者は誰か。それは、つねに社会的弱者である。とくに地球温暖化の場合、途上国の貧しい人々に最初にしわ寄せがあらわれるだろう。しかしそのことを日本で意識する機会はおそらくあるまい。

 さらに忘れてはならないのは、最大の被害者はこれからの未来世代であるということ。明らかに持続不可能な社会を、システムが崩壊するまで続ければ、その後苦しむのはわれわれの子孫である。そのことがわかっていながら放置することは、未来世代に対する重大な人権侵害である。

■持続可能な社会へ

 今の社会が持続不可能である以上、変化は遅かれ早かれ必ずくる。放置すればシステムは破綻し、崩壊した社会の中で生き延びねばならない。それを避けるためにできるだけの手を打って、人間の手で変化をコントロールし社会を適応させていく、それこそが環境問題を考える意味である。

 しかし、環境に負荷をかけずに人が生活することはありえない。環境問題はあまりにも現代生活と密接に関係しており、すべての問題を解決することはもとより不可能だ。一挙に解決をめざすのではなく、わずかずつでも環境への負荷を減らしていくことで時間を稼ぎ、社会の変化を緩やかにするよう努力するしかない。

 すべての市民が環境問題の加害者であるということは、全員がわずかな努力をするだけでも全体として大きな効果を生むことも意味する。リサイクルや省エネはそうした一歩だ。そしてその一歩が定着したら、また次の一歩を進んでいく。そのような積み重ねによって、展望は開けていくに違いない。持続可能な社会をめざして、環境問題への取り組みに終わりはない。

この文章は、環境問題に関するプロジェクトチーム(今の環境委員会の前身)が発行していた
「環境ニュース」という学内メールのNo.1(2000. 10. 27付け)に巖が書いたものです。


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2003. 2. 20.