2010年12月31日(金)その2 今年は何をしたか
定年生活2年目、自分でもあきれるくらい、何もできなかった。本年初めの予定ではダーウィン本サーヴェイと「アリストテレスの生物学」に着手するつもりだったが、まったく進展せず、放棄するほかない。「研究は研究室で」という生活習慣が長かったためか、自宅での研究がうまくいかない。
趣味の面では飛鳥探訪を始めたし、ザ・シンフォニーホールにも初めて出掛けた。仕事に追われることがなくなり、余裕が生じたおかげであろう。
2010年12月31日(金)その1 粉雪の舞う大晦日
ときどき粉雪が舞う凍てつく寒さの大晦日となった。家に閉じこもってこのジャーナルを執筆し、学術会議叢書の「編集後記」に着手。
2010年12月27日(月)年賀状
昼前に降りしきる雪の中をバス停まで歩き、三日市町駅前のスーパーへ。病猫ノアの食料がなくなってきたので、どうしても買いに行く必要があった。食欲が減退してきたノアは、その時の体調で気に入ったものを少しずつしか食べないので、各種フーヅを用意しておかなければならない。
帰宅時には雪も止み、日も差してきた。午後は家で年賀状書き。といっても年々ずぼらになり、今年は8通だけ。後は年が明けてから返信の形で出すことになろう。
2010年12月25日(土)昼も夜も「忠臣蔵」
昼は時代劇チャンネルで1962年の東宝映画『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』207分。主演は先代幸四郎。幸四郎一門が東宝に移籍してまもなくの映画である。芝鶴や又五郎など、なつかしい顔があった。団子時代の現・猿之助、染五郎時代の現・幸四郎、萬之助時代の現・吉右衛門も出ていた。忠臣蔵映画の伝統にのっとったものだが、今、見るとあまりにテンポがのろく、冗長な場面が多い。内蔵助登場まで1時間とは、長すぎる。その反面、後半には編集でカットしたと思われる部分も多い。東宝創立60周年記念映画というわりには、不満足なできであった。
夜はテレビ朝日で田村正和主演の「忠臣蔵~その男、大石内蔵助」。これも伝統的な忠臣蔵だが、さすがにテンポは速い。しかし冒頭の、塩田を見る内蔵助の場面がいかにも安物の合成場面で、制作費をけちっていることが最初から歴然としていた。また、田村正和に内蔵助は似合わない。
同じ時間帯に時代劇チャンネルで、1991年12月フジテレビの仲代達矢主演「忠臣蔵 風の巻・雲の巻」をやっていた。テレビ朝日のCMタイムなどにこちらも見てみた。さすがに仲代の内蔵助は貫禄があり、こちらの方が見応えがあった。テレビ朝日版の台詞など、フジテレビ版にそっくりの所も多く、フジテレビ版の脚本(古田求)を利用しているとしか思えなかった。いずれにせよ、この田村正和主演「忠臣蔵」は失敗作といえるのではないか。
暮れとはいえ、忠臣蔵にうつつを抜かしていられるのも、それだけ暇だということだろう。
2010年12月22日(水)映画「最後の忠臣蔵」
桃山学院大学では本日が年内最後の授業日。暮れの22日に授業など、数年前まで考えられなかったことだ。教員たちも口々にぼやいていたが、学生の出席状況もいつもと変わらず、普段通りの授業ができた。4限の「科学技術史」終了後、直ちに難波へ。
パークスシネマで「最後の忠臣蔵」を見る。師走に忠臣蔵映画とは嬉しいが、この映画は外伝。できれば本伝を楽しみたいものだ。同じ池宮作品の映画でも、「四十七人の刺客」の方がはるかに面白かった。内蔵助は仁左衛門ということなので、討入前後も描かれていることを期待したが、これは無い物ねだりであった。討入後の寺坂吉右衛門を主人公にした池宮の連作四作品なら、4作目の「最後の忠臣蔵」よりも、最初の「仕舞始」と3作目の「命なりけり」を映画化してほしかった。「最後の忠臣蔵」は話の展開が単純で、観客が緊張するような場面はない。退屈はしなかったが、忠臣蔵を見たという充実感はない。主役の瀬尾孫左衛門は、またしても役所広司。ただし、「十三人の刺客」よりも仁に合っていた。
映画はほぼ原作に沿っていたが、人形浄瑠璃「曾根崎心中」を随所に入れたのは脚本家のアイデアか。ストーリーが単純なので変化をつけるための工夫だろう。義太夫は咲大夫、お初を遣ったのは勘十郎。黒幕を背景に人形だけが映ると、人形の姿と動きがはっきりする。お初を見て、ただちに簑助ではないことが分かった。簑助のお初だったら、文楽に魅了される観客も多かったのではなかろうか。勘十郎と簑助の差はおまりに大きい。文楽の将来に不安を抱くことになった映画でもある。
2010年12月19日(日)学術会議叢書『ダーウィンの世界』校正
昨晩、学術会議叢書17『ダーウィンの世界』のゲラが届いた。編集を担当しているので他の著者のものも同封されており、それに一通り目を通した。予定より数ヶ月遅れているが、共著ではよく起きることだ。年度内刊行に間に合うだけでも、よしとしよう。当方の残る作業は「編集後記」の執筆。年内におおむね、書き上げておこう。
2010年12月16日(木)ペイン・クリニック
近大病院麻酔科へ。帯状疱疹の痛みは完全に消えているので、本日は治療行為なし。ただし、痛みが再発する可能性は否定できないとのことで、まだしばらくは様子を見ることになった。数日前からの体調不良からも脱出し、ほぼ通常の状態にもどってきた。
2010年12月15日(水)授業日
体調不良は続いているが、薬で症状を抑え込み、なんとか3コマの授業をこなすことができた。
2010年12月14日(火)映画「忠臣蔵 天の巻・地の巻」
依然として体調不良のため、一日、ぼんやりと過ごしたが、本日は討ち入りの日。有線テレビの時代劇チャンネルで1938年の日活映画「忠臣蔵 天の巻・地の巻」を見たのが収穫であった。ただしこの映画、話が飛んでつながらない。後で調べると、案の定、戦後、進駐軍によって大幅にカットされ、初公開時は約3時間だったものが、1時間42分のカット版のみが残されたのだという。それでも大石内蔵助の「東下り」の段はそっくり残されているのではなかろうか。大石(阪東妻三郎)と立花左近(片岡千恵蔵)の対決は歌舞伎の「勧進帳」を基に、監督のマキノ正博が創案したものだという。事実、バックには「勧進帳」の長唄が流れていた。かねてからこのエピソードはどこから生まれたのか不思議だったが、やっと謎が解けた。
2010年12月13日(月)体調不良
昨日、庭仕事を手伝ったため疲労困憊。そのためもあってか、体調を崩し、寝込んでしまった。帯状疱疹の痛みが治まったというのに、一難去ってまた一難か。これでまた、予定が狂ってしまった。
2010年12月11日(土)科学史西日本大会
標記の会に参加するため、龍谷大学深草学舎へ。我が家からだとドアツードアで2時間半かかるので、午前中の見学会(旧陸軍第16師団関連施設)は欠席し、午後1時からの研究会に参加した。9件の研究発表のほとんどは物理学史関係。当方の専門には関係ないが、視野を広げることにはなる。科学史にはこういうことも必要であろう。研究発表の後、宇宙論の佐藤文隆・京大名誉教授の講演があった。学界裏話も交え、楽しくきくことができた。
科学史の集まりに出るのは久し振り、なにかと刺激になった研究会であった。
2010年12月9日(木)ペイン・クリニック
近大病院麻酔科へ。硬膜外神経ブロックの注射も本日で5回目、これで終了。帯状疱疹の痛みは完全に消えたが、再発防止のため、まだしばらくは鎮痛剤を服用することになった。後神経症に移行することなく、やれやれである。
ところで本日、当方の注射が終わった時に病院が停電になった。停電はまもなく終わったが、麻酔科外来室のパソコンだけが再起動しない。カルテはすべてパソコンで処理されているからパソコンが動かないと治療ができない。麻酔科外来では治療を1時間、停止した後、外来が休みの耳鼻科に移って治療をすることになった。当方は注射の後、ベッドで1時間、寝ていたので、この騒ぎの状況が全部、耳に入っていた。部屋の残されたのは当方と看護婦さん一人になっていた。
近大病院では2週間前にも外来受付のシステムが動かないという事故があった。そして本日の騒動である。この地区では最も頼りにされている病院なのに、困ったことだ。電気系統や電算機関係の管理は専門業者に委託しているのであろうが、信頼できる業者なのだろうか。麻酔科外来のパソコンが停電の後、再起動しないなんてことは予め点検しておくべきことだろう。命を預けることになるかもしれない施設である。電気と電算機の管理を根本的に見直してほしいものだ。
2010年12月8日(水)授業日
2時限「論述作文」では、発表予定者4人のうち、3人が予定通りに発表に臨んだので授業は成立。3時限の大学院の後、4時限の「科学技術史」の冒頭では恒例の「学生による授業評価」。本日の講義のテーマは高橋至時と伊能忠敬。どこまで興味を持ってもらえたか。帰宅途中では、またしてもキャット・フードを購入。食欲が減退しているノアは、水気が多くて目新しいフードを好むようだ。
2010年12月7日(火)教材準備
ここ数日、大学院用の教材作成に取り組んできた。受講生の状況を見て、ヴィクトリア朝の基礎的なことを講義した方がよいと判断し、教材を作ることにした。院生に対してサービスしすぎという気がしないでもないが、現状ではやむを得まい。
2010年12月2日(木)その3 科学史西日本大会の今後
小長谷大介(龍谷大学)さんの呼びかけで、科学史西日本大会の今後を相談するため、瀬戸口明久(大阪市立大学)さん、岡本正志(京都教育大学)さん、それに当方の4人が集まることになっていたが、副学長職にある岡本さんは直前に緊急の業務が入り、来られなくなった。今後は小長谷、瀬戸口の両氏が中心になるので、当方がとやかくいう立場ではないが、今までの経過を説明して、早めに引き上げた。両氏は開催形態を変えて存続させたいと考えておられるようだ。11日の研究会の場で提案があるだろう。
当方としては、このHPに掲載している過去の西日本大会のデータを完成すべきであろう。デジタルのデータがない年度については、入力し直さなければならない。面倒なので後回しにしてきたが、いよいよこの冬にでもやりますか。
2010年12月2日(木)その2 和製ハードボイルド映画
近大病院を出たのが1時。京橋で7時半に会合がある。それまで何をしてすごそうか。博物館・美術館はどうしても疲れる。映画なら疲れないが、見たいものがない。実写版「宇宙戦艦ヤマト」が話題になっているが、見る気はない。結局、サスペンスという宣伝文句に惹かれ、「行きずりの街」を「なんばパークスシネマ」で見ることにした。画面に Strangers in the city という英訳タイトルが出たので、ハードボイルドであることに気がついたが、なんと甘ったるいハードボイルドだろうか。「甘ったるいハードボイルド」とは形容矛盾だろうが、そういう表現しか思いつかない。日本人がハードボイルド映画を作るとこうなっちゃうのかな。それに話の展開がご都合主義に過ぎる。用心しているはずの主人公が、肝心なところでまるで無警戒。一方的にやられていた主人公が、最後の最後になって超人的な強さを見せる。原作(志水辰夫)はもっとまともなのだろうが、それを確認する気もない。監督(阪本順治)はハードボイルドの形を借りて恋愛映画を撮ったのかもしれないが、当方には退屈な映画だった。
2010年12月2日(木)その1 ペイン・クリニック
朝は千代田動物病院に寄ってから近大病院麻酔科へ。硬膜外神経ブロックの注射も本日で4回目になるが、今回はいやに痛かった。針を改良されたものに変えたためというが、痛いのは嫌だ。次回は以前の針を使うことにしてもらった。それはとにかく、この1週間はほとんど痛みが消えていた。朝晩、軽くチクチクすることはあっても鎮痛剤の服用で治まる。痛みが無くなると朗らかになり、積極的に何かをする気にもなってきた。ダーウィン研究を再開するとしようか。
2010年12月1日(水)授業日
2時限「論述作文」では、発表を予定していた4人のうち一人が無断欠席したが、3人が予定通りに発表に臨んだので授業は成立。3時限の大学院の後、4時限の「科学技術史」ではシーボルトと出島の話。本日は授業後に課題への解答ではなく、自由に感想文を書くように告げた。感想文というと受講生は気楽になるが、実は、課題への解答以上に授業に対する姿勢があからさまになることに気がついていないようだ。
2010年11月27日(土)能囃子の会
阪神能楽囃子連盟「調和会」主催「能囃子の世界・和のしらべ」の切符があるので、大阪能楽会館へ。舞囃子がずらりと並んだ後で、能「清経」。囃子方の会にしてはプログラムに工夫がないと感じたが、今年で3回目、いろいろ試行錯誤をしているようだ。最後は囃子方が大活躍する「石橋」にしてほしかったが、一昨年の第1回ではまさに「石橋」が出ていたようだ。今年は笛を中心にしたので「清経」になったという。シテは長山禮三郎、老いを感じてしまうのが残念だった。長山家もそろそろ世代交代か。笛は野口傳之輔、他の笛方を圧倒する実力を見せつけられた。老いても力が衰えないのはすごいことだと思う。
一日中、ほとんど痛みを感じることなく、楽しむことができた。この状態が続いてくれればよいのだが。
2010年11月26日(金)冬支度
昨日の注射の効果でほとんど痛みを感じず、空も晴れて寒くなく、気分のよい一日だった。電気ストーブを引っ張り出して点検するなど、冬に備えての作業をすることができた。痛みがないというのは、なんと快適なことだろう。改めて健康のありがたさを思う。
2010年11月25日(木)ペイン・クリニック
近大病院の麻酔科へ。1週間前の神経ブロックの注射で日曜日までかなり痛みが治まっていたが、月曜日にはまたつらい痛みが出てきた。とくに夕方以降がつらい。本日で3回目の神経ブロックになるが、とにかく痛みが消えてほしい。
2010年11月24日(水)授業日
2時限「論述作文」では、発表を予定していた4人全員が準備をしてこなかったため、授業が成り立たなかった。教師生活の中でも初めてのことである。学生の質が変化しているのだろう。能力や向学心の問題ではなく、責任感の欠如である。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということか。大学生だからといって大人扱いをせず、中学生なみにくどくど注意しなければいけなくなったのかもしれない。
2010年11月18日(木)その4 鬱憤晴らし
痛みが取れない鬱憤、研究が進展しない鬱憤、「誰のせいでもありゃしない」、とはいえ、「みんなおいらが悪いのさ」というわけでもない。とにかく怒りの持って行き場がないので、映画「十三人の刺客」を見て鬱憤晴らしをしたかったが、残念な結果に終わった。 この映画は1963 年の東映映画のリメイクだが、このオリジナル版は見ていない。しかし昨年、1990年のフジテレビ版を有線テレビで見て面白かった。映画はもっと面白いはずだと期待したが、シニア割引で千円、その程度の価値しかなかった。まず、主役。オリジナル版が片岡千恵蔵と内田良平、テレビ版が仲代達矢と夏八木勲で、今回は役所広司と市村正親。二人とも凄みを見せる役者ではない。
黒澤明の「七人の侍」(1954年)が下敷きになっていると思われるが、「七人の侍」のような現実感はない。落合宿の様子を明石藩側が知らないでいるはずはないし、そもそも将軍の弟とはいえ、異常な藩主をそれなりに処理する仕組みがあったはずだ。まあ、その点は棚上げして映像が楽しめればよいのだが、13対53を13対300と現実味をますます薄めるようにリメイクしている。テレビ版では路地に追い込んで敵を分散するという合理的な作戦だが、リメイク版では集団の中に切り込むという無謀な作戦になっている。「七人の侍」の三船の役に相当する13人目の刺客はオリジナル版では落合宿の郷士であったのに、リメイク版では山で拾った野人になり、映像の品を落としている。最後の主役の役所の死に方にも無理がある。
映画に没入することができず、テレビ版や「七人の侍」と比較したり、この場面はテレビ放映ではカットだろうなどと思いながら見ていた。どうしてリメイク版は一般につまらないのだろう。以前、映像の専門家の水口薫さん(現・大手前大学教授)にたずねたところ、リメイク版は意識的にオリジナル版の印象的な場面をはずすので、つまらなくなってしまうということだった。今回もすべてオリジナル版に忠実な方が面白かったのではなかろうか。
2010年11月18日(木)その3 六曜
病院の後は、久し振りに難波に出た。毎年、六曜の記載されていない卓上カレンダーを探すのに苦労するが、ようやく旭屋書店で見付けた。ほとんどの暦と手帳には六曜が記されている。古来の暦注と信じられているようだが、実質的には明治になって古来の暦注を禁止された暦業者が新たにでっち上げ、戦後になって普及したものである。このことがもっと知られれば、六曜も廃れていくのではなかろうか。
2010年11月18日(木)その2 ペイン・クリニック
近大病院の麻酔科へ。10時30分の予約といったって、どうせ11時を過ぎると予測していたら、なんと10時30分ちょうどに呼ばれ、慌てた。こういうこともあるので、予約時間は守った方がよさそうだ。前回と同様、背中に硬膜外神経ブロックの注射をして1時間休憩。まだ後神経症の段階ではなく、この治療を続けることで痛みは治まるだろうとのことだった。ややほっとする。
2010年11月18日(木)その1 老猫
本日は通院日だが、まずは千代田の動物病院に寄り、使用済みの点滴グッズの処理を依頼。腎機能の崩壊しているノアは、昨年の1月以来、リンゲルの点滴だけで元気に過ごしているが、さすがに食欲が大幅に減退してきた。お腹が空くのに口に合うものがなかなかないという状態で、さまざまなフードを少しずつ食べさせるほかない。獣医からは元気でいるのが奇跡といわれているが、限界に来ているのかもしれない。
2010年11月17日(水)授業日
2時限「論述作文」では、このジャーナルでの警告が功を奏したか、まともな研究発表の場になってきた。警告のジャーナルは大学の恥をさらすようなものなので、削除しておこう。3時限の大学院、4時限の「科学技術史」と、授業の最中は痛みを感じない。というより、痛みを感じることを忘れてしまっているが、控え室にもどると、口には出さねど痛みが襲う。しばらくはこんな状態が続くのだろう。
2010年11月15日(月)闘病記
11日の硬膜外ブロックの注射で帯状疱疹の痛みは完全に消えたが、13日(土)には効果が薄れ、痛み止めを服用していてもズキズキとした痛みが続いている。そのためか、一日中、疲労感が抜けない。積極的に何かをしようという気になれない。それでも昨日と今日で「科学技術史」秋学期後半のPPT教材を見直し、受講生に提供するPDFの作成を終えた。
自分にとって現在の最大の課題は、痛みが取れること。帯状疱疹後神経症で生涯、痛みが続くなんてことになったら、えらいことだ。このジャーナルも当面、闘病記になりかねない。
2010年11月13日(土)新妻昭夫さん訃報
通院、授業、通院、観光と外出が4日続くと疲れる。夕刻になってようやくパソコンに向かい、メールを開けて驚いた。新妻昭夫さんが11月9日(火)に逝去されたという。今年の年賀状に伊豆に転居とあったので、どうしたのかと思っていたが、療養されていたのですね。新妻さんはさまざまな活動をされていたが、当方にとってはウォレス(新妻さんの表記では「ウォーレス」)の研究者であった。日本では当分、新妻さんを越えるウォレス研究は出てこないであろう。まだ61歳であったという。残念。ご冥福を祈りたい。
2010年11月12日(金)金峰山寺・本尊ご開帳
吉野にはいままでに何度か出掛けている。そのおりには必ず金峰山寺に寄るが、蔵王堂の巨大さに感銘しても本尊の蔵王権現は秘仏のため拝観することができなかった。それが9月1日から百日特別ご開帳を実施している。カミさんが数週間前に団体で訪れて感激し、再訪するというので付き合うことになった。ご本尊の巨大さと独特の彩色は印象的ではあるが、彫刻として見るならば、堂内の後方に置かれている安禅寺旧本尊の蔵王権現立像の方が躍動的で魅力がある。しかし信仰の対象としては巨大なご本尊の方に力を感じるのであろう。
午前中、大阪が雨だったこともあり、参拝客が少なかったので境内をゆっくり見て回ることができた。明日と明後日は大変な混雑になるだろうとのことであった。帰りは今や吉野観光の定番になっている「八十吉」で葛きりを食べ、仁王門前の萬松堂で草餅を買って帰宅。本日は金峰山寺だけに限ったので、のんびりとした日帰り旅であった。帯状疱疹の痛みも今日一日は完全に止まっていた。
2010年11月11日(木)ペイン・クリニック
外来予約の近大病院麻酔科に行く。担当医からは5週間の入院を勧められた。神経ブロックの薬剤を注入し続けて後神経症を完全に予防するということのようだ。しかし今、5週間も入院するわけにはいかないので、週1回の硬膜外ブロックの注射で様子を見ることになった。やや不安も残るが、なんとかこれで全快して欲しいものだ。
2010年11月10日(水)授業日
昨夜は久し振りにぐっすり眠れた。医師が心配していた鎮痛薬の副作用もなく、無事、授業も終えた。
2010年11月9日(火)ペイン・クリニック
この10日間、帯状疱疹の痛みで十分、寝ていない。明日は授業日のため、せめて夜、眠れる薬をもらおうと近大病院の麻酔科に出掛けた。外来診察日ではなかったが、診察してもらえることになった。行ってみて分かったのは、麻酔科では帯状疱疹の治療にも力を入れていることだった。取りあえずの注射と皮膚からの麻酔で痛みを抑え、飲み薬を処方された。後神経症を防ぐためには入院治療も考慮すべきかもしれないといわれ、明後日の教授診断で決定するとのことだった。もっと早く麻酔科に行くべきだった。
2010年11月8日(月)ReaD更新
10月末にJSTからReaDの登録情報の更新の要請が届いていた。昨年末に更新したのは「基本情報」だけで、「詳細情報」にはかなり不適切なものが残っていることに気がついた。パスワードを紛失したため時間が掛かったが、本日、気になっていた部分を修正して送信した。どれだけ役に立つのか分からないが、なるべく正確な情報を入力しておきたい。
帯状疱疹は快方に向かっているとはいうものの、依然として痛みが走る。とくに夜半に激しくなり、寝不足がちである。20年前に発症したときより症状がきついように思う。とても研究に取り組める状況ではない。情報更新のような機械的作業をするほかない。まだしばらくこんな状態が続くようでやりきれないが、どうしようもない。
2010年11月5日(金)文楽・錦秋公演
前売りで入場券を購入していた文楽劇場へ。まだ帯状疱疹が治らず、痛みが走るが、舞台を見ていれば痛みもまぎれるだろう。昼の部の中心は咲大夫の「日向嶋」。昭和34年、咲大夫の父の先代綱大夫が先代幸四郎と「日向嶋」を共演して話題になったが、その舞台は見ていない。というより、歌舞伎でも文楽でもいままで「日向嶋」を見る機会がなかった。前半は本行の「景清」と同様、みじめな景清を描く。よくぞこうした場面が大衆芸能のなかで残ったものだと思う。江戸時代の民衆はこうした場面をも楽しめる鑑賞眼があったといえよう。とはいえ最後はにぎやかにお召しの船でハッピーエンドと、まさに大衆芸能。いままで咲大夫には引っかかるものがあってのめり込めなかったが、今回は咲大夫の語る世界に浸ることができた。
幕間にロビーに出ると、一幕見客の長い行列ができていた。「近頃河原の達引」には、住大夫、寛治、簑助、と三業それぞれのトップが出演するからだろう。猿廻しの段では寛治の三味線を耳元で楽しんだ。ツレが孫の寛太郎というのも嬉しい。
夜の部の「熊谷陣屋」は珍しく「陣門の段」からの上演。歌舞伎でも文楽でも繰り返し見てきたが、本日の舞台には堪能できなかった。この後に「八百屋のお七」があるが、体調を考えて早めに帰ることにした。今回の公演では、咲大夫の「日向嶋」を記憶に止めておこう。
とにかく文楽は楽しい。今後も年2回、春秋の公演を床直下で見ていきたい。我が晩年のせめてもの贅沢である。
2010年10月30日(土)帯状疱疹の再発
この月曜日からときどき、ちくちくとした腹痛があった。登校日の水曜日には軽い悪寒もあったので、保健室で葛根湯をもらって飲んだ。木曜日夜に腹痛が激しくなったので、金曜日の朝から腸炎の治療薬を飲んでいた。しかし食欲も変わらず、下痢もない。温水シャワーで暖めると痛みが消える。腸炎にしてはおかしいと思っていたが、本日の朝になって腹の左側のあざが帯状疱疹と気づいた。痛みの位置が疱疹からかなりずれていたので、疱疹と腹痛とが結びつかなかったのだ。20年ほど前に帯状疱疹を患っていたので、再び発症するとは思わなかったが、20年もたつと免疫力はかなり低下するらしい。それに高齢で疲労・ストレスが溜まると発症しやすいとのことである。疲れやストレスがないとはいえないが、いつものことで急に何かあったわけではない。とにかくしばらくは研究のことも忘れてのんびりしよう。幸い、次の水曜日は祭日休校である。10日の登校日までには体調も回復するであろう。
2010年10月29日(金)興福寺特別公開と正倉院展
昼過ぎに近鉄奈良駅に着き、まず、興福寺北円堂へ。北円堂の前はなんども通っているが、公開の時期や時間と合わなかったため、中に入るのは初めてである。かの、無着・世親にも初めてお会いした。つぎに東金堂へ。先日、訪れたばかりだが、今回は後堂も拝観できる。つぎに五重塔へ。初層の中に入って四方仏を拝することができた。東金堂後堂も五重塔も初めての公開なので、先日のテレビ報道ではかなりの行列になっていたが、本日は双方とも待たずに入れた。
菊水楼の喫茶室で一休みした後、4時過ぎに奈良国立博物館に行くと、ここでも行列なしで入ることができた。金曜日は8時閉館なのでゆっくり見てまわる。案の定、「螺鈿紫檀五弦琵琶」が1番人気でケースに近づくには並ばなければならないが、後方からでも十分、鑑賞できた。当方にとっては道鏡などの自筆署名が印象的だった。歴史上の人物がそこに実在しているのだ。
2010年10月27日(水)授業日
2時限「論述作文」では4名の読書報告。前2回の授業を踏まえて、おおむね、まともな発表になってきた。3時限は大学院。4時限「科学技術史」では使ったことのない教材DVDを利用するつもりだったが、思ったように操作できず、受講生に迷惑を掛けた。授業の後で試みて、やっと使い方が分かった。現状では予めDVDを試用する余裕がない。今年度については、いずれ授業の理解に役立つ部分をまとめて見る時間を設定してみよう。
2010年10月26日(火)猫の点滴用品
家の外で面倒を見ている猫のシロを連れて、千代田動物病院へ。年1回の予防注射である。家猫のハナとノアは病院へ行くとなると必死で逃げ回るのに、シロは素直に袋に収まる。4ヶ月分の点滴セットを持ち帰るため、タクシーで帰宅。年金生活者にとってはかなりの負担だが、腎機能が崩壊しているノアは毎日の点滴だけで元気に走り回っているので、見捨てるわけにはいかない。
2010年10月22日(金)再び飛鳥へ
今回の主目的は飛鳥京跡と石舞台。近鉄・飛鳥駅を降りると駅前の広場に小中学生の団体がびっしり並んでいた。遠足の列に囲まれて歩いていくと高松塚に向かっていることに気がつき、慌ててもどる。猿石、鬼の雪隠、鬼の俎、亀石と、定番コースをたどったが、どこへ行っても小中学生が群れていた。遠足のピークにぶつかってしまったのだ。
川原寺跡の弘福寺では食事もできる。麦とろご飯で早めの昼食を取り、ゆっくりした後、いよいよ飛鳥京跡へ。通称は「伝飛鳥板蓋宮跡」とされているが、ここには浄御原宮、板蓋宮、それと岡本宮の跡が重なっており、現在見られる遺構は浄御原宮のものだという。それでも大化の改新の舞台とする方が観光客にアピールするので、「伝飛鳥板蓋宮跡」のままになっているらしい。事実この日も、女性連れが「大化の改新だよ」と感激していた。史跡といっても単なる原っぱだが、7世紀にはここが日本の中心だったと思うと不思議な気がする。
つぎは岡寺へ。坂道の登りは少々つらい。再訪することがあればタクシーで行くことになるだろう。重文の本尊、如意輪観音座像は塑像の仏像としてはわが国最大というだけあって迫力があった。
岡寺から周遊道をさらに登り、急坂を下って石舞台へ。驚いたことに、40年前とは様変わりしていた。以前は田舎道の傍らにあって自由に近づけたが、いまは大きく柵に囲まれて入場料を徴収している。観光バスの駐車場や食堂、売店も設置され、一大観光スポットとなっている。小峰元『ピタゴラス豆畑に死す』では主人公の高校生が石舞台で殺されるが、現状では無理な設定になってしまった。
石舞台の食堂で一休みしてから橘寺へ。観音堂の重文・如意輪観音に力強さを感じた。橘寺から国道に降り、菖蒲池古墳と丸山古墳に寄るのも止めて、ひたすら岡寺駅まで歩く。20分歩いて駅に着くと、ちょうど電車が出たところで、次は30分後。駅周辺にはなにもない。次からは飛鳥駅か橿原神宮前駅を拠点にしよう。飛鳥の状況がおおむね頭に入ったので、次は来春かな。
遊びほうけているので論文執筆がいっこうに進まない。やはり現役時代と比べて研究への執念が薄れている。ま、いいか。
2010年10月20日(水)授業日
2時限「論述作文」、3時限は大学院、4時限「科学技術史」と3コマ連続は少々つらいが、2日に分けるわけにもいかない。4時限終了後、1時間ほど休んでから授業関係の資料や郵送されたカタログ類を整理して帰宅。
2010年10月18日(月)転成ノートD135
ここのところ、ダーウィンとマルサス『人口論』との関係を再考している。ダーウィンが『人口論』第6版を読み始めた日(1838年9月28日)に記入した覚え書き(D134-135)は、自然選択説の着想を示すものとして有名だが、マルサスが説くのは部族間競争であり、自然選択説の核心である同一種内の個体間競争はマルサスにない。科学史の定説ではマルサスの刺激で個体間競争を着想したとされ、当方もユリイカ体験とみなしてきたが、釈然としない。Eノートでは明白に個体間競争を論じているが、D135で論じているのは種間競争ではなかろうか。DノートとEノートをじっくり読み直し、執筆予定の論文では一応の結論を出したいものだ。
2010年10月13日(水)授業日
2時限の「論述作文」は情報センターでパワーポイントの講習会。受講生の方から習いたいといったわりには遅刻が目立つ。3時限の大学院の授業は、講義と英文講読の併用でいくことにした。4時限の科学技術史は、進化論とキリスト教。授業最後に小テストを実施したが、まともな解答がかなりあったので、ほっとした。
2010年10月8日(金)飛鳥へ
なんとなく飛鳥は遠いと思い込んでいたが、河内長野駅から近鉄で1時間で行けることに気がついた。飛鳥を歩いたのは40年前。今年は飛鳥にも親しみたいと思い、出掛けた。天気予報では夕方から雨だが、早めに帰ればいいだろう。
橿原神宮前駅から殺風景な車道を歩いて剣池を過ぎ、住宅地を抜けて、まずは向原寺(豊浦寺)へ。なんと、昭和49年に盗まれた金銅観音菩薩像が先月、オークション・カタログから見つかり、同寺が買いもどして公開されていた。ご住職が当方一人のために詳しく解説してくれた。この像の頭部は江戸時代に近くの難波池から見つかったもので、飛鳥仏であるという。日本で最初の寺ともいわれる蘇我稲目の向原の家に置かれた仏像は、物部氏によって難波堀江に捨てられたと『日本書紀』に記されているが、この「難波堀江」は大阪ではなく、向原寺の近くにある難波池のことだろうという話にも興を引かれた。6世紀の事件が生々しく感じられる。さすがに飛鳥である。お寺の中に、発掘された豊浦宮跡の一部がそのまま保存され、見学できるようになっていた。飛鳥ぶらぶら歩きの初っぱなに貴重な体験ができた。
向原寺近くの甘樫丘に登って大和三山を眺め、飛鳥川を渡って明日香村文化財展示室へ。キトラ古墳の石室の原寸大模型が参考になった。水落遺跡から飛鳥寺、そして飛鳥坐神社へ。40年前も同じようなコースを歩いたはずだが、覚えているのは飛鳥寺だけ。当時は大仏を庭から拝観したように記憶しているが、自信はない。
昼食の取れる食堂があるか分からなかったので、コンビニでおにぎりを買っておいた。これを坐神社で食べてから、飛鳥資料館へ。この近くに食堂があった。資料館まで行きは広い道を通ったので遠く感じたが、帰りは近道で飛鳥寺前にもどり、県立万葉文化館へ。文化館の入り口にたどり着くのに、けっこう迷ってしまった。映像と模型が中心の展示には興味がなかったが、中庭の飛鳥池工房遺跡の復元模型が面白かった。文化館から酒船石に向かう予定だったが、道が分からない。飛鳥寺前にもどるとバス停に人が集まっていた。まだ3時過ぎだが、空も大分怪しくなってきたのでバスで橿原神宮前駅へ。バスに乗るとまもなく、雨粒が窓ガラスに当たり出した。
彼岸花の盛りは過ぎていたが、まだあちこちでまとまって見ることができた。来年の秋は最盛期に来たいものだ。石舞台や板蓋宮跡など、見るべきものがまだ残っているので、近いうちにまた出掛けよう。11月末投稿予定の論文執筆が進まないが、ま、いいか。
2010年10月6日(水)授業日
2時限の「論述作文」は3人の受講生の読書報告。春学期に学んだことをどれだけ活かしているが、3人3様であった。3時限の大学院の授業には新たな受講生が加わったので、授業計画を練り直さないといけなくなった。4時限の科学技術史の後、図書館に降りて論文執筆のための文献を少しだけ複写。
2010年10月5日(火)奈良町散策
朝はまず在木(ありき)カイロプラクティックで治療。この後、日本橋に出て文楽秋公演の切符を購入。体力と財力を考えて昼夜のどちらかにするつもりだったが、日向嶋も見たいし、熊谷陣屋も見たい。結局、昼夜ぶっ通しで見ることにした。座席はいつもの床直下の席を確保。
日本橋まで出たついでに近鉄で奈良へ。この秋は集中して奈良に行くことにしているが、本日は奈良町へ。奈良へは幾度となく出掛けているし、西大寺と新大宮に住んでいたこともあるのに、多分、奈良町を歩いたことはない。最近、よく話題になるし、この機会に訪ねてみることにした。猿沢池の脇を通り過ぎて、まずは元興寺へ。境内全体が萩の花で彩られていた。なかでも、発掘された石塔や石仏を並べた浮図田(ふとでん)が彼岸花と萩の花で囲まれているのが印象的であった。「ブッダ」の宛字に「浮図」があるとは知らなかった。国宝の禅堂が公開中であったが、その歴史的経過はややこしくてよくわからない。収蔵庫の国宝・五重小塔が見事だった。予備知識なしで出掛けたので、奈良町のガイドマップに元興寺が3箇所も出ているのに面食らった。大寺院であった元興寺が衰退した後、3箇所の構成部分が独立し、それぞれ「元興寺」を名乗っているということらしい。一般に知られている元興寺が、新聞などで「元興寺(極楽院)」と表記される理由がやっと分かった。
元興寺の後はぶらぶら歩き。同じように散策する老若男女も多かったが、繰り返し訪れてみたいとは思わない。物足りなさが残ったので、最後は興福寺にもどり、東金堂の薬師如来に詣でてから帰宅。天候もよく、それなりに充実した一日だった。
2010年10月1日(金)平城宮跡
昼過ぎに、遷都1300年祭の平城宮跡へ。混雑を覚悟していたが、意外と空いていて、「歴史館」にも待たずに入ることができた。並んでまで入館するほどの内容はないが、遣唐使船の実物大復元模型に乗ってその小ささを実感した。会場のあちこちでは10月8日の記念式典に向けた準備が進められており、工事現場のような雰囲気もあった。それでも復元された大極殿に登り、衛士隊の朱雀門閉門イベントを見物し、一応、楽しめた。
1977年3月に関西に越してきた当初は西大寺近くのアパートに住み、半年ほどで新大宮のマンションに移ったが、ときおり、なにもない平城宮跡の原っぱでぼんやり時を過ごしていた。そんなことを思い出す一日でもあった。
2010年9月29日(水)授業再開
2時限の「論述作文」では受講生の提出物を材料に手紙とメールの常識的な作法を教え、秋学期の予定を通知した。秋学期は各自の作成したレポートの発表を中心にする予定だが、受講生がパワーポイントを使った発表をしたいというので、急遽、情報センターによるPPT講習会を組み込むことにした。受講生の積極的な姿勢をよしとしよう。
秋学期は3時限に文学研究科の授業が組まれており、受講希望者もいるので、ヴィクトリア時代の英文資料を読んでいくことになろう。
4時限の「科学技術史」では中間テストの結果を解説した後、ダーウィンの話。ダーウィンについて3回の講義を予定しているが、本日のテーマはダーウィンの生涯とヴィクトリア朝。ダーウィンだけで28回の講義をすることも可能だし、そんなことをやってみたいとも思うが、当面は止めておこう。
2010年9月28日(火)授業準備
朝はまず、北野田の日野歯科医院で半年ごとの検診。おかげで歯はすべて健在である。この後、桃大へ行って明日の授業「論述作文」の準備。夏期休暇中にいくつか課題を出し、メールと郵便で提出させていた。これを整理し、教材に作成するのにかなりの時間が掛かってしまった。
2010年9月24日(金)その2 藤岡毅『ルィセンコ主義はなぜ出現したか』
大学の個人ポストに標記の著書が出版元の学術出版会から届いていた。2008年度に桃山学院大学大学院文学研究科で学位を取得した博士論文に加筆したもので、ルイセンコ問題に真っ正面から取り組んだ研究である。日本では科学史家も科学評論家もこの問題を敬遠してきた中で、貴重な業績といってよい。著者は「あとがき」の中で、「松永先生のおかげ」と書いてくれているが、正直、藤岡さんを通して日本の科学史に大きな貢献をすることができたという感慨がある。
2010年9月24日(金) 授業準備
気温低下への備えが足らなかったのだろう、夜明け前に寒さで目が覚めてしまった。寝付かれないままテレビをつけたら、ちょうどイチローが200本安打を打つところだった。
寝不足のまま、朝はまず、千代田動物病院に点滴廃棄物を持ち込み、狭山駅に回って散髪。桃大に行くと事務方や生協が授業再開の準備に追われていた。こちらは名誉教授室にこもって「科学技術史」のppt教材を大学のサーバーに転送し、春学期末に実施した中間テストを採点。満点の答案もあったが、全体としては惨憺たる結果である。これで成績評価が決まるわけではないので、受講生は準備していなかったのだろうか。学年末の試験の方法を考えなければならない。
2010年9月23日(木) 猫砂購入
祭日といっても定年退職者には実感がない。朝方は激しい雨だったが昼にはやみ、気温も一挙にさがった。特売の猫砂半年分を買いにコーナン泉北店へ。ついでに各種キャット・フードもまとめ買い。とにかくノアの好みがくるくる変わるので、食欲を維持するためさまざまなフードを用意しておかなければならない。腎機能が崩壊しているというのに、リンゲルの点滴だけでノアもよく頑張っている。
2010年9月22日(水) 教材見直し
この3日間は秋学期の「科学技術史」教材pptスライドの見直しに取り組んだ。前年度のものを大きく変えることはないが、余分なものを削除し、不十分と思われる部分を補足。時間の余裕があるので例年より丁寧に見直すことができたが、それでも秋学期14回のうち、前半7回分で精一杯だった。残り7回分は11月上旬に持ち越し。
2010年9月18日(土) 司書講習50周年記念講演会
桃山学院大学の司書講習50周年を記念する講演会に参加するため、桃山学院大学へ。バネリストは国立国会図書館の岡村光章氏、大阪市立中央図書館の小西和夫氏、それとアカデミック・リソース・ガイドの岡本真氏の3名である。絶妙の人選といえるだろう。講習関係者だけでなく、関西の図書館関係者の参加も多く、盛況であった。
パネリストの一人、岡本氏は、このHP開設時(2003年8月)にいち早く電子ジャーナルで紹介していただいた。記憶はされていないだろうが、講演会後の懇談会で挨拶した。
懇談会の最後にマイクが回されたので、司書講習は桃山学院大学で唯一、全国的にその存在を知られている部門であろうと話した。現役の教員であったら問題発言になりかねないが、退職者の発言なら差し支えなかろう。
名誉教授室の向かいの部屋が個人別ポストになっているが、『ジャーナル・オブ・ヒストリー・オブ・バイオロジー』の最新号(2010Fall)が届いていた。ダーウィンと「自然の経済」概念に関する論文もあった。このところ、なんとなくだらけた日々が続いているが、この論文を読むことからエンジンを入れ直すか。
2010年9月14日(火) 猫の点滴
千代田動物病院に点滴の廃棄物を持ち込み、不足してきた点滴グッズを購入。帰途、河内長野駅前で書店に立ち寄り、奈良の観光案内を立ち読み。異常な暑さも和らいできたので、そろそろ奈良に出掛けることを考えてみよう。
2010年9月13日(月) 査読報告
査読結果を執筆し、編集担当に送信。憂鬱な仕事を終え、ひとまずほっとした。
2010年9月12日(日) 講習教材削除
まだ疲労感が残っているが、ジャーナルをまとめて入力し、司書講習「専門資料論」の教材をHPから削除した。これで「専門資料論」とは来年の夏までお別れである。
2010年9月11日(土) 査読
昨日、頑張ったため、今日は疲労で何もする気にならない。ぼんやりテレビを見て過ごしたが、阪神タイガースが逆転負けでは気分も乗らない。それでも夕刻には疲労感も薄らぎ、依頼されている査読関連の資料になんとか目を通した。1週間前から断続的に読んできたが、これで打ち切り、結論をまとめることにしよう。
2010年9月10日(金) 司書講習「専門資料論」テスト
本日の講習の後半に最終テスト。試験の後、名誉教授室にこもって採点評価を終えた。広い相部屋にただ一人、深閑とした中での作業である。記入済みの評価表を投函し、遅い夕食を食べて帰宅したのは11時。久し振りにしっかり仕事をしたという気分である。
試験問題は予め通知し、解答のポイントも示しているので、完璧な答案も少なくない。しかし、白紙に近い答案も数枚あり、残念ながら今年も全員合格とはならない。
問題とは別に「学術における不正」について自由に書いてもらったが、その中にソーカル事件と関連づけて論じているものがあった。日本ではさしたる話題にならなかったソーカル事件を知っているだけでもたいしたものだが、それを学者の不正行為に結びつけて論じているのだからえらい。社会人対象の司書講習には、ときにこういうレベルの受講生もいる。
自由に書いてもらった中に、当方が楽しそうに授業をしているという感想がかなりあった。他大学からこの司書講習に出講されている先生方も、たいてい、本務校の授業より講習の授業の方が張り合いがあるといわれる。講習の受講生はお金と時間を費やして来ているので、真剣に話を聞こうとする。話していることが相手に届いているので、当方も知らず知らずに楽しそうになるのであろう。
2010年9月8日(水) 司書講習「専門資料論」4回目
台風9号の影響で各地に被害が出ているが、こちらはさしたる雨も降らず、いつも通りに講習を実施。本日は、百科辞典の話。毎年のことだが、「百科辞典」が正しい表記であって、「百科事典」という表記は平凡社の不適切な造語であると説明している。しかし、一般には「百科事典」が正しい表記と思い込まれていると付け加えなければならないのが残念である。
2010年9月3日(金) 司書講習「専門資料論」3回目
学術文献の話の最後にインパクト・ファクターの概要を説明しているが、その教材の一つとして『ネイチャー・ダイジェスト』4・5月合併号 掲載の編集部見解「Nature 論文選定に関する俗説」を紹介した。これは『ネイチャー』 (2010-02-18)掲載の"Nature's choices"の邦訳で、論点は二つある。一つは掲載論文選定に際してはインパクト・ファクターを配慮しないということ、他の一つは査読者が掲載不可と判定した論文でも編集部独自の判断で掲載することがあるということ。読者はこの見解に納得できるだろうか。シェーン事件に際しては、査読者が掲載不可と判断した論文を編集部が掲載したことも明らかになっているが、これはインパクト・ファクターを考えたためではなかったのか。編集部がこの件を反省している気配が見られない。いずれまた、同様の事件が起きるのではなかろうか。
2010年9月1日(水) 司書講習「専門資料論」2回目
本日の授業の後半は、「学術における不正」。その中で。厳密には学術文献の不正ではないが、古畑種基の血液鑑定捏造事件を紹介している。毎年、この話の時には教室が凍り付いたようになる。本日もそうだった。
2010年8月30日(月) 原稿送信
ここ3日間、「ダーウィン研究の展望」の文献注を作成していたが、ようやく終了し、原稿を添付で学術会議事務局に送信。予定通り、8月末締め切りに間に合わせることができた。文献注の作成は執筆というより作業に近い。それに研究室から運んだ文献が見つからないこともあり、確認にかなり手間取ってしまった。これで学術会議叢書の仕事は一段落。次は査読の件を優先的に片付けなければなるまい。
2010年8月27日(金) 学術会議叢書
夕刻6時に久し振りの雨。1時間ほど、けっこう強い降りで、この後、ぐっと涼しくなった。
ようやく学術会議叢書『ダーウィンの世界』(仮称)に掲載する「ダーウィン研究の展望」の本文を完了した。文献を記載すれば、ちょうど予定の40枚になるであろう。『学術の動向』3月号に掲載した内容を全体的に丁寧にし、マルサスの件などを加筆しただけなのに、8月一杯を要したとは時間が掛かりすぎているが、今の状況ではやむを得ない。秋になれば気力・体力も回復して、効率も上がることを期待しよう。
2010年8月25日(水) 司書講習「専門資料論」開始
桃大に出掛けるのは7月16日以来である。10時には大学到着し、教材データを大学のサーバーに入れたり、展示用の資料を図書館から借り出したりしているうちに昼。午後は3時間の授業。異様に暑い今年の夏に、連日、6時間の講習に出席している受講生たちも疲れが溜まっていることだろう。
当方も来週と再来週はそれぞれ2回の出講、学術会議叢書の作業もあるし、またしても某誌の査読を片付けなければならない。9月末に始まる大学の授業の準備もある。社会学部の紀要(北川教授退任記念号)への投稿も約束したことだし、いい加減に心身を奮い立たせなければいかんな。
2010年8月23日(月) 学術会議叢書
早くも学術会議叢書の原稿第一弾が送信されてきた。矢島道子さんの「ダーウィンと地質学」。いつものことながら、着実な仕事ぶりである。こちらも尻を叩かれた感じで執筆に取り組み、一応、本文を書き上げた。まだ補足が必要だし、文献注にも時間が掛かるが、今月中には送信できるだろう。
2010年8月21日(土) 買い物
昨夜、居間の蛍光灯(40W+32W)が突然、消えた。蛍光灯2本が同時に消えるとは不可解な気もするが、器具によってはこういうこともあるのだろう。外出は嫌だったが、バスで駅まで出て購入。近くのスーパーがなくなったため、ちょっとした買い物もバスで出なければならない。これを面倒と思わず、外出のよい機会と考えなければいけないのだろう。
2010年8月20日(金) 散髪
ほとんど家にいると身だしなみも気にならず、散髪にも行かなかったが、来週には司書講習への出講がある。ほっとくわけにもいかず、行きつけの理髪店まで出掛けることにした。ついでに難波に出ようと考えていたが、この暑さでいやになった。我ながら出不精になったものだ。
2010年8月18日(水) 作業再開
学術会議叢書の執筆を再開。あまり能率は上がらないが、やむを得ない。2日ぶりにメールをのぞいたら、学会関係の依頼メールが来ていた。うっとうしい気もするが、適度な刺激でもある。
2010年8月17日(火) 古代史
原稿に取り組む気にならないので、寝転がって昨日購入した新書を読む。大化の改新の真相など、専門家のいうことがさまざまなのが面白い。資料が限られている分野では恣意的解釈が避けられないのだろう。
2010年8月16日(月) 久し振りの外出
19日振りにバスで駅まで出て、千代田動物病院へ。連日の暑さで外出する気にならないが、老猫たちの点滴グッズが不足してきたので出掛けざるを得ない。ついでにキャット・フードを購入して、本屋に立ち寄る。気楽に読める日本と中国の古代史の新書版を数冊、購入。
新書版の棚を見ていて、ふと考えた。自分も新書を書けばよい。テーマはいくらでもあることだし、秋になったら着手してみよう。
2010年8月9日(月) 学術会議叢書の執筆に着手
南方の台風の影響もあるのだろうか、午後は雨が降ったり止んだり。気温はいくらか下がったようだが、湿度が上がって暑苦しさは変わらない。
ここ数日はダーウィンとマルサスに関する文献を読み直していたが、一旦中断。学術会議叢書『ダーウィンの世界』(仮題)の執筆に着手することにした。『学術の動向』3月号に掲載した「ダーウィン研究の展望」を基礎にして内容を拡充し、文献を記載する予定だが、8月末までには余裕を持って終えられるだろう。ただ余裕があるのも善し悪しで、暑さもあるし、なんとなくまだ気合いが入らない。
2010年8月3日(火) 週刊『国宝の美』最終巻
夕方6時に激しい夕立。いくらか涼しくなったところで福岡医院に出掛け、健康診断の結果を聞く。血液検査の結果もすべて問題なし。
夕刊とともに週刊朝日百科『国宝の美』の最終巻、第50巻「歴史資料」が届いた。昨年8月からほぼ毎週火曜日に届くのが楽しみだった。各巻とも一般書にしては専門的な解説が盛り込まれており、なるほどと思う情報も多かった。ただし、じっくり読んだ巻もあれば、さっと目を通しただけの巻もある。それでも国宝の全体像はある程度把握できたと思う。しかし国宝制度の歴史や指定の手順、指定件数など、概説的なことがどこにもない。これは編集ミスといってもよいのではないか。
ほとんど読まなかった巻の一つが第43巻「刀剣」である。国宝1,081件のうち日本刀が100件以上で、日本の陶磁器は5件というのは納得しかねる。逆であってもおかしくない。国宝指定の歴史的な経過があるのだろうが、大部分の国宝・日本刀は通常の重要文化財で十分ではなかろうか。
2010年7月29日(木) 学術会議叢書『ダーウィンの世界』の予告
ようやく学術会議叢書17『ダーウィンの世界』(仮題)の作業に着手、といってもまずは古い文献を読み直すことから始めている。気分的に余裕ができたのでインターネットであちこちのぞいていたら、日本学術協力財団のニューズ・レター7月号に同書の予告が大きく掲載されていた。しかもその中に「今回の叢書17の作成に当たっては、ダーウィンにつきましてご見識の高い桃山学院大学名誉教授の松永俊男先生が、全体の構成を含め編集をお引き受け下さいましたので、大変内容の充実したものとなると思います」とある。予想外のことなので、いささか驚いた。今回の場合、執筆者と内容は予め決まっているので編集者としてなすべきことはあまりないだろうが、とにかく気を引き締めていこう。
2010年7月28日(水) たまの外出
まず千代田動物病院でネコたちの薬をもらい、西友でキャット・フードを購入。河内長野駅にもどって本屋に立ち寄り、バス停に行くとちょうど帰りのバスが出るところだったので飛び乗ったが、出発してから気がついた。かなりのどが渇いている。最近は熱中症対策の話をよく聞く。このままバスに20分乗り、10分歩くのは危険かもしれない。三日市町駅前で途中下車し、喫茶店に飛び込んたっぷりと水分補給。ついでにスポーツ新聞で阪神タイガース首位奪取の記事を熟読。
今日はここ数日の異常な暑さほどではないが、それでも帰宅後、何もする気にならない。学術会議分科会の活動報告を送信し、このジャーナルを書いたら、本日は閉店。
2010年7月27日(火) 学術会議活動報告
学術会議叢書の作業に着手しようとしたその瞬間、学術会議事務局からのメールが届いた。分科会の活動報告を執筆せよというのである。何という間の好さか、あるいは悪さか。昨年12月5日のダーウィン・シンポは「科学史上の重要理論の現代的影響検討分科会」が準備し、当方が委員長を務めたが、今年の1月末で廃止されている。しかし「現在廃止されている分科会等についても平成21年10月から22年9月の間で活動があれば原稿執筆の対象となります」とある。叢書の作成があるので実質的に分科会の活動が続いているともいえるし、ダーウィン・シンポについてはきちんと報告しておくべきだろう。締め切りは8月24日だが、さっさと片付けてしまいたい。一通り書き終えたので、明日、見直して問題がなければ送信して終わり。
2010年7月26日(月) 司書講習準備完了
朝食抜きで健康診断のため福岡医院へ。まだ8時なのに15分歩いただけで汗だくになる。診断は30分で終わったが、血液検査は外部発注なので結果は後日。
遅い朝食をとってから、司書講習事務室に「専門資料論」の試験問題と配付資料印刷原稿をメールの添付で送った。昨年までは間違いがないように、直接、事務室に持参していたし、今年もそうするつもりだった。しかし、この暑さ。出掛けるのがおっくうになった。事務方がしっかりしているので、メール送信でも間違いは起きないだろう。これで司書講習の準備は完了。学術会議叢書の作業に取りかかることにしよう。
2010年7月24日(土) 教材転送
講習用に作成したパワーポイント教材のうち主要なスライドは印刷配布するが、スペースの関係もあって、すべては印刷していない。そこで受講生の便宜のため、パスワード付きPDFに変換したものを、この個人HPで提供している。その転送の作業がなかなかうまくいかない。マニュアルやヘルプを何度も見直して、ようやくその原因が分かった(と思う)。来年は簡単にやれるだろう。
本日の夕刊に東大工学部のセルカン・アニリール事件の続報が掲載されているのを見て、これを「学術の不正」の教材に入れていないことに気付いた。深刻というより、笑ってしまう不正だが、今年の絶好の話題である。急いでスライドを作成、追加した。
2010年7月23日(金) 司書講習教材作成
水曜日からの3日間は司書講習「専門資料論」の教材作成に取り組んだ。この科目の授業は8月末に始まるが、教材印刷を依頼する都合もあるし、8月は学術会議叢書の執筆に集中したいので、早めに片付けることにした。教材作成といっても例年と大きく変わることはないのだが、うっかりすると、紹介する資料の冊子体が廃止されてデータベースだけになっていたりするので、一通り、現状確認する必要がある。インターネットでさまざまな資料の状況を点検するのに、けっこうに時間が掛かってしまった。
2010年7月19日(月) ついにケータイ
とうとう携帯電話を持たされる羽目になった。ところが今は機器を買ってもマニュアルが添付されていない。パソコンなら馬鹿丁寧な解説書が付いてくるのに、ケータイはだれもが知っているので添付する必要がなくなったのだろうか。しかしこちらはケータイ初心者なので、使い方がほとんど分からない。あまり使う気がないものの、基本的な使用法ぐらいは添付してほしいものだ。
2010年7月18日(日)その2 翻訳語「優生学」の提唱者・建部遯吾(訂正)
夜になってメールを見たら、鈴木善次さんから記憶修正の連絡が入っていた。柴谷他編『講座 進化② 進化思想と社会』(東大出版会、1991)の中で鈴木さんが分担した「進化思想と優生学」(pp.97-117)で、「ユーゼニックス」を「優生学」と訳したのは社会学者建部豚吾のようである、と紹介し、建部の「小引」も引用していたとのこと。書くべき人が書いていたのだ。しかし執筆者本人が忘れていたのだから、先のジャーナルで「誰もこのことを書いていない」と記したことは許してもらおう。
それにしても社会学の御大が「優生学」の造語者だったとは興味ある。建部はいつ、どのような形でこれを提唱したのか、知りたいものだ。
2010年7月18日(日) ラブリーホールで木管五重奏
昼過ぎにバスでラブリーホールへ。トイトイトイ・クインテットという女性ばかりの木管五重奏である。「カフェ・コンチェルト」と称するこのホールのシリーズの一つで、前売りなら1,500円でケーキセットが付く。当方は急に気分転換したくなっての当日売りなので、ケーキセット無し。木管五重奏を聞くのは初めてだと思うが、思いの外楽しかった。ケーキが無くても1,500円なら安いものだ。ただ、後半に、カルメン抜粋、トルコ行進曲(モーツアルト)の編曲、日本の歌メドレー、そしてサウンド・オブ・ミュージック抜粋とイージーな曲が続き、いささか食傷気味。コンサートの性質上やむを得ない選曲なのだろうが、もう1曲ぐらいは本格的な五重奏曲を聞きたかったな。
2010年7月16日(金) 『種の起源』注釈版
桃大図書館から借りだして家に置いていたJames T. Costa編『種の起源』注釈版(2009)を持って大学へ。授業日に持ち運ぶには重すぎるので、わざわざ返却のため、運んでいった。
同書のように徹底的に注を施した『種の起源』の翻訳を出したいと考えていたこともあり、同書を手にしたとき、やはりこういうものが出たかという思いがした。完成するまでには大変な手間暇が掛かったであろう。しかし同書の内容は期待はずれであった。まずは巻頭のヒューエル『ブリッジウォーター論集』からの引用に付した注に、「『ブリッジウォーター論集』9編のうちの第3編」とあるので、がっかりした。『ブリッジウォーター論集』は全8編であって、後日、バベッジが勝手に第9編を名乗った本を出版したのである。その一方、「まえがき」の「神秘中の神秘」についての注では、この語を用いたライエル宛のハーシェルの手紙はバベッジの『ブリッジウォーター論集』第9に掲載されていたことが記されていない。ほかにも数箇所、参照してみたが、有益な注はなかった。
一般読者を意識しているのかもしれないが、専門家にも役立つ注がほしかった。
2010年7月15日(木) 翻訳語「優生学」の提唱者・建部遯吾
10日に書架を整理したおり、鈴木善次『日本の優生学』も探し出して前面に取り出しておいたが、なんという偶然か、12日に鈴木善次編『日本の優生学資料選集』(クレス出版)の解説部分のコピーが送られてきた。ユングなら、単なる偶然の一致ではないというだろう。
この件で思い出したのが、建部遯吾(1871 - 1945)のことである。東大社会学の教授(1901 - 1922)だった建部は、『優生学と社会生活』(1932)の巻頭の「小引」で、「優生学」は自分が提唱したと述べている。少し長くなるが、この部分を引用しておこう。
ユウジェニックス研究の初めて起つたとき、我が国の学会では、人種改善学、人種改良学から、優種学といふ名称に進んだ。恰も講者は同学諸氏と社会学の術語を制定するの調査事業を進めつゝあつた際で、講者が用ゐ来りつゝあった「優生学」が議定された。幸運にもそれが医学、理学方面の学者達からも採用され、竟に一定されたのが本書及同列系書の学名である。講者は茲に一種の欣悦と責務とを感ずる。
これを読む限り、「優生学」は建部遯吾の造語であることが間違いなさそうである。鈴木善次『日本の優生学』では、「優生学」を用いた早い例として丘浅次郎『最新遺伝論』(1919)を挙げているので、建部はそれより前に提唱していたはずである。調べた限りでは誰もこのことを書いていないので、ここに記しておきたい。本来ならペーパーにまとめるべきだろうが、そのためには日本の社会学の初期の文献を読みあさらなければならない。とてもその余裕はないので、どこかで研究課題になることを期待したい。
2010年7月14日(水) 春学期の最終授業
大雨警報の中、桃大へ。和泉中央駅に着いたころには雨もあがっていた。これで梅雨明けだろう。「論述作文」では、秋学期の授業のため、いくつか課題を出しておいた。「科学技術史」では中間テストを実施したが、予想以上に成績が悪い。同じことを何度もしゃべるわけにいかないし、さて、どうするか。
2010年7月12日(月) 新刊書
シロの歯石除去のため、朝、千代田動物病院へ。治療の終わる夕方まで時間があるので、まずは難波のジュンク堂へ。この店もオープン当時は専門書が充実していたが、今は科学史や科学哲学の本をほとんど置いていない。時間があるので梅田に回り、曾根崎署の並びの旭屋へ。出版不況といいながらも、読みたい本、読むべき本がいろいろ出ている。購入したのは講談社学術文庫の1冊だけだったが、立ち読みするだけでいい刺激になった。
最近出版された本でダーウィンに触れているものをいくつか見てみたが、相変わらず神学部出身としている。この神話、いつまで続くのだろうか。野口英世神話と同様、消えることはないのか。
2010年7月11日(日) 科学者の不正
昼過ぎ、団地の自治会館で参院選の投票。帰宅後、司書講習「専門資料論」のPPT教材「不正」の修正に取りかかる。『科学のミスコンダクト』に基づいてスライドの一部を手直しした。さらにインターネットで最新情報を確認したところ、東北大総長の捏造疑惑が今月になって裁判沙汰になったことを知った。これからどうなるか、注目したい。2004年の理研事件についても今年の4 月に和解が成立し、理研のホームページからこの件についての発表が削除された。今後、この件について調べようとすると、余分な手間が必要になってしまった。
科学史の立場からは、野口英世の事例が気になる。野口の生前の名声は数々の伝染病の病原体を発見しことによるが、没後、その発見がすべて間違いであることが判明した。細菌学の手法でウイルス病を研究していたのだから、病原体を発見できるはずがなかったのだ。したがって野口を偉大な医学者として讃える根拠も消えた。そのことを指摘するホームページも少なくないが、野口についての記述の多くは生前の名声を強調し、間違った病原体発見については触れないでいる。このような人物紹介自体がミスコンダクトであろう。結果が嘘でも有名になれば勝ちか。野口英世が偉人伝から消えない限り、日本における「科学のミスコンダクト」防止が成功することはないだろう。
2010年7月10日(土) 書架整理
『科学のミスコンダクト』を読んだついでに、この夏の司書講習「専門資料論」で取り上げる「学術文献の不正」の教材を作成し直そうと考えたが、あるはずの参考資料が見つからない。二重、三重に詰め込んでいる書架のどこかにあるはずだ。覚悟を決めて、書架の本を一旦取り出して入れ直す作業に取りかかった。不正関係の資料も十数点出てきた。ほかにも見つからなかった資料がいくつか出てきた。まだ整理が完了したとはいえないが、とりあえずはこれで仕事を続けよう。
2010年7月9日(金) 『科学のミスコンダクト』その2
朝からかなりの雨、風も吹いているので外出に躊躇したが、ハナの常食(消化器サポートの輸入食)を受け取る必要もあるので、昼前に思い切って出掛けることにした。まずロイヤル・ホームセンターでキャットフードを購入、南海電車で狭山駅に行き、行きつけの理髪店で散髪。帰る時には雨もあがっていた。
帰宅後、『科学のミスコンダクト』全編に目を通す。目的は二つ。一つには、学術会議叢書17仮題『ダーウィンの世界』編集の参考にするため。二つには、司書講習「専門資料論」で取り上げる「学術文献の不正」の参考にするため。しかし編集の参考にはならなかった。同書の熱心な読者がいるとすれば、学協会でこの問題に関わっている研究者だけであろう。一般読者のことはまったく念頭にない。また、具体的な不正の事例について踏み込んだ議論は無く、一般論に終始しているので、講義の材料にもなりにくい。本書は、学術会議もこの問題に積極的に取り組んでいますとアピールするためのものといってよいだろう。
2010年7月7日(水) 『科学のミスコンダクト』
春学期13回目の授業日。来週が最後のまとめの授業になるので、本格的な授業は本日が最後になる。休憩時間に図書館で学術会議叢書13『科学のミスコンダクト』を借用。
『科学のミスコンダクト』という書名を見て、科学者の不正行為についての本だと分かる読者はごくわずかだろう。この分野の専門家たちは「ミスコンダクト」という用語を使うが、巻頭言を書いている黒川清学術会議議長自身、一言も「ミスコンダクト」とはいわず、「不正行為」を用いている。「不正行為」という言葉の語感が厳しいので当事者たちは避けたのか。「退却」を「転進」と呼び、「敗戦」を「終戦」と呼ぶのと同じことかもしれない。
2010年7月6日(火) FIFA談義
朝はまず在木(ありき)カイロプラクティックで治療。在木さんは高校時代からサッカーを続けているので、今回のFIFAも専門的な目で見ている。話題の中心は、もちろん、日本チームがどうして急に強くなったのかということ。それにしても、勝てば官軍、結果が全てというスポーツの世界の厳しさを思い知らされる事態であった。
この後、廃棄するハナとノアの点滴済み器具を千代田動物病院に運び、西友でキャット・フードを購入。ネコの世話に振り回される日々である。
2010年7月1日(木) 猫の半日入院
庭で面倒を見ているシロの健康診断のため、朝、千代田動物病院へ。夕方まで時間があるので、1ヶ月振りに難波に出た。ジュンク堂に立ち寄り、丸井でカジュアル・バッグを購入、平日の昼間でもけっこう、人が出ている。高島屋の美術画廊で目に肥やしを施してから千代田にもどり、シロを連れて帰宅。一部に気になる数値があるものの、まずは健康といってよいようだ。
2010年6月29日(火) ダーウィンとメンデル
このところ、ダーウィンの遺伝論に関する論文をいくつか読んでいるが、遺伝学史のオルビーがケンブリッジ・コンパニオンのシリーズに掲載した解説の中で、「仮想の第6版」という小見出を立てて、ダーウィンがメンデルの論文(1865)を読んでいたら『種の起源』第6版は変わっていたかを考察している。ダーウィンがメンデル論文を知っていたら生物学の歴史が変わっていたはずだという説は、高校以来、なんどか目にしてきたように思う。昨年12月の学術会議ダーウィン・シンポでもフロアから同様の質問があった。
高校生の頃は単純にその可能性を信じていたが、科学史研究に転じてメンデル論文を実際に読んでみると、いかにも本格的に物理学を学んだメンデルらしい論文で、当時の生物学者には理解困難であったろうと思われた。ダーウィンがドイツ語のメンデル論文を目にしたとしても、途中で放り出してしまったろう。仮に論文の内容が理解できたとしても、同論文の扱うエンドウの遺伝形質は、ダーウィンが進化の素材とみなしている微小な変異ではないので、進化論と結びつけて考えることはなかったろう。事実、1900年以降、ダーウィニズムの支持者はメンデル遺伝学を認めなかった。オルビーは、ダーウィンも同じ態度を取ったはずだと見ている。
当初、メンデリズムとダーウィニズムとが対立していたことは、拙著の中でも繰り返し指摘してきたことである。この事実から、ダーウィンもメンデルを認めなかったはずだと説明すれば説得力があっただろう。
2010年6月26日(土) 『理科教室』7月号
拙稿「西洋思想における人間と生物」を掲載した雑誌『理科教室』が届いた。理科の先生方の研究会(科学教育研究協議会)の月刊誌である。この号の巻頭には、かの板倉聖宣氏の理科授業論もあった。それはさておき、ざっと通読するだけでも理科教育に掛ける理科教員の熱意には感服する。
2010年6月25日(金) 学術会議叢書17『ダーウィンの世界』(仮題)
標記の共著の出版については3月に打診があり、5月には決定したはずなのだが、執筆依頼は今日になって届いた。編集を担当することになっているので、気合いを入れ直して取り組もう。
2010年6月19日(土) 「生命の木とダーウィン」2題
J. Hisory of Biology. 42巻(2009年)に、ダーウィン以前の「生命の木」(tree of life)に関する論文があるので、3日前から、まずはこの言葉自体について確認する作業をしてきた。これに関連して気付いたことを2題を記しておこう。
1.ピーター・シス『生命の樹』
生物学の関係者にとっては、「生命の木」(tree of life)といえば系統樹のことである。ダーウィンも「転成ノート」で数回、この言葉を用いている。しかし一般には別の意味で用いられることが多い。旧約聖書「創世記」には、エデンの園の中央に「知惠の木」と並んで「いのちの木」(tree of life)が生えていると記されている。聖書に限らず世界の神話などで活力の源泉としてしばしば樹木のイメージが用いられ、それが広く「生命の木」と呼ばれることがある。
日本人でも「知惠の木」といえばエデンの園を思い浮かべるくらいだから、キリスト教圏の一般の人々にとっては、「生命の木」とはエデンの園に生える木なのではないだろうか。そう考えると、ダーウィンの伝記絵本として有名なPeter
Sis, The Tree of Life (2003) のタイトルは挑発的ではなかろうか。タイトルから聖書の話かと思ったら、創造論者にとっては悪魔のごときダーウィンの伝記なのである。著者はそれを意図してこのタイトルをつけたのかもしれない。
2.ロジャー・クック(植島啓司訳)『イメージの博物誌15- 生命の樹- 中心のシンボリズム』平凡社 1982
標記の書の冒頭に訳者解説があり、それは次の文で始まっている。「チャールズ・ダーウィンの行なったもっとも奇妙な実験の一つに、ミモザを前にしてバスーンを演奏する、というのがある。ダーウィンは幾度もその木管楽器を手にミモザに近づき、繊毛のはえた葉を注意深く観察したが、思うような結果は得られなかった」。
訳者の植島が何を出典にしているのか分からないが、この話の元は、フランシス編『生涯と書簡』第1巻(149-150)でフランシスが語る次の逸話に違いない。
He was just to his theories, and did not condemn them unheard; and so it happened that he was willing to test what would seem to most people not at all worth testing. These rather wild trials he called "fool's experiments," and enjoyed extremely. As an example I may mention that finding the cotyledons of Biophytum to be highly sensitive to vibrations of the table, he fancied that they might perceive the vibrations of sound, and therefore made me play my bassoon close to a plant.*
この文には下記の脚注がつけられている。
* This is not so much an example of superabundant theorising from a small cause, but only of his wish to test the most improbable ideas.
植島の引用とは違い、バスーンを吹いたのは息子のフランシスであり、植物はMimosa(オジギソウ)ではなくカタバミ科のオサバフウロ(Biophytum)である。もっと重大な違いは実験の目的である。植島の解釈ではダーウィンは植物も音楽に反応することを証明しようと必死になっていたことになるが、フランシスによれば空気振動に反応しないことを確認するための自称
「愚か者の実験」であった。ダーウィンはこんなところでも、ゆがんだ形で利用されていたのである。
なお、ダーウィンはMimosa(オジギソウ)について実験を重ねているが、これをそのまま「ミモザ」と訳している例がかなりある。しかし通常、オジギソウのことをミモザなどといわないだろう。日本語で「ミモザ」といえば庭木に用いられるギンヨウアカシアのことである。少なくともダーウィンの著作については、Mimosa は「オジギソウ」と訳すべきであろう。
2010年6月13日(日) J. Hisory of Biology. 42巻(2009年)
退職に際して創刊号から第41巻(2008年)までは桃大図書館に寄贈していった。42巻を寄贈する前に、内容を点検して読むべき論文と書評は読み、書誌データを記録しておかなければならないので、数日前からそれに取りかかっている。
1968年の創刊以来、ダーウィン研究では中心的な役割を担い続け、現在は年に4号を刊行しているが、ダーウィン年の昨年、ダーウィン特集号を出すことはなかった。毎号のようにダーウィン関係論文が掲載されるので、改めて特集号を出す必要はないということなのだろう。あるいは、2005年の第38巻第1号「ダーウィン革命特集号」こそ、ダーウィン年にふさわしい特集号だったとみることもできよう。
42巻に読むべき論文かまだあるのを確認したので、まずこれを読んでしまおう。
2010年6月12日(土) ラフリー・ホールでオペラ「蝶々夫人」
河内長野市支援事業のため2000円の座席もあるので、出かけることにした。蝶々夫人は関西二期会の畑田弘美、演奏は大阪交響楽団。「ミラノ初演版をもとのしたオリジナル改訂版」と銘打っているが、なにしろ「蝶々夫人」を舞台で見るのは初めてなので、現行版との違いを論じることはできない。テレビ中継などで見ると舞台に日本家屋が設置されていることが多いと思うが、今回は舞台中央に広い板敷きが置かれ、これが畳の日本間となっている。オリジナルな演出なのかどうか分からないが、能楽を見慣れていると違和感はない。日本家屋を変に使われるより増しだと思うが、外国の観客には不親切かもしれない。
岡村喬生が「蝶々夫人」の日本誤認歌詞を正すべきと主張し、たとえば伯父のボンゾが「蝶々さん」と呼び掛けるはずがないので、「蝶々よ」に直すといっている。しかし、そもそも日本の女性の名前として「蝶々」なんてありるだろうか。登場人物の会話にしても、ここは本来、英語か日本語かと考えていくと辻褄が合わなくなる。ピンカートン夫人が軍艦に同乗して日本に来るなんてこともあり得ない。他の多くのドラマと同様、これは現実の日本の話ではなく、誰もがイタリア語をしゃべる架空の世界の話として楽しめばよいのではないか。
とにかく今日は、天井桟敷からではあるが、プッチーニの世界を楽しんできた。
2010年6月9日(水) 授業日
2時限の「論述作文」の読書報告は、先週より改善されてきた。4時限の「科学技術史」はコペルニクス。本日は授業終了後、直ちに帰途につき、狭山駅前の行きつけの理髪店で散髪。
2010年6月8日(火) 計画変更
またしても、unwell。夜になってダーウィンの変異研究について検討してみたが、研究ノートのレベルでまとめるにしても、かなりの文献探索が必要になりそうである。学術会議叢書の原稿執筆を優先した方が無難であろう。
2010年6月7日(月) 授業準備
昨日までの3日間、猫の世話以外、何もしていない。言い訳するならば、体調が悪い。言い訳するって、誰に対してだ。自分に対してか、世間様に対してか、お天道様に対してか。それはとにかく、本日は気力体力が回復したので、「科学技術史」のパワーポイント教材に取り組んだ。昨年度のものを修正し、受講生の提供するため一部をPDF化するのだが、春学期の最後の授業分まで済ませることができた。
2010年6月3日(木) 声が出ない
昨日も声が出にくかったが、なんとか授業はこなせた。今朝はほとんど声が出ない。福岡医院で見てもらうと、のどが乾燥しきっているという。熱もなく、体は動くので、今日一日は書きかけで溜まっているジャーナル原稿を整理し、アップすることに費やそう。
2010年6月2日(水) 授業日
2時限の「論述作文」では、今回から受講生が読書報告をワープロで作成し、順に口頭発表させることにしているが、毎年、多くの学生がワードの初期設定のままで作成してくる。予め初期設定を変えろと注意しているのに、「ワードではこのようにしか書けないのです」と確信を持って抗弁する。中途半端にワードを使っているので、ワープロソフトはどのような文書でも作成できるという認識がないようだ。
4時限の「科学技術史」の本日のテーマは、「錬金術」。さまざまな図を紹介したが、どれだけ興味を持ってくれたろうか。
帰宅時に和泉中央のヤマダ電機と北野田のダイエーで各種のキャット・フードを購入。ノアの好みが日によって変わるので、とにかくいろんな種類のフードを用意しておかなければならない。
2010年6月1日(火) ザ・シンフォニーホール
大阪に来て33年になるというのに、フェスティバル・ホールにもシンフォニーホールにも行ったことがない。前売り切符を買って肥後橋、あるいは福島まで出かけるのが億劫で、今日になってしまった。文楽劇場なら少しも億劫でないのに、それだけクラシックへの関心が薄いということか。フェスティバル・ホールは閉鎖されたので、シンフォニーホールには行かなくてはと、出かけた。
外出ついでに、まずは国立国際美術館「ルノワール」展へ。日本で人気ナンバー・ワンの画家だけに平日でもかなりの混み具合であった。和泉市久保惣記念美術館が所蔵する「花飾りの女」は東京会場だけの展示で、ここには出ていない。久保惣美術館では西洋絵画の部屋もかなり暗いが、ここは煌々たる照明。久保惣としては長期にわたって貸し出すのがつらいのだろう。
シンフォニーホールには早めに行き、6時開場と同時にインターネット予約した切符を購入して中に入った。さすがにクラシックの専用ホールらしい格式が感じられた。座席は舞台の横の2階席、第一バイオリンを見下ろす位置であった。舞台の後ろにまで座席のあるホールは初めてだが、最近は珍しくないらしい。
チラシなどでは今日の演奏会を「コバケンの英雄」と銘打っている。コバケンこと小林研一郎指揮で大フィルによるベートーヴェンの「英雄」である。その前に新人の水谷桃子のピアノでモーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」があった。正直いうと、この間の40分は疲れも出たのか、ほとんど寝ていた。そのおかげで「英雄」のときは気分もさわやかに、大編成の音をしっかり受け止めることができた。コバケンは「英雄」演奏直前のプレトークでベートーヴェンへの熱き思いを語っていたので、アンコール曲もベートーヴェンの小品だろうと予想していたら、ドヴォルザークの「ユーモレスク」であった。コバケンによれば、この曲にはベートーヴェン的要素がつまっているという。
この後、コバケンのピアノ伴奏で「ふるさと」を全員で歌うことになった。演奏会のスポンサーであるオービックの社長が今日から日経新聞で「私の履歴書」の連載を始めたという。歌詞の3番「志を果たしていつの日にか帰らん」をとくに心を込めて歌って欲しいとコバケンはいう。スポンサーへの胡麻すりだが、自分も3千円という料金でベートーヴェンを聴くことができたのだから、よしとしよう。それにしても、こういうことをやるコバケンという指揮者は面白い。
シンフォニーホールにも年に一二回は出かけたいものだ。
2010年5月30日(日) ジェームズ島のダーウィン
ダーウィンについてのガラパゴス神話批判で中心的な仕事をしているフランク・サロウェイも繰り返しガラパゴスで現地調査を行っているが、その最終報告「のろまなゾメウガとダーウィン-ガラパゴス神話」(J.Hist.Biol., 2009)で、ジェームズ島におけるダーウィンの足跡を追っている。この論文とグラントらの著書、それにダーウィンの『航海日誌』をもとに、ジェームズ島におけるダーウィンの足跡をまとめておこう。
ダーウィンはガラパゴス最後の上陸地であるジェームズ島に、1835年10月8日から17日までの10日間、滞在した。
10月2日にアルベマール島を離れたビーグル号は、逆風のため、ようやく8日にジェームズ島に到着した。ダーウィンと士官のサリヴァン、軍医のバイノー、ほか3名が上陸し、ビーグル号は飲料水と食料を補充するためにチャールズ島に向かった。ダーウィンらは上陸地点(島の西岸)にテントを張ったが、近くにはチャールズ島から派遣されたスペイン人(ダーウィンの表現)の拠点もあった。かれらはゾメウガと魚を捕獲して塩漬けにし、チャールズ島に持ち帰るのである。チャールズ島ではすでにゾメウガが食べ尽くされていた。
上陸翌日の9日にダーウィンは島の頂上に向かい、スペイン人がゾメウガ狩りの拠点にしている小屋まで行って、帰った。島の低地は乾燥しているが、高地は湿っていた。11日にはスペイン人のボートで、6マイル南にある塩湖を見物しに行った。
12日は寝具を持って山を登り、小屋に泊まって13日にもどった。山での食料はもっぱらゾメウガである。山道を登っていくと、頂上近くの水飲み場に行くゾメウガの行列と、飲み終わって低地にもどる行列にであった。水飲み場に着いたゾメウガは、泥水をがぶ飲みしていた。サロウェイは今回の論文で、このゾメウガの水飲み場が現在のどこに該当するかを確かな証拠によって確定したという。
さて、ダーウィンは14日からキャンプ周辺で標本収集に励んだ。この間に、飲料水を得ていた海岸近くの井戸が波に洗われ、使えなくなった。ダーウィン一行とスペイン人たちは命の瀬戸際に追い込まれたが、幸い、通りかかったアメリカの捕鯨船が水3樽を提供してくれた。イギリス人には見られないアメリカ人の気の良さにダーウィンは感激した。17日にビーグル号がもどり、ダーウィン一行も乗船し、20日にガラパゴスを離れ、タヒチに向かった。
いずれ、こんな調子で他の島でのダーウィンについても、まとめておきたいと思う。しかし、しばらくは初期の変異研究のテーマに取り組みたい。
サロウェイは今回の論文の最後で、いまだにガラパゴス神話に固執する研究者は、ダーウィンのノートを誤読していると批判している。マネシツグミに関する鳥類ノートの有名な一節、I must suspect they are only varieties. の suspect は、「ではないかと思う」という意味であって、「疑う」の意味ではないという。
さらに、ガラパゴスで現地調査した実感として、こんなに過酷な環境下では種の起源について考える余裕などないという。現地におもむいた研究者の発言なので、説得力がある。
2010年5月27日(木) ガラパゴスのダーウィン
午後になって昨日持ち帰ったダーウィン本に目を通した。二人の著者はガラパゴスの研究所に居住するナチュラリストで、本書の最大の特徴はガラパゴス諸島におけるダーウィンの足跡を克明に追跡していることである。
ガラパゴスの研究者の著書なので、ダーウィンの進化研究におけるガラパゴスの意義を過大評価しているかと思ったが、そうでもない。ダーウィンがガラパゴス上陸時に進化論に転じた、あるいは進化論を着想したという俗説はとらない。マネシツグミと違ってフィンチについてのダーウィンの観察と記録が粗雑だったため、ダーウィンがフィンチを種分化の証拠にできなかったことも、著者たちは認めている。ところが著者たちは、1837年3月に鳥類学者グールドの研究報告によってダーウィンが進化論に転ずる際、マネシツグミよりもフィンチについての報告の方が重要だったという。これはやはり、日常的にガラパゴスのフィンチに取り組んでいるナチュラリストのえこひいきではなかろうか。
2010年5月26日(水) 授業日
図書館から数冊のダーウィン本を借りだしているが、家まで運ぶのがしんどいので一部はまだ名誉教授室のロッカーに入れたままである。本日は覚悟を決めて、K.
T. Grant and G. B. Estes, Darwin in Galápagos (2009) を持ち帰ることにした。
2010年5月25日(火) 授業準備
明日の授業のため、「論述作文」の提出作品を添削。
夜になってメールを見たら、見ず知らずの人物からmixiのマイミクシィ追加要請が来ていた。以前はゼミでmixiを活用していたこともあったが、最近は全く見ていない。たまにこんなことがあると思い出す。
2010年5月24日(月) 研究ノート執筆に着手
3日前から、ダーウィンの変異研究について短いものを書き始めた。ダーウィン本のサーベイで読み散らかすのも無駄ではないが、そればかりではまとまったものが書けない。『チャールズ・ダーウィンの生涯』を補足する意味でも、同書に欠けている部分を少しずつ書きためていこう。さし当たりは、1839年の『質問状』を中心に、初期の変異研究について研究ノートレベルのものを6月一杯に仕上げたいものだ。7月は学術会議叢書の執筆と編集にかかり切りになるだろう。
2010年5月20日(木) 学術会議叢書
学術会議のダーウィン・シンポを基礎に、17点目の学術会議叢書を編集することが本決まりとなり、本日、関連のメールを3通、送信した。
2010年5月19日(水) キャット・フード
6回目の授業日で、桃大へ。帰宅時、北野田のスーパーで老猫用のさまざまなフードを購入。ノアの食欲が減退してきたので、目新しいフードを試してみた。幸い、試みたフードを喜んで完食し、いつもの基本食も食べるようになったので、ほっとした。
2010年5月18日(火) 授業準備
明日に備えて、「論述作文」の提出作品を添削し、「科学技術史」の小テストを採点。気の進まない作業は、ぎりぎりの日時になってから着手しないと能率が上がらない。
2010年5月16日(日) 『理科教育』校正
雑誌『理科教育』に寄稿した「西洋思想における人間と生物」の校正刷りがPDFで送信されてきたので、メールで返送。この形での校正が広まってきたようだ。
2010年5月15日(土) ドヴォルザークと美空ひばり
南海電鉄が支援する南海コンサートを聞きに、河内長野のラブリーホールに出かけた。大阪フィルハーモニー交響楽団で、メインはドヴォルザークの交響曲第8番だが、前半の演目に美空ひばりのヒット曲「川の流れのように」が入っている。大フィルがこんな演目を選ぶはずがないので、これは電鉄の要望なのだろう。親しみやすい曲をという趣旨かもしれないが、クラシックを聞きに来る客が喜ぶだろうか。個人的にも、美空の曲の中では嫌いな曲なので、切符を買うかどうか迷ったくらいである。結局、近場で本格的な交響曲を3千円で聞けるなら安いものなので、来ることにした。岩村力指揮の演奏には満足した。指揮者が解説者も兼ね、かなりおしゃべりをしていたのに、疲れてしまったのか、アンコールは曲名を告げずに始めてしまった。なじみのある曲で、多分、スラブ舞曲第2番だと思う。
南海電鉄もせっかくお金を使うなら、聴衆を馬鹿にしたプログラムは組まない方がいい。ただし、美空の歌は決して嫌いではない。一つだけ選ぶなら、「リンゴ追分」か。「越後獅子」も、美空の杉作少年にアラカンの鞍馬天狗を思い出させる。しかし晩年のヒット曲「悲しい酒」と「川の流れのように」は好かん。「悲しい酒」は二番煎じの古賀メロディー、「川の流れのように」は押しつけがましい。
2010年5月13日(木) 新妻昭夫『進化論の時代:ウォーレス=ダーウィン往復書簡』
みすず書房刊の標記の書は、著者贈呈本として4月11日に拝受していたが、今日になってようやく手に取る余裕ができた。上段に書簡の翻訳、下段に詳細な注を付した書で、著者も通読されることは期待していないであろう。本書は進化論史の資料として活用されるべきものだが、よくもこれほど地味な作業を続けられたものだと感服する。勤務校の助成なしには出版できなかったろう。
同書は、出版社の広報誌『みすず』に長期にわたり間歇的に連載してきたものである。掲載誌は著者からいただいていたので、一通り目を通してきた。著者の注記で気になったところがいくつかあったが、その多くは単行本で修正されていた。たとえば、連載では第11回で修正されるまで「アーガイル公爵」が「アルギル公爵」になっていたが、単行本では最初から「アーガイル公爵」になっている。また連載では人名の「ノリス」、「クロッチ」、および「アップルトン」が特定できていなかったが、単行本では経歴が記されている。連載では「ディケイス」と書かれていた不明の人名も、単行本ではフランスの植物学者「ドケーヌ」と記されている。さらに、連載では「ベイズウォーター」という地名の場所を特定できていなかったが、単行本(p.169)では正しく記されている。
ダーウィンはウォレスに『マレー諸島』の誤植sondiacus(正しくはsondaicus)を指摘しているが、連載ではこれをlondiacusと誤記し、該当箇所不明としていた。単行本(p.286)では正されているが、連載でなぜ著者が誤植をさらに誤記したのか、不可解ではある。
残念ながら連載の不適切な注がそのままになっている箇所もあった。たとえば1868年8月のウォルシュのダーウィン宛の手紙について、連載では「どんな内容だったかは不明」とされ、単行本(p.247)でも注記がない。この手紙は2008年刊行のダーウィン書簡集第16巻に掲載されており、単行本の段階ではこれを参照することが可能だったのではないだろうか。連載の段階でも、1985年に刊行された『ダーウィン書簡目録』を参照すれば、手紙の概要が分かったはずである。著者はこの目録を利用していなかったようだが、これは是非とも利用すべき資料だったろう。
単行本(p.171)でも連載と同様、「グレン・ロイがどこか、またこの旅行の目的がなにかは確認できていない」とあるが、グレン・ロイの平行路は地質学史ではかなり有名で、ダーウィンの失敗例として拙著も含めた多くのダーウィン伝で紹介されている。単なる地名としてもイギリスの地図や地名辞典には記されているので、これを確認できなかったというのが不思議なくらいである。
しかしなんといっても残念なのは、『種の起源』で「適者生存」がいつから用いられたかという問題である。第5版からであることが間違いないのに、著者は連載でも単行本(p.129)でも、「第四版から採用されたという説もあり(『岩波生物学辞典』第四版)」として、第四版である可能性を認めている。この件については連載を読んで著者に書いた手紙で、「第4版を所蔵していますので、念のため、該当個所を調べました。もちろん、この語はありません」と述べ、『岩波生物学辞典』の間違いなのだと指摘しておいた。それにもかかわらず辞典を尊重し続けたのはなぜだろう。独立独歩の新妻さんであっても、岩波の権威には弱いということか。
2010年5月7日(金) 雨の東大寺
朝から雨模様だが、思い切って奈良へ出かけた。第一の目的は、18日から拝観停止になる東大寺法華堂、第二は奈良国立博物館「大遣唐使展」。近鉄電車の車窓から見ると、雨の中を西大寺駅から平城宮跡に向かってぞろぞろと人が歩いて行く。東大寺も奈良博も、雨だからといって空いていることはなさそうだ。
近鉄奈良の駅ビルで腹ごしらえをしてから、東大寺に向かっていざ出発。途中、60代とおぼしき二人連れのおばちゃんに、「大仏さんはどっちですか」と聞かれたので、「この東大寺への道しるべの通り、こちらです」というと、二人はびっくりして、「えっ、大仏さんは東大寺なのですか」という。これには、こちらがびっくり。お二人は「奈良の大仏さん」を予備知識なしで見物しに来たのだ。まさに弥次喜多道中。愉快な気分になってしまう。大仏をその目で見たお二人は、多分、想像していたよりも小さいと感じたことだろう。
雨が強くなってきたし、右手の国立博物館新館に行列がないので、予定変更、先に「大遣唐使展」を見ることにした。会場はほどほどの入りで、展示品をゆっくり見ることができる。展示の目玉ともいえる、国宝「聖観音菩薩立像(薬師寺)」、「井真成墓誌」、それと「吉備大臣入唐絵巻」は会場に入って直ぐの場所に集中して展示されていた。聖観音像は光背がはずされ、背面からも見ることができる。これだけでもこの展覧会に行く価値がある。
旧館の第2会場、最後の展示品が「伝菅公遺品」6点。先月18日に道明寺天満宮に詣でた折、「今、奈良国立博物館で展示しています」といっていたのがこれだ。菅原道真の愛用品だったという確証はないようだが、それを別にしても、平安時代の工芸品の優品として評価されているようだ。
地下レストランで一服しても雨はやまない。もう、行くしかない。まずは修学旅行の中学生で混雑する金堂で大仏さんにあいさつしてから、法華堂へ。法華堂の諸仏と須弥壇は18日から3年計画で修理に入るという。報道では7月末まで拝観停止になることが強調されていたが、より重要なのは、本尊の国宝「不空羂索観音立像」が3年間、見られなくなることだろう。修理終了後は仏像の配置も変わるようなので、今の姿を記憶にとどめておこう。
ゆっくり拝観してから外に出ると雨はほとんどやんでいた。しかしもう、二月堂に登るのはしんどい。のんびりと駅に向かって歩いて行くと、新装なった興福寺国宝館の前に出た。まだ入れる時間だったので入館し、ざっと見てきた。宣伝通り、確かに前よりも見やすくなっている。
若いときのように、あちこち焦って見て回る必要はない。今年は何回かに分けて奈良を訪れたいものだ。
2010年5月4日(火) 学術会議ダーウィン・シンポの単行本化
昨年12月5日に開催した日本学術会議主催のダーウィン・シンポについては、すでに『学術の動向』3月号で特集が組まれているが、これをさらに拡充し、「学術会議叢書」の1冊として刊行するという案が3月に出ていた。昨日、この件の出版助成が決定したとのメールがあり、編集担当を依頼された。執筆者のみなさんが書きたいことを好きなように書けばよいと思うのだが、編集者として何もしないわけにもいくまい。さてどうしようか。
2010年5月1日(土) 書斎整理
昨年3月に研究室の図書を書斎に運び込んだ折り、部屋にあった画集などは隅に積み上げ、事実上、利用できなくなっていた。昨日から整理棚などを移動し、画集類も手に取れるように並べたが、その分、空間が狭まり、しだいに身動きがしにくくなってきた。
2010年4月30日(金) 猫の点滴、歌舞伎座閉場
午前中は千代田動物病院に行って点滴の廃棄物処理を依頼し、ハナ用の缶詰を購入。毎日、ハナとノアにリンゲルの点滴をしているが、ノアはなぜか食欲が回復し、元気になっている。腎機能が崩壊しているのに、奇跡的なことらしい。
本日は歌舞伎座で閉場式なるものが挙行されたとのこと。歌舞伎座の建て替えが始まるため、歌舞伎関係のテレビ報道や新聞記事が目立つように思う。東京の実家からなら地下鉄で2駅、毎月、時には月に数回も通っていた。3年後の新劇場もおおむね現状に近いらしいが、見に行きたいものだ。歌舞伎座閉場にともなって今年の団菊祭は松竹座で挙行されるが、プログラムを見ても、ときめくものがない。現団十郎にも現菊五郎にも魅力を感じていないためか。今、見たいと思う役者は、一に仁左衛門、二に勘三郎、三に海老蔵。暴れん坊の助六を演ずるなら、海老蔵がうってつけだろう。
2010年4月28日(水) 授業日
4時限の「科学技術史」では、初めての出席者とちょっとしたトラブルがあった。前回までの授業を聞いていなかったのは自分の責任なんだという意識がない。これまで学校でも甘やかされてきたのだろう。桃大も明日から1週間連続の休みとなるので、学生たちにとっても連休前最後の授業日である。例年、連休が明けてから授業に出てくる学生もいる。
2010年4月25日(日) 河内長野市議選
団地の自治会館で市議会議員の選挙を済ませた後、バスで市の中心街へ。買い物帰りの道端で、おっちゃん二人の立ち話が耳に入った。「丹羽が危ない」といっている。共産党の丹羽実候補のことである。4期を務めた現職であり、固い支持層をきちんと票割りする政党なので、まさかと思っていたが、翌朝(25日)の新聞を見て驚いた。丹羽候補が次点で落選している。そればかりでなく自民党3期の竹田昌史候補、そして民主党(もと社会党)6期の池田達秋候補もほとんど同じ票数で落選している。18の定数に22人が立候補したが、落選者4人のうち3人がベテラン議員であった。河内長野市の議員定数はもともと24だったと記憶しているが、2002年に22、2006年に20、そして今期から18になった。議員定数の削減がベテラン議員を直撃したことになる。この結果、当選者のうち共産党公認は5人、公明党公認4人、自民党公認3人、民主党公認1人となった。どの自治体でも政党別の議員比率は国会とかなり異なっているが、河内長野市はそれが甚だしいようだ。
1989年のゴルフ場反対運動当時の市会議員で、残っているのは共産党の2人だけになった。翌1990年の市議選では、直接、選挙に関わったが、以降、しだいに市政に無関心になっていた。これからは市議会の動きにも注目してみよう。
2010年4月23日(金) 京都国立博物館「長谷川等伯展」
連休に入れば2時間待ちだろうが今の時期ならそれほどではあるまいと予想していたが、甘かった。博物館に11時に着いたら、すでに長蛇の列、「待ち時間110分」の掲示が出ていた。カフェで腹ごしらえしてから列に並び、100分後に館内に。当然ながら展示室も混雑しており、ゆっくり鑑賞する余裕はない。それでも重文「仏涅槃図」(本法寺)の大きさには圧倒された。大きさの持つ力は、図録では味わえない。これだけでも来た甲斐はあった。
最後の部屋の国宝「松林図屏風」は、煌々とした明かりの中での展示である。作品を傷めていると思うと、心も痛む。2006年1月27日に東京国立博物館の国宝室で初めて見たときは、照明が鑑賞可能なぎりぎりまで落とされていた。それでも部屋にいるのは常に一人か二人なので、今回よりもゆっくり鑑賞することができた。
等伯展の後は、博物館に隣接する豊国神社、方広寺、耳塚、それと大仏殿跡を初めて見て回った。33年前に大阪に来て以来、年に二三回は京博に来ているのに、他の博物館・美術館に回ることを優先し、秀吉関係の旧跡を見ていなかった。次の目標は、豊国廟から阿弥陀ヶ峰頂上の秀吉の墓まで行くこと。しかし536段の階段を登りきる自信はない。若いときに登っておくべきだったが、つい、また今度と、後回しにしてきた。今年中に体調と天候のよい日を選んでトライしてみたい。
2010年4月21日(水) ダーウィン図録
3回目の授業日で桃大へ。図書館に発注していた John Van Wyhe, Darwin (2008) が入っていたので、ざっと目を通した。数あるダーウィン伝の一つだろうと予想していたら違っていた。わずか64ページなのに、洋書としては珍しく箱入り。ほぼ30cm四方の変形大型本で、厚さ約4cm。すべてのページに図版が掲載されているほかに、稿本の複製など26点が折り込みやポケットの中のシートとして添付されている。ダーウィン図録の決定版といってよいものだった。本文は簡潔なダーウィン伝となっており、ダーウィン研究の最前線にいる著者のダーウィン観を知ることができる。
2010年4月18日(日) 葛井寺と道明寺のご開帳
葛井寺(ふじいでら)の本尊、国宝の千手観音は毎月18日、道明寺の本尊、国宝の十一面観音は毎月18日と25日に公開されるが、本日は観心寺本尊の拝観とあわせて来る人が多く、いつもより賑わっているとのこと。さすがにいずれのご本尊もすばらしい。近くに住んでいるのに両寺とも訪れるのは初めてである。これも定年で時間の余裕ができたおかげといえよう。
西国第5番の札所である葛井寺の賑わいに比べると、尼寺の道明寺は静かであった。隣接する道明寺天満宮の方が境内も広く、立派。本来はお寺の中に天満宮が造られたのに主客逆転している。道真人気のおかげか。
葛井寺の近くに辛国神社という式内社があるのは知らなかった。境内も広く、参道は「大阪みどりの百選」に入っているという。「からくに」というからには渡来系の神社で、この地域は渡来人の根拠地だったのだろう。案内板には明治41年に長野神社を合祀し、鳥居も移設したとある。確かに石の鳥居には「長野神社」と刻まれていた。しかし長野神社は立派に存続している。一旦、合祀された後、地元民の力で復祀されたのであろう。明治の愚劣な政策の傷跡が、こんな所でも見ることができる。
2010年4月17日(土) 観心寺と金剛寺のご開帳
毎年、4月17日と18日だけ公開される観心寺の本尊、国宝の如意輪観音を拝観しに出かける。門前の和風喫茶「阿修羅窟」で一休みした後、河内長野市が仕立てたシャトルバスで金剛寺へ。市が初めての試みとして、この2日間、無料のシャトルバスを運行している。金剛寺の本尊、重文の大日如来は修理のため明日を最後に7年間は拝観できなくなるという。帰りもシャトルバスで河内長野駅へ。このシャトルバスの最大のメリットは、観心寺から直接、金剛寺へ行けることだろう。しかし来年から大日如来が拝観できないとなると、利用者は減少するかもしれない。
2010年4月16日(金) 文楽「妹背山」通し
今から約4時間前、蘇我入鹿の御殿でお三輪が死んだ。赤川次郎がこの公演の「筋書」で簑助を讃え、「今から約3時間前、天神の森で一人の女が死んだ」と書いているのに倣ってみた。ただし今回のお三輪は勘十郎。簑助は必死で勘十郎を育てようとしている。
今日は午前11時の開演から午後9時の終演まで、国立文楽劇場の床直下で過ごした。客の入りもよい。午前の部では、なんといっても「山の段」。住大夫と綱大夫の掛合になぜか物足りなさを感じたが、それでも舞台に引き込まれる。近松半二の作品自体がすばらしいのだ。人形浄瑠璃屈指の名場面だろう。夜の部の「芝六忠義」は忠臣蔵十段目と同じ趣向で、しかも子供を殺してしまうので不快感があり、好みではない。「道行恋苧環」では目の前で5丁の太棹が響き、気分爽快。最後の「金殿」では嶋大夫が熱演。今回、最も聞かせたのではないだろうか。嶋大夫にはチャリ場ばかり持たされているという印象があったが、いまや重鎮。嶋大夫と咲大夫、好みの分かれるところだろう。今度はこの二人の掛け合いで「山の段」を見てみたいものだ。
通し狂言と行っても、大序と5段目が省略されている。以前、切られた入鹿の首が暴れ回る舞台を見た記憶がある。人形ならではの派手な場面なので、また見たい。「芝六忠義」を止めて5段目を出すという選択肢もあるだろう。
2010年4月14日(水) 授業日
履修登録が終了したので、本格的な授業は今日から始まるといってよい。4時限の「科学技術史」の受講生は先週の半分に減少し、落ち着いた雰囲気になっていた。先週の授業で「楽勝科目」ではないことが分かり、登録をやめた学生が多かったのだろう。これならきちんとした授業ができるので、一安心である。
朝の喫茶店と夕食の中華屋でスポーツ新聞を熟読。昨夜のようにタイガースが巨人を相手に6点差を5本のホームランで逆転勝利など、滅多にあることではない。楽しめるときに、たっぷり楽しんでおこう。
2010年4月13日(火) 作文添削
朝はまず在木(ありき)カイロプラクティックで治療後、千代田動物病院で猫のリンゲル注入セット百日分を購入し、タクシーで帰宅。腎機能が崩壊しているノアはこの処置だけで生き延びているし、ハナも腎臓が小さいので予防の意味で同じ処置を始めた。一般に自宅で猫にこの処置をするのは難しいということだが、我が家のハナとノアはかなり協力的である。
夜は明日の授業「論述作文」のため、前回提出作品を添削。当分、原稿用紙の使い方を練習していくことになる。
2010年4月12日(月) 『理科教育』原稿加筆
先に送稿した『理科教育』の原稿が文字不足のため加筆するよう要請されていたが、本日、一応、加筆を完了。明日以降、内容を確認して送稿しよう。一旦まとめた原稿への加筆は、実にやりにくい。削除する方がよほど楽である。
同誌に限らず編集者から文字数を指定された場合、旧世代の執筆者としてはまず、これを400字詰めに換算し、さらに一太郎のページに換算していたが、今回は暗算の過程で錯誤があったのだろう。初めから文字数を40で割って一太郎の行数に換算すればよかったのだ。
2010年4月10(土) オペレッタ「こうもり」
河内長野市ラブリーホールの小ホールで3時からの3時間。ホールの主催公演である。大ホールにはなんどか来ているが、小ホールは初めてである。座席が少ないとはいえ、満席であった。「こうもり」も初めて、というよりもオペレッタなるものを見るのが初めてだと思う。伴奏はピアノだけだったが、それでも大いに楽しめた。今度はオーケストラの伴奏で見てみたいが、そうなると今回のように料金4千円ということにはならないだろう。
2010年4月9日(金) 高田理惠子教授の書評
朝、狭山駅前の床屋に寄ってから、桃大へ。ロッカーに詰め込んである資料の整理や、図書館への購入希望手続きなど、授業日にはなかなか手がつけられないので、半日を費やすことにした。
桃大の教養関係の紀要『人間科学』の最新号にドイツ文学の高田教授による拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』の書評が掲載されていた。いつものことだが、テンポのよい楽しい文章である。拙著について、「頼りないボンボンがビーグル号に乗って旅に出て、自分の課題を見いだすという教養小説としても読めるものである」とあったのには、なるほどと思った。著者自身の念頭にはなかった視点で、独文研究者ならではの指摘である。なお、ここでいう「教養小説」(Bildungsroman)とは人格形成小説のことだが、ドイツ文学史の素養がないと、教養のために読む小説のことと誤解されかねない。
高田教授は「地質学や動物学や植物学の部分は専門的で、文系素人にはやでや難しい」という。科学者の伝記では研究業績の解説が重要な要素になるが、拙著でも分かりやすくする努力が足りなかったかもしれない。
2010年4月8日(木) ダーウィン本
図書館から借りだした論文集 Darwin in the Archives (2009) に目を通す。イギリスの「自然史の歴史」学会の機関誌に掲載されたダーウィン関係の論考30点を収録したものである。ビーグル号以前の地質調査、ビーグル号標本、家畜についての質問状、文通相手など、テーマはさまざまだが、いずれもアーカイヴス(記録文書)の調査に基づく研究である。アクセスしにくい雑誌の論考がまとまって読めるのは便利だが、それ以上に、編者D.M.Porter
による解題が有益である。各論考について、その後の研究の発展を紹介し、論考に誤りがあればそれを克明に指摘している。
2010年4月7日(水) 授業開始
2時限の「論述作文」の受講生は昨年の倍になるようだが、それ以上に頭が痛いのは、4時限の「科学技術史」で、200人を越えるのではないか。昨年は40人ほどだったのに。楽勝科目(勉強しないでも単位が取れる)という噂が流れたのだろう。授業内容は変えないが、運営の仕方は考えなければならない。
2010年4月5日(月) ダーウィン本
今日はダーウィン論文に取り組むことができた。3月24日以来だから、12日振りになる。集中力に欠けるのか、困ったもんだ。
2010年4月3日(土) 奈良時代史
午前中に千代田動物病院に寄り、注射針などの廃棄物処理を依頼。河内長野駅にもどり、ラブリーホールまで歩いて昼食。ホールのギャラリーでは珍しく陶器の個展を開催していた。備前焼の宮尾昌宏。若手の人気作家らしい。気に入った作品があったからといって購入する余裕はないが、土の造形を楽しんできた。
駅前の書店で奈良時代史の新書を3冊購入。帰宅後、一気に読み飛ばして、NHKTVドラマ「大仏開眼」に臨む。いかにも泥縄だが、「平城遷都1300年祭」の今年は何度か奈良に出かけることになるだろう。
2010年4月2日(金) NHKBShi「進化の木」
NHKのハイビジョン特集フロンティア「探検!進化の木~ヒトの起源に迫る~」(再放送)午後0時半からの85分。三次元的に描かれた系統樹を「ホモ・サピエンス」から根本の方にたどり、最後はLUCA (Last Universal Common Ancestor)に到達する。子供向けの番組なので、うんざりする場面も多かったが、進化史研究の現状を確認するため、最後まで見てみた。「は虫類」という分類群が成り立たないこと、真核生物・古細菌・バクテリアの3ドメインなど、内容はしっかりしていたと思う。
2010年3月30日(火) 久し振りの登校
朝は北野田の日野歯科医院で定期検診。帰りがけに駅前の堺市文化ホールで開催されている「山下清展」をのぞいてきた。有名な貼り絵「長岡の花火」も修復され、鮮明になっていた。山下清といえば貼り絵しか思い浮かばなかったが、陶器の皿や壺に絵付けしたものも面白かった。数多くの作品を見て感じたのは、山下は残された作品だけで十分語れるということ。「裸の大将」といったドラマは、画家山下清を侮辱しているように思える。
外出ついでに桃大へ。2月16日に追試の採点で登校して以来だから、42日振りになる。予想通り、メールボックスは郵送されてきた雑誌と、紀要などの学内配布物であふれていた。ダーウィン・シンポジウム特集の『学術の動向』3月号も届いていた。図書館にもダーウィン本が続々と入っていた。
「科学技術史」のppt教材をpdfに変換し、学内公開用のドライブに入れる予定だったが、名誉教授室のパソコンが動かない。結局、情報センターのパソコンで作業し、とりあえず授業の準備を終えた。
2010年3月28日(日) 授業準備
昨日からダーウィン論文サーベイを中断して、「科学技術史」の教材pptの見直しに取りかかっている。例年は忙しさに取り紛れ、前年の教材をそのまま流用することになりがちだが、今年は時間がたっぷりある。
2010年3月22日(月) 『理科教育』依頼原稿を送稿
祭日といっても、毎日が日曜日の自分には関係がない。『理科教育』の依頼原稿を完成し、送信した。アリストテレスからダーウィン、そして現代の人間論へと16枚にまとめたが、どのように読んでもらえるか。とにかくこれで締め切りのある仕事は一段落。しばらくはダーウィン論文に取り組むことにしよう。
2010年3月21日(日) 『理科教育』依頼原稿
この3日間は『理科教育』の依頼原稿に集中することができた。ほぼ書き終えたので、明日、送稿できるだろう。
駒場時代のクラス会幹事から、クラス会出欠返事の督促メールが来た。とっくに欠席の返信をしていたのだが、届いていないという。こういう事故があるので、送ったメールが着信したか、常に不安がつきまとうことになる。
2010年3月16日(火) 池上彰のニュース解説
昨日から『理科教育』の依頼原稿に取りかかっているが、月末締め切りまでにはまだ余裕があるので、気合いが入らない。テレビ朝日、午後7時からの「池上彰の学べるニュース」を3時間、見てしまった。池上がNHKの子供ニュースを担当していた頃、たまたま見ることがあって、的確でわかりやすい解説に感服していたが、いつの間にか姿を消してしまった。政治的圧力でも掛かったのかと気になっていたが、最近は大活躍である。池上の解説に引きつけられるのはなぜか、じっくり見ることにした。
テーマは、日本の医療、人民元、日本の教育、それとドバイの発展(現地取材)。日本の医療についての解説では、医師会と自民党の責任についてかなり抑えて話していたように感じた。番組の中では人民元についての解説が、自分には新鮮だった。日本の子供の学力が国際比較で大きく低下しているという俗説に対し、データをきちんと分析しない愚かな議論であると批判しているのが面白かった。
小ネタ集のような形で地震とプレートとの関係を解説していたが、これは通常の解説をなぞるだけ。さすがの池上も自然科学面では独自の分析を披露することはできない。池上の魅力は社会問題について徹底的に研究し、わかりやすく解説することにあるのだろう。
ちょうどNHKの高校地学講座で専門家が地殻の話をしていた。高校生向きに話をしているが、集中して聞かないと内容が頭に入らない。その点、池上のトークは少々ぼんやりしていても頭に入ってくる。池上の魅力は第一に内容が充実していることだが、それだけでなく、話術も重要な要素になっている。大学の授業でも、内容さえよければよい、ということにはならないのだろう。
2010年3月13日(土) 河内長野市ラブリーホールでチャイコフスキー
まずは金剛駅から岩室のコーナン泉北店に行き、特売の猫砂を自宅配送でまとめ買い。猫トイレについては、紙製、シリカゲルなど様々な猫砂を試してきたが、結局、木粉を固めた「燃やせる猫砂」に落ち着き、特売の時に買っている。ノアが好む「美食」シリーズのキャット・フードもここにしかないので、これもまとめ買い。この後、河内長野にもどり、ラブリーホールへ。
3時から大阪シンフォニカー交響楽団でチャイコフスキー。ピアノ協奏曲第1番(ピアノ丸山耕路)と交響曲第5番。いずれも派手な曲で楽しめた。演奏の質も高かったと思う。アンコールは「アンダンテ・カンタービレ」。河内長野市の支援事業のため、料金は2,000円と格安だが、その割には空席が目立った。
東京にいた時はしばしば上野の文化会館に行っていたが、大阪に来てからは滅多にコンサートに行かなくなった。これからは、近場で安くて質の高いコンサートを探して行くことにしよう。
2010年3月10日(水) 大阪歴史博物館「チベット展」
狭山駅前で散髪後、難波へ。銀行で用件を済ませた後、増床オープンした高島屋の食堂街へ。大食堂(ローズダイニング)の入り口で見本を見ていたら、後ろで読売テレビのカメラが回っていた。放映されても困ることはないが、それでも嫌ですね。どの店も行列状態だったが、10分待ちの店でランチをとり、美術画廊を覗いてから文楽劇場へ。4月公演の切符を引き取り、大阪歴史博物館へ。
特別展「聖地チベット」には、日本では見られない仏像がずらりと展示されていた。仏教のあり方が日本とはまるで違う。昨年訪れた台湾のお寺でも、日本との違いが印象的だった。日本の仏教だけが仏教ではないことを、改めて教えられた。
2010年3月7日(日) 大槻能楽堂「笛の会」
一昨日までとは打って変わって冷たい雨の日曜日となった。森田流能笛・野口傳之輔師の教室の発表会があるので、昼前に大槻能楽堂へ。カミさんは狂言之舞「三番三」、舞は茂山七五三師。3丁の小鼓に負けずに笛も響いていたので、まずはよかった。衣装からして舞囃子や能とは違った雰囲気なので、観客にも受けたのではないだろうか。笛はみな素人でも、舞囃子や能には大阪のシテ方が次々と登場する。生意気だがそれを比較しながら見ていると、けっこう面白い。
老猫たちの世話もあるので先に帰ることにしたが、途中、日本橋の文楽劇場に寄った。電話予約した4月公演の切符を受け取るつもりだったが、またしても私学共済の割引券でミスがあり、後日、出直すことになった。
2010年3月6日(土) チリ地震とダーウィン
ビーグル号航海途上の1835年2月20日の昼前、チリのヴァルディヴィアに上陸していたダーウィンは、生まれて初めて大地震に遭遇した。3月4日にコンセプシオンを訪れると、街は瓦礫の山と化していた(拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』)。今回(2月27日)のチリ地震についての新聞やテレビの解説で、ダーウィンの体験に言及したものに出会わない。そこで、チリ地震の歴史をインターネットで調べてみたところ、1835年の地震の規模は今回と同じ程度だったらしいし、この程度の地震は繰り返し起きているので過去のチリ地震に言及したらきりがないようだ。
ついでの話だが、ダーウィンにとって1835年2月が初めての地震体験ではなかった。前年の10月、ダーウィンは熱病(多分、シャガス病)を発してヴァルパライソ郊外のコーフィールド邸で1ヶ月余り療養していたが、その折りに、病身を横たえていたベッドが揺れる地震を体験した(1834年11月8日付け、妹への手紙)。イギリスでは滅多に地震が起きないので、この時が初めての地震体験であったと思われる。
2010年3月4日(木) 久し振りにダーウィン論文
この暖かさは4月並みとのことである。間違いなくまだ寒さがもどってくるが、寒がりの当方にとって、とりあえずはありがたい。午前中に文楽4月公演を電話予約。第一希望日ではなかったが、いつもの床直下の座席を昼夜通しで確保できた。
午後は久し振りにダーウィン研究論文に集中。査読で未熟な論文を読まされたので、口直しである。研究室で仕事していた頃は、引用文献を一つ一つ確認しながら読むので、机が関連文献の山になってしまうが、今は文献が手元にないことが多く、メモしておくだけ。それでも久し振りに科学史研究の面白さを堪能した。
それにしてもこの1週間、何をしていたのだろう。雑誌原稿の校正、査読の追加作業など、雑件でけっこう、時間を取られているが、体力、気力の問題もあるだろう。こんなことではダーウィン本のサーベイが進まない。
2010年2月25日(木) 査読
この3日間は某誌の査読に集中、本日、報告を一応、書き終えた。明日、見直して、編集委員に送信しよう。
査読依頼がやたらにあるわけではない。ところが、偶然ではあろうが、依頼が来るときは重なってくる来ることが多い。今回も2件の査読を続けて処理することになった。査読は表に出ない作業である。当該分野の研究レベルを保つためには不可欠な作業だが、査読者にとって得るところはほとんどない。とにかく研究者としての義務は果たした。
2010年2月21日(日) 確定申告書終了
数値の入力ミスがあったので、一部修正。こういう時は手書きよりもはるかに楽である。印刷した後、伝票類の貼り付け。源泉徴収書や年金証明書など数が多いので、やっかいである。封筒に入れて準備完了、明日、投函。とにかく憂鬱な作業を終えてほっとした。これで研究関係に専念できる。
2010年2月20日(土) 確定申告書入力
8日以来、確定申告のための伝票整理を断続的に続けていたが、本日は意を決して申告書を作成した。数年前から国税庁のシステムを使っているが、今年はなぜか順調ではなかった。全角で入力しているのに「全角で入力してください」とメッセージが出て先に進まない。昨年のデータを修正する形にしたら、「確認してください」と出て先に進まない。結局、三度目の正直、ゼロからやり直してどうやら入力を終えたが、疲れた。
2010年2月19日(金) 松浦玲『勝海舟』
宅配便で新刊の松浦玲『勝海舟』(筑摩書房)が著者から送られてきた。著者長年の基本テーマがようやく結実した。900ページの大作なのに定価は4900円と格安。維新史の基本文献としてかなりの売れ行きになることを期待しているのだろう。
2010年2月17日(水) 『ダーウィン短編集』
大学図書館に購入希望していた図書 John van Wyhe(ed.), Charles Darwin's shorter publications 1829-1883 (Cambridge, 2009) が登録済みになっていたので、昨日、借り出して、本日、その内容を点検した。ダーウィンが雑誌などに掲載した記事を集めたものである。すでに1977年にP.
H. Barett編による同様のもの(The collected papers of Charles Darwin)が2冊本で出ているが、収録数は158点であった。今回は244点、この差の86点がダーウィンの著作として新たに確認されたものである。1977年版との違いはそれだけではなく、タイトルや本文の転記が正確になり、注も詳細になった。ただし244点のうち9点についてはタイトルだけで、本文の転載を省略している。この9点のうち3点はダーウィンも名を連ねている委員会報告や請願書であり、6点は植物学の論文である。この植物学論文6点のうち4点は1977年版に収録されている。1865年にリンネ学会の紀要に掲載された「よじ登り植物」の論文は1977年版にも収録されていないが、その別刷が1875年の単行本『よじ登り植物』の初版とみなされるほどの分量なので、当然のことであろう。
通常の研究には1977年版で事足りるし、それにない記事はオン・ラインで補える。とはいえダーウィン研究の進展を示す資料として、本書を12月5日の学術会議ダーウィン・シンポジウムの展示に加えるべきであった。
2010年2月16日(火) 「日清・日露戦争の刷り物」展図録
追試の採点のため大学へ。一人だけのための出題と採点、事務方の負担も考えれば実に効率の悪い作業だが、やむを得ない。採点評価を終えて、そのまま「和泉市いずみの国歴史館」の展覧会「描かれた戦争、創られたイメージ: 刷り物で見る日清・日露戦争と東アジア」へ。先週に引き続いて2度目である。今回は300円の図録を購入し、学内の喫茶店でゆっくり読む。24ページの小冊子だが、上質紙を用いたオール・カラーで、原山教授・森下徹(和泉市教育委員会)の両氏による解説もていねいである。この時期の社会史や地域史の資料として活用されるべきものだろう。この図録にも反映しているように、関係者の熱意がうかがえる展覧会は、見る者にとっても気持ちがいい。
2010年2月11日(木) 電卓
一昨日・昨日とは一転して真冬の寒さがもどってきた。祭日といっても、ほとんど毎日家にいる生活では実感はない。伝票を整理し、電卓をたたく一日だったが、パズルやテレビで気を紛らわしながらの作業。能率は上がらないが、やむを得ない。
2010年2月10日(水) いずみの国歴史館「日清・日露戦争の刷り物」展
朝、狭山駅前で散髪後、和泉中央駅へ。昼食は、駅前に新しくできた商業ビル内のファストフード店でランチを試みたが、若者向きの油ぎとぎと、半分で降参。大学では「科学技術史」の追試の問題を教務課に提出し、隣接する「和泉市いずみの国歴史館」へ。原山教授のコレクションを中心にした展覧会「描かれた戦争、創られたイメージ
- 刷り物で見る日清・日露戦争と東アジア-」が開催されている。1月6日から開催されていたのだが、週1回の出講日は授業で慌ただしいため、立ち寄る余裕がなく、今日になってしまった。たまたま学芸員との打ち合わせで来館されていた原山教授が、展示室に来てくれた。展示品の所有者の解説つきとは、贅沢な鑑賞となった。
小さな展示室だが、展示内容は充実している。刷り物や写真、さらには砲弾など、当時の実物が並び、日清・日露の時代が肌で感じられる。木版画と石版画の違いを解説しているのも、親切である。来週から展示替えになるとのことなので、追試の採点日に再訪することにしよう。
本日も異常な暖かさで、スプリングコートで出かけた。昨日より動いたのに、昨日ほどの疲れはなく、帰宅後、ジャーナルを書く元気もある。身体が外出に慣れたということだろうか。
2010年2月9日(火) 久し振りの外出
朝はまず、予約していた在木(ありき)カイロプラクティックで治療後、千代田動物病院で猫用品を購入。河内長野駅にもどり、ラブリーホールまで歩いてコンサートの前売りを購入。交響楽団の演奏が2,000円とは安い。ホール内の食堂で昼食。コーヒー付きで900円のランチは、メインもしっかりしているし、サラダバーもあってお得感がある。駅前にもどり、本屋でパズル本を購入してバスで帰宅。冬支度で出かけたら、異常な暖かさでコートがうっとうしいほどであった。
2週間振りの外出、といっても市内をうろうろしただけだが、帰宅したら疲労困憊。困ったもんだ。
2010年2月8日(月) 校正もPDF
昼前に『学術の動向』3月号の初校がメールの添付(PDF)で届いた。通常、原稿送付や編集者とのやりとりはメールになっているが、校正だけは必ず印刷されたものが送られてくる。PDFでの校正は初めてである。いずれこの形が当たり前になるのだろうか。
昼過ぎに司書講習記念誌の原稿を大学にメールで送信した後、いよいよ確定申告の準備に着手。一年間で最も憂鬱な作業である。今年は退職金の件などもあり、例年より手間が掛かりそうだ。
2010年2月7日(日) 司書講習50年誌に寄稿
桃山学院大学が社会人対象に実施している「司書・司書補講習」が今年で50周年を迎えることになり、その記念誌への寄稿を依頼されていたが、ようやく書き終えた。3,000字の原稿に、5日(金)以来、3日も費やしてしまった。何を書くかに迷いがあった。数十人の関係者が寄稿するはずだから、同じようなことを書いても仕方ない。結局、担当している「専門資料論」のことを中心に書くことにした。これも一種の回顧録なので、ここに転載しておこう。
講習に関わって30年 -「専門資料論」のことなど-
1976年10月22日、本学で合同教授会が開催され、筆者を「科学概論」担当者として採用するか否かが決まる予定になっていた。当時、筆者は講談社の百科事典編集部の契約編集者として生活していたが、その編集業務が終了し、新企画の英文百科事典の編集に参加するかどうか、翌日、回答することになっていた。ところが、夜になっても大学から連絡がない。やっと深夜になって連絡が取れ、採用が承認されたことが分かった。その日のことは鮮明におぼえている。
東京から大阪に引っ越すとき、編集者便覧など、書籍の製作に関する資料類は処分してきたが、1977年4月に就任して間もなく、出版社で働いていたのだから司書課程が担当できるはずだといわれ、以来、司書課程科目を担当するようになった。1996年度までは「人文科学及び社会科学の書誌解題」と「自然科学と技術の書誌解題」とをインテグレーション科目として担当し、1997年度から定年退職する2008年度までは、「専門資料論」を単独で、「資料特論」をインテグレーション科目として担当してきた。
学部の授業である司書課程のほかに、司書・司書補講習にも関わってきた。最初は司書補の「参考書解題」、ついで司書の「自然科学と技術の書誌解題」を担当し、1997年度以降は「専門資料論」を担当している。年によって夜間か昼間かの違いはあるが、夏に司書講習の講義に行くことが、自分の恒例行事になっている。
学部の司書課程でも司書講習でも同じく「専門資料論」を担当しているが、「受講生による授業評価」の結果がまるで違う。司書講習では5段階評価の上から2番目「どちらかといえば良い」に集中するが、司書課程では真ん中、「良くも悪くもない」に集中する。社会人からは一定の評価を得ているが、在学生の評価は低いのである。同じ国家資格に関わる授業なので、当然、内容は変えていない。評価の違いは、お金と時間を使ってでも資格を取得しようとする講習生と、無料なので楽に資格を取りたいと願う在学生との意欲の違いを反映したものだろう。
「専門資料論」の講義内容は当然、文部省生涯学習局の通達(1996年)に従っているが、自分なりに、学術文献、基本的な書誌、それと百科辞典の三本柱を立てて実施している。これに対し、講習では「書誌解題」の時代から現在まで変わらずに出てくる不満の声がある。学術文献や書誌の話など、現場の役に立たないというのである。学部の授業ではこうした不満を聞いたことがない。学部の場合、一般の講義の延長で理解できるから学術文献の話にも違和感はないのだろう。講習には公共図書館で勤務経験のある受講生もおり、その中にこうした不満を持つ者もいるらしい。この不満に対しては、大学図書館や、公共図書館でも大阪府立図書館のように規模が大きい場合は日常的に学術文献を扱うし、そもそも本の世界の基礎を支える学術文献について理解することは、専門職の司書として不可欠なはずだといっているが、必ずしも納得しないようである。ただし最近はレファレンス・サービスに力を入れる公共図書館が増加してきたため、専門資料論は役に立つという声も聞かれるようになった。
この30年間に研究と授業のあり方を大きく変えたのが、コンピュータ技術の発達である。授業についていえば、まず、ワープロの出現により配布教材が楽に作成できるようになった。悪筆の筆者の場合、配付資料で受講生に迷惑を掛けていたので、大学教員の中でもいち早く、1985年には東芝のワープロ専用機を導入したと記憶している。その後はパソコンに切り替え、現在に至っている。
プレゼンテーションではパワーポイントが普及して講演や授業での利用が当たり前になっているが、筆者も学部の授業では2000年度からこれを導入している。しかし昭和町キャンパスの講習では活用できなかったため、講習が和泉キャンバスに移ってから利用している。パワーポイントばかりでなく、和泉キャンパスの教室ではさまざまな設備、機能が利用できるので、授業運営の上からは、今後も和泉での講習実施が望ましいと思う。
パワーポイント教材のうち主要なスライドは配付資料に印刷しているが、量的制限もあり、著作権の問題もあるので、すべての教材を印刷するわけにいかない。そこで、ほとんどすべての教材を筆者の個人ホームページにパスワード付きで掲載し、受講生に提供している。パソコンを活用している受講生からは好評を得ているが、本来なら、大学本体がeラーニングのシステムを導入し、そのシステムにのせて受講生に教材を提供することが望ましいと思う。
コンピュータの発達にともない、講義内容も大きく変化してきた。「書誌解題」の時代は書誌類がみな冊子体だったが、デジタル化が進行し、しだいに冊子体が廃され、データベースの利用に移行しつつある。講義内容もそれに合わせて変えてきた。
百科辞典にもデジタル化の波が及んでいる(「百科辞典」が本来の表記であって「百科事典」は誤用である)。百科辞典は専門資料とはいえないが、あらゆる専門領域を網羅し、その時代の知のあり方を示すものである。図書館で最もよく利用される資料なので、百科辞典について体系的に学んでおくことは司書としても有意義なことと考えて、「専門資料論」の授業では毎年、百科辞典にかなりの時間を割いている。筆者自身が百科辞典編集の経験があり、内外の百科辞典の歴史に関心を持っていることも、百科辞典を取り上げている理由の一つである。
百科辞典についての授業では、司書補の「参考書解題」のときから、内外の代表的な百科辞典を教室に運び、受講生に実物を見てもらうようにしていた。しかし、現在は書名と特徴を紹介するだけにしている。一つには、和泉キャンパスなら大学図書館でさまざまな百科辞典を楽に見ることができるからである。もう一つの理由は、百科辞典のデジタル化が進んだことである。数十巻の大百科辞典でも図版を含めて1枚のDVDに収まり、パソコンで気楽に利用できるようになった。契約すればオンラインで利用できる百科辞典も増えてきた。そればかりか、ウィキペディアなどの無料百科辞典やグーグル検索を活用すれば、とりあえずの疑問は解決できるようになった。ただ、それがどこまで信頼できるか分からないことが多い。無料のツールで概略を知った後は、専門的な資料で確認しなければならない。伝統的な百科辞典が存続するには、今以上に信頼性を高めることが必要だろう。
研究者は自分の研究領域にだけ詳しく、一般的知識に欠ける傾向がある。筆者の場合も、専門の科学史、それもダーウィン研究にかたよりがちである。「専門資料論」の担当は、学術の世界全体の現状を把握するよい機会になっている。今後も「専門資料論」を担当する限り、学術文献の最新状況をできるだけわかりやすく解説するよう努力していきたい。
2010年2月4日(木) 『チャールズ・ダーウィンの生涯』書評
まさに「春は名のみの風の寒さや」の立春。昨日の瀬戸口さんに続き、鈴木善次さんから学術会議ダーウィン・シンポの報告が届いたので、三人の原稿をまとめ、『生物学史研究』編集の月澤さんに送信した。これでこの件は、落着。
昨日見たブログからたどると、拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』の書評があちこちにアップされていた。「書いてあることはすでに知っていることばかり」といったものから、ダーウィンについては進化論の祖としか知らなかったという読者までさまざまである。概して好評といえるだろうが、必ずしも著者の意図がくみ取られていない。どう読むかは読者の勝手とはいえ、著者としては物足りない。昨年の11月16日のジャーナルに書いたように、『中央公論』2009年12月号掲載の河合祥一郎氏による書評が、我が意を得たりの評価であった。
2010年2月3日(水) 学術会議ダーウィン・シンポについての感想ブログ
『生物学史研究』に掲載する12月5日学術会議ダーウィン・シンポの報告の分担執筆者の一人、瀬戸口さんから原稿が送信されてきたが、そのメールにシンポについてのブログがあると付記されていた。そのブログ(http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20091206)を見て驚いた。詳細で正確なのである。最後は、「科学史家のお話がたくさん聞けたのは楽しかったし,会場のトリビアな質問に間髪入れずに回答が出てくるあたりはまさに博覧強記でプロの歴史家のすごみの片鱗を見た思いだった.会場の展示も貴重なものでありがたかった」と締めくくっている。
第三者のブログで、このシンポが有意義であったことが確認できてうれしかった。正直なもので我が精神も高揚し、久し振りにジャーナルを書く気も出てきた。
2010年2月2日(火) 猫の世話
ときおり知人から、「ジャーナルを楽しく読んでいます」といったメールが来るのでサボらず書き続けたいが、猫の世話の合間にダーウィン関係論文を読んでいる毎日ではジャーナルを書く気にもならない。
猫の世話になぜ、それほどの手間が掛かるのか、理由がある。ノアは腎機能が崩壊して1年になるが、毎日、リンゲルを注入し、小便を促している。元気に走り回っているので、獣医師からは説明がつかないといわれるほどである。しかし以前は何でも食べるガッツキ猫だったのに、目に見えて食欲が落ちてきた。しかも、その日その日で好き嫌いが変わるので、食べさせるのが一苦労である。ハナは健康なのだが、普通の食事では吐くことが多く、消化器サポートのフードしか与えられない。クロが昇天したので家猫はこの2匹になったが、家の裏で捨猫シロの面倒を見ている。昨年の春に子猫3匹を引き連れて我が家の庭に居着いてしまったので、去勢をし、子猫の1匹は大分のお寺に、2匹は千代田の知人宅に引き取られ、母猫だけが残っている。家に入れたら老猫2匹が勢力負けして死んでしまうので、外に置いておくしかない。この寒空に気の毒だが、完全野良でいるよりはましだろう。朝昼晩夜に1時間以上費やして彼らの世話するのだから、勉強する暇もない。
2010年1月29日(金) ケンブリッジ・ビーグル号標本の絵本
一昨日、大学のメール・ボックスに一冊のダーウィン本がアマゾンから届いていた。A Voyage round the World: Charles Darwin and the Beagle Collections in
the University of Cambridge (2009). 題名から判断してケンブリッジ所蔵の標本目録かと思っていたら、違っていた。ビーグル号航海時のダーウィンの研究状況と、ケンブリッジの図書館、植物標本館、地質学博物館、および動物学博物館、それぞれの標本・稿本所蔵状況をケンブリッジの関係者が分担して概説したものであった。120ページの小冊子だが、ほとんどのページにカラー図版が掲載されている。本日は気力も回復したので、ざっと通読した。きちんとしたデータは記載されていないので研究には利用できないが、図版を見ていくだけでも楽しめる本である。
2010年1月28日(木) 終日ごろごろ
一日フルに働くと、情けないことに、翌日はなにもできない。
2010年1月27日(水) 最終授業
2限の「論述作文」では、名誉教授室で最終レポートの冊子を製作してから、お菓子とお茶。和菓子の歴史について発表した学生がいたが、そのとき、みな、「外郎」を知らないというので、実物を食べることにした。評価の高い外郎を買ってくるよう指示したのだが、手近な店でもっとも一般的な外郎を買ってきた。自分にはあまりおいしくないのだが、学生たちは喜んでいた。4時限が始まるまで、洋書店の目録を整理して、ダーウィン本数冊の購入希望を図書館の用紙に記入。4限の「科学技術史」は最終テスト。終了後、直ちに採点評価を終え、残業中の教務課に提出。朝から晩まで、休む間もない一日であった。
2010年1月26日(火) メール通信の事故
1週間前にメールで学会関係の依頼があり、即座に了解のむね返信したが、応答なし。本日、郵便で同じ依頼が来たのでメールで問い合わせたら、先の返信メールが「迷惑メール」のボックスに格納されたため、見ていなかったという。
当方の体験では、出版社からのメールがなぜか着信せず、編集者の私的アドレスで、しのいだことがあった。ほかにも類似の事故がいくつかあった。私的通信も公的通信もほとんどメールになっているが、ときにこうした事故が起きる。不安が残るものの、いまさらメールをやめるわけにもいかない。
2010年1月20日(水) 授業日
週一回の授業日で桃大へ。通常の授業は本日が最後になる。2限の「論述作文」は最後の研究発表、来週は最終レポートの冊子製作。4限の「科学史」は近代日本。来週は最終テストで、今年度の授業は終了である。
2010年1月19日(火) シーコード編『ダーウィン進化著作集』
Jim Secord が編集したダーウィンの『進化著作集』(Evolutionary writings, 2008)にようやく目を通すことができた。4日もかかったとは、まったく効率が悪い。収録されているのは、『ビーグル号航海記』第2版、『種の起源』初版、および『人間の由来』初版、それぞれからの抜粋、それと1838年執筆の自伝断片、および1876年以後に執筆した『自伝』である。資料として重要なのは、最後の『自伝』の翻刻である。現在は通常、ノラ・バーロウ編のもので読まれているが、彼女は読みやすくするため、稿本にかなり手を加えているという。ダーウィンの稿本に忠実な『自伝』の翻刻が初めて出版されたことになる。
序論を読んで、シーコードが自伝にこだわる理由がわかった。ダーウィンは人間の精神の進化を考察する材料として自分自身の精神の変化を分析しようとしていた、とシーコードはいう。この立場からは『自伝』が『進化著作集』に収録されても不思議はない。
編者による「序論」では、ダーウィンの生い立ちから、『種の起源』の特徴、さらにはダーウィニズムの日本や中国、アラブ世界への影響まで扱っている。わずか30ページのうちに、ダーウィンに関する諸問題を一通り論じているのである。文献はほとんど注記されていないが、シーコードの見解をまとめて見ることができる。19世紀進化論史ではもっとも信頼できるシーコードのダーウィン論は、おおいに参考になった。
2010年1月15日(金) 「展示資料目録」の初校校正
寒さもいくらか和らいだ。それでも「寒中見舞い」2通を投函するためのポストまでの往復10分はおっくうだった。
午前中にJ-COMの営業マンが来宅して、電話もインターネットもJ-COMの光にまとめるよう勧められた。逆にNTTからも同様の勧誘が来ているが、どうしたものか。しばらく様子を見よう。
午後はまず、桃大の紀要の原稿「日本学術会議ダーウィン・シンポジウムで展示した本学資料」初校の校正。表記上のミスがいくつかあるので、元の原稿データも直しておこう。
ついで『生物学史研究』に掲載するダーウィン・シンポの報告に着手し、自分の担当分は入力を終えた。後は当日の参加者2名からの寄稿を待つだけである。
これでダーウィン・シンポの後始末も一区切り。明日はダーウィン本のサーヴェイに取りかかれるだろう。
2010年1月14日(木) 原稿送付
相変わらず寒い。『学術の動向』の原稿「ダーウィン研究の展望」に若干、手を加え、メールで送稿。
2010年1月13日(水) 授業日
一時は雪も降る寒さ。2限の「論述作文」では学生の研究発表に駄目出し。4限の「科学史」は明治期の日本について。「坂の上の雲」にも触れたが、学生たちは本もテレビも見ていないかもしれない。最終テストの予告をし、授業後に試験問題を印刷。試験は再来週だが、来週は何があるか分からない。早めに用意しておこう。
大学宛てに年賀状が数通、届いていた。個人からの賀状には返信しなければ失礼だが、この時期になってからは年賀状というわけにもいかない。寒中見舞いで出すほかないか。
2010年1月12日(火) 授業準備
明日は授業で久し振りに大学へ行くので、いくらか心身も引き締まってきた。「科学史」の試験問題を作成。
2010年1月11日(月) 『学術の動向』原稿
日本学術会議の機関誌『学術の動向』3月号に掲載する原稿「ダーウィン研究の展望」を終えた。基本的には12月5日の講演内容を文章化したものなので、新しい内容があるわけではない。今年になってからだらだらと取り組んでいたが、この2日はやっと集中することができた。
2010年1月8日(金) 文楽初春公演で「まき手ぬぐい」ゲット
文楽劇場、昼の部。演目(二人禿、毛谷村、壺坂)にさほどの魅力はなかったが、正月気分を味わいに行った。ロビーには黒門市場から贈られた一対の大きな「にらみ鯛」が飾られていた。
「毛谷村」も「壺坂」もすでに見ているはずだが、すっかり忘れている。ただ「壺坂」を見ていて気がついたのは、数十年前、新橋演舞場で見た文五郎の最後の舞台は、お里の針仕事の場面だったのではないかということ。今回は文雀、満員の観客も細かな針の動きに喜んでいた。存在しない糸が見えてくるから面白い。
幕間に初春公演、恒例のまき手ぬぐい。今回、初めてこれをゲットした。「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」。多分、いつも床直下で見ている当方を目掛けて投げてくれたのだろうと思う。一昨年も同様だったが、手前で落ちてしまった。今年はいつもの席が取れず、一列前の席だったのが幸いしたか。
4月公演は久し振りに、「妹背山」の通し。どんな舞台が見られるか。今からワクワクする。文楽の醍醐味は、なんといっても時代物の通しにある。
2010年1月1日(金)その2 初詣
昨夜、NHKの「行く年来る年」を見ていたら、芝・増上寺の境内いっぱいの参拝客が風船を飛ばしていた。芝新堀町の実家にいた当時は、紅白が終わってから歩いて行くとちょうど年が明ける時間であったが、参拝客も今ほどではなく、風船飛ばしなんか無かった。いつから名物行事になったのだろう。
今朝も寒いが昨日ほどではない。8時前に年賀状の配達があったのには驚いた。例年は10時ころだが、これも新生郵便局のサービス向上なのだろう。
年賀状を書いてから、例年通りに地元の加賀田神社に初詣。
2010年1月1日(金)その1 今年は何をするか
学術会議ダーウィン・シンポの後始末、すなわち『学術の動向』と『生物学史研究』とに掲載する原稿の執筆が残っているが、今月中に終了の予定である。その後の予定はとくにない。いよいよダーウィン本サーヴェイをやるか。やたらと手をつけていたのではまとまらないので、まずは雑誌の特集号を一通り見ておこう。
一方で、生物学通史の執筆もあきらめていない。こちらは「アリストテレスの生物学」から着手することになる。しかし不器用な質なので、ダーウィンとアリストテレスとに並行して取り組むというのは難しいが、とにかく始めてみよう。
2009年12月31日(木)その2 今年は何をしたか
今年、我が身の最大事件は3月に定年退職したこと。日常生活が、がらりと変わった。ほとんど毎日、大学の研究室に出かけていたのが、ほとんど毎日、家にいるようになった。実験科学出身のため、歴史研究に転じた後も「研究は研究室で」という生活習慣が続いていたので、自宅では集中力に欠けて仕事がはかどらない。困ったことだ。
外出もめっきり減った。面倒くさいということのほかに、金銭上の問題もある。昨年までは図書購入や観劇の費用を気にすることはなかったが、年金生活になるとそうはいかない。出費を抑えるには外出しないのがなによりだ。
仕事の面では、前半が『チャールズ・ダーウィンの生涯』の出版、後半が日本学術会議ダーウィン・シンポの準備と、ダーウィン年らしい一年であった。ただ、雑誌やテレビへの出番があるだろうと予想していたのに、結局、『現代思想』4月増刊号だけだったのが肩すかしであった。おそらく進化論への関心は高くても、ダーウィン本人についてはそれほど関心がないということなのだろう。
『チャールズ・ダーウィンの生涯』の後は、内外で続々と刊行されるダーウィン本をサーヴェイするつもりだったが、ほとんど手つかずで終わり、来年に持ち越しとなった。