2012年12月31日(月)その2 今年は何をしたか
 
桃山学院大学で担当する「科学技術史」を生物学中心にしたこともあって、生物学通史の構想が固まり、執筆の見通しがついてきた。その一方で、ペーパーにする予定だった「ヴィクトリア朝の人間論」は中断したままになってしまったが、通史の具体化を優先させているので、やむを得ない。
 趣味の世界では、文楽がますます好きになってきた。その一方、松竹座の歌舞伎に魅力を感じることが少なくなった。春と秋の大和探訪も、しだいに視野が広がってきた。体力を考慮しながら続けていきたい。

2012年12月31日(月)その1 「勘三郎はなぜ死んだ」
 年越し蕎麦などを買うため、昼過ぎにバスで河内長野駅前へ。ついでに書店で週刊誌『AERA』最新号(12月31日・1月7日合併号)を購入。勘三郎の死の経過には釈然としないところがあるので、新聞広告で知った標記の記事(pp.17-19)を読んでみたかった。論評を控えて事実だけを綴ったよい記事だと思う。手術ではなく、抗がん剤治療を続けるべきではなかったのか。術後肺炎を徹底的に防ぐ方法はなかったのか。素人が判断することではないだろうが、勘三郎が助かる道はあったのではないかと思えてならない。まだまだ楽しい芝居を見せてくれると期待していたのに、幼くして人気者となり、そのまま50年間、走り続けて向こうの世界に行ってしまった。

2012年12月29日(土)「植物学のドイツ人父たち」
 この冬休みの間に、生物学史の中でもなじみの薄いルネサンスのナチュラリストたちについてまとめることにしていたが、ようやく、「植物学のドイツ人父たち」(german fathers of botany)の4人について整理することができた。DSBとアーバー(月川和雄訳)『近代植物学の起源』を読み、ネット上の情報を確認すると、1人あたり2日はかかる。おかげで、ブルンフェルス著やフックス著の木版画は著者によるものではなく、別の画家によるものであることなどが確認できた。概説書だけを頼りにしていると間違いを引き継ぐところであろう。
 月川などは「ドイツ植物学の父」という訳語を用いているが、これは八杉のように「植物学のドイツ人の父」と訳すべきだろう。ところで、現在の生物学史にもよく登場するこの表現はいつ始まったのだろうか。クルト・シュプレンゲルの『植物学史』(1817)が最初らしいが、確認できない。頭の片隅に入れておけば、いずれ、なにかの折に確認できるだろう。

2012年12月28日(金)動物病院
 家猫のハナを連れて千代田動物病院へ。爪切りと診察。体重が減少気味なので血液検査をすることになったが、老齢のわりには元気なので、それほど心配することはなかろう。輸液セットをまとめ買いしてタクシーで帰宅したが、道路は渋滞していた。仕事納めのため、車が動き回っているのだろう。それにしても、我が家計のネコ係数は高い。

2012年12月26日(水)年賀状
 パソコン・プリンターで年賀状の印刷をし、数通の宛名書きを済ませた。近年はずぼらになって、ほとんどの年賀状は年明けに返礼の形でしか書かなくなってしまった。それでも何通かは元旦に間に合うように出してきたが、今回はそれも6通になってしまった。90歳になる高校時代の恩師からは今年で賀状は打ち止めとの通知があったが、今回だけは賀状を送り、次回からは止めることにしたので、来年は多分、5通以下になるだろう。

2012年12月25日(火)ホームセンター
 昼過ぎに河内長野駅前まで出て、まずは郵便局で絵入りの年賀状を購入。市役所で用事を済ませてから、近くのロイヤル・ホームセンターへ。家の外で世話しているシロのためのキャットフードと、屋外のハウスで使うカイロのまとめ買いである。年金生活には応える額になるが、成り行きで面倒を見ることになってしまったので、見捨てるわけにもいかない。

2012年12月20日(木)瀬田敦子ピアノ演奏会
 7時開演の標記の音楽会へ。公演名は、「ラブリーホール主催ロビーコンサート ピアノ世界旅行 ピアニスト瀬田敦子が世界の名曲を紹介」となっている。ただし、ロビーのピアノに不具合があったという理由で、会場は小ホールに変更されていた。ホールの方が音響効果も良いし、ピアノもスタインウエイなので、演者も客も会場変更に異論はない。
 6時半の開場時間からしばらく経って客席に入ってみると、早くに入っていた客のほとんどは舞台下手側、ピアニストの手が見える場所に座っていた。「もしもピアノが弾けたなら」世代としては、そのようなこだわりがないので、舞台上手側の最前列に座った。
 最初の曲、モーツァルトのトルコ行進曲の迫力にまず圧倒された。続いて、ベートーベン「エリーゼのために」、ドビュッシー「月の光」など、なじみの曲が演奏された。演奏の合間には演者が訪れた世界各地の写真や、演者が協奏曲のピアノを弾いた海外のコンサートのビデオが写された。これはこれで楽しめたが、できればもっと生演奏を聴きたかったな。もっとも、千円のチケット代では贅沢はいえない。
 今回、残念だったのは開演前に会場のスピーカーから大音響でアコーデオンのやかましい曲を流していたこと。耐えられなくて、指で耳をふさいでいた。コンサートの前にBGMなど、まったく必要ないのに、会館としてはサービスのつもりだったのだろうか。

2012年12月19日(水)授業日
 3限「論述作文」は久しぶりに800字論文の演習。4限「科学技術史」ではガードンと山中のノーベル賞受賞の話で生物学史中心の講義を締めくくった。例年、この時期になると試験のことが気になって授業に出てくる受講生が増えるのだが、今年はその傾向が見られない。公開されている教材を見るだけで十分と判断しているのかもしれない。
 今日もまた、図書館から借りだした重い科学史書を抱えての帰宅となった。

2012年12月18日(火)シラバス入力
 桃大の来年度の授業のシラバスをネット上で入力した。「論述作文」は今年度とほとんど変える必要はないが、「科学技術史」の講義計画はかなり変更した。生物学史中心の講義を1年間実施してみた結果である。講義計画をきちんと組んでみると、補充すべき内容が明確になってくる。生物学通史の執筆も踏まえて、努力してみよう。このところ、授業に追われる感じで精神的に少々疲れ気味だったが、新年度を目指して元気が出てきた。来年度で桃大での授業も終わるが、充実した形で終えたいものだ。

2012年12月17日(月)試験問題作成
 「科学技術史」のまとめの教材を作成した勢いで、試験問題も一気に作成を終えた。今年度は生物学史を中心にしたため、例年の問題とは大幅に変えなければならなかった。これで後は2回の講義とテストの採点・評価を残すだけになり、なんとなく、今年度の授業を終えたような気分になってきた。

2012年12月16日(日)教材作成
 「科学技術史」1月9日の授業で提示するpptスライドの作成を終えた。生物学史を中心にした1年間の講義内容の要点をまとめたものだが、意外と手間取って、延べ5日も費やしてしまった。改めて生物学史全体を見渡す機会にはなった。

2012年12月14日(金)忠臣蔵番組
 極月半ばの14日、忠臣蔵の日である。NHKテレビでは、BS3で映画「四十七人の刺客」、Eテレ「にっぽんの芸能」で歌舞伎「松浦の太鼓」と坂東流の舞踏「二つ巴」を放映していた。昨13日(木)のBS歴史館は「家族をめぐる忠臣蔵」と題して大石たちの行動を考察していた。12日(水) の総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」は「せつなき10代 熱き忠臣蔵」と題して、大石主税と矢頭右衛門七を取り上げていた。しかし民放ではこの数日、忠臣蔵ものが一本もなかったのではないだろうか。もはや忠臣蔵では視聴率がかせげないという現実があるのだろう。
 「松浦の太鼓」も「二つ巴」も、いわばB級作品なので、わざわざ劇場まで足を運ぶまでもなく、テレビで十分だろう。「土屋主税」は2代目鴈治郎などで何回か見ているが、「松浦の太鼓」は見ていないかも知れない。画面では吉右衛門が気持ちよさそうに演じていた。

2012年12月11日(火)鈴木善次・鈴木良次『「はてな心」を育てる科学歳時記』ニュークリアティブ研究会 2012年
 標記の冊子が昨日、届き、本日、読了。「ヒマワリと太陽」「台風の渦は左巻き」など、季節ごとの話題48項目について解説したもの。生物関係を善次氏、物理関係を良次氏が分担している。著者たちは人も知る双子の兄弟だが、そのお名前を合わせれば「善良」となる。命名したご両親の人柄がしのばれる。
 中高生を読者に想定していると思われるが、コリオリの力の解説で、「大きなレコード盤の上で(中略)実験をしてみよう」(p.14)とあるのには、思わず笑ってしまった。今の中学生には、なんのことか分からないかもしれない。
 善次氏担当の項目では植物生理学や昆虫行動学などの最近の研究成果も紹介されている。科学史で20世紀の生物学を取り上げる場合、どうしても、遺伝学、生化学、それと分子遺伝学に集中せざるを得ないが、現在でも生物学の各分野で地道な研究が続けられていることがわかる。わが生物学通史では、こうしたことにも目を配りたいものだ。
 この冊子の内容はニュークリアティブ研究会のホームページに掲載してきたものだが、冊子では内容も更新され、新たに挿絵と写真も加わり、贅沢な造本になっている。市販はされていないが、同研究会に問い合わせれば入手できるようである。

2012年12月8日(土)飛鳥京跡苑池・現地説明会
 11月30日の新聞で標記の説明会開催を知った。昨年は初めての参加なので喜び勇んで出かけたが、今回は様子が分かっているので落ち着いていられる。2時までに現地に着けばよいだろうと、朝はまず田中整形外科に寄ってから河内長野駅に。
 とにかく寒い。古市からの近鉄電車の中で、天気も悪くなってきたし飛鳥行きを中止しようかと迷いだした。とりりあえず橿原神宮前駅で途中下車し、構内のうどん屋で鍋焼きうどんを食べたら体も温まり、元気が出てきたので行ってみることにした。
 飛鳥駅前からバスに乗り、岡橋本のバス停から歩いて現地に着いたのが1時半。遺跡の風景は昨年と変わらないように見えた。調査範囲が同じなので当然なのかも知れない。見学者は昨年よりかなり少ない。この寒さのためだろう、自分もこの寒空に2時の解説まで待っていられないので、遺跡を一回りして帰ることにした。今回の収穫は、池の構造を改めて頭に刻みつけたということだろうか。
 昨年と同様に弥勒石を経由して飛鳥寺に出た。「飛鳥大仏前」のバス停でバスに乗るつもりだったが、バス停の時刻表が空白になっている。工事のためバスは迂回していて、ここには来ないのだという。臨時のバス停の場所も分からないので、バス停「飛鳥」まで歩き、先に来たバスに乗ったら橿原神宮駅行きであった。昨年は奈良県立考古学研究所のホームページも確認し、バスの時刻表も調べて出かけたが、今回はなんの準備もしなかったため、とんだ目に遭った。

2012年12月7日(金)教材作成
 「科学技術史」第27回の授業(1月9日)では4月からの生物学史の講義を総括することにしたので、その教材pptスライドの作成に取りかかった。新しい材料を追加する必要はないのだが、何をどうまとめるかで難渋している。まだ時間があるので、ゆっくり取り組むことにしよう。

2012年12月6日(木)教材作成
 「科学技術史」の来週「生化学」と再来週「分子遺伝学」の教材pptスライドを作成した。両者とも基本的には前年度のものを流用するが、今年はガードンと山中のノーベル賞受賞という話題を外すわけにはいかないだろう

2012年12月5日(水)勘三郎の逝去
 朝のニュースで勘三郎死去が伝えられた。最近の新聞報道などから病状は芳しくないようだと心配していたが、残念な結果になった。父親を越える役者になると期待していたのに、早すぎる死であった。「法界坊」は二代の勘三郎でしか思い浮かべることができない。歌舞伎の世界がその分、つまらなくなってしまった。
 本日は桃大出講日。名誉教授室でもしばし歌舞伎談義となった。

2012年12月4日(火)教材作成
 明日の「科学技術史」のテーマ「優生学」の教材スライドの作成をようやく終えた。最初の授業計画では優生学を取り上げるつもりはなかった。しかし「遺伝学」の講義で、「優性」と「優生」との区別を強調したので、優生学についても解説すべきだろうと予定を変更した。最近も、かなりの知識人が「優性」と「優生」とを混同している事態に出会った。遺伝学用語の「優性」を「顕性」に、「劣性」を「潜性」に変えれば済む問題なのに、遺伝学者たちはこの社会全体の誤解に驚くほど鈍感である。

2012年12月3日(月)忠臣蔵本
 朝は、ハナの輸液セット廃棄物の処理を依頼に千代田動物病院へ。帰途、河内長野駅前の書店に寄る。毎年、この時期になると忠臣蔵関係の新刊が出るが、今年の注目は新潮新書の山本博文『「忠臣蔵」の決算書』であろうか。大石内蔵助が記した700両の軍資金の会計帳簿を紹介し、資金面から赤穂浪士の動向を分析している。もう一冊、徳間書店のムック『忠臣蔵と日本人』はありふれた内容で信頼性にも欠けるが、気楽に読むとしよう。

2012年12月2日(日)文楽予約
 文楽劇場初春公演を会員先行申込で電話予約。先日送られてきた配役表を見ると、住大夫が第一部の「寿式三番叟」の翁で復帰する。これにも強く惹かれるが、昼夜両方を見る余裕はないので、今回は第二部の「逆櫓」と「狐火」を楽しむことにした。座席はいつもの床直下の席。第一希望日、第二希望日はすで埋まっていて、三択目で確保することができた。
 前述の配役表には三味線の清治の名が無い。そんなはずはないだろうと何度も見直したが、やはり無い。清治に何か起きたのかと気になっていたが、昨日、訂正の葉書が届き、清治は「狐火」に出ることが分かってほっとした。単なる印刷ミスだったらしい。「狐火」では三味線が大活躍するので、清治の名人芸を堪能してこよう。

2012年12月1日(土)第16回科学史西日本研究大会
 標記の研究会が梅田の阪急ターミナルビル16階にある追手門大学サテライトで開催され、10時半から4時半まで、8本の発表があった。当方の関心からは掛け離れたテーマの発表もあったが、聞いてみるとみな、面白かった。出席者数は発表者、主催者を含めて15くらいだったろうか。そのうち12名が出席して、丸ビル地下の居酒屋で懇親会となった。久しぶりに科学史仲間と歓談し、良い刺激になった。

2012年11月28日(水)授業日
 3限「論述作文」では、研究レポート改訂版発表の第1回目。各自、それなりに努力している。欲を言えばきりがないが、それぞれの能力を勘案して、これでよしとしよう。4限「科学技術史」のテーマは遺伝学。今回はメンデルの話を中心にしたが、来年度に向けては本腰を入れて遺伝学史を勉強し直し、講義でも古典遺伝学成立史に3回分を当てることにしたい。

2012年11月27日(火)教材作成
 次週の「科学技術史」のテーマ「優生学」のppt教材を作成しなければならないのだが、ゴルトンの生涯をまとめた程度で中断、明後日以降に持ち越すことにした。この1週間は雑用と外出で疲れがたまり、何もできない日が続いている。

2012年11月25日(日)三井寺
 三井寺にさしたる興味はないが、一度は訪ねておくべき所ではあろう。今回は足の悪いカミさんのお供で出かけたので、いつもの一人旅の気楽さはない。昼前に家を出て、3時に三井寺へ。特別公開中の勧学院に寄り、微妙寺と観音堂を訪ねただけで終わった。例年なら紅葉の最盛期のはずだが、今年は紅葉が早く、1週間前がピークだったという。
 大津駅に降りたった時、駅も周辺も静かで人気の少ないことに驚いた。これが近畿圏の県庁所在地の駅であろうか。それ以上に驚いたのが、タクシーで三井寺まで行く途中の商店街である。もとは大津一番の繁華街だったという商店街も、まさにシャッター通りで、開いている店がない。日曜日だからというわけではなく、いつもこうなのだという。河内長野市にも類似の問題はあるが、これほどではないように思える。
 
2012年11月21日(水)授業日
 3限「論述作文」では、ようやくのことに全員の研究報告を終えた。例年の倍の回数がかかったし、その割に低レベルの報告が目立つ。2回目の報告で大幅に修正してくることを期待している。
 4限「科学技術史」ではダーウィニズムとキリスト教の関係を取り上げた。生物学史としては脇道の話題になるが、当方の得意な分野であり、受講生にとっても興味ある話題であろう。
 
2012年11月20日(火)遺伝学史
 次週の「科学技術史」のテーマ「遺伝学史」の教材スライドを作成。ここ数週間は断続的に、P.J.Bowler(1989)などの遺伝学史二次文献を読み散らかしてきたが、計画していたほどには進まなかった。あちこちに出かけていたし、精神的にも疲れを感じていた。それでも、一般に語られている遺伝学史が科学史研究の成果からかけ離れていることは理解できた。生物学通史の中でも、まずこの問題に取り組むべきかもしれない。

2012年11月19日(月)談山神社
 久しぶりの快晴。山辺の道散策の延長として、まずは桜井駅前からバスで談山神社に向かった。紅葉シーズンでバスは増発されているとはいうものの、10時50分発のバスは通勤ラッシュ時のバスと同様の混雑であった。談山神社も学生時代に訪れているはずだが、何もおぼえていないし、現地でも何も思い出さない。せっかくの体験が無にならないように、記録しておこう。紅葉の名所といっても、あまり大きな期待を抱いて行くとがっかりする。一通り建物を見て回り、食堂で定食を食べ、13時17分のバスで山を下りた。
 この神社が江戸時代から繁栄していたことは理解できたが、そもそも飛鳥時代の多武峰はいかなる存在だったのだろうか。神社のパンフなどには書いてないので、いずれ調べてみたい。
 下りのバスを聖林寺前で下車。国宝・十一面観音立像はガラス越しの拝観だったが、そのことはほとんど気にならなかった。男性的で厳しい雰囲気の観音像だった。桜の時期にまた来ようかな。
 聖林寺から歩いて談山神社大鳥居へ。石でこれだけの鳥居を作るのがすごいし、昭和の火事で端が欠けたというのも面白い。案内板に、談山神社のおかげで周辺の町が栄えていたとあった。
 大鳥居から数分でメスリ山古墳に至る。この古墳も宮内庁の指定を免れているので中に入ることもできるが、今回は周りを歩くだけにした。これで、箸墓、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山、崇神陵、景行陵と、初期の大王墓6基をすべて見たことになる。
 古墳の周りを歩いているうちに方向が分からなくなり、何度が道を聞いて、安倍文殊院にたどりついた。本尊が重文の文殊菩薩像。菩薩本体よりも獅子の方が印象的であった。自ら「御祈祷の寺」と唱っているように、信仰の寺というよりも御利益の寺で、再訪する気にはならない。ただ境内に飛鳥時代の古墳があり、この地域が朝廷にとっていかなる土地だったのかには興味がある。
 3時を過ぎて、奈良商業高校の学生たちの群れに囲まれ、桜井駅に向かった。
 今回の収穫は聖林寺の十一面観音とメスリ山古墳。残念だったのは、まったく猫に出会わなかったこと。とにかくこれで、石上神宮から談山神社までを踏破したことになる。来春、明日香村の上(かむら)のバス停から談山神社まで歩けば、石上神宮から飛鳥までつないだことになるが、どうしようかな。

2012年11月15日(木)文楽「仮名手本忠臣蔵」
 朝から夜まで日本橋の国立文楽劇場。といっても、昼の部の最後、源大夫が語る「勘平腹切」は中座し、外を歩いて体をほぐしてきた。今の源大夫につきあう気はない。新聞には4日に源大夫休演、代役は津駒大夫と出ていたので、それが続いていると思っていた。
 客の入りは上々で、切符売り場にも行列ができていた。橋下・大阪市長の文楽いじめが新聞にもしばしば取り上げられるので、文楽が注目されるきっかけにはなったのだろう。だからといって文化の価値を否定する橋下の暴挙を認めるわけには行かない。
 文楽劇場での忠臣蔵は平成16年11月公演以来、8年ぶりである。8年前も昼夜ぶっ通しで観劇したのだが、四段目「判官切腹」でケータイの鳴ったことが強烈な記憶として残っている反面、舞台の記憶が消えている。この公演の出演者を記載したビラが残っているので、それを参考にしながら今回の公演について記録しておこう。
 8年前は由良助役の玉男が健在だったが、九段目と大詰の由良助は玉女であった。当時から玉女が玉男の後継者と目されていたのだろう。しかし残念ながら、今回、玉女の由良助にはがっかりした。玉男のレベルは無理としても、もっと風格がほしい。人形ではやはり、簑助のおかる。七段目、酔い覚ましに二階でぼんやりしている姿は絶品であった。
 咲大夫は前回と同じ「判官切腹」のほかに、今回は七段目の由良助を担当している。「山科閑居」は、前回が住大夫と咲大夫、今回が予定では嶋大夫と千歳大夫だったが、千歳大夫が病気休演で代役は呂勢大夫であった。住大夫が長期休演の現在、嶋大夫と咲大夫が大夫陣の中心になり、次代の担い手として、千歳大夫、呂勢大夫らが期待されているのであろう。
 今回の公演には、初めて文楽を見る観客が多いらしい。名作中の名作とはいえ、「忠臣蔵」は文楽初心者にしんどいかもしれない。正月公演に予定されている「逆櫓」や「狐火」の方が分かりやすいのではなかろうか。橋下市長のように、二度と文楽は見ないなどといわず、正月公演にも出向いてほしいものだ。

2012年11月10日(土)正倉院展
 昼過ぎに近鉄奈良に着き、まずは特別公開の興福寺・仮金堂へ。本尊の釈迦如来だけは江戸時代の作だが、ほかの諸仏はすべて鎌倉時代の作で重文に指定されている。訪れたときは、たまたま観光バスの団体が途絶えていて、ゆっくり拝観することができた。巨大な中金堂が完成したらどんな配置になるのか、興味がある。完成予定の2018年には当方も79歳になっているが、元気に見に行きたいものだ。
 奈良国立博物館の正倉院展は例年と変わらず混雑しているが、迫力ある展示品が少ないように感じた。いつものことだが、人混みの中を歩き回るだけで疲れ切ってしまった。

2012年11月7日(水)授業日
 3限「論述作文」は研究レポート報告の4回目。例年なら3回で終える人数なのに、まだ終わらないとは困ったものだ。4限「科学技術史」の本日のテーマはダーウィンの生涯。現在の自分にとっては最も楽なテーマであり、これだけで1年間の授業も可能だが、なんとか90分以内に収めた。
 名誉教授控え室での話題は、当然のことながら、アメリカ大統領選と田中文科相不認可騒動。ネットの選挙速報を見ながら政治学者の解説を聞いていた。大学設置不認可については、文部省との交渉で苦労した経験がある面々なので、田中真紀子は大臣以前に政治家として失格との結論になった。常よりも、にぎやかな控え室であった。

2012年11月6日(火)エル・グレコ展
 朝は近大病院眼科へ。外出ついでに午後は大阪市内に足を伸ばし、国立国際美術館のエル・グレコ展へ。先日訪れた天王寺の北斎展よりも混雑していたが、画面が大きいのでこちらの方が見やすかった。作品の多くは「受胎告知」などの宗教画で、本来はカトリックの信者が教会の中で拝するものであろう。我々には縁遠いこういう信仰の世界から近代科学が生まれてきたと思うと、改めてヨーロッパ文化を理解するのは難しいと感じた。
 話題の展覧会でも神戸や京都まで出かける気力はなくなったが、大阪市内であればまだ行く気になる。このエル・グレコ展も価値あるものであった。

2012年11月3日(土)ジャーナル執筆
 1週間もジャーナルを更新していなかった。大きな理由は体調が芳しくなかったことである。ぐずぐずと時間が過ぎてしまう日々が続いている。遺伝学史の勉強もほとんど手つかず。とにかくジャーナルは更新したので、明日からは遺伝学史の文献に取り組みたいものだ。

2012年11月2日(金)キャットフード
 夕方にロイヤル・ホームセンターへ。2ヶ月に1度、ハナ用の消化器サポートのフードと、シロ用のフードをまとめ買いしている。馬鹿にならない出費だが、やむを得ない。

2012年11月1日(木)北斎展ほか
 昼過ぎに大阪市立美術館の北斎展へ。北斎ともなれば混雑しているだろうと危惧していたが、それほどのことはなかった。とはいえ、浮世絵や書籍など、小さな展示品をゆっくり見て回る気にはならない。それでも北斎が「富嶽三十六景」だけでなく、多種多様な作品に取り組んでいたことは理解できた。展示の最後、「弘法大師修法図」(西新井大師)は1.5m×2.4m で迫力満点であった。しかし日蓮宗の熱心な護持者だったというのに、なぜ弘法大師を讃える絵を描いたのだろう。多分、画工としては信仰にこだわらず何でも描いたということなのだろうが、気になる。
 これ以上に気になったのは、絶筆ともいわれる「富士越龍図」である。展示の解説には、老いてなお高みを望む北斎の心を反映しているとあったが、当方には、死の予感から昇天を描いたように見えた。そんな解釈は無用で、単に吉祥画として鑑賞すべきなのかも知れないが、北斎は勝手にしろと笑ってくれるだろう。80歳を超えてなお、さらなる成長を目指す凄さ。北斎についての知識は高橋克彦『北斎殺人事件』から得ただけだったが、彼の人生をもっと深く知りたくなった。
 この日、美術館の地下展示室では二科展が開催されていた。北斎の後で二科の洋画を見るのも面白いと思ったが、体力と財力を考えてパスし、地下鉄・御堂筋線で大阪市立近代美術館・心斎橋展示室へ。現在は、人気投票に基づく館蔵名品展を開催している。投票一位だろうと予想していたモディリアーニの裸婦が二位で、佐伯祐三「郵便配達夫」が一位とは意外だった。このほか、福田平八郎「漣」やキスリング「オランダ娘」など、おなじみの絵が並んでいる。土田麦僊の大作「散華」を見るのは二度目であろうか。ゆっくり見て回ったが、天王寺の美術館よりも、ほっとするのはなぜだろう。展示室の広さが手頃で、見慣れた絵も多いためだろう。

2012年10月31日(水)授業日
 3限「論述作文」の研究レポート報告は遅々として進まないし、例年と比べて取り組みが甘い。困ったもんだ。4限「科学技術史」は進化論史の1回目。本日を含めて3回分の教材pptスライドは昨年までのものを流用し、余力を遺伝学史の準備に注ぐことにしている。近代生物学史の中でもとくに気になるのが遺伝学の成立である。この機会にかねてからの疑問、すなわち、メンデル論文は20世紀遺伝学の発展にいかに貢献したのか、いいかえれば、ドフリース単独ではその後の遺伝学の急速な発展はなかったのかという問題について基本的な文献を読んでおこうと考えている。

2012年10月26日(金)シロのワクチン接種
 朝は猫のシロを連れて千代田動物病院へ。年1回のワクチン接種である。成り行きで面倒を見ることになったシロだが、家の中に入れるわけにはいかないのでワクチン接種が欠かせない。費用もかさむが、やむを得ない。
 ほかの猫ではワクチン接種後も目立った変化はなかったが、シロは2日ほど、ぐったりして食欲もなくなる。基礎体力が劣っているのだろう。シロだけではなく、連れて行った当方も疲れて何もする気にならない。山辺の道を歩いた疲れが出てきたのだろう。当分、遺跡歩きは控えなければなるまい。

2012年10月24日(水)授業日
 3限「論述作文」は3名のレポート報告。まずまず合格のレポートもあれば、理解しがたい形式のレポートもある。こちらのだめ出しをきちんと聞いてくれれば、最後にはまともな形で書けるようになるはずである。4限「科学技術史」はパストゥールとコッホの話。身近な事例が出てくるので、食いつきは良かったようだ。

2012年10月23日(火)コッホの三条件
 コッホについての教材の中に、当然、病原菌同定に関する有名な「コッホの三条件」の解説も入れるつもりでいた。医学史の概説書などでは、コッホは結核に関する1882年の論文の中でこれを提言したと書かれているが、紹介されている内容は必ずしも同じではない。T.D.ブロックによる詳細なコッホの伝記(1988. 邦訳 1991)には、「コッホは、(中略)彼の要件の直截的陳述をしたことがない」(邦訳、p.160)とある。どうやら、「コッホの条件」とは、コッホの業績に基づいて他の研究者がまとめたもので、研究者によってその内容も異なる、ということらしい。ブロックの伝記にはこの問題に関する文献も記載されているが、当面、そこまでこだわる必要もないだろう。
 授業でこれをどのように伝えるか迷ったが、医学史ならとにかく、科学史では省略しても差し支えないだろう。我が生物学通史では、どうするか。やっかいでも逃げられないだろうな。

2012年10月22日(月)33年前のパストゥール展
 教材作成のために資料を探していたら、1979年5月に高麗橋の三越で開催されたパストゥール展の図録が出てきた。この中で一際目立つのが、見開きのカラー写真「白鳥の首フラスコ 1861」である。1861年の実験開始以来、いまでも微生物は生じていないというわけである。しかし展覧会当時から、これは本当に本物なのか、疑問に思っている。大きく揺れたら一巻の終わりなのに、どのようにしてフランスから運搬してきたのだろうか。また、展示中に地震で大きく揺れる可能性もある。それほどの危険を冒してまで、歴史的な科学資料を日本に持ってくるだろうか。あれはレプリカだったのではないかという疑念が今でも消えない。

2012年10月21日(日)補足:猫との出会い
 茅原大墓古墳からの道を南にたどっていくと、住宅街の中に鳥居と祠だけの小さな神社がある。大神神社摂社・神御前神社とあり、祠の向こうに三輪山が見える。その祠の中に猫がいて、じっとこちらを見ている。話しかけても逃げる様子はない。肥えているので野良ではないのだろう。説明板などを見ていると、ぽんと飛び降りる音がして、どこかへ消えてしまった。
 そこから数分で大神神社の参道に着く。それまでは人に会うことも少なかったのに、参道は参拝客であふれている。びっしり並んだ露店の前を通っていくと、目の前を先程の猫が歩いているではないか。口元に特徴があるので間違いないだろう。「おや、さっきの猫さんではないですか」と話しかけると、親しげに「にゃー」と返事をしてくれた。人混みの中なのでそれっきりになってしまったが、もっと構ってきたらよかったな。これからも旅先で猫との出会いを大事にしてみよう。
     
2012年10月21日(日)山辺の道
 絶好の行楽日和。6月と9月の歩きを合わせれば、山辺の道を石上神社から大神神社まで歩いたことになるので、その南、桜井駅まで走破しようと出かけた。ただし、今回の第一目標は箸墓古墳。バスや電車の窓から繰り返し見ているので、なんとなく知っている気になっているが、近くまで行ったことはない。JR巻向駅から歩いて、古墳の周りを一回り。右回りで歩いてしまったが、左回りに、池の向こうに古墳を見ながら歩くべきだった。
 歴史上、突然出現した最古の巨大古墳。日本という国がここから始まったとみても、それほど見当違いでもあるまい。箸墓からは三輪山がすぐ近くに見え、箸墓が三輪山信仰に関係していることが歴然としている。以前、考古学者に成り立ての若者と話したとき、生きているうちに箸墓の発掘調査が実施されることを願っているといっていたが、多くの日本人が同じ願いを抱いているだろう。宮内庁として天皇陵と指定しているものは難しいだろうが、箸墓や西殿塚については考古学者への開放を考えてもよいのではなかろうか。
 ボケノ山古墳の休憩所で持参のおにぎりを食べてから、茅原大墓古墳の脇を通り、大神神社を経由して平等寺へ。さらに崇神天皇の磯城瑞籬宮跡へ。ここは志貴御県坐神社の境内で、この二つが同じ場所だったとは、現地で初めて知った。
 海拓榴市観音堂に寄ってから、ひたすら南に向かい、初瀬川を渡り、近鉄線を越えて、桜井茶臼山古墳へ。この古墳は巨大古墳としては箸墓、西殿塚に次いで三番目に古いとされているが、宮内庁の指定から漏れているので発掘調査も行われている。中に入って上まで登ることができるとは、これも現地で知った。登ったからといって何かが分かるわけでもないが、おそらくは大王墓であろう巨大古墳に直接、触れただけでも嬉しくなる。
 桜井駅構内の若草書店をのぞくと、遺跡関係の本がずらりと並んでいる。考古学の解説書は確実に売れるのだろうな。うらやましい。当方も纒向遺跡の解説書を買ってしまった。
 本日の収穫は、箸墓と三輪山の関係を体感できたこと、磯城瑞籬宮跡と志貴御県坐神社とが同じ場所であることを知ったこと、そして桜井茶臼山古墳に登ったことであろうか。気分転換の良き日であった。

2012年10月18日(木)訪問者数
 桃大のサーバーを利用してこのHPを開設する際、訪問者数をカウントするシステムは入れなかった。自分自身のため、すなわち記録を整理し、記憶を定着させるために書いているという面が強いので、訪問者数は気にしないことにしていた。ところがホームページビルダーの新バージョンに「アクセス解析」のシステムが付属していたので、初めて訪問者数を知ることになった。
 この1週間で見ると1日平均7名、1週間に50名の訪問者がいる。多分、このうち、桃大での受講生が10名くらい、週に1回程度は見に来てくれる常連客が10名くらい、たまに立ち寄ってくれる知人が10名くらいで、ほかに新規のお客さんが毎日、二三人、といったところか。個人HPとしてこれが多いのか少ないのかは分からないが、なんとなく予想していた数もこんなものである。
 訪問者数が分かったからといって何かをするというわけでもないが、「見られている」という意識から緊張感が高まってきたことは事実である。

2012年10月17日(水)授業日
 3限「論述作文」は受講者各自による研究レポート発表の初日だったが、残念ながら不発に終わった。同種のことを10年以上、やってきたが、初めてのことである。次週は大丈夫だろうな。4限「科学技術史」終了後、科学史関連の人に会うため梅田へ。話題は当方が忘れかけている過去の研究テーマについてだったが、久しぶりのことなので、帰宅後も脳が興奮状態になっていた。

2012年10月14日(日)堀米ゆず子ヴァイオリン・リサイタル
 昼過ぎにラブリー・ホールへ。堀米ゆず子ヴァイオリン・リサイタル。前半の最後がバッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」、後半の最後がラヴェル「ツィガーヌ」、アンコールは「タイスの瞑想曲」。当然のことながら、堂々とした演奏であった。「ツィガーヌ」については解説書にも「難技巧の曲」とあるが、なるほど、これが一流プロの演奏かと納得した。
 ドイツで押収され、返還されたヴァイオリン「デルジェス」は、まだ演者の手元になく、日本音楽財団のストラデイヴァリウスを使っていた。慣れていないため最初はなかなか鳴らなかったが、ようやく鳴るようになったといっていた。
 このリサイタルの主催者「音の語らい」は、若くして難病で亡くなったクラシック好きの息子さんを偲んで、千代田在住のご両親、渡辺夫妻が運営している。「音楽を身近で気楽に楽しむ」という趣旨で、スタートして26年、78回目を迎えたとある。市内にこういう会があるとは、いままで知らなかった。個人運営なので宣伝力に欠けるのだろう。今回も小ホールの催しとしては盛況の方だろうが、それでも空席が目立つ。
 次回は3月2日(土)、池宮正信ピアノリサイタルとのことであった。
 主催者のパンフレットの冒頭には山中教授ノーベル賞について、「難病の患者にとっては大きな大きな期待に胸がふくらんでくる」とある。iPS細胞の実用化が話題になるのは致し方ないとしても、拙速にならないかと危惧している。まずはじっくり基礎研究を積み重ねるべきなので、メディアも慎重になってほしいものだ。

2012年10月10日(水)授業日
 3限「論述作文」では久しぶりに800字論文の練習。時間内に当方のすることはないが、持ち帰ってからの添削が一苦労である。4限「科学技術史」の冒頭では今回のノーベル賞について話したが、受講生が少ないこともあって反応がよく分からない。帰宅時には次次週の授業で予定している微生物学史関連の図書を数冊、借り出して家まで運んだ。他大学の蔵書も含めて検索してみると、日本語文献についてみる限り、パストゥールに比べてコッホ関係が顕著に少ない。なんとなくコッホが地味に見えて、人気がないのだろうか。

2012年10月9日(火)山中教授とガードン教授
 このジャーナルでは原則としてニュースネタを避けているが、標記の二人のノーベル賞受賞には触れないわけにいかない。山中教授については、わが「科学技術史」の授業でも毎年、取り上げ、いずれノーベル賞を受賞するのは確実だから、この名前をおぼえておけと伝えてきた。このことを記憶しているかつての受講生はいるだろうか。
 山中教授の受賞は当然のこととして、ある意味、それ以上にほっとしたのがガードン教授の受賞である。これほど評価の定まった歴史的業績が未受賞だったのはなぜなのか、不思議なくらいである。長命で受賞に間に合ったのは、本人も嬉しいだろうが、ノーベル賞の権威を維持することにもなったように思う。
 明日の「科学技術史」のテーマは発生学史なので、そのイントロには5日に報道された「iPS細胞からの卵子作製」を使うつもりだったが、当然、今回のノーベル賞受賞に切り替えることにしよう。

2012年10月8日(月)生理学史の教材作成
 この3日間は「科学技術史」次週のテーマ「生理学史」の教材pptスライドの作成に取り組み、ほぼ、終了した。ミュラーとベルナールの話に絞ることにしたが、ベルナールはともかく、ミュラーのすごさを伝えるのは難しいかもしれない。

2012年10月5日(金)ホームページビルダー17
 予約していたhpb17が宅急便で届いた。今年購入したWindows7パソコンには新バージョンのhpbを入れようと、今日まで待っていた。マニュアルをざっと見て、新バージョンではWordPressというシステムを使うので、通常のサーバーが利用できなくなったと早とちりしたが、このシステムを選択しなければ今まで通り大学のサーバーが利用できると分かってほっとした。サーバーの設定やデータの移行にも手間取った。後から考えれば簡単なことなのに、慣れないことなので無駄な時間を費やした。
 とにかくこれで、すべてを新しいパソコンで処理できるようになったはずである。ところが、このページは転送、更新ができるのに、「更新記録」などのページは転送しても更新されていない。念のため、他のパソコンで見たら更新されているではないか。こんなおかしなことがあるのか。
 翌6日に新パソコンで見ても、相変わらず更新されていない。ふと気がついて、エクスプローラーの「最新の情報に更新」のボタンをクリックしたら、更新されたページに変わった。なんだ、こんなことだったのか。今まで経験したことのないトラブルだったので、またまた時間を空費した。

2012年10月3日(水)授業日
 3限「論述作文」では、教室に設置したパソコンを使って、各自の研究テーマに関連した図書館蔵書検索を実際にやらせてみた。驚いたのは学生の文字入力の早さ。彼らにとってキーボードはごく身近なものだったのだろう。
 4限「科学技術史」では細胞学史を扱った。図版は直接、インターネットを利用して提示することにしていたが、パソコンの具合もあるのか、教室ではなぜかうまくいかない。予めスライドに貼り付けておけばよいのだろうが、著作権の問題が出てくる。書物の図を提示するのが最も無難なのだろう。

2012年10月2日(火)文楽予約
 朝早くに家を出て近大病院眼科へ。昼過ぎには帰宅して、文楽11月公演の電話予約。「仮名手本忠臣蔵」の通しなので、いつもの床直下の席を昼夜続けて確保しなければならない。第4希望日までは昼夜どちらかがすでに売れていて、ようやく5択目で確保することができた。11月14日(水)は桃大が振替休日になるので、この前後なら授業への影響を考慮しなくてよいので助かった。「忠臣蔵」ともなれば切符の売れ行きも順調なのだろう。
 歌舞伎でも文楽でも、「忠臣蔵」はいったい、何回見ているだろうか。それでも飽きない。ここしばらくの文楽公演は、自分にとってはB級作品が多かったので、久しぶりに名作に堪能できる。今回の注目は、四段目「判官切腹」の咲大夫、九段目「山科閑居」の嶋大夫と千歳大夫か。玉女の由良助はどんなだろうか。勘十郎が本蔵と平右衛門の二役と大活躍だが、簑助は七段目のおかるだけ。とにかく、待ち遠しい。

2012年10月1日(月)教材作成
 次週の「科学技術史」、発生学史の教材スライドの作成をなんとか終えた。発生学史というとルーの実験発生学が高く評価されているが、それは正当な評価なのか疑いを持っている。授業でもベーアを詳しく、ルーは簡単に済ませることにした。調節卵・モザイク卵、あるいは形成体などよりも、現在ではホメオボックス遺伝子について語るべきだろう。
      
2012年9月26日(水)授業日
 秋学期、最初の授業である。3限「論述作文」では夏期休暇の課題を忘れていた者も多く、緊張感が薄れてきているようだ。4限「科学技術史」終了後、金剛駅から狭山駅に回って、いつもの店で散髪。
 久しぶりに多くの人と接触して、よい刺激にはなったが、その分、疲れも感じる。

2012年9月25日(火)授業準備
 朝は北野田の日野歯科で定期検診を済ませ、そのまま桃大へ。7月18日を最後に登校していなかったのでメール・ボックスが満杯になっていたが、そのほとんどは書店の目録である。年金生活では本の購入は困難なので送付無用を通知すべきなのだが、どんな本が掲載されているかを見るだけでも参考になるので、つい、そのままにしてしている。
 「科学技術史」の教材pdfファイルを学内公開用のフォルダーに入れたが、その手順にもようやく習熟してきた。今まで、ずいぶん無駄なことをしていたようだ。

2012年9月24日(月)教材作成
 「科学技術史」の教材pptファイルをpdfの配布資料に変換しようとしたところ、pptの新しいバージョンでは「印刷」の画面に「配布資料」の欄がない。途方に暮れて、結局、古いバージョンの使い慣れた画面で変換した。この後で、新しいバージョンではもう1回、しかるべきホタンをクリックすれば「配布資料」の欄が出てくることが分かった。つまらんことで時間を空費してしまった。ppt はバージョン・アップの結果、かえって使いにくくなった気がする。

2012年9月22日(土)山辺の道
 ようやく外歩きの出来る季節になったので、山辺の道に出かけた。家に閉じこもっていても、するべきことはいくらでもあるので退屈はしないが、どうしても気うつ因子が沈殿してくるのを感じる。ときには遠出をしてリフレッシュしたくなる。
 6月1日のときと同様に電車を乗り継ぎ、JR柳本で下車。ただし今回は駅前から黒塚古墳に向かう道を途中で左に折れ、まずは五智堂に立ち寄る。お堂といっても太い柱の上に屋根をのせただけの一間四方の吹きさらしで、囲いもなく、四つ辻の角に立っている。傘堂という呼び名もあるが、それでも重文に指定されている。柱が大日如来で、柱の上部の4枚の板に四方仏を象徴する梵字が書かれている。これで五智如来になるという発想がおもしろい。
 五智堂は長岳寺の飛び地で、ここから東に行けば長岳寺境内に着く。重文の庫裏(旧地蔵院)で冷やし素麺をいただいてから内部を拝観にいくと、普賢菩薩の厨子の前に巨大な老猫が悠然と寝そべっている。話しかけようが、触ろうが、びくともしない。お寺の人に聞くと、若くて元気な頃はいつも住職についていって本堂でお経を聞いていた。そのおかげで何事にも動じなくなったのだろうという。親近感をおぼえたので、つい構い過ぎたか。最後はくるりと後ろ向きになり、丸まってしまった。悪かったね、ごめん。
 ここから山辺の道を、前回とは逆に北へ向かう。当然のことながら前回よりも歩いている人は多かったが、混雑するほどではない。
 今回、山辺の道に来たのは、矢澤高太郎『天皇陵の謎』(文春新書、2011)に、「わが心の大和青垣」の一つとして、「彼岸花の群落に包まれた初秋の西殿塚」(p.87)と記されているのに、さそわれたためである。ところが、西殿塚古墳の雄姿には感銘を受けたものの、周辺に彼岸花の群落などはなく、道ばたに数本を見かけただけだった。多分、矢澤が訪れた当時は群生していたのだろう。西殿塚に限らず、本日はどこに行っても、ほとんど彼岸花を見ることが出来なかった。我が家の近くでも以前は彼岸花が群生していたのに、最近は見かけなくなった。どこでも彼岸花が減少しているのだろうか。
 さて、最古の前方後円墳である箸墓が卑弥呼の墓所であり、古さでは2番目の西殿塚は卑弥呼の後継者の台与の墓所とする説もあるが、宮内庁ではこれを継体天皇の皇后、手白香皇女の陵としている。これが間違っていることは明らかで、近くの西山塚古墳こそ、本物の手白香皇女の陵であるという。この西山塚古墳の無残にも荒れ果てた光景が痛々しかった。
 年号を寺号にするのは特別な寺の証であると聞いたことがあるが、永久年間創建の永久寺跡には池しか残っていない。大神神社の神宮寺である平等寺は復興したのに、石上神社の神宮寺である永久寺はなぜ廃寺のままだったのだろうか。疑問が残る。
 その石上神社には3時過ぎに到着したが、鶏さんたちに挨拶しただけで通り抜け、天理本通りのアーケード街をひたすら駅に向かう。しかし昼に素麺だけでは、さすがに体が持たなくなった。かなり駅に近づいてから老舗のそば屋・更科に入り、久しぶりに生ビールで天ぷら。うまかったな。
 今回の収穫は、長岳寺の老猫と西殿塚古墳の雄姿。残念だったのは、彼岸花を堪能できなかったこと。来年はまた、飛鳥の彼岸花祭りに出かけるとするか。

2012年9月20日(木)「細胞学史」教材スライド作成
 秋学期第2回目の授業の教材スライド作成に5日間もかかってしまったが、最低限の授業準備が出来て、ほっとした。下調べは済んでいたのに、資料を確認しながらのスライド作成は1日に2枚程度であった。文献を読んでメモを取るくらいでは、すぐに忘れてしまう。他人が読むことを意識して書くことにより、自分の頭にも定着するようだ。
 細胞学史の関係では、シュライデンとシュワンの生涯がそれぞれ変化があって興味をそそられる。細胞分裂を確認したレマークがユダヤ人であるため差別的待遇を受けたことは、ハリス『細胞の誕生』にも詳しいが、孫の世界的数学者レマークがアウシュヴィッツで殺されたことをネット上で知り、戦慄した。
 原核生物と真核生物の命名がいつのことなのか、明記した文献がなく困っていたが、ずばり、この問題をテーマにした論文(Jan Sapp, 2005)がネット上で公開されているのを見つけて、うれしかった。これによると、1937年初出の用語が1962年に復活されたが、復活者の意図は原核生物の意義を強調するのではなく、その逆だったという。かなり長い論文なので、いずれ、じっくり読むことにしよう。

2012年9月15日(土)教材スライド作成
 火曜、水曜と、心身ともになんとなくぼんやりしていたが、2日前の木曜日から「科学技術史」のppt教材スライド作成に取りかかり、本日、秋学期第1回目分の作成を終えた。授業再開まで残すところ、後10日しかない。気合いを入れ直して取り組まねばならない。
 できれば夏期休暇中に秋学期の教材スライドを全て作成したいと思っていたが、とうてい無理。彼岸花を見に奈良にも出かけたいし、従業再開までに第3回目分まで終えるのが精一杯だろう。秋学期も教材準備に追われることになりそうだが、毎日の生活に緊張感が保たれるので、それもよしとしよう。

2012年9月10日(月)『歴史読本』10月号「特集・旧暦の楽しみ方」
 通院のついでがあるので昼過ぎに河内長野駅前へ出て、標記の雑誌を購入。歴史家の端くれとして暦についてもある程度の知識はあるが、理解できていないところも多いので、つい、こういうものを購入してしまう。『歴史読本』にしては珍しいテーマだと思ったが、なんのことはない、15日公開の映画「天地明察」に便乗しての特集だった。
 喫茶店でざっと全体に目を通して、まず気になったのが、寛政暦と天保暦についてほとんど触れていないことである。明治改暦を取り上げているのだから、貞享改暦以降には触れないという編集方針でもない。「日本の暦法略年表」(p.115) では、なんと、寛政暦が掲載されず、宝暦暦の次は天保暦になっている。江戸の暦を語るのに高橋至時の名がどこにもないというのも、異様ではないか。本文中の文字の欠落など、校正ミスも目立つ。どうやら、映画公開に合わせて急いで作った特集号だったようだ。冲方丁の原作がベストセラーになっているとは知らなかったが、映画は見る価値があるようだ。

2012年9月8日(土)オペラ「ドン・ジョヴァンニ」
 3時から河内長野市ラブリーホールの小ホールでオペラ「ドン・ジョヴァンニ」。舞台装置はほとんどなく、伴奏も弦4木管3にピアノという小編成。ソリストは35歳未満の年齢制限を設けたオーディションによって選ばれたという。厳しい予算の中でのやりくりなのだろう。伴奏の音質には不満があったが、ソリストたちには満足できたし、なにより、このオペラがどんなものなのかを知ることができた。
 騎士長の石像がドン・ジョヴァンニを連れ去るところでドラマは終わっているはず。最後の、悪は罰せられたと祝う場面は余分だが、キリスト教圏ではこれがないと収まらないのだろう。
 石像がドン・ジョヴァンニを連れ去る場面を見ていて、二つの日本映画が頭に浮かんだ。一つは大映の「大魔神」(1966年)。石像が動き出して悪人を懲らしめるというアイデアは、この場面から生まれたのかなと思った。帰宅後ネットで調べると、そうではなく、ユダヤ教のゴーレム伝説がネタ元だったらしい。
 頭に浮かんだもう一つの映画は、仲代達矢主演の「四谷怪談」(1965年)。映画の最後で仲代演じる伊右衛門が自分の生き方をわめき散らす場面が、自分の生き方を反省しないドン・ジョヴァンニの姿に重なってきた。
 オペラのドン・ジョヴァンニは、たまたま殺人を犯したため追われる身になったが、だました女性たちから必ずしも恨まれていない。現実のドンファンたちも同様だろう。魅力、財力、活力のすべてを備えていなければドンファンにはなれない。うらやましい限りである。
 ところで、開場予定の2時半には長蛇の列ができていたのに、開場は15分も遅れた。出演者が舞台の照明がまぶしいと言い出したため、照明のセットをやり直しているのだという。リハーサルの時には黙っていて本番直前に騒ぎだし、その付けを観客に払わさせるとは言語道断である。観劇やコンサートの楽しみは舞台だけではない。入場前の観客に不快感を与えるとは、なんたることか。出演者たちには猛省を促したい。

2012年9月5日(水)中村禎里『日本近世の生命観(1)身体と生命』(私家版、2012年8月)
 標記の著書が著者から送られてきた。昨年刊行された『生命観の日本史―古代・中世篇』(日本エディタースクール出版部)の続編の第1部に該当するもので、「間引き」の慣習を通じて当時の生命観の一端を明らかにしようとしている。B6版128ページの小冊子だが、いつものように詳細な文献注が付記されている。市販はされないだろうが、関心のある向きは直接、著者に連絡すれば、多分、入手可能だろう。
 著書に添えられた手紙に、「受け取りのご連絡も不必要です。おたがいに面倒くさいですからね」とあるのは、いかにも禎里さんらしい。
 「あとがき」に「あと半年たらずで81歳に達しようとする私が、これらのテーマのすべてについて論じつくすことは不可能である」とあるが、逆にいえば、この歳までは綿密な科学史研究が可能であることを示しているといえよう。当方も、その歳まで7年間もあるので、なんとか生物学通史を仕上げたいものだ。

2012年9月4日(火)クラシック講座「蝶々夫人」
 ラブリー・ホールのロビーで11時から開催される指揮者・牧村邦彦による標記の講座に出かけてみた。ソプラノ、テノール、バリトンにピアノの伴奏もあり、初演と現行版との違いや、聞き所などの解説があった。それなりに楽しめたが、中途半端な感じで満足感が得られない。アリア「ある晴れた日に」も、細切れに解説を入れながらだった。最後に歌手たちにもう1曲ずつ歌ってもらうよう、アンコールすればよかったのかもしれないが、客は年配者ばかりで女性が多く、おとなしすぎるのだろう。

2012年9月3日(月)学問名「生物学」
 ここ数日は、「生物学」(biology)という名称に関する文献をいくつか読んでいた。19世紀初頭にこの名称が登場する経緯はすでに確認していたが、それが広がる過程、とくに、大学にこの名称を冠した部局が設置される経過は見過ごしていた。日本では東京大学創設時の理学部に生物学科が設置されていたので、この問題が気にならなかったが、欧米では簡単なことではなかったようだ。J.Harwood(2009)の総説などを頼りに調べていきたい。
 東大の生物学科も創設から9年後の明治19年には動物学科と植物学科に分割され、戦後の昭和24年に再び生物学科が設置されるまで、東大から「生物学」の名称は消えていた。日本物理学会や日本化学会は存在しても、日本生物学会は存在しない。こういうところにも生物学という分野のやっかいな面が反映しているといえよう。

2012年8月27日(月)ジュンク堂
 散髪に外出したついでに、堂島のジュンク堂大阪本店へ。科学史・科学哲学の書棚にも気になる新刊書がずらりと並んでいるが、今回の目的は発生学概説書と解剖生理学ハンドブックである。発生学書ではネットで調べておいた浅島誠・駒崎伸二『動物の発生と分化』(裳華房 2011年)がこちらの目的にかなっているようだ。解剖生理学の便覧で長い間、参照していたものがあったのだが、定年時の書架整理で捨ててしまった。やはりこれは手元にないと困る。書店の書架には医学生を対象とした類書が何種類もあったが、坂井建雄・橋本尚詞『ぜんぶわかる人体解剖図』(成美堂出版 2010年)を選んだ。ほぼ、こちらの目的にかなっているが、英語名が併記されていないのが不便である。これも探せば、多分、適当なものが見つかるだろう。
 最近は茶屋町のジュンク堂梅田店に行くので、本店へは久し振りである。本店と梅田店、それぞれ一長一短だが、いずれも専門書が充実している。曾根崎の旭屋書店本店も、今は改築で閉店しているが、専門書が充実していた。阪急の梅田駅には紀伊国屋本店もある。これに対し、ジュンク堂千日前店は難波店として開業した当時こそ専門書が充実していたが、現状は情けないし、科学史関係はゼロである。旭屋書店なんばCITY店も以前は専門書もある程度、置いていたが、現在は皆無。大阪の南北格差が、こんなところに反映しているようだ。

2012年8月25日(土)生理学史
 この5日間は生理学史の文献を読んできたが、自分で執筆、講義をしようと思うと、やっかいな分野だ。授業では思い切って内容を限定すればよい。通史では一通りのことを扱うべきだろうが、そうすると研究成果の羅列になりかねない。生体諸機能の研究史をどのように語るべきか、考えていこう。
 読んだ文献の中では、『ケンブリッジ科学史・第6巻』(2009)の第18章「生理学」(R・クレーマー)の研究展望が有益だった。著者によれば、1950年代、60年代の科学史研究において、物理科学では16・17世紀の科学革命が標準モデルとされ、ライフ・サイエンスでは19世紀の生理学が標準モデルにされていたという。第1節「基礎的物語」では、この時期の生理学史において、「分野の自立」、「実験」、「概念形成」、それと「学派」の4テーマが取り上げられていたとし、Rothschuh(1952)、BenDavid(1960)、Canguilhem(1963)らの業績を紹介している。「実験」については、ベルナールらの生体実験、ミュラー学派の物理学的実験、リービッヒらの化学的実験のそれぞれについて文献を紹介している。第2節「新しい物語」では、近年の生理学史は地域的特性や、研究と社会との関連に注目するようになり、かつてのように生理学を一つのまとまった分野としては扱わなくなったという。第3節「生理学の消滅」では、内分泌学、免疫学、生化学、神経科学などが自立し、「生理学」という分野が消滅しつつあることを統計データによって示している。
 ここに紹介されている多数の文献に目を通す余裕はないが、「基礎的物語」のうちのいくつかは、いずれ読まねばならないだろう。

2012年8月20日(月)「一太郎」ダウンロード
 奈良に出かけた翌日からは、暑さのせいもあって、せいぜい趣味の雑学に興じる程度。それならと、本日は「一太郎」最新版のDL版を購入してセブン・パソコンにインストールした。まだソフトの導入が不十分なので、どうしても使い慣れたXPパソコンを使ってしまうが、今年中には全面移行したいものだ。

2012年8月15日(水)奈良博「頼朝と重源」
 毎日、家にいて、たまの外出もバスで近くに行くだけでは精神的に疲れて来るようだ。かといって夏場に飛鳥を歩くのも無理。というわけで、奈良に出掛けることにした。南海高野線は早朝の飛び込み自殺のため、ラッシュ時に運休していたらしいが、11時ころには正常運行にもどりつつあった。
 近鉄奈良駅の案内所で、県立美術館・館蔵品展「近代の日本画」の開催を知ったので、まずはここを訪れることにした。65歳以上無料というのは、年金生活者にとってありがたい。名の知れた日本画家たちの作品が78点も並んでいたが、大量すぎて、どう見たらいいか、とまどってしまう。結局、ポスターにも使われている松園「春宵」と、栖鳳「烏図」(2曲1双)とに集中することにした。日本画を見てほっとしたところで、いざ、国立博物館へ。
 本日は本館から入場したが、特別展のおかげだろう、観客が普段よりはるかに多かった。お盆で空いているだろうと思っていたのだが、新館の特別展「頼朝と重源」も鑑賞するにはほどよい混み具合であった。この展示で、なんといっても気になるのは、国宝の神護寺「頼朝像」である。これが頼朝像であることに強い疑いがあるのに、一言もそれに触れていない。ただし、解説パネルを注意深く読むと、頼朝の像とは断言していない。おそらく、この像をどのように扱うか、関係者の間でさまざまな折衝がなされたのであろうが、結果としては、これを頼朝像とする立場を強める展覧会になったといえよう。8月12日の「朝日新聞」文化欄に足利直義像説を紹介しているのは、主催者としてのせめてもの罪滅ぼしかもしれないが、同欄記載の参考文献に、米倉迪夫『源頼朝像』(平凡社、2006)がないのにも、なんらかの意図を感じる。
 特集展示の国宝「地獄草紙」などは、人だかりで見るのが難く、パス。いつものように興福寺の国宝館と東金堂に立ち寄ってから、早めに帰途につく。明日、ジャーナルを書いたら、また、生物学史に取りかかることにしよう。

2012年8月14日(火)発生学史
 何日も晴天が続いていたが、昨夜から断続的に激しい雨となった。各地に災害をもたらしているが、大阪南部は被害がなかったようだ。普段は転々と居場所を変えるシロも、今日は終日、玄関前のハウスに閉じこもっていた。
 朝6時、NHK-BS2「クラシック倶楽部」で、プーランク「クラリネット・ソナタ」の演奏を放映していた。こんな偶然が、なにか嬉しい。第2楽章の切ないメロディーが印象に残る。ただ、テレビ画面下部に流れるテロップに、初演(1963)はバーンシュタイン指揮と出ていたのが気になる。解説書などによれば、初演(カーネギー・ホール)はベニー・グッドマンの独奏でピアノ伴奏がバーンシュタインだったはず。音楽通の担当者がテロップを書いているのだろうに、どうしたことだろう。バーンシュタインなら指揮という思い込みのためだろうか。
 ここ数日は発生学史に関する内外の文献を読み散らかしてきたが、生物学史の中でもやっかいなテーマだ。ルーの発生機構学、シュペーマンに始まる形成体研究などを歴史的にいかに評価すべきなのだろうか。膨大な実験データを残したものの、発生の仕組みの解明に資するところなく、衰退していったとも考えられる。岡田節人が雑誌『遺伝』別冊8号(1996)に書いた「発生研究の体験的半世紀」に、その間の事情がうかがえる。発生機構の解明が実質的に始まったのは、1984年のホメオ・ボックスの発見からと見るべきなのかもしれない。慎重に取り組まねばならないテーマであり、取りあえずはペンディングにして、先に進もう。

2012年8月10日(金)「真夏にプーランク」
 河内長野市ラブリー・ホールで7時から標記のコンサート。演奏者の「ムジカ・リベラ・大阪」というのは、N響のクラリネット奏者・山根孝司がそのときどきに編成する楽団で、毎年この時期にラブリー・ホールでコンサートを開催しているらしい。今年は、来年に没後50年を迎える作曲家プーランクの作品ばかり7曲である。この企画ではマニアックに過ぎたのだろう、客は40名ほどで、しかもその大半は出演者の生徒とおぼしき学生たちであった。山根のプレトークにも、そのことを意識している気配が感じられた。
 当方も近場でなければプーランクだけを聞きに行くことはなかったろう。実際に聞いてみると、けっこう、面白い。今後も機会があれば、プーランクの代表作とされるフルート・ソナタやクラリネット・ソナタを意識して聞くことにしよう。

2012年8月5日(日)細胞学史
 この1週間は連日の暑さにうんざりし、ロンドン・オリンピックに一喜一憂しながらも、細胞学史の文献を読んできた。我が書棚で長いこと積んどく書になっていたヒューズ『細胞学の歴史』(1959, 邦訳1999)とハリス『細胞の誕生』(1999, 邦訳2000)にようやく目を通すことができた。これと並行して、コールマン『19世紀生物学史』(1971)の該当箇所(第2章)とマグナー『生物学史』(第3版、2002)の該当箇所(第5章)などを読んでみた。
 ヒューズ著は、ハリス著が出るまで細胞学の唯一の通史とされていた。ところが、マグナーはこれを文献蘭に掲載していない。ヒューズは、シュライデン(1838)・シュワン(1839)の間違った細胞形成説が細胞学の発展を阻害したとしている。マグナーはシュライデン・シュワンの歴史的意義を高く評価しているので、ヒューズの歴史観を不適切とみなして意図的に参照文献から除外したのであろう。
 ハリス著の邦訳は、英文学出身の荒木文枝である。専門外の割には良く訳していると思うが、科学史家ならこうは訳さないという部分も目につく。たとえば欧米の学術雑誌のタイトルにしばしば登場するArchves を全て『記録集』と訳しているが、科学史家なら『論集』とするだろう。nucleolusを「核小体」ではなく「仁」と訳しているのには、懐かしささえ感じた。また、ラテン語のgeneratio aequivoca を「同時発生」(p.162)と訳しているが、これは英語のspontaneous generation と同義で「自然発生」と訳すべきだった。「細胞間」と訳すべき所を「細胞内」(p.163)と訳したのでは意味が通じない。これ以上に問題なのは、ときおり、肯定と否定を逆に訳していることである。
 スパランツァーニの有名な自然発生否定実験について、「自然発生信奉者は、スパランツァーニが外からの汚染を除くために用いた手順は、空気によって運ばれる生命を与える属性を破壊しなかったのではないかという問題にとらわれていた」(p.125)と訳されているが、正しくは、「破壊したのではないか」である。
 「ビュッチュリはこの試料の有糸分裂を正確に描写することができたわけだが、おかげでレマークを核分裂は直接分割によって起こるという誤った仮定へ導くことになった」(p.180)と訳されている部分も、正しくは逆であって、「核分裂は直接分割によって起こるという誤った仮定にレマークを導くことになったのと同じ試料を用いたビュッチュリは、有糸分裂を正確に描写することができた」である。
 「二分裂が起こるところでなんらかの膜が関わっているかどうかは疑わしいと思う者も少数ながらいた」(p.186)も、正しくは「疑わしいと思う者はほとんどいなかった」である。原文の there were few (p.149)が否定的な表現であることは、受験英語でも必須の知識であろう。
 部分的に拾い読みしただけで、まだたまだ気になる訳文があるが、このレベルの訳書でも原書の内容をおおざっぱに知るには便利である。しかし科学史の文献として利用する際には、原書に当たらないととんでもない間違いを犯すことになりかねない。
 DSB新版(2008)に「シュライデン」が立項されているのは、意外であった。シュライデンの歴史的意義が高く評価されており、旧版(1975)以来のシュライデン研究に顕著な進展があったことを示しているのだろう。
 細胞学史の概要を頭に入れた後では、シュライデン(1838)とシュワン(1839)を読まなければならないが、それには大学図書館に行く必要があるので、とりあえず細胞学史はここで中断。次のテーマに進もう。
 
2012年7月27日(金)国立文楽劇場
 夏休み公演第2部「名作劇場」。2時開演の最初が「合邦」。歌舞伎でも文楽でも何度か見ているが、最近は敬遠している。久し振りに見たが、やはり好みの演目ではない。文楽では玉手の自己犠牲が強調されているが、歌舞伎では玉手の邪恋を強調していたと記憶している。その方がまだしも現代的で面白いのではないか。床直下の席なので、切りを語る嶋大夫のつばが見事に我が眉に命中した。良い記念なので記録しておこう。
 次が「伊勢音頭」の「油屋」と「奥庭」。パンフレットによれば、これは歌舞伎が先で、後に浄瑠璃化したものだという。丸本物なら歌舞伎よりも文楽の方が充実しているが、この演目では、「油屋」の縁切りも「奥庭」の殺しも、歌舞伎の方がはるかに面白い。文楽での上演が少ないのも無理はない。
 「油屋」で予定されていた住大夫が病気休演となったのは残念だった。代役の文字久大夫は、とにもかくにも無事、勤め上げたというべきか。
 最後の「蝶の道行」も先行の歌舞伎を浄瑠璃化したものだが、曲だけが残って上演されて来なかった。それを昭和13年に文楽で復活したという。戦後に復活した歌舞伎よりも、文楽の復活上演の方が早かったわけだ。鶴澤清介以下、5丁の太棹の響きを耳元で楽しんだ。人形の舞がつまらないので、もっぱら床を見ていた。「合邦」にも「伊勢音頭」にも堪能できなかったが、この三味線に満足して帰ることができた。
 住大夫の急病は、橋下市長の文楽いじめが原因だろう。文字大夫時代は自ら切符を売りさばく苦労もしてきた。文楽協会ができたとき、これからは経営をまかせて、芸のことだけ考えてくださいといわれたと、しみじみ語っていたことがある。市長の文楽いじめに、文楽があの苦難の時代にもどるのではないかという不安で心身がやつれたのではなかろうか。軽薄な市長に、「恨」の文字を奉る。
 いまさらいわれなくても、関係者は文楽の普及に取り組んできている。それでも限界があるから協会が設立されたのではないか。権力行使に酔いしれている得意満面の市長の姿を見ると、虫唾が走る。後世、文楽の価値を否定した無教養な大阪市長として語り継がれることになろう。そう考えれば、哀れな男よ。

2012年7月26日(木)18世紀化学史
 18世紀の生物学をまとめるには当時の化学を抑える必要があるので、この1週間は断続的に18世紀化学史を勉強し直してきた。島尾永康『物質理論の探求』(1976)、ノートン歴史叢書のW.H.ブロック『化学』(1993)、それと『ケンブリッジ科学史・第4巻・18世紀』(2001)の中のJ.ゴリンスキー「化学」を並行して読んでみた。島尾著を今読んでも古くさくないのは、さすがである。しかし二次文献がほとんど記載されていないのは、困ったものだ。同書は今でも化学史の邦語文献として挙げられることが多いが、文献記載かなく、どこまでがオリジナルなのか分からない。同じ頃に同じ岩波新書で刊行された中村禎里『血液循環の発見』(1977)では、うるさいくらい二次文献への言及がある。文献記載をどうするかは新書の編集方針ではなく、著者の意向によって決まっていたのであろう。
 ブロック『化学』には詳細な文献案内が付記されており、読んでみたいものも多い。しかし、いつまでもこのテーマを追っているわけにもいかない。適当に打ち切って、生物学史にもどらなければならない。

2012年7月21日(土)高田里惠子『女子・結婚・男選び』ちくま新書 2012
 本日は団地自治会の廃品回収日なので、外飼い猫シロの冬のハウスを解体して段ボールを処理し、ついでにハナのトイレ砂を入れ替えた。気になっていたことを片付け、気分が落ち着いたところで標記の著書に目を通す。
 いつもの高田節を楽しむつもりだったが、そうはいかなかった。内容は書名からイメージしたものとは大きく違っている。くだけた書き方になってはいるが、これは著者本来の専門領域である文学論だな。『薔薇の名前』の「入れ子構造」なども出てくる。この種の議論は苦手なので、降参。内容を確かめずに「論述作文」の受講生に推薦したが、学生たちには歯の立たない著書であった。

2012年7月19日(木)島田裕巳『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』幻冬舎新書 2012
 朝はまず、三毛猫ハナの使用済み輸液グッズを持って千代田動物病院へ。その近くの国立病院の食堂で早めの昼食を済ませ、狭山駅前の理髪店へ。疲れが出たのだろう、散髪の間はぐっすり寝込んでいた。帰途、河内長野駅前の書店で平積みになっていた標記の新書を購入。気分転換のため、科学史から離れたものを読みたかった。
 仏教宗派の解説本で、類書も多いが、この著者の書いたものはひと味違う。各宗派の問題点も遠慮無く指摘している。永平寺の修行には暴力がつきまとっているという指摘には、はっとした。考えてみれば男ばかりの世界で、しかも修行の指導という大義名分があるのだから、暴力が横行していても不思議ではない。実質的には「いじめ」といってよいものもあるだろう。それを耐えるのも修行ということだろうか。
 この永平寺を大本山とする曹洞宗の寺院が最も多いというのが、以前から不思議でならなかった。曹洞宗の寺院に出会うことが少ないので最大宗派といわれてもぴんと来ないが、統計に間違いはないのだろう。同書では、葬式仏教を生み出したことを勢力拡大の理由としているようだが、他の宗派もそれを真似たのだから、曹洞宗だけの利点とはならなのではないか。納得できないな。
 小学生のころ、近所の「宗務院」と呼んでいたビルで子供向けの映画会が催されていたが、あれが曹洞宗の事務局と知ったのは、はるか後年になってからである。ここで「月のうさぎ」の物語を見たことを憶えている。こうした地道な活動も、決して無駄にはならないといえるだろう。

2012年7月18日(水)授業日
 春学期の最終授業日である。メールボックスには高田里惠子教授の新著『女子・結婚・男選び』(ちくま新書)が入っていた。「論述作文」の我がクラスでは図書館書評賞への応募を義務づけているので、女子学生たちに同書を薦めてみたところ、タイトルが露骨に過ぎると渋い反応だったのが意外だった。
 4限「科学技術史」では、錬金術からフロギストン説を経て化学革命に至る流れを説明し、それと生物学との関連に触れて春学期の授業を終了。夏休みの間に18世紀までの生物学史を見直し、秋学期の授業、すなわち19世紀以降の生物学史の準備をしなければならない。中断している論文「ヴィクトリア朝の人間論」の執筆も少しは進めたい。しかし、この暑さではどうなるか。ま、行けるところまで行ってみよう。
  
2012年7月15日(日)第1回あふさか能
 標記の公演を見るために大槻能楽堂へ出掛けた。今年から始まった能楽協会大阪支部主催の会である。2時の開演ぎりぎりに会場に入ると、全席自由席がほぼ満席であった。「翁」(上野朝義)と「高砂」(山本章弘)で約2時間、足腰が痛くなって、一旦、外に出たが、囃子方はこの後の狂言「三本柱」(善竹家)にも残るので、2時間半は舞台に居続けである。それだけでも体力がいるだろう。
 休憩の後の能が「恋重荷」(大槻文蔵)。前日に同じ演目(シテ関根祥六)をNHKテレビ「古典芸能への招待」で見ていた。前半は同じようなものだったが、後半が大幅に違っていたので驚いた。当日のパンフレットによると、世阿弥の原作が廃曲になって復曲したおりに、原作とは違った形で現在まで受け継がれてきたという。それを原作の意図に基づいて作り直し、「古演出」という形で演じているという。確かに、こちらの演出の方がていねいで、シテの恨みもよく出ていると思う。「老いらくの恋」「身分違いの恋」「弱いものいじめ」など、現在にも通じるテーマを思い浮かべながら見ていた。

2012年7月13日(金)授業準備
 「経験したことのない大雨」による九州の災害が報道されているが、こちらでは時折、雨が降る程度だった。ただし、湿気がすごい。断続的に化学革命関連の文献を読んでいるが、この湿気では集中できない。フロギストン説もラヴォアジエの化学論も、本格的に勉強するとなると相当に面倒なもののようだが、今は生物学との関連で概略を抑えるだけにしておこう。

2012年7月11日(水)授業日
 3限「論述作文」では、伝統的な手紙文の練習をした。学生たちの知らなかった世界なので、例年なら、けっこう、面白がるのだが、今年度は興味ないようだ。こちらの説明を気にとめず、「拝啓、ナントカさま」とかいうテレビドラマのタイトルにひきずられて、「拝啓、何様と書けばよいのだろう」なんていっているのだから、これは駄目だ。4限「科学技術史」のテーマ「前成説と後成説」は難しくないはずだし、興味を持てたのではないだろうか。

2012年7月9日(月)山田五十鈴逝去
 本日の午後、女優の山田五十鈴が95歳で亡くなったという。昭和のシンボルがまた一つ消えていった。忘れ得ぬ映画女優といえば、同世代では吉永小百合と浅丘ルリ子、上の世代では山田五十鈴である。新聞やテレビの経歴紹介を見ていて気になったのは、映画は「蜘蛛巣城」、後はテレビドラマと舞台の紹介に終始していたことである。多分、原稿を書く記者たちの記憶がそこまでなのだろう。しかし戦前戦後の映画全盛期の娘役を大きく扱わなければ、山田五十鈴を解説したことにならない。裕次郎を映画「黒部の太陽」とテレビ「西部警察」だけで紹介したらピント外れになるのと同じだろう。
 映画「小判鮫」の山田五十鈴を、ぼんやり記憶している。ネットで調べると前編が1948年12月、後編が翌月なので、小学校4年生のときである。今はない映画館「芝園館」で見たのだろう。この映画は「雪之丞変化」の改作で、主演は長谷川一夫の二役。軽業師・お七(山田五十鈴)が、恋する女形・紅雀(長谷川一夫)と恋敵の娘・お蘭(長谷川裕見子)とがむつまじくしているのを見て、「私の負けだよ」とつぶやく最後の場面(多分)が印象に残っている。
 「かけた情けがいつわりならば」で始まり、「小判鮫」で終わる主題歌も記憶に残っていたので、ついでに検索してみた。小畑実の歌で「小判鮫の唄」と題されており、歌詞も全て掲載されていた。気になっていたことなので、すっきりした。 
 
2012年7月7日(土)「前成説」教材作成
 「科学技術史」次回の「前成説と後成説」ppt教材の補充を終了。このテーマについては当時の機械論哲学や自然発生、再生実験などについてさらに文献に当たらなければならないが、当面はここで一旦、打ち切るしかない。

2012年7月4日(水)授業日
 3限「論述作文」の読書報告はサボリ屋の受講生1名が欠席しただけで、まずは順調。4限「科学技術史」の出席者がいつもより多いのは、学期末が近づいたためだろう。本日のppt教材「18世紀の自然史」は既成のものを流用したので、講義も平板になってしまった。来年度は生物学史通史を見据えながら、構成し直す必要があろう。次回「前成説と後成説」の教材は当日の午前にアップすると通告したところ、渋い反応があった。秋学期分の教材は、できるだけ夏休み中に準備したいものだ。
 
2012年7月3日(火)近大病院
 大雨警報の出ている中を近大病院へ。眼科の検査の予約日なので行くしかない。さいわい、往復ともそれほどの雨には出会わなかった。しかし昼前に病院について、滞在5時間。検査、検査で疲れてしまった。ここ20年くらいは年に1度、視野検査をするだけだったが、前回から交代した主治医の方針だろうか。視神経が通常より弱いことを確認したに止まるが、眼がまともなうちに為すべきことをやり遂げねばと、改めて思う。
 次週の「科学技術史」の教材を帰宅後に仕上げ、明日、公開するつもりだったが、この体調ではミスを犯しかねない。さらに充実させて、当日の午前中に公開することにしよう。

2012年7月2日(月)前成説
 次週の「科学技術史」の「前成説と後成説」の準備を断続的に進めてきたが、なんとかppt教材の作成を終えた。まだ図版や補充すべき事項が残っているが、明日中に完成できるだろう。
 科学の歴史を見ていくと、ときおり、異様な学説が広まることがある。ほとんどの場合、当時の状況を勘案すると、そのような事態も理解できるが、「前成説」の定説化はあまりにも異常だったのではなかろうか。有能な科学者たちが本気で「入れ子」説を信奉していたのはなぜだろう。S.A.Roeはその著作(1981)や『ケンブリッジ科学史・第4巻・18世紀科学史』(2003)で機械論との関係を強調しているが、それで納得できるか、じっくり検討してみたい。

2012年7月1日(日)ラブリーホールでオペラ「トゥーランドット」
 昼過ぎにバスでラブリーホールへ。チケットは完売。かなりの人数の立ち見客もいた。同ホールで開催される年1回のマイタウンオペラだが、今年度からは「コンチェルタンテ」と銘打っている。すなわち舞台装置を省略した演奏だけの公演である。それでも十分、楽しめたが、本当は北京市内や紫禁城内が再現されてこそ、本来のオペラだろう。財政難でやむを得ないのだろうが、残念ではある。いずれ豪華な舞台で見てみたいとは思うが、それには相応の出費が必要になる。現在の年金生活ではまず、無理だな。
 
2012年6月28日(木)渡辺義信『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書 2012
 胃腸の弱いハナのための特殊なキャットフードを購入するため、ロイヤル・ホームセンターへ。帰りがけに河内長野駅前の書店で標記の著書を購入、帰宅後読了。著者は『三国志』を専門としており、魏志倭人伝執筆の目的から、理念上の邪馬台国は倭人伝の記述通りに東南海上に存在していたという。したがって倭人伝に記された方位や里程から現実の邪馬台国について論じるのは無意味だとしたうえで、政治体制など、現実の邪馬台国についての記述を拾い出している。なるほど、歴史書はこのように分析するものなのか。同じ著者のものをもっと読みたくなった。

2012年6月27日(水)授業日
 なぜか夜明け前に目が覚めてしまったので、金剛駅前から桃大への直行バス第1便(8時20分発)に乗ってみようと家を出た。ところがバス停は学生たちの長蛇の列。とても座れる状況ではない。バスで30分も立ったままでいることは無理だし、かといって次の便まで100分も待っていられない。結局、以前のように電車を乗り継いで行くことにした。それにしても多くの学生が1時限に間に合うように登校しているのは立派である。
 大学にはいつもより30分早く到着。3時限「論述作文」は、受講生半数による読書報告のやり直し。全員、ワードで作成しているレポートが格段に良くなった。確実に授業の成果が出ている。
 4限「科学技術史」ではフックなどの顕微鏡観察図をネットから取り込んで紹介した。『ミクログラフィア』の全てが無料で提供されているのはありがたい。とはいえ、大学図書館の予算に余裕があった時期に復刻版を購入しておくべきであったと反省している。

2012年6月21日(火)教材作成
 ここ数日は18世紀生物学史関係の教材作成に取り組んできた。次週の「自然史」については既成の教材が流用できるが、次次週の「前成説と後成説」はやっかいである。「18世紀の生物学者は前成説という馬鹿げた学説を信じていた」と一言で片付けても、必ずしも間違いではないだろう。しかしデカルト主義などとの関連を説明するとなると、かなり面倒である。教材としてどうまとめればよいか、難しい。
 
2012年6月21日(木)考古学と歴史学
 台風4号をやり過ごしたと思ったら、台風5号の影響で激しい雨の一日となった。シロも一昨日と同様、ウッドデッキのハウス(夏場の拠点)を離れ、玄関前のハウス(春秋の拠点)に閉じこもっていた。
 こういう日は気分転換に古代史を楽しむことにしよう。前日に購入した、石川日出志『農耕社会の成立』(岩波新書、2010)を読了。この新書の「シリーズ日本の古代史」の第1巻である。縄文から弥生への変化が連続的であったことを、広い視野から論じていて読み応えがある。ただ気になるのは自然人類学との齟齬である。人類学者は一貫して、縄文人は南方系で弥生人は北方系といっているのではないか。本書(pp.85-7)でもこの問題を取り上げてはいるが、人類学の分析が「どれほど有効なのかという疑問さえ生じてくる」として、ほとんど意に介していない。外野席にいるものとしては、釈然としないな。
 それ以上に気になるのは、同シリーズの第2巻、吉村武彦『ヤマト王権』(2010)との違いである。石川はヤマト王権の成立を箸墓古墳形成期としている。ところが吉村は記紀の記載に基づいて崇神稜(行燈山古墳)の段階をヤマト王権の成立としている。石川は、「考古学的な方法によるかぎり、(中略)今後、行燈山古墳の段階を転換期とする理解が生まれるとはとうてい考えられない」(p.211)という。
 邪馬台国は纏向ということでほぼ決着したが、ヤマト王権の成立についてはどうなるか。考古学者と歴史家の議論を見ていきたい。

2012年6月20日(水)授業日
 名誉教授室では異口同音に、「台風がそれてよかったですね」の挨拶。台風で休校にでもなると、補講だなんだと面倒なことになる。本日は通常通りの授業。3限の「論述作文」では前回に続けての読書報告。準備期間は十分に与えてあるのだが、ほとんど本を読まない学生にとって読書報告はかなり辛いらしい。それだけ、こういう授業の意味があるといえるだろう。4限「科学技術史」はハーヴィの血液循環論。帰りはいつものように重い洋書を抱え、直行バスで金剛駅へ。
 
2012年6月19日(火)17世紀の顕微鏡学者
 台風4号の大阪直撃はなかったものの、夜になっても風雨は収まらず、外で面倒を見ている猫のシロも不安そう。気の毒だが、なんとか、しのいでもらおう。
 この数日は次週の「科学技術史」、「17世紀の顕微鏡学者」の準備に追われた。これもゼロからの教材作成なので、春学期の教材準備では最も手間が掛かった。講義の概要はpptスライドにまとめたが、図版紹介は間に合わなかった。今はネット上に図版が掲載されていることが多いので、次週の授業までにはしかるべきサイトを探すとしよう。同じテーマを扱ったフルニエの成書(1996)も大学図書館で購入してあったが、いずれゆっくり通読したい。
 
2012年6月14日(木)臨時出講とラブリーホール
 2時限の総合講座・人間学に出講のため、金剛駅からのいつもの直行バスで桃大へ。なぜか3時限と思い込んでいたため名誉教授室でのんびりしていたところ、教務から電話があって、あわてて教室へ。10分遅れとなったが、「ダーウィンの人間論」のテーマで、なんとか予定通りの講義を終えた。
 午後は図書館で顕微鏡学者関係の文献をあさる。科学史関係の蔵書はおおむね頭に入っているつもりだが、丹念に検索すると思いもかけない文献が出てくる。本日は、1946年に刊行されたスワンメルダムについてのオランダ語の論文集をみつけた。なんでこれが桃大に入っているのか不可解だったが、多分、大学創立時に一括購入した図書の中に、書店が売れ残っている本を入れたのだろう。NACSIS-Webcatで見る限り他では所蔵していないので、今となれば貴重な蔵書といえるだろう。
 帰りはラブリーホールのロビーコンサートへ。サクソフォンの久保摩記とピアノの中尾恵。ロビーコンサートに来るのは2度目だが、前回、3月18日の時とは舞台と客席の椅子の配置が違っていて、どこに座っても演奏者が見えるようになっていた。目の前でサクソフォンが鳴り、その音量の大きさに驚いた。舞台遠くから聞くのとは違うものだ。前半の最後のカルメン抜粋を聞いて帰宅。後半のタンゴ集には興味なかったし、疲れてもいた。若手とはいえプロの演奏を900円で楽しめるのはありがたい。

2012年6月13日(水)授業日
 今日もまた図書館に返却するため、ずっしり重い洋書を抱えて桃大へ。3時限「論述作文」では前回から読書報告のレポートと口頭発表を実施しているが、軌道に乗ってきたようだ。4時限「科学技術史」では、コペルニクス、ガリレオ、ニュートンを一気にすます。コペルニクスの地動説、ガリレオの宗教裁判、ニュートンの万有引力などについては、学生たちもどこかで聞いたことがあるはずだと思うのだが、受講生の反応を見ると、必ずしもそうとは限らないようだ。気をつけよう。

2012年6月12日(火)教材作成
 次週の「科学技術史」、ハーヴィについてのppt教材を作成。前回分とは逆に、すべて新たなスライド作成であったが、朝から取りかかってなんとか終了した。ハーヴィ本を読みながら全体の構成は考えていたが、年代やスペルの確認などに、けっこう、時間が掛かる。明日の教材公開に間に合って、ほっとした。しばらくはこんな状態が続きそうだ。

2012年6月11日(月)ハーヴィ本
 断続的に内外のハーヴィ本を読んできたが、一旦、打ち切って教材作成にかからなければならない。邦語文献には、中村禎里『血液循環の発見』(岩波新書、1977)、ハーヴィ著(岩間吉也訳)『心臓の動きと血液の流れ』(講談社学術文庫、2005)、シャケルフォード『ウィリアム・ハーヴィ』(大月書店、2008)がある。講談社学術文庫版の訳書は図版入りの解説もあり、読みやすく、小伝も付記されている。ところがすでに絶版で入手できないようだ。せっかくの「学術文庫」なのに、こうした基本的文献をなぜ早々と絶版にするのだろうか。大月書店版は、「オクスフォード科学の肖像」シリーズの一つで、内容も信頼できそうだし、訳もよい。ところが、このシリーズでは原著にある文献がすべて割愛されている。訳書としての価値が、半減とはいわなくても、3割は減じているだろう。どんな文献を利用しているのか分からないのでは、利用できない。文献を掲載したからといってそれほどの費用負担にはなるまいに、読者を馬鹿にした日本の出版社の悪弊である。
 これとは逆に中村禎里著では、いちいち出典を明示している。科学史家にはありがたいが、一般読者にはわずらわしいのではなかろうか。同じ著者の『近代生物学史論集』(みすず書房、2004)には、60年代から70年代に掛けて著者が発表したハーヴィ関係の論文が集められており、当時の研究状況を知ることができる。
 DSB旧版ではバイルバイルが執筆していたが、新版には項目がない。イギリス人なので当然、DNB新版に項目があり、フレンチが執筆している。それによると、血液循環論の成立は1618年だという。その根拠を確認するためにも、いずれ、フレンチの浩瀚な著書『ウィリアム・ハーヴィの自然哲学』(1994)を読まなければならないだろう。

2012年6月8日(金)梅雨入り
 昼過ぎから小降りの雨となり、気象庁も梅雨入りと認めたらしい。その中を、ハナの使用済み点滴グッズを持って、まずは千代田動物病院へ。駅近くで昼食の後、ロイヤルホームセンターでキャットフードを購入し、青木松風庵で和菓子を購入。両店とも割引券が届いていた。さらに、イズミヤに行って日用品を購入。バスで移動しているので、帰宅は5時近くになっていた。門を開けるとシロが待ち構えている。購入してきたお気に入りのスープをやると、喜んでなめていた。
 昨日は疲労感が出て何もできず、今日もまた外歩きで終わってしまったが、ま、いいか。

2012年6月6日(水)授業日
 大学に着くと、名誉教授控室に電話があった。某テレビ局のクイズ番組の担当者からで、雌雄記号の由来についてであった。拙著『博物学の欲望-リンネと時代精神』(講談社現代新書)に書いたことを説明したが、さんざんこちらにしゃべらせたあげく、「鏡と槍を正解とし、不正解を二つ入れた三択問題にしたい」という。あきれたね。それは俗説であって、正しくはギリシア文字の変形なのだといっているのに。
 それにしても、登校日の授業前にタイミング良くこうした問い合わせが来るのが不思議だったが、はたと気がついた。多分、当方のホームページを見てタイミングを計っているのだろう。こんなところでホームページが役立つこともあるのだ。

2012年6月4日(月)授業準備
 来週の「科学技術史」、17世紀科学革命についての教材を作成。昨年度まではこのテーマに5回の授業を当ててきたが、生物学史中心の今年度は1回にしぼった。したがって昨年度の5回分のppt教材スライドを大幅に割愛する作業となる。思い切って削除したが、まだ多いかもしれない。コペルニクス、ガリレオ、それとニュートンについて、効率よく、かつ興味を引く講義ができるかどうか。

2012年6月3日(日)自治会の溝掃除
 数年前から始まった住宅地の一斉清掃である。家の前の溝は普段でも掃除しているが、隣家との間の溝はこういう機会でもないと掃除しにくい。こういう労働をした後は何もできない。本日はこれで終わったという感じである。

2012年6月2日(土)文楽予約
 友の会会員なので、文楽「夏休み公演」第2部を一般よりも1日早く電話予約で、いつもの床直下の席を確保した。最初が「合邦」。好みの演目ではないが、久し振りに見るとしよう。咲大夫と嶋大夫なので、その価値はあるだろう。次が「伊勢音頭」。歌舞伎では何度も見ているが、文楽で見るのは、多分、初めてである。歌舞伎と比較しながら見るとしよう。「油屋の段」の住大夫も楽しみである。最後は「蝶の道行」。戦後、歌舞伎で復活したものを文楽に逆輸入したのだろう。歌舞伎座で何度か見ているはず。これも好みの舞踏劇ではないが、にぎやかな三味線を楽しむとしよう。今回もワクワクするような演目ではないが、このジャーナルを書いているうちに期待感が高まってきた。これもジャーナルを書く効用か。
 
2012年6月1日(金)山の辺の道
 明日からは天気が怪しくなるようだし、大和路散策に出掛けるなら、授業準備に余裕ができた今しかない。今回は古墳を見ることを目的に山の辺の道を歩くことにした。電車でどう行くか。飛鳥に行くよりややこしい。結局、いつものように、まずは近鉄南大阪線で橿原神宮前駅に出る。そこから橿原線に乗り換え、さらに八木で乗り換えて桜井に出るか、平端で乗り換えて天理に出るかであろう。電車の中でガイドブックを見ると、山の辺の道を1日で歩くなら9時には石上神宮に到達するようにしたいとあった。7時過ぎに家を出て、橿原神宮前駅に着いたのは9時。全部を歩くのは到底無理と悟り、桜井からJRで柳本に出て、南半分を歩くことにした。
 柳本の駅前から黒塚古墳までは、きれいな石畳の一本道だった。古墳に隣接した展示館には石室の実物大復元模型があり、石室の大きさが実感できた。ここから本日の第一の目標、行燈山古墳(崇神天皇陵)へ。大王墓としての大きさに納得して、さらに渋谷向山古墳(景行天皇陵)へ向かう。
 道は田畑の中の舗装路で、日は照りつけるし、朝食はごく簡単なものだったので、体がふらついてきた。折よく、喫茶「卑弥呼庵」の案内が眼についたので、飛び込む。民家の一室に上がって休む形で、メニューは抹茶かコーヒー。このコーヒーがおいしかった。帰宅後にガイドブックを見ると、「茶道をたしなむ女将さん」とあった。
 景行天皇陵からも日照りの下で舗装路を歩き、車道も経由して、ようやく檜原神社へ。ここの茶店で冷やしそうめんを食べて、一休み。
 山の辺の道は初めてではなく、学生時代と、大阪に来て間もない時期と、2度は歩いているはずだが、ほとんど記憶に残っていない。ただ、林の中の土の道を気持ちよく歩いたという印象が残っている。檜原神社から大神神社へ向かう道で、ようやく記憶通りの道になった。
 記憶では多くの人が歩いていたと思うのだが、今日は自分1人だけ。たまに逆方向の人と出会うだけだった。それが大神神社に来ると大変な人出で、参道には屋台が並んでいた。帰宅してから調べると、毎月朔日は「朔日詣で」の縁日で賑わうのだという。知らなかった。
 JR三輪駅には2時に着いたので、天理駅に出て天理参考館を訪ねることにした。地図を見ると、天理駅前からのアーケード街を抜けた所にある。ところがアーケード街がなかなか終わらない。不安になって、天理教の法被を着た青年に尋ねると、ていねいに教えてくれた。まだまだアーケード街が続き、それを抜けた左に教会本部の巨大な神殿があり、それを背にしてしばらく行くと天理参考館の入った建物になる。学芸員課程を担当していた現役時代に、一度は訪ねたいと思っていた博物館である。2001年に新築再オープンしたので、まだ真新しい感じがする。天理大学付属の考古民俗博物館である。企画展「布留遺跡展」開催中であった。天理教本部のある一帯が物部氏の本拠地だった布留遺跡であり、その発掘成果を展示していた。本日歩いてきたヤマト王権中枢の隣接地に物部氏の本拠があったことになる。王権の中枢が蘇我氏勢力下の飛鳥に移ったのは、物部氏にとって打撃であったことも想像できる。この展示の後は、物部氏の石上神宮に行かねばなるまい。夕刻の境内で数羽のニワトリがにぎやかに鳴いていたが、これが神社の名物であることも後で知った。
 帰途、本部神殿の南礼拝場に登ってみた。夕刻で参拝者はまばらになっていたが、口々に「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりおうのみこと」と繰り返し唱えていた。それもグループ毎に別々に唱えているので、フーガの渦の中にいるようであった。帰り道のアーケード街は、往路の時ほど長くは感じなかった。これが人間心理なのだろう。
 帰宅してからガイドフックを読み直して、崇神稜の後で長岳寺に寄ってくるべきだったという反省はあるが、目的とした二つの大王墓を見たし、箸墓も電車から見た。天理教の本拠も初めて訪れた。天理参考館あるいは天理図書館の展示によっては、再訪してみたいと思う。しかし、山の辺の道をもう一度歩きたいとは思わない。

2012年5月30日(水)授業日
 本日もまた、図書館に返却する重い本を持って登校。授業終了後は図書館でうろうろしてハーヴィーなどの関連文献を借り出し、いつもより一本遅い金剛行きのバスで帰宅。

2012年5月28日(月)続く訃報
 科学史家の筑波常治さんが4月13日に急逝されていたとの知らせが届いた。三重大での学会でも話に出ていなかったので、驚いた。先々週の水曜日には、もと同僚の岩津洋二教授(フランス哲学)の訃報を聞いた。4月初めには松尾幸とし様の訃報が届いていた。ご三方とも大小の違いはあれ、我が人生に関わりのあった方々である。近年はどなたとも疎遠になっていたが、訃報に接するとさまざまなことが思い出され、気が滅入ってくる。ご三方のご冥福を祈るとともに、わが残りの人生を大事にしたいと思う。

2012年5月26日(土)日本科学史学会年会(三重大学)
 昨年と一昨年の年会は遠方だったため参加しなかったが、今年は日帰り可能な津市での開催なので出掛けることにした。近鉄難波駅から特急で90分足らず。三重大学には11時前に到着し、昼休みを挟んで医学・生物学系の報告を6本、聞いてきた。テーマも研究のレベルもばらばらだが、久し振りのことなので刺激にはなる。
 2時過ぎからのシンポジウムと総会はサボることにして駅に向かったところ、数人の道連れができたので駅前の食堂でしばし雑談。エラシストラトスについて発表した今井正浩さんの話では、ガレノス解剖学はイヌなどの解剖に基づいているのに、日本に限らず、その翻訳は人体の専門家が担っているため人体に当てはめて解釈し、ガレノス本人の記述とはづれたものになっている可能性があるという。なるほど。こういう表に出にくい話を聞けるのも学会ならではである。
 皆さんと別れた後は単独で三重県立美術館へ。現在は常設展のみで、それも洋画だけ。展示室に入って最初に目を引くのはムリーリョ「アレクサンドリアの聖カタリナ」、解説パンフレットも置いてあった。自分が気に入ったのは、ミロ「女と鳥」。彫刻の柳原義達記念館をのぞいた後、レストランで一服。館内は閑散としているのに、レストランはにぎやかだった。6月2日からは特別展「曾我蕭白」が開催されるという。津まで意外に早いことがわかったので、また出掛けてみようか。
 駅前の県立博物館が閉鎖されているのは残念だった。現在、別の場所で新築中とのことだが、なぜ現在の建物での展示を中止しているのだろうか。なにか理由があるのだろうが、もったいない気もする。

2012年5月25日(金)オマリー『ヴェサリウス』
 一昨日、大学から運んできた分厚い本、チャールズ・D・オマリー (坂井建雄訳)『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス : 1514-1564』(エルゼビア・サイエンス・ミクス, 2001)に目を通す。総ページ数は700を越え、定価も9,500円となっている。医師向けならこの価格でも売れるのだろう。
 訳者の坂井はその著書『謎の解剖学者ヴェサリウス』(ちくまプリマーブックス、1999年)でオマリーの原書(1964)について、「それまでのヴェサリウス研究を集大成した、広範かつ緻密なものとして、評価が高い」(p.16)と述べ、「日本語訳は準備中」(p.197)といっていた。これだけの本をよくぞ翻訳し、出版してくれたものだと思う。『謎の解剖学者ヴェサリウス』もこのオマリーの伝記を基礎にしていることも分かった。
 医学史や生物学史の概説書では『ファブリカ』がガレノスの誤りを訂正したことを強調しがちだが、ヴェサリウスは基本的にはガレノス医学を受容しており、『ファブリカ』はそれを改良する試みと見るべきなのだろう。ガレノスがいかに大きな存在であったか、改めて認識させられた。

2012年5月23日(水)授業日
 11時前に大学に着くと、まず、「科学技術史」次週のppt教材を学内公開用のSドライブに入れ、「論述作文」の配付資料を印刷し、図書館に行って返却と借用。昼食までけっこう、慌ただしい。本日もまた、分厚い本を抱えての帰宅となった。

2012年5月22日(火)教材準備
 昨日と今日で「科学技術史」の次々回の教材ppt を作成。ルネサンス期の科学者の実例としてゲスナーを紹介するためには、チューリッヒの宗教と中世以来のペストの流行の説明も必要になる。ゲスナー本人についてのスライド作成に至るまでにかなりの労力を費やしたが、いい勉強になった。

2012年5月19日(土)ラブリーホール
 絶好の散策日和なのだが、授業準備に追われているため、電車で大和路まで出掛ける気にならない。かといって気分転換もしたいので、バスで往復できるラブリーホールのクラシック・コンサートに行くことにした。ソプラノの楠永陽子とテノールの竹内直紀で、前半が日本の歌曲、後半がイタリア歌曲とイタリア・オペラからの抜粋。小ホールの床面での演奏なので、目の前で歌っている。プロの歌手の歌唱力はすごいものだと思う。
 前半の日本の歌曲もほとんど初めて聞く曲だったが、多くの曲で歌詞が聞き取れない。演歌ならあり得ないことだ。日本語は歌曲に向いていないのだろう。後半のイタリア語も全く分からないが、それでも十分、楽しむことができて気分転換になった。

2012年5月18日(金)ゲスナー伝記
 ハンス・フィッシャー(今泉みね子訳)『ゲスナー』(博品社 1994)を通読。刊行時に書評執筆のため読んでいるのだが、ほとんど記憶から消えている。文献などを記載した注もきちんと翻訳されており、改めて良書だと思う。ルネサンス期の科学者の実例として格好の材料であろう。ゲスナーの生活は決して恵まれたものではなかったのに、自然史や書誌学でなぜこれほど膨大な業績を残せたのか、ただただ恐れ入るしかない。

2012年5月17日(木)アルベルトゥス・マグヌス『動物論』
 昨日、持ち帰った『中世思想原典集成13・盛期スコラ学』に収録されているアルベルトゥス・マグヌス『動物論』抜粋(小松真理子訳)を読む。日本語で読めるアルベルトゥス・マグヌスの生物学は、多分、これだけであろう。ごく一部の抜粋であっても、アリストテレス流生物学復活の嚆矢がどんなものだったのか、具体的に知ることができるので、ありがたい。

2012年5月16日(水)授業日
 朝は図書館に返却するため数冊の重い本を運び、帰りは新たに借り出した分厚い本を運ぶ。生物学通史に取り組んでいるため、今年度の授業日は今後もこの繰り返しであろう。

2012年5月15日(火)太陽光発電
 戦後しばらくは停電も珍しくなかったが、また停電の心配をするようになるとは思いもしなかった。我が家でも太陽光発電の可能性を探るため、本日、大阪ガスに下調べをしてもらったところ、屋根の状況から10年後まで保証できないので工事は無理ということだった。10年後はまだ生きている可能性が高いので、屋根の補修を考えなければならないようだ。

2012年5月14日(月)授業準備
 来週の「科学技術史」の教材pptを作成。次回ではなく、次々回の準備をするため、ときおり頭が混乱してくることもある。

2012年5月12日(土)「科学革命」の神話
 大学図書館から借りだした『ケンブリッジ科学史』第3巻「近世」(2006)の編者(K.Park & L.Daston)による「序論」と第19章「自然史」(P.Findlen)にざっと目を通す。本書の目次には「科学革命」という項目はない。編者によれば、コイレらによって提起された17世紀の「科学革命」は、1980年代以降の科学史研究によって批判され、「科学革命が近代社会の起源である」(バターフィールド)などと考える科学史の専門家はいなくなった。「科学革命」は一つの神話(myth)にすぎない。それにもかかわらず、科学史の専門書・啓蒙書で「科学革命」は用いられ続けている。それはヨーロッパ中心の歴史観に基づく「近代性」(modernity)の神話と結びついているためである、という。
 編者は、17世紀の社会に大きな変化があったことを認めているが、それは「科学革命」といった単純な出来事ではなかったという。当然、シェイピン『「科学革命」とは何だったのか 』(邦訳書名)も引用されている。
 「科学革命」という用語は事態を単純化しすぎているという批判はその通りなのだろうが、17世紀に大きな変化があったことを印象づけ、近代科学の誕生を語るには便利な用語である。少なくとも科学史の講義では強調してもよいのではないか。

2012年5月9日(水)授業日
 金剛駅前発の直通バスは、通常、10時半には大学に到着する。昼食まで図書館で文献探し。『ケンブリッジ科学史』第3巻など、分厚い冊子を借り出して、家に運ぶ。同シリーズの第2巻『中世科学史』が近刊予告されているが、その生物学史の部分の内容がどんなものか、今から楽しみである。

2012年5月7日(月)授業準備
 次週の科学史「アラビア科学」の教材スライドを作成。前もって教材を公開するため、先へ先へと準備を進めなければならない。今年度は講義内容を変えているので準備に追われ、大和路散策に出掛ける余裕がないが、こうすることで生物学通史に見通しをつけることができるだろう。

2012年5月5日(土)「契丹展」と「マイセン展」
 昼過ぎに家を出て、まずは天王寺の大阪市立美術館の特別展「契丹」へ。契丹についての総合的な展示だと思って行ったら、違っていた。近年の発掘品を展示しているだけで、契丹民族や契丹文字についての解説は一切無かった。それでもトルキ山古墓出土の「彩色木棺」(10世紀)などは一見の価値があったから、まあ、よしとしよう。
 4時過ぎに地下鉄で「淀屋橋」に出て大阪市立東洋陶磁美術館へ歩いて行くと、市民団体による「中之島まつり」の撤収作業の最中だった。市庁の真ん前でこんなイベントがあるとはけしからん、なんてことにならないか。いくらなんでも、それはないと思いたい。
 東洋陶磁美術館の特別展「マイセン磁器の300年」では、開窯から現代までの歴史を実物によって示している。マイセン・ファンにはたまらない展示会だろうが、自分にとってはマイセンが好みでないことを再確認したに止まる。やはり焼き物は、定窯白磁、高麗青磁、色鍋島がいい。

2012年5月3日(木)パソコン設定
 ここ数日は、無線ランの設定をしたり、新しいパソコンにセキュリティを導入したりしてきた。なんとか自力で解決したいのだが、慣れないことで無駄に時間が流れていく。まだなすべきことも多いが、うんざりした。一旦、打ち切って科学史の勉強を再開し、当面、パソコンは前からのシステムを利用することにしよう。

2012年4月29日(日)ジャーナル執筆
 この1週間は毎日、書くべき内容があってもジャーナルを執筆する余裕がなかった。あまり好ましいことではないが、本日、21日からのジャーナルを一気に片付けた。

2012年4月28日(土)喜歌劇「陽気な未亡人」
 バスでラブリーホールに着いたのが2時20分。全席自由席のためか、2時半開場、3時開演というのにすでに入場待ちの長い行列ができていた。今回は座席にこだわらないので、まずは地下のギャラリーで「河内長野市所蔵作品展」を見る。市在住の人間国宝・秋山信子の衣装人形や、早川良雄の絵画などが展示されていた。配布資料を見ると早川原画のタベストリーなどがホールのあちこちにあるようなので、今後は意識してみるようにしよう。
 小ホールに入ると、ほぼ満席。出演者たちの知人・親類も多いようだ。「河内長野マイタウンオペラ・小ホールシリーズ」としての公演で、日本語上演、演奏はピアノだけ。それでも十分、楽しむことができた。原作はドイツ語なのに日本では英訳題名の「メリー・ウィドウ」で知られているのはなぜだろう。1934年のアメリカ映画「メリー・ウィドウ」の影響なのだろうか。
 昨日の今日なので、文楽とオペラのどちらが今の日本人に親しみやすいか、考えてしまう。

2012年4月27日(金)文楽「金閣寺」と「桂川」
 昼前に文楽劇場へ。20日に昼夜が入れ替わって今日は「金閣寺」と「桂川」が昼の部である。「金閣寺の段」の呂勢大夫も「爪先鼠の段」の津駒大夫も悪くはないのだが、いかんせん、浄瑠璃としては二流作品で退屈した。歌舞伎ではさまざまな役柄の役者と舞台装置に見所があって人気狂言になっており、珍しく、文楽より歌舞伎の方が面白い作品といえるだろう。
 「桂川」の「帯屋の段」の前半がチャリ場の得意な嶋大夫、切りが住大夫。人形もお絹が文雀、お半が簑助。この「帯屋」が今公演のメインなのだろう。長右衛門がお半の書置を読むのに合わせて弾く三味線(錦糸)のメリヤスが印象に残った。最後に原作には無い道行がつくが、これがけっこう明るくて、気分直しになった。堪能したとまではいえないが、まずまず楽しめた舞台であった。

2012年4月26日(木)『医学典範』邦訳書2点
 桃大図書館から借りだしたイブン・シーナー『医学典範』の分厚い邦訳書2点に目を通した。五十嵐一訳(朝日出版社、1981)と、檜學ほか訳(第三書館、2010)の2冊である。『医学典範』全5巻のうち、両訳書とも第1巻のみで、第1巻全5部のうち朝日出版社版は第1部のみ、第三書館版は第1巻の全てである。朝日出版社版には訳者が用いたアラビア語テキスト全文が付記されている。アラビア語原文を参照できる読者はごく限られていると思うが、出版社もこの形をよくぞ承知したものだ。
 第三書館版は英訳からの重訳である。ところが基にした英訳テキストの書誌事項がどこにもきちんと記載されていない。末尾の「あとがき」から判断すると、1930年にロンドンで出版されたO. C. Grunerの英訳書をシカゴにあるイスラム文献専門のKAZIが復刻したものを用いたと思われる。このグルーナー訳について五十嵐は、「大きな欠陥」があるという(p.<66>)。第一に「解剖学に相当する大部分を無断で削除して訳していない」。また「訳文訳語がかなり不正確」であるという。五十嵐はより信頼できる英訳書を紹介しているのに、第三書館版ではこのグルーナー訳を用いているのである。
 第三書館版の「序」に五十嵐訳を「ペルシア語のテキストからなされた」(p.ⅳ)とあるのは、どういうことなのだろうか。『医学典範』原文はペルシア語と思い違いしているのか、それとも五十嵐訳も重訳と思わせたいのか。うっかりミスとして見過ごせない間違いである。
 ここで『医学典範』全5巻の構成を見ておくと、第1巻「医学概論」、第2巻「単純薬物論(薬草)」、第3巻「個々の器官の病気」、第4巻「一般的症状(発熱など)」、第5巻「合成薬物論(処方箋)」であり、第1巻「医学概論」全5部は第1部「医学の定義と主題」、第2部「病気の原因」、第3部「症状」、第4部「養生」、第5部「全般的治療」であり、第1巻第1部全6教則は、第1教則「医学の定義と課題」、第2教則「元素」、第3教則「気質」、第4教則「体液」、第5教則「解剖」、第6教則「能力と機能」となっている。五十嵐訳では第5教則「解剖」が第1部全体の3分の2を占めている。
 第1巻の第2部以降の邦訳は第三書館版で見るほかないが、不正確な英訳からの重訳であることに留意しなければならない。
 五十嵐は、翻訳作業は続行中であり、第1巻全体が刊行される予定であると述べている(p.<70>)。どこかに原稿が保管されているのなら、ネット上の提供でも考えて欲しいと思う。1991年に刺殺されずに活動を続けていたならば、イスラムについての日本人の認識はもっと進んでいたであろう。科学史の上からも、惜しい人材を失ったものである。

2012年4月25日(水)授業日
 3時限「論述作文」は、情報センターでワードの講習会。昨年は30名近い受講生のうちワードが使えないのは1名だけだったが、今年は半数が使えないというので早めに講習会を設定した。また、例年のことだが、ワードが使えるといってもほとんどはページ設定を変えることができない。一度だけの講習だが、後は自分でなんとかするだろう。
 4限「科学技術史」の本日のテーマはアリストテレス。社会人聴講生は前方の席に座り、学生は後方の出口近くに固まっているというのは困ったことだ。次回は強制的に前に移ってもらうと予告しておいた。

2012年4月24日(火)ハナのテレビ好き復活
 しばらく前からハナが再びテレビの動物番組を見るようになった。ネコ番組ばかりでなく、ライオンなどのネコ科の猛獣も好きだし、ペンギンやイルカなど海の番組も見る。鳥が飛んでいるだけの映像もよく見ている。それも真剣に、じっと見入っている。テレビ映像をどういうものと理解しているのか、聞いてみたいものだ。

2012年4月23日(月)バクダート「知惠の館」の神話
 古代中世の科学について、リンドバーグ(高橋憲一訳)『近代科学の源をたどる』(朝倉出版、2011)を参照しているが、その中に、ギリシア語からアラビア語への莫大な数の翻訳がバクダートの「知惠の館」で行われたという通説は神話にすぎないという記述があった(p.183)。リンドバーグ本人も本書の初版(1992)では通説に従っていたという。本訳書の原書は第2版(2007)であり、この通説を批判したのは、グタス『ギリシア思想とアラビア文化』(1998. 邦訳2002)であるという。
 後日、桃大図書館からグタス(山本啓二訳)『ギリシア思想とアラビア文化』(頸草書房、2002)を借り出してみると、「知惠の館」について詳細な考証があった(pp.61-68)。それによれば、「知惠の館」の機能はサーサーン朝の歴史と文化についてペルシア語からアラビア語への翻訳活動に場所を提供するものであり、ギリシア語からアラビア語への翻訳活動とは全く無関係であった、という。
 アラビア科学史には必ずこの「知惠の館」が登場し、大きな総合研究施設とされていることもある。それが神話であったとは、驚いた。また一つ、科学史上の通説が崩壊した。

2012年4月22日(日)iPod 到着
 NTTのポイントで発注したiPod touch が宅配便で送られてきた。最も基本的なこと、充電方法から分からない。電話相談でiTunes を入れるところまでいったが、その先がまた分からない。新しいWindows7パソコンの活用もまだである。しばらくはデジタル機器に悩まされることになりそうだ。

2012年4月21日(土)教材作成
 5月9日に予定している「科学技術史」の教材pptを作成。PDF形式で学内で公開しているものを各自でプリントするよう受講生に要請しているので、こちらも先へ先へと用意しなければならない。昨年のものとはかなり変えるため、当面は教材作成に追われることになる。

2012年4月20日(金)ガレノス本
 この1週間は断続的にガレノスの翻訳や解説を読み散らかしてきたが、そろそろ打ち切って先に進まなければならない。現在では京大出版会の西洋古典叢書でガレノスの著作数点を日本語で読めるのがありがたい。『解剖学論集』は人体解剖学の知識がないと読み通すのは難しいが、『自然の機能』と『ヒッポクラテスとプラトンの学説1』は文系人でも通読可能だろう。後者は知性の座が心臓にあるとするストア派のクリュシッポスを批判したもので、クリュシッポスに対する罵詈雑言はすさまじいが、同様の立場だったアリストテレスへの批判は穏和である。解説書だけでは味わえない面白さであろう。
 同書に「テオプラストスおよびアリストテレスの学派の古い哲学者たち」(訳書 p.48)という表現が出てきて、あっと思った。科学史では古代の科学としてアリストテレスとガレノスが連続して出てくるが、考えてみれば500年の開きがある。ガレノスにとってアリストテレスは、はるか昔の人だったのだ。
 そのガレノスが自説を擁護するためにアリストテレスより古いヒポクラテスとプラトンを持ち出している。しかし『ヒッポクラテスとプラトンの学説1』を読めば、ガレノスはあくまでも自分自身の観察・実験に基づいてクリュシッポスを批判しており、それを権威づけるためにヒポクラテスとプラトンの名を持ちだしているにすぎないことが分かる。
 DSB新版の項目「ヒポクラテス」によると、W・スミス『ヒポクラテス伝説』(1979)以来、ヒポクラテスについての理解が一変した。一般に流布しているヒポクラテス像は、ガレノスが自説の都合に合わせて作り出したものだという。生物学通史を志したおかげで、こうした研究動向を知ることができた。これからもさまざまなところで新しい科学史研究の成果を学ぶことになるだろう。

2012年4月18日(水)授業日
 朝、桜の花の絨毯を踏みしめてバス停へ。金剛駅からは25分で桃大に到着。本日は購入したばかりのノートパソコンを持参し、計算機センターで教材作成用のソフトを入れてもらった。重量は2.5キロ。家の中では軽いと感じていたが、外で持ち歩くとかなり重い。携帯用に用いるのは無理なようだ。
 3時限「論述作文」は早くも1名脱落。4時限「科学技術史」の受講生も前回より減少していた。しんどい授業と思われたのだろう。ただし社会人聴講生が増加していた。社会人が多くなるとそれなりに気を遣うことになる。

2012年4月17日(火)観心寺ご開帳
 観心寺の秘仏・如意輪観音像のご開帳は4月の17日と18日の2日間と決まっているが、明日は出講日なので本日行くほかない。昨年は雨だったにもかかわらず土日だったため多くの参拝客があり、金堂に入るのに雨の中を並んで待つほどだった。今年は晴天なのに昨年のようなことはなく、落ち着いて参拝することができた。

2012年4月16日(月)作文添削
 「論述作文」の最初の作品に一通り目を通す。原稿用紙の使い方をきちんと仕込まれている学生から、ほとんど心得のないものまで幅があるのは例年のことである。

2012年4月13日(金)文楽「加賀見山」
 朝、散り始めた桜並木を通ってバス停へ。天下茶屋駅で一息入れてから、日本橋の国立文楽劇場へ。第1部「加賀見山」の「草履打」から「奥庭」仇討ちまでは歌舞伎でもおなじみだが、今回は最初に本筋の加賀騒動関係から「又助住家の段」が上演された。文楽でも歌舞伎でも見た記憶がないと思っていたら、筋書きの解説に「稀曲」とあった。忠義のために親子3人が死んでいく話だが、悲劇としての説得力がない。あまり上演されないのも当然だろう。ただし、咲大夫はこの作品にはもったいないくらいの力演であった。
 「草履打」からは歌舞伎でも何度か見ている。江戸時代は御殿女中が宿下がりする桜の時期に上演されていたという。古参の岩藤が、新入の尾上をいじめる。現在でも見聞きする話である。
 「長局の段」は尾上が源大夫、お初が千歳大夫。小さな声でぶつぶつ語っている源大夫には困った。退屈して筋書きの解説を読んでいた。人間国宝だからといって、いまや銭を取れるような状態ではあるまい。
 4月公演はこの第1部だけのつもりだったが、後日、第2部の「金閣寺」と「桂川」も見ることにして前売りを買ってしまった。久し振りに住大夫と嶋大夫を聞きたくなったし、橋下市長の愚劣な文楽いじめに、文楽の将来に不安を感じるようになったこともある。

2012年4月11日(水)授業開始
 朝、満開の桜並木を楽しんでバス停へ。昨夜の雨にもほとんど散っていなかった。昨年度と同様、金剛駅から直通バスで桃大へ。
 最初の授業で最も気になるのが受講生の数である。理由は分からないが、同じ授業でも年度によって大きく変動する。本日の状況から見ると、3時限「論述作文」は昨年度の半分以下、4時限「科学技術史」昨年度の数倍になるようだ。いずれも授業運営に適した人数なので、ほっとした。

2012年4月6日(金)その2.ベートーベン交響曲第7番
 2時開演の日本センチュリー交響楽団の名曲コンサートにNHKホールへ。最初がスメタナ「売られた花嫁」序曲。次はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ソロはクララ=ジュミ・カン。最後がベートーベン交響曲第7番。指揮は小泉和宏。アンコールはなし。
 今回の目的はベートーベンの第7番である。退職して家にいるようになってからは、なぜかCDを掛けなくなったが、研究室に通っていたときは気分に応じてさまざまなCDを掛けていた。その中でも一番多かったのはベートーベンの7番だった。気合いを入れたいときにはぴったりの曲である。ベートーベンの交響曲の中でタイトル付きの曲ほど人気がないのが不思議だった。本日のプログラムを読むと、最近は「のだめカンタービレ」のおかげで注目されるようになったという。理由が何であれ、この曲の演奏される機会が増えるのはけっこうなことだ。
 繰り返し聞いていたので曲の展開は頭に入っているが、当然のことながら、CDと生とでは大違い。オーケストラの音の世界に浸ることができた。

2012年4月6日(金)その1.高島屋史料館「屏風絵展」
 昼前に日本橋の高島屋史料館へ。ここはいつ行っても静かで、ゆっくり鑑賞できる。しかも無料。前にも書いたが、美術鑑賞の穴場である。現在の「屏風絵展」に展示されている作品の多くは染織などの下絵を屏風にしたもので、作者不明のものが多いという。その中で院展出品の冨田溪仙「風神雷神」四曲一双はひときわ目立っていた。ユーモラスな風神と雷神が面白い。

2012年4月5日(木)訃報・松尾幸とし様
 松尾・元同志社大学教授が3月26日に亡くなられたとの連絡があった。年齢も経歴も近かったので、彼が京都に、当方が大阪に来てからは最も深く付き合った科学史仲間だった。ここ数年は病気療養に専念されていたが、あまり状態はよくないらしいと風の便りに聞いていた。訃報に接し、いろいろなことが思い出されてつらい。なお、「幸とし」の「とし」は「禾」の下に「千」。生前、「季」と間違えられると、よくこぼしていた。

2012年4月4日(水)授業準備
 来週から始まる新年度の授業の準備のため、3ヶ月ぶりに桃大へ。まずは「科学技術史」の教材3回分を大学のサーバーにアップ。図書館から借り出していた19世紀関係の図書を返却し、今度はガレノス関係などを数点、借り出す。今は新入生のガイダンス期間なので、図書館も静かなものだ。

2012年4月2日(月)文楽助成
 『文楽友の会・会報』の最新号が届いた。大阪市の文楽協会への補助金削減について何か書いてあるかと思ったが、一言も触れていない。「友の会」という組織なので、この問題は避けたのだろう。橋下市長の文化論は根本的に間違っているが、今回は文楽について一言だけ言っておきたい。
 かつて三和会を率いていた桐竹紋十郎が、前進座のように東京に拠点を置けばやっていけるといっていた。逆に言えば、大阪では無理だと見たのだ。歌舞伎の状況を見ても、大阪では古典芸能が存続しにくいことが分かる。古典芸能ばかりではない。出光美術館もサントリー美術館も大阪を撤退した。人形浄瑠璃の新しい企画も首都圏なら成功しても、大阪では観客が集まらないだろう。市長は「金を出してやっている」つもりだろうが、「金を出して大阪に止まってもらっている」という側面もあるのだ。
 この人に何を言っても「馬の耳に念仏」だろうが、文化に経済的な効果を期待してはならない。それでも非実用的な文化が人類を大きく動かしてきた。アリストテレスの生物学もその一例であろう。

2012年3月31日(土)アリストテレス『動物部分論』第1巻
 同書の島崎三郎訳を読み直す。書き込みがあるので間違いなく一度は読んでいるのだが、記憶に残っていない。問題意識を持って読まないとこんなものなんだな。ジャーナルに書くことは記憶を定着させる効果もあるだろう。
 『部分論』全4巻のうち第2巻以降が書名通りの比較解剖学だが、第1巻は生物学全体の序論というべき内容で、科学史書でしばしば引用されている。D.M.Balme の英訳(1972)の解説によると、第1巻の5章は5編の論文を集めたものであるという。第1章は目的論を説いたもの。第2・3章は一つの論文で、アカデメイア学派の二分割法を批判する。第4章では後世の「相同・相似」に相当する区別を説く。第5章の前半では生物学の意義を説く。第5章の後半では動物学の叙述順序を論じており、第4章に続いて読まれるべき内容になっている。
 第5章の前半で、生物学には天文学に劣らない意義があると主張する。下等動物の研究でさえ「いいしれぬ楽しみ」をもたらすといい、「下等動物について調べることを、子供みたいにいやがってはならない。実際、どんな自然物にもきっと何か驚くべきことがある」という。海産生物の研究に夢中になり、驚くべきことの発見を楽しみ(ヘドネ)にしていたアリストテレスの様子が目に浮かぶ。ここに実用性から離れた生物学が人類史上、始めて誕生したのである。我が生物学通史は、ここから始めようか。

2012年3月29日(木)オペラ映画「魔弾の射手」
 狭山駅前で散髪してから難波に出ると、高島屋で「法隆寺展」を開催していた。これは見ないわけにはいかない。百貨店なので当然、国宝・重文は出ていないが、精巧なレプリカや模写がかなり展示されていた。ただし今回の展示の特徴は、明治以降に収められた作品だろう。聖徳太子人気の根強さを示している。
 昼食後、梅田へ。「シネ・リーブル梅田」の入っている梅田スカイビルには2回か3回は来ているはずなのだが、またしても道に迷った。十分に余裕があったはずなのに、たどり着いてた時は上映開始の直前だった。映画の冒頭にナポレオン戦争が描かれていたが、このオペラは本来、魔法が信じられていた時代の話ではなかったのか。魔弾を作る場面では、そのレシピに水銀と「命中した弾丸」が出てきたので、はたと気がついた。これは錬金術の応用だな。鉄砲が実用化されると、魔弾を作ると称する錬金術師も登場していたのだろう。
 演奏はロンドン交響楽団、歌手も合唱団も多分、一流どころなのだろう。それでも舞台ならもっと楽しいだろうなと思いながら見ていた。荒唐無稽なストーリーも、舞台なら気にならないだろう。とりあえず今回は、どんなオペラか分かっただけでよしとしよう。

2012年3月28日(水)パソコンとスマホを発注
 本日は気分良く朝からパソコンに向かっている。「一太郎」のJUSTから格安のWindows7が販売されていたので、思い切って発注した。ついでに、NTTで貯まったポイントでiPodを注文。今日は気分が高揚しているようだ。品物が届いたら、使いこなすまでにまた時間が掛かることだろう。

2012年3月27日(火)歯科検診
 半年に1度の検診のため、北野田の日野歯科医院へ。全ての歯に異常なし。ついでにどこかに出掛ける気にもならず、昼前には帰宅したが、疲労感で何もできない。情けない。

2012年3月26日(月)科学用語の取り違え
 DSB新版の「アリストテレス」の項目によると、ラテン語書名 Physica が英語では Physics と訳されるため、その内容が誤解されているという。なるほど。日本語では『自然学』と訳されるので、初心者でも Physica を『物理学』と誤解することはない。『動物誌』や『動物部分論』の訳者・島崎三郎の訳注によると、アリストテレスの英訳で、ギリシア語の arteria (気管)がartery(動脈)と訳されることがあるため、アリストテレスの血管論に誤解が生じる要因になっているという。
 近代になっても、生物学用語としては「発生」を意味していた evolution が19世紀末には「進化」の意味に転じていたという例もある。科学史家としてはつねに用心していないと、とんでもない間違いを犯しかねない。

2012年3月24日(土)科学史ppt教材作成
 このところ、4月からの講義「科学技術史」のパワーポイント教材作成に断続的に取り組んでいる。今回から内容を生物学史にすることにしているが、世界史の基礎知識に欠けている受講生には、まず、西洋史の概略から話さなければならない。結局、中世までのスライドは昨年までのものと大きく変えることにならなかった。アリストテレスでは宇宙論を短くして生物学を詳しくする。ヘレニズム期ではアルキメデスとプトレマイオスを短くしてガレノスを詳しくする、といった程度の修正に止まる。

2012年3月19日(月)ガレノスの生没年
 ガレノス関係の文献を見ると、その生没年があいまいである。DSB旧版の項目冒頭には (b. 129/130; d. 199/200) と記され、本文では129生年説と130生年説の論争が紹介されている。DSB新版では (b. September 129; d. c. 216)と記され、本文中には199没年説は「決定的に打破されている」(has been definitively exploided)とある。その根拠を確認する余裕はないが、ガレノス研究者の間では、生年は129年で確定し、没年は216年前後とみなされるようになったと理解してよいだろう。近年の文献でもガレノス没年を199年とか2世紀末としているが、これは訂正した方がよさそうである。

2012年3月18日(日)ロビー・コンサート「ヘンゼルとグレーテル」
 河内長野市ラブリー・ホールのロビー・コンサートに始めて出掛けてみた。本日は大阪芸大出身の声楽家7人とピアニスト1人の集団SKYによるオペラ「ヘンゼルとグレーテル」である。ロビー・コンサートのチケットは一律千円なので、今回はかなりのお得感がある。それでもロビーに並べた椅子150脚のうち、埋まっていたのは半分くらいか。子供向けのオペラなのに、観客は年配者ばかり。せっかくの熱演なのに、もったいない。ロビーなので最前列に座らなければ演技はほとんど見えないが、今回は音楽を聴くつもりで出掛けたので、見えなくてもかまわなかった。しかし、オペラを見たという気分にはならない。
 名作といわれるオペラの名前だけは知っているが、ほとんど舞台を見ていないので、こういう機会は貴重である。今回はオリジナルバージョンで、歌詞も新たに翻訳した日本語で歌っていた。ところがこの日本語の歌詞がほとんど聞き取れない。どうせ聞き取れないなら、歌はドイツ語のまま、台詞だけ日本語でもよかったのではなかろうか。
 この SKY というグループのホームページをのぞいたら、昨年7月以来、更新されていない。演奏者がHPを開設したなら、公演記録と公演予定だけは小まめに更新しなければ意味がない。

2012年3月14日(水)アリストテレス本
 ここ数日は新旧、日英、さまざまなアリストテレス本を読み散らしてきたが、一旦打ち切って先に進まなければならない。生物学については近年のアリストテレス研究の方向がおおよそ分かってきた。
 従来、アリストテレス生物学の権威としてはシンガーが引用され、「アリストテレスの生物学は比較的近代になって再発見されたにすぎない」という評価も受け継がれてきた。しかしレノックス(2001)によれば、アリストテレス没後、たしかにその生物学は消失してしまう (The Disappearance of Aristotle's Biology: A Hellenistic Mystery) が、13世紀にアルベルトゥス・マグヌスによって復活されて以来、近代生物学の確立に寄与してきたという。執筆予定の生物学史通史ではこうした見解にも留意しなければならない。
 また、アリストテレスの生物学は『分析論後書』の科学論に基づいているという立場から、「ゲノス」(類、属)と「エイドス」(形相、種)など、アリストテレス生物学のさまざまなテーマについての哲学的分析が多数、出ている。いずれじっくり取り組んでみたい。
 ただ、ケンブリッジ・コンパニオンなど、最近のアリストテレス概説書ではこうした哲学的議論が中心になっていて、アリストテレス生物学の内容などについての解説がない。その点、ロスの『アリストテレス』(初版、1923)は依然として有用である。ネットで検索すると現在も新版が出ている。欧米でも読まれ続けているのだろう。

2012年3月11日(日)瀬崎明日香のヴァイオリン
 昼過ぎに家を出てラブリー・ホールへ。2000年以来、一市民が企画しているクラシックのコンサートだが、補助金なしでよく続けられるものだと思う。チケットは2,000円で、会場までドア・トゥー・ドアで40分というのがいい。今回はピアノ・田尻洋一、ヴァイオリン・瀬崎明日香のデュオ・コンサート。演奏に先立って3.11地震被災者への黙祷。これは予想していたが、当然のことだろう。
 最初の曲は田尻洋一作曲「レクイエム」。第1部の最後はブラームス「ヴァイオリンソナタ第3番」、これが本日の演目の中心であろう。休憩をはさんで、まずは「ツィゴイネルワイゼン」。ピアノソロ・リスト「ラ・カンパネラ」などがあって、最後はガーシュイン:オペラ「ボギーとベス」による幻想曲。日本での演奏は珍しいとのことだが、クラシックマニアではない者としては、予告されていた「カルメン幻想曲」の方を聴きたかった。
 アンコール第1曲は「荒城の月」。アンコール第2曲「チャルダッシュ」では瀬崎明日香が演奏しながら観客席を一周した。観客は大喜び。当方は通路脇の席だったので、一瞬ではあったが、目の前での演奏となった。帰宅してからネットで調べると、彼女のコンサートの名物になっているらしい。これはコバケンこと指揮者・小林研一郎のアイデアという記載もあった。とにかく今日のコンサートはこの「チャルダッシュ」の印象が強烈で、今でも頭の中でヴァイオリンが鳴っている。

2012年3月8日(木)書斎の整理
 まずは書斎のあちこちに散らかっている人間論関係の文献類を片付ける。しばらくは授業に備えてアリストテレスとその後継者に集中しなければならない。この後、数ヶ月ぶりに書斎の掃除をした。昨日、今日と暖かい日が続いているので、掃除をする元気も出てくる。ただ、これだけでエネルギー切れになって、勉強に取りかかれないのが情けない。

2012年3月6日(火)申告書送付
 ラブリーホールの食堂で昼食の後、クラシックの手頃なコンサートの切符を購入。今年はいよいよ「友の会」に入るか。駅前にもどる途中で郵便局により、確定申告書を発送。とにかくこれで一件落着。

2012年3月5日(月)生物学史講義の準備開始
 春14回、秋14回の授業日程表を作成。今年は授業準備に追われることになるが、否応なく、生物学史の全体像が概観できるだろう。

2012年3月4日(日)大槻能楽堂
 森田流能笛・野口傳之輔一門の「能と囃子の会」があるので、昼過ぎに大槻能楽堂へ。演目の中心は会の名義人である野口亮の笛で「鸚鵡小町」、シテは片山九郎右衛門。笛もシテも見事だったが、「関寺小町」ほどではないにしても動きの少ないマニア向けの作品のように思えた。
 「鸚鵡小町」の前に能がもう一番、「清経」。笛の斉藤敦が「恋之音取」を披いた。シテは観世喜正、そのさわやかな演技が印象に残った。同人は「鸚鵡小町」の地謡で地頭・片山幽雪の左、客席から最もよく見える位置にいたが、背筋を伸ばし、微動だにしない。鍛えているのだろうな。東京が本拠の能楽師だが、これからは注目していこうと思う。
 師匠の野口傳之輔は舞囃子「葵上」最後の「イノリ」の笛だけ。シテは大槻文蔵、ワキは福王茂十郎、ワキも登場する舞囃子は始めて見た。生霊と僧との勝負、ワキは気合いを入れているのに、シテは軽く流している感じだった。舞台芸人でもスポーツ選手でも常に百パーセントの力を出すのは無理らしいが、観客としては一期一会の観劇は充実したものであって欲しいと思う。

2012年3月3日(土)アリストテレス本
 数日間、事務作業ばかりだったので科学史の勉強に飢えてきた。4月からの授業「科学技術史」(実質的には生物学史)の準備もあるので、アリストテレスに取りかかることにした。まずはDSB新版の項目に目を通す。旧版では4人の分担執筆だったが、新版はレノックス 一人の執筆である。『分析論後書』の科学論の解釈やアリストテレスの科学史上の位置づけについて、レノックスは旧版の記述を厳しく批判している。いずれじっくり勉強しなければならない。
 アリストテレス関係の文献は手元に置いたままだし、ギリシア語の辞典類も書棚の奥から引っ張り出した。当面、授業準備や通史執筆に困ることはないだろう。 

2012年3月2日(金)その2 確定申告
 ここ数日は確定申告のための作業を続けていたが、ようやく本日、国税庁のシステムを利用して入力完了。後は、税務署に郵送するだけ。昨年はここまでに延べ3日だったのに、今年は5日もかかっている。時間的に余裕はあるし、うんざりする作業なので、つい、合間にパズルをやったり、古墳の本を読んだり、テレビを見たりしている。ぎりぎりになってから作業する方が効率がよいようだ。

2012年3月2日(金)その1 文楽予約
 国立文楽劇場4月公演の「加賀見山」を電話で予約、いつもの床直下の席を確保した。「友の会」会員なので、一般より1日早く予約ができる。住大夫と嶋大夫は「桂川連理柵」の「帯屋」に出るので、聴くことができない。よほど昼夜ともに見ようかと迷ったが、「桂川」は気が乗らない。今回も咲大夫だけで我慢しよう。

2012年2月25日(土)矢澤高太郎『天皇陵の謎』文春新書 2011
 昨日、河内長野駅前の書店で購入した標記の新書を読了。巻末の著者紹介によれば、元読売新聞文化部記者。60歳定年なら5年前に退職か。「まえがき」も「あとがき」もないので執筆の経緯などが分からないのは残念である。代表的な古墳の現状を知るには、考古学者の著書よりも分かりやすい。本書を携えて山辺の道や飛鳥を歩いてみたい。
 同書では、宮内庁書陵部が管理している陵墓の公開を強く主張している。ただし主体部の発掘は時期尚早で断固反対であるという。現実的で妥当な主張ではなかろうか。
 人類の年齢の歴史をたどる旅は、ちょっと一服。日本古代史で頭をリフレッシュといったところか。

2012年2月24日(金)忘れ物
 ハナの点滴廃棄物を動物病院に持って行くため、三日市町駅前でバスを降りたが、点滴グッズの袋だけ持って、カバンはバスに置き忘れてしまった。このカバンの中に何もかも入っている。バスの終点の河内長野駅前までタクシーで先回りして取りもどすことができたが、なんでこんな大事なものを忘れてしまうのだろう。どうかしている。歳のせいなのか。気をつけよう。

2012年2月23日(木)テレビ嫌いになったハナ
 昨日の外出のためか、疲労感があってなにもできない。ハナと遊ぼうとテレビの動物番組をつけたが、見ようとしない。14日(火)に、テレビ画面の魚をもらえなかったことがショックだったらしい。あれ以来、テレビに見向きもしなくなった。それまでもテレビ画面が絵空事とは思っていなかったのかもしれない。ハナが真剣にテレビを見ている様子が面白かったのに、残念である。

2012年2月22日(水)難波へ
 午前中に狭山駅前の行きつけの理髪店で散髪。そのまま帰るつもりだったが、なんとなく難波まで出たくなった。といっても目的はない。この時期、うっかり博物館・美術館に行くと閉館していることがある。見たい映画もない。ジュンク堂難波店には科学史書などがないので、立ち寄る気にならない。結局、高島屋美術部をのぞいてから、ヤマダ電器でキャットフードを購入しただけ。それでも久し振りの外出で、けっこう疲れた。

2012年2月21日(火)ライエルのこだわり
 地球の年齢と人類の年齢の歴史をたどる旅も、バックランドとライエルまでたどり着いた。まだ図書館で確認する作業があるが、とりあえず一区切りである。地球は同じ状態を続けているという一方で、人間の特殊性にこだわるライエルの姿勢に、改めて彼の信仰の強さを感じる。

2012年2月19日(日)英訳・キュヴィエ『地球の理論』の誤訳
 地球の年齢と人類の年齢の歴史をたどる旅も、ようやくキュヴィエまで来た。キュヴィエの『化石骨の研究』(1812)冒頭の「序説」はキュヴィエの地質学総論といえる内容になっている。それによると、地球では陸と海が入れ替わる「大異変」(revolution)が繰り返し起き、その時に旧来の生物が絶滅して新しい生物が登場する。人間は最後の大洪水の後に登場したが、それは6,000年前のことであったという。キュヴィエは実証性を重視する立場から「地球の起源」や「種の起源」といった問題の議論は避けているが、「序説」の最後の文章に地球の年齢についての彼の考えをうかがうことができる。彼は次のようにいう。「人間が地上で与えられた時間はほんの一瞬にすぎないが、その存在に先立つ数千世紀(milliers de siècles)の歴史を再構成するという栄光を有している」。すなわち、キュヴィエは地球の年齢を数十万年と見ていたといえるだろう。
 ラドウィックの英訳(1997)ではこの部分を the thousands of centuries と訳している。ところがジェームソン編の英訳『地球の理論』(1813)では、thousands of ages と訳している。siècles をages と訳すのは、誤訳といえなくとも、あいまいな訳である。この時期のジェームソンは『創世記』の記述にこだわっていた。同書の英訳はジェームソン本人ではなかったが、このあいまいな訳にはジェームソンの意向が反映しているのではないだろうか。
 それにしても、古代ヘブライの民から始まった6,000年という枠が、西洋人の思考を根強く拘束してきたことに驚く。本人たちも意識することがないほど、当然のものになっていたのであろう。イギリスの主要な地質学者たちが1859年にこの枠から脱したのは、西洋思想史上の一つの画期とみなされるのも無理はない。このメイン・テーマにたどり着くにはまだ150年かかる。それでも、17世紀の聖書年代学でうろうろしていたころに比べれば、キュヴィエまで来ると大分、先への見通しがついてきた。

2012年2月14日(火)テレビ好きのハナ
 三毛猫ハナはテレビ好きである。それも動物番組に限る。今日も有線テレビの動物チャンネル・アニマルプラネットでマルタ島の猫が映されていると、いつものように2メートルほど離れた所からじっと画面に見入っていた。ところが釣り人からもらった魚を猫がくわえる場面が映るやいなや、「にゃにゃ」と叫んでテレビの前まで走っていった。自分も魚をもらおうとしたのではなかろうか。映像が現実でないことは理解しているようなのだが、猫が魚をくわえた場面に、おもわず我を忘れてしまったのだろう。

2012年2月13日(月)ラドウィック『化石の意味』の誤訳・その2
 標記の訳書の第2章の最後、ビュフォンについての第13節に、とんでもない訳文があることに気づいた。「彼はそれまで、観察しうるすべての地層を堆積させるのに数千年もあれば十分であると考えていたのである」(p.124)の原文は、though he suspected that only millions of years would suffice for the deposition of all the observed strata. 「ただし彼は、数百万年という年月だけが、観察されたすべての地層の堆積を可能にするだろうと考えていたのである」とでも訳すべきだろう。「ミリオン」を「千」にしてしまうとは、いくらなんでも無茶だ。これは誤訳といったレベルではなく、原文とは無関係な作文である。
 ビュフォンの『自然の諸時期』には地球の年齢は7万5千年と記されているが、ロジエ(1962)によって原稿段階では3百万年であったことが明らかにされており、ラドウィックの原文はこのことを踏まえたものである。それを明記していないのは不親切といえる。ラドウィックは、ビュフォンが当時すでに時代遅れであり、地質学の発展に貢献していないと見ているので、『化石の意味』での解説も素っ気ない。
 DSBの「ビュフォン」の項目は、旧版(1973)ではロジエ、新版(2008)ではスローンが執筆している。スローンによると近年になってビュフォンの業績を積極的に評価する立場から多様な研究がなされているようだ。ビュフォン特有の「有機分子」や「種」の概念について、いずれ、こうした文献に当たらなければならないが、当面は『自然の諸時期』の地球の年齢と人類の出現について注目しておくだけにしよう。

2012年2月9日(木)「天守物語」「すし屋」「研辰の討たれ」
 難波に出るのは先月6日以来である。まずはパークス・シネマで玉三郎の「天守物語」を見る。玉三郎の代表作の一つといわれているのに舞台を見ていない。せめて映画ででも見ておこうと出掛けた。2011年7月の歌舞伎座公演を撮影したもので、撮影を意識してか、端役に至るまで気合いが入っていた。泉鏡花の幻想的な世界を楽しめたが、映画ではアップが多く、舞台で見るのとはかなり異なるだろうと思われる。一度は舞台で見たいものだ。
 一服してから松竹座の夜の部へ。今月は、染五郎・愛之助・獅童の花形歌舞伎だが、彼らを見るというよりも「研辰の討たれ」を見ておきたかった。珍しい演目ではないのに、なぜか、これも見る機会がなかった。この芝居はもっぱら主役・研辰(とぎたつ)の軽妙な演技を楽しむもので、今回の主役は染五郎。楽しかったが、勘三郎ならもっと楽しめる気がする。
 夜の部のもう一本は、愛之助の「すし屋」。どうしても二代目松緑や先代勘三郎の権太と比較してしまう。愛之助が彼らのレベルに達するには、まだ時間が掛かりそうだ。「すし屋」は単独で上演されることが多いが、「椎の木」と「小金吾討死」に続けてみないと話の展開が分かりにくいし、なにより権太の「女房、せがれ」への情愛が伝わらない。なぜ最後に呼び子の笛が出てくるのかもわからない。
 この笛を母親ではなく原作通りに権太自身が吹いていたが、これは関西の型。ほかにも、すし桶の取り方、女房・せがれの顔を上げさせる時など、松緑の演じた菊五郎系の型とは異なる場面がいくつかあった。愛之助には関西の型を継承しようする意欲があるのだろう。期待しよう。

2012年2月5日(日)キャットフード
 今日と明日は厳しい寒さもやや和らぐらしい。久し振りに千代田まで出て、まずは動物病院にハナの使用済み点滴グッズを届け、西友でシロのためのキャットフードを購入。朝のうちは日が差していたので、シロもハウスから出ていた。家の外にあるハウスはカイロで暖めているので、寒い日はシロもほとんどハウスにこもったままである。家の中に入りたいとアピールするが、ハナがいるのでそうはできない。勝手に我が家の庭に居着いてしまった捨て猫なのだから、ハウスとフードを与えるだけで十分なはずである。しかし、たかが捨て猫とはいえ、世話を続けていると寒くても家に入れてやれないことに罪悪感を抱いてしまう。

2012年2月4日(土)ラドウィック『化石の意味』の誤訳
 家にこもって文献を読む日々なので、つい、ジャーナル執筆をサボってしまうが、数少ない読者の期待に応えるためにも書き続けるべきだろう。そうはいっても、いちいち読んだ文献について報告するのはわずらわしいし、新聞ネタ、テレビ・ネタは原則として避けるとなると、公開のジャーナルに書くようなことはあまりない。今回は、再読した標記の訳書(大森昌衛・高安克己・訳、海鳴社 1981)について書いておこう。
 同書は地質学史の必読書といってよいものだが、同訳書で原著者(Martin J.S.Rudwick)を「ルドウィック」と表記したため、日本ではこの表記が広まってしまった。矢島道子さんらが提唱しているように、これは「ラドウィック」とすべきであろう。
 同訳書を読み直していると、前に読んだ時の書き込みがかなりあった。ところが、ほとんど内容を忘れていて、がっかりする。他の本でも同様に愕然としたことが何度もある。ただ読んだだけでは頭に定着しないようだ。ジャーナルに概要などを書けば、記憶を定着させることにもなるだろう。
 前回は訳文に疑問を抱いてもそのままにして、とにかく通読したが、今回は原書を脇に置いて第2章を読み、おかしいと思った時には原書を見ることにした。日本語として意味が通じない部分は、まず誤訳と見てよいようだ。たとえば「地球の起源が(中略)完全に現世という時代に求められる」(p.89)の原文は of quite recent origin 、「きわめて新しい時代のこと」とでもすべきだろう。「創造された万物の完璧さという驚嘆に値するが魅力的ではない外延」(p.100)の原文は、a startling but attractive extension of the plenitude of the created universe 、「創造された宇宙の充足性の驚くべきではあるが魅力的な延長」とでもすべきであろう。「大氾濫の遺物を見つけるという熱意が、もしここで彼を欺いていたならば、後に(中略)もっとひどいあやまちに彼を導くことはなかったであろう」(pp.115-6)の原文は、If his enthusiasm for finding relics of the Deluge misled him here, it let him much further astray 、「大洪水の遺物を見つけようとする情熱のために彼がここで間違えたのであれば、その情熱は後に(中略)もっとひどい間違いに導いたといえるであろう」とでもすべきだろう。
 ジョン・ウッドワードの「物理学者」(p.109)は、physician すなわち「医師」の誤訳である。ところが訳書巻末の人名索引に付記されている注ではウッドワードについて、「医学教授」と記している。また、第2章の文献(25)の注記の訳ではアッシャーのことを「ウッシャー」としている。この部分は、表に出ている二人の訳者とは別人が担当し、本文との対比は行われなかったのかもしれない。

2012年1月29日(日)聖書年代学
 案の定、23日(月)から寒い日が続いている。こう寒いと家に閉じこもっていても、心身ともに凍えて何もできない。そうはいっても、いつまでも17世紀の聖書年代学にこだわっていられないので、一旦、打ち切って先に進むことにした。
 この問題で参考になった文献の一つが、アッシャー年代を論じたJ.バーの雑誌論文(1985)であった。S.J.グールドが『八匹の子豚』に収録した小論「アッシャー家の崩壊」でこの論文を紹介しているが、論文自体を入手するのは面倒だなと思っていた。しばらくしてネット上で公開されていることを見付けたが、パソコン画面には「このサイトの安全は保証されていない」という趣旨の警告が出ていた。一瞬、迷ったが、エイヤッと取り込んでしまった。トラブルは生じていないと思う。
 アッシャー年代でも、現在の聖書注釈書でも、ノアの洪水は世界創世から1656年後とされているが、これは『創世記』第5章「アダムの系図」に記されている数値、すなわちアダムが長子を生んだ年齢130から始めて、洪水が起きたノア600歳までを加算したものである。実際に足し算をしてみたら、確かにこの値になった。ヘブライ語テキストを用いる限り、ここまでは年代学者による違いはない。しかし洪水後の聖書の年代記述はあいまいで、聖書以外の文献や天文学の知識によって補うため、年代学者によって違いが出てくる。
 現在では馬鹿馬鹿しいというほかないこうした作業に、当時は第一級の学識者たちが真剣に取り組んでいた。理系・文系を問わず、現在の学者たちの研究テーマの中にも、後世、馬鹿馬鹿しいとみなされるものがあるかもしれない。

2012年1月22日(日)東大寺ミュージアム
 昨日までの冷たい雨も止み、最近では暖かい日となった。明日からはまた寒くなるようなので、気晴らしに出歩くのは今日しかないと奈良に向かった。近鉄奈良駅から、まずは東大寺へ。修学旅行の時期ほどではないにしても、かなりの人出であった。
 昨年10月に東大寺ミュージアムの開設が大きく報道されたが、ようやく訪れることができた。展示室に入ってすぐの場所に、おなじみの国宝・釈迦誕生仏が置かれていた。これを含め、全ての展示品はガラスあるいは透明アクリル越しに見るようになっている。今回の展示の中心、法華堂本尊の国宝「不空羂索観音立像」は修理中の冠と光背がないので、法華堂で拝観した時とは印象が異なる。それより問題なのはガラス扉が観音像の前面で閉じているため、正面から拝すると真ん中にくっきりした直線が入ってしまうことである。これを展示方法の失敗と思わないのだろうか。興福寺国宝館ではほとんどの展示品をガラス無しで直接見ることができる。内容の充実さからいっても、興福寺の方がはるかに優れている。
 ミュージアムの後で大仏さんに挨拶し、奈良国立博物館の平常展へ。展示内容は予め調べておいたので、新館では国宝・辟邪絵、旧館では奈良博蔵の国宝・木造薬師如来座像に注目することにしていた。それ以上に旧館で目を引いたのが、浄土寺の重文・阿弥陀如来立像(裸形)であった。迎講で用いられた像だという。しばらく拝していたら、「早うおいで」といわれたような気がしたので、慌てて「もうしばらくお待ちください」と頼んできた。博物館の後、まだ時間があったので興福寺の国宝館と東金堂に寄ってから帰途についた。
 比較的に暖かな日曜日だったので奈良公園を歩く人は多かったし、東大寺ミュージアムにも興福寺国宝館にも適度な入館者があった。ところが、国立博物館は閑散としていた。東大寺の不空羂索観音、あるいは興福寺の阿修羅のような集客力のある展示品はないにしても、この差は大きすぎる。直ぐ側を歩く人たちを博物館に誘い込む方策はないものだろうか。

2012年1月18日(水)最終授業日
 3時限「論述作文」では、受講を終えた感想を書かせてみた。提出した作品を厳しく批判されるので、やめたくなったこともあるが、文章を書く力がついたのでよかったという趣旨の感想が多かった。今年度は最後まで頑張った受講生全員が、一応、まともな文章を書けるようになったと思う。
 4時限「科学技術史」終了後、両科目の成績評価を終え、直ちに名誉教授室の端末から成績をウェブ入力し、今年度の授業関係業務を完了した。
 今週は、15日(日)に「論述作文」の作品添削、16日(月)に来年度「科学技術史」のシラバス入力、17日(火)に来年度の司書講習「図書館情報資源特論」関連の書類作成と、桃大の授業関係の作業を処理してきた。授業を終えた解放感があるので気張らしに出掛けたいとは思うものの、この寒さでは体が動かない。

2012年1月13日(金)K.P.オークリー「人間の古さの問題:史的概観」1964
 紀伊國屋書店に発注していた古洋書2点が昨日、同時に届いた。2冊ともアメリカの図書館(石油会社と短大)の蔵書印があった。本日は、石油会社旧蔵の標記の著書に目を通した。大英自然史博物館の紀要の一冊だが、実質的には単行本である。19世紀における人間の古さの確立についての先駆的業績として位置づけられており、人間の古さに関するペーパーで文献に挙げなければならないので取り寄せてみた。著者(Kenneth Oakley, 1911 – 1981)はピルトダウン人の偽造を暴いたことで知られる人類学者であり、全7章のうち第3章以降の5章は、19世紀後半からの古人骨年代測定の歴史である。19世紀中ごろの通説転換については最初の2章だけであり、これに関してはD.K.Grayson(1983)の方がはるかに詳しい。それでもオークリーは短い記述の中でプレストウィッチの功績を明確に認めており、「1859年は、人類の思想史上の転換点の一つとなった重大な年である」(p.94)としている。こうした指摘が、後にGraysonらの研究を呼んだのであろう。
 それにしても、日本国内の図書館相互利用で借り出すよりアメリカから古書を購入した方が安くつくのは、おかしい。相互利用の費用に再考の余地はないのだろうか。

2012年1月12日(木)ステノ(山田俊弘訳)『プロドロムス』東海大学出版会 2004年
 昨日、桃大図書館で借り出した『プロドロムス』(1669)の訳書に目を通す。地質学の原点ともいえるラテン語の著書が日本語で読めるのはありがたい。歴史的に重要とはいえ、あまり売れるとは思えない古典の訳が、助成金なしでよくぞ出版されたものだと思う。刊行時に購入希望を出して、図書館に入れてもらったと記憶している。
 今回、借り出したのは、ステノが地球の年齢をどう見ていたかを明確に知りたかったためである。地質学史の概説書ではその点がはっきりしなかったが、本訳書の訳者注に「アッシャー大主教の年代記を受け入れていた」(p.146)とあるので、問題解決。訳者が挙げている関連文献も読みたくなるが、きりがないのでこれについてはこの訳者注を引用するだけにしよう。

2012年1月11日(水)授業日
 3時限「論述作文」では受講生の研究発表を一応、終了。4時限「科学技術史」では総復習を兼ねて簡単なテストを試みた。簡単な問題なので社会人聴講生は満点だったが、これをかなり下回る受講生がいるのは残念であった。

2012年1月9日(月)シラバス入力サイトの不備
 桃大では授業のシラバスはウェブ入力することになっているので、来年度担当科目のシラバス入力に着手した。午前中はサイトにアクセスできたのに、午後にはアクセスできなくなった。操作を間違えているのかとアクセス方法を変えたりしたが、どうしても駄目。これは多分、サーバーの方に問題があるのだろうと見て、あきらめた。後日、確認したところ、やはり情報センターのミスであった。当方と同様に時間を無駄にしてしまった教員も多かったようだ。これもあってはならないミスであろう。 

2012年1月8日(日)「芝居ジャーナル」に加筆
 昨日は前日の芝居見物の疲れが出て何もできなかった。疲労回復に丸1日かかる。本日は一日パソコンに向かい、「科学技術史」のまとめの教材を作成した後、芝居見物のジャーナルを執筆した。演目についての思い出などを通常のジャーナルに書くと冗長になってしまうが、書いておきたいこともある。そこで「芝居」のページのジャーナルに加筆することにした。今回は「関の扉」を初めて見た時の感動を書いておいた。

2012年1月6日(金)海老蔵の「北山桜」
 昼過ぎに家を出て難波へ。まずは長堀の東急ハンズで特殊な歯ブラシを購入。帰ろうとしたら、「腰痛予防」と大書したウォーキング・シューズの出張販売が目についた。靴底が山型になっており、背筋も伸びるというので衝動買い。この靴に履き替えて、いざ松竹座の夜の部へ。
 海老蔵が五役を演じる「雷神不動北山桜」。二代目団十郎が道頓堀で初演したものだという。昭和42年に松緑が国立劇場で復活上演した時の舞台を見ているはずだが、ほとんど記憶に残っていない。通し狂言といっても見せ場は「毛抜」と「鳴神」である。おおらかな粂寺弾正を演じるには、年を重ねることも必要なのだろう。10年後、20年後に海老蔵の弾正を見たいものだが、こちらが生きているかどうか。
 「鳴神」で唖然としたのは、鳴神上人が目覚める時の台詞、「ナンダ、雨が降る」「ナンダ、雷が鳴る」「コリャなぜ雨が降る。ナゼ雷が鳴るやい」が無かったこと。鳴神が怒り狂うきっかけとなる重要な台詞である。今回の台本で省かれたのか、役者のミスなのか。いずれにせよ、「木戸銭返せ」に相当する失態である。
 大詰「不動明王降臨の場」もいただけない。御簾内で演奏する大薩摩にかぶせて、スピーカーから大音響の効果音を流していた。これは歌舞伎だぞ。大薩摩の出語りのほうがよほど観客が喜ぶのに、馬鹿な演出をしたものだ。
 市川宗家としてこれからも繰り返し上演するのだろうが、まともな演出になることを期待したい。

2012年1月4日(水)ジャーナル改変
 とにかく寒い。雪もちらついていた。昨日の疲れが残っていたが、午後にはホームページのジャーナル昨年分を新設ページに移すことができた。

2012年1月3日(火)京都へ
 
京都嵯峨野へ。難波、梅田、嵐山、どこもかなりの人出だったが、着物姿の女性を一人も見かけなかった。年々、街の景色から正月らしさが失われていくのが寂しい。

2012年1月2日(月)テレビ「忠臣蔵」
 
例年は2日に京都へ出掛けるのだが、天候不順のため、明日に延期することにした。おかげでテレビ大阪の7時間ドラマ「忠臣蔵」を見ることができた。長時間なので全部は無理だったが、半分以上は見たであろう。脚本(金子成人)はしっかりしていた。骨子は史実に従いながらも、安兵衛婿入りの経過などは自由に創作していた。畳替えや南部坂など、講談ネタも取り入れたのは忠臣蔵フアンへのサービスか。どうせなら戸田局も出して欲しかった。主役は安兵衛(内野聖陽)で、内蔵助(館ひろし)は脇役であった。二人の役を逆にして、もっと内蔵助を活躍させたら面白いかもしれない。
 久し振りの忠臣蔵だが、暗い場面が多すぎる。正月なのだから、思い切って明るいドラマにしてもよかったのではないか。

2012年1月1日(日)その2 年賀状・初詣
 
今年は早朝に年賀状の配達があったので、朝のうちに賀状書きを済ませた。高校時代の恩師の賀状に、卆寿を迎えたので年賀状は今年で打ち切るとあった。その気持ち、分からんではないが、なにかと世話になった先生ではあり、来年はどうしようか。返礼無用で賀状を送っても、負担に思われるかもしれない。迷う。
 午後は例年の通り、地元の加賀田神社に初詣。この神社は年々、立派になっていく。我々のように新興住宅地の住民が訪れるようになって、神社の財政も豊かになっているという。今年は本殿の裏に「山の神」の立派な祠が新築されていた。去年までは崖の岩を「蛇神さま」として地元民が勝手に拝んでいたものである。
 夜はNHK・Eテレの「ウィーン・フィル」生中継を視聴しながら、このジャーナルを書いている。今はちょうど名物の「美しく青きドナウ」の舞。締めくくりが「ラデツキー行進曲」。とにかく楽しい。

2012年1月1日(日)その1 今年は何をするか
 
生物学史通史執筆に向けて本格的に取り組む。一つには、2012年度と2013年度に桃山学院大学で担当する「科学技術史」を生物学に絞り、それぞれ28回の講義をアリストテレスから分子生物学に至るまでの生物学通史に当てる。講義は受講生の関心に合わせなければならないし、教材作成に追われることになるが、これによって通史の大枠が固まるだろう。
 二つには、通史の一環として「19世紀における人間の科学の成立」をまとめる。これも桃山学院大学の総合講座「人間学」への出講がきっかけで取り組むことになったものである。まずは、「人間の古さの確立」を中心とした「ヴィクトリア朝の人間論」をペーパーにすべく取り組んでいるが、これだけでまだ数ヶ月はかかりそうだ。
 こんなペースでいったら生きているうちに通史が完成しない可能性も高いし、日本が崩壊して年金生活の中で研究を続けるのが困難になるかもしれない。それでも行けるところまで行ってみよう。こういう明確な目標を立てないと、日々の生き甲斐が失われてしまう。 ダーウィン氏とのおつきあいはしばし中断だな。

2011年12月31日(土)その2 今年は何をしたか
 
今年も研究業績といえるものはなにもなかったが、生物学史通史執筆に動き出したことで、よしとしよう。
 趣味の世界では「文楽友の会」に入会した。「文楽応援団」に入るほどには入れ込んでいないが、今後も時代物を中心に楽しんでいきたい。春と秋の飛鳥探訪も、この程度なら体力的に無理がないので続けていくことになるだろう。