2011年12月31日(土)その2 今年は何をしたか
今年も研究業績といえるものはなにもなかったが、生物学史通史執筆に動き出したことで、よしとしよう。
趣味の世界では「文楽友の会」に入会した。「文楽応援団」に入るほどには入れ込んでいないが、今後も時代物を中心に楽しんでいきたい。春と秋の飛鳥探訪も、この程度なら体力的に無理がないので続けていくことになるだろう。
2011年12月31日(土)その1 変哲もなき大晦日
朝、地質学史の勉強をした後、午後はカミさんの買い物に付き合って河内長野駅前へ。夜はNHK・Eテレの「第九」を聴いて、さっさと寝床へ。なにもない年の暮れ。
2011年12月26日(月)歌舞伎俳優の訃報
朝はまず三日市駅前の田中整形外科へ。大変な混みようで、1時間かかった。隣接する薬局に寄ってから河内長野局まで歩いて数通の年賀状を投函。さらに河内長野駅前まで歩いて昼食後、イズミヤまで歩いてキャットフードなどを購入。帰りのバスに乗っていると雪が降ってきた。この冬、一番の寒さではなかったろうか。
最近では延べ1時間も歩くことなど滅多にないので、帰宅後はぐったりしてしまった。家では、パソコンに向こうか、寝転がって本を読むか、ぼんやりテレビを見るかだけなので、運動不足は明らかである。だからといってウォーキングに挑戦しようなどという気にもならない。
朝刊に役者二人の訃報が掲載されていた。岩井半四郎と片岡芦燕。
岩井半四郎が最も輝いていた時期、東横ホールのスターだったころは知らない。憶えているのは、テレビ中継で日劇ダンシングチームに混じって踊っていたことである。なぜ歌舞伎を捨てて東宝に走ったのだろう。猿之助一座の花形の座を団子(現・猿之助)に奪われたためと聞いたことがあるが、東宝に移ってからの見通しはあったのだろうか。
幸四郎一門は東宝への一時移籍も傷にならなかったが、岩井半四郎の場合は実力があるのに二度と大きな役を演じることがなかった。本人にしたら不本意な役者人生だったろう。
片岡芦燕の舞台はかなりの数を見ているはずだが、印象に残っていない。12世仁左衛門の三男という割には地味な役者だった。歌舞伎名鑑の解説などによると、欲のない人だったらしい。半四郎とは違って、自分の役者人生はこんなものさと、不満はなかったのかもしれない。
2011年12月24日(土)年賀状印刷
プリンターで数十通の賀状を印刷し、数通だけ、宛名書きも済ませた。近年はずぼらを決め込んで、ほとんどの賀状は新年になってから書いている。これでも今年は早い方だ。
2011年12月22日(木)松浦玲『勝海舟と西郷隆盛』岩波新書 2011
授業日の翌日は疲労が残ってぼんやりしていることが多い。そこに標記の新刊書が「著者謹呈」で郵送されてきた。ちょうどいい。今日は一日、同書を読むことにした。そうはいってもこの著者のことだから、綿密な考証を入れながらの記述である。寝転がって気楽に読むというわけにはいかないが、それでも休み休みで読了した。
二人の生い立ちから一通り、述べてあるが、内容の中心は、西郷没後に海舟が西郷の名誉回復に尽力したことにある。著者自身が考えていた書名は、『海舟と南洲 - 西郷隆盛を追悼する勝安芳 -』だったという。したがって本書は二人のことを書いたというより、ある側面から勝海舟の人となりを描いたものといえよう。著者の勝海舟研究の産物がまた一つ生まれたことになるが、つぎつぎと著書を出版できるのがうらやましい。
本書によると、明治6年の西郷は猛烈な征韓論者であったにもかかわらず、海舟は明治23年の『追賛一話』以来、西郷は征韓論者ではないと言い続けたという。著者はこのことを『明治の海舟とアジア』(1987)
でも強調しているが、これを取り違えて、「松浦玲氏が西郷は征韓論者ではないと論じており、自分はそれに賛成だと自著に書いた人まである」(p.183)
という。
当方も『ダーウィンをめぐる人々』 (1987)などで、ダーウィンも獲得形質の遺伝による進化を認めており、その点ではラマルクとの違いはないと述べているが、これを取り違えて、松永はラマルク主義者であるとする書評もあった。この時も評者自身がラマルク主義者であった。本は読者が読みたいように読むものなので、いちいち気にすることもないのだろうが、こうしたお粗末な読み方は迷惑である。
2011年12月21日(水)授業日
1月に2回の授業を残すだけなので、3限「論述作文」も4限「科学技術史」も締めくくりを意識したものになった。
授業前に図書館事務室をのぞくと、退職時の寄贈本がようやく整理されていた。パソコンで検索すると、ノルデンショルドの英訳『生物学史』(1946) も、ウッドワードの『ロンドン地質学会史』(1907) も、しかるべき場所に配置されていた。図書館に預けてから3年間、再び手元に持ち出した図書も多い。いずれこれも整理して、寄贈すべきものは寄贈するようにしたい。
2011年12月19日(月)文献ネット購入
桃大図書館に他館へのコピー依頼をしていたところ、国内で唯一、当該雑誌を購入している国立科学博物館の図書館が移転準備のため、複写サービスを停止しているという。発行元から購入できるとの注があったので、その手続きに取り組んだ。発行元への登録がやっかいで時間を取られたが、なんとかPDFで論文を取り寄せることができた。コピーよりもかなり高くつくが、今後、雑誌論文はコピー依頼ではなく、発行元からの購入にすべきなのかもしれない。
2011年12月18日(日)古洋書発注
「人間の古さ」についてのK.P.Oakleyの先駆的研究(1964)を入手するためネット検索をしたところ、大英自然史博物館紀要の1巻すべてがこれに当てられていることが分かった。形式的には雑誌論文だが、実質的には単行本である。チャールズ・ダーウィンにも同様の事例があった。Oakleyの論文も単行本として所蔵している図書館もあったので、久し振りに紀伊国屋のサイトで古洋書の検索したところ、数件ヒットした。価格も購入可能な範囲なので、早速、発注した。コピー依頼したり借り出したりするより安いし、なにより実物が手元にあるのがいい。
別の雑誌論文も、グーグル・スカラーで検索してみると人類学の論文集に収録されていることが分かった。これも紀伊国屋のサイトで数件のヒットがあり、今度は価格に10倍近い開きがあった。当然、最も安価なものを発注した。
今後も古洋書をうまく利用したいものだ。
2011年12月16日(金)溝口優司『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』ソフトバンク新書 2011
近大病院眼科で年に1度の視野検査。30年間まったく変化がないというのは、きわめて珍しいらしい。待ち時間に備えて河内長野駅前の書店で標記の新書を購入してから出掛けて、帰るまでに読み終えた。あのS.J.グールドがどこかで、人類進化についての講義を準備する時は手持ちの関連文献を全部放棄し、最新の文献を読みあさると書いていたと記憶しているが、そのくらいこの分野は進展していくらしい。本書で現在の状況の概要を確認することができた。しかし本書の前半はいかにもくだけた書き方である。学名とはどういうものかをアルファベットを使わずカタカナだけで説明し、「イブ仮説」の解説も、くどいくらいである。ところが日本の古人骨を解説する後半になると、専門的で詳細な議論が出てくる。筆者の後書きには執筆補助のライターの名があるので、前半はライター、後半は筆者自身なのだろうか。後半の専門的な議論は適当に読み飛ばしたが、おおざっぱにいえば、南方系の縄文人を北方系の弥生人が駆逐し、現代人は弥生人の子孫であるという理解でよいようだ。
2011年12月15日(木)忠臣蔵テレビ番組3本
昨夜はMBS「ザ・今夜はヒストリー」とNHK「歴史秘話ヒストリア」、今夜はNHK・BSプレミアム「歴史館」で、忠臣蔵をテーマにしていた。新事実とうたっていても、吉良家はすごい名家であったこと(MBS)、吉良上野介義央が領地の三河吉良では名君とされていること(NHK)、事件後に「忠義」をめぐってさまざまな意見があったこと、義士の切腹は名目だけで実質的には打ち首であったこと(BS)など、忠臣蔵フアンならとっくに知っていることだろう。極月の14日・15日に3本の忠臣蔵番組があったのは嬉しいが、できれば、嘘八百でいいからドラマを見たかった。
2011年12月14日(水)授業日
3時限「論述作文」では5人が2度目の研究発表。一年次生として、それぞれできるだけの努力はしているようだ。4時限「科学技術史」の本日のテーマは緒方洪庵。すごい人物だというこちらの思いを受講生に押しつけているかもしれない。
教員メールボックスにアマゾンからインブリー『氷河時代』の原書(1986 ペーパーバックス版)が届いていた。文献はもとより、詳細な索引がありがたい。地質学者による訳書と対比すれば、19世紀の地質用語をどう表記すればよいかの手がかりになる。
2011年12月13日(火)ギーキー、ゲイキー、ガイク
19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したエジンバラ出身の地質学者に、Archibald Geikie(1835-1924) とJames
Geikie(1839-1915) の兄弟がいた。ロンドン王立協会会長、ロンドン地質学会会長などを歴任した兄の方が有名である。弟は兄の指導の下で氷河を研究し、その著書
The great ice age : and its relation to the antiquity of man (1874)で、氷期と間氷期が繰り返されたことと、この間を通して人類が存在していたことを主張した(以上、DSBによる)。
邦訳書『氷河期の発見』ではこの弟の著作を、「ジェイムズ・ガイクの『途方もない氷河期、ならびに氷河期と人間の起源との関係』(1874年)」(p.253)と訳している。
英語の人名Geikieは、「ギーキー」である(研究社『新英和大辞典』、三省堂『固有名詞英語発音辞典)。矢島道子ほか編『はじめての地学・天文学』(2004)では、正しく「ギーキー」(p.126)となっている。また、ネットで検索してみると、「カナダ英語」の提唱者Archibald Contable Geikie(1821-1898)やスコットランドの画家Walter Geikie(1796-1857)も正しく「ギーキー」と表記されている。
ところが地質学者たちは、みな、「ゲイキー」と表記している。平凡社『地学事典』の項目も「ゲイキー」である。明治期の邦訳書で「ゲーキー」と表記され、それが地質学者に受け継がれてきたようである。
それにしても『氷河期の発見』の「ガイク」という表記はどこから出てきたのだろうか。英米文学書の専門家にしては、奇妙な読み方である。書名も「途方もない」は大袈裟である。『大氷河時代、ならびにそれと人間の古さとの関係』とでもすべきだろう。
2011年12月10日(土)動物病院
老猫のハナの腎臓が小さいので、予防的に毎日、リンゲルを皮下注入している。ときどき、輸液をまとめ買いするため、千代田動物病院に行く。老猫といってもハナは変わらず若々しい。ハナのために書き添えておこう。
ついでに西友で買い物。久し振りにパズル本を購入したため、午後はパズルに熱中。こんなことをしていては駄目ではないかと思うものの、時間が経つのを忘れて取り組んでいた。二三日はこんな調子かも取れない。パソコンゲームやパチンコに取り憑かれる人々の精神状態が、少しは分かる気もする。
2011年12月9日(金)ボウルズ『氷河期の発見』扶桑社 2006
これも桃大図書館から借りだしたものだが、1日で読み切ることができた。氷河期をめぐるアガシとライエルの話は地質学でよく知られているが、本書ではこの二人にグリーンランド探検のケーンの話を加えている。本書では、アガシの氷河時代説を広める上でケーンによるグリーンランド氷河の報告が決定的な役割を果たしたという。しかしそれが論証されているわけではない。科学史的には、ケーンの作品も氷河時代説を広める一つの要素になった可能性があると理解する程度で十分だろう。
この訳書でも原書の注と文献が省略されているが、さいわい、当該ページはウェブ上に公開されている。著者は公刊されている資料を基にしており、アガシとライエルについてはインブリーの著書とほぼ同じ内容である。ただし、ライエルが一旦信じかけたアガシ説を放棄し、再びこれを支持するようになる経過は本書の方が詳しい。アガシ以前に氷河時代の存在を唱えていた人々については、インブリーが詳しい。
アガシ以前についてインブリーが用いた資料は原書を見ないと分からないが、アガシとライエルについては公刊されている資料であろう。したがって自著で注記する場合は、直接、一次資料を記載すればよいだろう。
ボウルズ著の翻訳は英米文学翻訳家の中村正明で、さすが、訳文はよみやすい。しかし Antiquity of Man を「人間の起源」(p.249)と訳しているのは、どうだろうか。意訳なのだろうが、ここは科学史で使われる訳語「人間の古さ」にしてほしかった。
2011年12月8日(木)町田洋ほか編『第四紀学』朝倉書店 2003
6人の地質学者が分担して執筆した専門書である。精読する気はもとよりないが、現在では「更新世」の定義がどうなっているか、氷河期の研究がどうなっているかなどを知りたかった。さすがに満足できる内容だった。それにしても桃大図書館が、よくぞこうした専門書を入れておいてくれたものだ。
2011年12月7日(水)授業日
4時限「科学技術史」では恒例の「学生による授業評価」を実施。受講生がわずかな授業なので、あまり意味がないのだが、全学的取り組みなので協力することにした。
2011年12月6日(火)インブリー『氷河時代の謎を解く』原書発注
同書のペーパーバックス版がアマゾン在庫とのことなので、発注することにした。原書に記載されている文献と、当時の地質用語の原綴を見るためである。他大学の図書館から借り出すと1000円以上の費用が掛かる。それに1000円足す程度で新本が購入できる。円高の恩恵である。
2011年12月5日(月)インブリー『氷河時代の謎をとく』岩波現代選書
桃大図書館から借りだした訳書(1982年、原書は1979年)を2日(金)と本日の延べ2日で読み終えた。表題から、氷河期についての地質学的解説書だと思っていたが、むしろ科学史書といってよいものだった。19世紀初頭のアガシー以前から1970年代のミランコビッチ説復活までを、さまざまなエピソードをまじえながら描いている。
原書はインブリー父娘の共著で、父ジョン・インブリーは海洋地質学の専門家である。本書の後半は、ミランコビッチ説をめぐる研究史の詳細な解説になっており、専門家ではない読者としては適当に読み飛ばすほかない。
原書に記載されている文献が訳書では割愛され、しかもそのことが訳書に記されていない。文献がないので訳書だけでは記述の根拠がわからない。ミランコビッチ説については著者の専門領域であり、ミランコビッチの生涯についても一次資料をもとに執筆しているようである。だが、それ以前のことは二次資料からの引用と思われる。したがってアガシーなどについては原書で文献を確認しなければ本書を利用できない。本書のようなレベルの著作では文献を割愛すべきではない。
本書の前半はジャーナリストの娘キャサリン・インブリーの執筆と思われるが、地質学史に通じているとはいえない。地質年代の区分はライエル一人によって成し遂げられたと書いている(pp.114-15)。ライエルを近代地質学の祖とする神話を信奉するあまりの誤りだろう。ライエル神話の影響の大きさを示すものである。
2011年12月3日(土)飛鳥京跡苑池・現地説明会
飛鳥に出掛けても苑池跡を見るのは難しい。29日(火)のニュースで今回の調査の現地説明会が開催されると知り、是非、参加したいと思った。ところが天気予報では雨。ほとんどあきらめていたが、未練があるので、朝、予報を確かめたら、明日香村は曇りに変わっていた。喜び勇んで飛鳥へ。岡橋本のバス停から歩いて行くと、要所要所にガードマンが配置され、道案内をしていた。かなりの予算と人手を費やしての行事である。雨が上がって実施できたことを、だれよりも主催者の奈良県立考古学研究所が喜んでいるだろう。
遺跡には随時、立ち寄れるが説明は1時間おきになされる。なんとか11時の説明に間に合った。南池だけとはいえ、実物を見ることができてうれしかった。
30分ほどの説明の後、飛鳥川沿いに歩いて行くと、「弥勒石」に出会った。今でも信仰の対象になっていて、地元に人々に守られている。さらに歩いて行くと飛鳥寺の西門に出た。こうして歩くことで飛鳥の地理が頭に入ってくる。酒船亭で昼食を取り、万葉文化館で堂本印象展を見てから、再び現地説明会場へ。2時からの説明を聞くつもりだったが、空が怪しくなってきたので、「岡戎前」2時発のバスで橿原神宮駅にもどることにした。
遺跡では2時の説明まで間があったので、研究所員にいくつか疑問点を尋ねてみたが、まだまだ調査を続けないと分からないことが多いらしい。28日(月)にNHKBSプレミアムで再放映された「水の都・飛鳥」では、苑池を飛鳥京の水路の要とみなす立場で番組が作られていたが、これは番組制作者のフィクションとみなした方がよいようだ。テレビ番組は往々にして制作者の思い込みで作られる。用心しないといけないが、映像を見せられると、つい信用してしまう。
2011年11月30日(水)授業日
近年は授業回数確保のため、祭日だからといって休校になるとは限らないのだが、先週は休むことができたので2週間振りの授業である。帰宅時には図書館で第四紀学の専門書など地質学の本を数冊借り出して持ち帰った。かなりの重量である。「人間の古さ」の問題は地質学者が中心になっていたので、当時の議論を理解するには地質学の知識が必要になる。細部までこだわらなくてもよいとは思うが、できるだけ知識不足を補っておきたい。
2011年11月29日(火)書類整理
2年前の退職依頼、手つかずだったファイリング・キャビネットの整理に昨日から着手した。研究室からの移送の作業の中でラベルが紛失したフォルダーもかなりあったが、面倒なのでそのままにしていた。書類棚の論文コピーや書類の配置も変更した。生物学史通史にトライするためには、文献類を整理し直す必要がある。しかしダーウィン関係の文献はさすがに数が多く、簡単には整理しきれないし、こんな作業ばかりしているのも嫌になる。日を改めて続行することにしよう。
2011年11月27日(日)外出続き
午前中は団地自治会の行事で溝の掃除。普段ほったらかしの隣家との間の溝まで掃除したのでけっこう、疲れた。午後は千代田駅前で昼食後、西友でキャットフードを購入。家の外で世話しているシロのため、基本食の固形フードに加えて各種のスープも購入。本当は固形フードだけで十分なのだが、寒くても家に入れてやれないのがあわれで、つい甘やかしてしまう。
夜になって団地の自治会館に出掛け、大阪府知事選挙の投票。テレビでは8時の投票締め切りが過ぎるやいなや、維新の会の勝利を伝えていた。出口調査で確実とはいえ、なんのために投票に行ったのかと馬鹿馬鹿しい気がしないでもない。
2011年11月26日(土)パソコン・ファイル整理
「人間の古さ」について一つの区切りがついたので、この間にメモ的に書いて保存しておいたファイルを整理した。ときどきファイルを点検しないと、どこに何をいれたのか分からなくなってしまう。
2011年11月25日(金)ジャーナル執筆
『マンモスの時代の人類』についてまとめるのに、昨日から2日がかりになってしまった。公開のジャーナルのため内容を確認しながら書くので、手間が掛かる。そのおかげできちんとした要約になるので、後日の役には立つはずだ。
2011年11月23日(水)ヴァン・ライパー『マンモスの時代の人類』
A. Bowdoin Van Riper, Men among the Mammoth: Victorian Science and the Discovery of Human Prehisory. University of Chicago Press, 1993.
本書も読了までに土日月火水と5日を要した。英書を通読するのにはこれくらいの日数が必要ということだろう。和書の倍の時間が掛かるが、やむを得ない。
ヴィクトリア朝の学界では、人間が6,000年前に出現したとする通説が1859年に崩壊し、人間はそれより古くマンモスなどと共存していたとみなされるようになったが、本書はその経過を詳細に調査し、その前後で地質学と考古学がどのように変化したかを論じたものである。
第4章で通説転換の経過が明らかにされており、これが本書の核心といってよいだろう。それまで人類の古さを示す事例を信用していなかった地質学の指導者たちが、一転、これを強く主張するに至る経過は興味津々である。まず、1858年9月にファルコナー(Hugh
Falconer)がデヴォン州のブリクサム洞窟(Brixham Cave)の発掘現場を訪れ、絶滅動物の化石と石器とが同時代のものであることを確信した。これに懐疑的だったプレストウィッチ(Joseph
Prestwich) も11月1日に現地を訪れて変心した。同じ日、ファルコナーは療養のためフランス南部に行く途中、ソンム川沿いアブヴィル(Abbeville)のド・ペルテ
(Jacques Boucher de Perthes) 宅を訪れた。ド・ペルテは「ブーシェ・ド・ペルテ」(Boucher de Perthes)と表記すべきなのだろうが、面倒なのでここでは「ド・ペルテ」としておく。ド・ペルテは1840年代以来、同じ地層から絶滅動物の化石と石器を発掘したと報告していたが信用されていなかった。ファルコナーは、ド・ペルテの標本の少なくとも一部は本物であると確信した。このことを知らされたプレストウィッチも翌1859年の4月にド・ペルテを訪ねた。ド・ペルテを伴ったアブヴィルでの発掘調査では成果がなかったが、ソンム川上流のアミアン近郊サンタシュール(St.Acheul)
で絶滅動物の化石を産出する地層に石器が埋まっていることを確認した。ロンドンに帰ったプレストウィッチは地質学者や考古学者を自宅に招き、フランスから持ち帰った石器を見せて調査結果を語った。5月26日の王立協会の会合でプレストウィッチの報告(1860年の『フィロソフィカル・トランザクション』に掲載)が読まれ、これをきっかけにライエルら指導的な地質学者たちが一斉に同様の確認作業に走った。同年9月16日のBAASアバディーン大会初日に地質学部門会長ライエルが、1年間の調査結果を総括し、この問題に一応の決着を付けた。こうして人間の古さに関する通説が1年足らずで転換した、という。第5章では引き続いて、人間の古さを広める地質学者の活動を追い、最終的には1863年のライエル『人間の古さ』によって新たな通説が一般にも浸透した、という。
ここに記載されている経過は一般に伝えられている話とやや異なるが、当時の記録や未公刊の書簡などを調査した結果なので信用してよいのではないか。通史のたぐいでは更新世人類の存在が確立するのはライエル『人間の古さ』の功績とされているが、科学史上はプレストウィッチの報告(1860)を挙げるべきだろう。また、ファルコナーとプレストウィッチが、ライエル『人間の古さ』の中で正当に扱われていないとして怒った理由も理解できる。
本書の第2章と第3章では1850年代までの考古学と地質学の状況を述べ、1859年以降にそれがどのように変化したかを第6章と第7章で論じている。1850年代までの考古学はイギリス中世の遺物研究が中心であったが、1860年以降はラボックに率いられた旧石器時代の研究者が考古学の中心勢力になっていった、という。思想的な影響については、『種の起源』(1859)および『論文と評論』(1860)をめぐる騒動に打ち消されてしまったとしている。
本書で展開されている議論は同趣旨の繰り返しか多く、冗長である。著者は科学史の研究者というよりも、科学ライターに近く、本書はその第一作であった。とはいえ本書の第4章は1859年の出来事について、これまでになく正確で詳細な事実を明らかにしていると思われる。1858年までの経過を追ったグレイソン(1983)と相補って、人間の古さの確立過程が明白になったといえよう。
この両書とも発行時にとりあえず購入したものである。その時点では目を通す余裕がなかったが、我ながらよくぞ買っておいたものだと思う。定年生活に入った現在ではそうした書物の買い方はできない。
2011年11月17日(木)グレイソン『人間の古さの確立』
Donald K.Grayson, The Establishment of Human Antiquity. Academic Press, 1983. 読了するのに金日月火木と、延べ5日を要したが、これは最小限の日数といえるだろう。本文は約200ページ、注と文献で50ページ。小さな活字でびっしり書き込まれている。イギリスの学界では19世前半まで、人間は6,000年前に出現したとみなされていたが、1859年にこの通説が崩れ、人間はそれより古くマンモスなどと共存していたとみなされるようになった、という。本書全9章のうち、第8章でこの通説の転換を扱っており、第7章までは、人間の古さがなぜ否定されてきたかを丹念にたどっている。各章の冒頭で問題点を明確にし、一次資料から重要な部分を引用して整然と議論を展開しており、読み応えがある。ところが肝心の第8章は通説転換の経過の大筋をたどるだけになっており、第9章にはさまざまなテーマがつめこまれ、記述がごたついている。最後になって筆を急いだことがうかがえる。内容からいえば「人間の古さの確立」というよりも、「人間の新しさの信念」(Belief
in Human Recency)とでもする方が適切だろう。
第9章では、人間の古さの問題は生物進化論と関係なく論じられてきもので、『種の起源』出版の時には一応の決着がついていたと指摘している。
人間がマンモスと共存していたことがなぜそれほど重大な問題だったのか、現在の我々には理解しにくいことだが、本書などによって少しは分かってきた気がする。
2011年11月16日(水)授業日
3限「論述作文」では受講生全員の研究発表を今回で終了した。今年度はなぜか例年よりも受講生が多いので、毎回、時間の余裕がなかったが、一通りの指導はできたはずである。再来週からの再挑戦に期待しよう。この時間も、4時限「科学技術史」も本日は欠席者がやや多かった。恒例の学園祭直前のためであろうか。
2011年11月12日(土)正倉院展
昼前に京都で法事に参列し、昼食会の後、外出ついでに奈良へ。奈良国立博物館・正倉院展にオータムレイトで入館。展示品の目玉は聖武天皇の愛刀とされる「金銀鈿荘唐大刀」であろうが、野次馬的には香木「蘭奢待」に興味がある。蘭奢待の名は、ずいぶん昔から知っていたように思う。歌舞伎の「鏡山」を見るまでもなく、多分、中学のころから読んでいた時代小説に登場していたのだろう。貴重なものだというから、なんとなく小さな木片をイメージしていたが、実物は長さ1メートル半の大きなものであった。これなら多くの人が、少しだけ切り取ってみようとしたのも無理はない。記録はないが、研究者によると実際には数十回切り取られているらしい。
6時前に行って待たずに入館できたものの、会場はかなり混雑していた。明後日が最後なので、明日の日曜はさぞかし大混雑になるであろう。
2011年11月10日(木)聖書年代学
昨日、桃大図書館を介して大阪教育大から借り出した宇宙論史の論集(1977)に収録されているJ.D.North の「年代学と世界の年齢」に目を通す。ヨーロッパ中近世において、メトン周期、プラトン年(地球の歳差周期)、スカリゲルのユリウス周期などが地球の年齢の計算にいかに利用されてきたかを論じたもので、きちんと読みこなす余裕はない。それでもニュートンとケプラーによる世界創世年の推定値が記されていたので、当面の目的を達することができた。論文の冒頭にニュートンが登場する。ニュートンの出版物にはどこにも創世年の推定値が記されていないが、『古代年代学』(1728)冒頭の「年代表」(a
short chronicle)から、ニュートンは創世年を3988B.C.としていたことが分かるという。同書の1770年版が引用されており、その版の編者注にこの創世年が記されているようである。ケプラーは『ルドルフ表』(1627)の注に、創世年を3993B.C.と記しているという。また、ロンゴモンタヌスは1622年刊行の天文学書で創世年を3964B.C.としているという。
科学史書にしばしば、こうした数値が紹介されているが、どこまで信用できるのかが分からなかった。一次資料にもどって確かめる気はないが、この論文を信用して、これらの数値を紹介しても大丈夫であろう。
人間の古さの問題からやや横道にそれた一日であった。
2011年11月9日(水)授業日
4時限の「論述作文」では4人の研究発表をなんとか時間内に収めた。受講放棄者を別にして、全員出席は久し振りである。
2011年11月5日(土)血糖値検査
朝食抜きで福岡医院へ。ここ数年の健康診断で血糖値がやや高めの結果が続いているので、念のためブドウ糖負荷試験をすることになった。ブドウ糖溶液を飲んでから2時間後までの血糖値の変化を調べる。お腹が空いた状態で4回採血があるので、かなりつらい。結果が分かるのは後日だが、多分、心配なことにはならないだろう。
2011年11月4日(金)文楽「鬼一法眼三略巻」
国立文楽劇場の昼の部。付け足しの「鞍馬山」、二段目「書写山」、三段目「清盛館」と「菊畑」、五段目「五条橋」という半通し上演である。歌舞伎では「菊畑」を何度も見てきたが、文楽では明治37年以来、この「菊畑」を含めて上演されず、昭和41年の咲大夫襲名のおりに復活上演されたとのことである。この年の11月に三宅坂の国立劇場に咲大夫の襲名公演を見に行ったことは憶えている。父親の綱大夫と並んで堂々と挨拶していた。綱大夫の頭をちらっと見て、「親の七光り、というより八光のおかげで」とかいっていた。ところが肝心の舞台の方はまったく記憶に残っていない。自分でも、何故だ、といいたくなる。
当時から咲大夫は次代を担う大夫として注目されていたが、順調に成長してきたのではないだろうか。襲名時の公演では掛け合いで「菊畑」の虎蔵を語っただけだが、今回は「菊畑」全段を一人で語っている。1時間の長丁場をたっぷり語った。三味線は燕三。この舞台は記憶しておきたい。「菊畑」全段を語らせるというのは、綱大夫襲名に向けての布石であろうか。
このところ、演目を選んで文楽劇場に出掛けている結果として、住大夫と嶋大夫、それと簑助の舞台に出会っていない。来年の春か秋の公演では、昼夜通しの時代物を出して欲しいものだ。
2011年11月3日(木)ライエル『人間の古さ』の評価
ライエル『人間の古さ』に関連して読み散らかしてきた文献を、とりあえずまとめておこう。同書の評価について正反対の立場を取る論文が、W.F.Bynum(1984)とC.Cohen(1998)である。科学史の通説ではライエルの著書が更新世人類の存在を確立したとされているのに対し、バイナムは異を唱える。ライエルは他人の研究成果を自分のものであるかのように書いているため、ファルコナーらから強く抗議されていた。ライエルの著書を待つまでもなく、更新世人類の存在は学会でも一般にも広く認められていた、という。コーエンは通説の通りに同書を画期的なものと高く評価し、バイナムの論文は無視している。A.B.van Riperの『マンモスと共存する人類』(1993)では、『人間の古さ』にはライエル独自の研究成果が乏しいというバイナムの主張を認めた上で、ライエルが当時の研究成果を総合したことによって更新世人類の存在が確立したと評価している。この評価が妥当なものと思われる。
これからしばらくは、このvan Riperの著書とD.K.Grayson の『人間の古さの確立』(1983)とを読むことに集中しよう。
2011年11月2日(水)授業日
昼休み、名誉教授室の話題はギリシアの国民投票。これがきっかけで銀行の破綻が続き、大恐慌がやってくるのだろうか。他人事ではない。
2011年11月1日(火)考古学史の入門書
ライエル『人間の古さ』に関連して考古学の翻訳書2点に目を通してみた。エガース『考古学研究入門』(1981)と、フェイガン『考古学のあゆみ』(2010)である。期待とは違って両書とも石器時代については簡単な記述しかなかった。それでも前者の第一章、トムセンの三時代区分法についての解説はていねいで参考になった。このエガースのドイツ語原典(1959)は考古学の世界では基本文献のようだが、訳書には文献目録と索引がない。「訳者あとがき」には、必要なら原著を見ればよいとある。こんな無責任な訳書を岩波でも出版していたのだ。
フェイガン『考古学のあゆみ』第1章の聖書年代学を扱ったところでは、ケプラーが天地創造を紀元前4004年とし、この年代値が1611年の欽定英訳聖書の欄外に記されている、と述べている(p.13)。翻訳の間違いではなく、おそらく原文がこうなっているのであろう。著者は専門外のことについて、うろ覚えのままいい加減なことを書いているとしか思えない。第2章のタイトルは「人類の太古」と訳されているが、付記されている原綴は The Antiquity of Humankind であり、「人類の古さ」と訳すべきだろう。この章に、「ラマルクらによる動物と人類の生物学的な形質転換」(p.31)という訳文があるが、この「形質転換」はtransformationを訳したものであろう。「トランスフォーメイション」は生物の進化を意味する当時の用語の一つだが、現在の微生物学では「形質転換」と訳され、DNAの組み替えのことを意味している。また、ダーウィンが『種の起源』を「短編評論」(p.33)と自称していたと訳しているが、これは「アブストラクト」のことであろう。この部分を含めてダーウィンに関する説明の訳文は意味がとりにくいが、全体としては半世紀前の科学史によるもので、ライエルとダーウィンを賛美し、宗教と科学の対立を強調している。さらに、「ラマルクは聖書の時代が地球史の大部分を占めていたと信じていたので、聖書の年代観に呪縛されてしまい、ダーウィンのような業績をなすことができなかった」(p.31)とあるが、何に基づいてこんなとんでもないことを書いているのだろうか。進化論者ラマルクが長大な時間を考えていたことは、『動物哲学』の最初の部分を読むだけでも明らかではないか。フィツロイ艦長についても、「天地創造説を信奉していたので、航海で現実を目の当たりにして精神的にひどく苦悩し、ついには自殺してしまった」(p.32)と、でたらめを書いている。第2章最後の文献欄に、J.ブラウンの2巻本のダーウィン伝などが掲載されているが、著者自身は読んでいないのだろう。著者と訳者の専門領域である考古学プロパーの部分はまともなのだろうが、科学史の立場からは出版されては困る訳書である。これが朝倉書店の「科学史ライブラリー」の一つとして刊行されているのが残念に思える。
2011年10月30日(日)大阪能楽会館「笛の会」
森田流能笛・野口傳之輔師の教室の発表会があるので、大阪能楽会館へ。例年とは時期も場所も変えての開催である。カミさんの出番が遅いので夕刻に行くと、半能「三輪」(片山九郎右衛門)の途中であった。片山家に伝わる「白色神神楽」の舞。白一色の女神が神々しかった。カミさんは一調一管「雲林院」(謡・上野朝義、太鼓・三島元太郎)。上々の出来であった。ただ、舞台で座る時と立つ時に足腰に痛みの走ることが客席からも見え見えだったようだ。
2011年10月27日(木)インフルエンザ予防接種
昼前に福岡医院でインフルエンザ予防接種。ついでに先週の検診結果を訊く。やや悪い数値もあるものの、心配するほどではなく、とくに異常なし。
行きつけの千代田の洋食店で昼食を取り、外出ついでに狭山駅に出て散髪。散髪に行くのも面倒だが、髪の毛が多い方なので5週間が限界だろう。
2011年10月26日(水)授業日
4時限「論述作文」では、ついに課題を放置したままの受講生2名にレッドカード、1名にイエローカードを通告。課題を提出していないのにまるで気にすることなく、平然と出席してくる学生の心情が理解できない。
2011年10月24日(月)飛鳥へ
今回の目的は、高松塚古墳と稲淵再訪、それと、飛鳥資料館の特別展である。まずは飛鳥駅前からバスで高松塚古墳へ。今日は学生・生徒の姿はなく、数人連れの年配者がちらほら見られる程度だった。整備された高松塚古墳の周りを回ってから、壁画館へ。石室の実物大レプリカを覗けるようになっている。昨年、明日香村文化財展示室でキトラ古墳の石室の原寸大模型を見て、その小ささに驚いたが、今回も何となくイメージしていたものよりかなり小さかった。石室というと、どうしても石舞台古墳のような大きなものをイメージしてしまう。これを修正するだけでも資料館などに行く意義があるだろう。
バスで石舞台公園に行き、乗り継ぎのバスを待つ間に近くの屋台で軽い昼食。修学旅行生の一団がいたものの、1ヶ月前に来た時と比べ、格段に静かである。石舞台のバス停から明日香循環バスで稻淵へ。バスは一旦、「上」(かむら)まで往復してから稻淵に向かった。「上」と書いて「かむら」とは不思議な読み方をするが、「かみのむら」が略されたのであろうか。まさに冬野川の上流、山間の集落であった。
稻淵バス停から、左に広がる棚田に解放感を味わいながら、のんびりと祝戸へと歩く。途中、何人かが写生をしていた。絵心のある人がうらやましい。下に降りてからも田んぼが広がる風景に出会うのだが、こうした解放感が得られのない。なぜ棚田に魅せられるのか、我ながら不思議な気もする。
石舞台公園の食堂で一服してから、バスで飛鳥資料館へ。特別展「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち」を開催している。朝日新聞が大きく取り上げていたわりには、小規模な特別展であった。この資料館で大規模な特別展を期待するのは無理というものだろう。東京国立博物館の法隆寺宝物館は何度も訪れているので、今回、出品された「阿弥陀如来及び両脇侍像」(N-144号)も見ているはずだが、あれだけ大量の金銅仏が並んでいると一つ一つは記憶に残らない。今回はじっくり見てきた。台座に「山田殿像」の銘文があるので、蘇我倉山田石川麻呂ゆかりの像である可能性が高いというのも面白い。平常展もざっと見てから、1時間後の次のバスで橿原神宮前駅へ。
今回で飛鳥の主要な地点を一通り訪れたことになる。地理もおおむね頭に入ったし、食事や喫茶の場所も分かってきた。来年の春からはさらにマニアックな飛鳥探訪を続けることにしよう。
2011年10月23日(日)アッシャー年代
朝、飛鳥に出掛けようとしたところ、急に土砂降りの雨となった。出端を挫かれるとはこのこと。予報によれば間もなく止むはずだが、これも神のお告げ、今日はやめた。シロもまだワクチン注射の副作用から完全には脱していないので、面倒を見ろということだろう。
大学の図書館でたまたま目について借りてきたH.マイア『西暦はどのようにして生まれたのか』を読むことにした。ディオニシウス・エクシグウスの受肉紀元が普及する経過を述べたものである。旧約聖書による世界創世紀元の提唱も多くあったが、「互いに矛盾する年代推定の数はますます殖え」、そのため「聖書に基づく年代計算法は信用を失う一方になった」(p.52)とあり、科学史家におなじみのアッシャーの名はまったく登場しない。同書の原本はドイツ語の神学書なので、ドイツ語圏ではアッシャーが注目されるような存在ではないことを示している。イギリスではアッシャーの4004B.C.が、たまたま欽定訳聖書の欄外注に記載されたため有名になってしまったが、世界創世の年代計算にはさまざまなものがあったと心得ておくべきだろう。
2011年10月21日(金)動物病院
朝はシロを連れて千代田動物病院へ。年に一度のワクチン注射である。副作用で2日間はぐったりするので可哀想だが、外で面倒を見ているので予防注射は欠かせない。このところ、猫の世話に追われているみたいだ。
動物病院からの帰途、河内長野駅前の喫茶店で一服し、スポーツ新聞を見ると、来期の阪神の監督が梨田・日ハム監督に内定したとあった。今朝の朝日新聞には和田コーチに内定と出ていたはずだ。どっちが正しいのだろう。専門紙の方が誤報だったら、みっともないな。
2011年10月20日(木)猫砂入れ替え
朝食抜きで福岡医院へ。年に一度の無料健康診断である。当日、分かる範囲では異常なし。後は血液検査の結果待ち。
午後は猫トイレの砂を総入れ替え。普段は汚れた砂を捨てて新しい砂を足すだけだが、ときどきは総入れ替えをしなければならない。以前のハナなら、砂が新しくなったと気づくや真っ先に駆けつけ、出ないおしっこでも無理に出して臭い付けしたものだが、今は無関心である。クロやノアとの競争が無くなったためだろう。結構、面倒な作業なので、以前のように反応してくれた方がやりがいがある。
2011年10月19日(水)授業日
秋学期になって4回目の授業日である。前回までは早めに大学に来ても授業準備に追われていたが、今回は図書館に寄る余裕があった。まずは事務室に置かれたままになっている寄贈した本を点検。我ながら良い本を集めていたと思う。忘れていたが、「人間の古さ」の研究史2点もあった。これで現在取り組んでいるテーマをまとめる見通しがついた。前から探していたライエルの伝記も出てきた。小さな本で表紙カバーも無くなっているので、見付けにくかったのである。図書館に登録されれば、こんなことはなくなるのだが。
2011年10月18日(火)浅川哲也『日本語の歴史』東京書籍 2011年
ハナに注入している輸液セットを購入に千代田動物病院へ行く途中、河内長野駅前の書店をのぞくと、標記の新刊書が平積みになっていた。中身をぱらぱら見ると、日本語の変遷についてしっかり書かれているようだ。1,600円は少々高いと思ったが、これもなにかの縁と購入することにした。後で表紙の書名をよく見ると、「日本語の歴史」の横に、目立たないように「知らなかった!」という言葉か印刷されていた。書誌的事項としては、この言葉を頭に付けたものが正規の書名になる。
日本語の歴史がきちんと解説されており、日本語の特徴について改めて知ることが多くあった。良書といってよいだろう。
ただし、「膠着語」と「開音節」とが説明無しにいきなり出てくるのは、いただけない(p.38)。「開音節」については後で詳しく解説されているが、「膠着語」の説明はどこにもない。編集者が気配りすべきことだろう。
学説史の面では、東大出身ではないだけに、上代特殊仮名遣いの発見に関し、橋本進吉と大野晋とを遠慮無く批判しているのが面白い。
本書を読んで一番驚いたのは、「眠れる森の美女」の意味が通じなくなっているということ。「ら抜き言葉」が広まったため、「眠れる」が「眠ることができる」と解釈されてしまうという。本書には例示されていないが、「怒れる若者たち」の意味も誤解されている可能性があるのだろう。日本語が日本人に通じなくなっている。
本書の著者は言語について保守的なのだろうが、言語学者はそれでよいのではないか。言語は変化するものだといって若者に迎合する言語学者たちは無責任である。著者が主張するように、学校教育では「日本語」という言語の教育を重視すべきであろう。
2011年10月12日(水)授業日
3時限「論述作文」ではこの回から研究発表の演習を始めたが、4人のうち3人がパワーポイントを利用していた。そのうち2人は夏休み中に学んだもので、その意欲はよしとしよう。
4時限「科学技術史」でダーウィン学説の影響を話して控室にもどると、某テレビ局から、ダーウィンの名言とされている例の「最も強い者が‥‥」について問い合わせがあった。番組内でこの言葉を引用しようとしたら、関係者から注意されて問い合わせてきたという。この言葉はダーウィンのものではないという認識が、少しは広まってきたのかもしれない。
2011年10月10日(月)ライエル『人間の古さ』1863
本日は標記の書の最後の部分(第20章からの5章)、ダーウィン学説についての議論を読むことに集中し、ようやく同書を読み終えた。
目次には明示されていないが、同書は実質的に3部構成になっている。最初の11章は書名通り、「人間の古さ」を論じたもので、考古学的証拠から人間はすでに更新世に出現していたという。中間の第12章からの8章では、氷河期の存在を論じている。ここまでは考古学と地質学の専門的知識を要するので読み進むのに難渋したが、第3部は苦労なく、すらすら読めた。引用されている文献の多くも、すでに読んでいるものであった。
もともとライエルは更新世人類も氷河期も否定していたが、本書では一転、その存在を強く主張している。第3部についても、ダーウィン学説を批判する立場を捨てて、これを擁護する立場に転じていると解説している科学史家もいる。しかしダーウィンは本書に失望し、抗議の手紙をライエルに送っていた。
第3部の最初の第20章ではラマルク学説を解説し、つぎの第21章でダーウィン学説を解説する。第22章ではダーウィン学説への反論を取り上げ、それを批判している。ここまでを読めば、ライエルはダーウィン学説を積極的に支持していると判断したくなる。
第23章では生物進化との類比で言語の変遷を論じている。生物進化の議論の中に言語の変遷論が挿入されていることに違和感があるが、ライエルは言語という人間特有の形質を読者に意識させたかったのではないだろうか。この章の最後でライエルは、言語が変遷する原因を正確に理解し、もとになった言語を復元することは不可能であると述べ、種の変化についても同じことがいえるという。進化論に対する姿勢があやしくなっている。
最後の第24章では、いよいよ人間の進化について論じる。人間は心的機能において類人猿とはまったく異なる存在であり、植物界と動物界のほかに人間界という別の界(kingdom)を設定すべきであるという。人間が下等動物からの進化の産物であることを否定しているのである。人間を別としたダーウィン的進化論についても、有益な「作業仮説」であると述べ、いずれこれを越えた理論の出現することを期待している。これを読んだダーウィンががっかりしたのも当然であろう。今でも信奉者の多いライエル神話の語るところとは違って、ライエルはキリスト教信仰に束縛され、伝統的な人間観を捨てることができなかったのである。
本書に取り組み始めてからかなりの日数がたった。考古学史や地質学史について確認したいことがまだあるが、きりがないので、このあたりでまとめの原稿を書くことにしよう。
2011年10月9日(日)なぜジャーナルを書くのか
本日はだんじり祭りのため、周辺の道路はどこも渋滞しているだろう。家に引きこもって、数日分のジャーナルをようやく書き終えた。このジャーナルを書くことにかなりの時間を取られているが、なぜやめようとしないのだろうか。ジャーナルを書き続けている理由を考えてみた。
まず、自分のための記録である。読書、旅行、展覧会、観劇などについて記憶を整理し、重要なことを書き留めることによって、体験が消えることなく、より有益なものになる。これがジャーナル執筆の最大の理由かもしれない。
感動したときの興奮を伝えたり、腹が立った時の鬱憤晴らしにも役立つ。
また、ありがたいことに、このジャーナルの継続的な読者もいるので、その方たちには近況報告の意味がある。大学の授業の受講生がこれを読んでいることもあるので、それを利用して警告を発していることもある。
最近になって、こうしたこととはまったく異なる意味があることに気がついた。それは、日々、生きていることを確認し、生きていたことの証を後に残すことである。72歳を超えて死を意識せざるをえなくなったということだけではない。うち続く災害を見ると、自分の身にも何が起こるか分からないと思う。自然災害ではなく、世界経済の混乱や、日本の無責任な政治によっても、とんでもないことになるかもしれない。安心して老後の年金生活を送るというような状況ではない。なにかが起きるまで、せめて、一日一日を有益に過ごし、それをジャーナルに記録しておこう。大学のサーバーを利用しているので、多分、将来も消去されてしまうことはないだろう。
2011年10月7日(金)その3 N響大阪公演
大阪歴史博物館に隣接しているのでNHK大阪会館へは度々来ているが、ホールに入るのは初めてである。客席数1,400で、それほど大きくはない。クラシックにはシンフォニーホールの方が適しているだろう。ただ福島まで行くのが、なんとなく億劫で、クラシックを聴きに行く機会を逃している。文楽なら演目を選んで文楽劇場へ行く。歌舞伎なら役者を選んで松竹座に行く。クラシックについてはそのように選ぶだけの能力がない。それでもたまには生の音が聞きたい。N響でモーツァルトとブラームスなら無難であろうと、出掛けることにした。
最初の曲目はモーツァルト交響曲第32番。解説にもあるように、いかにも「序曲」の感じであった。続けてモーツァルトのピアノ協奏曲第21番。ピアノはカツァリス。アンコール曲はシューベルト(リスト編曲)「セレナード」。
指揮はネヴィル・マリナー。87歳で現役とはすごい。とはいえ、最後の曲目ブラームス交響曲第1番を終えた後では、見るからに疲れ切っていた。楽団員に席を立たせ、アンコール曲なしで姿を消した。聴衆も仕方ないといった反応だった。
今回、思い立った時には安い席が売り切れで高い席になってしまったが、値段だけの満足は得られたとしよう。
2011年10月7日(金)その2 大阪歴史博物館「古文書からみる大坂の町」
フェスティバルタワーの工事現場を見て、肥後橋から谷町線でNHK会館へ。コンサートは6時開演と思い込んでいたが、7時開演であった。時間の余裕があるので、大阪歴史博物館の常設展を見ることにした。10階のエレベーターを降りて直ぐのスクリーン映像が変わっていた。常設展はほとんど見ずに、8階特集展示室「古文書からみる大坂の町」へ。これが期待以上に面白かった。寺請制度とは別に、家持町人は「宗旨巻」に毎月押印するという大坂独特の制度があったという。これだけ管理が徹底していれば、犯罪も起きにくかったはずだ。
2011年10月7日(金)その1 国立国際美術館「中之島コレクションズ」
夜はNHKホールでN響の予定だが、せっかく大阪市内に出るのだから、まず、国立国際美術館に出掛けた。「中之島コレクションズ」と銘打った展覧会では大阪市立近代美術館所蔵の名品が展示されている。佐伯祐三「郵便配達夫」、キスリング「オランダ娘」、モディリアーニの裸婦など、心斎橋展示室でおなじめの作品が並ぶが、期待していた日本画はない。国際美術館で日本画を展示するはずがないと考えるべきだった。
国際美術館の「近年の収蔵品」を展示する最後の部屋では、会田誠「滝の絵」が目立っていた。スクール水着の少女たちの群像だが、描かれているのは同一人物だろう。ところが水着の胸に付けた名札には、それぞれ別な姓が記されている。どうやって多数の姓を選んだのかなと、ぼんやり思ったが、そこにも作者の遊びがあったとは気がつかなかった。作品はもとより作者についてもまったく知識がなかったのだが、後でネット検索して、現在、注目されている美術家で、「滝の絵」は代表作であり、昨年の話題作であったことを知った。予備知識なしで見て気に入った作品が、じつはプロからも高く評価されているとわかると、なんとなく気分がいい。
同じフロアの「アンリ・サラ展」は「ムービング・イメージとサウンドの関係性を再構築した展示空間」なのだそうだが、自分にとってはやかましいだけ。ことのついでに地下3階の特別展「世界制作の方法」ものぞいてみた。最先端の美術なのだろうが、理解不能。こういうものを創ることに情熱を燃やす人々がおり、それを評価する人々もいる。世の中さまざまだ。
2011年10月5日(水)授業日
3時限の「論述作文」は、久し振りに八百字論文の演習。この時期、テーマは「災害」にするしかないだろう。4時限の「科学技術史」は、ちょうど講義日程で「ダーウィンの進化論」となっていたので、「発明発見物語」にアップしたものをそのまま教材にしてみた。
授業後、直ちに通学バスで金剛駅にもどり、三日市町駅筋の田中整形外科へ。前回の血液検査によると、骨の形成能力がかなり低い。正常値の最低限の値の半分だという。この数年間、骨量が維持されているので気楽になっていたが、ショックである。骨のことも気に掛けるようにしよう。
2011年10月4日(火)「発明発見物語」に「ダーウィン」をアップ
朝はまず、三毛のハナを連れて三日市動物病院へ。このわがまま娘、家では爪を切るのを嫌がるのに、病院では獣医師におとなしく爪切りをさせていた。
帰宅してネットをのぞくと、「NPO法人ニューロクリアティブ研究会」サイト内の「発明発見物語」のページに、拙稿「生物進化論を確立したダーウィンの「創造性」を探る 」が「第6回」として掲載されていた。ダーウィンが独自の進化理論を着想し、公表するまでの過程を15枚に要約し、冒頭と結語の部分で「進化」という日本語の乱用について言及してみた。短文なだけに、かえってダーウィン進化論の特徴を単純明快に示し得たのではなかろうか。「発明発見物語」は鈴木善次さんが連載を続けているが、ゲスト・ライターとして執筆の機会を与えられたことを感謝している。
ところで、ふと思ったのは、このようにウェブ上にしかない論考は、将来、どうなるだろうかということ。紙に印刷されたものはどこかに保存されるが、ウェブ上の情報は消滅する可能性がある。「発明発見物語」については当面、その心配はないが、いずれは対策を考えた方がよいかもしれない。
2011年9月28日(水)授業再開
金剛駅と桃大間を直行バスで往復する水曜日の再開である。大学では学内各所のパソコンがXPから「セブン」に入れ替わり、名誉教授室のパソコンでは「一太郎」が使えなくなっていた。パソコンの機種によっては、「セブン」をXPに切り替えて「一太郎」が使えるとのこと。学内をうろうろした結果、なんとか、「一太郎」で作成している教材の修正を授業前に済ますことができた。
世の趨勢としては日本語ワープロが「ワード」に統一される方向にあるが、日本語までアメリカ生まれのソフトに飲み込まれてしまっていいのだろうか。「一太郎」で育ってきたロートルの嘆きである。
2011年9月27日(火)授業準備
朝はまず、北野田の日野歯科に行き、半年ごとの定期検査。前回よりも汚れが少ないとのこと。気を抜かずに歯磨きを続けて、自分自身の歯を維持していきたいものだ。
そのまま桃大へ出掛けて明日の授業の準備をするつもりだったが、なんと、鍵もカード類もすべて忘れてきていた。診療予約に間に合うよう、急いで家を出たためだろう。やむなく帰宅。
『種の起源』についての問い合わせメールが2件、来ていたので、まずこれを処理。間違った「思い込み」をしていないか、確認するので、けっこう時間が掛かる。
これが終わって、「論述作文」の夏期休暇課題への回答の整理に掛かる。秋学期の各自の研究テーマを報告することになっていたところ、1年次生は全員が、とにもかくにも回答してきたが、上級生は半分だけ。入学してから1年を過ぎると緊張感が薄れ、課題に対してもいい加減になる。この傾向は、いつになっても変わらないようだ。明日は上級生に雷を落とすか。
2011年9月25日(日)思い込み
「発明発見物語」に掲載予定の「ダーウィン」の原稿を見直して送稿したところ、掲載済みのものは「である」調なので拙稿の「ですます」調を修正されたいとの返信が来たので、愕然とした。鈴木善次著の前回までの解説は繰り返し読んで確認していたつもりなのに、「ですます」調で書いてあると思い込んだままであった。恐ろしや、恐ろしや。
論文・著書が出版されてから、とんでもないミスに気づくことがある。校正刷りを繰り返し見ても、気づかないのである。我ながらいままでで一番ひどかったのは、『ダーウィンの時代』で、「チェンバーズ」がすべて、「チェンバース」になっていたこと。自分ではずっと「チェンバーズ」と読んでいて、ミスに気づいたのは出版後、かなり経ってからであった。
こうした執筆上のミスだけでなく、人はいろんなところで間違った「思い込み」をしているのであろう。科学史上の偉人たちでさえ、例外ではない。自分にもまだまだ、さまざまな間違った「思い込み」があるのだろうが、気づかずに終わるのかもしれないな。
2011年9月23日(金)奥飛鳥へ
昨年10月に飛鳥を訪れた時は彼岸花の盛りが過ぎていたので、今年は最盛期に行きたいと思っていたところ、「彼岸花祭り」なるものの開催をネットで知ったので、これに便乗することにした。飛鳥駅から10時45分発の無料シャトルバスで稻淵へ。稻淵では「案山子コンテスト」を開催していたが、これには興味がない。
集落の中を通る旧道を飛鳥川に沿って上流へと歩き始めてまもなく、古代衣装を着た行列に出会った。「行幸ウォーク」と名付けた時代行列で、持統天皇の吉野宮滝への行幸を模したものらしい。わざわざ見に出掛けるほどのものではないが、それなりに目を楽しませてくれた。台風15号の影響であろう、飛鳥川の水量は多く、ごうごうと流れ、「飛び石」も水没していた。
左手の急坂を登って龍福寺へ。お彼岸の仏事でお寺に行くらしい年配の主婦が、しんどい思いをして行くから有り難みがあると、ぶつぶついいながら登っていった。お寺には「竹野王碑」と呼ばれている石造層塔がある。「天平勝寶三年」(751年)の銘があるので、一応、日本最古の石塔とされているらしい。浄土宗のお寺なので、閉まっている本堂には、当然、阿弥陀仏がある。ところが、智拳印の大日如来を安置したお堂が開放されていた。浄土宗で大日さんを拝するなんてことがあるのかな。このお堂の前には、小さな紙の化粧箱に穴を空けただけの「大震災義援金募金箱」が置いてあった。来訪者を疑うことのないこの無防備さが素敵ではないか。
道にもどり、南淵請安墓へ。和田萃『飛鳥』(岩波新書)には、「春の夕暮れ、対岸のバイパスから請安の墓を望むと、桜の花に覆いつくされて、花の浮島のよう」(p.7)とある。夕暮れは無理でも、来春、再訪してみたいものだ。
バイパスとの合流点をすぎて、さらに上へ行くと、左手に飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がある。合計約200段の急峻な階段を登ってたどり着いた。山の村落によくある小さな神社を想像していたが、どうしてどうして、なかなか立派な社殿であった。自信はないが、多分、三間社流造なのだろうと思う。社殿の周りはきれいで、今朝、掃除した気配がある。地元の人たちが世話しているのであろうか。社殿は拝殿で、本殿はない。後方の南淵山がご神体なのだという。和田萃によると、「宇須多伎」(ウズタキ)とは眼下の飛鳥川の渦のことだという。村落の外れに置かれた、山の神と川の神とを祀る神社ということになる。神社からのもどり、急峻な階段を降りる時は、滑り落ちそうで怖かった。興味ある神社ではあるが、二度と訪ねることはないだろう。
ここから下流にもどり、バイパスを歩いてバス停近くのイベント本部まで引き返した。石舞台への道を確認し、ぶらぶら下っていったが、左手に広がる棚田がすばらしい。青空の下、一面の棚田に彼岸花が咲き誇っている。心が洗われる風景とは、こういうものをいうのだろう。
石舞台公園の食堂で遅い昼食を取っていると、「行幸ウォーク」が到着した。出発と到着の時間が、彼らとほぼ同じだったことになる。まだ早い時間だが、今日はこれで帰ることにしてバスで飛鳥駅にもどった。
稻淵の棚田にはすっかり魅せられてしまった。春の菜の花も見事らしい。来春は「いちめんのなのはな」を見に行くことにしよう。
2011年9月20日(火)ダーウィンの創造性
「発明発見物語・ダーウィン」の原稿15枚を、延べ4日で一応、書き終えた。小伝であれば1日で書ける分量だが、創造性の解説なので小伝的内容は思い切って省略し、「直線的な生物進化説、樹木状の生物の配列、種を保つ自然選択、こうしたダーウィン以前からあった生物学の理論がダーウィンによって統合され、新たな生物進化論が誕生した」ということを中心に書いてみた。まだ余裕があるので、数日後に読み直してから送信することにしよう。
2011年9月17日(土)乱用される用語「進化」
「発明発見物語・ダーウィン」のイントロでは、「進化」という用語の乱用ついて述べようと思いついた。日本の新聞・雑誌を見ると、タレント、企業、商品など、なんでも「進化」する。20年ほど前、このことに興味を持ち、「進化」という言葉の用例の収集を始めたが、数年でやめてしまった。中止した理由の一つは、毎日のように用例が出てくるので、収集するまでもないと考えたこと。また、この問題に興味を持っている研究者がほかにもいるようなので、自分がやらなくてもよいと判断したこともある。
本日の朝日新聞を見ただけでも、朝刊の「天声人語」に、「話し言葉の「進化」がまぶしい」という表現がある。夕刊3面の明珍火箸についての記事の見出しは、「焼いてたたいて進化して」となっているが、本文には「進化」が一度も出てこない。用例収集しているときにも、本文にはなく、見出しにだけ「進化」が使われている例がかなりあった。「進化」という言葉が読者に訴える力があるとみなされているのであろう。
いつごろから「進化」という言葉が乱用されるようになったのか。それはなぜなのか。科学史の課題ではないが、調べれば面白いだろうと思う。
2011年9月16日(金)海老蔵の「若き日の信長」
松竹座の昼の部と夜の部を見る。昼夜とも出し物は三つで、最初はともに右近を主役とした猿之助一座の演目である。昼が先代猿之助の演じた「悪太郎」、夜が当代猿之助演出の「華果西遊記」。後者はもっぱら見た目の面白さをねらったもの。これが「猿之助歌舞伎」なのであろうが、当方の好みではない。
昼の部の2番目が、お目当ての「若き日の信長」。11代目団十郎で何回も見ていると思い込んでいたが、番付掲載の上演記録を見ると、歌舞伎座での上演は昭和27年10月の初演の後、昭和37年11月だけである。中学2年生の時、この初演時に家族に連れられて初めて歌舞伎座を訪れたのであった。当日の他の演目については何も憶えていないが、「若き日の信長」には感銘を受けたようである。その10年後にもう一度見ていることになるが、細部まで記憶に残っており、まさか見たのは2回だけだったとは思わなかった。
歌舞伎愛好者が多いとはいえ、59年前の「若き日の信長」の初演を記憶している人はまれであろう。ちょっぴり自慢できるかな。
当代団十郎の「信長」は見ていないので、49年振りに孫の海老蔵で見たことになる。舞台はおおむね記憶通りだったが、肝心の台詞は記憶と少し違っていた。海老蔵の信長には少々、違和感がある。先代団十郎の信長はもっと颯爽としていたと思う。海老蔵の信長は暗すぎる。声の質もあるのかもしれないが、父・当代団十郎を手本にしたための違いではなかろうか。次の機会には、さわやかな信長を期待したい。
昼の部の最後は団十郎の「河内山」。これも先代団十郎で何度も見ている。当代はコミカルに演じようとしているようだ。
夜の部の2番目が「勧進帳」。海老蔵の弁慶は、2004年7月の海老蔵襲名公演の時よりも当然のことながら成長している。歌舞伎の醍醐味に浸って大満足。今日はこれで帰ろう。最後の「幸助餅」は、先日、落語で聞いたばかりだし、歌舞伎で見るまでもないだろう。
2011年9月13日(火)鈴木善次「発明発見物語」
今年の2月から鈴木善次さんがウェブ上で、「発明発見物語」を連載している。「NPO法人ニューロクリアティブ研究会」のホームページ→「創造する脳」→「発明発見物語」の手順でたどりつける。副題は「発見の科学史・発明の技術史から創造性を探る」となっていて、これまでに、ガリレオ、ラヴォアジェ、ハーヴィ、ファラデーの4人が登場した。一般向けの解説記事だが、近年の文献も参照し、焦点を絞って要領よく説明している。科学史家にも参考になるのではなかろうか。
次回はゲスト・ライターとして当方がダーウィンについて書くことになっている。できるだけ前回までのパターンに近づけたいが、何をどう書けばよいか、難しい。
2011年9月12日(月)庵木瓜
雑誌『歴史読本』10月号「消えた名家・名門の謎」を読了。『歴読』は気になる特集があるとき、年に1回か2回、購入して楽しんでいる。長屋王の一子が高階氏となり、足利氏の家宰の高氏もその子孫であったという。こういう形で長屋王と「忠臣蔵」がつながるとは面白い。歌舞伎と関連があると、俄然、興味が高まる。また、戦国大名の最上氏と今川氏は江戸時代にも高家として存続していたとは知らなかった。
特集以外の連載記事も読み応えがある。「難読紋・奇紋の謎を解く.46.屋根をつけた家紋」(高澤等)によると、「曾我対面」でおなじみの庵木瓜(いおりもっこう)の紋も問題だらけのようだ。まず、木瓜紋はもともと鳥の巣の「窠」(か)であり、キュウリなどとは関係がないという。工藤氏の紋は本来、この木瓜だけだったが、子孫が『曾我物語』を誤読して家の形を加えるようになったのだろうという。どんなことでも調べると意外な事実が分かるものだ。雑学の面白さ。とはいえ、こんなことに現を抜かしていたら自分自身の研究が進まないではないか。
2011年9月11日(日)映画とTVドラマの「砂の器」
テレビ朝日の2日間計4時間のドラマ「砂の器」をかなり我慢しながら、ほぼ全部を通して見た。「砂の器」といえば、野村芳太郎監督の映画(脚本は橋本忍・山田洋次)。この映画は松本清張の原作を越える作品だった。テレビでもすでに4回、ドラマ化されているということだが、それは一つも見ていない。今回は時間の余裕もあるし、どのように映像化するか見てみたかった。映画よりも原作に忠実な部分もあるが、基本的には映画をなぞりながら変化をつけている。しかし映画と変えた部分は、ことごとく失敗だったといえるだろう。とくに原作にもない女性記者に重要な役割を与えたため、安っぽいサスペンス・ドラマになってしまった。今回の脚本家はそうしたドラマの書き手なのだろうか。映画の後半では、捜査会議での今西刑事(丹波哲郎)の語り、和賀のコンサート、それと和賀の子供時代のシーンがかわるがわる映される。映画ならではの表現であり、忘れられない映像であった。テレビでは和賀の演奏場面は先に終えており、最後は取調室でのやりとりと子供時代のシーンに変えていたが、決め手の証拠(父親の描いた絵と遺言)に無理があり、役者たちの熱演の割には感動を呼ばなかった。千代吉が「永遠」なんて言葉を使うわけ無いだろうが。ほかにも不満だらけのドラマであった。やはりリメーク版はオリジナルに及ばない。
2011年9月7日(水)その2 司書講習テスト
司書講習「専門資料論」の最終日。授業の後半に試験を実施し、採点評価を終えた。「専門資料論」は今年度限りで無くなるので、できれば全員合格で終えたいと願いながら採点したが、白紙同然の答案が複数出てきた。点数でいえば100点満点で10点前後。いくらなんでも合格にはできない。残念ながらこのレベルの答案が毎年、数パーセントあるが、今年も例外ではなかった。
2011年9月7日(水)その1 『方丈記』
3月に三陸で千年に一度の大津波、9月は紀伊半島で百年に一度の山津波。それでも大阪では普段と変わらぬ日常が続いている。そんなことを思うと急に『方丈記』が読みたくなった。3年前までは書斎に日本の古典もそろっていたのだが、研究室の本を入れるために処分してしまった。午前中に桃大へ来たので、図書館で岩波文庫を借りだし、直ちに読んでみた。短く平明な文なので、小一時間で読み終えた。通読するのは高校以来かもしれない。山中の生活を楽しみながらも、浮き世への執着も強く残っており、おそらく本人もそのことを自覚している。高校生の時と違って、その中途半端な覚悟にむしろ親近感を抱く。別の文庫で、も一度読んでみたい。
こういう古典は読みたくなった時にすぐ、読みたいものだ。そのためには本当は、書斎に古典類を一通りの置きたいが、無理だな。
2011年9月4日(日)国立文楽劇場 友の会
日曜日なのに書留郵便で「友の会」の会員証が送られてきた。今年の3月までは文楽のチケットも私学共済の割引を利用していたが、それが駄目になったので「友の会」に入会することにした。昨日、会則などが別便で届いていたが、その中に分厚い冊子の「インターネット購入ガイド」があった。こんな冊子がなくても、ネットの利用者なら購入できる。当方も一度、試みたが、このシステムでは座席を選ぶことができない。芝居好きにはそれぞれ好みの席があるので、このシステムは利用しないだろう。松竹にならって、ネットでも座席が選べるようにしてほしいものだ。
2011年9月3日(土)台風襲来
台風12号が四国に上陸、その影響で朝から雨。午後、一旦やんだものの夜にはまた強く降ってきた。一日中、家に閉じこもっているほかない。体も疲労感で動かない。月(ホームセンター)、火(近大病院)、水(講習)、木(生協店舗)、金(難波)と外出が5日続いたためであろう。現役の時は週に6日登校していても疲れなかったのに。歳のせいばからでなく、体がなまくらになっているのであろう。
2011年9月2日(金)高島屋のマイセン展
台風が近づいているというのに難波に出るついでがあったので、高島屋のマイセン展を見てきた。昨年がマイセン開窯300年に当たり、それを記念する展覧会も来春に大阪市立東洋陶磁美術館で開催される。高島屋のマイセン展は大規模な即売会であった。したがって入場無料。高価なマイセンをガラス越しでなく、近くに寄って見ることができる。古マイセンも多数、展示されていて、たっぷり楽しめた。とはいえマイセンは自分の好みに合わないので、欲しいとは思わない。もっとも、ほとんどが百万単位なので、欲しくても手は届かない。
美術画廊をのぞいてから松竹座へ。ネット予約していたチケットを切符引取機で取り寄せて、昼と夜の出し物を取り違えていたことに気がついた。いままでこんなことはなかったのに、情けない。どうしても海老蔵の「信長」を見たいので、昼の部も買うことにした。昼も夜も見なさいという神様のお導きと解釈しよう。
2011年8月31日(水)司書講習「専門資料論」4日目
本日は百科辞典についてと試験内容の説明。「事典」という漢語の誤用から、プリニウス、ディドロ、ブリタニカ、和漢の類書、三省堂の倒産、平凡社と小学館の競合、さらにはデータベース化までの流れを駆け足で説明した。「専門資料論」の枠からはやや外れるが、司書には有益な話であろう。来年度からの「図書館情報資源特論」を担当することになった場合は、百科辞典についての講義を中心にしようかと考えている。
旧制度では理系と文系のそれぞれに「書誌解題」1単位が設けられていたが、現在の制度では「専門資料論」1単位にまとめられ、次年度からはその内容が資料論の基本科目「図書館情報資源概論」に吸収される。この「図書館情報資源概論」は現行の「図書館資料論」と同じ2単位のままなので、実質的には学術文献に関する講義は司書講習から消失したとみてよいだろう。全体の単位数が20単位から24単位に増加しているのに、資料論は削減されている。公共図書館のための司書養成とはいえ、これでよいのだろうか。図書館を愛する者としては疑問に思う。
2011年8月28日(日)『四庫全書』と台北・故宮博物院
朝日新聞の週刊『世界の博物館』第4巻「台北・故宮博物院」を読了。桃大を定年退職する直前の2009年3月、故宮博物院見学のために台北へ出掛けたので、当時のことを思い出しながら同書を読んだ。博物院で驚いたことの一つは、大陸における近年の考古学の成果が大きく紹介され、発掘品も展示されていたことである。展示全体は「偉大なる中国」を強調するものであり、来館者の多くは大陸から来ているとのことであった。敵対関係にあるはずの民国と共和国が、こういうところではしっかり手を結んでいるのである。
『世界の博物館』ではこういうことに触れていないが、それは編集方針によるものだろうから気にはならない。しかし乾隆帝の事績を解説する中で、『四庫全書』について「中国史上最大の出版事業であった」(p.26)としているのはお粗末というしかない。
『四庫全書』は出版物ではない。手書きで7部作製され、現存するのは3部。そのうちの正本である紫禁城・文淵閣に収められたものが台北・故宮博物院にある。故宮博物院が誇る貴重な収蔵品の一つなのである。『四庫全書』に言及した以上、博物院に収蔵されていることを明記しなければおかしいだろう。
『世界の博物館』には『四庫全書』の写真も掲載されているが、これは博物院のガイドブックの写真の右側をカットしたものである。『四庫全書』では経史子集を四季に当てはめて表紙の色を変えているが、『世界の博物館』では緑の経部がカットされ、赤の史部、青の子部、茶の集部だけの写真になっている。編集者は『四庫全書』についてろくに調べないままであったようだ。毎週、楽しみにしているシリーズなので、編集者にしっかりしてよといいたくなる。
1986年に故宮博物院所蔵の『四庫全書』全巻が写真複製され、『景印文淵閣四庫全書』として出版された。桃大図書館にもこれがあり、自慢の蔵書の一つになっている。司書課程「専門資料論」で『四庫全書』を紹介し、学部生の場合は図書館収蔵庫で『景印文淵閣四庫全書』を見せていたが、学生たちはその量を見ただけで圧倒されていた。社会人対象の司書講習では時間の余裕がないので自主的に見に行くよう要望している。今年も第4回目(31日)の授業で『四庫全書』に言及するが、今回は『世界の博物館』の件も紹介し、この種の出版物はレファレンスに利用しない方がよいということにしよう。
2011年8月26日(金)司書講習「専門資料論」3日目
本日は二次資料について。専門用語と資料名の解説が中心で、楽しい授業内容ではないが、そのわりには静かで、熱心に聞いてもらえていたと思う。
2011年8月24日(水)司書講習「専門資料論」2日目
本日は一昨日ほど疲労を感じなかった。心身ともに2コマの授業に慣れてきたのだろう。講義も初日よりスムースだったと思う。例年のことだが、学術文献についての本筋の話よりも、学術における不正の実例により強い興味が抱かれるようである。
帰途、三日市駅筋の田中整形外科で骨量測定。半年で増減なし。現状維持なら御の字らしいが、内心、少しは増えていることを期待していたので、少々残念。
2011年8月22日(月)司書講習「専門資料論」初日
社会人対象の司書講習で担当する「専門資料論」の第1回目。午後に2コマ、連続3時間の講義を終えた後はどっと疲れが出た。授業中はそれほど疲れを感じていないのは、心身ともに緊張しているからだろう。今年度の受講生には年配の男性が例年より多いように見えた。省令改正により「専門資料論」の授業はこれが最後になる。
2011年8月19日(金)司書講習の準備で大学へ
司書講習の準備のため、狭山駅前で散髪を済ませてから桃大へ。8月になって初めて河内長野市の外に出たことになる。まずは「専門資料論」ppt教材を大学のサーバーに入れ、講習事務室に試験問題を提出。省令改正に合わせた来年度からの講習の予定についても聞いておいた。
この後、図書館でライエル関連の文献に当たる。ここ数日はライエル『人間の古さ』(1863)を読んでいるので、関連の二次資料なども読まなければならない。同書の主要部分は石器時代についての先史考古学なので、確認しなければならないことがいくつも出てくる。
2011年8月12日(金)司書講習教材の公開
司書講習「専門資料論」PPT教材の修正を7日に完了した後、直ちにパスワード付きPDFに変換し、この個人HPで公開するつもりだった。しかし、この暑さでは面倒な作業に手が着かず、ようやく本日になって片付けた。やってみれば面倒というほどのことはないのだが、年に一度の作業なので手順が頭に定着していない。
我がHPをもっと見栄えのよいものにし、内容も充実させたいと願ってはいるのだが、いつ実行できることやら。
2011年8月8日(月)1ドル50円か3,000円か
朝はまず千代田動物病院へ。ハナの腎臓が通常よりかなり小さいので、毎日、予防的にリンゲルを注入しているが、その使用済み針などの処理を定期的に依頼しに行かなければならない。
帰途、河内長野駅前の書店で近刊の一般向け経済書を2点、購入して読み比べた。浜矩子の著書によれば、現在でも1ドル50円が妥当であり、必ずそうなる。基軸通貨としてのドルの時代は終わっている、という。藤巻健志の著書によれば、現在でも1ドル200円が妥当であり、国債の日銀引き受けをきっかけに円が暴落し、1ドル3,000円(300円の誤記ではない)もありうる。今後もドルが基軸通貨である、という。両者ともかねてからの主張で、大震災後の状況からますます確信を深めたという。専門家筋からもそれなりの評価を得ていると思われる二人が、世界の経済の現状と将来について正反対の見方をしているのである。われわれ一般人は、これから何が起きるか分からないと思うほかない。今はただ、現状で可能な限りの充実した日々を送るよう、心がけるしかないのだろう。
2011年8月7日(日)不正論文のネット告発
司書講習「専門資料論」パワーポイント教材の修正を完了し、それを抜粋した配付資料印刷原稿をメールの添付で司書講習事務室に送った。
論文捏造などの不正についてもこの1年間で新たに発覚したものをネットで検索し、教材に追加した。今回もいくつかの大学で不正が発覚しているが、おそらくそれも氷山の一角にすぎないのだろう。今年の特徴は、「民間の研究者」を名乗る投稿者からのネット告発が調査のきっかけになっていることである。専門的な知識を有し、不正告発の情熱に駆られているこの「民間の研究者」とはどんな人物なのだろうか。関係者の間では正体が分かっているのかもしれないな。
2011年8月5日(金)松竹座予約
9月の松竹座・歌舞伎公演の予約開始日なので、午前中にネット予約を済ませた。久し振りの海老蔵である。昼が「勧進帳」の弁慶、夜が「若き日の信長」。昼夜ともに行くほどではないが、どちらかにするのも迷う。結局、海老蔵時代の11代目団十郎のあの激しい台詞、「こうと知ったら俺の心底、組み敷いてでも説き聞かせたものを」を今の海老蔵で聞いてみたいので、夜に行くことにした。できれば「勧進帳」も幕見で見たいものだ。
2011年8月4日(木)司書講習教材の見直し
社会人対象の司書講習で担当する「専門資料論」が今月の22日から始まるので、その教材の見直しを開始した。例年のものを大きく変えることはないが、インパクト・ファクターなどの統計資料が新しくなっているし、雑誌
nature がリニューアルしたりしているので、毎年、少しずつ修正しなければならない。
2011年7月31日(日)生物学史研究会
昼前に家を出て、大阪市立大学・杉本町キャンパスへ。瀬戸口明久准教授の世話で、久し振りの生物学史分科会関西例会である。内容は、拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』と藤岡毅『ルィセンコ主義はなぜ出現したか』の合評会。著者の説明の後、拙著については横山輝雄氏(南山大学)が、藤岡著については金山浩司氏(日本学術振興会特別研究員)がコメントし、それを受けて自由討議をした。上記の5名のほか、4名の参加者があった。
最初に当方が『チャールズ・ダーウィンの生涯』の執筆で心がけたことなどを報告したが、近日中にこれを成文化してこのHPに掲載したいと思う。
横山氏のコメントも『生物学史研究』に書評として掲載される予定だが、論点の一つは、脱フランシスをうたっている割には、偉大な科学者としてのダーウィンにこだわっているのではないかということだった。たしかに拙著でもダーウィンの地質学・生物学に大きなスペースを割いているので、そういう見方もできるかもしれない。奴隷制への嫌悪がダーウィンの進化論を生んだなどという説が評判になる中では、拙著のダーウィン論は中途半端なのかもしれない。しかしダーウィンはなによりも地質学者・生物学者なのである。そのことに軸足を置かなければ、安っぽいダーウィン論になってしまうであろう。
また、横山氏からは、ダーウィン研究の総仕上げとして『種の起源』の翻訳をしたらどうかといわれた。実はそれを考えていた時期もあったのだが、今はその気はない。一つにはダーウィン以外のことを本格的に勉強したくなっているということがある。それが生物学通史の執筆である。ダーウィンについてはしばらく離れたいという気分もあるのだが、日本で本気でダーウィン研究に取り組んでいる科学史家がほかにいない以上、今後もダーウィン研究の進展を把握しておくのも義務のような気がしている。
当日出席の金山氏に聞くと、東大の科学史科学哲学の大学院でもダーウィンばかりでなく、そもそも19世紀をテーマにする大学院生がほとんどいないという。科学史でも新しい分野、新しい視点に関心が向くのは仕方ないが、従来の科学史を受け継ぎ、発展させることも重要だと思う。生物学史研究が先細りするのは残念である。
研究会の後の懇親会ではそんなことも話題になり、さらに飲み足らない皆さんは二次会に行くとのことだったが、その体力はないので先に失礼した。我ながら情けないことではある。
2011年7月29日(金)これぞ文楽・太功記十段目「尼ヶ崎」
暑いさなかの昼前に家を出て、国立文楽劇場へ。2時開演の第2部は絵本太功記。「配膳」、「光秀館」、「妙心寺」、「夕顔棚」、「尼ヶ崎」。「夕顔棚」と「尼ヶ崎」は歌舞伎でも松緑の光秀などで繰り返し見てきた。「配膳」・「光秀館」・「妙心寺」も文楽で見ているはずだが、少しも記憶がもどらない。初めて見るのかもしれない。このうちで、とくに「妙心寺」は十段目がよく理解できるようになるし、光秀が馬に乗る幕切れは爽快である。しかしなんといっても十段目。「尼ヶ崎」の切りは咲大夫、三味線は燕三。「現れ出でたる武智光秀」から、「女わらわの知る事ならず」、物見、幕切れの久吉との対決。わくわくしながら眼は舞台に釘付け、床直下の席なので耳には義太夫が降ってくる。咲大夫と燕三に拍手。光秀を遣った玉女にも、とりあえず拍手しておこうか。
久し振りに夢中になり、舞台に堪能した。これだから文楽はやめられない。芝居の後でこの興奮をだれかと語り合いたくなるが、一人での観劇は気楽な反面、それができない。せめてジャーナルに綴っておこう。
11月の文楽は「鬼一法眼三略巻」の半通し上演。9月には松竹座に海老蔵が出る。12月には今年も忠臣蔵映画が掛かるようだ。当面、月に1回程度のお楽しみが続けられそうだ。
2011年7月28日(木)代替授業日
台風休講になった先週の水曜日の代替えで、本日が春学期最後の授業になった。3時限「論述作文」では欠席者が2人だけだったので、夏期休暇中の課題を提示することができた。4時限「科学技術史」を早めに終え、図書館の雑誌コーナーへ。久し振りに
Victorian Studies. の近年の号をざっと点検し、ダーウィン関連の総説と論文をコピーした。
現役時代は定期的に関連雑誌を見ていたが、退職後はほとんど見ていない。今回は学術会議叢書『ダーウィンの世界』 所収の富山太佳夫の論文に示唆されたためである。
2011年7月27日(水)山形浩生の書評
昨日までに日本科学哲学会(編)『ダーウィンと進化論の哲学』(勁草書房)の諸論文をかなり我慢しながら読み進み、学術会議叢書17『ダーウィンの世界』も気を取り直して全編、読み直した。
『ダーウィンと進化論の哲学』については、公開のジャーナルでどう書けばよいか、頭を抱えてしまったが、ネット検索したら山形浩生による書評に出会った。<[朝日新聞書評ボツ本]日本科学哲学会『ダーウィンと進化論の哲学』:こんな連中に科研費やるのは無駄だと思う>。 あまりの厳しさに笑ってしまうほどだし、「なんで三中氏がほめてるのかよくわからん」もおかしかった。同書の12編の論考のうち、最初の3編がダーウィン本人に関するものとされているが、巻頭論文の内井惣七「形質分岐の原理」だけがダーウィン本人に焦点を当てている。第2論文の青木滋之「19世紀イングランドの科学哲学-自然選択説をめぐって」では、ダーウィンの研究活動とは関係のないヒューエルの科学哲学を扱っている。しかも近年のヒューエル研究をまったく参照していない。第3論文の矢島壮平「ダーウィンとイギリス自然神学-適応としての人間本性」も、ダーウィンと直接の関係がないアダム・スミスの自然神学を扱っている。科学史系の学術雑誌なら査読でクレームが付くだろう。事実の確認を重視する(はずの)科学史と、思いつきを書き連ねるだけで事足りる(らしい)科学哲学との違いか。
2011年7月21日(木)「レナード」か「レオナード」か
昼前に銀行に行って国民健康保険の保険料振替の手続きを済ませ、ついでに散髪屋に寄ってきた。過ごしやすい日々が続き、外歩きも楽だった。我が家は山間部の新興住宅地にあるので、ここ数日は窓を閉めないで寝ると風邪を引きそうになるくらいである。
朝日新聞の夕刊と一緒に、週刊『世界の博物館』の創刊号『大英博物館Ⅰ』が届いた。1988年に半年の海外研修でロンドンに滞在した折には、博物館内の大英図書館に繰り返し通い、博物館の展示も見て回った。当時の円形閲覧室の2階回廊がレストランになっているとは驚いた。
本文もおおむね楽しく読めたが、ウル王墓の発掘者ウーリー(Leonard Woolley)を「レオナード・ウーリー」と表記しているのにはびっくりした。英語の Leonard は「レナード」である(研究社『新英和大辞典』、三省堂『固有名詞英語発音辞典』)。ネットで検索してみると、「ウィキペディア」など「レオナード・ウーリー」と表記しているものが多いが、ウーリーの著書の邦訳書では当然のことながら、「レナード」になっている。なぜこんな間違いが生じたのか。それも本文中の小さな活字ではなく、大きな活字の章タイトルである。出版人はウィキペディアを批判しながらも、実際にはかなり頼りにしているようなので、この件でも、編集者・校閲者ともに、ウィキペディアの表記で確認しただけなのではなかろうか。大朝日ともあるものが、みっともない話だ。
ついでに、チャールズ・ダーウィンの四男も Leonard だが、これを「レナード」としているか、「レオナード」としているかが、ダーウィン本としての信頼度の一つの目安になるであろう。
週刊『世界の博物館』に話をもどすと、巻末掲載の全巻一覧には理解しがたいものがある。アメリカの自然史博物館を2館入れるのなら、大英自然史博物館とフランス国立自然史博物館も入れなければおかしいだろう。とくにイギリスの場合、大英自然史博物館を捨ててロンドン科学博物館を入れているのは理解しがたい。また、全50巻のうちの5巻が日本(国立博物館4館と国立科学博物館)に当てられているが、その必要はあるのだろうか。とくに所蔵品の乏しい九州国立博物館まで入れることはないだろう。個人的には国立科学博物館と九州国立博物館とをやめて、英仏の自然史博物館を入れてほしいと思う。
2011年7月20日(水)肩透かしの台風襲来
朝のうちに大阪にも暴風警報が発令されたため、大学は全日休講になった。ところが風も雨もほとんどない。我が家でも植木鉢を移動するなど、それなりに準備していたのに、肩透かしにあった感じである。昨日と一昨日の方が台風の影響があったように思える。来週の木曜日に代替授業となるようなので、あと1週間は授業期間中の気分が続くことになりそうだ。
2011年7月19日(火)台風さらに接近
大阪ではまだそれほど激しい風雨ではないのに、滋賀にはすでに警報が発令され、被害も出ているという。大阪も明日は間違いなく警報が出て、大学も休講になるだろう。明日の授業で春学期も終わり、一区切りつくと思っていたが、やむを得ない。
本日も過ごしやすかったが、体調が芳しくない。気候の急変に体がついて行けないのか。とはいえ『ダーウィンと進化論の哲学』を少しでも読み進めておこう。
2011年7月18日(月)台風接近
早朝のテレビ中継で、女子サッカーの日本優勝の瞬間を見ることができた。PK戦でのアメリカの様子は、アメリカ・ブラジル戦のときのブラジルにそっくりだった。理屈の上では互角のはずなのに、追いつかれた方が精神的に追い込まれる。追う者の強みということか。
ゆっくり近づいてくる台風6号の影響で、近頃になく、過ごしやすい一日だった。冷房のない書斎でも仕事ができるので、溜まっていた「論述作文」の添削を片付け、日本科学哲学会(編)『ダーウィンと進化論の哲学』の書評に着手した。あまり気乗りのしない作業ではあるが、7月31日開催の生物学史分科会の研究会で報告することを目標にして、なんとかまとめておきたい。
2011年7月15日(金)仁左衛門の伊勢音頭
松竹座の夜の部へ。最初が「車引」。歌舞伎では松・梅・桜の三兄弟で花形役者を競わせるのが面白いが、今回も進之介、愛之助、孝太郎と、松嶋屋の御曹司の揃い踏みである。ロビーで「愛之助の松王が見たかった」と話していた年配の女性がいたが、たしかに進之介と愛之助は逆の方が柄に合っているように思える。時平は我當。今回に限らず、時平の豪快さは文楽にかなわない。文楽で時平の大笑いを聞きたくなった。
30分の幕間をはさんで、いよいよお目当ての「伊勢音頭」の通し。歌舞伎座で何度か見ているが、大阪に来てからは初めてだと思う。「追っかけ」「油屋」「奥庭」と、歌舞伎ならではの楽しい夏芝居である。せっかくの機会なのだから「太々講」も出してほしかったが、今回の顔ぶれを見ると正直正太夫を演じる役者がいそうもない。仁左衛門の貢は繰り返し演じているのだろう、手慣れた感じで、殺しの場面でも凄惨さよりも格好良さが目立つ。弥十郎のお鹿は、いくらなんでもごつすぎないか。秀太郎の万野が初役とは意外だったが、憎々しさが物足りない。万野よりも二役で演じていた今田万次郎の方が柄に合っているようだ。この万次郎の台詞回しが、扇雀、ではなかった籐十郎の台詞回しとよく似ていると思った。おそらくこれが本来の大阪言葉なのだろう。役者たちがみな東京で生活するようになると、大阪言葉の微妙なニュアンスが失われていくのではないだろうか。
2011年7月14日(木)早起き
最近はほとんど毎朝、6時前に目が覚めてしまう。今朝はそのおかげで、女子サッカーがスウェーデンに勝つ瞬間を見ることができた。政治経済のニュースにうんざりし、不安がかき立てられる中で、気の晴れる出来事だった。サッカーでもマラソンでも男子よりも女子の方が頑張っているようにみえる。それはなぜなのか、社会学のテーマになってもよさそうだ。
2011年7月13日(水)授業日
大学図書館から借り出していた人類学史関連の図書を、一旦、全部返すことにしたので、両手に重い荷を持って家を出た。腰痛が再発しないか不安だったが、無事、返却。
3時限「論述作文」は手紙文の練習。例年のことだが、受講生たちはけっこう、面白がっていたようだ。4時限「科学技術史」では18世紀までの科学史の総括をして、春学期の講義を締めくくった。
帰途、三日市の田中整形外科に寄って骨粗鬆症治療薬をもらう。いつもは順番待ちの患者で一杯の待合室がなぜか空いていて、直ぐに診てもらえたのはラッキーだった。
2011年7月12日(火)デュボアとピテカントロプス
ここ数日で、デュボアのピテカントロプス発見について小文をまとめた。本文が4枚、文献注が1枚になった。生物学史通史の一部にする予定だが、このペースでいったら、とんでもない分量の通史になってしまう。とはいえ、自分が納得できるものにしようとするとこのぐらいになってしまう。当面は気にせず、進んでいこう。
いままできちんと見てこなかった分野なので、見過ごしてきたことも多い。新しいテーマに取り組むのは面倒だが、そういう点が楽しい。
Pithecantropus erectus と Sinanthropus pekinensis とをまとめて Homo erectus とするよう提唱したのは、E.マイア(1950) だという(R.Milner, 1990)。鳥類が専門のマイアが人類学でも的確な業績を残していたとは驚きだった。
人類学史の文献をいくつか見ていくと、多くの著者が、T.H.ハクスリーを人類進化論の先駆者とみなしている。おそらく1860年のオクスフォード論争の神話を鵜呑みにし、分類学書の『人間の位置』(1863)を進化論書と誤解しているためだろう。こうした誤りを正すためにも、生物学通史に人類学史を取り込む意義があるだろう。
2011年7月8日(金)竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史』講談社選書メチエ 2011
人類学史関連の図書を探している過程で、標記の著書に気づいた。あの旧石器捏造事件解明の最大の功労者による著書である。本日は同書を読み切ることに決めて、朝から取り組んみた。タイトルを見た時には世界の旧石器時代の解説のように思えたが、最初に人類進化を論じた後は、日本の旧石器の研究史と現在の成果について解説したものであった。
読んでいて気になったのは、手と脳の左右差の起源や言語の成立についての見解、および石器の分類と石器文化の分類が学界の定説なのか、著者の提言なのか、分からなかったことである。読み終わって、著者が提言しているものと理解できたが、日本の旧石器については最も確かな見識の持ち主のいうことだから、石器の分類と石器文化の分類についてはそのまま鵜呑みにしてもいいのだろう。それにしても石器と遺跡についての詳細な記載は一般書のレベルを超えている。それが同書の信頼度を高めてはいるが、かなりの予備知識のある読者でないかぎり、当方と同様、適当に読み飛ばしていくことになるだろう。それでも、現代人の常識で旧石器時代を理解してはならないという著者の立場は理解できた。
著者紹介を見ると、あいかわらず非常勤講師でしかない。日本の考古学の救世主ともいえるのに、なぜ、教授として迎える大学がないのだろうか。捏造事件発覚に至るまで著者が学会関係者から受けた仕打ちについて、本書ではほとんど触れていないが、学会八分のような状態が続いているのだろうか。部外者としては気になるところだ。日本では依然として、自然石を石器として騒ぎ立てる研究者が絶えないようだが、そのことと著者の処遇とは関連しているように思える。
当方の専門との関係で気になる記述もある。「1830~1833年にライエルの地質学の大著が出版され、この本の愛読者だったチャールズ・ダーウィンが26年後の1859年に『種の起源』を刊行するにいたる」(p.86)とある。事実としてはその通りだが、この文の前後を読めば、ライエルによってキリスト教の影響から脱して地球の古さが確立し、それによってダーウィンの進化論が生まれたと述べていることになる。まさにライエル神話そのものである。ライエルは『地質学原理』で、地球は同じような状態を繰り返すだけであるという斉一説を主張し、それによってラマルクの進化論を否定したのであり、その根底にはライエルの厚いキリスト教信仰があった。『地質学原理』は進化論論駁の書であり、そこからダーウィンの進化論が生まれるはずはないのである。ライエル神話の根強さを思い知らされ、科学史家としてのむなしさを感じるところである。
2011年7月7日(木)総合講座「人間学」に出講
2時限の総合講座「人間学」に出講2回目。ダーウィンの『人間の由来』から始まってアメリカの状況まで。大教室の割には静かだったし、興味を持って聞いてもらえたようだ。
2011年7月6日(水)授業日
3時限「論述作文」では4名の読書報告。受講態度にやや問題のある2名を残して予定終了。残り時間30分で全体を総括する文を書くよう指示したが、まじめに取り組んでいるためだろうか、時間内に提出できない者もかなりいた。
2011年7月5日(火)ダーウィン人間論・教材作成
総合講座「人間学」2回出講の第2回目「ダーウィンの人間論」のパワーポイント教材作成をようやく終えた。2日に着手したが、材料は手元にいくらでもあるし、流用できるスライドも多いので、のんびり取り組んでいたため、結局、本日までかかってしまった。新しいテーマに取り組む方がかえって緊張し、早くに仕上がるようだ。
2011年6月30日(木)行方不明本を発見
2時限の総合講座「人間学」に出講。大教室で100名を越える受講生に講義をするのは久し振りである。『ガリヴァー旅行記』をイントロに使って人類学の誕生について話したが、なんとか学生の興味をつなげたのではないかと思う。
教材作成の過程で、リンネ『自然の体系』第10版・復刻版などがまたしても見つからなかった。大学図書館に寄贈したはずなのだが、目録にない。本日の授業終了後、念のため図書館事務室に行ってみたら、まだ登録手続きの済んでいない寄贈本が大量に残っていた。『自然の体系』第10版はもちろん、Nordenskiöld の英訳(1928)も、Singer(1959)もあった。キュビエやライエルの原書・復刻版など、忘れていた良書もかなりあったので、とにかくほっとしたし、うれしかった。登録の事務手続きは順次、進めているとのことであったが、ときどき見に行って、ここに何があるか、頭に入れておく必要がある。
2011年6月29日(水)授業日
3時限「論述作文」では先週に続けて6名の読書報告を辛うじて時間内に終了。今回は、パワーポイントも使った見事な発表もあれば、内容・形式ともにお粗末なものまで、発表者の努力の差が目立っていた。4時限「科学技術史」終了後は明日に備え、金剛駅直行バスでさっさと帰宅。
2011年6月27日(月)人類学史・教材作成
昨日までに、総合講座「人間学」2回出講の第1回目「人間の科学の成立」のパワーポイント教材作成を完了、本日、これを見直してミスを修正し、印刷配布用の原稿を作成。パワーポイント教材は凝り出すと切りがないので、作成を完了というよりも、打ち切ったという方が正確だろう。教材作成を通じて、構想中の生物学史通史の一章「人間学の成立」の内容を検討することができたし、さまざまな資料がネットで利用可能になっていることも確認できた。まずはブルーメンバッハの生涯と業績について詳細を知る必要があるようだ。
2011年6月25日(土)東北大・井上総長・不正疑惑
総合講座「人間学」の教材作成を続行しているが、この暑さで思うようには進まない。朝日の夕刊に、「東北大総長二重投稿 学士院論文も取り消し」という記事が掲載されている。ようやく井上総長の問題を中央紙も取り上げたのかと読んでみたが、二重投稿がばれたことを述べるだけで、捏造疑惑については一言も触れていない。朝日新聞は何を恐れているのだろうか。久し振りにこの問題をネットで検索してみると、告発本『東北大総長 おやめください 研究不正と大学の私物化』(社会評論社、2011)が出版されたという。また、本年2月の『ネイチャー』に「日本の大学総長と対立する教授会メンバー」なる記事が掲載され、本年3月16日号の『週刊新潮』でも取り上げられているというが、偉い人の疑惑追及が大好きな『週刊文春』や『週刊新潮』がいままで知らん顔していたのが不思議である。
2011年6月22日(水)授業日
3時限「論述作文」では、6人の読書報告をなんとか時間内に終えた。総体に前回よりもレベルダウンしたのが残念である。人数が多いと、レベルを保つのが難しくなる。4時限「科学技術史」の後は図書館で人類学史の資料にあたり、金剛駅直通バスの遅い便で帰途につく。河内長野で150円均一の古書の山の中から、縄田一男『捕物帖の系譜』(1995)を発見。『半七』、『右門』、『平次』の三大捕物帖を執筆当時の時代背景の中で分析したものである。150円なら気楽に買えるし、疲れた時の絶好の読み物である。
2011年6月20日(月)『生物学史研究』月川和雄・追悼号
数日前に届いていた『生物学史研究』85 号(2011年5月)にざっと目を通す。小特集として、2008年に58歳で逝去された月川和雄さんの業績紹介が掲載されている。科学史家の間でもそれほど知られていない故人について
24ページも充てていることに、故人と親しかった編集者たちの思い入れがうかがえる。
我が書架にも故人が翻訳したアーバー『近代植物学の起源』(1990)と、大槻真一郎との共訳『テオフラストス植物誌』(1988)が並んでおり、両書ともしばしば参照し、翻訳の恩恵に浴している。故人とは直接、話をした記憶はないが、20年ほど前の科学史学会年会でテオフラストスについて発表されたの聞いていたと思う。その関係の研究を続行されると期待していたが、本誌の業績目録によれば、男色論史から地質学者のマンテル研究へと大きくテーマを変えている。古代中世の生物学・医学についての研究を続行されていれば、日本の生物学史も豊かになったと思うのに、残念である。
掲載されている略歴によれば、故人の最終学歴は東京大学大学院(西洋古典学)博士課程修了(1989年)だが、学位は取得されなかったようである。1990年代以降の日本の大学の状況を考えれば、古典語あるいは科学史の教員として大学に地位を得ることは困難であったろう。故人が20年間にわたって非常勤講師を務めた昭和薬科大学の紀要が、故人の主要な研究発表の場になっている。毎年、ヨーロッパに出掛けていたということからも、経済的には余裕があり、気の向くままに好きなことを研究していたように思える。いずれ、故人と親しかった方たちから、そのあたりのことを聞いてみたいものだ。
2011年6月18日(土)小鼓方大倉流の追善会
大阪能楽会館の「十五世大倉長十郎二十七回忌追善会」へ。席は正面、それも白州梯子の真ん前。この席に座るのは初めてだし、今後もないだろう。舞台を見るのには最高の席ではあるが、舞台からもよく見えるはずである。疲れたらちょっと一寝入りというわけにいかないのがつらい。
囃子方宗家の追善会なので、大阪のシテ方と囃子方が一調や舞囃子につぎつぎと登場してくる。能は片山幽雪の「景清」と大槻文蔵の半能「融」だけであったが、それでも3時に始まり、15分の休憩をはさんで終わりが7時半では見る方も疲れる。目立つ席なので中抜けして一休みというわけにもいかない。
舞囃子の最初が長山禮三郎の「海士」。昨年11月の「清経」では老いを感じたが今回はそれがない。あの時は体調が悪かったのだろうか。「景清」では、ほんの一瞬とはいえ、シテの後見がプロンプターにもなったのにはびっくりした。歌舞伎では珍しくないが、能では初めてのことである。ほとんど動きのない「景清」を選んだのも、80歳の幽雪を考慮してのことなのだろう。
「景清」の小鼓は荒木賀光、「融」は清水晧祐と大倉流の重鎮が出演し、宗家の大倉源次郎は一調「夜討曽我」(片山九郎右衛門)だけであったが、迫力ある謡との掛け合いはさすがであった。
あまり気乗りがせず、チケットを無駄にできないのでしぶしぶ出掛けてきたが、それなりに楽しむことができた。
2011年6月16日(木)高田高史『図書館で調べる』ちくまプリマー新書 2011
昨日は帰りのバスに乗ることを急いだため、ケータイを名誉教授室に置き忘れてしまった。滅多に使わないとはいえ、そのままにしておけない。今朝はまず、大学へ行ってケータイを確保し、帰りは久し振りに泉北高速に乗って泉ヶ丘駅で途中下車。紀伊国屋書店で今朝の朝日新聞の広告に出ていた標記の本を購入。平積みで数冊が置いてあった。さすが紀伊國屋書店というべきか。
司書講習で担当している「専門資料論」では、井上真琴『 図書館に訊け! 』 (ちくま新書 2004)を副読本として推薦しているが、標記の書も推薦すべきものかどうか確認したかった。電車とバスの中で帰宅するまでに読了。最初に十進分類法をやさしく解説しているが、あとは本を探すテクニックとその実例紹介であった。読者として中学生を想定しているとあったが、中高生向きではない。学部学生の図書館利用の手引きとして役立つだろう。現場の司書たちには、ベテランによるレファレンス・サービスの体験談として有用かもしれない。しかし「専門資料論」の副読本としては紹介する必要がないと判断した。
2011年6月15日(水)授業日
3時限「論述作文」では4人の読書報告。これを始めた前回は4人全員の報告書がこちらで示した見本とは違っていたが、今回は全員がほぼ見本通りの形で作成していた。授業の成果といってよいだろう。4時限「科学技術史」終了後、直ちにスクールバスに乗って金剛駅にもどり、千代田駅で途中下車し、歩いて10分の割烹料理店へ。3月に中途退職した同僚の送別会を企画している教員から下見をしてくるようにいわれていた。店は創業12周年を記念した500円均一のキャンペーン中で混雑していたので、送別会はこの期間を避けた方がいいだろうと報告しておいた。
2011年6月14日(火)総合講座「人間学」教材作成
今年度は桃大の総合講座「人間学」に2回出講することになり、テーマを「19世紀における人間の科学の成立」と「ダーウィンの人間論」にすることにした。「人間学の成立」は構想中の生物学史通史で一つの章にする予定である。コールマンの『19世紀の生物学』(1971)でも「人間学」が一つの章になっているが、これよりもかなり分量が増えるだろう。ただし授業ではごく簡潔な内容にしなければならない。
数日前からパワーポイント教材の作成に取りかかっていたが、期日もせまってきたので、ようやくエンジンがかかってきた。受講生の興味からいっても授業ではコントの実証主義に触れた後、骨相学などは省略し、ヒトとサルの分類、人種論、それとネアンデルタール人骨発掘史を扱ってみたい。自然人類学の現状については尾本・元教授が話しているはずだが、そうした研究分野の成立事情にしぼれば内容が重なることはないだろう。
2011年6月5日(日)大阪市内へ
予約した文楽の入場券を引き取るため、まずは日本橋へ。電話予約のチケットは手数料200円でコンビニでも受け取れるのだが、大阪市内へ出掛けるきっかけになるので劇場窓口で受け取ることにしていた。「絵本太功記」を楽しみにしているので、このところずっと頭の中で、「夕顔棚のこなたより、顕れ出でたる武智光秀」が繰り返されている。
劇場内の食堂で昼食の後、久し振りに中之島の東洋陶磁美術館へ。常設展を見るつもりで行ったところ、特別展「浅川兄弟の心と眼-朝鮮時代の美」開催中のため、料金も倍の千円になっていた。浅川兄弟は李朝陶磁研究の先駆者ということだが、一般には知られておらず、これが兄弟についての最初の本格的な紹介であるという。学芸員の意気込みが分かる展示で、入館者も少なくなかった。とはいえ自分の興味とは離れているので、今回は安宅コレクションの高麗青磁「青磁象嵌竹鶴文梅瓶」、それと自然光展示の国宝「飛青磁」および重文の砧青磁をゆっくり鑑賞してきた。
この後、ジュンク堂茶屋町店に行き、生物学史関連の専門書を購入。なんとなく物足りないので、難波にもどってから高島屋の美術画廊をのぞいたところ、彩墨画の水江東穹の個展を開催中であった。画題は良寛、野仏、それと白孔雀。誰にでも分かる綺麗な絵で、人気もあるのだろう。通常は別の展示をしている二つの展示室をすべて使っての個展であった。
2011年6月3日(金)文楽予約
本日は国立文楽劇場・夏期公演の予約開始日である。ネットでの予約を試みたが座席を選ぶことができない。これでは駄目だ。結局いつものように電話で第2部「絵本太功記」の床直下の席を確保した。この席は空いていることが多く、当方には都合がよいが、それだけ文楽フアンが少ないということなので寂しい気もする。今回の公演では住大夫も簑助も第3部「心中宵庚申」に出るが、世話物は好みではない。この年になったら欲張らず、好きなものだけを見に行きたい。「絵本太功記」は文楽でも歌舞伎でも何回か見ているが、見応えあるのはやはり「夕顔棚」と「尼ヶ崎」。今回は「夕顔棚」が津駒大夫、「尼ヶ崎」の切りが咲大夫。どんな舞台になるか、楽しみである。
松竹座でも7月に仁左衛門で「伊勢音頭」の通しが出る。「身不肖なれども福岡貢」を演じる役者としては今や仁左衛門しか思い浮かばない。これはなんとしても見に行かねばならない。7月は上旬に歌舞伎、下旬に文楽と楽しみが待っているので、気持ちも高揚してくる。それはよいが、肝心の生物学史がはかどらないのは困ったものだ。
2011年6月1日(水)授業日
今日もまた、金剛駅・大学間直通バスでの往復であった。3時限「論述作文」では無断欠席を続けた受講生が友人から除籍の通告を聞き、必死に事情を訴えて出てきたので、現段階では珍しく脱落者がいない。4時限「科学技術史」の今回のテーマは「錬金術」。受講学生たちの反応は今ひとつだが、社会人聴講生からは毎回、面白く聞いていると声を掛けられた。教師も単純なもので、こういわれるとやる気も出てくる。授業終了後は図書館で1時間ほど生物学史の文献に当たってから帰宅。
2011年5月29日(日)病猫ノア死去
朝7時20分、とうとうノアが死去した。夜間におしっこを垂れ流しているので体を拭くために持ち上げたのだが、その刺激で心肺停止したようである。1995年10月生まれと思われるので、15年7ヶ月生きたことになる。腎不全のため2008年暮れに入院したが、翌年の年明けから自宅療養に切り替え、毎日、リンゲルの点滴をしてきた。獣医師からは奇跡といわれるほど元気に走り回っていたが、さすがに食欲が衰えてきて、この1週間はほとんど何も口にしていない。それでもトイレまで歩いていたがトイレに登ることができず、この3日間は歩くこともできなくなっていた。2年半の闘病生活をよく頑張ったというべきだろう。
残る家猫はハナだけになった。17歳のおばあちゃん猫なのに、まだ子猫の雰囲気をただよわせている。20年生きて獣医師会に表彰してもらおうと言い聞かせている。家の外で世話をしているシロも、この冬を無事に乗り切った。ときどきガラス越しにハナとにらみ合っている。ハナが負けてしまうので家に入れることはできないが、行き掛かり上、これからも面倒を見ていくことになろう。
2011年5月28日(土)寝たきり老猫の介護
本日は出掛ける予定だったが、すでに梅雨入り宣言がなされ、台風2号の影響もあって雨が続いている。台風襲来の明後日までは家に閉じこもっていよう。老猫ノアからも目が離せない。腎機能が崩壊してからも奇跡的に元気だったが、ついに寝たきりになってしまった。心細いのか、いつも誰かが側にいてほしいようだ。じわじわと死に近づいていくのを見守るしかないのはつらい。自分はどのように死を迎えるのだろうかと考えてしまう。
2011年5月25日(水)授業日
3時限「論述作文」では連続しての無断欠席者が1名出たものの、人数の多い割には今のところまとまっている。4時限「科学技術史」では6回目になって初めて出席してきた受講生がいた。珍しいことではないが、受講生の数か少ないので目立ってしまう。
2011年5月20日(金)国芳展など
久し振りに展覧会のはしご。まずは大阪市立美術館の特別展「歌川国芳」。15日のNHK教育テレビ番組「日曜美術館」の「夢の国芳 傑作10選」にあおられて出掛けたが、予想以上の混雑であった。どの作品の前にも数人が立っている。自分と同じようにテレビ番組に刺激されてきた来場者が多いのかもしれない。この展覧会でも感じたのは、浮世絵や絵巻物は手元に置いて見るべきもので、混雑した展覧会場で見ても感興が沸かないということ。残念ながら、「日曜美術館」で見た以上の発見はなかった。
1階の特別展の後、2階の常設展を見に行ったら、展示室の半分が閉鎖されていた。美術館の予定を見ると、夏場は常設展示室をすべて閉鎖することになっている。おそらく予算が削られ、経費節減のためなのだろうが、豊富な収蔵品があるのにもったいないことだ。関西の中心的な美術館という誇りがあるのなら、観客が少なくても常設展はつねに充実させておくべきだろう。
天王寺ミオで遅い昼食をとってから、地下鉄で大阪歴史博物館へ。谷町四丁目駅の出口を間違えたおかげで、ハラタマの胸像を再確認した。大阪歴史博物館は今年の11月に開館10周年を迎えるという。まだ10年しか経っていないのか。当時は桃大の学芸員課程の責任者だったので、博物館実習受け入れの交渉をしていたことを思い出す。本日は特別展「幕末明治の超絶技巧」が目的。宮川香山などが出ていると思い込んでいたら、金工ばかり。はてなとビラをよく見たら、副題に「世界を驚嘆させた金属工芸」とあった。よく調べなかったこちらの責任ではあるが、もっと明快なタイトルにしてほしいものだ。
最後は長堀鶴見緑地線で、出光ナガホリビルの大阪市立近代美術館心斎橋展示場「海と水のものがたり」展へ。当然、福田平八郎「漣」も出ている。同じ絵を繰り返し見るのも一つの鑑賞法だろう。木谷千種「浄瑠璃船」もゆっくり細部まで見ると、かなり面白い。
出光ビル隣の東急ハンズ地下に先月開店の喜久屋書店が入っていたので、のぞいてみた。売れ筋の一般書と文庫、コミックが中心だが、専門書も少しは置いてあった。3月にジュンク堂茶屋町店で見つからなかった趣味の本があったので、購入。
本日は丸一日、大阪市内をうろついた割には収穫が少なかった。準備不足だったか。
2011年5月18日(水)授業日
いつもは4時限終了後に出発する直行バスを利用するが、これだと30分足らずで金剛駅に着く。本日は図書館で生物学史に関連した文献に当たっていたため、5時限終了後のバスを利用したところ、40分かかった。6時過ぎという時間帯はどこでも混雑するようだ。
2011年5月11日(水)授業日
出勤時、三日市町駅から乗った電車が堺市内で起きた人身事故のため金剛駅で停車してしまった。さいわいなことに今年度から金剛駅前発の桃大直行バスが出ているので、予定通り、大学に着くことができた。帰途も直行バスを利用して金剛駅へ。このバスを利用すると所要時間が短縮され、料金も安く済む。その点は便利なのだが、これだと家と大学を往復するだけになってしまう。電車を途中下車して本屋をのぞいたり、普段とは異なる店で食事をしたりして気分転換を図ることも必要な気がしている。
2011年5月8日(日)飛鳥へ
9時過ぎに家を出て、河内長野駅から近鉄に乗り、飛鳥駅から奈良交通バスを利用し、11時前には飛鳥京跡に立っていた。のんびり歩いて酒船石遺跡へ。昨年秋の2回は、飛鳥寺より北、飛鳥京跡より南を訪れたので酒船石遺跡が抜けてしまっていた。ここが本日の主目的である。2000年に発見された亀形・小判形石造物は写真では繰り返し見ているが、石垣などを含めた全体像を見て、なるほどこういうものかと納得した。やはり写真や図解だけでは伝わらないものがある。
周遊バスで飛鳥資料館を再訪し、バスで橿原神宮前駅へ。土日は周遊バスが30分ごとに出ているので、うまく利用すると時間の節約になるし、遠方へも気軽に行ける。飛鳥探訪のコツが少しずつ分かってきた。
電車で畝傍御陵前駅に出て、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館へ。特別展「弥生の里」開催中であったが、それよりも常設展のメスリ山古墳出土円筒埴輪に驚いた。この巨大な円筒埴輪が百本以上並んでいたというのだからすごい。この古墳の復元図もよく目にするが、図解だけではこの驚きは生まれない。実物ならではの迫力である。メスリ山古墳が大王墓か否かについては議論があるということだが、素人考えでも、大王以外の豪族がこれだけの古墳をヤマトの地に建造するとは思えないのだが、どうなのだろうか。
2011年5月4日(水)生物学史通史
この3日間は内外の生物学史通史の著書を整理してきた。通史執筆のための予備作業である。生物学史文献目録の成書にはJ.A.Overmier(1989) とA. Bäumer(1997)とがある。後者の方が英語文献に偏っていない分、収録点数も多いが、書誌事項のみの記載である。前者は英語文献中心だが簡潔な解題が付記されている。後者の編者自身によるドイツ語の生物学史3巻(1991-6)は18世紀までの通史として最も詳細なものといえよう。最近の刊行物については雑誌『アイシス』の年間文献目録を調べるべきだが、差し当たりはそこまでしなくてよいだろう。
文献表を作成しながら我が書架を探索した結果、和書の通史はおおむねそろっていることが確認できた。和書ではやはり中村禎里の三部作、すなわち、『生物学の歴史』(1973)、『生物学を創った人々』(2000)、および『近代生物学史論集』(2004)が基本になり、廣野喜幸ほか(編)『生命科学の近現代史』(2002)が別の観点からこれを補うことになるだろう。
洋書についても我が書架から忘れていたものが出てくる一方で、見つからないものもある。Nordenskiöld の英訳(1928)は間違いなく所蔵していたのに出てこない。Singer(1959)も見つからない。おそらく研究室撤退のどさくさで紛失したのであろう。両者ともオンラインで無料提供されているので当面は困らないが、いずれは再び冊子体を手元に置きたいものだ。
通史執筆といっても最初のアリストテレスにこだわっているとなかなか先に進めない。方針を変更して、まず大枠を作り、その後に細部を固めることにした。当面は生物学の大きな流れを俯瞰する作業と、ダーウィンの転成ノート分析などの細かな作業とを並行して進める二正面作戦でいきたい。不器用な質なので無理な気がしないでもないが、どちらかを放棄する気にもならない。行けるところまで行ってみよう。
2011年4月29日(金)高田里惠子『失われたものを数えて-書物愛憎』河出ブックス 2011
連休、初日。穏やかに晴れて飛鳥探訪再開に絶好の日だが、昨日まで続けて4日も外出したので疲れが溜まっている。本日は家で体を休めることにした。
標記の著書は著者献呈として3月には桃大のメールボックスにあったものだが、持ち帰ったのが先週の水曜日。ぽちぽち読んできたが、ようやく読み終わった。このタイトルでは内容が分かりにくいが、「この極東の島国で、けっこうな数のドイツ文学研究者が一応、ご飯を食べていけて、相当な量のドイツ文学の翻訳が出版され、何よりもそれなりに愛されていた」という「異常な事態の成立を支えていて、いまはもう失われてしまったもの」を「一つひとつ数えあげながら、近代日本の来し方を振り返ってみたい」(p.10)という趣旨の著作である。第1章ではドイツ文学者(西洋文学研究者)たちの「わたしは何をする人なのか」という自己定義への情熱の喪失、第2章ではヨーロッパへの憧れの喪失、第3章では文学を愛好する理科系青年の消失、そして第4章ではドイツ文学研究者たちの内輪の世界の消失を扱っている。読み終わってやっとタイトルの意味が分かるのでは売るために不利だろうに、編集者がなぜ、こうした分かりにくいタイトルを付けたのか不思議な気がする。ただし、内容をこのようにまとめてしまうと本書の魅力は伝わらない。いつものことだが、独特の高田節で紹介されるさまざまな事例が実に面白い。当方と直接の接触があった人々も登場してくる。本書が走り読みには適さない所以である。
当方が東大駒場に入学した1957年は、まさに「教養主義時代」であり「ドイツ文学の黄金時代」(p.67)であった。「若者らしい競争的な読書」(p.108)も体験してきた。こうしたドイツ文学受容者の一人として、また、文転の西洋文化紹介者の一人として、身につまされながら読んでいった。
科学史の研究者には「わたしは何をする人なのか」という問題がいまでもつきまとっている。理系の研究者には存在しない課題であろう。
2011年4月27日(水)授業日
第3回授業日。3時限「論述作文」では初めて受講登録者全員がそろった。一種の実習科目なので、原則として毎回出席しなければならないということが分かってきたようだ。4時限「科学技術史」終了後、非常勤講師として桃大に来ている知人の車で家に向かった。本務校を定年退職後、2年前から桃大に来ているという。20年振りの再会である。二人とも寄る年波、話題の中心がどうしても体のことになるのが情けない。
2011年4月25日(月)病猫の食事
ノアがついに、キャットフードをほとんど口にしなくなった。いろいろ試みてみると焼き魚や新鮮な刺身なら食べることが分かったので、本日も生協の店舗に出掛けた。高いものに付くが、いつまでも続くわけではないので、できるだけ面倒を見てやりたい。
2011年4月22日(金)ダーウィン本2点
昨日、今日と、桃大から持ち帰ったダーウィン本2点にざっと目を通す。一つはダーウィン・カレッジ(ケンブリッジ)主催の連続公開講演「ダーウィン」(2009)を成書(2010)にしたものである。同カレッジでは1986年から毎年、公開講演会を開催しているが、個人をテーマにしたのはこの回が初めてである。なお、同カレッジはチャールズ・ダーウィンの遺族が所有していた土地に因んで命名されたもので、チャールズ・ダーウィンとは直接の関係はない。
同書は『ダーウィン』と題されているが、収録されている8編の論考はいずれもダーウィン以降を扱ったものである。最初のジャネット・ブラウンの論考「ダーウィンの知的展開」も、ダーウィンの伝記などでどのようなダーウィン像が形成されてきたかを論じたものである。2番目のジェイムズ・シーコード「グローバル・ダーウィン」は『種の起源』の歴史的意義を論じたもので、生物学上は特定の学説を確立したというよりも生物進化を科学的課題と位置づけたことに歴史的意義があるという。一般社会で実際に同書が読まれることはまれだったが、「ダーウィニズム」というあいまいな概念が、世界のあらゆる地域、分野で未来論などを活性化するきっかけになったという。続く3編は文学、社会論、およびユートピア論への影響を扱い、最後の3編は現代生物学におけるダーウィニズムの意義を扱っている。
同書でシーコードが紹介しているカリフォルニア科学アカデミーの事例には驚いた。新築の同本部の床の石に、「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」がダーウィンの言葉として刻まれているという(p.54)。ダーウィン研究者がこぞって、ダーウィンにそんな言葉はないといっているのに、どうしてだろう。科学者たちは科学史家のいうことに耳を貸そうとしないためだろう。日本でも依然として得意げにこの言葉が引用されている。神学部卒の神話も語られ続けている。どうにかならんものか。
もう一点のダーウィン本は、キース・トムソンの『ザ・ヤング・チャールズ・ダーウィン』(2009)。同じ著者の『軍艦ビーグル号』(1995)はダーウィンのビーグル号についての決定版といえるもので、当方もダーウィンの伝記執筆で大いに活用した。今回の著書は1844年までのダーウィンを扱ったもので、前著と違ってダーウィン研究者たちの成果に依存するところが多い。航海中のダーウィンはライエル的創造論を信奉しており、転成論に転ずるのは帰国後の1837年としている。これが現在のダーウィン研究の結論といってよいだろう。
2011年4月20日(水)授業日
第2回授業日。3時限「論述作文」には手こずりそうな受講生も数人いるが、全体としてはまともなクラスになりそうだ。4時限「科学技術史」では受講生が少ないので運営方針変更について学生たちの了解を得る。本格的な講義は次回からになるが、のんびりやっていこう。
1ヶ月以上前にアマゾンからダーウィン本2冊が届いていたが、帰りの荷の重くなるのが怖いのでロッカーに入れたままであった。本日、ようやく、これと寄贈本1冊とを持ち帰った。
2011年4月18日(月)観心寺ご開帳
国宝の秘仏・如意輪観音が毎年、4月の17・18日の2日だけ公開される。地元でもあるし、ここ数年は毎回、訪れているが、金堂に登るのに行列して待ったのは初めてである。例年より参拝者が多いという。観光バス6台も駐車していた。観音さんには、またお会いできましたと挨拶したが、解説の僧侶のいうように、「官能的」というより「存在感がある」と表現すべきなのかもしれない。
いつものように門前の茶店「阿修羅窟」で絶品のわらび餅をいただいてから帰宅。
2011年4月15日(金)中村禎理『生命観の日本史 古代・中世編』(2011)
標記の著書が著者から届いた。発行は日本エディタースクール出版部。日本人の生命観の歴史を記紀から源氏、謡曲などの古典を材料に探ろうとしたもので、結論としては、「腹に居すわって離脱せず他者には察しがたいタマシヒ・ココロ」という「腹の生命観・文化が日本の伝統になった」(p.ⅲ)という。
著者からは予め、「お読みいただくためにお送りするのではありません。一種のご挨拶として贈呈させていただきます」という葉書が届いていたが、実際、古典の文言を詳細に検討していく本文を読むのはつらい。
それにしても生物学史の王道を歩いていたはずの著者が、なぜ、こうした問題に情熱を傾けるようになったのか、いまだに理解できないでいる。
2011年4月14日(木)高橋健一のコペルニクス
昨日、図書館で借りたギンガリッチ『コペルニクス』(2008)と高橋健一(訳・解説)『コペルニクス・天球回転論』(1993)を読了。後者は翻訳に解説を付した形になっているが、解説部分が全体の半分、100ページもあり、新書版に匹敵する分量である。『コペルニクスの生涯と業績』といった著書に翻訳を付記したという形でもよかったように思える。コペルニクスが太陽中心説を唱えた動機は、一様な円運動というアリストテレス的原則に基づいてプトレマイオスの数理体系を改善しようとする中で宇宙の中心を太陽とする方が合理的であるとみなすようになったためという。ギンガリッチも同様である。これが現在のコペルニクス研究の結論なのであろう。アリストテレス的原則を尊重した結果、アリストテレスの宇宙を否定することになったというわけである。高橋の新訳で一番驚いたのは、コペルニクスが「トリスメギストス」を「トリメギストス」と誤記しているということ。コペルニクスがヘルメス主義に関心がなかったことの決定的な証拠であろう。
2011年4月13日(水)授業開始
今年度の春学期は昼からの授業担当になったが、午前中に教材pdfを学内のサーバーに入れ、個人メールボックスに山となっている郵便物や配付文書を片付け、図書館で用事を済ませた。3時限の「論述作文」は受講生が例年の倍もいるので、びっくり。学生に事情を聞いてみると、就職関係の部署でこの科目の受講を薦めているとのこと。他のクラスの状況も同様であろう。これとは逆に4時限の「科学技術史」は受講生が昨年度より激減しているので、また、びっくり。隔年現象のようだが、理由は分からん。両科目とも授業運営の方針を考え直さなければならない。
2011年4月12日(火)授業準備
昨日のうちに「科学技術史」の教材PPTの作成を終え、本日はこれをpdfに変換。明日、早めに登校して大学のサーバーに入れなければならない。eラーニングのシステムがあれば自宅ですべて処理できるのだが、導入されていないのが残念である。
2011年4月10日(日)ホームページ「芝居」に加筆
我がHPの「独り言」のサブページ「芝居」には、11代目団十郎の思い出などを綴っていくつもりだったが、こと改めて書くのは難しい。ただ、ジャーナルの中で折に触れて書いているので、歌舞伎・文楽・能に関する記載を抜粋し、「芝居」のページに貼り付けることにした。こういう作業は苦ではない。まとめたものを改めて読み直してみると、文楽は小まめに観ているのに、歌舞伎はあまり観ていないことがはっきりした。歌舞伎よりも文楽の方に魅力を感じるようになったためだが、もう少し、歌舞伎に積極的になってもよいかなと、若干、反省している。
2011年4月8日(金)国立文楽劇場
自宅からバス停までの桜も、今日中には満開になりそうだ。文楽4月公演の昼の部へ。源大夫・藤蔵の親子ダブル襲名のため、ロビーにも襲名公演らしい華やかさがあった。ところが源大夫当人は病気のため、初日から口上に並ぶだけで、襲名披露の「実盛物語」は英大夫が代役で務めていた。織大夫時代の源大夫なら打って付けの演目だろうが、今なら英大夫の方が迫力があると思わないでもない。住大夫は「瀬尾十郎詮議の段」を語ったが、衰えを感じない。大正生まれというのに、すごいことだ。
「実盛物語」は歌舞伎で観ている方が多いだろう。記憶に残るのは寿海の実盛。この実盛と一条大蔵卿とが寿海の芸風に最も合った役柄ではなかったろうか。ところで歌舞伎の「実盛物語」では竹本の「物語らんと座をかまえ」で、観客も、いよいよ始まるぞと構えるのだが、院本にはこれがないことに今回気づいた。院本にない詞章を竹本に付け加えることもあるとは、知らなかった。
昼食休憩の後は、ご存じ「酒屋」。クドキは津駒大夫に寛治、お園は文雀。観客がみな、引き込まれていると感じた。やはり、名場面である。この後に、原作にはない道行が出たが、これはいらないな。
本日は昼の部だけで帰途につき、来週からの授業に備えて狭山駅前で散髪。千代田のスーパーに寄って、またしてもキャットフードを購入。ノアの食欲がさらに減少し、食べさせるのに難渋している。がりがりにやせているのに、トイレに行く時やハナとの喧嘩では活発に動いている。生きようとする意志はあるので、できるだけ面倒を見てやりたい。
河内長野駅前で古書200円均一の山の中に、中村禎理『生物学の歴史』(1973)を見付けた。放っておく気になれない。古書とはいえ、書き込み皆無の美本である。我が書架の同書は大分くたびれている。もう一冊あってもいいだろうと購入してきた。無駄にはなるまい。
2011年4月7日(木)科学史教材修正
この4日間、春学期14回の教材PPTを点検して全体の構成を微調整し、スライド13回分については内容の修正を済ませた。連日、同様の作業を続けていると、さすがに飽きてくるが、「コペルニクス」の回についてはもう少し時間を掛けてみたい。
2011年4月4日(月)科学史教材修正に着手
月初めが暖かかったのに、昨日今日と冬の寒さがもどってきた。ストーブにかじりついてパソコンに向かい、「科学技術史」の教材PPTの修正に着手。13日の授業開始に備え、当面、この作業を続けよう。今は締め切りに追われることもないので、じっくり取り組める。教材としては理解しやすいスライドを目指すが、自分にとっても科学史の大きな流れを整理し直す機会にしたい。
2011年4月2日(土)大阪能楽会館
梅若基徳が主宰する「能を観る会」に出掛けた。能「頼政」とそのパロディ狂言「通圓」とが続けて上演されたが、これは珍しいことらしい。「頼政」に詳しくないと「通圓」を楽しむのは難しい。こういうパロディが作られるのは、かつては能「頼政」が観客層になじみの曲であった証なのであろう。
会の最後は基徳・雄一郎の親子で半能「石橋」。人気の曲でしばしば半能で上演されるが、いきなり獅子の舞になるのは、第九でいきなり第四楽章が始まるような気分である。できれば、前シテ、間狂言で、しだいに期待を盛り上げてほしいものだ。
2011年4月1日(金)国民健康保険
新年度の初日にふさわしく、暖かく晴れ渡った日である。任意継続していた私学共済の健康保険が昨日で期限切れとなったので、国保の手続きに市役所へ出掛けた。9時10分に着いたが、思ったほど混雑しておらず、整理券は21番。1時間足らずで保険証も発行された。34年間、世話になった私学共済の健保とおさらば。これも人生の区切りの一つであろう。
2011年3月31日(火)過去メール
昨年の11月から桃大のメールのシステムが変更され、本日限りでそれ以前のメールがすべて消えてしまうとのことである。これを自分のパソコンに保存する方法も知らされていたので試みてはみたが、けっこうやっかいである。半年以上前のメールが必要になることは滅多にないので、保存することはあきらめた。あのメールは残しておけば良かったと後悔することもあるだろうが、今は、めんどくさいが先に立つ。過去は捨てて未来に生きる、というには年を取りすぎているか。
2011年3月29日(火)映画「ショパン」
朝はまず、北野田の日野歯科医院で半年ごとの定期検診。初期の虫歯があるという。近頃は歯磨きもサボりがちになっていた。医師からは、せっかく28本の歯がそろっているのだから頑張れと激励された。また、こまめに歯を磨くとしよう。
外出ついでに梅田ガーデンシネマに出掛け、映画「ショパン」を見たのだが、期待はずれ。ポーランド映画というからには当時のポーランドの状況を背景にしてショパンの生涯と音楽を描いたはずと勝手に想像していたが、ジョルジュ・サンドとの同棲生活のごたごたばかり。退屈で、途中で出たくなったくらいだった。しかも舞台がポーランドでもフランスでも、台詞はすべて英語。こんな映画ならハリウッドでも作れるだろうに。館内はがらがらだろうと予想していたが、かなりの込みようであった。皆、シニア世代。自分も昼日中に映画館に行くなんて、定年生活でなければありえないことだ。
帰途、ジュンク堂茶屋町店に寄って科学史書などを立ち読みし、中公新書を一冊購入。趣味の本で買いたいものがあったのだが、店内で検索すると「前日在庫」とあるのに棚にはない。今日はついてない一日だった。
2011年3月27日(日)コペルニクス
ここ数日はダーウィン研究を中断。ふとしたことからコペルニクスのことが気になったので、彼について勉強し直し、科学史の教材も手直しすることにした。最大の問題は失敗作の『天球回転論』を歴史的にどう評価するかということだが、かれの生涯についても気になることがいくつかある。とくに教会の領地の管理者としてコペルニクスが闘い続けた「ドイツ騎士団」なるものが理解しにくい。アダムチェフスキ(1973)、クーン(1976)、ケストラー(1977)の邦訳を読み直し、DSBの旧版と新版を読み、世界史のシリーズでポーランドの中近世史に当たるが、まだ納得できないでいる。
2011年3月18日(金)中川右介『團十郎と歌右衛門』幻冬社新書 2009
またしてもノアの食料購入のため、千代田駅前のスーパーへ。帰途、河内長野駅前の書店で均一価格の古書を見ていたら、標記の本が目に付いた。古書の扱いではあるが、明らかに新品であった。後で気がついたのだが、表紙などをよく見ると、きわめて小さく、名前の横に「十一代目」、「六代目」とあった。書誌データ上はこれを付けたものがタイトルになるようだ。1951年の歌舞伎座再建から1965年の十一代目團十郎の死までの歌舞伎界の裏事情を書いている。当方が歌舞伎座に通ったのは大学に入学した1957年から大阪に来る1977年までの20年間であったので、同書の後半は自分の記憶と重ねながら読んでいった。
團十郎は数々のトラブルを引き起こし、孤立していったが、フアン層は当時から同情的で、「市川團十郎」の権威を養子として守るための奮闘と理解していたと思う。本書の著者も「あとがき」で、「『ブランドイメージ』という言葉があの時代に定着していれば、彼の言動はもっと理解されたはずだ」(p.358)と述べている。ただ歌舞伎座の楽屋をめぐる騒動については、ここに書かれていることと自分の記憶とがかなり違う。いずれ確かめてみたい。
歌右衛門の権力把握の過程については初めて知ることが多かった。本書の売りの一つは、六代目歌右衛門が五代目の実子ではなく、養子であることを公にしたことにあるようだ。関係者の間では周知のことなのに、本人は実子のように振る舞っていた。そのことを無視しては歌右衛門を理解できないと著者はいう。
著者はスキャンダラスな話をなんでも書いているわけではない。四代目時蔵の急死についても、「睡眠薬の飲み過ぎ」(p.234)とだけ書いている。この時蔵は美しかった。美しい役者が出てくると観客席はどよめくものだが、何の役だったか、時蔵が花道に登場すると、あまりの美しさに観客席が一瞬、静まりかえったこともあった。「早すぎる死」として惜しまれる歌舞伎役者は、一に十一代目團十郎(1965年、56歳)、二に四代目時蔵(1962年、34歳)、三に初代尾上辰之助(1987年、40歳)であろうか。
著者は團十郎の舞台を一度も見ていないし、歌右衛門も一度だけだという。歌舞伎に詳しいわけではない。1959年に先代幸四郎が「日向嶋」で文楽と共演したときの記述では、「綱太夫」と表記している。文楽では「大夫」と表記し、歌舞伎の演奏者になると「チョボ」すなわち点が付いて「太夫」と表記する。ワープロ入力ではうっかりするところだが、同書の場合はうっかりミスではなく、著者も編集者もこのことを知らなかったようだ。以前は「チョボ、チョボ」という掛け声をよく耳にしたが、最近は聞かない。差別用語とみなされたのだろうか。
歌舞伎の通が読んだら、同じようなミスがほかにもあるかもしれない。だからといって本書の価値は落ちないだろう。文献だけでよくここまで書けたものだと思う。十一代目團十郎が亡くなって歌右衛門が歌舞伎界を牛耳るようになってから歌舞伎が変容し、庶民の娯楽ではなくなったと著者はいう。これが正しいかどうか判定しかねるが、歌舞伎は美しく楽しいものであってほしいと思う。
この5月の松竹座は団菊祭だというのに、少しも食指が動かない。当代の團十郎にも菊五郎にも魅力を感じないことが大きいが、著者の指摘していることも関係あるかもしれない。
2011年3月16日(水)桃大へ
6週間振りに大学へ出掛けた。明日、卒業式があるためか、休暇中にしては多くの教員が来ていた。図書館で用件を済ませ、新年度に備えて名誉教授室のロッカーを整理し、大学のサーバーから「科学技術史」の公開教材を削除。
個人別メールボックスは満杯になっていた。アマゾンからダーウィン本2冊も届いていたが、帰りの荷の重くなりすぎるのが怖いので、今日はロッカーに引き取るだけ。
帰途、和泉中央駅前のヤマダ電器でキャットフードを購入。本日の外出の主目的がこれである。キャットフードにもさまざまなものがあり、店によって種類が異なるので、ノアの気まぐれな食欲に対応するためにいろいろな店にいかなければならない。最近は、とろみ仕立て、スープ仕立てといった水分の多いフードが増えている。ノアのように、こうしたフードを好む老猫が増加しているのであろう。
2011年3月15日(火)ダーウィンEノート
地震の被害状況を気にしながらも、この4日間はEノートを読み、Hodge&Kohn(1985) を再読した。転成ノートによって自然選択説の成立過程を追究した論文は、この後、出ていないのではなかろうか。この論文では、自然界でも変異は偶発的であるとダーウィンが認識し、種形成と品種改良との類比を語るようになるのはD135 の2ヶ月後としている。そうであるなら、ダーウィンが種間闘争から種内闘争に目を向けるようになるのもその時からと考えられないだろうか。
2011年3月11日(金)太平洋沖地震
3時前に病猫ノアに点滴をしながらテレビを見ていたら、番組を中断して地震・津波情報に切り替わった。最初は、いつもより大きいなと思う程度だったが、しだいに深刻な事態が明らかになってきた。いずれやって来る東海地震、南海地震への警告にもなっている。このジャーナルではニュースネタを避けているが、この地震は後日のためにも記録しておこう。
2011年3月10日(木)カード代金
本日はカード代金の引き落とし日。昨日、通帳を忘れて入金できなかったので、どうしても出掛けなければならない。今回はアマゾンでダーウィン本を2点、購入しているため、額がいつもより大きい。本はとっくに桃大に届いているはずだが、登校していないためまだ手にしていない。
河内長野駅前の銀行で入金した後、千代田に出て、またしてもキャットフードを購入。ノアのきまぐれな食欲に応じるために、各種のフードを取りそろえておく必要がある。
昼食を取るため洋食店に入ったら、桃大の司書講習出身という女性から声を掛けられた。こちらは受講生の名前も顔もほとんど覚えていないのだが、ときおり、こういうことがある。悪い気はしない。
夜は、書き溜めていた3月2日以来のジャーナル原稿に手を加え、HPに転送。
2011年3月9日(水)申告書発送
午前中に印刷と書類の貼付を終え、河内長野郵便局まで出掛けて税務署宛に発送。ついでに日本科学史学会の年会費を送金。年金生活になると9千円の年会費は重荷だが、この学会と生物学史分科会はやめるわけにもいくまい。
三日市町駅筋にもどって田中整形外科へ。腰痛はいくらか残っているが、日常生活に支障はない。腰椎にも異常はないとのことであった。
近くの中華店で昼食の後、市役所に行き、国民健康保険の加入手続きを確認してきた。4月1日にならなければ手続きはできないとのこと。当日はかなりの行列になるらしい。覚悟して出掛けよう。
2011年3月8日(火)申告書作成
例年のように国税庁のサイトを利用して確定申告書の作成を終えた。手書きの作成よりはるかに楽だが、それでも間違いがないよう集中するので、疲れた。
2011年3月7日(月)医療費整理
大量の領収書を整理し、医療費明細の作成を終了。計算ミスがないように休み休みの作業なので、けっこう時間が掛かる。
2011年3月6日(日)その2 田尻裕一郎『江戸の思想史』中公新書 2011年
難波からの帰途、駅構内の書店で新刊の標記の著書を購入。電車の中でざっと拾い読み。著者の専門は近世儒学のようだが、『解体新書』も取り上げていた。当然、科学史家の研究を参照しているはずなのに、文献が記されていない。他の件についても一切、参照文献がない。中公新書にしては不親切だし、先行研究を無視したことにならないだろうか。
同じ中公新書の源了圓『徳川思想小史』(1973)ついても何も述べていないが、同じシリーズの出版物なのだから一言あってしかるべきだろう。いずれ自分でこの二冊を比較してみたいものだ。
2011年3月6日(日)大槻能楽堂「笛の会」
森田流能笛・野口傳之輔師の教室の発表会があるので、昼前に大槻能楽堂へ。カミさんは長山耕三師の舞で舞囃子「富士太鼓」。風邪気味でしかも寝不足なので心配だったが、どうにか無事に終えた。この前後の舞囃子や能に、味方玄(杜若)、大槻文蔵(三輪)、片山九郎右衛門(石橋)、梅若万三郎(姥捨)といったシテ方が次々と登場、若手の活力とベテランの味を楽しむことができた。
帰途、日本橋の文楽劇場に寄って4月公演の切符を購入。4月は「竹本源大夫襲名披露」をうたっているが、綱大夫(改め源大夫)には興味がないし、昼夜の出し物にも魅力を感じない。やめようかとも思ったが、お付き合いのつもりで昼の部だけ行くことにした。数年後には咲大夫の綱大夫襲名があるのだろう。
2011年3月5日(土)領収書整理
確定申告のため、昨年の源泉徴収書や領収書などを整理。毎年、なるべく早く申告を済ましたいと思うのだが、結局、締め切りぎりぎりに着手することになる。
2011年3月4日(金)「自然の経済」とダーウィン
ダーウィンと「自然の経済」に関するT.Pearce の論文の整理をようやく終えた。我ながら時間が掛かりすぎている。マルサス問題との関連では、転成ノートD135の「くさびの比喩」に登場する「自然の経済」が何に由来するかが問題になる。論文の著者はダーウィンが直前に読んでいた Hunter&Owen(1837) に注目しているが、これは疑わしい。航海中に読んだLyell(1832)の影響を考えるべきだと思うが、さらに検討を要する。
2011年3月2日(水)学術会議叢書17『ダーウィンの世界』
学術協力財団事務局から、「松永俊男編集」と印刷されたタイトルページ貼付用のシールと、「松永俊男編集」を加筆した奥付貼付用のシールが送られてきた。修正できない図書館寄贈分については、印刷ミスとみなすことになった。これで、この件は終了。
2011年2月24日(木)源氏物語とダーウィン
午前中はダーウィンの転成ノートを拾い読みし、午後になって狭山駅前の行きつけの理髪店へ。人前に出ることがないので、50日ぶりの散髪である。この後、北野田に出て、天牛堺書店の古書コーナーで島内景二『源氏物語ものがたり』(新潮文庫、2008)を購入し、一気に読了。藤原定家から本居宣長に至る8人の『源氏』研究者の事績を通じて『源氏』を語っている。こういう解説本の書き方もあるのか。科学史でも可能かもしれない。
同書の『源氏』に対する熱き思いにはたじろぐほどであるが、最後になってダーウィンが登場したのには驚いた。「ダーウィンの進化論に準(なぞら)えていえば、源氏物語は常に進化する生命体だった。生命体は、順境にある時よりも、逆境にある時の方がむしろ、適応力が強まり、変異を起こす。すなわち、進化する。そしてどんな時代でも生き延びる」(213-4)という。ダーウィンはこんなことを言っていないし、逆境下では、個体レベルでも種レベルでも、生命体の多くは死滅する。生物界全体については、「どんな時代でも生き延びる」といえるとしても、地球に登場してきた種のほとんどは絶滅した。揚げ足取りをする気はないが、古典の伝承を語るのに生物進化論を持ち出す必要はないだろう。ダーウィンほど、ろくに理解されないまま権威付けに利用される科学者はいないのではなかろうか。
2011年2月22日(火)「大日本優生会」
「優生学」という用語は建部遯吾の造語だが、その語が最初に登場したのはいつだったのかがはっきりしていない。そのことを調べている鈴木善次さんから時折メールをもらっているが、本日届いたメールで下記の論文を紹介された。
平田勝政「大日本優生会の研究」『長崎大学教育学部紀要. 教育科学』vol.63(2002),15-29.
早速、CiNi を利用して読んでみたが、調査の行き届いた良い論文であった。1917年に発足した「大日本優生会」が日本における組織的な優生運動の原点であり、「優生学」という用語が普及するきっかけになったという。「大日本優生会」は鈴木善次さんの『日本の優生学』はじめ、いままでの日本優生学史の中で見過ごされてきたものである。専門が異なるため科学史家の目には届きにくい論文なので、このジャーナルでも紹介しておきたい。
日本の大学の紀要にはレベルが低い論文が大量に掲載されていると、しばしば批判される。たしかに査読がないため、紀要論文には先行研究を無視した独りよがりの論文や、間違いだらけで世に出ては困るような論文も多い。しかしこのように重要な論文が掲載されることもある。紀要論文は駄目と、一概に決めつけないでほしいものだ。
2011年2月21日(月)腰痛
午後になって三日市駅筋の田中整形外科へ。9日(水)の午後から腰が痛くなった。朝のゴミ出しで腰を痛めたらしい。とくに寝起きが痛かったが、翌10日(木)の松竹座観劇はつらくなかった。しかし13日(日)に外出した時は、一歩、歩くたびに腰にひびいた。これは医者に行くしかない。14日(月)に田中整形外科でレントゲンを撮り、やはり腰椎が若干傷ついているという。その後数日でほぼ痛みも消え、本日、レントゲンで再確認したところ、腰椎の傷も悪化していないので、このまま推移を見ることになった。
最近の我がジャーナルには体のことが多くなった。年配者のクラス会などではもっぱら話題は体のことになるという。桃大の名誉教授室でもしばしば体のことが話題になる。情けないが、年を取るとはこういうことなのだろう。
とにかく『ダーウィンの世界』の件も一応、済んだし、腰痛もほほ治った。通常のペースにもどってジャーナルを執筆し、研究にも取り組みたいものだ。
2011年2月18日(金)学術会議叢書17『ダーウィンの世界』
松竹座に出掛けた10日の夜、家に帰ると『ダーウィンの世界』が届いていたが、どこにも「松永俊男編集」といった記載がない。当方は単に多数の著者の一人の扱いである。「編集後記」は掲載されているが、ほかには編者としての松永の名がない。唖然とするばかりである。事務方とは編集担当の立場でやりとりしてきたし、同書の予告には「松永俊男先生が、全体の構成を含め編集をお引き受け下さいましたので、大変内容の充実したものとなると思います」とある。編者として名が出ないなどとは思いもしなかった。名が出ないのなら当方の対応もまったく違っていたのに。編集料はもとより原稿料もゼロの出版物である。名前が出る以外のメリットはないではないか。
同書の企画を推進した学術会議・科学史分科会委員長の木本忠昭さんが、執筆者代表の立場で日本学術協力財団の事務局と話し合い、その結果が本日届いた。図書館へ寄贈済みの1,500部についてはそのままだが、販売用の残部500部については扉に「松永俊男編集」のシールを貼り、財団の宣伝では「松永俊男編集」であることを明記することになった。
この間、ジャーナルを書くと鬱憤をはき出すことになるので、控えていた。同書にはさまざまな立場からのダーウィン論が盛り込まれており、ダーウィンに関心のある読者にお薦めの共著だが、けちが付いてしまった。積極的に宣伝する気分ではない。
2011年2月10日(木)松竹座の仁左衛門
本日は朝から夜まで松竹座。昼の部は「彦山」の通し。通しといっても見応えあるのは「毛谷村」だけ。歌舞伎でも文楽でも「毛谷村」は見ているが、いつどこで主役は誰であったかは憶えていない。ただ六助もお園も木訥という印象が残っているが、今回は仁左衛門の六助も孝太郎のお園も颯爽としていた。松嶋屋がやるとなんでも格好良くなってしまう。仁左衛門は六助が初役とは意外だった。仁左衛門は六助だけなので、芝居が始まってもがなかなか登場しない。この通し狂言は、出番の多い孝太郎と愛之助(京極内匠)のためのようにも思える。
昼の部には舞妓さん芸妓さんが団体で来ていたので、幕間に目の保養をさせてもらった。
夜の部は南北の「盟三五大切」の通し。これは1976年に辰之助、孝夫時代の仁左衛門、それと玉三郎によって復活され、今回が11回目の上演であるという。だらしのない浪人がだまされた恨みで殺人鬼になるのが見所だが、これに「五大力」と「忠臣蔵」をからませている。忠臣蔵七段目や勘平切腹のもじりもあって面白い。
芝居見物に一日を費やして、堪能したとはいえないが、損はしなかった。
2011年2月9日(水)「自然の経済」
家にいると、猫の世話に家事手伝い、ぼんやりテレビを見ることでなんとなく一日が終わってしまう。今日は断固としてJHBの「自然の経済」とダーウィンに関する論文を読むことにしたが、なんとか読み切ることができた。おおいに参考になる論文であった。内容を整理し、取り寄せるべき文献をまとめるのに、あと一日か二日は必要だろう。
2011年2月5日(土)ホームページ更新
授業関係がひとまず片付き、気分的にも余裕ができたので、ホームページを更新することにした。主な作業は、ジャーナルの昨年分を別ページにしたこと、「ダーウィン・シンポ」へのリンクを表紙から「科学史」のページに移したこと、それと科学史西日本大会の昨年のデータを加筆したこと。未記載の大会初期のデータも記載するつもりではいるのだが、どうしても先送りになる。
2011年2月3日(木)「科学技術史」採点
一日かかって採点と評価を終了。まず客観テストを採点し、合否を決定。下駄を履かせて合格率76%。まあ、妥当なところだろう。合格答案については記述問題の出来と平常点によって評価を決定。明日、確認して送信することにしよう。
2011年2月2日(水)「科学技術史」試験
昨年は「科学技術史」の受講生が少なかったので最終授業で試験を済ませたが、今年度は受講生がやや増加したため、試験期間内の実施となり、その監督のため大学へ。いままで試験答案は家に持ち込まず、大学で採点評価を済ませてきたが、今回は持って帰ることにした。
試験終了後、呼び出していた「論述作文」の受講生二人から最終作品を再提出させ、ようやくこの課目に決着を付けることができた。
2011年2月1日(火)グリム童話
老猫の点滴廃棄物をもって千代田動物病院を訪ねた後、いつものように千代田駅前のスーパーでキャットフーズを購入。河内長野駅近くで古書として購入した鈴木晶『グリム童話』(講談社現代新書 1991)を一気に読了。グリム兄弟は古くからの民話を集めたのではなく、実質的には兄弟の創作であるという。そこにあるのは農民の意識ではなく、都市に暮らすブルジョアジーの倫理観であり、そのために現代の日本にも受け入れられている。「白馬の王子」もその中で作られた。グリム童話については残虐な描写よりも、こうした倫理観の方を問題にすべきだという。
この本の出たころ、「ほんとは恐ろしいグリム童話」といったことが話題になっていたと記憶しているが、著者はもっと重要な問題があるといいたかったのだろう。
グリム童話は農家の老婆の話をそのまま書き留めたものという神話は近年の研究によって完全に否定されているようだが、一般には依然として生きている。ダーウィンについての神話もいっこうに衰えない。あせらず同じことを指摘していくほかないのだろう。
2011年1月30日(日)ジャーナル執筆
歌舞伎座の思い出に浸りながらジャーナルを執筆し、転送。その後で間違いに気がついた。なんとなく幹部の中では富十郎が最長老と思い込んでいたが、芝翫が1歳年上だった。明日、訂正しておこう。
2011年1月29日(土)ホームズ本
いつものことだが外出した翌日は疲労が出て、一日中、ぐずぐすしている。それと比べると役者たちは80歳になっても25日間、毎日、舞台で動き回るのだからすごいことだ。
午前中はひっくり返って、昨日購入した宝島社の文庫本『シャーロック・ホームズの謎を解く』を読了。いつも手元で参照している『名探偵読本・シャーロック・ホームズ』(パシフィカ 1978)と同様、編者は小林司・東山あかね。どうやらこの二人が日本のシャーロッキアンの中心にいるようだ。『謎を解く』も楽しく読んだ。日本の格闘技「バリツ」(Baritsu)とは、人名(Bartisu)の誤植とは意外だった。
午後にはジャーナルの下書きに取りかかる。歌舞伎については書くことも多いし、確かめたいこともあるので時間が掛かる。
2011年1月28日(金)その2 映画「わが心の歌舞伎座」
ミナミにもどり、ナンバ・パークスシネマで「わが心の歌舞伎座」。4時10分からの3時間、長い映画だったが楽しかった。東京に住んでいたときは毎月のように歌舞伎座に通っていたので、自分にとっても「わが心の歌舞伎座」である。わが思い出も記しながら映画について語ってみたい。
映画の中心になっているのは11人の幹部俳優の思い出話と代表作の紹介である。その最初が芝翫、吉右衛門、そして團十郎。年齢や実績、名跡などさまざまな要素を総合し、松竹の立場で順序をつければこういうことになるのだろう。なんとなく納得できる。観客も少ないので代表作が上映されているときには、「中村や」「播磨や」「成田や」などと小さく声を掛けた。
この映画を見ても今や芝翫が役者代表の地位にあることが分かる。当方が歌舞伎を見始めたころはまだ「福助」であったが、1967年に「芝翫」を襲名すると芸が大きくなり、あの顎も気にならなくなった。襲名が役者を大きくするということを思い知らされるできごとであった。
11人のうち、芝翫に次ぐ年長者は富十郎。1964年に「鶴之助」改め六代目市村竹之丞を襲名したが、歌舞伎座での市村家当主羽左衛門の異様な挨拶は今でも憶えている。1972年に父親の名跡「中村富十郎」を継いだのは妥当な処置だろう。当方より10歳年上なのに元気な舞台を見せていたが、歌舞伎座とともにこの世を去っていった。思い残すことのない最後だったのではないだろうか。
藤十郎も当方より7歳年上なのに元気だな。「藤十郎」という大層な名跡を継いだが、古くからの歌舞伎フアンにとってはいつまでも若女形「扇雀」のイメージではなかろうか。当方が中高生のころの「扇雀ブーム」もなんとなく憶えている。とにかく美しかった。
玉三郎は今でも美しいが、1964年に「玉三郎」を襲名し、脚光を浴びた当時の人気はすごかった。
当方が歌舞伎座に通っていたころ、団十郎、菊五郎、幸四郎、それと吉右衛門は、まだまだ駆け出しで、それぞれ新之助、菊之助、染五郎、そして萬之助だった。菊五郎劇団の三之助 (新之助・菊之助・辰之助)が勧進帳の三役を日替わり交代で務めたとき、歌舞伎座に何回行かなければならないかなんてことが話題になった。辰之助の独特の雰囲気が好きだったのに、若死にしたのが残念である。父親の松緑はさぞかし無念だったろう。
勘三郎は1959年4月に3歳で勘九郎を襲名し、子役として大変な人気を得ていた。今でもやんちゃな男の子の気質が持続しているように思える。
幸四郎一門が東宝に移籍したため、染五郎、萬之助の歌舞伎座の舞台は記憶に残っていないが、テレビ中継で見た二人の舞台「さぶ」は今でも憶えている。幸四郎は染五郎当時から現在まで洋物の舞台が多く、その分、歌舞伎味が乏しくなっている。この映画の中で幸四郎は「歌舞伎を演劇に高めたい」といったことを語っていたが、やはり西洋かぶれしているのだ。こんな姿勢が歌舞伎をつまらなくしているのだろう。歌舞伎役者としては吉右衛門の方が重視されるのは当然である。
孝雄時代の仁左衛門も歌舞伎座で見ているはずだが、記憶に残っていない。当方が仁左衛門を中心に歌舞伎を見るようになったのは、1998年に仁左衛門を襲名して以来である。襲名興行は1月2月が歌舞伎座で、4月5月が松竹座だった。なぜ大阪が後なのか、いささか不満であった。
11人の最後、梅玉については何も記憶にない。歌右衛門の舞台にはいつも二人の芸養子がちょろちょろ出ていたが、そのうちの一人が梅玉になったようだ。どうして大幹部の一人になったのか不思議な気がしないでもない。
この11人に加えて、猿之助と雀右衛門が舞台映像だけで紹介されている。こうした行事の時、猿之助の扱いはいつも微妙である。先代猿之助(猿翁)が元気なころも、歌舞伎座の舞台での猿之助一座の扱いは恵まれたものではなかった。観客の立場からも、猿之助の出番がこれだけでいいのと思うこともしばしばあった。
映画では11代目団十郎など、故人についても簡単に紹介されていた。当方の歌舞伎座についての思い出は彼らと結びついているので、もっと映像を見たかったが、この映画では無理な注文なのだろう。
舞台裏もかなり丁寧に紹介されていたが、工事中の3年間、裏方さんたちはどこで何をしているのだろう。そんなことも気になった。演劇評論家の故人アンツルこと安藤鶴夫が、裏方さんたちの苦労を見ると芝居に対して厳しい批判ができなくなるので舞台裏は見に行かない、といっていたことを思い出した。
忠臣蔵四段目、判官切腹の場面では、観客席からまったく見えないのに、舞台裏で若侍たちが一斉に平伏していることを初めて知った。これが伝統芸能のすごさであろう。役者たちがこの場面をいかに大事にしているかも分かる。観客も緊張して舞台を見守ろうではないか。お菓子を食べたり、ケータイを鳴らすなど、もってのほかだ。
大幹部だけでなく若手や大部屋さんたちの声も聞いてみたかったが、松竹の制作なので誰にしゃべらせるかなど、難しいこともあったのだろう。
残念だったのは、観る側の視点がまったく欠けていること。劇場に入るときや幕が開くときのときめき、幕間の食事や売店を見て回る楽しみ、終幕後の満足感、あるいは幕見席への長い階段の上り下りなど、テーマはいくらでもあっただろうに。
こうした不満がないではないが、久し振りにわくわくしながら映画を見た。とにかく歌舞伎は楽しいし、それも歌舞伎座で見る歌舞伎が一番だ。役者たちも特別な舞台ではいつも張り切るので、同じ出し物でもすばらしい舞台になる。2013年の再開場の時には、なんとか見に行きたいものだ。
2011年1月28日(金)その1 日本一の書店
MARUZEN &ジュンク堂書店が12月22日(水)に梅田の茶屋町にオープンし、当日の名誉教授室でもちょっとした話題になった。蔵書数はジュンク堂池袋店を越えて日本一だという。とにかく見ておこうと出掛けた。滅多に梅田を歩かないので遠回りをしてしまったが、次は簡単に行くことができるだろう。日本一というからどんなに広いのかと思ったが、他の大型店とそれほどの違いは感じなかった。とはいえ和書は一通りそろっているのだろう。他店では見つからなかったマイナーな文庫本もあった。洋書もある程度は置いてあったが、充実しているとはいい難い。
難波のジュンク堂には科学史・科学哲学の専門書を置いていないので、年に一回ぐらいは見に来ることになるだろう。
2011年1月27日(木)審査報告作成
かねてから依頼されていた学会関係の審査報告の作成が終了し、メールの添付で送信した。投稿論文の査読よりは気が楽だが、それなりの責任がある。投稿論文にはレベルが低くてうんざりするものが少なくないが、今回の審査対象論文はレベルの高いものなので、読み応えもあった。こういう機会にじっくり読んで損はなかった。
2011年1月26日(水)大学へ
授業は終わっているが、ロッカーの中の教材類の整理と、JHB8号分の図書館への寄贈のため大学へ出てきた。例年と違って「論述作文」がなかなか決着しない。帰りにはいつものことだがスーパーによって、キャットフードを購入。
2011年1月22日(土)J.History of Biology, Vol.43(2010)
J.History of Biology は1968年の創刊以来、私費と個人研究費で継続購入してきた。第41巻(2008年)までは2009年3月の定年退職時に大学図書館に寄贈したが、その後に購入した第42巻(2009年)と第43巻(2010年)のそれぞれ4号はまだ手元にある。これも近日中に図書館に持って行くことにした。第42巻(2009年)にはすでに一通り目を通してあるので、第43巻(2010年)について昨日、目次を入力し、本日、一気に計21本の掲載記事(うち18本が論文)に目を通した。といっても、ほとんどアブストラクトを読んだだけではある。
創刊当時には考えられなかったことだが、18本の論文のうち12本が20世紀の生物学を対象にしている。その中に外山亀太郎を扱った論文(Lisa
Onaga, 215-264)と、現在は総研大助教の飯田香穂里による木原均を扱った論文(Kaori Iida, 529-570)がある。
ダーウィンについても2本の論文がある。一つはビーグル号航海中の化石セキツイ動物研究を論じたものである(Paul D. Brinkman, 363-399, 401)。この著者によれば、帰国後のオーエンらの研究報告を待つまでもなく、ダーウィンは航海中に化石セキツイ動物の意味することを理解し、転成論に転じていたという。現在のダーウィン研究では、ダーウィンが転成論に転じたのはダーウィン本人が述べているように帰国後の1837年3月であると見ているが、この論文のように航海中に転成論になったとしたがる論者も絶えない。いずれビーグル号航海を詳細にたどるときには参考にすべき論文だが、今のところは気にしないでいいだろう。
もう一つのダーウィン論文は、「自然の経済」概念を分析している(Trevor Pearce, 493-528)。これはマルサス問題とも関連するので、コピーを取ってじっくり検討しよう。
専門雑誌を読むのは専門家としての証なのだが、年金生活の中で雑誌代10万円を工面するのは難しい。この雑誌についても第44巻(2011年)は予約していない。今後はWEBの利用などによってカバーするしかないだろう。
2011年1月21日(金)WEB成績入力
桃山学院大学では今年度から授業の成績評価は、インターネットを利用して教員が直接、データベースに入力することになった。本日、初めてこのシステムを利用し、大学院の成績を自宅のパソコンから入力してみた。「ワンタイムパスワード」という認証システムにややとまどったが、成績入力自体は問題なく終えた。手書きの報告作成よりも楽だし、間違いも起こりにくいように思える。
2011年1月20日(木)司書講習の授業評価
来年度の桃山学院大学司書講習「専門資料論」出講の確認書類とともに、今年度の講習についての受講生による授業評価が送られてきた。例年と同様、平均すると5段階評価で上から2番目の「良い」になる。ただ例年と違うのはピークが1番目の「大変良い」になったことか。自由記述でもおおむね好評なのだが、「分かりやすくおもしろい授業だった」という回答がある一方、「自己満足されているような授業であまりおもしろくなかった」という回答もあり、「講師の変更を希望する」という回答もあった。
現役の図書館員と思われる受講生の回答には、「司書はプロとしての優れたサービスを利用者に提供できるように常に力量を高めていかなくてはならないと感じました。学術雑誌のことがよく分かり、自然科学の分野に興味がわきました。図書館に届く紀要をただ受入していたのが内容についても興味が沸き、目を通したいと思えるようになりました」とあった。学術文献にどれだけ関心をもつかは、講師の力量だけでなく、受講生の気質にもよるのだろう。
2011年1月19日(水)授業終了
今年度の水曜日、最後の授業日である。2時限は「論述作文」。例年なら最終レポートを持ち寄って論集を作るのだが、今年度はサボる受講生が続出したため、最後まで教室での報告が続いてしまった。この種の授業でこれほど日程が崩れたのは、初めてである。たまたま今年度だけのことなのかどうか。来年度の授業の様子で分かるだろう。
3時限の大学院のあと、4時限は「科学技術史」。実質的な授業は前回で終了したので、今回は関連の映像資料を上映し、来年度の授業での利用を検討したが、講義内容に適した映像資料を探すのは難しい。
2011年1月16日(日)大阪梅猶会・能楽公演
大阪能楽会館へ。関西の梅若派の定期公演である。最初が「翁」(梅若善久)、次の「雲林院」(池内光之助)の笛は野口傳之輔師に代わって野口亮師。傳之輔師の名人芸を聞けなかったのは残念だが、亮師は立派に代役を務めていた。最後はにぎやかに「鞍馬天狗」(井戸和男)。「雲林院」も「鞍馬天狗」も桜の時期のもの。「新春」の公演としては不思議ではないのだろうが、寒波襲来の中では季節外れの感は否めない。
2011年1月12日(水)授業日
当方としては珍しく和泉中央駅からタクシーで大学へ。本日が試験問題の提出期限なので、2時限の授業の前に指定用紙に「科学技術史」の問題を貼り付けて事務方に提出。まだ来週の授業が残っているが、なんとなく授業終了の気分になってしまう。
2011年1月9日(日)試験問題作成
昨日から「科学技術史」の学年末試験の問題作成に取り組み、後は指定用紙にきちんと収めるだけになった。適度な合格率を確保するために客観テストを導入しているが、評価の精度を高めるため、今年度は問題を増やすことにした。この冬休み、最優先の課題なのに気が進まず延び延びになっていた。こういう作業はどうしても締め切り間際にならないと手をつける気にならないものだ。
2011年1月6日(木)古書で新書
まずは近大病院麻酔科へ。痛みが完全に消えていることを報告し、治療終了。後神経症にならないでよかった。医師によれば、帯状疱疹の再発は少ないが、3度目も無いとはいえないという。もしも3回目に襲われたなら、今度はすぐに麻酔科に行くことにしよう。
帰途、千代田駅前のスーパーでキャット・フードを購入し、河内長野駅前の書店で300円均一の古書を購入。武川寛海『名曲意外史』(毎日新聞社 1992)。新本の定価では購入する気にならないが、新聞の連載記事だったので気が向いたときに拾い読みするのに向いている。
岩田重則『「お墓」の誕生』(岩波新書 2006)。柳田国男を厳しく批判し、「個人的体験と、それをベースとして彼がいだいてきた一般的常識を、学問的結論として横すべりさせていたにすぎなかった」(p.47)という。柳田民俗学なるものは今でも人気があるようだが、どうも胡散臭い。当方も友人たちとの会話では、実証性を欠いた思いつきだけではないか、こんなものが「学問」とされるのはおかしいと批判しているが、専門外なので本格的に取り組む気はない。岩田のように専門家たちが柳田批判をもっと明らかにすべきだと思う。
上記の岩田の本では事例紹介にかなりのスペースを割いている。柳田に対抗する意味があるのだろうが、啓蒙書として読み飛ばす読者としては正直、少々、うっとうしい。このあたりが新書版の難しいところだろう。柳田の場合は証拠となる事例はごくわずかで、もっともらしいお話が続く。これが柳田人気の原因かもしれない。
2011年1月5日(水)松竹座2月公演前売
2月の松竹座は仁左衛門の主役で、昼が「彦山」の通し、夜が南北の「三五大切」の通し。これは見に行かなければならない。本日から前売開始。初めて「チケットWeb」で切符を購入してみた。パソコンを操作するだけで座席も指定できるし、当日まで切符を取りに行かなくてもよい。これは便利だ。
2011年1月3日(月)編集後記
学術会議叢書17『ダーウィンの世界』の「編集後記」を執筆。まだすべての原稿がそろってはいないが、事務方の作業の都合もあるだろうから今のうちに書いておいた。宣伝も兼ねてその一部を紹介しておこう。
「本書は、ダーウィン年の2009年12月5日に日本学術会議講堂で開催された日本学術会議主催公開講演会「ダーウィン生誕200年-その歴史的現代的意義-」に基づいて刊行されたものである。(中略)各執筆者からいただいた原稿は、図版も含めてほとんどそのまま掲載している。人名・地名の表記や、「自然選択」と「自然淘汰」などの用語について統一することは無理なので、『学術の動向』特集号と同様、不統一のままになっているが、その点はご了解願いたい。また、掲載された原稿には学術論文といえるものから、随想に近いものまで、さまざまなタイプがある。ダーウィンに寄せる執筆者たちの姿勢が反映しているといえよう。そのことも含め、日本の諸分野の研究者たちが、ダーウィンをどのようにとらえているか、その全体像を知る上で本書は絶好の共著になっていると思う」。
2011年1月2日(日)京都へ
例年、正月2日は嵯峨・二尊院に出掛けている。前日に降雪があったようで、舗装道路に雪はなかったものの、土の上にはかなりの雪が残り、お堂の屋根からは水が落ちてくる。タクシーを降りたとたん、寒さで震えた。清涼寺(釈迦堂)境内の、あぶり餅「大文字屋」でストーブにしがみつき、栗ぜんざいを食べて一息つく。河内長野の山間部よりも嵯峨野は寒い。
2011年1月1日(土)その2 初詣
幸いなことに午後は雪という予報は外れ、例年通りに地元の加賀田神社に初詣。ただし厳しい寒さに変わりはなく、金剛山は麓でもかなりの積雪だという。今年は年賀状の配達が遅く、帰宅後に返礼賀状を書く。
2011年1月1日(土)その1 今年は何をするか
いろいろと勉強したいことはあるが、当面、研究テーマを限定し、ダーウィンとマルサスについてまとめる。とにかく自宅での研究を習慣づけなければならない。