2009年12月31日(木)その2 今年は何をしたか
今年、我が身の最大事件は3月に定年退職したこと。日常生活が、がらりと変わった。ほとんど毎日、大学の研究室に出かけていたのが、ほとんど毎日、家にいるようになった。実験科学出身のため、歴史研究に転じた後も「研究は研究室で」という生活習慣が続いていたので、自宅では集中力に欠けて仕事がはかどらない。困ったことだ。
外出もめっきり減った。面倒くさいということのほかに、金銭上の問題もある。昨年までは図書購入や観劇の費用を気にすることはなかったが、年金生活になるとそうはいかない。出費を抑えるには外出しないのがなによりだ。
仕事の面では、前半が『チャールズ・ダーウィンの生涯』の出版、後半が日本学術会議ダーウィン・シンポの準備と、ダーウィン年らしい一年であった。ただ、雑誌やテレビへの出番があるだろうと予想していたのに、結局、『現代思想』4月増刊号だけだったのが肩すかしであった。おそらく進化論への関心は高くても、ダーウィン本人についてはそれほど関心がないということなのだろう。
『チャールズ・ダーウィンの生涯』の後は、内外で続々と刊行されるダーウィン本をサーヴェイするつもりだったが、ほとんど手つかずで終わり、来年に持ち越しとなった。
2009年12月31日(木)その1 凍える大晦日
なにしろ寒い。風がきついので、外に出ると余計、寒さが身にしみる。雪が降らないだけましか。昨日までに雑件が片付いてたので、このジャーナルを執筆し、『学術の動向』の原稿に着手。
2009年12月29日(火) お買い物、お買い物
カミさんの買い物にお付き合い。キャット・フードにお正月用品、墓参りグッズ、などなど。ただただ、お疲れさんの一日だった。
2009年12月28日(月) 久し振りの外出
外出といっても、バスで河内長野郵便局へ行き、長野神社を経由して駅前まで歩き、本屋をのぞいてからバスで帰ってきただけ。それでも先週の火曜日以来の外出なので気分転換にはなった。
三が日と十日恵比寿の時はかなり混雑する長野神社も、本日は境内に誰もいない。重文指定の本殿をゆっくり観察してきた。
2009年12月27日(日) ReaD更新
研究開発支援総合ディレクトリ(ReaD)の研究者情報をやっと修正することができた。「社会学部教授」を所属部署なしの「名誉教授」に訂正しなければならないし、URL
も訂正しなければならないので、この2ヶ月の間に3回ほどトライしたが、うまくいかない。元のデータが削除できないのである。本日、ようやく削除の方法がわかったので、データ更新ができた。パソコンではよくあることだが、分かってみれば簡単なことに引っかかって先に進めなかったのである。
2009年12月26日(土) 年賀状
昨日、自宅のプリンターで年賀状を印刷し、本日、9枚だけ書く。二三日中に投函すれば元日配達に間に合うだろう。年々おっこうになってきて、後は返礼の形になるが、ま、いいか。
昼にNHK-BSでN響の第九を放映していた。ベートーベンの世界に浸っていたのに、第4楽章の初めの部分で咳の音が入り、ぶちこわし。現在の技術でこうした雑音は消せないのだろうか。演奏が終わった後は画面の聴衆と一緒に拍手を続けてホールにいる気分に。これはラジオでは無理なことだ。今年の第九はこれでよしとしよう。
このジャーナルを書いているパソコンの向こうにテレビがあり、今、BSJで加藤和彦特集を放映している。続けて、BS11でも追悼番組があった。今日の朝日の夕刊にも彼の追悼記事があった。もともと自殺願望があったということだが、充実した生活だったはずなのに、なぜだろう。人間関係がわずらわしかったのか。生きていくのが面倒くさかったのか。他人事ではない気がする。
2009年12月25日(金) 富山太佳夫『おサルの系譜学』
しばらく前に著者から贈呈された標記の著書に目を通す。青学の富山太佳夫教授とは2006年11月18日の日本ヴィクトリア朝文化研究学会シンポジウム「ダーウィニズム:その背景にあるもの」(於:神戸女学院)で講演者として同席した縁があり、今回、ダーウィン・シンポジウムに参加していただいた。
同書は小論集で、その多くはヴィクトリア朝の社会と文化のさまざまな面を分析したものである。残念ながら当方にはその全部を読み解く能力も時間もないし、文学系の論者に特有の言葉遣いも苦手である。それでも著者独自の指摘は、楽しめる。
ダーウィンについては、「ビーグル号の野蛮人」で、その強い人種偏見を指摘している。12月5日のダーウィン・シンポジウムでも富山教授は同様の指摘をし、他の講演者と議論になっていた。当方はその場で発言しなかったが、別の所で書いたように、ダーウィンも人の子、当時のジェントルマンなら当たり前の人種差別、女性差別、階層差別の意識があったことはを確かであろう。それを自らの生物学理論で擁護しようとしたこともある。だからといって、これは当時のジェントルマンの通念なのだからダーウィンを取り立てて差別主義者ということはできないし、その生物学理論が差別意識と結びついているともいえない、と考えている。拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』で、もっとこのことを書いておくべきだったかもしれない。
2009年12月23日(水) ホームズ長編物
ホームズ物は一通り読んでいるのだが、テレビのホームズ物を見てストーリーを思い出さないことも多い。『四人の署名』も二三回は読んでいるのに、忘れている。またまた一念発起、とりあえず家に文庫本のある『緋色の研究』と『四人の署名』を読了。読み直して気付いたのは、この二作、同工異曲だ。女を金に、アメリカ西部をインドに変えただけ。犯人が防備の固い上の階の部屋に侵入するのに、一方はよじのぼって屋根から、一方はよじのぼって窓から。他人なら盗作とされるだろう。
『四人の署名』の最後、テムズ川の追っかけは、ディケンズ『大いなる遺産』の最後にそっくりということにも今回気付いた。
『四人の署名』の原題は
The sign of (the) four. sign
がなぜ単数なのか。昨日たまたま近大病院で、もと同僚のネイティブ教員に会ったので聞いてみた。驚いたことに彼もこれを気にしていたところだという。sign
を署名とするのは誤訳であろうとのことだった。後で調べると、日本語の題名はけっこう議論になっているようだ。
『バスカヴィル家の犬』は家になかったので、昨日、大学からの帰りに泉ヶ丘の紀伊國屋書店に寄ったら在庫がないという。大型書店ではそろえておくべきだろう。幸い駅前の小さな書店に新潮文庫があったので購入。『緋色の研究』と『四人の署名』よりも推理小説らしくなっているが、現在の読者なら、読み始めてまもなく犯人が分かってしまうだろう。同書の魅力は推理よりも全体の雰囲気にあるのだろう。
2009年12月22日(火) 図書館
午前中は近大病院眼科。午後は桃大に行き、久しぶりに図書館の地下書庫にもぐる。新しいダーウィン本がかなり入っているが、とりあえず2冊だけ借り出す。
2009年12月19日(土) 査読
昨日今日と、とにかく寒い。「ここらあたりは山がゆえ」、ぱらぱらと雪も降っている。この2日は某誌の投稿論文の査読に費やした。査読報告だけなら時間はかからないが、この際、関連の問題を見ておこうと、久しぶりに各種文献をひっくり返して調査した。編集委員会への報告書は終えたが、自分の関心から図書館で調べることが残った。
調査内容を具体的に書きたいが、査読は表に出てはならない作業と見なされているのでこれ以上書くべきではないだろう。我ながら歯がゆいが、致し方ない。
2009年12月16日(水) 授業日
週に1回しか登校しないので、けっこう忙しい。まずは総合研究所に立ち寄って、昨日送信した原稿が受理されたことを確認。早くも1月発行予定の紀要に掲載してくれるとのことだった。ついで図書館に行き、学術会議で展示した資料の処理について事務方と打ち合わせ。
2時限の「論述作文」では学生の研究発表に駄目押し。受講生の一人が図書館書評賞で優秀賞を取ったので、授業後にまた図書館に行き、授賞式に列席。
4時限の「科学技術史」は緒方洪庵。紀伊国屋のビデオを教材にし、北浜の適塾を見学してきて欲しいと強く要望したが、実際に行く学生がいるかどうか。
年内、大学に来るのは最後になるので、名誉教授室のロッカーを整理してから帰宅。帰りに立ち寄った泉ヶ丘駅前の中華屋さんでは、10人ほどの団体客がにぎやかに談笑していた。世は忘年会シーズンなんだな。
2009年12月15日(火) ワープロソフトの異変
ここ数日は、12月5日ダーウィン・シンポの報告に関する作業に追われている。学術会議の機関誌『学術の動向』に各自の講演内容を執筆することになっているが、これとは別に、生物学史分科会の『生物学史研究』にもなんらかの報告を載せるべきだろうし、共催者として大きな役割を果たした桃山学院大学の広報誌『アンデレクロス』および『総合研究所紀要』にも報告が必要だろう。『アンデレクロス』の記事は図書館職員にまかせるとして、まずは総研紀要に投稿する原稿「日本学術会議ダーウィン・シンポジウムで展示した本学資料」(仮題)を書き上げた。
文章作成にはいまでも一太郎(ATOK仮名入力)を使っているが、本日昼過ぎ、突如として拗音の小文字「ゃゅょ」が入力できなくなった。慌てて一太郎のサポートに電話すると、いろいろと設定変更を試みたが直らない。念のためMIMEに変更しても同じ症状だったので、キーボードの故障だろうということになった。キーボードを換えるにはどうすればよいのか。今度はNECのサポートに電話したら、それはNumLockが掛かっているためだろうという。なるほどNumLockを解除したら正常になった。これに気がつかなかった自分も情けないが、一太郎のサポートも心細い。この騒動で数時間を空費してしまった。
ところで本日は極月の15日。それなのに昨日も今日も、テレビに忠臣蔵ものが一つもない。せめてラジオで講談がないかと探したが、これもない。自分にとっては紅白歌合戦より大事な行事なのに、残念。
2009年12月9日(水) 学内三学会
本日は授業日、2時限の「論述作文」は学生たちの研究発表。4時限の「科学技術史」では恒例の「学生による授業評価」を実施。授業終了後、文学研究科関係の学内三学会の合同研究発表会に出席。4時50分から藤岡毅さんの学位論文「ルイセンコ主義はなぜ出現したか」の講演がある。これは出席しないわけにはいかないだろう。ところが藤岡さんの講演の最中、最初から終わりまでぐっすり寝込んでしまった。内容を熟知しているからよいものの、我ながら失礼極まる。自覚している以上に疲労が溜まっているのだろう。
藤岡さんの後は英文学教員の発表があり、その後で懇親会となっているが、遅くなり過ぎるので二人で和泉中央駅近くで夕食とした。何を話しても心配する必要のない相手なので、言いたい放題。鬱憤晴らしにつきあってもらった。
2009年12月7日(月) ジャーナル執筆
朝は在木(ありき)カイロプラクティックで治療。帰路、三日市駅前の銀行コーナーでシンポ関係の最後(多分)の支払い入金を済ませ、キャット・フードを買って帰宅。風邪が完治せず、体調も本調子ではない。昼はメールを数本打っただけで、うだうだしていた。新幹線の忘れ物は終着駅の広島駅に保管してあったので、着払いで送ってもらえることになった。
夜に入ってやや気分も乗ってきたので、ジャーナルのまとめ書きに取り組んでみよう。この1週間はダーウィン・シンポの準備で余裕はなく、ジャーナル執筆をサボってきた。
2009年12月6日(日)その2 NHKハイビジョン特集「ダーウィンの進化論・誕生秘話」
夜10時から11時半まで、NHK-BS3
で標記のタイトルのドラマが放映された。いくら疲れていても見ないわけにはいかない。これは教養番組ではなく、NHK大河ドラマと同様、史実を素材にした演劇作品であった。したがって、「それは違う」と、いちいち目くじらを立てる必要はない。とはいえ吹き替えだったので、おかしい、英語ではどうなのだろうと気になる台詞もいくつかあった。また、マルサス『人口論』から自然選択説につなげるのに、残酷な捕食場面を繰り返し見せつけたのは不適切である。自然選択説について、製作者たち自身が誤解しているのだろう。
どういう人たちがどういう意図でこのドラマを作ったのか、NHKのホームページを見てもわからない。そこには、<国際共同制作「“種の起源”誕生まで 〜ダーウィン 苦悩の日々〜」▽出版までの20年に隠されたドラマ▽信仰か科学か?苦渋の決断>と記されているだけである。ドラマでは大著『自然選択』執筆の件が完全に削除されている。これでは『種の起源』の基本的性格が分からない。視聴者が史実ではなく、演劇作品と見てくれればよいが、テレビ信仰の強い日本ではどうだろうか。
登場人物の服装やダウン・ハウスの内装などは考証がしっかりしているはずだから、そうしたところを楽しめばよいのだろう。
2009年12月6日(日)その1 うっかりミスの連発
朝から精神が集中しない。疲れのためか、風呂上がりのような、ぼおっとした状態が続いている。何か、やらかしそうな悪い予感があったが、案の定、まず、部屋を出てフロントに行く途中でVISAカードを落としてしまった。見つかったからよいものの、宿にとっても迷惑な話だ。済みませんでした。
さっさと帰阪した方が無難だとは思ったが、いくらなんでももったいない。東京国立博物館をちょっとだけのぞいていくことにした。最近は本館2階の国宝室に直行しているが、現在、2階は閉鎖されている。今日は、1階「帝室技芸員特集」のうちの一点、宮川香山「黄釉銹絵梅文大瓶」(重文)を憶えておくことにしよう。
昼前に東京駅発「のぞみ」で新大阪へ。富士山がよく見えた。気がつくとセーター代わりの毛糸のチョッキがない。博物館のロッカーに置き忘れたと思って、大阪から問い合わせたが、ないという。難波から南海高野線に乗るときに思い出した。新幹線の棚に置き忘れたのだ。我ながら情けない。
難波に出る前に日本橋に回って、国立文楽劇場で正月公演の切符を購入。窓口購入なら私学共済の大幅割引が受けられるのだが、持って行ったのは期限切れの購入券。馬鹿ですね。座席はどの日もほぼ完売になっている。正月は出し物に関係なく売れるのだろう。そんな中で床直下の席が残っていたのは、ラッキーだった。
2009年12月5日(土) いよいよ学術会議ダーウィン・シンポ当日
学術会議で10時から分科会(準備委員会)の会議。参加申込みはほぼ定員の300名になっているとのことで、準備委員の皆さんも緊張の面持ちである。講演会の役割分担などを確認して、直ちに準備にかかる。ほとんど事務局によって準備は終えているので、残る作業は展示資料を箱から出して配列し、キャプションを並べることである。その作業中、国立科学博物館から『種の起源』初版を展示するためのケースなどが運び込まれてきた。
受付が始まるより早く、12時前には参加者が入ってきたので展示を見ながら待ってもらう。
1時から講演会開始。壇上から見ると、かなり空席が目立つ。事務局に聞くと、実際の参加者数は215とのこと。当日参加もあるので、事前申込み300のうち、約100名が来なかったことになる。通常は当日欠席2割前後といわれるのに、昼頃から雨が降り出したという事情があるにもせよ、この欠席率の高さはなんなのだろう。
休憩時間と講演終了後にロビーで展示資料を自由に見てもらったが、これは好評のようだった。
講演会の最後にフロアからの質問を受け付けたところ、時間内に6件の質問があった。ダーウィンと神、ダーウィニズムと精神、「進化」という言葉、ダーウィンと遺伝学、など、基本的な問題についての質問であった。時間があればさらに多くの質問があったろう。一般向けの講演会でこれだけ質問が出れば成功といえるようだ。
講演会と展示終了後、資料を梱包して事務局にあずけ、近くのホテルで開かれた懇親会に。準備委員会のメンバー全員と学生アルバイトの諸君、それに生物学史分科会関係者数人で講演会の成功を祝った。まだ懇親会は続いていたが、早めに退席して宿へ。
2009年12月4日(金) 東京へ
新大阪から新幹線で品川へ、原宿に出て地下鉄「乃木坂」の日本学術会議へ。展示用の机の配置などを最終確認。パワーポイントはピント合わせにより、先月24日の状況よりかなり改善されたという。それにしても、ピントがずれた状態で1ヶ月以上使い続けていたというのが驚きである。
早めに宿に入って体力温存。泊まりはいつもの私学共済、東京ガーデンパレス。
2009年12月3日(木) 出発準備
昼は体を動かすのも億劫で、うだうだしていた。夜になって荷造り開始。寝るのが遅くなったが、明日は電車の中で寝ればいいだろう。
2009年12月2日(水) 授業日
喉が痛むので授業でしゃべるのはつらい。2時限の「論述作文」は学生の発表が中心、4時限の「科学技術史」ではほとんどシーボルトのビデオを見てもらった。ダーウィン・シンポ展示用の図書は本日、発送したとのことだった。
2009年12月1日(火) 予稿集原稿の送信
昨日から喉が痛み、体がだるい。福岡医院で薬をもらっているが、すぐには回復しない。朝から予稿集の編集を続けていたが、待ちに待った最後のレジメが届いた。悪性の風邪でどうにもならなかったという。お互い様ですね。これで事務局には最終原稿が送れる。自宅でなすべき準備作業は完了したはずである。
2009年11月29日(日) 能三番
昼過ぎに上町の大槻能楽堂へ。能笛の野口傳之輔喜寿記念の会がある。本音をいえば、ダーウィン・シンポの準備が最終段階に入っているので出かけたくはないのだが、そうもいかない。最初の能は梅若六郎師の「鷺」、笛は野口亮師。六郎師は一時的に「玄祥」を名乗っているが、関係者ならとにかく、一般には混乱をもたらすだけだ。次は大槻文蔵師の「景清」。笛は傳之輔師、喜寿とはいえ笛の力は衰えていない。文蔵師も老残の景清を見事に演じていた。ただ、こちらに心身の余裕がないとこういうドラマは楽しめない。最後は宗家・観世清和師の「道成寺」で、笛は斉藤敦師。景清とは対照的に囃子方が大活躍し、ワキ方、狂言方も見せ場の多い賑やかな能である。ただ、後ジテの鬼女に凄みが感じられなかったのが残念だった。
高額の入場料なのに満席に近かった。それでも大赤字だというのだから、古典芸能の伝承は楽ではない。
しぶしぶ出かけ、疲れているので半分は寝ていたが、得るものもあったので、よしとするか。
帰宅後、就寝前にテレビを付けたら、故清元志寿太夫が「三千歳」をうたっているではないか。ちょうど、「一日逢わねば千日の」と、口説きの始まるところだった。11世団十郎と尾上梅幸の舞台を思い浮かべながら聞いた。「三千歳、もうこの世では、逢えねえぞ」と走り去る直侍の姿も浮かんでくる。能も結構だが、歌舞伎・文楽の方が自分の性に合っているようだ。
2009年11月28日(土) 予稿集編集
ダーウィン・シンポの予稿集の編集に取りかかっているが、超多忙なお一人からレジメまだ届かない。困った困った。
予稿集を編集していて気がついたのは、この講演会を準備した組織とメンバーの説明がどこにもない。急遽、「編集後記」を掲載することにしたが、名称や日時は正確でなければならず、謝辞も入れるので、短いものだが執筆に疲れた。
2009年11月26日(木) ダーウィン・シンポ準備
一昨日の火曜は東京出張、昨日は授業で、少々、疲れている。午後になっていくつかメールを送信し、講演用のパワーポイントの作成完了、学術会議事務局に送って一段落。後は、予稿集の編集と、桃山学院大学協力金から支払うバイト代などの準備がある。
2009年11月25日(水) 授業日
いつものように、2時限「論述作文」、4時限「科学技術史」。合間に図書館事務職とダーウィン・シンポの資料展示について打ち合わせ。キャプションは事務方が手作りするつもりだったが、結局、紀伊国屋に製作を依頼することになった。同じようにやっても、本職の作ったものはきれいだ。
2009年11月24日(火) ダーウィン・シンポの準備で東京往復
12月5日のダーウィン・シンポ準備のため、新幹線で東京往復、乃木坂の日本学術会議へ。本日は、資料展示のための机の配置と講堂の状況を確認するため、在京の準備委員が下見をすることになっており、それに参加することにした。展示する資料の大部分は桃山学院大学図書館の蔵書なので、ほっておくわけにもいかない。
受付、資料展示、資料販売のための机を、講堂内とロビーにどう配置するかを決め、パワーポイントの状況を見た。講堂のパワーポイントが見にくいとは聞いていたが、これほど不鮮明だとは思わなかった。日本の学術を代表する施設で、これは困る。講演者の皆さんには、スライドを印刷配布するよう、要請することにした。
2009年11月21日(土) 科学史学会西日本研究大会
標記の研究会に参加するため、大阪駅前第二ビルの大阪市立大学梅田センターへ。ダーウィン・シンポの準備はあるし、発表のテーマはみな、専門外なので、気は進まなかったのだが、座長を依頼されているし、行かざるを得ない。しかし参加してよかったと思う。同じ科学史でも、こういう機会でないと物理学史など専門外の分野の研究状況を聞くことはない。よい刺激になった。
2009年11月17日(火) ホームページの転送設定変更
年末並みの寒さで雨まで降っている。パソコン相手の一日にふさわしい天候であった。
昨夜、このジャーナルをいつもの手順で桃大のサーバーに転送したら、不成功だった。「宛先を間違えている可能性がある」と表示されたが、いつもと同じことをしているのになぜだ。途方に暮れてしまった。本日、情報センターに問い合わせたら、サーバーの管理システムが変更されたとのこと。転送設定をやり直して、無事、転送できた。
本日は、12月5日ダーウィン・シンポの予稿集に掲載する「ダーウィン年譜」と「ダーウィン編著書一覧」を作成。基本的には以前、作成したものを流用したので、それほど時間はかからなかった。予稿集に掲載する講演レジメも集まりだした。
2009年11月16日(月) 『中央公論』12月号の書評
12月5日ダーウィン・シンポで展示するダーウィン本のキャプション原稿を作成し、昼過ぎには桃大図書館の事務方に送信することができた。解説目録も残すは書式を整えるだけ。あとは、予稿集に掲載する講演レジメ、ダーウィン年譜、ダーウィン編著書一覧、それに講演用のパワーポイント・スライドの作成、予稿集の編集、さらにアルバイト謝金支払いの準備などがある。12月5日までは緊張が続く。
昼ごろ、朝日新聞出版の山田さんから、『中央公論』最新号に掲載された拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』の書評が、FAXで送られてきた。評者は英文学の河合祥一郎東大教授。「本書は特に、背景にあった大英帝国の力に注目し、ダーウィンの身分の高さに光を当てている」とあり、「ダーウィンをとりまく社会の様相とその生涯とを丹念に描き出し、『種の起源』執筆の背後にあるダーウィンの思想についても教えてくれる実に得がたい啓蒙書である」と締めくくっている。我が意を得たりの評価である。
2009年11月15日(日) 耐震診断
午前中に団地の自治会館で、河内長野市による耐震診断補助制度の説明会があったので参加してみた。耐震診断の必要性は分かるが、補助の対象になるのは昭和56年5月31日以前に建築された住宅だという。我が家は昭和58年築なので、診断費用の5万円はすべて自己負担になる。年金生活の中でこれだけ負担するのはつらい。どうするか、慌てずに考えよう。
午後から夜にかけては12月5日ダーウィン・シンポで展示するダーウィン本の目録作成に集中した。おおむねデータの整理はできたので、あとは不明確なところを確認し、できるだけ解説を入れ、表記を統一する必要がある。それとキャプションを図書館事務方に依頼するため、その原稿作成も急がなければならない。
2009年11月13日(金) 文楽「芦屋道満大内鑑」
久しぶりの文楽。ダーウィン・シンポの準備で劇場に出かけるような余裕はないのだが、夏の公演を見のがしたので今回は断固行くことにして前売りを買っておいた。座席はいつもの床直下。最後の道行では、清治の太棹が目の前でびんびん鳴っていた。
この11月公演は夜の部の「心中天網島」の方がメインだろう。近松の名作だし、住大夫も出ている。歌舞伎と文楽で、いままでに繰り返し見てきた。記憶に残るのは先代鴈治郎の紙治と、先々代三津五郎の孫右衛門。紙治を取り巻く人々が皆、まともで、主人公の紙治だけがだらしない。そのだらしなさに共感できるため人気の作品になっているのだろう。今回はなんとなく気が重いので、昼の部の「芦屋道満大内鑑」にした。おなじみの「葛の葉子別れ」の段以外は、多分、どれも初めて見る場面だった。話の流れが理解できたし、道行の三味線にも堪能したので、出かけた甲斐があった。
昼の部は3時に終わるので、博物館か美術館にまわることもできるのだが、今は体力温存。5時前に帰宅したが、猫たちが待ち構えていて、すぐには休めなかった。
2009年11月8日(日) 展示資料の目録作成に着手
昨日の土曜日から展示資料の目録作成に取り組むつもりだったが、前日の疲れが出て、ただただ休むだけ。一日仕事をすると、一日は休むという状況になってきた。年は争えない。本日も夕刻になってようやく仕事モードになり、目録作成を開始。洋書については既存の目録がそのまま利用できるが、古い和書の場合、既存の目録が当てにならない。実物で確認する必要がある。
2009年11月6日(金) 資料展示の準備
本日は疲れも抜けたので朝から桃大に行き、図書館でダーウィン・シンポの資料展示の準備作業。展示する資料とその配置をほぼ決定した。事務方の協力もあり身体的にはそれほどの労働ではないのに、疲れた。
12月5日のダーウィン・シンポの当日は、机(60
×180)6脚を用い、おおむね、次のように資料を並べることにした。1卓「東大蔵書」、2卓「ビーグル号航海の動物学」、3卓「全集」、4卓「書簡集」、5卓「稿本」、6卓「和書」。机をどこに配置するかが確定していないが、たぶん、これだけの展示は可能だろう。
2009年11月5日(木) 東大蔵オリジン初版の展示
本日も桃大図書館で作業をする予定だったが、昨日の疲れが出て取りやめ。自宅でパソコンを相手にする一日となった。
12月5日のダーウィン・シンポでは、桃大図書館所蔵のダーウィン関係資料を200冊ほど展示する予定で、その中には『種の起源』第4版と第6版の原書もある。会場では手にとって見てもらう予定である。
このほかに、東大の佐倉教授の尽力で、『種の起源』初版など、東大が所蔵するダーウィン生存中の著書を6点、展示できることになった。こちらは、見るだけの展示である。とりわけ『種の起源』初版は貴重本なので、ケースに入れる必要がある。これもシンポに参加される国立科学博物館の山田格さんの尽力で貴重品を展示するための特別なケースを借用できることになった。
展示資料を見るだけでも、有意義なダーウィン・シンポになるであろう。
2009年11月4日(水) 出版記念会
本日は桃大の授業日。いつものように、2時限「論述作文」、4時限「科学技術史」。合間に図書館でダーウィン・シンポの展示資料の確認作業。大型本の『ビーグル号航海の動物学』3巻を広げて展示するだけで、机が1つ必要になる。展示用の机は4脚を予定していたが、それでは到底足りないことが分かった。
桃大では本日、教職員による学長選挙の決選投票があり、夕刻までに次期学長が経営学部の明石教授に決定した。学内はこの話で持ちきりである。
そんななか、もと同僚たちが大学近くの料理店で、『チャールズ・ダーウィンの生涯』出版記念会を開催してくれた。出席者12人のうち、経済学部が5人、法学部が3人で、当方が所属していた社会学部は1人。事情を知らないと、なんとも奇妙な集まりに見えるだろう。事実、一緒に飲み食いするのはこれが初めてという組み合わせも数組あったが、自分にとっては暖かくて楽しい会であった。
2009年11月3日(火) ダーウィン・シンポの準備
本日は祭日なので、いくらあせっても桃大で作業を続けるわけにはいかない。家で遅れているメールの処理に集中した。
合間にテレビを見ると、9月4日に大阪城ホールで催されたフォークの合同LIVE「君と歩いた青春」を放映していたが、10月17日に自殺した加藤和彦も楽しそうに歌い、語っていた。彼はなぜ自殺したのだろう。最近では中平幸典君の急死に次いで、衝撃的な訃報であった。
2009年11月2日(月) 桃大図書館で作業
朝、狭山の理髪店に寄ってから、桃大へ。図書館でダーウィン・シンポで展示する資料を選び、集める作業に取りかかった。今後の日程を考えると、これから週日は毎日のように図書館で作業しないと間に合わない。
2009年10月28日(水) ダーウィン・シンポのチラシ
本日は桃大の授業日。いつものように、2時限「論述作文」、4時限「科学技術史」。合間に図書館事務職とダーウィン・シンポの図書館資料展示について打ち合わせ。
授業が終わって個人メール・ボックスを見ると、ダーウィン・シンポのチラシ200枚が届いていた。ポスター・チラシは学術会議の予算で作製されるが、事務手続きのため11月後半になるという。学会シーズンにチラシを配布したいので、急ぎ、桃山学院大学の協力金によって2000枚のチラシを印刷することになった。その一部が届いたのである。早速、教員個人ボックスに配布し、学長室と図書館に届けた。まずは足下からの広報活動である。
2009年10月21日(水) 授業日
いつものように、2時限「論述作文」、4時限「科学技術史」。合間に図書館事務職とダーウィン・シンポの資料展示について打ち合わせ。いよいよ本気で準備に掛からなければならない。
昼休みの時間帯に消火訓練があり、研究棟への立ち入りが禁止されたのには面食らった。他の教員と同様、強引に入るほかなかった。
個人郵便受けに、アメリカから国際人名辞典への掲載案内、イギリスから「国際プラトン教育賞」なるものの授賞案内が届いていた。どうせ、金を出せという話だ。プラトン賞の場合、欲しければ659ドル払えという。馬鹿馬鹿しい。実態のない賞に7万円も出してどうする。しかし金で学位を買う大学教員が存在するのだから、こういう賞に金を払い、履歴書に記載する者もいるのだろう。
2009年10月19日(月) ダーウィン・シンポの準備で東京往復
12月5日のダーウィン・シンポ準備の会議のため、新幹線で東京往復。朝、家を出るとき、眼鏡店の親父さんがメガネを届けてくれた。店は千代田だが、家は近くなので、外出のついでのサービスである。久しぶりにメガネを掛けての外出となった。
品川駅から山手線、地下鉄・千代田線に乗り継いで、乃木坂の日本学術会議へ。ポスター・チラシの印刷と配布の件、桃山学院大学協力金の使途の件、書籍販売の件、学術会議機関誌『学術の動向』特集号の件などで、意外と時間が掛かった。
会議は本日が最後。これから当日の向けての作業が忙しくなる。
2009年10月18日(日) 道教展、笛の会
谷四(谷町四丁目)の山本能楽堂に行くため、久しぶりに大阪市内へ。能楽堂には5時に入ればよいので、昼過ぎに家を出て、まずは天王寺の大阪市立美術館の特別展「道教の美術」に寄る。
仏教には日常的に接しているし、学ぶ機会も多い。しかし、道教というものがよくわからない。この3月の台北旅行のとき、由緒あるお寺に数多くの道教の神が祀られているのが印象的だった。仏教と道教が一体となっている。日本のお寺では道教の影響があっても仏教に吸収されているので、分かりにくい。中国の医術や天文学は道教と結びついて発展したようなので、科学史の観点からも道教が気になる。
この展覧会を見たからといって道教が簡単に分かるというものでもないが、知らないことも多く、面白かった。宮内庁蔵の『正統道蔵』は、他の所有であれば国宝指定になるはず。こういうものを見るだけでも、得した気になる。ただ、まだメガネがないので展示品を見るのは少々つらい。時間の余裕もないので、急ぎ足で見て回った。
販売コーナーで、坂出祥伸『道教とはなにか』(中公叢書、2005年)を購入。道教の起源は後漢末の疫病の大流行に由来しており、赤壁の戦いで曹操が負けたのもこの疫病のためであったという指摘が、自分には斬新であった。
山本能楽堂では朝から、能の笛方・森田流の追善の会が催されている。現在、森田流の家元は観世宗家の預かりとなっているので、この会には観世清和師も参加していた。能楽堂に着いたとき、丁度、一調一管「安宅」が始まるところで、清和師が延年の舞の部分を力強く謡っていた。
次の番囃子「井筒」はいささか長かった。舞があればもっと楽しめたろう。この後がカミさんの出番で、野口亮師との連管で三番叟の「鈴之段」。二人の笛がびんびん響いていた。そのまましばらく居続ければ、清和師が舞囃子「龍田」で舞うのだが、明日のこともあり、体力温存のため、ここで帰宅。
2009年10月16日(金) メガネ新調
昼過ぎに近大病院でメガネの処方箋を作成し、帰りに千代田の眼鏡店で発注してきた。老眼が進んで今までのメガネではかえって見にくくなるため、半年以上、メガネを使っていなかった。それでも、ほとんど毎日家にいる生活では不便を感じることがなかった。とはいえ数メートルも離れると人の顔が分からないし、駅の案内板も読めない。ダーウィン・シンポも控えているので新調することにしたが、ちょっとした出費になってしまった。
2009年10月14日(水) 授業日
2時限の「論述作文」では、受講放棄したと思っていた学生が出席していた。先週はインフルエンザのため欠席で、メールで届けたというが届いていない。夏期休暇の課題は提出方法が分からなかったという。なんとも頼りないが、とにかく様子を見よう。
4時限の「科学技術史」では、前回書いてもらった授業についての感想・意見についてコメントした。「耳ざわりが良い」「以外な話」「授講する」といった学生にありがちな誤字が続出していたので、内容以前に、まともな日本語を書く努力をしてほしいと説いた。
個人別の郵便受けには、12月5日ダーウィン・シンポに関する学術会議会長名の文書が2通、届いていた。こうした公式文書は、名誉教授であっても大学宛に送られるものなのだろうか。授業の前後合間に、生協、総合研究所、図書館とめぐり、ダーウィン・シンポに関連した作業をすます。大学図書館の協力態勢が固まり、11月に図書館としてもダーウィン展を開催することになった。ますます忙しくなる。
某書店の営業マンが訪ねてきていうことには、「『チャールズ・ダーウィンの生涯』はどこでも大評判ですね」だと。話半分どころか、話1割の営業マン・トークだが、まるでウソということもないだろう。ある程度は注目されていると思いたい。
2009年10月13日(火) 教材準備
朝は、在木(ありき)カイロプラクティックで治療。2ヶ月半ぶりの治療で、体がかなり軽くなった。午後は気力がもどって、まずは名刺の原稿作成。定年退職後に在職中の名刺を使えないが、なんとなく億劫で新しい名刺を作っていなかった。しかし学術会議のダーウィン・シンポを控えて名刺なしというわけにもいかないので、名誉教授としての名刺を明日、大学生協に発注しよう。
桃大での講義「科学技術史」の数回分のPPT教材を整理し、学内公開用にPDFに変換。これで一日が終わった。ここ数日はぼんやり過ごしてきたが、本日はまともに仕事をした気分である。
2009年10月10日(土) 宇宙猫、宇宙に帰る
老猫クロが亡くなった。状態がよくないため、最近はほぼ1日おきに通院していたが、8日の木曜日はきわめて元気だった。それが本日夕方に病院に行く途中、心臓発作が起きたらしい。昨夕から具合が悪そうだったが、いつものことで、まさか亡くなるとは思っていなかった。
賢い猫だった。食欲のない時でも、薬だけは少量の食事と一緒に取っていた。薬の役割が分かっていたようだ。肺に水が溜まる状態でよく頑張ったものだ。疲れたろう。ゆっくり休むとよい。
2009年10月9日(金) 子猫を連れて大阪空港
我が家の病猫の世話だけでも大変なのに、捨て猫一家の面倒を見る羽目になり、へとへとである。里親を探している2匹の子猫のうち、1匹が大分のお寺さんに引き取ってもらうことになって急遽、伊丹で京都主張から帰る住職にあずけた。
2009年10月7日(水) 授業再開
朝早く起きたときは1時間ぐらいは勉強に集中したいのだが、どんなに早い時間でもノアがやってきて、「腹すいた、飯よこせ」と騒ぐ。結局、老猫たちの朝食が優先される。それも三猫三様の食事で、薬も飲ませなければならない。これに1時間掛かってしまう。本日も猫の食事とゴミ出し、大急ぎでシャワーを浴び、バス停へ。老人臭が気になるので、外で人に会う時はシャワーが欠かせない。
2時限の「論述作文」では夏期休暇の課題を返却。今年も春学期受講生のうち1名が脱落した。4時限の「科学技術史」はダーウィンの話。材料に事欠かないが、ダーウィンをテーマにするのは3回にとどめておこう。台風前触れの雨のためか、出席者は少なかった。
大学の同僚(厳密には元同僚か)の中には、このジャーナルがあまり更新されなくなったことを残念だといわれる方もいる。そういうありがたい読者もいるのだから、できるだけこまめに書くようにしようか。
12月5日の日本学術会議主催ダーウィン・シンポジウムの案内が本日、学術会議のHPにアップされ、参加受付も始まった。準備委員会の方では、ポスターのデザイン決定の最終段階に入っている。国の予算と桃山学院大学の助成金によってまかなわれる公開講演会なので、なんとしても成功させなければならない。
2009年10月5日(月) 授業準備で大学へ
明後日に始まる桃大の授業の準備のため大学へ行く途中、狭山駅前の理髪店で40日ぶりの散髪。毎日が日曜日、外出といえば動物病院往復ぐらいなので、ひげも剃らず、髪が伸びたのもほったらかし。理髪店の店長にそういう話をしたら、そんなことでは早く老けてしまうので、他人の目を気にするようにしなさいと注意された。
大学で久しぶりにメール・ボックスをのぞくと、新刊の雑誌や贈呈本、書店の目録などで一杯になっていた。放送大学からの通知もあった。放送大学も70歳定年なので、「生物学の歴史」の担当も今年度で終わりである。放送大学からの通知は、要するに「あなたは終わり」ということなのだが、実に遠回しな表現になっている。英訳して欧米人に読ませたら、何を意味している文書か理解できないだろうな。
2009年9月26日(土) 中平幸典君・訃報
ヤフー・ニュースを漫然と見ていたら、「信金中央金庫の中平幸典・前理事長が転落死」とあった。まさか。ウソだろう。しかし、23日の昼に新宿区内のマンションで転落死したのは事実のようだ。大いなる喪失感。
中平君とは高校入学時からの数少ない友人だった。中学卒業を控えて都立日比谷高校に入学手続きに行ったとき、受付前で天井をじろじろ見ている妙な奴がいた。それが中平君だった。たまたま同じクラスになり、2年次、3年次のクラス移動でも一緒に動いた。卒業後も幾度かお宅に遊びに行った。金融界では著名人になったが、自分にとっては心を許せる得難い友人だった。今年の8月に出版した拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』の著者贈呈は学界関係者に限定したが、中平君だけには送っておいた。出版を祝福する手紙をもらったばかりである。
新宿で転落死というのは、どうも解せないが、いずれ同級生たちから情報が入るだろう。いまはただ、ご冥福を祈るのみである。
2009年9月19日(土) 題名にだまされた
猫の介護などに追われ、夕刻になってやっと洋書に取りかかる。
『ダーウィン神話』(Darwin Myth)
という書名に引かれたが、内容はカトリックの生物学者による自然選択説批判であった。ダーウィンの時代からの議論が、ほとんどそのまま繰り返されている。読後の充実感なし。
2009年9月18日(金) まだまだ出てくるダーウィン本
学術会議ダーウィン・シンポ共催の件で久しぶりに桃大へ。郵便受けに書店の目録が数冊入っていた。洋書目録を見ると、まだまだダーウィン本の刊行が続くようである。ダーウィン本のサーヴェイをすると宣言したのにもかかわらず、シンポジウムの準備などに追われ、ほとんど進んでいない。その間に見るべき書籍が溜まっていく。今年中は無理でも、なんとか成し遂げたいものだ。
2009年9月17日(木) 子猫の里親さがし
子猫の里親がまだみつからない。前にも書いたように、3匹の子猫の里親を探しているが、まだ1匹しか行き先が決まっていない。病気の老猫を抱えている我が家で飼うわけにはいかず、野良猫にするのもかわいそう。よく似た5月生まれの兄弟。人なつこい男の子たちなので、里親になってくれる人がいないだろうか。
2009年9月16日(水) 新聞書評2点
鳩山政権成立。今後の成り行きしだいでは、歴史的な日とみなされることになるかもしれない。とはいえ差し当たり当方にとっては、学術会議ダーウィン・シンポの準備と『チャールズ・ダーウィンの生涯』の評価が気になる。
朝日の山田さんからFAXで、長野敬さんによる東京新聞(9月13日)の書評と、中村桂子さんによる毎日新聞(9月13日)の書評が送られてきた。毎日の方がスペースが大きい分、詳しい紹介になっている。拙著をていねいに読んでいただいたことが分かる。
2009年9月15日(火) 学術会議ダーウィン・シンポのプログラム作成
本日は1日中、パソコンに張り付いて、学術会議のHPに掲載するダーウィン・シンポの概要を作成し、事務局に送信した。当分、こうした準備作業が続くが、一つの区切りにはなった。
2009年9月11日(金) 産業革命論の崩壊とダーウィン論
このところ、病気の老猫の世話と、学術会議ダーウィン・シンポの準備作業に追われ、論文を読んでいない。本日はパソコンに触らず、気になっていた論文を読むことに集中した。最新の『ジャーナル・オブ・ヒストリー・オブ・バイオロジー』(2009年秋号)の巻頭論文、M.J.S.
ホッジの「ダーウィン理論の資本主義的背景」である。
イギリス近代史の通説では、19世紀前半までに世界に先駆けて工業化が進行し、地主層に代わって産業資本家層が国の中心になったとされていたが、1980年代以降の歴史研究によってこれが否定され、19世紀になっても地主層の資産を基盤にした金融資本がイギリスを支えていた、イギリス経済は一貫してジェントルマン資本主義と呼ばれるべきものであったとみられるようになった。
ホッジは、現在のダーウィン研究では依然として産業資本との関係が重視されているが、近年の経済史研究の成果を踏まえ、ダーウィンについても農業や金融資本との関係に注目してダーウィンとその理論を見直すべきだろうという。
ホッジのこの論考は、「論文」というよりも「提言」といってよいものである。これが巻頭に置かれているのは、編集者も、著名なダーウィン研究者による重要な提言と見なしたためだろう。
これを読んで驚いたのは、その内容ではなく、こうした提言がなぜ今になって登場したのかということである。
川北稔「揺れる産業革命像」(『朝日新聞』1992年6月9日夕刊)で、「イギリスの学界では、産業革命の存在を否定する考え方は、八十年代からつよくなり、いまでは、ほとんど通説の域に近づいている」とあるのを読んだときには、仰天した。学校教育で学んだ歴史の常識がひっくり返った。しかし、この立場の方が、ダーウィンをよりよく理解できそうである。そこで拙著『ダーウィンの時代』(1996年)では、19世紀のイギリス科学について、「こうした科学界の状況は、産業革命論によるよりも、ジェントルマン資本主義論による方がよりよく理解できるであろう」と述べておいた。
同様の提言が今になって生物学史研究の基幹雑誌に登場したことに驚いたのである。イギリスでも経済史研究の成果が科学史家に浸透していないのであろうか。
2009年9月9日(水) HPを一気に更新
昨日に引き続き、version
up
したHPビルダーを使ってHPの更新。主な作業は、紀要の退職記念号に掲載した経歴と業績目録を転載することと、科学史・西日本大会のページの加筆修正である。かねてから気になっていたが、取りかかる気分にならなかった。それが何故か、数日前からやる気が出てきたので、他の部分も含めて一気に片付けた。
2009年9月8日(火) HPのゴミ掃除
本日のメインイベントはHPビルダーのversion
up
。不要なファイルの削除も初めてこころみた。やってみると意外と簡単だった。これでボタンが勝手に入れ替わることなどなくなるのかもしれない。クロの機嫌はよいようだ。
2009年9月7日(月) HPビルダー13を購入
朝一番に老猫クロを動物病院へ。肺に溜まった水を抜くことになり、夕方まで病院に預けることになった。いったん、家にもどってから、桃大へ。二三の用件を片付け、光明池の上新電機へ。このHPはHPビルダー7で作成していたが、最新の13にアップすることにした。帰途、千代田の動物病院でクロを受け取って帰宅。呼吸は楽になったようだが、麻酔が抜けきらないのか、今ひとつ元気がない。
2009年9月1日(火) 『アエラ』に拙著紹介記事
1時限・2時限に司書講習「専門資料論」の最終授業。朝早くの通勤途中で『アエラ』9月7日号を購入。新刊書紹介欄(p.79)に『チャールズ・ダーウィンの生涯』の紹介が掲載されている。わずか500字だが、「落ちこぼれ」と「金持ち」をキーワードにして見事にまとめている。さすが編集のプロは違うと感心した。拙著では「落ちこぼれ」という表現を用いていないが、短い紹介では強い表現が必要なのだろう。
「専門資料論」の試験が2時限に終わり、午後は名誉教授室に閉じこもって90枚の答案を一挙に採点。昨年までは研究室でラジオかCDを鳴らしながらの作業になるのだが、本日は深閑とした大部屋での作業。採点地獄の苦痛が増大した。
2009年8月30日(金) 総選挙
朝はたいてい6時前に目が覚めるのに、今朝は8時を過ぎていた。疲れが溜まっているようだ。昼間も、ただただ体を休めるだけ。夕刻に団地の自治会館で投票。8時になるやいなや、テレビ各局が民主党大勝を伝えていた。地元の大阪15区でも民主が初めて議席を得ている。
2009年8月29日(土) 講習3日目、子猫の里親さがし
午後に司書講習「専門資料論」の授業。本日のテーマは百科辞典。いつものように、「百科事典」という表記は昭和に入って平凡社が始めた誤った表記であり、正しくは「百科辞典」であるということから始めた。この機会に子猫の写真を掲示して、里親募集をしてみた。ひょんなことから3匹の子猫の里親さがしをすることになったが、まだ1匹しか行き先が決まっていない。病気の老猫を抱えている我が家で飼うわけにはいかず、野良猫にするのもかわいそう。人なつこい子猫なので、里親になってくれる人がいないだろうか。
2009年8月27日(木) 司書講習「専門資料論」2日目
1限から4限まで、ぶっ続けで「専門資料論」の授業。講義する当方もきついが、受講生もしんどいだろうな。
2009年8月26日(水) 司書講習「専門資料論」初日
午後に社会人対象・司書講習の「専門資料論」。学部の授業は今年度から後任の本間准教授の担当となったが、夏の講習は、多分、新課程に移行するまで当方が担当することになるだろう。今年の受講生には男性の年配者が例年より多いように思う。
2009年8月24日(月) 司書講習準備で大学へ
司書講習のPPT教材をPDFに変換してこのHPにアップしたつもりだったが、駄目だった。ファイル転送に失敗している。本日は大学に行き、専門家に処理してもらった。
2009年8月23日(日) 学術会議活動報告書作成
今月の26日までに日本学術会議の分科会委員長として当該分科会の活動報告を作成しなければならないが、本日をおいてその日がない。大学内の会議の議事録などは書き慣れていたか、学術会議の活動報告書は初めてである。分科会は2回開催しただけで報告書も短いのだが、作成には半日を費やした。
2009年8月21日(金) ダーウィン・シンポ準備で乃木坂へ
12月5日の学術会議ダーウィン・シンポジウムの準備委員会のため、新幹線で東京往復。委員長を務めているため、数日前から昨晩まで、会議の準備に追われていた。会議は2時間足らずで終わったが、残された課題も多い。これからますます忙しくなる。
2009年8月16日(日) 司書講習教材をアップ
司書講習「専門資料論」のパワーポイント教材をPDFに変換してHPに掲載した。受講生にパスワードを知らせることで、eラーニングの代用にしている。
ホームページビルダーを使って新しいボタンを作ったり、リンクを張ったりすると、なぜか別のページのボタンが入れ替わったり、リンク先が変わったりしている。こちらに操作ミスがあるのだろうが、分からない。なんどもボタンを作り直して、多分、変なリンクはなくなったと思うが、自信はない。
2009年8月15日(土) 『種の起源』は非学術書
「専門資料論」の授業では、学術文献には引用文献が記載されていなければならないといっているが、そうなるとダーウィンの『種の起源』は学術文献ではないことになる。ダーウィン本人も大いに気にしていた問題である。
拙著『チャールズ・ダーウィンの生涯』について早くも聞こえてきた声の一つに、文献注は無理でも、学界の定説なのか、松永の個人的見解なのか知りたいというものがあった。ある程度は分かるように書いたつもりだが、選書レベルでそれをきちんと記すのは難しいだろう。
2009年8月14日(金) 東北大総長の捏造疑惑
司書講習「専門資料論」の授業が近づいたので、教材の見直しに取りかかった。この1年間の不正事件を検索して、東北大学・井上明久総長に論文捏造疑惑のあることを初めて知った。東北大のお家芸、金属材料の研究では世界的な存在らしいが、2007年に匿名で論文捏造の告発があり、2008年12月の大学の調査報告では問題なしとされたが、今年の7月9日に同大教授らが実名告発をした。他機関の追試では実験に再現性がなく、本人は実験の再現を拒否している。それなのに大学の調査報告では問題なしとしている。再現性のない実験が問題なしといえるのか。シェーン事件の日本版かもしれない。
2009年8月7日(金) 大学で著書配布
昼過ぎに桃大へ。『チャールズ・ダーウィンの生涯』の著者買い取り50冊を大学に送ってもらい、元同僚たちのメールボックスに配布した。今回は、3月の定年退職記念に名を連ねていただいた方々に配ることにした。添付したあいさつの文書に、手書きで宛名を書くのがかなりの手間だった。この後、図書館の地下書庫に潜って近刊のダーウィン本をざっと点検。J.A.Costa
の『注釈・種の起源』(2009)
が気になったが、いずれゆっくり見ることにしよう。
2009年8月6日(木) 『チャールズ・ダーウィンの生涯』配本開始
昨日、朝日から『チャールズ・ダーウィンの生涯』が出荷されたとの連絡があり、本日昼前に著者納本10冊が届いた。著者献本先にも届いているとのこと。書店の店頭に並ぶのは明日のようだが、3年間の成果がいよいよ世に出ることになった。少しは話題になって欲しいものだ。
2009年7月31日(金) 朝日選書『チャールズ・ダーウィンの生涯』見本
朝日選書『チャールズ・ダーウィンの生涯』の見本2冊が送られてきた。同じ選書で出した『ダーウィンをめぐる人々』は242ページ、今度は322+X
ページ。その割には分厚いという感じはない。定価は税別で1,400円。5日に発売予定。部数は抑え気味のように思える。出版社の予想を越え、日本語で読めるダーウィン伝の決定版として売れに売れる、なんてことにならないものか。
2009年7月30日(木) 猫と学術会議と
老猫クロの様子がおかしいので、朝一番で動物病院へ。何も食べようとせず、部屋の隅でじっとしている。昨日もカミさんが連れて行ってるが、この様子では放っておけない。診断の結果では、肺に水が溜まっているが前日から増えてはいないので、水抜きをするほどではないという。食欲増進剤を注射して食事をさせる。この夏を乗り切って秋を迎えさせてやりたいものだ。
学術会議事務局から12月のダーウィン・シンポジウムに関するメールがあり、その返信と問い合わせのメールを3本、送信した。『チャールズ・ダーウィンの生涯』の作業が終わり、これからの半年はシンポジウムの準備に追われることになるだろう。
2009年7月29日(水) 学内研究会
昼過ぎに桃大へ。まずは事務方と、12月のダーウィン・シンポジウムの資料展示に関連した打ち合わせと文書提出。3時からは学内学会の研究会で、「科学思想史」後任の本間栄男准教授の講演を聴く。研究歴の概要をわかりやすく話されていた。
この後、名誉教授室で内外のダーウィン本のカタログを整理し、大学図書館に購入希望するものを選定した。普段の登校日は授業に追われ、こうした作業ができない。6時を過ぎて、なんとか整理が終わり、遅ればせながら学内学会の懇親会に出席した。
2009年7月26日(日) 献本先名簿作成
朝日選書『チャールズ・ダーウィンの生涯』の発売が近くなったので、著者献本として出版社から送ってもらう宛先の名簿作成に取り組む。研究室のパソコンには住所録データベースが数種類入れてあったはずだが、移転先の自宅のパソコンには見つからない。改めて入力し直す。拙著を多数の友人知人に送ったこともあったが、今回はシンポジウム関係者などに限定することにした。これで同書に関する仕事は、一応、完了。
2009年7月25日(土) 補講日
朝一番にクロを病院に連れて行き、帰宅してすぐに桃大へ。本日4時限が水曜日4時限の授業の補講に当てられている。学生の出席は期待できないが、こちらは休むわけに行かない。授業の前に図書館の課長と、12月のダーウィン・シンポジウムの展示資料に関連した打ち合わせ。ダーウィン年の締めくくりとなる講演会なので、印刷物の形で後世に残るものを作っておきたいものである。
2009年7月24日(金) 12月のダーウィン・シンポ正式決定
昨23日に日本学術会議の幹事会が開催され、ダーウィン・シンポジウムの件も審議されたはずである。科学者委員会の決定がひっくり返ることはまずないとは思うものの、決まるまでは落ち着かない。昼前に承認されたとの連絡メールがあり、ほっとした。準備委員会の委員長として、これからが大変だ。
2009年7月22日(水) 春学期最後の授業のはずだったが
本来なら春学期最終授業日のはずだったが、インフルエンザ休校の穴を埋めるため、今週一杯は授業がある。本日は授業のあいまに、『科学史研究』掲載原稿の件で電話とメールでやりとりがあり、慌ただしい1日だった。5月のダーウィン・シンポジウムの講演要旨なので、執筆者としては注の形式を気にしなかったのだが、編集委員は投稿規定を厳守せよという。結局、注的要素を削除することにした。
2009年7月13日(月) 猫と学術会議と
朝一番にクロを病院に連れて行ったら、水が溜まって肺を圧迫しているとのことで、麻酔をかけて水抜きをすることになった。3ヶ月間、水の溜まることはなかったので油断したか。
午後、自宅で仕事をしていると朗報メールが飛び込んできた。この日の午前中に開催された日本学術会議の科学者委員会で、12月のダーウィン・シンポジウムを学術会議主催とすることが承認されたという。最終決定ではないものの、まずは第一段階クリアである。
2009年7月9日(木) 文字化けしたり、しなかったり
水曜日に授業を3コマこなすと、翌木曜日は疲れで、いつも夕方までぼんやりしている。しかしクロの様子が2日前からおかしいので、今日はそうもいかない。朝一番に病院に連れて行ったら、体温が38度5分あった。クロの平温は38度丁度なので、かなりの高熱である。食欲もなかったはずだ。抗生物質を注射し、食欲中枢刺激剤によって食事をさせて家に帰ったら、元気を取りもどして食事もするようになった。
こちらは疲れて寝ていたが、ようやく夕方になってからパソコンに触る気になった。矢島さんにメールの添付で送った原稿が文字化けで読めないという。一太郎で書いた文書をワードに変換しているのになぜだろう。ものはためしで、別のパソコンのワードで読み込み、それを添付で送ったら読めたという。ところが今度は常用している自分のパソコンではそれが読めない。何が起きているのかよく分からないが、目的を達したのだからよしとしよう。
2009年7月8日(水) なんでも売ってる電気屋さん
本日は出講日、11回目の授業になる。藤岡毅さんの学位論文の自家用本製本3冊がナカバヤシから大学に届いていた。1冊は自分がいただくことにして、2冊を、帰途、和泉郵便局から藤岡さん宅に発送した。ついでに駅前の新しいビルの中のヤマダ電機をのぞいてみた。家電とパソコンだけでなく、生活雑貨やお菓子も置いている。外の看板に「書籍」とあったので本屋があると思っていたのも間違いだった。ペットフードもかなり充実していたので、つい、我が家のわがままな猫たちに、ぜいたくなフードを買ってしまった。
2009年7月7日(火) 自画自賛
5月に九大で開催された日本科学史学会のダーウィン・シンポジウムでの講演内容をまとめ、コーディネイターの矢島さんに送信した。パワーポイントのスライドの文言を文章化するだけだから、すぐ終わると考えていたのが大間違い。予想外の日数を費やすことになった。「ダーウィン研究40年から言えること」というタイトルで、次の文で始めている。
「私はもともと生物学の分野を志していたが、実験科学者としての能力に見切りをつけ、1967年に東京大学文学部哲学科に学士入学し、科学自体を対象とする科学哲学・科学史の分野に転じた。この分野でまず取り組んだのがダーウィンの進化論であったが、結局、その後、現在に至るまでダーウィン研究を続けることになった」
欧米におけるダーウィン研究の進展、日本の状況、我が研究歴、とたどった後、日本では現在でも科学史が専門研究領域として確立していないことに触れ、次の文で締めくくった。
「哲学者や生物学者たちはダーウィンの実像には関心が無い。ダーウィンの生涯については通説を鵜呑みにし、ダーウィンの著作から自説に都合の良い部分だけを抜き出してダーウィン論を組み立てる。それに対して科学史家のダーウィン論は、ダーウィンの編著書と手書き資料、ならびに関連の二次資料を読みこなし、通説を吟味しながらダーウィンの実像に迫ろうとする。科学史のどの時代・分野についても、そのような地道な研究を続けることによって、専門領域としての科学史研究の意義を確立できるのではないだろうか」
「偉そうなことをいいやがって」という批判が聞こえてくる気もするが、退職記念の自慢話として許してもらおう。
2009年7月4日(土) 『種の起源』の定価
ダーウィン本のサーヴェイの一環として、ケンブリッジ研究案内叢書の、ルースほか(編)『種の起源』(2009)の最後の章「書籍としての『種の起源』」に目を通した。この章は古書業者のコーラー夫妻が執筆しているが、それによると、『種の起源』初版の価格は通説の15シリングではなく、第2版から第4版までと同様の14シリングであったという。フリーマンの書誌やペッカムの集注本にも15シリングとあるのだから、だれだってそれを信じるではないか。しかし書籍の価格の専門家のいうことが正しいのだろう。世界で最もよく知られている本の一つである『種の起源』についても、こんな基礎的なところで通説の誤りが見つかる。怖いことだ。
2009年6月29日(月) ダーウィン伝のカバー
ダーウィン伝のカバーと帯のデザインがメールで送られてきた。書名は『チャールズ・ダーウィンの生涯:進化論を生んだジェントルマンの社会』になった。朝日選書のカバーは地味なものだったが、今はカラーの派手なものになっている。地味なカバーのままでもよかったのではないかと思うが、販売戦略上、必要なのだろう。
ようやく本の形が見えてきた。
2009年6月26日(金) 猫で明けて猫で暮れる
ほとんど毎日家にいるとジャーナルを書く気にもならないが、たまには日常を綴っておこう。朝はまず、猫さんたちそれぞれに適した食事を別々に与えてから、クロを連れて千代田の動物病院へ。ここ数日、食欲が落ちているため静脈注射で食欲中枢刺激剤を入れてもらう。効果覿面でたちまち数十グラムの食事を平らげた。薬が効くのは5分程度だが、クロの場合、これがきっかけで食欲回復することが多い。本日も家に帰ってから食欲旺盛であった。
午後は猫たちの面倒を見るかたわら、ダーウィン論文を一本速読。気晴らしにホームズの「海軍条約」と「自転車乗り」を再読。先日、ケーブルテレビのミステリー・チャンネルで見て、再確認したくなった。両者とも不自然で気になるところもあるが、テレビドラマはそうした部分も原作に忠実に劇化している。テレビでこのシリーズを最初に見たのは1988年に海外研修でロンドンに住んでいたときだが、原作のイメージ通りのホームズとワトソンで、さすがイギリスのドラマだと感心した覚えがある。
夜はテレビに張り付く。まずはBS朝日の「神尾真由子
優勝への軌跡
すべて聴かせます!チャイコフスキーコンクール演奏10曲」。再放送のようだが、視聴するのはこれが初めて。若くしてこの貫禄はすごい。ゲスト出演していた佐藤陽子の若き日も同様だったが、おばあちゃんになったな。10時半からはNHK教育テレビで、4月27日に歌舞伎座で開催された第35回俳優祭。お金と時間を使ってまで見に行く気はないが、テレビで見るには楽しい。ただ今回は、まもなく歌舞伎座が解体されることを意識してか、例年の気楽さがなかったように思う。
俳優祭を見ながらクロとノアに水分補給の簡易点滴をし、ハナも含めてそれぞれに夜食を与える。今日もまた、猫に始まって猫に終わる一日だった。
2009年6月20日(土) 事項索引
ダーウィン伝の索引は人名索引だけでよいと考えていたのだが、編集の山田さんが意欲的で、事項索引も作成することになった。人名索引はコンピュータで作れるが、事項索引はそんなに簡単ではない。大部分の作業は山田さんがやってくれたが、その作業に1週間前後費やしたようだ。当方も一部を分担することになり、昨日から2日がかりで責任を果たした。索引の有無が売り上げに影響することもないだろうし、出版社が索引を付けたがらないのも無理はない。我が著書でも事項索引を付けるのは今度が初めてである。
2009年6月17日(水) 出講日
春学期8回目の授業である。授業は4時半に終わるのだが、当日の授業結果の整理と次週以降の準備があるので、帰るのは7時になった。そのために他の日に登校すると交通費も馬鹿にならない。専任の時と非常勤になってからで、決定的に違うところである。
2009年6月16日(火) ダーウィン本のサーヴェイに着手
老猫たちの様子も落ち着いてきたので、近刊のダーウィン本のサーヴェイに着手した。ここのところ書くことに忙しくて、新たに論文を読む余裕がなかった。ダーウィン年を機会に刊行される内外のダーウィン本に一通り目を通し、それをまとめてどこかに書いておこうと思う。
2009年6月13日(土) ダーウィン伝・再校
再校の訂正箇所をメールで通知。夜中の2時すぎだから、厳密にいえば14日になる。当方の原稿では「辞典」としているのに、初校では「事典」となっていたので赤字を入れたのだが、再校でも「事典」のままであった。編集あるいは校閲が、事柄については「辞典」ではなく「事典」と思い込んでいるのだろう。「事典」は下中弥三郎の誤用であって踏襲すべきではないというのが、当方のかねてからの主張なので、ここは著者の意向を尊重してもらうことにした。
2009年6月9日(火) 老猫たちの介護
昨日に続けて朝一番にハナを連れて動物病院へ。クロとノアの状態が安定してきたと思ったら、今度はハナまでが一昨日から下痢になってしまった。抗生物質の注射で下痢は治まったので、しばらくは病猫用の食事を与えることになった。これで猫全員の介護をしなければならなくなった。
ノアは腎機能が大きく衰えたため年末に入院していたが、自宅療養に切り替えたら元気になって走り回っている。腎機能はますます悪化しており、自宅では簡易点滴(水分補給)をしているだけだが、見た目はまるまる肥えて健康そのものである。獣医師からは奇跡だといわれている。
クロも3月に入院中に肺に水が溜まり、最後を自宅で見送るため家に引き取ったら、元気を取り戻した。これも奇跡だといわれた。ノアとクロの世話だけでも大変なのに、ハナまで具合が悪くなり、一日中、老猫たちの介護に追われている。まるでこちらが定年退職になるのを待っていたようだ。
2009年6月6日(土) 学術会議申請書案
今年の12月5日に予定している日本学術会議のダーウィン・シンポジウムについては、あらかじめ科学者委員会の承認を得なければならない。そのための申請書案の作成が終わり、準備委員会のメンバーに一斉配信した。定められたスペース内に、簡にして要を得た文書を書くのは気が疲れる。精神的には論文を書く方が楽である。
2009年6月4日(木) ダーウィン伝初校・続
午前中に老猫クロを病院へ。体温も38度ちょうどで安定してきたし、食欲も旺盛になったので、通院間隔をいまより空けてもよいということになった。これで体もお金も少し楽になる。
昼過ぎに朝日の山田さんから電話があって、長時間、ダーウィン伝初校について確認作業を行った。ほとんどは原文のままでよいことの確認だったが、「債券」が「債権」になっているようなミスもあった。こういうミスは本人が見のがしやすいので、編集や校閲できちんと見てもらえるのがありがたい。
2009年6月3日(水) 補講日程
本日は出講日。春学期6回目の授業である。教務課から、半期14回の授業日を確保するため原則として7月後半の土曜日の午後に補講実施との通知が来ていた。学生の出席は期待できないが、今は授業回数確保が至上命令になっている。これを踏まえて、春学期の授業計画を少々手直しすることにした。
2009年5月31日(日) ダーウィン伝初校
2週間前にダーウィン伝の初校が届いていたが、校正作業に着手したのが28日、本日夕刻までにようやく終えた。本文はほとんどいじらないが、人名表記の修正、索引項目の決定など、神経を使う作業であった。明日、発送して、とりあえず一段落となる。といってもすぐに再校、索引校正などに追われることになるだろう。
2009年5月27日(水) 授業再開
いつもと変わらぬキャンバス風景だった。学生も教職員もほとんどマスクをしていない。今後、春学期は順調にこなせるだろうが、秋学期に不安が残る。
帰りに北野田駅で乗り換えた南海電車の急行内では、半数以上がマスクをしていた。みなさん、用心深い。
2009年5月24日(日) さっさと帰阪
宿の近くの公園を散歩しただけで、博多駅へ。昼過ぎには新大阪に着いた。今は、体を疲れさせないよう、気をつけなければならない。
2009年5月23日(土) 日本科学史学会ダーウィン・シンポジウム
早朝に家を出て、新大阪から博多、そして九州大学箱崎キャンパスへ。1時20分からのダーウィン・シンポジウムには十分、余裕があった。シンポジウムといっても、いいっぱなしに近い形で終わり、やや物足りなかった。懇親会に出るのは億劫なので、総会を途中退席し、インターネットで予約した福岡ガーデンパレスへ。
2009年5月22日(金) 科学史学会ダーウィン・シンポジウム準備
明日、九州大学で開催される日本科学史学会のダーウィン・シンポジウムのため、昨日から講演用のパワーポイント・スライドの作成に取りかかり、本日夕方までに終えることができた。家にいると仕事モードにならないとはいうものの、切羽詰まれば気合いが入る。コーディネイターの矢島さんからは、「ダーウィン研究30年から言えること」というタイトルを与えられているので、自分の研究経過を整理するよい機会になった。
2009年5月20日(水) 全学休校
17日の午後7時に桃山学院大学からの一斉配信で、「18日から23日まで新型インフルエンザ対策で全学休校」との通知が届いた。したがって本日は授業はないが、かねてから予定していた作業があるので、大学に出かけた。教職員は通常勤務というものの、学生がいないのでキャンパスは閑散としている。教員はかなり来ていた。当方と同様、研究や会議の準備があるのだろう。今回の新型インフルエンザは弱毒性ということなので、ここまで用心する必要があるのかという疑問もあるが、大学当局としてはこうせざるを得なかったろう。
いずれ強毒性の鳥インフルエンザが流行するといわれているが、今回の騒ぎを見ていると、その時に日本で十分な対策がとれるのか、不安になる。
2009年5月17日(日) 参照文献
ダーウィン伝に付記する参照文献一覧の作成がようやく終わった。5月2日に着手し、延べ7日を費やしている。二三日で終えると見ていたのに、予想外に手間取った。一つには、記載する資料を実物で確認しようとすると、二重三重に詰め込んだ書棚を探し回るので、時間が掛かるということがあった。それ以上に問題なのは、長年、研究室に通っていたので、家にいると研究モードにならず、仕事に気合いが入らないことである。こんなことでは困るので、とにかく家での仕事に慣れなければならない。
今は書誌事項をネット上のデータベースからコピーできるので、文献の記載も楽になり、記載ミスも少なくなったと思う。ところが日本の大学図書館の蔵書を網羅しているはずの
WebCat に収録されていない資料もあった。たとえば、ダーウィン家関係の家系図を集めた R.B.Freeman, Darwin
Pedigrees (1984) が収録されていない。これはフリーマンの私家版なのて゜、図書館には入りにくかったのかもしれない。しかし、Ralph
Colp Jr., Darwin's Illness (2008)
が収録されていないのには驚いた。購入した大学図書館が皆無とは思えない。WebCat
への新規登録はかなり面倒な作業なので、どの図書館でもやりたがらないという。この本を購入した大学が複数あっても、みな、登録をサボっているのだろう。WebCat
が、実際には網羅性に欠けることを示す一つの事例である。
2009年4月30日(木) 仕事再開
資料整理はまだまだだが、自宅のパソコンで仕事をする態勢がようやく整った。3月に、研究室のパソコンの全てのドキュメントがポータブルのハードディスクにコピーされたと思っていたら、重要なものが入っていなかった。さいわい、大学のサーバーの個人領域に保存してあったので、大部分はそこから復元できた。しかし3月に作成した文書はそこにも入れてなかった。これも添付ファイルで関係者に送信していたので、送信済みメールから復元できた。ところが今度は、文書作成に用いている一太郎のCDが見つからない。引っ越しの混乱の中で捨ててしまったようだ。数年前のバージョンなので、この際、最新バージョンを購入することにし、無事、インストール。ようやく仕事のできる状態になった。
そこに、まさにグッドタイミングで、朝日の山田さんからダーウィン伝の作業を督促するメールが来た。当面はダーウィン伝の作業が続くし、5月23日の科学史学会のシンポジウムの準備もある。この後は12月5日の学術会議のシンポジウムの準備も本格化する。この間に、内外の近刊ダーウィン本に片っ端から目を通したいと思っている。ダーウィン年の今年は、ダーウィンの世界に浸りきることになるだろう。
2009年4月26日(日) ホームページ更新
昨日から悪戦苦闘の結果、HPが更新できるようになった。専門家から見ればごく簡単なことなのだろうが、こちらはFTPとはなんのことかを勉強するところから始めなければならない。まだ仕組みはよくわかっていないが、とにかく更新できたのだからよしとしよう。
2009年4月23日(木) 教材公開
授業日ではないが「科学技術史」のパワーポイント教材を大学のサーバーで公開する作業のために大学へ来た。eラーニングのシステムが導入されていればこうした作業も自宅でできるのだが、桃大で導入していないのが残念である。
2009年4月22日(水) 再度の送別会
今日は3回目の授業日。4時限終了後、大学のサーバー内におけるこのHPの新たな位置づけについて、専門家から教示を受ける。専任教員は教授会の日だったが、それが終わってから9人のもと同僚が「松永俊男先生を勝手に囲む会」を設けてくれた。女性教員6人の迫力に、当方を含めた男性4人の影は薄かったが、楽しいひとときであった。
2009年4月21日(火) 腰痛
朝は、在木(ありき)カイロプラクティックで治療。4月4日ころから腰に痛みを感じるようになっていた。研究室撤退作業に際しては、ぎっくり腰にならないよう注意を払っていたが、荷物の整理が一段落したところで、蓄積した疲れのためか、炎症が起きたようだ。在木さんの処理が功を奏したか、夕方には大分痛みも治まった。
書斎の片づけを続行し、明日の授業の準備をし、いくつか文書を作成した。
2009年4月17日(金) 金剛寺ご開帳
午後から河内長野駅前の銀行でローン関係の手続き。これが予想外に時間が掛かったので、終わってからタクシーで金剛寺へ。金堂の本尊、秘仏の大日如来が今年に限って4月17日と18日の2日だけ開帳される。この日程は観心寺の如意輪観世音菩薩ご開帳の日程に合わせたものである。秘仏といっても普段から格子越しに見ることができるが、間近に見る3メートルの座像は迫力がある。向かって右に不動明王、左に降三世明王が配されている。僧侶の解説によると、単なる三尊像ではなく、立体的な尊勝曼荼羅なのだという。帰宅後調べると、尊勝曼荼羅には尊勝仏頂尊が祀られているはずである。大日如来の宝冠に化仏らしきものが見えたのがそれであろうか。機会があればだれかに聞いてみよう。
三尊の前には法具か整然と並べられていた。ここで祈祷をすればいかにも効き目がありそうだ。本来、仏像は美術館で鑑賞するものではなく、お寺でお祈りするものであることを改めて感じた。
2009年4月16日(木) シンポジウム連絡メール
ほとんど一日中体を休めていた。ダーウィン・シンポの連絡メールをいくつか発送しただけで終わる。夕刻にクロを連れて動物病院へ、体温は38度ちょうど。食欲も回復し、5日前の状態にもどった。やれやれ。
2009年4月15日(水) 授業日
新年度・第2回目の授業である。2時限の「論述作文」は前回の出席者8名に加えて1名が出席し、合計9名となった。3時限の大学院の授業にも、今日からの出席者があった。授業が軌道に乗るのは、どうしても連休明けになる。情報センターにこのHPについて聞きに行ったが、まだ名誉教授のHPの位置づけが決まっていないというので更新はできない。4時限の「科学技術史」を終え、帰途、狭山駅前で散髪。
2009年4月14日(火) シンポジウム連絡メール
クロを連れて動物病院へ、体温は38度2分。大分、元気をとりもどしたので一安心。 3日にダーウィン・シンポジウム準備委員会の合意事項を整理して、6人のメンバーに一斉送信したつもりだったが、なぜか届いていないメンバーもいるようだ。アドレスを確認し、再送信を試みることにした。
2009年4月13日(月) 『現代思想』4月臨時増刊「ダーウィン」特集号
クロを連れて動物病院へ、体温は38度8分。食欲がないのも無理はない。自分もかなり疲れている。少々、部屋を片づけただけで休む。
青土社から『現代思想』のダーウィン特集号が届いた。当方の「日本におけるダーウィン理解の誤り」が巻頭論文に近い扱いで掲載されている。初校で加筆した部分では、「原語」が「言語」になっていた。こういうミスが生じるので、校正での加筆は避けるべきなのだな。
2009年4月12日(日) 書類整理
クロが朝からぐったりしている。昨夜一人2階で寝て冷えたのが悪かったらしい。せっかく回復してきたのに、がっかり。今日は休診日なので、明日の朝一番に病院へ連れて行こう。
放置してあった書類に着手。住宅ローンや保険の書類の整理に思わぬ時間が掛かった。
2009年4月9日(木) 文楽「義経千本桜」
日本橋の文楽劇場で通し狂言「義経千本桜」。昼夜で床直下の同じ席を取るため、この日になった。客もよく入っていた。開場25周年を祝って最初に「寿式三番叟」。三味線7張を清治が率いる。おなじみの曲が耳元でがんがん響き、陶酔のひとときである。夜の「道行初音旅」では三味線5張を寛治が率いていた。若手を訓練する意味があるのだろうが、三味線トップの二人の出番がこれだけというのは、もったいない気もする。「大物浦」の切が、切場語りに昇格したばかりの咲大夫。「すしや」の切が住大夫、奥が千歳大夫、千歳大夫に将来を期待しているということか。「河連法眼館」の切が嶋大夫。最後の拍手はどうしても狐忠信を遣う勘十郎に集中するので、自分は床に向かって拍手を送った。久しぶりに浄瑠璃の世界に浸って楽しかったが、朝11時から夜9時15分まで、休憩を挟んでも10時間は疲れる。
2009年4月8日(水) 授業開始
新年度の授業が今日から始まる。2時限の「論述作文」の教室は新築の「聖ヨハネ館」。館内のコーヒー店で一服してから教室へ。本日の受講生は8名。次回から来る学生がいるとしても大幅に増えることはないので、ていねいな指導ができるだろう。3時限の大学院の授業は次回からの打ち合わせをして終わり。情報センターで、このHPの更新について聞きに行ったが、まだ名誉教授のHPの位置づけが決まっていないという。HPはそのままにしておくほかない。
4時限の「科学技術史」を終えた後、「文学研究科委員会」の席上で紀要『人間科学』第36号「松永俊男教授退任記念論文集」の贈呈式があった。700ページを越えた記念号は初めてだそうだ。投稿されたみなさんに感謝。
教授会終了後に司書課程関係者で、当方の後任として「専門資料論」を担当する本間準教授の歓迎会を開催することになっており、当方も参加する予定だったが、教授会がなかなか終わらない。明日のこともあるので、先に帰ることにした。
2009年4月7日(火) 振込
朝は地元の郵便局で健康保険料などの振込。給料からの引き落としがなくなり、なにかと自分で振り込まねばならなくなった。夕刻に動物病院往復。
2009年4月6日(月) 体調回復
朝は動物病院往復。かなり体調も回復してきたので、まず今日までのジャーナル下書きを完了。
2009年4月4日(土) ジャーナル下書きに着手
朝は動物病院往復。連日の疲れがなかなか抜けない。午後遅くなってからジャーナルの下書きに着手。HPの更新ができるようになり次第、ジャーナルを一気に掲載したい。
2009年4月3日(金) ダーウィン・シンポジウム準備委員会の議事録
朝は動物病院を往復。一休みした後、先日のダーウィン・シンポジウム準備委員会の合意事項を整理して、6人のメンバーに送信した。
2009年4月2日(木) 書斎の段ボール箱処理
朝は動物病院を往復。午後は意を決して書斎の段ボール箱を空け、本を棚に押し込んで、パソコン用のスペースを確保した。
2009年4月1日(水) 退職後最初の登校
朝は、毎日通院のクロを連れて千代田の動物病院を往復。これが退職後の仕事になった。昼過ぎに大学へ。一日遅れで退職の最終手続きを済ませた。図書館館長室に一時保管していた私物を名誉教授室ロッカーに移し、館長室も撤退。名誉教授室のパソコンで作業を始めたが、文字変換一つとっても共用パソコンは使いにくく、能率が上がらない。文書作成に使うのは無理だな。
教務課から緊急の連絡があって、3月31日付の資格課程関係の書類に決裁を求められた。これがほんとに、最後の校務であろう。
2009年3月31日(火) 学術会議のダーウィン・シンポジウム準備委員会
新大阪駅から新幹線で東京へ。乃木坂の日本学術会議会議室で、ダーウィン・シンポジウムの準備委員会に出席、委員長に選出されて議長を務めた。生物学史関係者を中心にした当委員会のシンポジウムは、12月5日(土)に学術会議の講堂で開催することになった。プログラムも魅力的な原案ができたと思う。講演会当日は会場で、桃山学院大学図書館所蔵のダーウィン一次資料を中心とした関連資料の展示も実施することになった。このシンポジウムを学術会議本体の行事に認定してもらうために、これから努力しなければならない。責任重大である。
2009年3月30日(月) 在職中最後の登校
老猫クロを連れて千代田の動物病院を往復し、昼過ぎに大学へ。19日以来、久しぶりの登校である。研究室が使えないので、まだ任期が2日残っている図書館の館長室で研究費購入図書に関する最後の書類作成をし、購入すべき洋書の最後の選定を済ませた。続々と出版されるダーウィン本は、できるだけ図書館で購入してもらいたいと思う。
帰りは「科学思想史」担当の後任、本間英男準教授に野尻教授を交えて中百舌鳥で夕食。本間さんは新潟出身、野尻教授も新潟大学に勤務経験があるので、新潟ローカルの話題で盛り上がっていた。
2009年3月28日(土) 帰国
ホテルにガイドが迎えに来るのが12時50分なので、それまで部屋でジャーナルの下書きをしていた。若いときなら午前中だけでも観光に出かけるだろうが、今は体力温存。午後のキャセイ航空便で関空へ。7時45分のバスで河内長野に出て、9時に帰宅。
最初で最後の贅沢旅行だったが、旅行を楽しむのには基本料金のツアーで十分だ。航空機やホテルで贅沢するより、その分、旅行回数を増やす方が賢明のように思う。
今回は故宮博物院目当てに台北に出かけたが、観光地としては物足りない。歴史的建造物があるわけではないし、すばらしい自然景観があるわけでもない。ホテルも香港などに比べてお粗末だと思う。ただ、新興台湾のエネルギーが感じられ、テレビや新聞でおなじみの総統府を見るだけでも有意義だろう。
2009年3月27日(金) 故宮博物院
9時前にホテルを出てタクシーで故宮博物院へ。昨日と同様に館内は団体客でごった返しているが、人気の展示物でもしばらく待てば団体客がとぎれ、ゆっくり見ることができる。本日は3階から順に見て回り、4時過ぎにタクシーで士林駅へ。料金は80元だった。博物館の出口にはタクシーの客引きがたむろしているが、博物館の受付(日本語可)にいえば呼んでくれるので、その方が安全である。
士林駅で電車に乗るのに、まず切符購入にまごつき、コイン状の切符をどう使うのかにもまごついた。中山駅で下車した後は、道が分からなくなった。駅前の新光三越の入り口にいるのに、どちらに行けば中山北路なのか分からないのだから情けない。方向音痴なのでこんなことになりかねないと予想していたが、男一匹どうにでもなるし、こういうことがないと旅をした実感がわかないので、あえてタクシーでもどらなかったのである。
故宮博物院の印象を箇条書きにしておこう。
1)意外と建物が小さい。建物の規模だけなら東京国立博物館も負けないだろう。
2)意外と展示品が少ない。展示物の中心は、玉器、青銅器、陶磁器だが、期待していた定窯白磁の展示品も少なかった。仏像などは日本の博物館の方がはるかに充実している。収蔵品は多くても、展示しているのはわずかということなのだろう。ただし、玉が中国文化の核心にあったことは、日本の博物館では学べなかったことである。
3)意外と購入した資料が多い。とくに近年発掘の先史時代の考古遺物はほとんど購入品であった。当然といえば当然だが、中国政府も台北の故宮博物院の充実に協力的であることを意味しているように思う。
4)意外と個人客が少ない。ほとんどが団体客であった。台北第一の観光拠点になっている。話し声から判断すると、7割が中国人、3割が日本人といったところか。ガイドにきくと中国人の大部分は大陸からの観光客だという。中国の偉大さを故宮博物院で確認しに来るのだろう。故宮でこれだけの団体客が呼べるのなら、上野の東博にも多くの団体客が来てもよいように思う。
2009年3月26日(木)昼 台北市内観光
朝からJTB手配のバスで市内観光。同行者は自分を含めて15名。老夫婦のペアが3組、夫婦に子供1人が2組、母子連れが1組、それと当方である。ガイドは自分と同じ年の男性で、台湾には年金がないので老後が大変なのだと繰り返しいっていた。
最初は市北部の忠烈祠で9時の衛兵交代を見学。バッキンガム宮殿を真似たのだろうが、観光資源として大成功を収めている。とはいえ、日本軍との戦いで戦死した兵士も祀られている施設であることを、日本人観光客のとれだけが意識しているだろうか。
次は市内を南に下って、龍山寺へ。市内最古の寺といわれるが、建物は第二次大戦後のものである。観光客ばかりでなく、熱心に祈っている人々も多く、信仰が生きている寺である。本尊は観音菩薩だが、媽祖や関帝、華佗、その他多くの道教の神が祀られている。日本のお寺に慣れていると異様に思えるが、同じ仏教といってもさまざまな形があるということだろう。
次は近くの中正紀念堂。蒋介石(中正公)を記念した巨大な建造物である。民進党政権下の2007年に「台湾民主紀念館」と改名されたが、一般には依然として「中正紀念堂」の名称が用いられている。こんな所にも台湾の複雑な事情が反映しているように思える。
おみやげ屋に連れて行かれた後、市の中心部のホテルで昼食。それから再び北上して故宮博物院へ。明日、1人でゆっくり見学する予定なので、自分にとっては下見である。
最後に市内の免税店に連れて行かれたが、そこは当方が宿泊しているホテルの地下だったので、そのまま下車して部屋にもどった。国内のツアーでも必ず物品店に連れて行かれる。その分、ツアー料金を安くしているのだろうが、それでも釈然としないものが残る。
本日の訪れた施設は、由来はともかく、すべて戦後の建築物であった。台北が実質的に新しい都市であることの現れだと思う。
2009年3月26日(木)朝 中国語のダーウィン
上客専用のラウンジで朝食。そこに置いてある雑誌の中に『ナショナル・ジオグラフィー』中国語版の2月号があり、そこにダーウィン特集の記事が掲載されていた。これが欲しいといったら持って行ってよいというので、もらってきた。もちろん、英語でのやりとりである。
「達爾文」(ダーウィン)、「小獵犬號」(ビーグル号)は記憶にある表記だが、注目すべきは「演化」と「天擇」という訳語である。さすが漢字の本家、「進化」と「自然選択」よりも原語の語義に忠実な訳といえるだろう。青土社の雑誌『現代思想』に掲載予定の論考で「進化」と「自然選択」という訳語について論じているが、その初校で中国語訳について加筆したいと思う。
台湾に来て、ダーウィンについて学べるとは思わなかった。
2009年3月25日(水)夜 タクシーの遠回り
夕食は日本で予約済みの潮州料理店へタクシーで行く。地図で見るとホテルから一本道のはずなのに、何度も曲がって料金は140元。帰りはまっすぐ走って最低料金の70元。ガイドブックにはタクシーの遠回りに注意せよとあるが、言葉が通じないのでクレームのつけようもない。
2009年3月25日(水) 関空から台北へ
河内長野駅前から8時のバスで関空に行き、キャセイ航空便で台北へ。台湾桃園空港からガイドの案内でホテルに直行。航空機の座席もホテルの部屋も、多分、最初で最後の贅沢旅行である。空港からホテルまでの途次、「三重」という日本時代の地名がそのまま残っているという説明にびっくりした。反日感情が強ければありえないことだ。
2009年3月24日(火) 旅行準備
21日以来、疲れが出て、何もせずにぼんやり過ごしてきたが、明日から3泊4日の台北旅行なので、夜になって仕度を始めた。海外旅行といっても近場なので、手荷物も東京出張とほとんど変わらない。
桃山学院から長期勤続者に与えられる旅行費によるもので、本来ならもっと早くに利用すべきだが、時間的にも精神的にもその余裕がなかった。しかも病気の老猫がいるので、カミさんは残らなければならない。その分、1人で贅沢させてもらうことにした。予算上は欧米にも行けるのだが、遠出する気分ではないし、体力も温存したいので、この機会に故宮博物院を見に行こうと思いついたのである。
2009年3月20日(金) 書斎は段ボール箱の山
昨日、研究室から送り出した段ボール箱が昼過ぎに届き、書斎に積み上げてもらった。部屋は箱で埋め尽くされ、ノートパソコンを広げる場所もないが、しばらくは片づける気にもならない。
2009年3月19日(木) 研究室撤退
研究室に来るのもこれが最後である。まずはパソコンの処理。昼過ぎにクロネコヤマトの引っ越し便が来て、段ボール箱の積み出し。鍵を返還して、ほとんど毎日利用してきた研究室に別れを告げ、急いで自宅に帰る。夕刻に本棚が届き、書斎に設置してもらう。
2009年3月18日(水) 最後の図書館会議
昼過ぎに最後の図書館会議。あとは研究室の小物の整理で、荷造りが完了した。これで明日の搬出が楽にできる。この数日、研究室撤退準備に追われてこのジャーナルを書く暇もなかったが、何をしたかだけでもまとめて書いておこう。
退職後もこのHPが維持できることになったが、しばらくは更新できないだろう。
2009年3月17日(火) 藤岡毅・学位論文授与式
本日は卒業式だが、研究室の整理があるので、とうてい出席できない。しかしその後の藤岡さんの学位授与式には主査として出席した。式の後、藤岡さんには申し訳ないが、本の段ボール詰めを手伝ったもらった。隣室の井上准教授も協力してくれたので、おおむね片づいた。帰りに、藤岡さんとささやかな祝賀会。こういう日は、少しは飲む。
2009年3月16日(月) 久しぶりの原稿執筆
出席義務のある会議が二つあるのだが、出席は無理だ。今日をおいて執筆に取り組める日が当分ないので、雑誌の原稿と、ダーウィン伝の「まえがき」「あとがき」を書いて編集者に送信した。
2009年3月12日(木) 図書の整理が一段落
連日、研究室の本を仕分けして大部分を図書館に運ぶ作業を続けていたが、ようやく終わった。多分、百箱以上を図書館に収めただろう。東大にも第二便の12箱を送り、あとは自宅に持ち帰るものだけになったが、これだけ減らしても自宅に収まらない可能性がある。その時はその時で、なんとか考えよう。
2009年3月6日(金) 最後の教授会
今日こそ原稿執筆に着手するつもりだったのに、文学研究科委員会の始まる3時ぎりぎりまで、図書整理に取り組んでいた。4時前からの社会学部教授会が6時に終わり、退職の挨拶、花束贈呈の儀式があった。例年はこの後で、退職する教職員の送別パーティーがあるのだが、当方を含めて全退職者が辞退したため、中止となった。全教職員が顔を合わせる年1回の行事なのだが、当事者としては中止になってほっとしている。
2009年3月5日(木) まだ序の口の図書の整理
図書整理の合間に原稿に取り組むつもりでいるのに、結局、執筆に着手できなかった。大学に返還する研究費購入図書、図書館に収める本、東大に送る本、自宅に持ち帰る本に選別し、梱包して運ぶ。ようやく書架に隙間が見えてきたが、まだ半分も処理できていない。自分には最も重要な学術雑誌である
Journal of History of Biology
も図書館に収めることにした。日本の大学でこの雑誌を創刊号から揃えているのは、ほんの数校なので、継続購入されなくても価値ある蔵書の一つとなるたろう。
2009年3月4日(水) 図書10箱分を発送
昼過ぎに4年次ゼミ生二人が顔を出したので、これ幸いと図書の梱包を手伝ったもらった。自宅に持ち帰れない図書は東大の科学史・科学哲学研究室で有効利用してもらえるとのことなので、とりあえず、ダンネマンの揃いやデカルト全集、プラトン全集や関連のLoeb
などを詰め込んで発送した。今後、必要になったときは図書館で見るほかない。つらいことだが、さらに大量に廃棄しなければ収まらない。
2009年3月3日(火) 図書整理に着手
とにかく図書の整理に着手しなければならない。とりあえず研究費購入図書の一部を大学に収めた。段ボール3箱に山と積んで運び出したが、2重3重に本を詰め込んでいる研究室の書架には空きができない。毎日、順に整理しながら、原稿にも取り組んでいくしかない。
2009年3月2日(月) 図版発送
図版の準備は27日(金)に終わっていたが、生協経由で発送するため、本日、梱包して発送。このあと、先送りしていた文書作成で一日が終わってしまった。2月中にダーウィン伝の作業完了の予定だったが、「まえがき」と「あとがき」が残ってしまった。雑誌原稿もあるし、学術会議と科学史学会のダーウィン・シンポジウムの準備も始まる。研究室の片づけも待ったなしになってきたし、時間との競走が厳しくなってきた。
2009年3月1日(日) 大槻能楽堂「笛の会」
森田流能笛・野口傳之輔師の教室の発表会があるので、昼ごろ大槻能楽堂へ。カミさんは舞囃子「邯鄲」(夢中酔舞)。味方健師の舞いで、笛も無難にこなしていた。老猫たちの世話があるので先に帰ることにしたが、途中、日本橋の文楽劇場に寄って4月公演・通し狂言「義経千本桜」のちらしを取ってきた。千本桜の通しは見たばかりのような気がして、またかと思ったが、前回の公演からすでに5年たっている。おそらく確実に客の入りが見込める演目なのだろう。
この日、文楽劇場では前進座の「法然と親鸞」がかけられていて、団体客がバスで詰めかけていた。宗祖を主人公にすれば団体客が入るだろうが、それでいいのだろうか。
2009年2月28日(土) ダーウィン年譜
1日かけて年譜を作成し、送信した。ほとんど使ったことがないエクセルで作成してみたので、とまどうことも多い。日付欄を設定して入力すると、勝手に今年の日付に変更されてしまう。なんでこんな余計なことをするのか。日付欄をやめて入力方法を変え、なんとか乗り切った。余計な設定を解除する方法というのをどこかで読んだ気がするが、実際に遭遇しないとおぼえられない。
2009年2月27日(金) ダーウィン伝・図版
ダーウィン伝の図版の準備に、意外と時間がかかってしまった。イギリス全図にダーウィンにとって重要だった水療法の保養地も記載したが、その中にはイギリスの詳しい地図にさえ掲載されていない地名もある。きちんとした参考資料を添えたので、いままでにないダーウィン関連地の地図になるだろう。
2009年2月26日(木) ライフプランセミナー
夕刻の5時半から銀行関係者による定年退職者対象のライフプランセミナーが開催されたので、出席してみた。年金だけでは満足な生活ができない、退職金を食いつぶしていくと足りなくなる、したがって年利数パーセントの資産運用を考えなければならない、という。その通りだとは思うが、年金運用の専門家でさえ失敗しているのに、素人になにができるのだろうか。2時間のセミナーの後半は、普段とは異なる話題に頭が拒否反応を起こしていた。
2009年2月25日(水) ダーウィン家系図
昼から修士修了判定の大学院委員会があり、その後、系図作成に取り組む。単行本になっている詳細なダーウィン家系図まであるが、ここでは本文の理解を助ける限りでの簡明なものを心がけた。何度も作り直して一応、満足すべき下図ができた。半従兄弟のゴルトン、また従兄弟のフォックスとの関係も一目で分かるだろう。
2009年2月22日(日) いずみの国歴史舘「中国年画展」最終日
夕刻に大学院の入試判定があるため大学へ来たが、まず、隣接する「和泉市いずみの国歴史館」へ。本日が「中国年画展」の最終日である。1月6日からの7週間で、来館者は千名を3人だけ下まわったとのこと。大成功といってよいようだ。大学の教職員や学生もかなり来ていたという。この企画に関わった一人として喜んでいる。
2009年2月21日(土) 送別会
同僚たちが6時から難波の中華店で退職記念の送別会を開いてくれた。参加者11名というのは、送別会としては少ない方だが、その分、和気藹々の雰囲気であった。幹事によると、大学のクラブの部長たちの行事があって、出たくても出られない同僚がかなりいたとのことである。送別会に来られなくても、記念品代を出していただいた同僚も多かったが、その大半は文学部時代の同僚たちである。自分の置かれている中途半端な立場が、こんなところにも反映しているといえるだろう。
2009年2月20日(金)その4 青春ドラマNHK「浪花の華」
毎土曜日7時半からの放送に先立って、金曜6時25分からBS3で放映している。今回で7回目になるが、毎回楽しみにして見るドラマは久しぶりである。原作では時代背景のていねいな説明があり、推理小説としての謎もあるが、テレビではそれが思い切って省略され、緒方章と左近の関係に焦点が絞られている。30分枠なので、原作に忠実にはできないのだろう。それでも青春ドラマとして楽しめる。運動(剣術)や芸能がからきし駄目で勉強しか能のない若者、その前に現れる華やかな女性。原作とは違ってテレビドラマは、番宣にあるように、「爽やかで少し切ない青春物語」である。
2009年2月20日(金)その3 高校の時のオパーリン講演会
段ボール箱から、高校2年生の時のオパーリン講演会の感想文が出てきた。なにかの文集に掲載するための原稿のようだ。2008年3月8日のジャーナルに書いたように、講演内容も筆記していたはずだが、それは見つからなかった。この感想文を読むと、現在の記憶に残っている以上に、オパーリンの講演に感激している。自分が生物学の道に進む決定的な契機になったようだ。後日、この作文をこのHPに記載しておこう。当時のオパーリン・ブームの証にもなるだろう。
2009年2月20日(金)その2 強制疎開
段ボールの中からは、小中高の時代の作品が出てきた。その中に、中学の時に作成した自分史年表があった。それには、「昭和20年4月ころ、喜連川に強制疎開。昭和20年4月ころ、喜連川国民学校に入学」とあった。栃木県喜連川に強制疎開し、そこの小学校に通学していたことは記憶しているが、一旦、東京で芝学校に入学した後だと思い込んでいた。中学生の時に作成した自分史の方が正しいのだろう。些細なことだが、紀要『人間科学』に掲載した経歴を修正する必要がある。喜連川の学校では地主の子どもがすごく威張っていた。そのことが、いまだに忘れられない。
小学校4年生以来の成績表も出てきたが、4年生の時にすでに国語算数理科社会はすべて優だった。担任欄を見ると担任教師名の脇に「宮本富雄」と併記されていた。2007年5月4日のジャーナルに書いたように、5年生の時から宮本先生が担任になり、それから急激に成績が上がったと思い込んでいたが、それは4年生の時だったようだ。
ダーウィンの場合でも、本人の記憶だからといって必ずしも信用できない。自分自身に関してそれを再確認することになった。
2009年2月20日(金)その1 本を捨てる
研究室の図書を引き取るには自宅の資料類を片づけなければならない。明日が自治会の廃品回収日なので、思い切って整理することにした。全29巻の鏡花全集は同僚に引き取ってもらった。世界文学全集関係は、不揃いだし捨ててしまおう。忠臣蔵関係もかなりまとまっているが、半分捨てる。段ボール箱の中からは住民運動に関わっていたころに集めた資料がかなり出てきたが、これも捨てる。昔の生物学の教科書類も捨てる。季刊『歌舞伎』や歌舞伎の研究資料も、ちょっとつらいが、捨てる。
段ボール箱の中からは、東京にいたころの歌舞伎の筋書きやクラシックのコンサートのプログラムが出てきた。これは嬉しかった。当時は、年中、クラシックのコンサートに出かけていた。上野の文化会館に行けば、ほとんど毎日、なんらかのコンサートがあった。大阪に来てから行かなくなったな。こうしたプログラム類は捨てられない。展覧会の図録も大量に出てきたが、これはどうするか。未練もあるが、捨てなければ場所が空かない。
2009年2月19日(木) 資料整理
昼前に藤岡毅さんが、学位論文の本製本を事務方に依頼するために来学された。この機会に研究室にある資料のうち、日本のルイセンコ派関係の資料を段ボール2箱分、もらってもらった。ついでに、『種の起源』邦訳書などを寄贈するため、大学図書館に運ぶのを手伝ったもらった。少しずつ廃棄や寄贈の作業を進めているが、なかなか本棚がすいてきたという感じにならない。
2009年2月18日(水) ダーウィン伝二次稿
2月に入ってから取りかかったダーウィン伝の修正加筆を終え、編集者に送信した。もっと時間をかければ、よりよくなるだろうが、早く仕上げることも大事だ。明日から図版など、残された作業にかかり、2月末までに終えなければならない。研究室と自宅の蔵書・資料も整理しなければならないし、しばらくは忙しない日々が続く。
2009年2月17日(火) 会議が6
入試判定の都合で変則的な教授会開催となり、それに併せて各種の会議が開催された。当方に出席義務のある会議だけでも立て続けに6つあったが、そのうちの4つは欠席した。最初の「学芸員・司書課程運営会議」は当方が議長なので、さぼるわけにはいかない。最後の教授会の後、運営会議の議事録を作成して関係者に送った。これで校務はおおむね終了。あとは最後の図書館会議を主宰するだけだろう。
2009年2月10日(火) 届かないメール
本日も一般入試の日だが、学外試験場が中心のためもあってキャンパスは閑散としている。昼ごろ、某出版社から原稿依頼の電話があった。かなり前からメールを送っていたとのことだが、届いていなかった。メールでのやりとりには、ときおり、こうしたことがある。今も別件で、メールが送られていないのか、届いていないだけなのか気になる事があるのだが、こちらから問い合わせるわけにも行かない。
7日の土曜日、8日の日曜日、そして昨日、今日とダーウィン伝の修正に集中し、横を縦にすること(数字の変換)、漢字変換ミスの修正、表記の統一など、最小限の修正をほぼ終えた。明日からは、編集の山田さんのコメントに沿って、説明不足の部分を加筆する作業を急がなければならない。
2009年2月6日(金) 共通教育将来構想検討委員会
本日はダーウィン伝の修正に集中するつもりだったが、予定表を見たら4時から会議となっていた。退職直前で、共通教育の将来構想など考えても仕方ないのだが、資格課程の責任者として出席しなければならない。5人だけの会議でなんら決定権はないが、具体案を作るために本音を出し合っての議論となった。自分は発言を控えるようにしたが、30年来のさまざまな経過については注意を促しておいた。
2009年2月5日(木) 入試判定教授会
午後は大学院研究科委員会と学部教授会に出席。この間に、同じフロアの山川教授は研究室の本の整理を終えていた。当方は2月一杯、研究室で仕事をする予定なので本格的な整理はできないが、少しずつ手がけていかなければならないだろう。
2009年2月4日(水) 大阪市立美術館・常設展
パスポートの更新のため、阿倍野のパスポート・センターへ。近鉄百貨店から近くの新築ビルに移転して間もない。過去2回の経験では整理番号をもらってから呼ばれるまでかなりの時間、待たされたと記憶しているが、今回はほとんど待たずに済んだ。
天王寺まで出てきたので、大阪市立美術館に寄ってきた。現在は常設展のみだが、どの展示室も特集展示になっていた。2階の第6・7室の「天神信仰の絵画」は、守口市の佐太天神宮の所蔵品が中心になっていて、天神信仰の広がりがわかる。それ以上に興味を持てたのが、1階4室の「色鍋島」と5室の「日本の仏教美術」だった。「色鍋島」は初期鍋島から盛期鍋島、後期鍋島まで、55点が年代順に展示されていた。「日本の仏教美術」では寄託品の重文クラスの仏像が中心になっていたが、種類も年代もをばらばらで体系性はなく、この部屋だけ展示品目録もなかった。それでも一番落ち着ける部屋だった。なかでも気になったのが、観心寺の重文・金銅菩薩半跏像である。飛鳥仏特有の顔の異様に大きな仏様である。観心寺にも宝物館はあるのに、こういう大事な宝物は寄託しているわけだ。それにしても真言宗のお寺になぜ飛鳥仏が伝来しているのだろうか。ほかにも神照寺の国宝・銀鍍透彫華籠が展示されていた。このレベルの美術館になると常設展でもかなりのものが展示されているが、来館者は少なく、館内は閑散としていた。広報のしかたによってはもっと来館者が増えるのではなかろうか。
2009年2月3日(火) ダーウィン伝修正
朝は、在木(ありき)カイロプラクティックで治療。昼過ぎから「ダーウィン伝」の修正。いまのところは順調な進行具合である。
2009年2月2日(月) 「科学技術史」試験・採点・評価
1時限に「科学技術史」の試験。今年度は登録が少なくて65名、受験したのは43名、このうちほとんど授業に出ていないものが10名。試験の採点結果に平常点を加味して、合格30名、不合格13名を決定した。まず、妥当なところだろう。
2009年1月31日(土) ダーウィン伝再開
編集の山田さんからは一次稿をチェックした結果を年末に受け取っていたが、本日まで、手つかず。これから集中して取りかかることになる。3月になると研究室の撤収に忙殺されるので、2月末には諸作業を終えねばならない。まずは、表記の統一と、数字を縦書き用に変換することから始めよう。
2009年1月30日(金) ダーウィン・シンポジウム展示資料目録
本日は本学の一般入試の日だが、ありがたいことに年配者は試験監督を免除されている。司書課程「資料特論」の再提出レポート、来年度の司書講習の授業日アンケートなどを処理していたら、もう2時だ。この後、12月7日のダーウィン・シンポジウムで展示したダーウィン資料の目録を作成し、『生物学史研究』編集の林さんに送信した。会場で配布した目録では、ダーウィンの著書と、稿本の翻刻版だけしか記載しなかったので、『種の起源』の邦訳書や邦訳全集なども記載した目録を作成するつもりだった。しかし、時間の余裕がないので、配布した目録を若干、手直しした程度のものになってしまった。とにかくこれで、明日からダーウィン伝の作業を再開できる。
2009年1月29日(木) デジタルTV
自宅にデジタルテレビ用のアンテナとBSアンテナを設置する工事が朝から始まった。天候に恵まれず予定が5回も延期されたが、本日は2日続きの快晴で屋根もすっかり乾いており、しかも春先なみの暖かさで、屋外工事には絶好の日となった。1時間で終わると思っていたら、どうしてどうして、すべてが終わるまでに4時間以上かかった。いままでのアナログTVと比べて映像が鮮明になったが、デジタルになったためか、TV自体の性能によるのかはわからない。見たいと思う番組がなくても、なんとなくテレビをつけてしまうのが情けない。
2009年1月26日(月) 「科学技術史」最終授業
1時限に「科学技術史」の最終授業。これで専任教員としての授業はすべて終了した。当方と同じく3月に定年退職となる哲学の山川偉也教授は、本日の3時限に「最終講義」を開催し、多くの教職員、卒業生などの関係者が詰めかけたという。実は当方にも社会学部長から打診があったのだが、開催する気はないと回答した。理由は、めんどくさいというだけである。人間性の違いとして許してもらおう。
2009年1月24日(土)午後 久保惣美術館「源氏物語」
昼過ぎに和泉市久保惣記念美術館へ。土佐光吉「源氏物語絵鑑」80点のうち、50点を展示している。源氏物語ブームなので、さぞかしにぎわっているだろうと思ったのに、展示室にはいつも二・三人しかいない。このような小さな絵は手元でゆっくり見るべきものなので、美術館で楽しむには限界がある。やはり屏風絵のような大きな絵でないと、美術館まで出かける気にならないのだろう。
2009年1月24日(土)午前 「資料特論」最終授業
2時限にインテグレーション科目「資料特論」の最終授業。非常勤でもこの科目を担当することはもうないだろう。最後に受講生に授業に対する意見・感想を書いてもらった。その中に、この授業でレポートの書き方を習ったおかげでゼミ発表でレポートの見本として褒められたという記載があった。この授業で課したレポートについては、常識的な書き方になるまで、なんどでも書き直しをさせている。本来、1年次のゼミで在学生全員がレポートの書き方を学んでいるはずなのだが、4年次になっても我流のとんでもないレポートを出すものがかなりいる。この授業が役立つのは結構なことなのだが、本当は、司書課程でのレポート指導など不必要であるべきなのだ。
2009年1月21日(水) 図書館会議
午前中にメールの処理など、さまざまな雑件を片づけ、3時から図書館会議。図書館に関連した今年の珍事は、急激な円高のおかげで年度末になって予算に余裕が生じたことである。この機会に『ウエストミンスター・レヴュー』の復刻版を購入することにした。これで本学図書館には『エジンバラ』『クォータリー』『ウエストミンスター』というヴィクトリア朝の三大評論誌が揃ったことになる。これだけ揃えている大学図書館は多くないだろう。
2009年1月20日(火) 生物学史分科会報告
朝は、在木(ありき)カイロプラクティックで治療。昼すぎに明日の図書館会議ついて事務方と打ち合わせ。その後、12月7日の生物学史分科会総会とダーウィン・シンポジウムについて『生物学史研究』に掲載する原稿の執筆に取り組む。会長退任の挨拶と、シンポジウムの概要、それと展示したダーウィン資料の目録を3月までに送稿してしまいたい。学位論文審査の作業が一段落したので、数日前からこの仕事に取りかかっているが、雑件に追われてなかなか進まない。本日までになんとか退任挨拶と、シンポジウム概要を書き終えた。送稿する前だが、会長退任挨拶を貼り付けておこう。
会長退任にあたって
2009年12月7日の分科会総会で当方の会長辞任が承認された。2001年12月16日の総会以来、7年間、分科会会長を務めたことになる。分科会の活動はほとんど東京在住の会員が担っていて、当方は何もしなかった。それでも年長者が会長にいる方が会員が動きやすいだろうと考えていたが、定年退職を前に辞任させてもらうことにした。
会長としての最後の年度に、勤務先の桃山学院大学でダーウィン・シンポジウムを開催したのが、会長としてのせめてもの貢献であろうか。『生物学史研究』第64号(1999年10月)で再開した「最近の欧文誌より」を第76号(2006年6月)まで継続したのも、会長としていくらかでも貢献したいという思いからであった。しかし締め切りに追われる仕事のため、中断せざるを得なかった。
7年間の任期中、最大の変化は、『生物学史研究』掲載記事のうち、「論文」については査読制を敷くことになったことであろう。査読制についてはさまざまな議論があったが、ともかくそれが可能になったのは分科会の力が向上してきたことを反映している。とはいえ日本における生物学史研究はまだまだ弱体である。次期会長の米本昌平氏のもと、分科会がますます発展し、生物学史研究が充実することを願っている。
2009年1月18日(日) 築山桂『禁書売り 緒方洪庵 浪華の事件帳』
10日の土曜日の夕刻、たまたまNHKテレビを見たら、若き日の緒方洪庵が登場しているではないか。これは見ないわけにいかない。「科学史」の授業でも15日のテーマは適塾である。この連続ドラマは毎土曜日の午後7時半から放映している。さっそく、原作の双葉文庫を購入して本日読了。この作家のものは初めて読むが、なかなか面白い。作品の中で事件解決に活躍するのは、闇の組織の一員である美少女剣士・左近であり、緒方章はワトソン役にすぎない。おそらく作者は、美少女剣士を主役とする作品を思いついたが、リアリティに欠けるので、実在の有名人、洪庵をワトソン役にしたのだろう。
天保期の大坂の状況が説明されているが、なかでも大塩平八郎に批判的なのが興味を引く。蘭学を抑圧し、最後には天保8年の乱の火災で天満御文庫の貴重な書物を全焼させた。大塩は文化の破壊者であった。小学館の『日本の歴史・第12巻・開国への道』(2008)では、平川新が一つの章を費やして大塩批判を展開している。大火を引き起こして多くの市民の命を奪ったことだけでも、大塩を庶民の味方と見ることはできないという。日本史の教科書で習った大塩像は修正する必要があるようだ。
2009年1月16日(金) 松竹座「霊験亀山鉾」
久しぶりに道頓堀の松竹座へ。夜の部の通し狂言、鶴屋南北作「霊験亀山鉾」。復活された作品にも興味あったが、それ以上に仁左衛門の悪役ぶりを見たかった。復活ものの舞台は概して淡泊で歌舞伎味に欠けるが、この狂言は以前、三宅坂の国立劇場で仁左衛門が出しているので、舞台もかなりこなれていた。四幕目「弥勒町揚屋」の「愛想尽かし」は「鰻谷」の妻八の世界を踏まえたものと解説にあるが、むしろ「伊勢音頭」の「油屋」に似ていると思った。ただし、切実感がまったく異なる。六幕目「中島村焼場」が南北らしくて楽しかった。主役の水右衛門は悪役といっても、敵討ちに来る相手を卑怯な策略によって返り討ちにするというだけ。国を乗っ取ろうとする仁木弾正や、己の立身出世しか考えない伊右衛門のような「悪」の凄味がない。ある程度は楽しめた舞台ではあったが、繰り返し上演されている名作を見たときのような充実感はない。上演されなくなった狂言にはそれなりの理由があることを再認識することにもなった。
2009年1月14日(水) 学位認定
水曜日は会議の日。大学評議会、文学研究科委員会、それと社会学部教授会のすべてに出席した。自分にとって重要だったのは、研究科委員会での学位論文審査報告である。無記名投票の結果、審査委員会の報告通り、申請者に博士(比較文化学)の学位を授与することが承認された。最終決定にはまだ学内手続きが残っているが、とりあえず、肩の荷が下りた。
2009年1月10日(金) 学位論文の審査報告
14日の文学研究科委員会で学位論文の審査報告をするため、6日からその文案の作成に取り組んでいるが、さまざまな雑件処理に時間を取られ、なかなか進まない。専門外の研究者にも理解できるように説明し、論文のオリジナリティを明確にしなければならない。しかも、簡潔に書くよう要請されているので、自分の論文を書くよりも疲れる。本日、ようやくこの件に全力投球できたので、ほぼ書き終えることができたが、疲れ果てた。文案を仕上げて他の審査委員に検討を依頼するのは明日に持ち越すことにした。
2009年1月6日(火) いずみの国歴史舘「中国年画展」
朝は、在木(ありき)カイロプラクティックで治療。昼過ぎに、大学に隣接する「和泉市いずみの国歴史館」へ。本日から、「中国年画の世界・桃山学院大学図書館蔵品展」を開催している。華麗な中国年画で会場が埋め尽くされていることを期待していたが、どうしても中央部が空いてしまうようだ。それでも正月らしい愉快な気分に浸ることができる。原山教授が図書館に寄贈されたものを和泉市教育委員会にアピールした結果、この展覧会となったので、全教職員への一斉メールで、訪れるよう要請した。市民の評判はどうか。この展覧会に関わった一人として、気になる。
2009年1月5日(月) 新年最初の研究室
松の内に研究室に出てくるといった生活もこれが最後である。朝のうちは同じフロアに誰もいなかったが、昼前から常連が出てきた。8連休で家にいても、仕事らしい仕事ができない。それが研究室に来ると心身ともに仕事モードに切り替わって、「さて、はじめよう」という気分になる。今年の4月からほとんど家にいるとなると、どうなることやら。さしあたりは先のことよりも、ダーウィン伝の完成など、3月までに終えるべきことを終えねばならない。
2009年1月1日(木) 初詣
今年も、みぞれが降ったりやんだりの寒い元日となった。昼過ぎに地元の加賀田神社へ初詣。小さいながらも、宇佐八幡を勧請した室町時代以来の由緒正しき神社のようである。面白いのは、本殿の真後ろの崖から突き出ている石を蛇の頭に見立て、「蛇神さま」として地元の人が勝手に拝んでいることである。神社の案内などにはまったく紹介されていないが、信仰の起源を見るように思える。