芝居

おででこ芝居

 小学生の時、家から歩いて5分くらいの所に芝居小屋があった。旅回りの一座の芝居を母親に連れられて、よく見に行った。戦後まもなく、娯楽の少ないときで、近所のおばさんたちが連れ立っていったものだ。出し物は、おきまりの股旅ものだったと思う。合間にレコードをかけて踊りを見せる、といのも今と変わらないだろう。「切られの与三」もここで初めて見たと思う。
 わが芝小学校の裏は戸板女学校の裏に当たっていた。お袋は戸板裁縫学校を出ている。この戸板女学校と歌舞伎評論家の戸板康二とが関係あるとは、つい最近まで知らなかった。
 小学校の2学年下になる新克利くんが、ラジオドラマ「おらぁ三太だ」に出演するというので、町の話題になった。新くんの家は、学校のごく近くだったと記憶する。その後、本格的な俳優修業をして、映画やテレビで活躍。芝小学校の卒業生の中では、唯一の有名人ではなかろうか。
 中学校の1年か2年下に芝居小屋の小屋主の息子さんがいたが、踊りを習っていて、学芸会で披露していた。女形の修行をすると聞いた気がするが、どうなったろうか。
 我が家から数軒離れた本屋さん、柳田書店といったと思うが、そこの息子さん(といっても私よりかなり年上)が、水谷八重子に弟子入りして新派の役者になった時も町の話題になった。 
 要は、けっこう芝居には縁のある環境で育ったということをいいたいのですな。強引だけど。

団菊親父:役者と客の世代交代

 なにかというと9代目団十郎と5代目菊五郎を引き合いに出してくる歌舞伎の通を「団菊親父」というらしい。たしかずっと前の読売新聞のインタビュー記事だったと思うが、正宗白鳥が菊五郎について語るのを聞き手は当然6代目と受け取っていたのに、つじつまが合わないので、何代目の菊五郎でしょうかときいたら、憮然として、「5代目に決まっているでしょう」といわれたとのこと。さすがに私の世代になると、団菊を舞台で見たという人は周辺にいなくなっていた。「団菊親父」も死語であろう。
 我が世代の上の世代は、6代目菊五郎の世代になる。私の父親は、6代目よりも15代目市村羽左衛門の話をよくしていた。
 私が歌舞伎の魅力にとりつかれて、必死で見て回ったのは、二十歳の頃からのほぼ20年間、役者でいえば、11代目団十郎、2代目松緑、7代目梅幸、8代目幸四郎、17代目勘三郎そして中村歌右衛門らの時代である。今、歌舞伎界の中心はその御曹司たちで、さらに孫の世代が登場してきている。観客も順調に若返っているようだ。

天井桟敷

 東京で歌舞伎を見て回っていたときは、歌舞伎座、新橋演舞場、明治座、東横ホール、後には国立劇場も加わり、けっこう大変だった。いつも三等席で、歌舞伎座の幕見席もよく利用した。歌舞伎の舞台が夢に出てくることもあったが、必ず、はるか下方に舞台があった。せめて夢では一等席で見たいものだが、経験がないので、夢の制作者もサービスしようがないのだろう。
 いまでは、松竹座の一等席で見ることもある。しかし、記憶力が衰えてきたこともあるのだろう。最近間近で見た舞台よりも、数十年前に天井桟敷から見た舞台の方を鮮明に覚えている。とくに印象に残っていることを、記憶をたどりながら書いていきたいと思う。

間に合った名優・見損なった名優

 名人の芸はできるだけ生で見ておけ、と誰かがいっていた。歌舞伎の役者は、関西や前進座も含めて、全部見ているといってよいのだが、ほかの芝居にはなかなか足が向かない。新派では、かろうじて八重子と大矢市次郎の明治一代女を見ているが、花柳章太郎を見損なった。
 新国劇の島田正吾と辰巳柳太郎も見ておくべきだった。新派も新国劇もけっこうテレビ中継があったので、それで満足していたのが失敗だったな。
 新劇では、宇野重吉が間に合った。前進座のかん右衛門も出演していた芝居で、「天皇の靴」とかいうタイトルだった。これはよくできた芝居だと思うが、なぜかインターネットで検索してもわからない。
 松竹新喜劇の天外・寛美のコンビも間に合った。新橋演舞場での「夜明けのスモッグ」。これは今でも鮮明に憶えている。そのときの他の演目、「宗右衛門町ブルース」、それと「洗濯屋と炭屋」といったか、ロミオとジュリエットのパロディーも面白かった。
 文楽では文五郎に間に合った。最後の舞台だったと思うが、ほんの短時間で、しかも介添えがぴたりとくっついていて、四人遣いであった。文五郎の芸を見たことにはならないだろうが、文五郎を生で見たことには違いないのだ。
 名人の舞台を見たというだけで、人生、得した気になるし、自慢の種にもなる。

ジャーナル抜粋

 「独り言」の記載の中から、歌舞伎・文楽・能に関連した記事を抜粋し、ここにまとめておく。


2004年4月9日(金) 文楽「義経千本桜」
 朝の11時から夜の9時まで、どっぷり、人形浄瑠璃の世界につかってきた。床の直下の席なので、太棹が耳元で響く。「すしや」では住大夫が目の前で語っている。贅沢な話ではないか。できれば全段を住大夫に語ってほしかったが、終わりのころには疲れが感じられたので無理なのだろう。気の毒なのは「奥」を受け継いだ伊達大夫。続けて聞くと、住大夫との違いが歴然としてしまう。
 救いのない「すしや」の直後に、はなやかな「道行」。5丁の三味線が、がんがん鳴って気分爽快。こうした場面転換の見事さからいっても、よくできたドラマだと思う。
 「すしや」の権太の死は無駄死。初段、卿の君の死も無駄死。知盛と義経という逃亡者どうしの戦いでは、どちらが勝っても明日への展望がない。全編に「空しさ」がただよう不思議なドラマだと思う。
 「伏見稲荷」と4段目では、源九郎狐を遣う吉田文吾が、引き抜きやら宙乗りやらと大活躍。現在の文楽ではこうした演出が当たり前になっているが、気に入らない。人形遣いを見に来ているわけではないのだから、おとなしい演出にもどしてもよいのではないか。
 最近の文楽劇場は空いているという記事を見たように思うが、当日は昼夜ともよく入っていた。出し物によっては客が呼べるということだろう。文楽好きの私にしてからが、久しぶりなのだ。昼だけ、あるいは夜だけであっても、観劇は一日がかりなので、出かけるには覚悟がいる。それに見合う満足感が期待できなければ、切符は買わない。
 とはいっても文楽はいいもんだ。また通うことにしようか。

2004年7月28日(月) 新・海老蔵の弁慶
 松竹座、海老蔵襲名公演の夜の部へ。司書講習の授業を終えてからなので、二番目の「勧進帳」から観劇した。海老蔵の弁慶は、よかった。まだ荒っぽいが、これでいい。豊かな声量も魅力。仁左衛門の富樫は、いつものことながら美しく、立派。ただ声が枯れていたのが気になる。三番目は菊五郎の弁天小僧。段四郎の南郷力丸との掛け合いがしっくりしない。予定では南郷は団十郎だったとのこと。菊五郎と団十郎の掛け合いなら、もっと楽しめただろうに、残念。
 前夜のNHK教育テレビで、海老蔵の暫を放映していた。せりふが父親そっくり。現・団十郎のせりふ回しは、真似してほしくないのだが、当面、仕方ないか。

2004年8月6日(金) 文楽劇場「生写朝顔話」
 この演目はかなり前に見ているはずだが、印象が薄い。今回、見ても、三業の熱演の割に感動が乏しい。見せ場がいくつかあって、今でもそれなりに人気のある作品のようだが、原作の甘さが気になって、私は好きではない。

2004年11月12日(金) 四段目で鳴る携帯電話
 久しぶりに文楽で忠臣蔵の通し。あきれたことに判官切腹の場面で、携帯電話のベルが鳴った。これはもう、犯罪ですよ。夜の部でも鳴っていた。2回とも私の席からは離れたところで鳴っていたので、まだ救われたが、近くの席の人たちはたまらなかったろうな。高額の罰金をとって、他の観客に千円ずつ返金するぐらいのことをしてもよいのではないか。

2005年1月2日(日) 劇場中継「男の花道」
 夜、NHK教育TVで、松竹座初日昼の部「男の花道」を録画中継していた。歌右衛門役は鴈治郎、土生玄碩は我當。もとは講談だねというだけあって、まさにナニワブシの世界。好きですね、こういうストーリーは。
 この芝居は、主役の歌右衛門だけでなく、玄碩も良くないとつまらない。記憶に残るところでは、中村勘三郎(もちろん17代目)。かなりの年だったはずなのに、最初の場面で、いかにも若々しい医学生の雰囲気があった。最後の場面では、テレビドラマで見た島田正吾がよかった。天下の名医にふさわしい貫禄があり、やむにやまれず歌右衛門を呼び、それを後悔しているが、それでも歌右衛門が必ず来ることを疑わず、悠然と切腹しようとする。立派な玄碩だった。ところが両方とも、歌右衛門役が誰だったかおぼえていない。私にとっては、歌右衛門よりも玄碩の方が重要なのだろう。好きな芝居ではあるが、今回は松竹座まで足を運ぶ気にならない。
 この中継を見て愕然としたのが、鴈治郎がカメラのアップに耐えられなくなっていること。舞台で見る限り美しい女形も、ベテランになるとカメラのアップには耐えられなくなる。劇場がどよめくほど舞台では美しかった6代目中村歌右衛門でさえ、テレビでアップになると見るのがつらかった。しかし、40年以上前、一世を風靡した若女形「扇雀」は、どんなにアップで撮られても美しかった。テレビ中継では、ベテラン女形のアップは控えてもらいたいものだ。

2005年1月8日(土) NHKドキュメンタリー「鼓の家」
 新聞の番組案内を見て、38年前に見たドキュメンタリー「親子鼓」を鮮明に思い出した。あの女学生がお母さんになり、3人の男の子が、それぞれお囃子の道に進んでいる。これで田中傳左衛門家も安泰、よかったですね。
 「親子鼓」では、バレーだったかバスケットだったか、指を守るために運動クラブを止めさせられた娘さんが、うらやましそうに元の仲間の練習を見ている場面があった。それ以上に鮮明に覚えているのが、家の芸を捨てて研究職に就いた唯一の男の子。父親の12世傳左衛門には大学へのあこがれがあり、自分はその面での父親の望みをかなえているのだと言っていた。
 12世傳左衛門は娘さんに、繰り返し、「家元なんだから」、「家元らしく」と注意していた。さまざまな芸事の家元では、子供を小さいときから訓練し、そのおかげで日本の伝統芸能が保持されているのだろう。
 「鼓の家」で亀井忠雄師が「宝生の安宅は命がけ」といっていた。能楽は観世流を見に行く機会が多いが、これは是非とも、「宝生の安宅」を見に行かねばならない。

2005年8月5日(金) 住大夫芸談
 国立文楽劇場へ。お目当ては第二部「桂川連理柵」帯屋の段の住大夫。ついでに、といっては失礼だが、第三部「ウィークエンド文楽」の住大夫「文楽を知る」も拝聴してきた。この後、「合邦」の上演があるのだが、これはパス。何度も見ているが、好みの演目ではない。住大夫の20分程度の話を聞くために4千円使ったわけだが、フアンとはそんなものだろう。
 三和会の文字大夫のころから、新橋演舞場や三越劇場で聞いてきた。新橋演舞場で幕間にロビーに出てきたので、思わず「あっ、文字大夫だ」といったら、深々と挨拶してくれたことを今でも覚えている。三和会と因会が合併する直前だったと思うが、三越劇場で「妹背山」を合同公演で上演した。「山の段」は、かたや、津大夫と織大夫(現・綱大夫)、かたや、つばめ大夫(後の越路大夫)と文字大夫。三味線も人形も、因会と三和会の対決。すごい舞台だった。

2005年11月11日(金) 文楽「本朝二十四孝」
 文楽劇場で「本朝二十四孝」の通し。開演は10時45分、終演は20時55分。演じる方も大変だろうが、観る側だって大変なのだ。「十種香・奥庭」は歌舞伎でも文楽でも数え切れないほど観ているが、通しで観るのは初めてである。「十種香」の腰元・濡衣とはどういう存在なのか、ようやく理解できた。滅多に上演されないという「化性屋敷」は、やはり退屈。上演されない場面は、たいてい、それだけの理由があるものだ。

2006年1月13日(金) 松竹座「十六夜清心」
 松竹座・昼の部。最初は愛之助の義賢最期。仁左衛門そっくりの義賢であった。徹底的に仁左衛門の義賢を学んだようだ。松竹座では2003年の正月興行で仁左衛門が義賢を演じた。このときは最期に真っ逆さまに落ちる演出はなかったが、見ている方としても、やらないでくれてほっとした。愛之助はやってくれましたね。危険を伴う演技を見せるのも歌舞伎の魅力の一つだが、それは若い役者の任務だろう。
 お目当ては仁左衛門・玉三郎の十六夜清心。関西では初めてでも、東京ではこのコンビで繰り返し上演されているそうだ。それだけに二人とも手慣れたものだ。歌舞伎の役柄は演じた役者とセットになって記憶している。助六なら11代目団十郎、勘平なら11代目団十郎、与三郎なら11代目団十郎。ところが、清心はなぜか勘弥なのだ。おそらく、死のうとして死ねない笑いを誘う演技が、勘弥にうってつけだったからだろう。白蓮の役者に存在感があるかどうかでも面白さが変わる。記憶に残る白蓮は、17代目羽左衛門。「わるかぁねえなぁ」のせりふも生きていた。
 それにしても、歌舞伎のことになると我ながら多弁になりますな。

2006年1月20日(金) 文楽「妹背山・金殿」
 文楽劇場の昼の部で、「鰻谷」と「妹背山」四段目。住大夫フアンなら夜の部の「忠臣講釈」を聴くべきなのだろうが、あまりに話が暗いので敬遠した。正月興行には向いていないのではないか。綱大夫が熱演した「鰻谷」も、現代人の感性では受け入れるのが難しい。だからといって、こういう演目が消えるのも惜しい。せめて「忠臣講釈」は11月興行で上演するくらいの配慮がほしい。
 客席は満席状態。電話予約の二日目に予約したときには、すでに床近くはおろか、前方の席はほとんどなかった。団体が二つ入ったためということで、幕間の食事も食堂の外に臨時の席を作るほどだった。
 「妹背山・金殿」は咲大夫。この演目は歌舞伎でも文楽でも繰り返し上演されるが、何度見ても楽しい。

2006年2月11日(土) 三響会
 新聞のテレビ欄を見ていたら、午後のNHK教育テレビに「三響会・船弁慶・石橋」とある。何だろうと見てみたら、あの「鼓の家」の3兄弟の会だった。活躍しているのですね。能と歌舞伎、謡と長唄を融合させる試みであった。「船弁慶」は本行にかなわないが、「石橋」は歌舞伎も負けていないと思う。「石橋」の三味線とお囃子に、わくわくしてくる。

2006年2月12日(日) 長唄「勧進帳」
 大学の研究棟の同じフロアには、自分以外、誰も来ていない。昨日の「石橋」の長唄で刺激されていたので、これ幸いと長唄「勧進帳」のCDを思いっきり大音量で鳴らす。誰も見ていないので、手振り身振りを入れながら一緒にうたってしまう。これでは仕事にならん。「滝流し」を聞いたら、お遊びはおしまい。夕刻までに予定の作業を完了した。

2006年4月14日(金) 文楽「寺子屋」
 国立文楽劇場・昼の部、「菅原伝授手習鑑」の「車曳」、「賀の祝」、「寺子屋」。「桜丸切腹」が住大夫、「寺子屋」は綱大夫と嶋大夫。床の真下の席で義太夫の世界に浸ってきた。「寺子屋」は歌舞伎でも人気の狂言だが、最後の「いろは送り」がだれる。文楽では千代が悲しみの舞をみせるので、緊張が続く。回向の場面で役者が踊るわけにはいかないが、人形だと不自然ではない。これほど悲しく美しい舞はないように思う。ところが今回、千代を遣った文雀が寄る年波でよぼよぼ歩き。それはやむをえないのだが、千代まで年寄り臭くなっていたのには困った。ここはやはり、蓑助で見たかったな。

2006年8月4日(金) 文楽「夏祭浪花鑑」
 文楽劇場・夏休み公演・第2部。「道具屋」が咲大夫、「三婦内」が住大夫、「長町裏」が綱大夫と英大夫。いつものように床・直下の席で楽しんできた。
 前の席に40歳くらいの男性と小学生と思われる男の子がすわり、舞台を見ずに、ひたすら床の大夫を見ていた。男の子はたまに舞台にも目を向けていたが、男性の様子は半端じゃない。真剣な顔つきで大夫を見つめ続けていた。大阪にはこういう観客もいるのかと思っていたが、後になって気が付いた。どこかで見たような顔だし、第2部に出番のない若手の大夫さんだと思う。いつの日か自分で「夏祭」を語ることを考えているのだろう。この父親以上に男の子が頼もしい。大夫になろうと考えていなければ、こんな風に父親に付き合わないだろう。

2006年11月17日(金) 文楽「伊賀越・岡崎」
 国立文楽劇場で11月公演第1部を観劇。出演者から見ても第2部の「心中天網島」が今月のメインだと思うが、日程の都合もあってこちらにした。「伊賀越」といえば「沼津」、これは歌舞伎でも繰り返し見ているが、「岡崎」は文楽でも見たことがなかった。今の観客には納得しかねる筋立てなので、滅多に上演されないのも無理はないな。第1部の最後に「紅葉狩」があったが、歌舞伎ならともかく文楽で「紅葉狩」を見る気はないのでパス。

2007年9月1日(土) 河内長野市で文楽
 毎年、河内長野市ラブリーホールで市の主催する文楽公演があるが、見向きもしなかった。今年は簑助が「寺子屋」の千代を遣うというので、それをお目当てに見に行くことにした。文楽劇場では床の直下の席を取るのだが、今回は人形の見やすい真中前方の席。「寺子屋」の上演に先だって20分近い解説があったのには、まいった。文楽を初めて見る人が対象の公演ということなのだろう。床から離れた席で聴いて驚いたのは、綱大夫の衰え。声が届かない。織大夫時代から力強く響きわたる声が魅力だったのに。重要無形文化財保持者といっても、往年の力が失われてから年功序列で認定されることも多いようだ。「いろは送り」の千歳大夫も声が割れていた。簑助も気合いが入っていなかった。これでは初心者に文楽の魅力が伝わらないだろう。やはり文楽は日本橋で見るに限る。

2007年11月12日(月) 今日は一日、文楽三昧
 日本橋の文楽劇場。床の直下の席で朝から晩まで、たっぷり楽しんできた。本日は記録映像の撮影もあり、三業みな、気合いが入っていた。まずは吉田玉男一周忌追善狂言の「盛綱陣屋」。大好きな演目で、歌舞伎でも文楽でも繰り返し見ている。歌舞伎、文楽、それぞれ異なる面白さがある。玉男には申し訳ないが、当方にとっては、やはり11代目団十郎の盛綱。今でも目に浮かぶ。今回、盛綱を遣ったのは、玉女。今後を期待する、としておこう。千歳大夫は勢いで聞かせてくれた。昼の部の2番目は「酒屋」。「今ごろは半七さん」。嶋大夫のくどきに乗って簑助のお園が舞う。見ていて、はっと気が付いた。このHPの「芝居」のページに、文五郎の最後の舞台をお園と書いたが、そんなはずはない。「文五郎ならお園」という思い込みがあってそう書いてしまったが、訂正しておこう。昼の部の最後の景事「面売り」はパスして、外で一服(タバコではなくコーヒー)。
 夜の部の最初が、「源平布引滝」の四段目「松波琵琶」。 二段目「義賢最期」と三段目「実盛物語」は歌舞伎でも文楽でもしばしば上演され、いずれも好きな演目だが、四段目を見るのは初めてだった。ドラマとしては退屈で、興が乗ったのは三味線(清二郎)で琵琶の音を聞かせるところだけ。滅多に上演されないのも無理はない。
 夜の部の最後が玉男追善の「曾根崎心中」。玉男の徳兵衛ではお初を遣っていた簑助が九平次に回り、主役は玉女・勘十郎のコンビだった。若手を育てるということだろう。近松門左衛門の最初の心中物なので、なぜ死ななければならないのか、説得力に欠けるが、最後の道行きは美しい。「この世の名残夜も名残」。名文句を暗記したのは高校の時だったか、大学に入ってからだったか。二人が死ぬところまで見せなくてもよいと思うが、そうしないと今の観客は納得しないと解説にあった。国文の教師に連れられた学生たちとおぼしき集団をいくつか見かけた。戦後、近松の原作に基づいて復活した狂言だが、それでも原作のままではないことを、知っておいて欲しいと思う。
 9日の夕刻、竹本貴大夫が飛び降り自殺したとの記事が10日の新聞にあったが、劇場にはそれに触れた掲示がなかった。地味な大夫さんで、記憶に残る舞台はない。59歳になって芸の限界を見切ったのだろうか。気になる出来事である。

2007年11月17日(土) 秘曲「関寺小町」
 上町の大槻能楽堂へ。笛の野口傳之輔師の「舞台60年記念・能と囃子の会」が1時から始まっているが、授業の関係で着いたのは2時。「安宅」の山伏一行が関に差し掛かったところであった。弁慶は観世清和。大阪でもシテ方の人材に不足はないが、記念公演なのでわざわざ東京から観世宗家を迎えたようだ。
 今回の目玉は最後の大槻文蔵「関寺小町」で、笛はもちろんは野口傳之輔。「安宅」とは対照的な渋い能である。前半は庵の中の老女・小町と訪ねてきた僧との歌問答。後半は百歳の小町が笛に乗って舞う。ここがシテの見せ場であり、笛の聞かせどころである。シテ方にとっても笛方にとっても難しい曲なので、大槻能楽堂では46年ぶり、大阪全体で見ても28年ぶりの上演だという。実力では当代一の大槻文蔵、野口傳之輔両師の舞台はさすがであった。しかし、演者だけでなく見る方にとっても難曲だと思う。滅多に上演されないのも無理はない。

2008年1月3日(木) 大槻能楽堂・新春能
 最初は梅若六郎の「翁」。茂山逸平の三番叟が元気よく舞った。「二人袴」も、後見・千之丞、親・あきら、聟・童司と茂山千之丞家3代に、舅・茂山千作が加わる。座っている千作を見ているだけでも楽しくなる。芸の力なのか人間味なのか。最後の能「泰山木」は、先に金剛流で「泰山府君」として復活した世阿弥の能を、近年、観世流でも復活したもの。ここで「泰山木」はサクラのこと。明治以降、「タイサンボク」は北米原産の高木マグノリア・グランディフロラの和名として用いられているので、まぎらわしい。シテ(片山九郎右衛門)の泰山府君はあまり活躍せず、実質的にはツレ(片山清司)が主役。後ツレの天女の舞と咲き続けるサクラが祝い事にふさわしいので、復活能の割には金剛でも観世でも、よく上演されるようだ。今朝のNHK教育テレビでも金剛流「泰山府君」を放映していた。帰宅後調べたら、この作には世阿弥の庇護者・将軍義持の病気回復を祝う意図があったという説があるのを知った。その真偽は分からないが、咲き続けるサクラは何かを象徴しているのだろう。
 満席で、補助席まで出ていたが、それでも自主公演なので赤字らしい。古典芸能を維持するのは大変なようだ。

2008年1月8日(火) 文楽「国性爺合戦」
 文楽劇場の夜の部。久しぶりの「国性爺合戦」を床直下の席で楽しんできた。近松の名作の一つなのに、入りは半分程度。自分も前に見てからかなり時間がたっているので、細部をほとんど忘れている。「ニッポン」「ニッポン」と日本賛美が鼻につくが、これが大衆受けした要素でもあろう。中国を蔑視するせりふも多かったように記憶しているが、今日の舞台では気になるせりふはあまりなかった。記憶違いか、書き直されているのか。「楼門」の咲大夫が熱演。「獅子が城」の伊達大夫が病気で、代役は英大夫。後ろの席の男性(多分、年上)と、帰り際に話をした。彼によると、昔の若大夫のように腹で語っている大夫は、いまや伊達大夫だけだという。「若大夫とは、なつかしい名前を聞いたな」といったら、「知ってるのか」ということで、しばし若大夫についての蘊蓄を聞いた。文楽については、自分なんかより年季が入っているようだ。こういう「通」の話を聞くのは、実に楽しい。

2008年7月20日(日) 経政・遊行柳・鉄輪
 上町の大槻能楽堂へ。能楽協会大阪支部の公演で、喜多流の高林白牛口二「経政」、梅若吉之丞「遊行柳」、それと大槻文蔵「鉄輪」。どれも作品としては第一級とはいえない。それぞれと同じテーマで、清経、西行桜、葵上という名作がある。協会の公演なのでこういう地味な番組が組めたのだろう。「遊行柳」の笛は野口傳之輔師。最後のヒシギなど、77歳とは思えない力強さだった。

2008年8月12日(火) 大阪薪能
 4時半に生国魂神社へ。薪能の開演は5時だが、早めに行かないと後ろの席になって、ろくに舞台が見えないという。5時からの「高砂」は、神社の屋根に沈んでいく太陽を団扇でさえぎりながらの鑑賞となった。6時半に火入れがあって、「夕顔」と半能「融」と続くが、「夕顔」が終わったところで帰ることにした。暑さの中で演者は大変だろうが、見る方も体力勝負だ。外人さんも多かったし、年配者もいたが、当方は懲りた。

2008年11月7日(金) 文楽「引窓」
 文楽劇場の夜の部。切符は当日売りだったので、いつもの床直下の席はなくて、中央に3席ずれた席だった。当方が床の大夫さんを見ているのに、隣は舞台を見ているので、顔が向き合って具合が悪かった。「豊松清十郎襲名」で昼の部の方がにぎやかだろうと思うが、見応えのあるのは夜の方だろう。それに襲名記念の「奥庭狐火」で、またしても人形遣いの引き抜きを見せつけられるかと思うと、うんざりする。夜の部の「引窓」は住大夫。よくできた作品だし、住大夫もまだまだ元気だ。「八陣」は千歳大夫と咲大夫。よく知られた作品なのに、歌舞伎でも文楽でも見たことがなかった。名作とは言い難いが、時代物として楽しめる。文楽ではたまに上演されていたようだが、歌舞伎では戦後、ほとんど上演されていないのではないだろうか。平成5年に南座の顔見世で先代の仁左衛門が御座船の場だけを出し、今年の顔見世では我當が出すとのことだが、まぁ、出かけるほどのことはあるまい。

2009年1月16日(金) 松竹座「霊験亀山鉾」
 久しぶりに道頓堀の松竹座へ。夜の部の通し狂言、鶴屋南北作「霊験亀山鉾」。復活された作品にも興味あったが、それ以上に仁左衛門の悪役ぶりを見たかった。復活ものの舞台は概して淡泊で歌舞伎味に欠けるが、この狂言は以前、三宅坂の国立劇場で仁左衛門が出しているので、舞台もかなりこなれていた。四幕目「弥勒町揚屋」の「愛想尽かし」は「鰻谷」の妻八の世界を踏まえたものと解説にあるが、むしろ「伊勢音頭」の「油屋」に似ていると思った。ただし、切実感がまったく異なる。六幕目「中島村焼場」が南北らしくて楽しかった。主役の水右衛門は悪役といっても、敵討ちに来る相手を卑怯な策略によって返り討ちにするというだけ。国を乗っ取ろうとする仁木弾正や、己の立身出世しか考えない伊右衛門のような「悪」の凄味がない。ある程度は楽しめた舞台ではあったが、繰り返し上演されている名作を見たときのような充実感はない。上演されなくなった狂言にはそれなりの理由があることを再認識することにもなった。

2009年4月9日(木) 文楽「義経千本桜」
 日本橋の文楽劇場で通し狂言「義経千本桜」。昼夜で床直下の同じ席を取るため、この日になった。客もよく入っていた。開場25周年を祝って最初に「寿式三番叟」。三味線7張を清治が率いる。おなじみの曲が耳元でがんがん響き、陶酔のひとときである。夜の「道行初音旅」では三味線5張を寛治が率いていた。若手を訓練する意味があるのだろうが、三味線トップの二人の出番がこれだけというのは、もったいない気もする。「大物浦」の切が、切場語りに昇格したばかりの咲大夫。「すしや」の切が住大夫、奥が千歳大夫、千歳大夫に将来を期待しているということか。「河連法眼館」の切が嶋大夫。最後の拍手はどうしても狐忠信を遣う勘十郎に集中するので、自分は床に向かって拍手を送った。久しぶりに浄瑠璃の世界に浸って楽しかったが、朝11時から夜9時15分まで、休憩を挟んでも10時間は疲れる。

2009年11月13日(金) 文楽「芦屋道満大内鑑」
 久しぶりの文楽。ダーウィン・シンポの準備で劇場に出かけるような余裕はないのだが、夏の公演を見のがしたので今回は断固行くことにして前売りを買っておいた。座席はいつもの床直下。最後の道行では、清治の太棹が目の前でびんびん鳴っていた。
 この11月公演は夜の部の「心中天網島」の方がメインだろう。近松の名作だし、住大夫も出ている。歌舞伎と文楽で、いままでに繰り返し見てきた。記憶に残るのは先代鴈治郎の紙治と、先々代三津五郎の孫右衛門。紙治を取り巻く人々が皆、まともで、主人公の紙治だけがだらしない。そのだらしなさに共感できるため人気の作品になっているのだろう。今回はなんとなく気が重いので、昼の部の「芦屋道満大内鑑」にした。おなじみの「葛の葉子別れ」の段以外は、多分、どれも初めて見る場面だった。話の流れが理解できたし、道行の三味線にも堪能したので、出かけた甲斐があった。

2009年11月29日(日) 能三番と清元「三千歳」
 昼過ぎに上町の大槻能楽堂へ。能笛の野口傳之輔喜寿記念の会がある。最初の能は梅若六郎師の「鷺」、笛は野口亮師。六郎師は一時的に「玄祥」を名乗っているが、関係者ならとにかく、一般には混乱をもたらすだけだ。次は大槻文蔵師の「景清」。笛は傳之輔師、喜寿とはいえ笛の力は衰えていない。文蔵師も老残の景清を見事に演じていた。ただ、こちらに心身の余裕がないとこういうドラマは楽しめない。最後は宗家・観世清和師の「道成寺」で、笛は斉藤敦師。景清とは対照的に囃子方が大活躍し、ワキ方、狂言方も見せ場の多い賑やかな能である。ただ、後ジテの鬼女に凄みが感じられなかったのが残念だった。
 高額の入場料なのに満席に近かった。それでも大赤字だというのだから、古典芸能の伝承は楽ではない。
 帰宅後、就寝前にテレビを付けたら、故清元志寿太夫が「三千歳」をうたっているではないか。ちょうど、「一日逢わねば千日の」と、口説きの始まるところだった。11世団十郎と尾上梅幸の舞台を思い浮かべながら聞いた。「三千歳、もうこの世では、逢えねえぞ」と走り去る直侍の姿も浮かんでくる。能も結構だが、歌舞伎・文楽の方が自分の性に合っているようだ。

2010年1月8日(金) 文楽初春公演で「まき手ぬぐい」ゲット
 文楽劇場、昼の部。演目(二人禿、毛谷村、壺坂)にさほどの魅力はなかったが、正月気分を味わいに行った。ロビーには黒門市場から贈られた一対の大きな「にらみ鯛」が飾られていた。
 「毛谷村」も「壺坂」もすでに見ているはずだが、すっかり忘れている。ただ「壺坂」を見ていて気がついたのは、数十年前、新橋演舞場で見た文五郎の最後の舞台は、お里の針仕事の場面だったのではないかということ。今回は文雀、満員の観客も細かな針の動きに喜んでいた。存在しない糸が見えてくるから面白い。
 幕間に初春公演、恒例のまき手ぬぐい。今回、初めてこれをゲットした。「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」。多分、いつも床直下で見ている当方を目掛けて投げてくれたのだろうと思う。一昨年も同様だったが、手前で落ちてしまった。今年はいつもの席が取れず、一列前の席だったのが幸いしたか。
 4月公演は久し振りに、「妹背山」の通し。どんな舞台が見られるか。今からワクワクする。文楽の醍醐味は、なんといっても時代物の通しにある。

2010年4月16日(金) 文楽「妹背山」通し
 今から約4時間前、蘇我入鹿の御殿でお三輪が死んだ。赤川次郎がこの公演の「筋書」で簑助を讃え、「今から約3時間前、天神の森で一人の女が死んだ」と書いているのに倣ってみた。ただし今回のお三輪は勘十郎。簑助は必死で勘十郎を育てようとしている。
 今日は午前11時の開演から午後9時の終演まで、国立文楽劇場の床直下で過ごした。客の入りもよい。午前の部では、なんといっても「山の段」。住大夫と綱大夫の掛合になぜか物足りなさを感じたが、それでも舞台に引き込まれる。近松半二の作品自体がすばらしいのだ。人形浄瑠璃屈指の名場面だろう。夜の部の「芝六忠義」は忠臣蔵十段目と同じ趣向で、しかも子供を殺してしまうので不快感があり、好みではない。「道行恋苧環」では目の前で5丁の太棹が響き、気分爽快。最後の「金殿」では嶋大夫が熱演。今回、最も聞かせたのではないだろうか。嶋大夫にはチャリ場ばかり持たされているという印象があったが、いまや重鎮。嶋大夫と咲大夫、好みの分かれるところだろう。今度はこの二人の掛け合いで「山の段」を見てみたいものだ。
 通し狂言と行っても、大序と5段目が省略されている。以前、切られた入鹿の首が暴れ回る舞台を見た記憶がある。人形ならではの派手な場面なので、また見たい。「芝六忠義」を止めて5段目を出すという選択肢もあるだろう。

2010年4月30日(金) 歌舞伎座閉場
 本日は歌舞伎座で閉場式なるものが挙行されたとのこと。歌舞伎座の建て替えが始まるため、歌舞伎関係のテレビ報道や新聞記事が目立つように思う。東京の実家からなら地下鉄で2駅、毎月、時には月に数回も通っていた。3年後の新劇場もおおむね現状に近いらしいが、見に行きたいものだ。歌舞伎座閉場にともなって今年の団菊祭は松竹座で挙行されるが、プログラムを見ても、ときめくものがない。現団十郎にも現菊五郎にも魅力を感じていないためか。今、見たいと思う役者は、一に仁左衛門、二に勘三郎、三に海老蔵。暴れん坊の助六を演ずるなら、海老蔵がうってつけだろう。

2010年11月5日(金)文楽・錦秋公演
 前売りで入場券を購入していた文楽劇場へ。昼の部の中心は咲大夫の「日向嶋」。昭和34年、咲大夫の父の先代綱大夫が先代幸四郎と「日向嶋」を共演して話題になったが、その舞台は見ていない。というより、歌舞伎でも文楽でもいままで「日向嶋」を見る機会がなかった。前半は本行の「景清」と同様、みじめな景清を描く。よくぞこうした場面が大衆芸能のなかで残ったものだと思う。江戸時代の民衆はこうした場面をも楽しめる鑑賞眼があったといえよう。とはいえ最後はにぎやかにお召しの船でハッピーエンドと、まさに大衆芸能。いままで咲大夫には引っかかるものがあってのめり込めなかったが、今回は咲大夫の語る世界に浸ることができた。
 幕間にロビーに出ると、一幕見客の長い行列ができていた。「近頃河原の達引」には、住大夫、寛治、簑助、と三業それぞれのトップが出演するからだろう。猿廻しの段では寛治の三味線を耳元で楽しんだ。ツレが孫の寛太郎というのも嬉しい。
 夜の部の「熊谷陣屋」は珍しく「陣門の段」からの上演。歌舞伎でも文楽でも繰り返し見てきたが、本日の舞台には堪能できなかった。この後に「八百屋のお七」があるが、体調を考えて早めに帰ることにした。今回の公演では、咲大夫の「日向嶋」を記憶に止めておこう。
 とにかく文楽は楽しい。今後も年2回、春秋の公演を床直下で見ていきたい。我が晩年のせめてもの贅沢である。

2010年11月27日(土)能囃子の会
 阪神能楽囃子連盟「調和会」主催「能囃子の世界・和のしらべ」の切符があるので、大阪能楽会館へ。舞囃子がずらりと並んだ後で、能「清経」。囃子方の会にしてはプログラムに工夫がないと感じたが、今年で3回目、いろいろ試行錯誤をしているようだ。最後は囃子方が大活躍する「石橋」にしてほしかったが、一昨年の第1回ではまさに「石橋」が出ていたようだ。今年は笛を中心にしたので「清経」になったという。シテは長山禮三郎、老いを感じてしまうのが残念だった。長山家もそろそろ世代交代か。笛は野口傳之輔、他の笛方を圧倒する実力を見せつけられた。老いても力が衰えないのはすごいことだと思う。

2011年1月16日(日)大阪梅猶会・能楽公演
 大阪能楽会館へ。関西の梅若派の定期公演である。最初が「翁」(梅若善久)、次の「雲林院」(池内光之助)の笛は野口傳之輔師に代わって野口亮師。傳之輔師の名人芸を聞けなかったのは残念だが、亮師は立派に代役を務めていた。最後はにぎやかに「鞍馬天狗」(井戸和男)。「雲林院」も「鞍馬天狗」も桜の時期のもの。「新春」の公演としては不思議ではないのだろうが、寒波襲来の中では季節外れの感は否めない。

2011年1月28日(金)映画「わが心の歌舞伎座」
 ナンバ・パークスシネマで「わが心の歌舞伎座」。4時10分からの3時間、長い映画だったが楽しかった。東京に住んでいたときは毎月のように歌舞伎座に通っていたので、自分にとっても「わが心の歌舞伎座」である。わが思い出も記しながら映画について語ってみたい。
 映画の中心になっているのは11人の幹部俳優の思い出話と代表作の紹介である。その最初が芝翫、吉右衛門、そして團十郎。年齢や実績、名跡などさまざまな要素を総合し、松竹の立場で順序をつければこういうことになるのだろう。なんとなく納得できる。観客も少ないので代表作が上映されているときには、「中村や」「播磨や」「成田や」などと小さく声を掛けた。
 この映画を見ても今や芝翫が役者代表の地位にあることが分かる。当方が歌舞伎を見始めたころはまだ「福助」であったが、1967年に「芝翫」を襲名すると芸が大きくなり、あの顎も気にならなくなった。襲名が役者を大きくするということを思い知らされるできごとであった。
 11人のうち、芝翫に次ぐ年長者は富十郎。1964年に「鶴之助」改め六代目市村竹之丞を襲名したが、歌舞伎座での市村家当主羽左衛門の異様な挨拶は今でも憶えている。1972年に父親の名跡「中村富十郎」を継いだのは妥当な処置だろう。当方より10歳年上なのに元気な舞台を見せていたが、歌舞伎座とともにこの世を去っていった。思い残すことのない最後だったのではないだろうか。
 藤十郎も当方より7歳年上なのに元気だな。「藤十郎」という大層な名跡を継いだが、古くからの歌舞伎フアンにとってはいつまでも若女形「扇雀」のイメージではなかろうか。当方が中高生のころの「扇雀ブーム」もなんとなく憶えている。とにかく美しかった。
 玉三郎は今でも美しいが、1964年に「玉三郎」を襲名し、脚光を浴びた当時の人気はすごかった。
 当方が歌舞伎座に通っていたころ、団十郎、菊五郎、幸四郎、それと吉右衛門は、まだまだ駆け出しで、それぞれ新之助、菊之助、染五郎、そして萬之助だった。菊五郎劇団の三之助 (新之助・菊之助・辰之助)が勧進帳の三役を日替わり交代で務めたとき、歌舞伎座に何回行かなければならないかなんてことが話題になった。辰之助の独特の雰囲気が好きだったのに、若死にしたのが残念である。父親の松緑はさぞかし無念だったろう。
 勘三郎は1959年4月に3歳で勘九郎を襲名し、子役として大変な人気を得ていた。今でもやんちゃな男の子の気質が持続しているように思える。
 幸四郎一門が東宝に移籍したため、染五郎、萬之助の歌舞伎座の舞台は記憶に残っていないが、テレビ中継で見た二人の舞台「さぶ」は今でも憶えている。幸四郎は染五郎当時から現在まで洋物の舞台が多く、その分、歌舞伎味が乏しくなっている。この映画の中で幸四郎は「歌舞伎を演劇に高めたい」といったことを語っていたが、やはり西洋かぶれしているのだ。こんな姿勢が歌舞伎をつまらなくしているのだろう。歌舞伎役者としては吉右衛門の方が重視されるのは当然である。
 孝雄時代の仁左衛門も歌舞伎座で見ているはずだが、記憶に残っていない。当方が仁左衛門を中心に歌舞伎を見るようになったのは、1998年に仁左衛門を襲名して以来である。襲名興行は1月2月が歌舞伎座で、4月5月が松竹座だった。なぜ大阪が後なのか、いささか不満であった。
 11人の最後、梅玉については何も記憶にない。歌右衛門の舞台にはいつも二人の芸養子がちょろちょろ出ていたが、そのうちの一人が梅玉になったようだ。どうして大幹部の一人になったのか不思議な気がしないでもない。
 この11人に加えて、猿之助と雀右衛門が舞台映像だけで紹介されている。こうした行事の時、猿之助の扱いはいつも微妙である。先代猿之助(猿翁)が元気なころも、歌舞伎座の舞台での猿之助一座の扱いは恵まれたものではなかった。観客の立場からも、猿之助の出番がこれだけでいいのと思うこともしばしばあった。
 映画では11代目団十郎など、故人についても簡単に紹介されていた。当方の歌舞伎座についての思い出は彼らと結びついているので、もっと映像を見たかったが、この映画では無理な注文なのだろう。
 舞台裏もかなり丁寧に紹介されていたが、工事中の3年間、裏方さんたちはどこで何をしているのだろう。そんなことも気になった。演劇評論家の故人アンツルこと安藤鶴夫が、裏方さんたちの苦労を見ると芝居に対して厳しい批判ができなくなるので舞台裏は見に行かない、といっていたことを思い出した。
 忠臣蔵四段目、判官切腹の場面では、観客席からまったく見えないのに、舞台裏で若侍たちが一斉に平伏していることを初めて知った。これが伝統芸能のすごさであろう。役者たちがこの場面をいかに大事にしているかも分かる。観客も緊張して舞台を見守ろうではないか。お菓子を食べたり、ケータイを鳴らすなど、もってのほかだ。
 大幹部だけでなく若手や大部屋さんたちの声も聞いてみたかったが、松竹の制作なので誰にしゃべらせるかなど、難しいこともあったのだろう。
 残念だったのは、観る側の視点がまったく欠けていること。劇場に入るときや幕が開くときのときめき、幕間の食事や売店を見て回る楽しみ、終幕後の満足感、あるいは幕見席への長い階段の上り下りなど、テーマはいくらでもあっただろうに。
 こうした不満がないではないが、久し振りにわくわくしながら映画を見た。とにかく歌舞伎は楽しいし、それも歌舞伎座で見る歌舞伎が一番だ。役者たちも特別な舞台ではいつも張り切るので、同じ出し物でもすばらしい舞台になる。2013年の再開場の時には、なんとか見に行きたいものだ。

2011年2月10日(木)松竹座の仁左衛門
 本日は朝から夜まで松竹座。昼の部は「彦山」の通し。通しといっても見応えあるのは「毛谷村」だけ。歌舞伎でも文楽でも「毛谷村」は見ているが、いつどこで主役は誰であったかは憶えていない。ただ六助もお園も木訥という印象が残っているが、今回は仁左衛門の六助も孝太郎のお園も颯爽としていた。松嶋屋がやるとなんでも格好良くなってしまう。仁左衛門は六助が初役とは意外だった。仁左衛門は六助だけなので、芝居が始まってもがなかなか登場しない。この通し狂言は、出番の多い孝太郎と愛之助(京極内匠)のためのようにも思える。
 昼の部には舞妓さん芸妓さんが団体で来ていたので、幕間に目の保養をさせてもらった。
 夜の部は南北の「盟三五大切」の通し。これは1976年に辰之助、孝夫時代の仁左衛門、それと玉三郎によって復活され、今回が11回目の上演であるという。だらしのない浪人がだまされた恨みで殺人鬼になるのが見所だが、これに「五大力」と「忠臣蔵」をからませている。忠臣蔵七段目や勘平切腹のもじりもあって面白い。
 芝居見物に一日を費やして、堪能したとはいえないが、損はしなかった。

2011年3月18日(金)中川右介『團十郎と歌右衛門』幻冬社新書 2009
 河内長野駅前の書店で均一価格の古書を見ていたら、標記の本が目に付いた。古書の扱いではあるが、明らかに新品であった。後で気がついたのだが、表紙などをよく見ると、きわめて小さく、名前の横に「十一代目」、「六代目」とあった。書誌データ上はこれを付けたものがタイトルになるようだ。1951年の歌舞伎座再建から1965年の十一代目團十郎の死までの歌舞伎界の裏事情を書いている。当方が歌舞伎座に通ったのは大学に入学した1957年から大阪に来る1977年までの20年間であったので、同書の後半は自分の記憶と重ねながら読んでいった。
 團十郎は数々のトラブルを引き起こし、孤立していったが、フアン層は当時から同情的で、「市川團十郎」の権威を養子として守るための奮闘と理解していたと思う。本書の著者も「あとがき」で、「『ブランドイメージ』という言葉があの時代に定着していれば、彼の言動はもっと理解されたはずだ」(p.358)と述べている。ただ歌舞伎座の楽屋をめぐる騒動については、ここに書かれていることと自分の記憶とがかなり違う。いずれ確かめてみたい。
 歌右衛門の権力把握の過程については初めて知ることが多かった。本書の売りの一つは、六代目歌右衛門が五代目の実子ではなく、養子であることを公にしたことにあるようだ。関係者の間では周知のことなのに、本人は実子のように振る舞っていた。そのことを無視しては歌右衛門を理解できないと著者はいう。
 著者はスキャンダラスな話をなんでも書いているわけではない。四代目時蔵の急死についても、「睡眠薬の飲み過ぎ」(p.234)とだけ書いている。この時蔵は美しかった。美しい役者が出てくると観客席はどよめくものだが、何の役だったか、時蔵が花道に登場すると、あまりの美しさに観客席が一瞬、静まりかえったこともあった。「早すぎる死」として惜しまれる歌舞伎役者は、一に十一代目團十郎(1965年、56歳)、二に四代目時蔵(1962年、34歳)、三に初代尾上辰之助(1987年、40歳)であろうか。
 著者は團十郎の舞台を一度も見ていないし、歌右衛門も一度だけだという。歌舞伎に詳しいわけではない。1959年に先代幸四郎が「日向嶋」で文楽と共演したときの記述では、「綱太夫」と表記している。文楽では「大夫」と表記し、歌舞伎の演奏者になると「チョボ」すなわち点が付いて「太夫」と表記する。ワープロ入力ではうっかりするところだが、同書の場合はうっかりミスではなく、著者も編集者もこのことを知らなかったようだ。以前は「チョボ、チョボ」という掛け声をよく耳にしたが、最近は聞かない。差別用語とみなされたのだろうか。
 歌舞伎の通が読んだら、同じようなミスがほかにもあるかもしれない。だからといって本書の価値は落ちないだろう。文献だけでよくここまで書けたものだと思う。十一代目團十郎が亡くなって歌右衛門が歌舞伎界を牛耳るようになってから歌舞伎が変容し、庶民の娯楽ではなくなったと著者はいう。これが正しいかどうか判定しかねるが、歌舞伎は美しく楽しいものであってほしいと思う。
 この5月の松竹座は団菊祭だというのに、少しも食指が動かない。当代の團十郎にも菊五郎にも魅力を感じないことが大きいが、著者の指摘していることも関係あるかもしれない。

2011年4月2日(土)能「頼政」と狂言「通圓」
 梅若基徳が主宰する「能を観る会」に大阪能楽会館へ出掛けた。能「頼政」とそのパロディ狂言「通圓」とが続けて上演されたが、これは珍しいことらしい。「頼政」に詳しくないと「通圓」を楽しむのは難しい。こういうパロディが作られるのは、かつては能「頼政」が観客層になじみの曲であった証なのであろう。
 会の最後は基徳・雄一郎の親子で半能「石橋」。人気の曲でしばしば半能で上演されるが、いきなり獅子の舞になるのは、第九でいきなり第四楽章が始まるような気分である。できれば、前シテ、間狂言で、しだいに期待を盛り上げてほしいものだ。

2011年4月8日(金)文楽、源大夫・藤蔵のダブル襲名
 文楽4月公演の昼の部へ。源大夫・藤蔵の親子ダブル襲名のため、ロビーにも襲名公演らしい華やかさがあった。ところが源大夫当人は病気のため、初日から口上に並ぶだけで、襲名披露の「実盛物語」は英大夫が代役で務めていた。織大夫時代の源大夫なら打って付けの演目だろうが、今なら英大夫の方が迫力があると思わないでもない。住大夫は「瀬尾十郎詮議の段」を語ったが、衰えを感じない。大正生まれというのに、すごいことだ。
 「実盛物語」は歌舞伎で観ている方が多いだろう。記憶に残るのは寿海の実盛。この実盛と一条大蔵卿とが寿海の芸風に最も合った役柄ではなかったろうか。ところで歌舞伎の「実盛物語」では竹本の「物語らんと座をかまえ」で、観客も、いよいよ始まるぞと構えるのだが、院本にはこれがないことに今回気づいた。院本にない詞章を竹本に付け加えることもあるとは、知らなかった。
 昼食休憩の後は、ご存じ「酒屋」。クドキは津駒大夫に寛治、お園は文雀。観客がみな、引き込まれていると感じた。やはり、名場面である。この後に、原作にはない道行が出たが、これはいらないな。

2011年4月10日(日)ジャーナル抜粋の加筆
 このサブページ「芝居」には、11代目団十郎の思い出などを綴っていくつもりだったが、こと改めて書くのは難しい。ただ、ジャーナルの中で折に触れて書いているので、歌舞伎・文楽・能に関する記載を抜粋し、「芝居」のページに貼り付けることにした。こういう作業は苦ではない。まとめたものを改めて読み直してみると、文楽は小まめに観ているのに、歌舞伎はあまり観ていないことがはっきりした。歌舞伎よりも文楽の方に魅力を感じるようになったためだが、もう少し、歌舞伎に積極的になってもよいかなと、若干、反省している。

2011年6月3日(金)文楽予約
 本日は国立文楽劇場・夏期公演の予約開始日である。ネットでの予約を試みたが座席を選ぶことができない。これでは駄目だ。結局いつものように電話で第2部「絵本太功記」の床直下の席を確保した。この席は空いていることが多く、当方には都合がよいが、それだけ文楽フアンが少ないということなので寂しい気もする。今回の公演では住大夫も簑助も第3部「心中宵庚申」に出るが、世話物は好みではない。この年になったら欲張らず、好きなものだけを見に行きたい。「絵本太功記」は文楽でも歌舞伎でも何回か見ているが、見応えあるのはやはり「夕顔棚」と「尼ヶ崎」。今回は「夕顔棚」が津駒大夫、「尼ヶ崎」の切りが咲大夫。どんな舞台になるか、楽しみである。
 松竹座でも7月に仁左衛門で「伊勢音頭」の通しが出る。「身不肖なれども福岡貢」を演じる役者としては今や仁左衛門しか思い浮かばない。これはなんとしても見に行かねばならない。7月は上旬に歌舞伎、下旬に文楽と楽しみが待っているので、気持ちも高揚してくる。

2011年6月18日(土)小鼓方大倉流の追善会
 大阪能楽会館の「十五世大倉長十郎二十七回忌追善会」へ。席は正面、それも白州梯子の真ん前。この席に座るのは初めてだし、今後もないだろう。舞台を見るのには最高の席ではあるが、舞台からもよく見えるはずである。疲れたらちょっと一寝入りというわけにいかないのがつらい。
 囃子方宗家の追善会なので、大阪のシテ方と囃子方が一調や舞囃子につぎつぎと登場してくる。能は片山幽雪の「景清」と大槻文蔵の半能「融」だけであったが、それでも3時に始まり、15分の休憩をはさんで終わりが7時半では見る方も疲れる。目立つ席なので中抜けして一休みというわけにもいかない。
 舞囃子の最初が長山禮三郎の「海士」。昨年11月の「清経」では老いを感じたが今回はそれがない。あの時は体調が悪かったのだろうか。「景清」では、ほんの一瞬とはいえ、シテの後見がプロンプターにもなったのにはびっくりした。歌舞伎では珍しくないが、能では初めてのことである。ほとんど動きのない「景清」を選んだのも、80歳の幽雪を考慮してのことなのだろう。
 「景清」の小鼓は荒木賀光、「融」は清水晧祐と大倉流の重鎮が出演し、宗家の大倉源次郎は一調「夜討曽我」(片山九郎右衛門)だけであったが、迫力ある謡との掛け合いはさすがであった。
 あまり気乗りがせず、チケットを無駄にできないのでしぶしぶ出掛けてきたが、それなりに楽しむことができた。
 
2011年7月15日(金)仁左衛門の伊勢音頭
 松竹座の夜の部へ。最初が「車引」。歌舞伎では松・梅・桜の三兄弟で花形役者を競わせるのが面白いが、今回も進之介、愛之助、孝太郎と、松嶋屋の御曹司の揃い踏みである。ロビーで「愛之助の松王が見たかった」と話していた年配の女性がいたが、たしかに進之介と愛之助は逆の方が柄に合っているように思える。時平は我當。今回に限らず、時平の豪快さは文楽にかなわない。文楽で時平の大笑いを聞きたくなった。
 30分の幕間をはさんで、いよいよお目当ての「伊勢音頭」の通し。歌舞伎座で何度か見ているが、大阪に来てからは初めてだと思う。「追っかけ」「油屋」「奥庭」と、歌舞伎ならではの楽しい夏芝居である。せっかくの機会なのだから「太々講」も出してほしかったが、今回の顔ぶれを見ると正直正太夫を演じる役者がいそうもない。仁左衛門の貢は繰り返し演じているのだろう、手慣れた感じで、殺しの場面でも凄惨さよりも格好良さが目立つ。弥十郎のお鹿は、いくらなんでもごつすぎないか。秀太郎の万野が初役とは意外だったが、憎々しさが物足りない。万野よりも二役で演じていた今田万次郎の方が柄に合っているようだ。この万次郎の台詞回しが、扇雀、ではなかった籐十郎の台詞回しとよく似ていると思った。おそらくこれが本来の大阪言葉なのだろう。役者たちがみな東京で生活するようになると、大阪言葉の微妙なニュアンスが失われていくのではないだろうか。

2011年7月29日(金)これぞ文楽・太功記十段目「尼ヶ崎」
 暑いさなかの昼前に家を出て、国立文楽劇場へ。2時開演の第2部は絵本太功記。「配膳」、「光秀館」、「妙心寺」、「夕顔棚」、「尼ヶ崎」。「夕顔棚」と「尼ヶ崎」は歌舞伎でも松緑の光秀などで繰り返し見てきた。「配膳」・「光秀館」・「妙心寺」も文楽で見ているはずだが、少しも記憶がもどらない。初めて見るのかもしれない。このうちで、とくに「妙心寺」は十段目がよく理解できるようになるし、光秀が馬に乗る幕切れは爽快である。しかしなんといっても十段目。「尼ヶ崎」の切りは咲大夫、三味線は燕三。「現れ出でたる武智光秀」から、「女わらわの知る事ならず」、物見、幕切れの久吉との対決。わくわくしながら眼は舞台に釘付け、床直下の席なので耳には義太夫が降ってくる。咲大夫と燕三に拍手。光秀を遣った玉女にも、とりあえず拍手しておこうか。
 久し振りに夢中になり、舞台に堪能した。これだから文楽はやめられない。芝居の後でこの興奮をだれかと語り合いたくなるが、一人での観劇は気楽な反面、それができない。せめてジャーナルに綴っておこう。
 11月の文楽は「鬼一法眼三略巻」の半通し上演。9月には松竹座に海老蔵が出る。12月には今年も忠臣蔵映画が掛かるようだ。当面、月に1回程度のお楽しみが続けられそうだ。

2011年8月5日(金)松竹座予約
 9月の松竹座・歌舞伎公演の予約開始日なので、午前中にネット予約を済ませた。久し振りの海老蔵である。昼が「勧進帳」の弁慶、夜が「若き日の信長」。昼夜ともに行くほどではないが、どちらかにするのも迷う。結局、海老蔵時代の11代目団十郎のあの激しい台詞、「こうと知ったら俺の心底、組み敷いてでも説き聞かせたものを」を今の海老蔵で聞いてみたいので、夜に行くことにした。できれば「勧進帳」も幕見で見たいものだ。

2011年9月2日(金)チケット引取り
 高島屋のマイセン展を見てから松竹座へ。ネット予約していたチケットを切符引取機で取り寄せて、昼と夜の出し物を取り違えていたことに気がついた。いままでこんなことはなかったのに、情けない。どうしても海老蔵の「信長」を見たいので、昼の部も買うことにした。昼も夜も見なさいという神様のお導きと解釈しよう。

2011年9月4日(日)国立文楽劇場 友の会
 日曜日なのに書留郵便で「友の会」の会員証が送られてきた。今年の3月までは文楽のチケットも私学共済の割引を利用していたが、それが駄目になったので「友の会」に入会することにした。昨日、会則などが別便で届いていたが、その中に分厚い冊子の「インターネット購入ガイド」があった。こんな冊子がなくても、ネットの利用者なら購入できる。当方も一度、試みたが、このシステムでは座席を選ぶことができない。芝居好きにはそれぞれ好みの席があるので、このシステムは利用しないだろう。松竹にならって、ネットでも座席が選べるようにしてほしいものだ。

2011年9月16日(金)海老蔵の「若き日の信長」
 松竹座の昼の部と夜の部を見る。昼夜とも出し物は三つで、最初はともに右近を主役とした猿之助一座の演目である。昼が先代猿之助の演じた「悪太郎」、夜が当代猿之助演出の「華果西遊記」。後者はもっぱら見た目の面白さをねらったもの。これが「猿之助歌舞伎」なのであろうが、当方の好みではない。
 昼の部の2番目が、お目当ての「若き日の信長」。11代目団十郎で何回も見ていると思い込んでいたが、番付掲載の上演記録を見ると、歌舞伎座での上演は昭和27年10月の初演の後、昭和37年11月だけである。中学2年生の時、この初演時に家族に連れられて初めて歌舞伎座を訪れたのであった。当日の他の演目については何も憶えていないが、「若き日の信長」には感銘を受けたようである。その10年後にもう一度見ていることになるが、細部まで記憶に残っており、まさか見たのは2回だけだったとは思わなかった。
 歌舞伎愛好者が多いとはいえ、59年前の「若き日の信長」の初演を記憶している人はまれであろう。ちょっぴり自慢できるかな。
 当代団十郎の「信長」は見ていないので、49年振りに孫の海老蔵で見たことになる。舞台はおおむね記憶通りだったが、肝心の台詞は記憶と少し違っていた。海老蔵の信長には少々、違和感がある。先代団十郎の信長はもっと颯爽としていたと思う。海老蔵の信長は暗すぎる。声の質もあるのかもしれないが、父・当代団十郎を手本にしたための違いではなかろうか。次の機会には、さわやかな信長を期待したい。
 昼の部の最後は団十郎の「河内山」。これも先代団十郎で何度も見ている。当代はコミカルに演じようとしているようだ。
 夜の部の2番目が「勧進帳」。海老蔵の弁慶は、2004年7月の海老蔵襲名公演の時よりも当然のことながら成長している。歌舞伎の醍醐味に浸って大満足。今日はこれで帰ろう。最後の「幸助餅」は、先日、落語で聞いたばかりだし、歌舞伎で見るまでもないだろう。

2011年11月4日(金)文楽「鬼一法眼三略巻」
 国立文楽劇場の昼の部。付け足しの「鞍馬山」、二段目「書写山」、三段目「清盛館」と「菊畑」、五段目「五条橋」という半通し上演である。歌舞伎では「菊畑」を何度も見てきたが、文楽では明治37年以来、この「菊畑」を含めて上演されず、昭和41年の咲大夫襲名のおりに復活上演されたとのことである。この年の11月に三宅坂の国立劇場に咲大夫の襲名公演を見に行ったことは憶えている。父親の綱大夫と並んで堂々と挨拶していた。綱大夫の頭をちらっと見て、「親の七光り、というより八光のおかげで」とかいっていた。ところが肝心の舞台の方はまったく記憶に残っていない。自分でも、何故だ、といいたくなる。
 当時から咲大夫は次代を担う大夫として注目されていたが、順調に成長してきたのではないだろうか。襲名時の公演では掛け合いで「菊畑」の虎蔵を語っただけだが、今回は「菊畑」全段を一人で語っている。1時間の長丁場をたっぷり語った。三味線は燕三。この舞台は記憶しておきたい。「菊畑」全段を語らせるというのは、綱大夫襲名に向けての布石であろうか。
 このところ、演目を選んで文楽劇場に出掛けている結果として、住大夫と嶋大夫、それと簑助の舞台に出会っていない。来年の春か秋の公演では、昼夜通しの時代物を出して欲しいものだ。

2011年12月26日(月)岩井半四郎と片岡芦燕
 朝刊に二人の訃報が掲載されていた。岩井半四郎が最も輝いていた時期、東横ホールのスターだったころは知らない。憶えているのは、テレビ中継で日劇ダンシングチームに混じって踊っていたことである。なぜ歌舞伎を捨てて東宝に走ったのだろう。猿之助一座の花形の座を団子(現・猿之助)に奪われたためと聞いたことがあるが、東宝に移ってからの見通しはあったのだろうか。
 幸四郎一門は東宝への一時移籍も傷にならなかったが、岩井半四郎の場合は実力があるのに二度と大きな役を演じることがなかった。本人にしたら不本意な役者人生だったろう。
 片岡芦燕の舞台はかなりの数を見ているはずだが、印象に残っていない。12世仁左衛門の三男という割には地味な役者だった。歌舞伎名鑑の解説などによると、欲のない人だったらしい。半四郎とは違って、自分の役者人生はこんなものさと、不満はなかったのかもしれない。

2012年1月6日(金)海老蔵の「北山桜」
 松竹座の夜の部。海老蔵が五役を演じる「雷神不動北山桜」である。二代目団十郎が道頓堀で初演したものだという。昭和42年に松緑が国立劇場で復活上演した時の舞台を見ているはずだが、ほとんど記憶に残っていない。ただ、勘弥が面をかぶって登場する復活劇の記憶があるのだが、多分、それがこの時の早雲王子だったのだろう。
 通し狂言といっても見せ場は「毛抜」と「鳴神」である。おおらかな粂寺弾正を演じるには、年を重ねることも必要なのだろう。10年後、20年後に海老蔵の弾正を見たいものだが、こちらが生きているかどうか。
 「鳴神」で唖然としたのは、鳴神上人が目覚める時の台詞、「ナンダ、雨が降る」「ナンダ、雷が鳴る」「コリャなぜ雨が降る。ナゼ雷が鳴るやい」が無かったこと。鳴神が怒り狂うきっかけとなる重要な台詞である。今回の台本で省かれたのか、役者のミスなのか。いずれにせよ、「木戸銭返せ」に相当する失態である。
 大詰「不動明王降臨の場」もいただけない。御簾内で演奏する大薩摩にかぶせて、スピーカーから大音響の効果音を流していた。これは歌舞伎だぞ。大薩摩の出語りのほうがよほど観客が喜ぶのに、馬鹿な演出をしたものだ。
 市川宗家としてこれからも繰り返し上演するのだろうが、まともな演出になることを期待したい。

2012年1月6日(金)その2 「修禅寺物語」と「関の扉」の思い出
 松竹座・昼の部には行かなかったが、出し物は、「吃又」、「修禅寺物語」、それと「関の扉」である。「吃又」は歌舞伎でも文楽でも何度か見ているが、好きになれない演目の一つである。
 「修禅寺物語」を最初に見たのは、多分、昭和38年3月の歌舞伎座、先代猿之助の夜叉王であろう。まさに名作、今でも夜叉王の台詞はほとんど、そらんじている。上演記録を見ると当代猿之助が一度も演じていない。なぜなのだろう。
 「関の扉」を初めて見たのは、昭和37年1月の新橋演舞場、菊五郎劇団の公演であった。演じたのは、松緑、梅幸、左団次。生化学の実験で徹夜した後なので、寝ぼけ眼だった。ところが、「関の扉」の幕が開いてしばらくすると、夢のような世界が広がり、眼もしっかり明いて舞台に引き込まれていった。古風で、不思議な魅力をもつ舞踏劇である。当時、「関の扉」は吉右衛門劇団が得意とする演目であり、評価も高かった。その幸四郎らの舞台も見ている。ほかの役者でも何度か見ているが、最初に見た時の感動はもどってこない。

2012年2月9日(木)「天守物語」「すし屋」「研辰の討たれ」
 難波に出るのは先月6日以来である。まずはパークス・シネマで玉三郎の「天守物語」を見る。玉三郎の代表作の一つといわれているのに舞台を見ていない。せめて映画ででも見ておこうと出掛けた。2011年7月の歌舞伎座公演を撮影したもので、撮影を意識してか、端役に至るまで気合いが入っていた。泉鏡花の幻想的な世界を楽しめたが、映画ではアップが多く、舞台で見るのとはかなり異なるだろうと思われる。一度は舞台で見たいものだ。
 一服してから松竹座の夜の部へ。今月は、染五郎・愛之助・獅童の花形歌舞伎だが、彼らを見るというよりも「研辰の討たれ」を見ておきたかった。珍しい演目ではないのに、なぜか、これも見る機会がなかった。この芝居はもっぱら主役・研辰(とぎたつ)の軽妙な演技を楽しむもので、今回の主役は染五郎。楽しかったが、勘三郎ならもっと楽しめる気がする。
 夜の部のもう一本は、愛之助の「すし屋」。どうしても二代目松緑や先代勘三郎の権太と比較してしまう。愛之助が彼らのレベルに達するには、まだ時間が掛かりそうだ。「すし屋」は単独で上演されることが多いが、「椎の木」と「小金吾討死」に続けてみないと話の展開が分かりにくいし、なにより権太の「女房、せがれ」への情愛が伝わらない。なぜ最後に呼び子の笛が出てくるのかもわからない。
 この笛を母親ではなく原作通りに権太自身が吹いていたが、これは関西の型。ほかにも、すし桶の取り方、女房・せがれの顔を上げさせる時など、松緑の演じた菊五郎系の型とは異なる場面がいくつかあった。愛之助には関西の型を継承しようする意欲があるのだろう。期待しよう。

2012年4月13日(金)文楽「加賀見山」
 朝、散り始めた桜並木を通ってバス停へ。天下茶屋駅で一息入れてから、日本橋の国立文楽劇場へ。第1部「加賀見山」の「草履打」から「奥庭」仇討ちまでは歌舞伎でもおなじみだが、今回は最初に本筋の加賀騒動関係から「又助住家の段」が上演された。文楽でも歌舞伎でも見た記憶がないと思っていたら、筋書きの解説に「稀曲」とあった。忠義のために親子3人が死んでいく話だが、悲劇としての説得力がない。あまり上演されないのも当然だろう。ただし、咲大夫はこの作品にはもったいないくらいの力演であった。
 「草履打」からは歌舞伎でも何度か見ている。江戸時代は御殿女中が宿下がりする桜の時期に上演されていたという。古参の岩藤が、新参の尾上をいじめる。現在でも見聞きする話である。
 「長局の段」は尾上が源大夫、お初が千歳大夫。小さな声でぶつぶつ語っている源大夫には困った。退屈して筋書きの解説を読んでいた。人間国宝だからといって、いまや銭を取れるような状態ではあるまい。
 4月公演はこの第1部だけのつもりだったが、後日、第2部の「金閣寺」と「桂川」も見ることにして前売りを買ってしまった。久し振りに住大夫と嶋大夫を聞きたくなったし、橋下市長の愚劣な文楽いじめに、文楽の将来に不安を感じるようになったこともある。

2012年4月27日(金)文楽「金閣寺」と「桂川」
 昼前に文楽劇場へ。20日に昼夜が入れ替わって今日は「金閣寺」と「桂川」が昼の部である。「金閣寺の段」の呂勢大夫も「爪先鼠の段」の津駒大夫も悪くはないのだが、いかんせん、浄瑠璃としては二流作品で退屈した。歌舞伎ではさまざまな役柄の役者と舞台装置に見所があって人気狂言になっており、珍しく、文楽より歌舞伎の方が面白い作品といえるだろう。
 「桂川」の「帯屋の段」の前半がチャリ場の得意な嶋大夫、切りが住大夫。人形もお絹が文雀、お半が簑助。この「帯屋」が今公演のメインなのだろう。長右衛門がお半の書置を読むのに合わせて弾く三味線(錦糸)のメリヤスが印象に残った。最後に原作には無い道行がつくが、これがけっこう明るくて、気分直しになった。堪能したとまではいえないが、まずまず楽しめた舞台であった。

2012年6月2日(土)文楽予約
 友の会会員なので、文楽「夏休み公演」第2部を一般よりも1日早く電話予約で、いつもの床直下の席を確保した。最初が「合邦」。好みの演目ではないが、久し振りに見るとしよう。咲大夫と嶋大夫なので、その価値はあるだろう。次が「伊勢音頭」。歌舞伎では何度も見ているが、文楽で見るのは、多分、初めてである。歌舞伎と比較しながら見るとしよう。「油屋の段」の住大夫も楽しみである。最後は「蝶の道行」。戦後、歌舞伎で復活したものを文楽に逆輸入したのだろう。歌舞伎座で何度か見ているはず。これも好みの舞踏劇ではないが、にぎやかな三味線を楽しむとしよう。今回もワクワクするような演目ではないが、このジャーナルを書いているうちに期待感が高まってきた。これもジャーナルを書く効用か。

2012年7月15日(日)第1回あふさか能
 標記の公演を見るために大槻能楽堂へ出掛けた。今年から始まった能楽協会大阪支部主催の会である。2時の開演ぎりぎりに会場に入ると、全席自由席がほぼ満席であった。「翁」(上野朝義)と「高砂」(山本章弘)で約2時間、足腰が痛くなって、一旦、外に出たが、囃子方はこの後の狂言「三本柱」(善竹家)にも残るので、2時間半は舞台に居続けである。それだけでも体力がいるだろう。
 休憩の後の能が「恋重荷」(大槻文蔵)。前日に同じ演目(シテ関根祥六)をNHKテレビ「古典芸能への招待」で見ていた。前半は同じようなものだったが、後半が大幅に違っていたので驚いた。当日のパンフレットによると、世阿弥の原作が廃曲になって復曲したおりに、原作とは違った形で現在まで受け継がれてきたという。それを原作の意図に基づいて作り直し、「古演出」という形で演じているという。確かに、こちらの演出の方がていねいで、シテの恨みもよく出ていると思う。「老いらくの恋」「身分違いの恋」「弱いものいじめ」など、現在にも通じるテーマを思い浮かべながら見ていた。

2012年7月27日(金)国立文楽劇場
 夏休み公演第2部「名作劇場」。2時開演の最初が「合邦」。歌舞伎でも文楽でも何度か見ているが、最近は敬遠している。久し振りに見たが、やはり好みの演目ではない。文楽では玉手の自己犠牲が強調されているが、歌舞伎では玉手の邪恋を強調していたと記憶している。その方がまだしも現代的で面白いのではないか。床直下の席なので、切りを語る嶋大夫のつばが見事に我が眉に命中した。良い記念なので記録しておこう。
 次が「伊勢音頭」の「油屋」と「奥庭」。パンフレットによれば、これは歌舞伎が先で、後に浄瑠璃化したものだという。丸本物なら歌舞伎よりも文楽の方が充実しているが、この演目では、「油屋」の縁切りも「奥庭」の殺しも、歌舞伎の方がはるかに面白い。文楽での上演が少ないのも無理はない。
 「油屋」で予定されていた住大夫が病気休演となったのは残念だった。代役の文字久大夫は、とにもかくにも無事、勤め上げたというべきか。
 最後の「蝶の道行」も先行の歌舞伎を浄瑠璃化したものだが、曲だけが残って上演されて来なかった。それを昭和13年に文楽で復活したという。戦後に復活した歌舞伎よりも、文楽の復活上演の方が早かったわけだ。鶴澤清介以下、5丁の太棹の響きを耳元で楽しんだ。人形の舞がつまらないので、もっぱら床を見ていた。「合邦」にも「伊勢音頭」にも堪能できなかったが、この三味線に満足して帰ることができた。
 住大夫の急病は、橋下市長の文楽いじめが原因だろう。文字大夫時代は自ら切符を売りさばく苦労もしてきた。文楽協会ができたとき、これからは経営をまかせて、芸のことだけ考えてくださいといわれたと、しみじみ語っていたことがある。市長の文楽いじめに、文楽があの苦難の時代にもどるのではないかという不安で心身がやつれたのではなかろうか。軽薄な市長に、「恨」の文字を奉る。
 いまさらいわれなくても、関係者は文楽の普及に取り組んできている。それでも限界があるから協会が設立されたのではないか。権力行使に酔いしれている得意満面の市長の姿を見ると、虫唾が走る。後世、文楽の価値を否定した無教養な大阪市長として語り継がれることになろう。そう考えれば、哀れな男よ。


2012年10月2日(火)文楽予約

 昼過ぎに文楽11月公演の電話予約。「仮名手本忠臣蔵」の通しなので、いつもの床直下の席を昼夜続けて確保しなければならない。第4希望日までは昼夜どちらかがすでに売れていて、ようやく5択目で確保することができた。11月14日(水)は桃大が振替休日になるので、この前後なら授業への影響を考慮しなくてよいので助かった。「忠臣蔵」ともなれば切符の売れ行きも順調なのだろう。
 歌舞伎でも文楽でも、「忠臣蔵」はいったい、何回見ているだろうか。それでも飽きない。ここしばらくの文楽公演は、自分にとってはB級作品が多かったので、久しぶりに名作に堪能できる。今回の注目は、四段目「判官切腹」の咲大夫、九段目「山科閑居」の嶋大夫と千歳大夫か。玉女の由良助はどんなだろうか。勘十郎が本蔵と平右衛門の二役と大活躍だが、簑助は七段目のおかるだけ。とにかく、待ち遠しい。

2012年11月15日(木)文楽「仮名手本忠臣蔵」
 朝から夜まで日本橋の国立文楽劇場。といっても、昼の部の最後、源大夫が語る「勘平腹切」は中座し、外を歩いて体をほぐしてきた。今の源大夫につきあう気はない。新聞には4日に源大夫休演、代役は津駒大夫と出ていたので、それが続いていると思っていた。
 客の入りは上々で、切符売り場にも行列ができていた。橋下・大阪市長の文楽いじめが新聞にもしばしば取り上げられるので、文楽が注目されるきっかけにはなったのだろう。だからといって文化の価値を否定する橋下の暴挙を認めるわけには行かない。
 文楽劇場での忠臣蔵は平成16年11月公演以来、8年ぶりである。8年前も昼夜ぶっ通しで観劇したのだが、四段目「判官切腹」でケータイの鳴ったことが強烈な記憶として残っている反面、舞台の記憶が消えている。この公演の出演者を記載したビラが残っているので、それを参考にしながら今回の公演について記録しておこう。
 8年前は由良助役の玉男が健在だったが、九段目と大詰の由良助は玉女であった。当時から玉女が玉男の後継者と目されていたのだろう。しかし残念ながら、今回、玉女の由良助にはがっかりした。玉男のレベルは無理としても、もっと風格がほしい。人形ではやはり、簑助のおかる。七段目、酔い覚ましに二階でぼんやりしている姿は絶品であった。
 咲大夫は前回と同じ「判官切腹」のほかに、今回は七段目の由良助を担当している。「山科閑居」は、前回が住大夫と咲大夫、今回が予定では嶋大夫と千歳大夫だったが、千歳大夫が病気休演で代役は呂勢大夫であった。住大夫が長期休演の現在、嶋大夫と咲大夫が大夫陣の中心になり、次代の担い手として、千歳大夫、呂勢大夫らが期待されているのであろう。
 今回の公演には、初めて文楽を見る観客が多いらしい。名作中の名作とはいえ、「忠臣蔵」は文楽初心者にしんどいかもしれない。正月公演に予定されている「逆櫓」や「狐火」の方が分かりやすいのではなかろうか。橋下市長のように、二度と文楽は見ないなどといわず、正月公演にも出向いてほしいものだ。

2012年12月2日(日)文楽予約
 文楽劇場初春公演を会員先行申込で電話予約。先日送られてきた配役表を見ると、住大夫が第一部の「寿式三番叟」の翁で復帰する。これにも強く惹かれるが、昼夜両方を見る余裕はないので、今回は第二部の「逆櫓」と「狐火」を楽しむことにした。座席はいつもの床直下の席。第一希望日、第二希望日はすで埋まっていて、三択目で確保することができた。
 前述の配役表には三味線の清治の名が無い。そんなはずはないだろうと何度も見直したが、やはり無い。清治に何か起きたのかと気になっていたが、昨日、訂正の葉書が届き、清治は「狐火」に出ることが分かってほっとした。単なる印刷ミスだったらしい。「狐火」では三味線が大活躍するので、清治の名人芸を堪能してこよう。

2012年12月5日(水)勘三郎の逝去
 朝のニュースで勘三郎死去が伝えられた。最近の新聞報道などから病状は芳しくないようだと心配していたが、残念な結果になった。父親を越える役者になると期待していたのに、早すぎる死であった。「法界坊」は二代の勘三郎でしか思い浮かべることができない。歌舞伎の世界がその分、つまらなくなってしまった。
 本日は桃大出講日。名誉教授室でもしばし歌舞伎談義となった。

2013年1月19日(土)文楽・初春公演
 文楽劇場の昼の部へ。橋下市長の文楽いじめの逆効果が続いているのか、客はよく入っていた。多分、満席だったろう。14日から昼と夜が入れ替わっているので、最初が景事の「団子売」。次が「盛衰記」の「松右衛門内」と「逆櫓」。「松右衛門内」には歌舞伎では味わえない充実感がある。切りを語った咲大夫は今が絶頂期かも知れない。「逆櫓」も何度か見ていて力強い場面という印象があるのに、今回の英大夫には迫力がなかった。若くて元気な大夫を起用するという選択肢もあったのではないか。
 最後はおなじみ、「二十四孝」の「十種香」と「奥庭狐火」。「十種香」は嶋大夫で、八重垣姫が簑助。咲大夫と嶋大夫の芸質の違いが面白い。二人が元気なうちに(そして当方も元気なうちに)、是非とも「山の段」の掛け合いを見たいものだ。「狐火」は呂勢大夫に清治。清治の名人芸を堪能するには短すぎたな。

2013年5月23日(木)文楽・夏休み公演
 疲れと暑さで(それと多分、老齢のせいもあって)、体が動かない。意欲があっても作業にかかれない。そんなところに、「文楽友の会」の会報が届いた。7月20日からの夏期公演の案内が掲載されている。その演目と配役を見て時間を過ごすことにした。
 第1部「瓜子姫とあまんじゃく」の嶋大夫を聞いてみたい気もするが、結論はパス。第2部「妹背山」の「井戸替」から「金殿」までと、第3部「夏祭浪花鑑」には行かねばならない。「妹背山」の切が咲大夫。「浪花鑑」の「釣船三婦内」の切が住大夫。しばらく住大夫を聞いていないので、体調を崩さず、元気に出演してほしいと思う。「長町裏」の団七・千歳大夫と義平次・松香大夫も面白そうだ。
 三味線と人形の配役も見ながら舞台を想像するのが実に楽しい。4月公演は気が乗らず、見送ったので、半年ぶりの文楽になる。今の自分にとっては文楽を見るのがなによりも楽しいことなのかも知れない。

2013年8月3日(土)文楽・夏期公演
 暇な身としてはなにも土曜日に出かけることはないのだが、第2部・第3部と続けて床直下のいつもの席を確保しようとしたら、この日になってしまった。昼夜とも、客の入りは上々である。
 2時開演の第2部は「妹背山」の四段目。清治に率いられた「道行恋苧環」の演奏が楽しい。大夫ではやはり「金殿の段」の咲大夫。
 今回、「鱶七上使の段」の冒頭、仕丁たちの地口のやり取りが上演された。歌舞伎で上演されることはまずないし、文楽でも珍しいのではなかろうか。劇の進行上は不必要な場面だが、「嘲弄、長老、女郎、如雨露」など、江戸時代の庶民の言葉遊びがうかがえる。「富楼那の弁」と「くずなの弁」のつながりが分からなかったが、このジャーナルを書いていて気がついた。多分、「富楼那、ふるな、古菜、屑菜、くずな(甘鯛の大阪語)」というつながりなのだろう。「富楼那の弁」が当時の庶民の常識になっていたことも分かる。
 この件を確認するために院本の翻刻を読んでいて、2010年4月「妹背山」通し公演について書いたジャーナル(2010年4月16日)に間違いのあったことに気付いた。入鹿の首が飛び回るのは四段目の最後であり、五段目は近江宮での目出度し目出度しであった。この五段目を上演する意味は無いだろう。
 6時半開演の第3部は「夏祭浪花鑑」。歌舞伎でも人気があるが、あまり好みの芝居ではない。侠客たちの意地の張り合いに違和感がある。ただ、最後の長町裏の舅殺しは、見応えがある。今回、それよりも印象に残ったのが簑助の「お辰」。首の角度やちょっとした動きにほれぼれする。こうした芸は努力だけで継承するのが困難なのだろう。
 住大夫が「釣船三婦内」の切りを語ったたが、よくぞ、ここまで快復したものだ。筋書きにインタビューの形で闘病生活が語られている。「何とかしてもういっぺん舞台に出たい」という一念で必死の努力を重ねてきたという。88歳で「やりたい浄瑠璃はぎょうさんある」という。74歳の当方もがんばろう。今回、第1部に出演している嶋大夫が病気休演との掲示があった。軽い病であってほしい。

2013年11月15日(金)文楽「伊賀越道中双六」
 日本橋の国立文楽劇場。朝10時半から夜8時50分までの通し公演を、いつもの床直下の席で見てきた。
 「伊賀越」といえば通常、六段目「沼津」だけが上演されているが、まれには他の場面が上演されることもあり、当方もかつて見たことがあるような気がする。しかし、なにも記憶に残っていないので、「沼津」以外は初めて見るのと同じである。大序「鶴が岡」の傾城瀬川、三段目「円覚寺」の呉服屋十兵衛を見て、「沼津」における彼らの言動の背景を知ることができた。しかしこの大序をはじめ、随所に無理な設定があって、「いくらなんでもそんな馬鹿な」といいたくなる。近松半二の作品としては「二十四孝」や「妹背山」よりも劣り、上演回数が少ないのも無理はない。
 しかし今回はそうした疑問のある場面でも、終始、舞台に引きつけられた。三業とも端役に至るまで気合いが入っていた。NHKが数台のカメラで全幕を録画していたので、演者たちも気を抜かなかったのだろう。作品に問題があっても、演者次第で見応えのある舞台になる。とはいえ、今後、「沼津」以外の場面を繰り返し見たいとは思わない。

2014年2月3日(月)文楽4月公演「菅原伝授手習鑑」配役
 「文楽友の会」の会報が届いた。4月公演「菅原」の通しの配役表が同封されている。文楽では2度ぐらいは「菅原」を通しで見ていると思う。歌舞伎では国立劇場のこけら落とし。先代仁左衛門の伝説の名演を記憶している。
 今回、「丞相名残の段」は咲大夫。玉女は菅丞相の風格を出せるだろうか。「車曳」で松香大夫は時平の豪快さを出せるだろうか。「桜丸切腹」は住大夫、人形は桜丸が簑助、八重が文雀。なんと、ぜいたくな。「寺子屋」は嶋大夫。紋壽の千代はどんな舞を見せてくれるか。期待と不安。とにかく3月2日の先行予約日に、いつもの床直下の席を確保しなければならない。
 ところで、橋下・大阪市長が身勝手な市長選をやるため、数億円が消えるという。そんな金があるなら、文楽の補助金を減らすなといいたい。

2014年3月2日(日)文楽予約
 国立文楽劇場4月公演の会員先行予約。例によっていくら電話しても「お掛け直しください」ばかりだったが、昼近くになってようやくつながった。ところが夜の部では、いつもの床直下の席が取れない。それどころか、すでに床に近い席はほとんど埋まっているという。かろうじて楽に近い一日だけ、いつもの席の一列前があるという。その日に予約するしかない。友の会会員になってから、異なる席で見るのは初めてである。住大夫引退の報に、文楽好きがこぞって床近くの席を確保したのだろう。明日からの一般予約でも、好みの席が取れずにがっかりする人たちが多いことだろう。公演当日の混雑も覚悟した方が良さそうだ。

2014年4月25日(金)文楽「菅原伝授手習鑑」通し
 国立文楽劇場。朝10時前に劇場に着くと、チケット売り場に当日券購入の長い行列ができていた。第2部は完売。第1部もほぼ満席。第2部では客席最後尾に椅子を置いた補助席も作られていた。
 「菅原」の通しを見るのは1989年4月、当劇場の「越路大夫引退公演」以来である。この間に2度、通し公演があったが、見てはいない。現役のときは時間的にも気分的にも余裕がなかった。
 今回は客席の熱気に演者たちも気合いが入っていたと思う。第1部最後の「道明寺」は咲大夫。第2部最後の「寺子屋」は嶋大夫。いずれも熱演であった。「桜丸切腹」の住大夫はこれで引退となるが、それもやむを得ないだろう。文字大夫のころから50年間、楽しませてもらった。ありがとうといいたい。
 昼夜とも十分に楽しめたが、堪能したとまではいえない。大夫にも人形にも、いくつか不満が残った。「寺子屋」の千代はベテランの紋壽だったが、形を追うだけで、千代の悲しみが伝わってこない。美しくて悲しい「いろは送り」は、簑助だけなのだろうか。三業の中では人形の芸の伝承が一番気になる。人形には、役者の限界を超えた理想の姿を見せてほしいのだが、難しいかもしれない。

2014年10月2日(木)文楽劇場11月公演ネット予約
 本日は国立文楽劇場11月公演の会員先行予約日。今年度からネット予約でも座席が指定できるようになったので、10時直後にアクセスしてみた。いつもの床直下の席は、第1希望日と第2希望日ではすでに売れていて、ようやく3回目で確保できた。それでも電話をつながるまで掛け続けるよりもはるかに速く済んだ。
 昼の部が「双蝶々曲輪日記」、夜の部が「奥州安達原」の半通し。嶋大夫も咲大夫も昼の部だが、時代物を楽しみたいので夜の部だけにした。二段目「善知鳥安方」はなくて、三段目「袖萩祭文」と四段目「一つ家」である。かなり前に二段目も見た記憶があり、結構面白かったという印象が残っているので、今回出ないのが残念だが、歌舞伎でもおなじみの「袖萩祭文」などを楽しんできたい。 

2014年11月14日(金)文楽・奥州安達原
 国立文楽劇場・11月公演・夜の部を、いつもの床直下の席で楽しんできた。「奥州安達原」三段目と四段目の半通しで、最初が「朱雀堤の段」。「しゅしゃかづつみ」と読む。人名と同様、地名漢字の読み方もまことにやっかいである。京都の七条朱雀、現在の七条千本、この作品が書かれた宝暦年間には貧民窟があったのだろう。背景が次の「環の宮明御殿の段」と対照的である。「袖萩祭文」は呂勢大夫・清治、「貞任物語」は千歳大夫・富助。彼らが次代の義太夫の担い手として期待されているのだろう。「道行千里の岩田帯」では6丁の三味線が耳元で響き、理屈抜きで楽しい。「一つ家の段」は老婆が妊婦(実は老婆の娘と孫)を殺すというグロテスクな幕である。人形だから可能なので、歌舞伎で役者が演ずるのは無理だろう。三段目も四段目も、暗い話の後、武者が派手に動く場面で終わるので、気分的に救われる。時代物の良さである。この作品、第一級の名作とはいえないが、忠臣蔵などの名作ばかりでは飽きが来るので時折は上演しなければならないだろう。二段目「善知鳥安方」も久しぶりに見てみたい。

2015年4月7日(火)文楽4月公演
 国立文楽劇場、第1部。最初の「靫猿」では5丁の三味線が耳元で鳴るのを楽しんだ。次が吉田玉男襲名の「口上」。挨拶をするお歴々の背後に、玉男門下の人形遣い13人がずらりと並んだ。こんな口上を見たことがないので、いささかびっくりした。それ以上に気になったのが、挨拶のメンバー。大夫と三味線は長老の嶋大夫と寛治が出ているのに、人形は簑助と文雀ではなく、襲名者と同世代の和生と勘十郎であった。どんな裏事情があるのか、気になる。
 襲名披露「熊谷陣屋」では切の咲大夫に堪能した。熊谷の人形はどうしても先代と比較してしまうので、物足りなさがある。最後の「三十三間堂」では、津駒大夫と寛治で聞かせる木遣り音頭を楽しんだ。
 座席は満席に近かったろう。当方の隣の席は、なんと92歳の女性であった。もちろん、連れはいたが、トイレには一人で行っていた。口上の時には、「簑助さんが出ていない」とつぶやいていた。だれだって疑問に思うよ。それはさておき、当方も一人で文楽を見に行く元気をいつまでも保ちたいものだ。

2015年10月3日(土)文楽予約
 昨日からメンデル資料を読むことに気を取られ、錦秋文楽公演の会員先行予約が昨日だったことを忘れていた。今日の夜になって気がつき、ネットで夜の部「玉藻前」のチケットを、いつもの床直下の席で確保した。第一希望日であっさり席が確保できたが、周辺の席も埋まっていなかった。今回の演目と出演者から見ると、集客は昼の部、夜の部は芸の継承を目的にしてるように思われる。夜の部に空席が多いのも覚悟の上なのだろう。

2015年11月5日(木)文楽「玉藻前」
 国立文楽劇場・錦秋公演の夜の部。「玉藻前」三段目からの半通し。三段目切りの「道春館の段」だけは歌舞伎でも文楽でもたまに上演されることがあるようだが、見た記憶はない。他の場面は1934年を最後に途絶え、1974年に復活したものだという。謡曲「殺生石」が元になっているが、「道春館」はこの伝説と関係がない。悪役の武士が17歳になった我が娘に出会いながらこれを殺し、善人にもどる。義太夫ならではの世界である。今回は千歳大夫と富助。熱演を記憶しておこう。この後が復活劇。金毛九尾の妖狐が化けた玉藻前が登場するが、妖怪の恐ろしさを見せることなく退治されてしまう。上演が途絶えたのは、このあたりに理由があったのかもしれない。最後は、殺生石になった妖狐の魂がさまざまな姿に化けて踊る「七化け」。藤蔵に率いられた七丁の太棹が耳元で鳴る。文句なしに楽しい。4時に始まった舞台が4時間を過ぎ、心身ともに疲れてきたところだが、三味線で元気を取りもどした。
 集客力のある演目とは思えなかったが、座席の7割近くは埋まっていたのではなかろうか。それなりに文楽人気が続いているのだろう。
 帰宅後も興奮冷めやらず、昼の部も見たくなってネットで座席を検索してみたが、いつもの床直下の席が空いている日はなかった。床から離れた席では楽しさが減するので、あきらめることにした。
 それはそておき、文楽をいじめることで経費節約を宣伝し、文化を破壊する「維新」の大阪支配が早く終わってほしいものである。

2016年1月8日(金)文楽・嶋大夫引退披露
 国立文楽劇場で一日を過ごす。昼の部は座席の8割ぐらいが埋まっていただろう。当方はいつもの床直下の席。隣席は昨年4月のときと同じ92歳の女性であった。観劇グループの一員として参加しているらしい。御茶屋さんの差し入れのお裾分けといって、飴を一つかみもらった。
 狂言の最初が「野崎村」で切りは咲大夫。幕間に1階の食堂に降りていくと、幕見客の長い行列ができていた。嶋大夫引退披露狂言「関取千両幟」を見るためである。しかし嶋大夫は「おとわ」を担当しただけ。この機会に嶋大夫を初めて聴く人もいるのだろうが、元気な頃の嶋大夫とはかなりの差があることを知ってほしいものだ。
 劇中で寛太郎が太棹の曲弾きを披露した。寛太郎を三味線のスターとして売り込もうという協会の思惑があるのか。それはともかく、祖父の寛治と孫の寛太郎が並んでいると、それだけで嬉しくなる。
 夜の部は「国性爺合戦」。昼の部と違って観客席は空席だらけ。配役を見ても夜の部での集客は期待していないのだろう。今回は「初段」の明国宮廷の場が上演された。この場面を見るのは、多分、初めてだと思う。ちょうど8年前、2008年1月にも「国性爺合戦」が上演されているが、この時は、「楼門」が咲大夫、「甘輝館」が綱大夫、「獅子が城」が病気休演の伊達大夫の代役で英大夫だった。今回はそれぞれ、咲甫大夫、千歳大夫、文字久大夫。中堅クラスに経験を積ませる意図があるのかもしれない。
 丸一日、文楽に浸って気分転換になったものの、どうもスッキリしないのは狂言の内容のためだろう。「野崎村」のお光は自ら仏門に入り、そのおかげで久松はお染めと結ばれる。「千両幟」のおとわは自ら身を売って亭主を助ける。「国性爺」の錦祥女は自ら命を絶つことで亭主の面目を立てる。女性の自己犠牲によって男が救われる。この種のストーリーにはどうしてもなじめない。男女が逆になる狂言は思い浮かばない。
 ところで嶋大夫の芸歴を見ると、1968年に文楽に復帰しているので、当方が東京にいた時にも劇場で聴いているはずだが、記憶に残っていいない。嶋大夫に注目するようになったのは1977年に大阪に来てからだった。芸歴50年以上のベテランは東京で見ているはずだが、記憶にしっかり残っているのは現役で簑助ぐらいか。因会よりも三和会の方を多く見ていたせいもあるだろう。咲大夫は1966年の襲名以来、注目してきたが、その語りには何か引っかかるものがあった。それが2010年11月の「日向嶋」では無くなっていた。大夫が変化したのか、こちらが変化したのか、どちらなのかは分からない。とにかく今は、咲大夫を聴くのが楽しみになっている。
 文楽劇場の4月公演は「妹背山」の通し。嶋大夫と咲大夫が「山の段」で対決するのを待ち望んでいたが、その夢は叶わなくなった。4月の「山の段」の配役がどうなるのか、今から気になっている。とにかく、いつもの床直下の席を確保して、昼夜通しで見なければならない。

2016年3月2日(水)文楽予約
 本日は国立文楽劇場4月公演の会員先行予約日。「妹背山」の通しだが、「山の段」の昼の部だけにして、いつもの床直下の席をネットで確保した。「四段目」の夜の部をどうするか迷ったが、種々の事情を考えて、今回は我慢しよう。「山の段」といえば、かつて東京の三越劇場で見た因会と三和会の合同公演が忘れられない。津大夫と織大夫(後の源大夫)に対して、つばめ大夫(後の越路大夫)と文字大夫(後の住大夫)。すごい舞台だった。今回は千歳大夫と文字久大夫に対して、呂勢大夫と咲甫大夫。どんな舞台を見せてくれるだろうか。

2016年3月14日(月)「大夫」から「太夫」へ
 夕刊に、文楽協会が「大夫」の表記を「太夫」へもどすことに決定したとある。もともと「太夫」であったが、1953年に「大夫」の表記になったというが、その理由は不明確らしい。当方が文楽を見るようになったのはこの後なので、文楽では「大夫」、歌舞伎の竹本は「太夫」とするのが常識になっていた。歌舞伎座では竹本の熱演に対してしばしば「チョボチョボ」という声がかかったが、これは「太夫」の点を意味していると教わったことがある。「大夫」から「太夫」への表記変更は過去にもさかのぼるらしいが、今後、文楽関係の文書作成では執筆者や編集者、校正者を悩ますことになるだろう。

2016年4月8日(金)文楽「妹背山」
 朝、バス停までの桜並木の道は、昨日の雨と風で花の絨毯となっていた。地下鉄「日本橋駅」から文楽劇場に向かうと、反対方向から来る大勢の中国人旅行客に出会った。近くに手頃なホテルがいくつかあるらしい。
 さて、6年ぶりの「妹背山」通し。「猿沢池の段」では、背景の興福寺五重塔が気になってしまった。いままで、そんなことはなかったのだが、2年前から「興福寺友の会」に入会し、五重塔も親しいものになってきたためだろう。浄瑠璃作品について時代考証を云々するのは馬鹿げているが、天智帝の背後に興福寺五重塔が見えると、どうしても、あり得ないという思いが生じてしまう。慣れるほかなかろう。「太宰館の段」は靖太夫。大抜擢ではなかろうか。未熟であっても元気いっぱいで、気持ちいい。客席の受けも良かったと思う。この後の休憩時間にロビーに降りると、幕見客の長い行列ができていた。
 「山の段」は、千歳太夫・文字久太夫に対して呂勢太夫・咲甫太夫。十分、楽しむことができた。とはいえ、かつて東京の三越劇場で見た津太夫・織太夫、対、つばめ太夫・文字太夫の舞台を忘れることができない。「忠臣貞女の操を立て死したるものと高声に、閻魔の庁を名乗って通れ」と叫ぶ津太夫の声がいまでも耳に響く。これからも何度か「山の段」を見るだろうが、あのときの記憶を塗り替えることは無理だろうな。
 2010年4月の時は昼夜通しで見たが、本日は体力も考慮して昼の部だけで帰ることにした。2010年4月16日は満席に近かったが、同じ演目なのに本日は客席の半分も埋まっていない。トップクラスの演者が続けざまに引退し、集客力が減退しているのかもしれない。気になるのは、咲太夫の病気休演。帰宅してからネットで調べても詳しいことは分からないが、3月の地方公演から休んでいるらしい。早々に綱太夫を襲名し、あと10年は活動してもらわねば困る。夏場は無理せず、秋になったら元気な声を聴かせて欲しいものだ。

2016年12月2日(金)文楽予約
 本日は文楽劇場・初春公演の会員先行予約日。昼の部は「三番叟」、「安達原」の「環の宮明御殿」、それと「廿四孝」の「狐火」。夜の部が「お染久松」の半通し。咲太夫は夜の部だけ。昼夜を通して見るのは体力財力からいって無理(忠臣蔵の通しなら、そんなこといっていられないが)。昼と夜のどちらにするか。結局、世話物は好みではないので、咲太夫をあきらめ、昼の部を気楽に楽しむことにした。さて、10時過ぎにネットで座席の状況を見ると、すでにかなり売れている。日にちをいくつか変えてみても、床直下のいつもの席が取れない。やむを得ないので、第4希望日くらいのところで、いつもの席の一つ後ろの席を確保した。それでも三味線の直下なので、「三番叟」や「狐火」の派手な三味線が耳元で鳴ることになる。それを思うと、わくわくしてくる。

2017年1月25日(水)文楽「三番叟・袖萩祭文・狐火」
 国立文楽劇場「初春公演」の昼の部へ。客席は9割程度埋まっていたのではなかろうか。最初の「寿式三番叟」の開演時間になっても太夫・三味線が床に現れない。なぜだ。幕が開いたら、舞台の奥にずらりと並んでいた。床直下の席で三味線の音の渦を楽しむつもりでいたので、いささかがっかりした。文楽の太夫・三味線はなるべく客席に近い方が良いように思う。次の演目「奥州安達原・環の宮明御殿の段」は歌舞伎でも「袖萩祭文」の通称で親しまれているが、好みの場面ではない。時代物らしい豪快な幕切れがせめてもの救いか。
 「本朝廿四孝」の「十種香の段」は津駒太夫と寛治のはずだった。芸歴74年の長老、寛治が初めて本公演で「十種香」を演ることになっていたが、病気休演、代役は芸歴23年の清志郎。無事、勤め上げていたと思う。最後の「狐火」では宙づりなどがなくなり、人形遣い(勘十郎)の引き抜きも1回だけであった。新聞の劇評には「新演出」と記されていたが、本来の演出にもどっただけなのではなかろうか。ただ、人形の左遣いと足遣いも出遣いになったのは、新演出かもしれない。このように3人とも出遣いにするのは、三和会時代の紋十郎が「勧進帳」などを文楽に取り入れたときに始めたと記憶している。人間の顔が多すぎて好ましくないが、今回は気にならなかった。このジャーナルで「狐火」の通常の演出を批判していたことが、今回の演出変更に結びついた訳でもないだろうが、客の多くはいままでのような派手な演出の方を好むかもしれない。生きている間にまだ数回は「狐火」を見る機会があると期待したいが、この場面ではさまざまな最新技術を応用した演出なども試みてよいように思う。
 来る4月公演では英太夫が祖父、若太夫の前名、呂太夫を襲名するという。当方が文楽に通うようになったとき、若太夫はすでに失明していたが、豪快な語り口が魅力であった。若太夫の風貌の記憶もぼんやりしているが、孫の英太夫にそれがうかがえるような気がする。しかし残念ながら祖父の豪快な語り口は伝わっていないようだ。4月公演の襲名披露では「寺子屋」を語るとのことだが、それよりも次回こそ、咲太夫を聴かねばならない。とにかく理屈抜きで文楽は楽しく、面白い。

2017年3月2日(木)文楽予約
 本日は文楽4月公演の会員先行予約日。10時過ぎにネット予約にトライし、いつもの床直下の席を確保した。豊竹呂太夫襲名披露狂言「寺子屋」の前が呂太夫、切が咲太夫。久しぶりに咲太夫を聴けるのがうれしい。人形では松王丸(玉男)や源藏(和生)よりも、千代(勘十郎)に注目したい。それにしても、新聞記事で咲太夫に綱太夫襲名の意志はないと知り、がっかりした。いつ襲名するかと楽しみにしていたのに。文楽だけでなく、古典芸能の世界全体が盛り上がるだろうに。歌舞伎界で海老蔵が團十郎襲名を拒否するようなものだ。再考する余地はないのだろうか。

2017年4月21日(金)文楽「寺子屋」
 「六代豊竹呂太夫襲名披露」の国立文楽劇場・4月公演・昼の部へ。満席に近かったように思われる。最初は祝儀曲の「寿柱立万歳」。床直下の席なので耳元で五丁の太棹が鳴る。至福の時である。続けて「菅原」の三段目「佐太村」。「口上」を挟んで、四段目「寺子屋」。口上の司会は咲太夫で、三味線代表は清治、人形代表は勘十郎。後ろに三味線の藤蔵のほか、6人の太夫が並んだ。希太夫と亘太夫は呂太夫の弟子なので、後の4人、三輪太夫、津駒太夫、千歳太夫、それと呂勢太夫が次代を担う太夫と目されているのであろう。呂勢太夫・清治の「寺入り」の後、呂太夫・清介が首実検まで。切りは咲太夫・燕三。咲太夫を聴くのは2015年4月、玉男襲名披露の「熊谷陣屋」以来である。おそらく今が気力体力とも最も充実している時期であろう。簑助は動きの少ない桜丸だけ。残念だが、もはや簑助の千代を見ることはできないのであろう。
 とにかく楽しい半日であった。ただ、いかに名作でも息子を見殺しにする親の悲しみを続けてみるのは、重苦しい。今回は時間的に無理だろうが、間に「天拝山」を挟むか、最後に雷を落とすかして、気分転換を図って欲しいと思う。
 次回、夏休み公演の第2部が「源平布引滝」、第3部レイトショーが「夏祭浪花鑑」。「長町裏」にも惹かれるが、時代物が好みなので「布引滝」を見に行くことになるだろう。今から楽しみにしておこう。

2017年5月1日(月)テレビ・文楽三味線の名人たち
 正午の0時からテレビにかじりついた。4月28日(金)放映のNHK・Eテレ「にほんの芸能・文楽の名人たち」の再放送である。本放送の時は、結局、寝てしまったので、再放送を見逃すわけにはいかない。戦後の文楽三味線の名人として、六世鶴澤寛治、四世鶴澤清六、二世野澤喜左衛門の3人を紹介していた。解説は渡辺保。放映されたのは全て半世紀前の映像。津太夫・先代寛治・玉助で「一谷・組打」。春子太夫・清六・紋十郎で「野崎村」。越路太夫・喜左衛門・栄三で「寺子屋・いろは送り」。先代寛治の独特の舞台姿もなつかしい。息子の現・寛治にもその面影がうかがえる。
 番組の後、昭和50年刊行の『国立劇場芸能鑑賞講座・文楽』を引っ張り出し、巻末の「文楽名鑑」を開いてみた。上記の9人のうち、ここに残っているのは津太夫、越路太夫、喜左衛門の3人だけである。この3人については当方の記憶も明確である。「名鑑」に「竹澤団六」として掲載されている現・寛治の顔写真の若いこと。「豊松清之助」として掲載されている現・清十郎はまだ16歳の少年であった。
 評論家の渡辺保は誕生日が当方とほとんど同じで、3歳年上である。しかも小学校に入る前から歌舞伎を見ていたのだから、当方とは芝居鑑賞歴に15年の差がある。テレビでは81歳という年齢を感じさせない若々しさで、的確な解説をする。今回も文楽三味線の面白さを分かりやすく解説していた。文楽三業のうち、三味線の個性を聞き分けるのが一番難しい。少しでも渡辺のレベルに近づきたいものである。

2017年7月31日(月)伊十郎と志寿太夫
 午前中は家事雑用で忙しかったが、なんとか12時までに昼食も終え、NHKテレビ「にっぽんの芸能:新名人列伝」の再放送にしがみついた。紹介されたのは、長唄の七世芳村伊十郎と三世杵屋栄蔵、三世常磐津文字兵衛、清元志寿太夫、清元寿國太夫、清元栄寿郎。文字兵衛と栄寿郎は当方が歌舞伎座に通うようになる前に亡くなっているので、記憶はない。伊十郎と栄蔵、それと志寿太夫は忘れがたい。手元にある数少ない邦楽CDの一つが伊十郎・栄蔵の「勧進帳」である。テレビでは猿之助・勘弥・鴈治郎の勧進帳だったが、この組合せの勧進帳は見ていなかった気がする。志寿太夫の「三千歳」の舞台は現・菊五郎と玉三郎だったが、十一代団十郎と梅幸の「三千歳」は残ってなかったのだろうか。この当時の志寿太夫で聴きたかったな。清元といえば志寿太夫という思い込みがあったが、解説の渡辺保によると、寿國太夫こそ本来の清元だという。同じ「保名」が志寿太夫と寿國太夫とではまるで違っていた。歌舞伎座に通っていた当時、寿國太夫にも注目すべきだった。渡辺保は当方より年上なのに相変わらず若々しく、解説も明快であった。

2017年9月25日(月)長十郎と翫右衛門
 正午からのNHK「にっぽんの芸能」の再放送「新名人列伝・前進座を支えた名優たち」を、家事を片付けながら見た。四世河原崎長十郎、五世嵐芳三郎、三世中村翫右衛門、および五世河原崎国太郎という四人の舞台を紹介していた。長十郎と翫右衛門の「勧進帳」は1度だけ労演の舞台で見ているが、歌舞伎を楽しもうとする客層ではないので満足感を得ることができなかった。ほかにも労演の舞台、労音のコンサートに行ったが、同様の問題があった。それでも一時期、労演と労音が日本の演劇界と音楽会を支えていた功績は認めるべきなのだろう。長十郎と翫右衛門の舞台で記憶に残るのは、「元禄忠臣蔵・御浜御殿」。新橋演舞場だったと思う。能装束で花道に入る長十郎の大きさが今でも目に浮かぶ。これも新橋演舞場で見た津上忠作「黒田騒動」も記憶に残っている。テレビではいつものことだが、渡辺保の解説が明快であった。これもいつものことだが、渡辺の若々しさが素敵であった。

2017年10月2日(月)文楽予約
 本日は文楽劇場11月公演の会員先行予約日。ネットで予約を済ませたが、第一希望日の床直下の席は全て売れていた。10時受付開始なのにアクセスしたのはその30分後だったので、その間に同好の士が買ってしまったのだろう。それでも第二希望日でいつもの床直下の席が確保できたので、よしとしよう。今回の昼の部は「八陣」と「鑓の権三」。咲太夫が「鑓の権三」の「数寄屋の段」を語る。
 最近は出不精になって、元気なころなら必ず出掛けたはずの展覧会や松竹座の舞台に行こうともしない。遺跡や寺社探訪もしなくなった。気力体力の低下が最大の理由だが、生物学史研究の時間確保という事情もある。せめて文楽にだけは行くようにしたい。

2017年10月30日(月)竹本津太夫
 朝から体調が芳しくなかったが、なんとか最小限の家事をこなし、12時からテレビにしがみついてNHK「新名人列伝・文楽太夫の名人たち」の再放送を見る。登場するのは六世竹本住太夫、八世竹本綱太夫、四世竹本越路太夫、四世竹本津太夫の4人。解説はいつもの渡辺保。自分にとって「住太夫」といえば引退した七世住太夫であって、六世住太夫の記憶は無い。越路太夫の記憶はまだ生々しい。一番聴きたかったのは津太夫の豪快な語りだったが、紹介されたのは「新薄雪」の三人笑いであった。そういえば近年、「新薄雪」が出ていないのではないか。津太夫がインタヴューで、他の太夫が山城少掾の芸風なので自分は父三代津太夫の芸風を貫きたいと語っていたのが印象的であった。

2017年11月24日(金)文楽11月公演
 国立文楽劇場、昼の部。最初が「八陣」、30分の休憩を挟んで、「鑓の権三」。歌舞伎・文楽ではどちらも有名な作品だが、実際に文楽で見るのは初めだと思う。歌舞伎の「八陣」では正清が「御座船」の舳先で切る見得が見所だが、文楽では太夫(靖太夫)の大笑いが聞かせどころになっていた。「正清本城の段」は呂太夫。祖父・若太夫だったら、もっと豪快な場になっていただろうなと思いながら聞いていた。時代物として楽しめる作品ではあるが、清正人気の衰えた現代では上演が少ないのもやむを得ない。
 「鑓の権三」も初演以降、再演されることはなかったが、明治期に歌舞伎で上演され、文楽では昭和30年に復活されたという。いかに近松の作品とはいえ、亭主の単身赴任中に女房が稀代の色男に岡惚れするという設定が観衆の共感を呼ばないのではなかろうか。最後の「女敵討ちの段」では盆踊りを見せた後で、女敵討ちの場になる。近松らしくないので、帰宅後、原作を確認すると盆踊りの歌詞などは無かった。この段は復活時に「伊勢音頭」を参考にして、野澤松之輔が作詞作曲したのであろう。それでも清治に率いられた三味線五丁が耳元で鳴るのがうれしかった。
 「鑓の権三」で女房おさいを遣っていた人形の吉田和生が人間国宝に指定されていたことを初めて知った。ニュースを見逃していたようだ。勘十郎と玉男が同期らしいが、その中でまず和生が指定されたことは妥当であったと思う。文楽のためにも良かった。咲太夫が綱太夫を襲名して人間国宝になれば、もっと盛り上がるだろうに。

2018年1月15日(月)玉三郎の「道成寺」論
 昨日からカミさんが風邪をこじらせて寝込んでいるため、二人ともデイサービスは休むほかない。そのため、昼に放映されたNHK「にっぽんの芸能」の再放送「伝心〜玉三郎かぶき女方考〜“京鹿子娘道成寺”」をゆっくり見ることができた。東京で歌舞伎座に通っていた頃、歌右衛門、梅幸、先代芝翫らの「道成寺」を繰り返し見ているが、玉三郎では見ていない。中川右介『團十郎と歌右衛門』によれば、歌右衛門が君臨している間は玉三郎が歌舞伎座の舞台に立つことは少なく、歌舞伎座で初めて「道成寺」を踊ったのは1984年であったという(p.143)。玉三郎によれば、「道成寺」には生きることに伴うさまざまな「恨み」が込められているという。鐘への恨みはそのシンボルとみなしているのだろう。深読みに過ぎるという気がしないでもないが、玉三郎の「道成寺」を見る機会があれば、この解釈を念頭に置いて見てみたい。長時間の「道成寺」を見ていると、「くどき」が終わった時に緊張がゆるみ、後は鐘入りを待つという気分になる。玉三郎は、「くどき」の後の「鞨鼓の舞」をエネルギッシュに踊って観客を引きつけなければならないといっていた。観客の気分がここで緩むことは踊り手も分かっているのだと知って、なんとなく安心した。このシリーズで次に何を題材にするのか、楽しみである。

2018年1月29日(月)猿之助、中車、羽左衛門
 昼にNHK・Eテレ「にっぽんの芸能」の再放送を見てからデイサービス「ポラリス大矢船」へ。今回は「新名人列伝 歌舞伎いぶし銀の至芸」というタイトルで、「初世市川猿翁、八世市川中車、十七世市村羽左衛門3人の歌舞伎俳優の至芸を紹介」とうたっているが、「猿翁」の名にはなじみがない。自分にとっては「二世猿之助」であった。ネットで調べると猿之助の「修禅寺物語」は1957年9月の歌舞伎座らしい。大学に入って歌舞伎座に通うようになって間もなく、初めて見た「修禅寺物語」に衝撃を受けた記憶がある。あれはこの舞台だったのかもしれない。中車の「髪結新三」の家主長兵衛は1971年6月の国立劇場。この舞台は間違いなく見ている。髪結新三は松緑、弥太五郎源七は羽左衛門であった。その後、勘三郎の髪結新三なども見ているが、長兵衛はいまだにこの時の中車で記憶している。この公演の途中で中車は亡くなっている。羽左衛門は「刈萱・いもり酒」の新洞左衛門。羽左衛門晩年の舞台のようだが、ネットでは検索できなかった。猿之助あるいは中車ならとにかく、羽左衛門の代表作として新洞左衛門はいかがか。解説の渡辺保もそういう批判を予想していたらしく、言い訳をしていた。弥太五郎源七でもよかったと思うが、「十六夜清心」の白蓮で見たかったな。こういう機会に昔の舞台を思い出すのが楽しい。

2018年3月2日(金)文楽予約
 午前10時から文楽4月公演の会員先行予約。今回はまず、土曜日に当たってみたが、どの土曜日もほとんど座席が残っていなかった。団体客や関係者の予約で埋まっているのだろう。席にこだわるなら平日しかない。いつもの床直下の席が確保できなければ行くのを止めるつもりでいたが、なんとか見つけることができた。

2018年4月13日(金)文楽4月公演
 国立文楽劇場、昼の部へ。「廿四孝」の三段目、「桔梗ヶ原」と「勘助住家」の間に玉助襲名披露。この玉助が横蔵を遣った。「廿四孝」といえば四段目「十種香」を繰り返し見ているが、三段目は多分、2度目だと思う。しかし、前回の記憶があいまいで、話の筋はほとんど憶えていなかった。技巧派、近松半二の作品とはいえ、設定がややこしすぎるし、慈悲蔵の実子の扱いにも無理がある。それを無視して、義太夫と人形の演出を楽しむほかあるまい。がっかりしたのは、最後の「道行初音旅」。三味線と太夫が床ではなく、舞台の奥に並んでいた。床直下の席で三味線の音の渦に浸り、至福の時を味わうつもりでいたのだが、裏切られた思いであった。
 それと気になるのが、咲太夫。今回の公演では、この「道行」に出るだけ。体調が芳しくないのだろうか。

2018年12月2日(日)文楽初春公演予約
 パソコンで文楽1月公演の会員先行予約に取り組んだ。昼の部は「二人禿」、「先代萩」の「竹の間」「御殿」、それと「壺坂」。物足りないので止めようかとも思ったが、しばらく文楽に足を運んでいないので出掛けることにした。せめて先代萩の「床下」があれば満足できるのだが、正月公演なので景事が欠かせず、省略することになったのだろう。座席はいつもの床直下が確保できた。「御殿」の切が咲太夫、「千年万年待たとて」の名台詞を楽しみたい。人形は政岡が和生、栄御前が簑助。「壺坂」も好みの演目ではないが、奥を担う呂勢太夫・清治に期待しよう。

2019年1月14日(月)団十郎襲名
 朝9時からのテレビで海老蔵の13代目団十郎襲名のあいさつが中継された。大阪松竹座での披露公演は2021年2月で3部制とのこと。近年は松竹座にもご無沙汰しているが、この公演は行かねばなるまい。襲名披露公演では「勧進帳」と「助六」が中心になると思うが、当方としては新団十郎の「助六」を見たい。揚巻は玉三郎で決まりだろうが、その他の脇役陣を想像してみるのも楽しい。

2019年1月16日(水)文楽劇場・昼の部
 朝早くに家を出て、日本橋の国立文楽劇場へ。ロビーに入って目に付いたのが、咲太夫休演の掲示。久しぶりに咲太夫を聴くのを楽しみにしていたのに、残念。近年、咲太夫の休演が多くなっている。体調に問題があるのだろうか。1944年生まれだから、この世界では高齢というほどではないはずだ。次世代の太夫たちが育ってきているとはいえ、まだまだ活躍して欲しい。
 さて、最初の演目が景事の「二人禿」。床直下の席なので太棹が耳元で響き、これだけでまずは嬉しくなる。次が「先代萩」の六段目。「飯焚」と「床下」は歌舞伎で何度も見ており、記憶も鮮明である。しかし「竹の間」の記憶が無いので、今回が初めてかもしれない。女形だけによる典型的な時代物で、織太夫・団七で楽しかった。「飯焚」は千歳太夫・富助。近年、歌舞伎では省略して演じられることもあるらしいが、文楽では太夫の語りで聴かせるので歌舞伎ほど退屈することはない。切りは咲太夫に代わって織太夫、代役の勤めを立派に果たしたと思う。ただし、政岡の痛切な気持ちが表現できるようになるには、年期が必要であろう。
 最後の演目は「壷坂」。小学生の頃からラジオから流れてくる浪曲で話の概要は知っていたし、「妻は夫をいたわりつ‥」は「旅ゆけば‥」や「利根の川風‥」と並んで浪曲物まねの定番であった。「三つ違いの兄さんと‥」はだれもが知っているせりふだった。
 今回は「土佐町松原の段」が出ているが、この場は無くても差し支えないだろう。それよりも「先代萩」で歌舞伎とは異なる「床下」を見たかったな。呂勢太夫・清治で「山の段」を聴いていると、観音菩薩出現の場面で、「頃は如月」という。浪曲では「頃は六月なかのころ」といっていた。旧暦の二月でも山の中の壷坂寺は大阪市内よりはるかに寒い。舞台に見るような服装で夜中にお寺まで行けるとは思えない。綾太郎はそれを考慮して夏に変えたのだろうか。
 「壷坂」のストーリーの骨子は、要介護者が周辺の負担になることを気にして自ら命を絶つということである。現在、ますます深刻になってきた社会問題であり、我が身にとっても他人事ではない。ドラマではデウス・エクス・マキナによって解決しているが、現実はそれほど甘くない。どうすれば良いのだろうか。ネットで調べると、壷坂寺の先代住職は昭和36年に日本で最初の盲人のための老人ホームを開設したという。これが一つの解決策であろう。こうした情報を公演パンフレットに掲載して欲しかった。
 劇場の予告によると、今年の4月公演、夏休み公演、11月公演の3回に分けて「仮名手本忠臣蔵」の全段を上演するという。4月公演は四段目まで。ほとんど上演されない「二段目・桃井館力弥使者の段」と「三段目・腰元おかる文使いの段」が楽しみである。咲太夫が復活して「四段目・判官切腹」を語ってくれるよう、願っている。

2019年2月15日(金)実川延若
 夜11時からのNHK.Eテレ「にっぽんの芸能・三世實川延若」を見ることができた。自分にとって「延若」といえば、この三代目である。歌舞伎座にもしばしば出演していたし、個性的な台詞回しもなつかしい。ただ、なぜか舞台での姿が思い浮かばない。テレビで放映していた舞台は、多分、見ていない。このクラスの役者なら大抵、舞台の姿を記憶しているのだが、なぜだろう。当方が歌舞伎座に通っていた当時、あまり役柄に恵まれていなかったのかもしれない。

2019年2月20日(水)文楽4月公演
 昼前の郵便で「文楽友の会」の会報が届いた。4月公演昼の部「忠臣蔵」の四段目「判官切腹」は期待通り、咲太夫であった。4月5日のプレイベントにも咲太夫参加とあるので、体調は回復したのであろう。三段目「殿中刀傷」は呂勢太夫・清治。今回の全段上演には劇場も売り込みに力を入れているようなので、床直下の席を確保するのに苦労するかもしれない。ところで、この4月公演から入場料が値上げされた。最近、さまざまなものがじわじわと値上げされている。年金生活者としては、不安な状況である。

2019年3月2日(土)文楽予約
 国立文楽劇場4月公演第1部「忠臣蔵」大序から四段目まではどうしても見なければならない。卓上カレンダーに会員先行予約10時開始と記しておいたのに、家事雑用に追われ、気がついたのは10時半。慌ててネットの予約サイトに当たってみたら、なんといつもの床直下の席が簡単に確保できた。ほっとすると同時に、人気が無いのかと心配でもある。四段目までが4月公演、五・六・七段目が夏休み公演、八段目以降が11月公演と、季節も符合している。文楽の将来のためにも話題になるとよいのだが。

2019年4月12日(金)文楽・忠臣蔵
 「仮名手本忠臣蔵」全段上演の第一回、大序から四段目まで。文楽で忠臣蔵の通しを最初に見たのは、60年近く前の朝日座。文楽に熱中しだした時期で、友人と二人、東京・大阪間を夜行の鈍行で往復した。以来、文楽だけでも忠臣蔵を10回以上、見てきたと思う。それでも多分、二段目「使者の段」を見るのは今回が初めてだろう。この場の小浪・力弥のうぶな恋と、三段目「おかる文使い」のおかる・勘平の色恋沙汰とが対比されている。八段目・九段目の伏線としても、この場はあった方がよい。
 四段目の切「判官切腹」は咲太夫・燕三。咲太夫の体調は心配なさそうであった。
 三宅周太郎だったろうか、文楽を見始めた頃、歌舞伎では本物の由良助を見ることができなくなったが、文楽ではまだ本物を見ることができるといった趣旨の評論を読んだ記憶がある。今の文楽ではどうだろうか。
 今回、ぽつぽつ空席があるものの、座席はほぼ埋まっていたと思う。まずはよかった。

2019年6月2日(日)文楽予約
 夏休み公演第二部「仮名手本忠臣蔵」(五・六・七段目)に行かねばならない。パソコンの前に座って会員先行予約が始まる10時を待つ。これが済まないと落ち着いてほかのことができない。国立劇場チケットセンターのシステムが変更されたため、少々手こずったが、無事、いつもの床直下の席を確保できた。
 今回の配役で意外だったのは、咲太夫が「身売りの段」、「勘平腹切」は呂勢太夫だったこと。次代の太夫を育てるための配慮なのだろう。「する事なす事、いすかの觜程違」ってしまった勘平の無念さを、呂勢太夫がどう表現するか、注目したい。

2019年7月26日(金)文楽「忠臣蔵」五・六・七段目
 朝は狭山駅前で散髪を済ませ、夏休み公演の国立文楽劇場へ。2時開演の第2部は「仮名手本忠臣蔵」連続公演の第2回、五・六・七段目。咲太夫が人間国宝に認定された直後なので、ロビーにはその件を通知する掲示が張り出されていた。そのおかげもあったのか、座席は完売、補助席が用意されていた。
 いつもの床直下の席でたっぷり楽しんできた。六段目の「勘平腹切」は呂勢太夫・清次。今回の収穫。人形は和生。脇差を腹に刺してからも大きく動くのは、歌舞伎では不可能な演出。勘平の無念さを表現する人形ならではの演技であろう。配役表では七段目「一力茶屋」の「おかる」は簔助であった。かなり動きのある役柄なので本当に大丈夫かと心配だったが、やはり、梯子を下りてからは六段目で「おかる」を遣った一輔に代わっていた。2階で顔を見せるだけの演技でも、簔助の魅力は十分に伝わった。
 七段目はほとんど台詞だけの舞台なので歌舞伎との違いがなく、人形の演技が決定的に重要になる。由良助(勘十郎)に納得できないと、歌舞伎の方が楽しいと思えてくる。
 平右衛門を語ったのは豊竹藤太夫(とうだゆう)。我が席の隣に並んでいた4・50台の女性三人連れが、「藤太夫とは誰かと思ったら、文字久太夫じゃない」としゃべっていた。当方よりも文楽に通じているようだが、改名が通知された4月公演には来ていなかったのだろう。今回、藤太夫のサイトを見て、改名のいきさつを知った。伊勢の名家の先祖の名を残すため、初代・豊竹藤太夫に改名したということらしい。師匠の住大夫は「文字太夫」を継がせるつもりでいたという。そうであれば、盛大な襲名披露公演が催されたろうに、もったいない。

2019年10月2日(水)文楽予約
 10時に文楽11月公演の会員先行ネット予約開始。夜の部は「仮名手本忠臣蔵」連続上演の最終回、八段目から十一段目まで。いつもの床直下の席を確保することができたが、今回は第3希望日になってしまった。すでにかなりの席が埋まっていた。団体客などによるものだろうが、売れ行き良好なのは結構なことだ。
 配役表によると、九段目「山科閑居」の前半は千歳太夫・富助、後半は藤太夫・藤蔵、人形の本蔵は勘十郎。咲太夫が昼の部「心中天網島」にまわっているのは残念だが、どんな「山科閑居」になるか、楽しんでこよう。
 「仮名手本忠臣蔵」の中で十段目だけはつまらない。文楽で見たことはない。歌舞伎では昔、二代目猿之助で見た気がするが、定かでない。近年、大阪で片岡我当が演じた「天川屋」をテレビで見た。中高生の歌舞伎鑑賞の演目だったと聞いたが、これでは歌舞伎の魅力は伝わらないだろう。文楽ではどんな舞台になるのか、一応、見ておこう。
 十一段目は原作の稲村ヶ崎が上演されるかと期待しだが、「花水橋」と「光明寺」であった。いつもの通し上演では夜遅くなるので、これを見ずに帰宅していた。今回はどうするか、当日、決めればいいだろう。
 「天川屋」では誰も犠牲にならないので、まだ救いがある。「妹背山婦女庭訓」二段目「芝六忠義」は「天川屋」を真似たのだろうが、実子を殺してしまう。捕り手が実は味方と知って、忠義心を証明するための実子殺しである。どうしても不快感が残る。

2019年10月7日(月)朝日座の忠臣蔵
 「仮名手本忠臣蔵」の原作を読むため『日本古典全書・竹田出雲集』(朝日新聞社 1956)を開いたら、朝日座のビラが出てきた。1963年12月公演「通し狂言・仮名手本忠臣蔵」のビラである。「吉三郎 改め 九世 野澤吉兵衛 襲名披露」とある。「財団法人 文楽協会 大阪第4回公演」と書かれているが、文楽協会が設立されたのはこの年の4月であった。
 「忠臣蔵」を初めて通しで見たのはこの公演であった。文楽に熱中しだした頃で、夜行の鈍行列車で東京・大阪間を友人と往復した。記念すべき観劇の資料が見つかり、うれしかった。

2019年10月15日(火)織太夫・清志郎・玉助
 近大病院からの帰途、河内長野駅前の書店に立ち寄った。平積みで目立つ新刊書の中に、中井美穂『12人の花形伝統芸能-覚悟と情熱』 (中公新書ラクレ 2019年10月)があった。歌舞伎から3人、文楽から3人、能楽から3人、落語・講談・浪曲から各1人、注目すべき花形を選んでいる。文楽太夫は竹本織太夫、三味線は鶴澤清志郎、人形は吉田玉助が選ばれている。襲名などで注目されることによって芸は大きくなっていく。購入してまで本書を読もうとは思わないが、この三人の成長を見ていくのが楽しみである。

2019年11月20日(水)新内「明烏」
 「文楽劇場・友の会」会報の最新号が送られてきた。正月公演の昼の部は景事の後に「吃又」と「吉田屋」、夜の部は「加賀見山」と「明烏」。行くとすれば夜の部だが、いまひとつ、魅力が無い。今回は見送ろうか。
 「明烏」のタイトルを見て急に新内を聴きたくなった。CDは所有していないのでネットで検索し、一部分だけであるが、久しぶりに「明烏」と「蘭蝶」を聴いてみた。この江戸情緒の世界にどっぷり浸ってみたいものだ。

2019年11月22日(金)文楽「忠臣蔵」八段目以降
 文楽劇場11月公演の夜の部へ。「仮名手本忠臣蔵」連続公演の第3回、八・九・十・十一段目。座席の半分後方はほぼ空席であった。見るべきものが九段目だけでは客が呼べないのかもしれない。九段目だけと書いたが、八段目の道行も好きな場面の一つである。晩秋の寂しさがただよっている。九段目「山科閑居」の前は千歳太夫・富助、後は藤太夫・藤蔵。前前回(2004年11月)の通しでは住太夫と咲太夫、前回(2012年11月)は嶋太夫と千歳太夫のはずだったが、千歳太夫が病気休演で呂勢太夫に代わっていた。今回、咲太夫は昼の部の「大和屋」に回っているが、「山科閑居」が中心的な太夫が担うものであることに変わりはないだろう。
 十段目「天河屋」を原作通りに上演するのは1917年以来だという。演者たちには申し訳ないが、改めてつまらない場面である事を確認した。九段目までの見事な作劇の後に、なぜこんなくだらない場面が加えられたのか。いずれ調べてみたい。
 前前回も前回も、夜遅くなるので最後の「花水橋」を見ないで帰ったが、これからは気分直しに見る方がよいかもしれない。といっても、生きている間に忠臣蔵の通しを後、何回、見ることができるだろうか。あと1回で終わりか、2回は無理かもしれない。

2020年3月2日(月)文楽4月公演予約
 本日は国立文楽劇場4月公演「千本桜」の会員先行予約日。昼の部だけ、いつもの床直下の席をネットで確保した。文楽劇場でも3月の催しはすべて中止になっている。4月公演がコロナ中止にならないことを願っている。

2020年4月3日(金)文楽公演中止
 寝る前にメールを確認したら、国立文楽劇場の4月公演全面中止の通知があった。覚悟はしていたものの、がっかりした。

2020年9月14日(月)文楽11月公演復活
  「文楽友の会」の会報が届いた。11月公演が復活。今年は3部構成で、第1部が「源平布引滝」の「九郎助住家」、第2部が「野崎村」、第3部が「廿四孝」の「奥庭狐火」。座席は一つおきで、床の近くは全面的に非発売となっている。どうしようか。大分迷ったが、今はコロナリスクの回避が最優先。あきらめることにした。

2020年11月27日(金)文楽初春公演
 昨日、文楽劇場友の会の会報が届いた。初春公演(鶴澤清治文化功労者顕彰記念)も3部公演。行くとすれば第2部(2時半開演・5時終演)。「碁盤太平記白石話」に咲太夫が出るし、「義経千本桜・道行初音旅」に清治一門が出る。しかしコロナが気になる。1月は今より危険な状況になっているかもしれない。行くか、止めるか。会員先行予約日(12月9日)まで、迷うことになろう。


2021年2月24日(水)文楽4月公演
 文楽劇場友の会の会報が届いた。4月公演も3部制で、第1部は景事とご存知「重の井子別れ」、第2部は「国姓爺合戦」、第3部はこれまたご存知「阿波の鳴門・十郎兵衛住家」と「小鍛冶」。行くとすれば第2部の「国姓爺合戦」。久しぶりに「南無三宝、紅が流るる」を楽しみたいが、コロナが怖い。新年度の諸行事でまたまた広がっている恐れがある。今回もあきらめるほかないか。

2021年5月21日(金)『東海道中膝栗毛』と歌舞伎・文楽
 連日の在宅生活もダーウィン研究だけでは気が持たないので、別のテーマとして東海道の53宿をすべて覚えることにした。ついでに『東海道中膝栗毛』(ワイド版岩波文庫)をアマゾンで取り寄せ、16日(日)から原文で読み始めた。本日までに二編上を読了、「やうやう蒲原の宿にいたる」。
 38歳まで東京にいて湘南電車にも乗っていたので、53宿の中でも沼津までの宿の名はいつの間にか頭に入っている。しかし、その先の宿で憶えているのは、四日市や大津などは別として、歌舞伎・文楽に登場する宿の名だけである。まずは、鞠子宿から宇都谷峠。幸四郎(十兵衛)と勘三郎(仁三)による歌舞伎座の舞台が記憶に残っている。「産まれは遠州浜松在、‥人に情を掛川から金谷をかけて宿々で‥賊徒の張本日本駄右衛門」は歌舞伎好きが最初に憶える台詞だろう。「伊賀越」沼津では、「道中筋は参州の吉田で逢たと人の噂」。玉男(先代)の遣う十兵衛の立ち姿が目に浮かぶ。「桂川連理柵」では、好きな娘を奪われて「石部の宿で」と告げ口する長吉どんに同情する。
 劇場にも美術館にも出かけられない今、こんなことを書いているだけでも楽しい。
 5月末に届いた文楽劇場『友の会報』を見て、「生写朝顔話」の嶋田宿と大井川に気付いた。2004年8月の観劇記に「印象が薄い。原作の甘さが気になって、私は好きではない」と書いている。思いつかなかったのも、仕方ない。

2021年9月9日(木)文楽錦秋公演
 昨日、文楽劇場友の会の会報が届いた。11月公演も3部制で、第1部が「葛の葉」、第2部と第3部が「ひらがな盛衰記」の半通しで、第2部が三段目「逆櫓」、第3部が四段目の「梅が枝の手水鉢」。「逆櫓」は文楽でなんども見ているし、歌舞伎では松緑の松右衛門で見た記憶がある。「梅が枝の手水鉢」はかなり前、一度だけ文楽で見ている。今回、行くとすれば、やはり「逆櫓」だ。語るのは、なんと若手の睦太夫。2013年1月19日の我がジャーナルには「逆櫓」について、「若くて元気な大夫を起用するという選択肢もあったのではないか」と書いていた。まさかこれが採用された訳でもあるまいが、睦太夫と清志郎でどのような「逆櫓」になるのか、注目したい。
 とはいえ、問題はコロナ。11月にはどのような状況になっているのだろうか。10月9日の会員先行予約日まで様子を見たいが、命あっての物種。結局は、あきらめることになるかもしれない。

2021年9月24日(金)三津五郎の三代
 夜、NHkで「にっぽんの芸能・十世坂東三津五郎」を見た。自分にとって「三津五郎」といえば8世のことである。9世は松緑の脇役として活躍した「簔助」として記憶している。10世は今でも我が頭に中では「八十助」である。番組では「魚屋宗五郎」を紹介していた。我が記憶にある歌舞伎座の舞台は、松緑と梅幸のコンビに、おなぎは福助(後の芝翫)、三吉は簔助であった。テレビで見た八十助の宗五郎は確かに松緑の芸を継いではいるが、松緑にあった魅力に欠けている。我が偏見に過ぎないのかもしれない。

2021年11月1日(月)文楽「ひらがな盛衰記」
 2年振りに文楽劇場へ。2時開演の第2部は「ひらがな盛衰記」三段目。「大津宿屋」(靖太夫・錦糸)と「笹引」(咲太夫・燕三)は大分前に見た記憶がある。錦糸の三味線が鳴り出す。太棹を生で聞いただけで嬉しくなった。「松右衛門内」(芳穂太夫・勝平、呂太夫・清介)と「逆櫓」(睦太夫・清志郎)は何度も見ていると思う。呂太夫がしみじみと語っているとき、突然、我が右足がけいれんを起こした。痛みに耐えながら、目は舞台に、耳は床に。体力低下のためか、初めてのことである。「逆櫓」が始まるまでには治まった。
 「逆櫓」を初めて見たのは新橋演舞場の三和会公演だったと思う。演者は憶えていないが、「ヤッシッシ、ヤッシッシ」の豪壮な場面が印象に残った。今回は成長株として注目されている睦太夫と清志郎。元気一杯で大満足。
 座席はいつも床直下の席に決めているが、今回はコロナで使用禁止。そこから2席離れた席になったが、さして違いは無く、楽しむことができた。コロナの状況にもよるが、また足を運ぶようにしたい。

2021年12月17日(金)十七世中村勘三郎
 NHK「にっぽんの芸能」で「名舞台 十七世中村勘三郎」が放映された。渡辺保氏の姿を見るのも久しぶりである。当方より3歳上なのに、矍鑠としているのがうらやましい。氏が選んだ役柄は、「髪結新三」、「夏祭」の「お辰」、「寺子屋」の「松王丸」、それと「沼津」の「平作」。氏の好みによるものとはいえ、どうだろうか。勘三郎の魅力の一つは、コミカルな持ち味であった。「法界坊」を楽しく演じられるのは十七世と十八世勘三郎の親子だけではなかろうか。また、古典以外の勘三郎も見逃せない。当方の好みで選ぶなら、「髪結新三」、「籠釣瓶」の「佐野次郎左衛門」、「法界坊」、それと「瞼の母」の「番場の忠太郎」といったところか。

2022年4月22日(金)文楽「義経千本桜」
 文楽劇場4月公演の第一部へ。「伏見稲荷」、「道行初音旅」、それと「河連法眼館」。「豊竹咲太夫文化功労者顕彰記念」と銘打った公演だが、「四の切」を語るはずだった肝心の咲太夫は病気休演。代演は織太夫。「中」を語った呂勢太夫とともに、次代を担う太夫を聴くことができたとしておこう。狐忠信の人形は勘十郎。早変わりや宙乗りの派手な演出で客席から拍手をもらっていた。「道行」では頭の上で5丁の三味線が鳴る。舞台には桜があふれ、適度な気分転換になった。
 チケット売場には当日売りの購入者が列を作っていたのに、客席は半分も埋まっていなかった。コロナ対策は徹底しているが、ロビーでお茶も飲めないのがつらい。夏には脱水症予防も考慮すべきではなかろうか。
 咲太夫は小生より5歳も若い。早く回復することを願っている。

2022年4月24日(日)文楽追想
 午前中は家事雑用。午後、一昨日の文楽についてジャーナルを執筆したあと、劇場で配布されていたカラー刷りパンフ『文楽座の歩み』を読んでみた。パンフを作成した一般社団法人「人形浄瑠璃文楽座」という組織があることを初めて知った。技芸員たちの変遷を見たくなったので、書棚から国立劇場芸能鑑賞講座『文楽』(1975)と1990年の『文楽名鑑』を取り出し、今月の「筋書き」掲載の「技芸員紹介」欄と比べてみた。現在の人間国宝4人と新たに切り場語りになった3人は、皆、1975年の名簿に掲載されている。すでに舞台では見ることのできなくなった人々も、なつかしく思い出す。太夫では越路太夫(大正2年生)や津太夫(大正5年生)、三味線では喜左衛門(明治24年生)、人形では玉男(大正8年生)や勘十郎(大正9年生)など。現在の桐竹勘十郎が名簿の末尾に「吉田簔太郎」で掲載されているのにも歴史を感じる。
 ところで我が書棚には鑑賞講座『文楽』の初刷(1975)のほかに第3刷(1985)もあるが、初刷の「文楽名鑑」(pp.100-112)が第3刷(1985)には掲載されていない。おそらくこの名鑑は初刷だけにあるのだろう。文楽愛好者が古書で同書を購入する場合、是非とも初刷を入手すべきであろう。

2023年1月29日(日)忠臣蔵七段目
 夜のNHK.TVで、久しぶりに忠七をじっくり楽しんだ。昨年9月の歌舞伎座公演第三部。由良之助は仁左衛門、平右衛門は海老蔵(現、団十郎)、お軽は雀右衛門。海老蔵の平右衛門は型通りに演じることに精一杯で、「小身者の悲しさ」も、兄妹の情愛も伝わってこない。我が記憶に残る平右衛門は先代松緑。しかし松緑が平右衛門という人物像が大嫌いだと語っているのを知って、驚いた。妹を殺してでも成り上がりたいという根性が嫌だったのか。「小身者の悲しさ」への共感があっても良いように思う。

2023年4月17日(月)文楽4月公演「山の段」
 昼過ぎに国立文楽劇場へ。3時開演の第2部「妹背山」の三段目。名作「山の段」を楽しんできた。「妹背山」の通し上演は直近で2010年4月と2016年4月にもあったが、今回は体力を考慮して第1部の初段と二段目はあきらめた。今回感じたのは、繰り返し観ている演目なのに細部が頭に残っていないこと。とくに「太宰館の段」でそれを感じた。「忠臣蔵」ではそんなことがないのに、やはり観る頻度が異なるためかもしれない。
 開演前の1階ロビーは観客であふれていた。当日の公演はNHKが収録していたので、放映が待たれる。文楽劇場の夏の公演では四段目が出る。今から楽しみである。次に「妹背山」の通しが出る時、当方は90歳を超えている。観ることができるだろうか。


2023年9月15日(金)猿翁死去
 市川猿翁が13日に死去したとの報道があった。当方と同じ1939(S14)年の生まれだが、彼は12月、当方は1月なので学年は1年違いになる。同年代の人物の訃報は気になる。自分の余命を考えてしまう。
 1959年の東京都港区の成人式の講演で、同年に成人となる有名人の例に市川団子の名が挙げられた。当時すでに若手の役者として注目されていた。団子時代か猿之助襲名から間もない時期の舞台で印象に残っているのは、歌舞伎座で見た「二十四孝」の「十種香の場」の白須賀六郎。八重垣姫や謙信が誰だったか憶えていないが、猿之助の白須賀六郎の姿だけが目に焼き付いている。ほんの短い時間だが、猿之助の登場で舞台が一変したように思う。歌舞伎役者としての天性の能力が発揮されていた。
 我が母親は猿之助の熱烈なファンとなり、後援会にも入会していたが、当方はスーパー歌舞伎にさして興味を持てなかった。それでも、たまに見る猿之助一座の舞台の演技は確かなものだった。もともとの構想のまま、市川右近(現・市川右團次)が「猿之助」を襲名していたら、歌舞伎の世界もかなり様変わりしたのではなかろうか。

2024年2月1日(木)咲太夫死去
 ネットのニュースで知った。休演が続いていたので心配だったが、残念な結果となった。196611月、国立小劇場での襲名披露公演以来、注目してきた太夫である。綱太夫襲名を楽しみにしていたが、本人にその気はなかったらしい。新橋演舞場や三越劇場での文楽公演で中心となっていた技芸員たちがこの世を去り、東京在住のころからのなじみといえば咲太夫だけになっていた。自分が生きてきた時代が消えていく気がする。享年79歳。もう少し、活躍してほしかった。

2024年3月8日(金)文楽予約
 文楽劇場4月公演の予約を済ませた。昨日が会員先行予約日で、本日から一般予約開始だったのを勘違いしていた。しかし座席はほとんど埋まっていなかったので、いつもの床直下の席を楽に確保することができた。それは嬉しいが、観客が少ないのが心配である。コロナで激減した観客がもどっていないらしい。世間の耳目を集めるような思い切った企画がないものだろうか。襲名披露程度では話題にならない。
 三部構成のうち、今回は第一部「絵本太功記」にした。「尼ケ崎の段」の切は千歳太夫。現在の太夫陣の中では千歳太夫が好みなのだが、なぜか出演はいつも第一部。当方はほとんど第二部に行くので、ここ数年、千歳太夫を聴いていない。久しぶりの千歳太夫に期待している。
 第二部が「豊竹呂太夫改め十一代目豊竹若太夫・襲名披露公演」。若き日、文楽に通い始めたころ、呂太夫の祖父、十代目若太夫の豪快な語りに魅せられていた。当時、すでに視力を失っており、その語りを楽しめたのは短い期間だったが、しっかり記憶に残っている。「逆櫓」の舞台にいつも不満を感じるのは、最初に十代目若太夫で見た舞台の印象が強いためだろう。呂太夫の風貌には祖父を思わせるところもあるが、語り口はまるで違う。呂太夫が襲名に際し、どこかで、祖父の語り口も復活させたいと語っていたと思うが、そうであるなら、これも期待したい。